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揺れ動く気持ち

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「いや、行くなって意味わからないんだけど」
「……あいつと会って欲しくない」

 相変わらず掠れた小声でそうぽつりと呟くと、健斗はさらに項垂れた。

「健斗にそんなこと言う資格、ない」
「わかってる、わかってるけど……」
「何がそんなに心配なの? ただご飯行くだけだよ?」

 なぜ再び言い訳じみたような、彼を宥めるかのようなことを言っているのだろうか。
 自分で自分の気持ちがわからなくなる。

 健斗と私は一ヶ月という期間限定の、もはや仮初の恋人のような関係なのだ。
 そこに互いの行動を制限するほどの拘束力はないはずである。

「俺はあいつには勝てない」
「え? 何言って……」
「……あいつは俺より頭もいいし、人間的にもできてる。高校の時はやり方間違えただけで、きっと今はもうそんなことしないはずだ」

 健斗の言葉で、かつて彼が話していた優馬への劣等感の話を思い出した。
 成績優秀で人当たりも良く、人間関係にもなんら問題はない。
 そんな優馬の方が私には合っているのではないか、私も本当はそれを望んでいたのではないかと、気に病んでいたらしい。

 あの時のトラウマのような気持ちが蘇ってしまったのだろうか。

「沙良……」

 健斗はさらに私の方へと足を進め、ゆっくりと手を伸ばしかける。
 しかしその途中でハッと何かを思い返したらしく、行き場のないその手は静かに下ろされた。
 
「健斗? どうしたの?」
「……沙良のこと、抱きしめたくなった。ごめん。俺今日おかしいから、一緒にいない方がいいかも」

 健斗は目線も合わせぬままそう告げると、くるりと体の向きを変えて私から離れようとする。
 その後ろ姿がなんだかどうしようもなく寂しげで。

「ちょっ、待って……」

 気づいた時には、私は彼の着ていたトレーナーの裾を掴んでいた。
 突然の私の行動に、焦ったような表情で彼は振り返る。

「沙良っ……」

 そして次の瞬間。

「っ……」

 私は健斗の力強い腕に抱き締められていた。
 彼の胸元に顔が埋まり、息苦しい。
 そして以前彼に抱き締められた時に感じた、昔とは違う香りが鼻をかすめる。

「健斗何して……離して……」
「ごめん、約束やぶった。でも今はもうしばらくこうさせて……」

 どんなに身じろぎしようとも、その体はびくともしなかった。

 (もっと拒絶しちゃうかと思ったけど、意外と大丈夫かもしれない)

 自分で身構えていたよりは、彼に抱き締められても平然としている私。
 一方で健斗は私の肩に顔を埋めたかと思うと、嗚咽のようなものが聞こえ始める。

「健斗、泣いてる……の?」
「……」

 返事はない。
 静まり返った部屋に、ただただ彼の嗚咽だけが響き渡る。

 付き合っていた頃は彼の泣く姿など目にしたことがなかったというのに、再会してからの彼はかなり涙脆い。
 
 嗚咽と共に吐き出される吐息で、私の肩口は熱を帯び始めた。

 それからどれくらいの間そうしていただろうか。
 やがて健斗は自分から体を離し、目頭を押さえながら上を向いたかと思うと、はぁーっと大きくため息のようなものをついた。
 気持ちを落ち着かせようとしているのだろうか。

「ごめん、約束破って……怒ってるよな」

 健斗は相変わらずこちらを見ようとはしない。
 その様子が今まで強引に復縁を迫ってきた彼の姿とはかけ離れていて、戸惑ってしまう。

「別に……下心があったわけじゃないからいいよ」
「あいつと会わないでほしいなんて、変なこと言ってごめん。今の俺にそんなこと言う資格なんてないのに……」
「それも気にしてないから、そこまで重く考えないで」

 彼から放たれるあまりに重く暗い空気に呑み込まれそうになり、私は必死になんでもない風を装った。

「でも、優馬とは会うよ」

 そんな私の言葉に、パッと健斗は顔を上げてこちらを見つめる。
 その表情はまた苦しそうで。

「優馬も、あの時のことをきちんと終わらせたいんだと思う。私も急に振られて、心のどこかでわだかまりになってたから。だから一回食事して和解して、それで終わり。別に優馬とヨリ戻したいとか、そんなこと考えてない」

 先ほどから私はどうしてしまったのだろうか。
 健斗を安心させるようなことを言って、何がしたいのだろうか。

 (だから大丈夫だよって健斗に言いたいの? 何が大丈夫なの……?)

 優馬に気持ちはないから、健斗だけだと言いたいのか?
 そんなはずがあるわけない。
 ここ最近の私は空回りしてばかりだ。

「……ん。ごめんな……」

 私の諭すような物言いに、彼の肩の力が少し抜けたように見える。
 優馬とヨリを戻す気はないという言葉に安心したのだろうか。

「ごめん、また遅くなった。送る」
「今日はもう本当に大丈夫だって! ゆっくり休んで?」

 彼の目は薄らと赤く充血していて、それが先ほどまで泣いていたのだという事実を物語っている。

「もう、本当にどうしちゃったの。健斗らしくない」

 思わず笑ってしまいながらそう声をかけたが、彼は一緒に笑ってはくれなかった。

「俺、沙良がいなくなるのが怖い」
「一ヶ月はいるよ」
「それが終わったら……? もう連絡も何も取ってくれなくなるのか? 引っ越しもするのか? 俺……」
「何言ってんの……」

 再び彼の目にじわりと涙が浮かび始めたように見えて、私は慌ててくるりと体の向きを変えると玄関へと向かう。

「本当今日ちょっと様子が変だから、早めに寝なよ」

 何でもないふりを装って靴を履き、ドアノブに手をかけようとしたその時。
 横から伸びてきた手が先にドアノブを掴んだ。

「送る」




 結局送ると言って聞かない健斗にアパートまで送ってもらい、いつものように別れる。
 ただこの日いつもと違ったことは、健斗がすぐに帰らなかったこと。
 私が部屋に入った後もしばらくの間、そのまま立ちすくんでいたことに気づいていた。

 だが私はあえて声をかけることはしなかった。
 声をかけてしまったら、二度と取り返しのつかなくなるところに行ってしまう気がしたのだ。

 疲れた気持ちを切り替えるために温かい紅茶を淹れ、ラグの上に座りながらスマホを開く。
 そこには先程別れたばかりの相手の名前が。

『今日はごめん。おやすみ』

 文面はただこれだけ。
 そのメッセージに対して大丈夫、とだけ返信をすると、それから優馬の連絡先を開く。

 仕事が早めに終わりそうな日を手帳を見ながらピックアップして、メッセージで送った。
 すると数分後には通知を知らせるバイブが響く。

 私の送った日程の中にちょうど都合のいい日があったらしく、食事をする日が無事に決まった。
 店は優馬が決めておいてくれるらしい。

 (そういうところも、昔から変わってない)

 高校生の時も、行き先からお店から事前に調べてきてくれた人だった。
 ずっと忘れていた記憶が、降って湧いたように蘇る。

 健斗と別れてから二年以上、恋愛からは遠ざかっていたというのに。
 この数ヶ月の間の出来事に頭がついていくことに必死で、気持ちがいっぱいいっぱいだ。

 (そうだ、上条さんにもご飯誘われていたんだった……。まああれは彼氏ができたって言って断ればいいか)

 ……今の状態ならば、あながち嘘でもないだろう。
 一応期間限定とはいえ、健斗と付き合っているのだから。

 こんなことに都合よく彼のことを使ってしまうことに若干の罪悪感を覚えたが、これまでの健斗の行いを思い出して、心の中で首を振る。

 (これくらいのこと……私がされてきたことに比べたら、大したことない)

 そんな風に思う一方で、先程の健斗の嗚咽や苦しげな表情が、脳裏に焼き付き離れてはくれない。

 なぜ、これほど面倒なことになってしまったのだろうか。
 私は一ヶ月の関係が終わりを迎える時、何と言って彼を拒絶するのだろうか。
 そしてその時彼はどんな表情で、どんな反応をして、その言葉を受け止めるのだろうか。

 そんな答えの出ない問いと闘いながら、私は眠りに落ちていったのであった。
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