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変化

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「あれ、私……」

 気づくと自分の家ではない天井が目に入る。
 辺りは明るくなり始めているものの、まだ薄暗い。
 明け方なのだろうか。

「目、覚めた?」
「っ……」

 少し離れたところから掛けられた声。
 私はその声に息が止まるほど驚いてしまう。

「そんな驚くなよ……何もしてないから……」

 健斗はそう言うと寂しそうに笑った。
 確かに彼の言う通り、私の衣服は一切乱れてもいないし、どうやら彼はリビングのソファで眠っていたらしい。

「え、なんで」
「沙良全然泣き止まなくて、さすがに玄関先だし周りの目もあるから俺の家の中入ったんだよ。それからもずっと泣いてて、いつのまにか泣き疲れて寝てた……覚えてない?」
「色んなことがあったから、頭が一杯一杯で……」

 健斗は私が腰掛けているベッドの隣にあるサイドテーブルに、湯気のたつマグカップを置いた。
 中身はどうやら紅茶らしい。

「とりあえずそれ飲めよ」
「……ありがとう」

 健斗はそれだけ告げると、再びリビングの方へと戻りソファに腰掛け、パソコンを開いて何やら作業を始めた。

「何やってるの?」
「ああ、仕事。最近ちょっと忙しくなっちゃって、持ち帰りが出てきてさ。沙良は気にせず休んでて」
「最近連絡なかったのって……」
「仕事忙しかったのもあるけど、沙良に俺の気持ちぶつけすぎたなって思って……。冷静になりたくて……」

 体調が悪いわけではなかったのだ。
 勝手に心配して彼の家を訪れて、とんだ災難に巻き込まれた自分の運のなさに泣けてくる。

「具合でも悪いのかと思った」
「だから昨日急に来てくれたのか? ……ごめん、それなのに……」

 健斗の言うそれなのに、とは昨夜の金谷梨花の揉め事だろう。

「玄関先まで来たってことは、ロック解除したってこと……だよね」

 健斗の家はオートロック。
 まずは一階で家主に解錠してもらわない限り、各家の玄関にたどり着くことはできなきゃ。

「俺開けてないよ。開けるわけないじゃん。インターホンであいつ出てきた瞬間、切った。そしたらすぐにまた鳴らされて、あまりにしつこいからインターホン越しに二度と来るなって伝えたんだ」
「じゃあなんで玄関まで来るのよ」
「他の住人にくっついて入ったんだよ」
「それ犯罪じゃないの……」

 梨花の健斗へのそこまでの執着には、恐怖すらおぼえてしまうほどである。

「俺が好きなのは沙良だから、あいつとどうこうなるつもりはないし、次来たら警察呼ぶってキツめに言ったら、泣きながら帰っていった。だから、もう来ないはずだ」
「そう……」

 だからあの時彼女の目は少し赤く見えたのか。
 化粧の加減かと思っていたが、どうやら違ったらしい。

 それから三十分ほど、健斗はパソコンの画面に集中していた。
 私は出してもらった紅茶を飲み干し、そろそろ家に帰ろうと身支度を整える。

「……帰るの?」

 そんな私の様子に気づいた健斗は、キーボードを押す手の動きを止めた。

「うん」
「今日、仕事休みだろ? もっとゆっくりしていけばいいのに」
「いや……健斗はまだ仕事あるでしょ。それに……」

 昨日の今日で、なんだか気持ちがざわついて落ち着かない。
 健斗が彼女を受け入れたわけではないことがわかった。
 冷静になってみれば、昨日の彼女の態度は私への八つ当たりだったのではないかとも思える。

 私が心配していたように、嘘をついてセフレと会っていたわけではなかった。
 だがなぜか心はざわつきをやめてはくれない。

「……昨日のこと、気にしてるのか?」
「いや、……まあそうだね。やっぱり健斗と一緒にいる以上、あの時の辛かった記憶から逃れられないんだなって思って」

 健斗は相変わらずパソコンを操作する手を止めたまま、動かない。

「私やっぱり健斗とヨリは戻せないよ。ヨリ戻しても、これから先ずっと浮気の心配して、昔の嫌なこと思い出して、健斗のこと疑ってばかりになると思う」
「俺はどんなに疑われても構わない。信じてもらえるように挽回するから……」

 結局この話題に結論は出ない。
 いつまで経っても堂々巡りなのだ。

「俺さ、今まで連んでた奴らにしっかり話してくる。曖昧なまま終わらせた俺にも原因があるから」
「それって、またあのセフレの子たちとも会うってこと……?」
「あいつらとは関係のない、友達の誰かに同席してもらうよ。心配なら確認してもらっても構わない」

 健斗はそう言うとおもむろに立ち上がり、私の腰掛けるベッドの方へと向かう。
 隣に腰掛けるのかと思いきや、彼はその場で立ったまま話を続けた。

「ごめんな、俺が適当なことばっかりしてきたせいで……関係ない沙良にまで迷惑かけた」
「……」
「優馬との件も、本当にごめん」
「えっ……?」
「あいつとの食事に行くななんて、沙良の気持ちも考えないで俺の気持ちだけ押し付けて、本当にごめん」

 まさかここで優馬の名前が出てくるとは思っておらず、気の抜けた声が出てしまう。
 健斗が未だにあの時の会話を気にしていたとは思いもしなかった。

「沙良がしたいようにすればいい。俺待ってるから。あと少しだけ、沙良の時間を俺にちょうだい」

 そう話す健斗の顔は何故かすっきりとした、吹っ切れたような顔に見える。

「それでさ、今日休みだろ? 一緒に行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ?」
「結局お互いの家の行き来しかしてないし、せっかくだから、どう? 車はないから電車になっちゃうけど」

 健斗と二人でどこかへ出かけるなど、何年ぶりだろうか。
 また仲が良かった頃、頻繁にデートに繰り出していたことを思い出す。


 ◇

「ここって……」

 健斗が行きたかった場所、それは初めてのデートで行った水族館だった。

「懐かしいよな、ずっと来たかったんだ」

 高校三年生の時に来たのが最後ということは、六年ぶりくらいになるのだろうか。
 久しぶりに訪れたそこは、記憶に残っていたそれと変わった様子は見られない。

 夕方近くになっていたせいか、家族連れの姿はほとんど見られず、客もまばらだ。

「なんかそれまでは幼馴染だったのに、沙良が彼女になったってのを変に意識しすぎて……ぎこちなかったよな。あの時の俺」
「確かに……いつもより口数が少なかったかも」

 あの時と同じように、薄暗い館内をゆっくりと進んでいく。
 初デートとは違った意味での気まずさが残る今も、昔と同じように少し距離を保ちながら歩いていった。

 そして一際大きなガラス張りの水槽を目にした瞬間、忘れていた記憶が蘇る。

 (ここ……健斗と初めてキスしたところだ)

 あの時も周りには誰もいなくて、大きな水槽の中で泳ぐ魚に夢中になっているうちに自然と二人の体が近づいた。
 トン、とぶつかった手を慌てて引っ込めようとしたら健斗にその手を掴まれ、驚いて顔を上げた瞬間にキスをされたのだ。
 触れるか触れないかの、一瞬のキス。
 それが私と健斗の初めてのキスだった。

 健斗は当時のことを覚えているだろうか。
 不意にそんなことを思って、隣に立つ彼の方をチラ、と見上げてみる。
 すると同じタイミングで彼もこちらを向いた。

「……な、何?」

 彼の方を向いたのは私も同じなのに、つい誤魔化すかのようにそんな物言いをしてしまった。

「いや……ここで初めてキスしたなって思って」
「覚えてたの……?」
「なんか、急に今思い出した」
「そう……」

 健斗はそう言うと、再び水槽の方へと顔を戻す。
 私も少し遅れて彼の方から目を逸らした。

「なあ、沙良」
「ん?」
「この六年で、色々と変わっちまったな」
「え……」
「俺がぶち壊した。俺がおかしくならなければ、あのまま幸せなまま一緒にいれた。今もまたここでキスだってできた」

 実は私も彼と同じことを考えていた。
 あの時と同じようにここでキスを交わすことは、できない。
 同じ景色を一緒に眺めているはずなのに、どうしようもなく遠い関係に思えて仕方がない。

 思わず目の奥がツンとしそうになるのを、必死に堪えた。

 (なんで泣きそうになるの?)

 なぜこれほど心が苦しいのかわからない。
 この気持ちの名前はなんなのだろうか。


「帰ろうか、今日は俺が飯作るよ」

 しばらくお互い無言で水槽を眺めたあと、先に口を開いたのは健斗の方であった。




 結局あれから健斗の家で夕飯を食べたあと、いつものように私の家まで送ってもらい解散した私たち。

 それからは相変わらず仕事終わりに互いの家を行き来する日々が続く。
 ここ最近は健斗の仕事の方が忙しいため、私が料理を作って待つ方が多かったかもしれない。

 無意識のうちに彼の好物の献立を考えてスーパーに寄り、知らないうちに彼の分の食器が増えていく。

 たったこの数週間の間で私の中に健斗の存在が根付き始めてしまったことは確かであった。

 もう約束の一ヶ月まで一週間を切っている。
 だが健斗はその話には触れないし、いたって普通に私に接してくるため、意識してしまっているのは私だけなのだろうか。

 どのようなタイミングで、どちらから切り出して、その話題に向き合うのだろうか。
 そのことを考えると気持ちが落ち着かず、不安になる。


「そういえば私、明日優馬と食事する日なの。だから……」
「そうなんだ。遅くなる時は帰り道気をつけろよ。何かあったら迎えに行くから」
「うん、ありがとう……」

 優馬のことを話題に出しても、前のように焦燥感に溢れた様子は一切見せなくなった健斗。
 無理して感情を抑えているようにも見えないし、至って自然にそう答える彼の本心がわからない。

「あのさ、金曜日仕事終わるの遅い? 話がしたい」

 作ってもらったカレーを口に入れた時、唐突に健斗がそう切り出した。
 口の中のカレーを飲み込むが、喉に詰まったような感覚に陥る。
 隣に置いてあったお茶のグラスに手を伸ばして口を潤すと、心なしか喉のつかえも落ち着いたかのように思われた。

 金曜日は、約束の期限の一日前。
 健斗の言う話したいこととは、仮初の恋人期間のこと以外にないだろう。

「……大丈夫。私のほうが早いだろうから、うちに来る?」
「ああ……じゃあそうさせてもらおうかな」
「何か作っておくね」
「いいの? ありがとう」

 こういうところも、以前とは別人のようだ。
 今は私が何かをするたびに、ありがとうとお礼を言ってくれる。
 昔の健斗ならば考えられなかった事だ。

 幼馴染だったが故にその距離が近く、馴れ馴れしくなってしまっていたのかもしれない。

 こうして私は優馬との食事の日を迎えたのである。

 

 
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