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八つ当たり

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 あの日様子がおかしかった健斗。
 いつもなら毎日来るはずのメッセージがここ数日来ていない。
 面倒なことから解放されてせいせいするはずなのに、なぜか仕事中もスマホの通知を気にしてしまう私。

 (……体調でも崩したのかな)

 だがそのことを尋ねるために、私から連絡する勇気も出ない。
 私のこの優柔不断な態度が健斗に下手な期待をさせてしまっているのならば、残酷な仕打ちを課してしまっているだろう。
 私はもうあと二週間経つ頃には、彼に別れを告げるのだから。


「仕事、集中しろよ?」

 デスクに向かいながらもぼうっとスマホを気にして仕事が身に入っていない私。
 不意に上からかけられた声にびくりと反応する。

「あ……上条さん」
「ここ数日ずっとそんな感じだろう? 何かあったのか」

 ぱっと振り向けば、そこには上条さんの姿が。
 サラリと高級ブランドのスーツを着こなす彼は、今日も女子社員たちの憧れの的だ。

「すみません……気をつけます」
「どうした? 話聞くよ。前から言ってた食事、今日どうかな?」
「あー……私、彼氏がいるので……」

 彼氏、と言う言葉を出した途端に上条さんの表情が少し変わったように見えたが、気のせいだろうか。

「それは初耳だ」
「言う機会もなかったので……すみません」
「いや、謝ることではないだろ。まあ彼氏が嫌がるなら仕方ないな。またそのうち、な」

 意外にもあっさりと引き下がった上条さんに、私は拍子抜けする。
 しつこく誘われているというのは単なる私の自惚れであったのかもしれない。

 よくよく考えれば、社内の人気者の彼が私などにそこまで執着する必要もないだろう。

 (とりあえず、これで一つ解決っと……)

 
『人の物って魅力的だよな』

 彼がそんなことを呟きながら、自らのデスクに戻っていったということに、この時の私は気づいていなかった。




 結局仕事が終わっても健斗から連絡は来ておらず。
 こうなるといよいよ本当に体調でも崩しているのではないかと心配になる。

 私は彼の家に寄ってみることにした。

 (元気そうだったら、そのまま帰ろう。具合が悪そうだったら、何か手伝おう)

 自分の行動に対してそんな風に理由付けをしながら、彼のマンションへと急ぐ。

 長年の付き合いの情というのは、数年の空白期間があってもそんなに簡単には消えてくれなかったらしい。
 やはり彼は私のことを全てわかっており、一緒にいる時の空気には何とも言えない落ち着きを感じる。

 (あのまま、幸せになりたかったな……)

 あの時健斗が例の友人に出会わなければ、昔の彼のままであったなら、今頃私たちは結婚して新しい家庭を築きでもしていたのだろうか。

 ……きっとそんなことはない。
 彼は心のどこかで優馬に劣等感を抱いていたし、私に対して息苦しさを感じていたのだ。
 遅かれ早かれ終わりを迎えていたのかもしれない。

 ぼうっとそんなことを考えながらの帰路はあっという間で、すぐに健斗のマンションが視界に入る。
 中に入るためにはインターホンを押して解錠してもらう必要があるため、私は前回と同じようにインターホンの方へと向かう。

 するとその時。
 マンションの入り口からハイヒールを鳴らしながら出てくる一人の女性の姿。
 折れてしまうほど細いハイヒールは、カツカツとうるさいほどの音を鳴らしていた。

 明るめに染めた長い髪、派手な顔立ち。
 やがてその人は私の姿を捉えると、なぜかこちらへ歩み寄ってきたのだ。

「久しぶりー沙良ちゃん」

 その話し方と声に、思い出したくなかった記憶が一気に蘇ってきた。

「……金谷さん」

 地元が同じで、例の健斗の女友達……いわゆるセフレの一人であった金谷梨花だ。

 当時よりもさらに派手になった見た目に最初は気づかなかったが、よく顔を見れば当時の面影を残している。

 彼女は健斗に執心した一人で、私の携帯に電話をかけてきた当本人でもある。
 あの日、彼の部屋にピアスを置いて行ったのもこの梨花であると、再会してから健斗が話していたことを思い出した。

 (なんでこの人が健斗のマンションに……?)

 梨花の連絡先はブロックしてから消した、新しい連絡先も教えていないと聞いている。
 関係を解消してからというもの一切のコンタクトを取っていないとも。

 彼女はそんな私の疑問に気づいたのだろうか、得意気に微笑むとこう口を開いた。

「いつまでも過去の男に縋ってないで、いい加減諦めたら? しつこいとまた嫌われるよ、あの時みたいに」

 ドクン、と心臓が激しく鼓動を刻み始め、胸に鈍い痛みが走る。

 この声、この話し方。
 かつて吐き気を催したほどのトラウマになった電話にそっくりだ。

『健斗といい加減に別れてあげて? 私と付き合いたいって言ってるよ?』
『その見た目で、健斗と釣り合ってると思ってんの?』

 当時かけられた言葉たちが私に刺さる。
 その度に心が抉られそうで、思わず深呼吸した。

 (もうあの時の言われっぱなしの弱い私じゃない)

「……人の彼氏を横取りするような人に、偉そうに言われたくない」

 勇気を振り絞って、震えそうになる声を必死に抑えながらそう告げた。
 あの時は不安で怖くて、ショックも大きく、電話の声の主に対して何も言い返すことができず、すぐに切ってしまっていたのだ。

 梨花は私が反論してくるとは思っていなかったようで、一瞬目を見開いた後にキッとこちらを睨みつけるような表情を見せる。

「あんなの付き合ってなかったも同然でしょ。健斗は私にはすごく優しくしてくれたんだから。ねえ知ってる? 健斗って、セックスの時すごい激しいの」

 胃の中がムカムカと焼けるような、不快な感覚に襲われる。
 大きく深呼吸しないと、うまく息が吸えずに苦しい。

 梨花は自らの言葉に動揺する私を見て勝ち誇ったかのような笑みを浮かべると、ワザと体にぶつかるようにして私の横を通り過ぎる。

 ドンッという衝撃に私の体はよろめき、咄嗟に近くにあった手すりに掴まることで事なきを得る。

 気付けば梨花はハイヒールの音を響かせながら、マンションから去っていったのだ。

「何よ、私が何をしたっていうの……」

 あまりにも惨めで、悲しくて、悔しくて、一言では言い表せない言葉たちがぐちゃぐちゃと混ざり合う。
 泣きたくなどないのに、じわりと涙が滲む。

 健斗は彼女と会っていた。
 それも私には内緒で。

 結局彼女との縁は切れていなかったのだ。
 彼はまた私を裏切っていたのである。

 まだ一ヶ月の契約の終了までには少し早いが、もうこの仮初の関係は終わりにしよう。
 そう決めた。

 私は涙の滲んだ目元をそっと指で拭うと、インターホンで健斗の部屋番号を押す。
 しばらくしてから、驚いたような声の返事が返ってきた。

「えっ沙良!? 今開けるっ……」

 健斗はすぐにドアを解錠してくれた。
 私はそのまま真っ直ぐにエレベーターへと向かい、彼の部屋である五階に到着した。

 エレベーターを降りてすぐ右に位置する彼の部屋のドアは既に開いており、そこから健斗が身を乗り出してこちらを見ている。

「沙良、来るなら言ってくれれば迎えにいったのに。言っただろ、夜は危ないって」

 健斗はそう言って心配そうな表情を浮かべながら、私の様子を窺う。

 だが先ほどの苦い思い出が新しい私にとって、彼のその反応が演技に見えてしまうのだ。
 わざとらしい、嘘らしい演技に。

 これまでもきっとこうやって、私を騙して遊んできたのだろう。
 もう二度と、同じ手口にはかからない。

「それなら、さっきのあの子を送ってあげればよかったんじゃない?」
「え……」
「一人で帰っていっちゃったけど、いいの? 今なら間に合うかもよ」

 みるみるうちに健斗の顔から表情が抜け落ちていくのがわかる。
 気づかれないとでも思ったのだろうか。
 それならは彼は本当に大馬鹿者だ。

「ちょっと待って沙良、なんであいつのこと……あいつと会ったのか!?」
「会ってたらどうなのよ。見られて困るようなことしたのはそっちでしょ!」
「見られて困るようなことなんてしてない!」
「何言ってんの、嘘つき! 内緒でセフレ呼んで、何言い訳してんの!? てかEDなんかじゃないじゃん! 本当、そうやって嘘ばっかりつくところ、変わってない」
「は!? 沙良、違うから!」

 何が違うのだろうか。
 一ヶ月とはいえ恋人になることを懇願され、受け入れた。
 たったその一ヶ月の間も待てずにセフレを家に連れ込むなど、ただの馬鹿だ。
 理性のきかない動物だ。

「気持ち悪い……。なんで一ヶ月待てなかったの? おかしいよ、健斗……」
「だから話を聞けって!」
「私何も悪いことしてないのに、なんでこうなるの? なんであんなこと、言われなきゃならないの!?」
「……あんなこと? あんなことってなんだよ。なあ、何言われた? あいつに」

 途端に健斗の目の色が変わり、ガシッと両肩を掴まれてまっすぐに顔を覗き込まれる。

「いつまでも健斗に縋るなって。あの時みたいに嫌われるよって」
「は? なんだよ、それ……」
「ねえ私もう健斗の彼女やめたい」
「何言ってんだよ沙良……」
「もういいじゃん、セフレなんて家に呼んでる時点でヨリ戻すつもりないから」
「待って、沙良!」

 健斗の表情は切羽詰まったものへと変わっていく。
 いつのまにか彼に両腕を掴まれ、せがまれるような体勢になる私。

「勘違いだから! 俺あいつのこと呼んでないから! 連絡先だって消してる!」
「そういうわかりきった嘘つかないで! ならなんでさっきここにあの人がいたわけ!?」
「勝手に俺の友達から家の住所聞き出したんだよ。玄関先ですぐに断ったから、家の中には一歩も入れてない」
「嘘……つき……」

 ぶつけられた醜い言葉たちは、私の心を未だに抉ったままだ。
 絶対に彼の前で泣き顔など見せたくなかったのに、勝手にボロボロと涙がこぼれ落ちる。

 健斗は私の涙を見てギョッとしたような顔をした後、恐る恐る私の顔に手を伸ばす。

「っ……」

 そして指で涙を拭った。

「やめて、触らないで……」
「俺本当にもうあの頃の奴らと連んだりしてない。信じてほしい……信じられないかもしれないど。さっきの奴にも、もう二度と来るなってキツく言ってある。多分それでイラついて、沙良に八つ当たりしたんだ。だから……」
「信じられない……もう色々と疲れちゃった。終わりにしたいよ健斗」
「……ごめん、ごめん沙良……」

 私はもう何も言わなかった。

「だけど俺から離れていかないで……愛してる沙良……」

 初めて言われた、『愛してる』の言葉。
 かつて付き合っていたときあれほど待ち望んでいたその言葉を、今ようやく手に入れた。
 だがこれほど切なく苦しいものだとは思わなかった。

 健斗もそれからは何も言葉を発さず、静かに私の目元の涙を拭い続けていたのである。

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