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一ヶ月だけの恋人
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「それで、何も言えなくなって部屋から追い出しちゃったんだ?」
「そう……」
お昼休み、私は愛と弁当をつつきながらあの日の一部始終を話す。
彼女には当初健斗と再会したことを話していなかったが、一人で抱え込むにはどうにも荷が重すぎる。
気持ちが壊れてしまう前に、彼女に相談したのだ。
私はあれから結局健斗を部屋から追い出した。
とてもではないが、今すぐどうこう結論を出すことのできる精神状態ではなかったのだ。
『沙良、俺待ってるから……』
掠れた小声でそう呟き、背を向けて帰る彼の姿は、今まで以上に寂しそうに見えた。
だがそんな僅かな彼への同情を、必死に心から追い出す。
「このままでいいの? 何も結論出てないよね」
「わかってる。でも……」
「いいじゃん、一か月だけ、形だけでも付き合えば」
愛は卵焼きを頬張りながら、あっけらかんとそう告げた。
「他人事だと思って……」
「だってやれないんでしょ? その元彼」
「や、やれないって……」
私は思わず口に含んでいたお茶を吹き出しそうになる。
「だったら襲われるような心配もないんだしさ。それで断って金輪際すっきりおさらばできるなら、お互いのためじゃない?」
愛の言うことも一理あった。
今健斗を拒絶した場合、彼の中での思いが不完全燃焼となり、下手な方向へと拗らせかねない。
これまでの彼の行動を見ているとそれが怖くなる。
「でもあんな気持ち悪いことしてた人と、一か月とはいえ彼氏として過ごさなきゃいけないのが辛いんだけど……」
健斗と手を繋ぐなど、想像ができない。
あの手でさぞ多くの女の人に触れてきたのだろうと考えてしまい、ぞっとしてしまうのだ。
そこまで拒絶反応を示してしまう彼と、仮染めとはいえ恋人になどなれっこない。
「もうそれも二年以上前じゃん。元彼君も少しは反省したんだしさ、前みたいな嫌な思いさせられることもないでしょ」
それに……と愛は続ける。
「早く切り替えて、次の恋愛に向かってほしいんだよね私は。ここ最近の沙良、ずっとどこか上の空って感じだったし」
「そ、そんな風に見えた?」
「見えたよ。あのもう一人の元彼のこともあったのかもしれないけど」
(そうだ、優馬…)
彼からも仕事が落ち着いたと連絡が来ていたのだが、すっかり返すことを忘れていたと思い出す。
とてもではないが彼と食事などする気分にはなれなかったのだ。
「ま、私から言えることはこれだけ。あとは沙良が自分で満足する方を選びな」
あっという間に終わりを迎えた昼休みに、私は残りの弁当を慌ててかきこんだのであった。
◇
(とはいうものの、気が重い……)
仕事を終えた私は、自宅へと戻ると夕飯も食べずにひたすらスマホとにらみ合う。
手元にはかつて健斗がドアノブにかけた紙袋に入っていた、彼の連絡先。
帰り道、三階の共用廊下からドアの前にたたずむ彼の姿が見えないことに、ホッとしている自分がいた。
毎日こんなことを繰り返すのかと思うとばかばかしく感じる。
(たったの一か月じゃない。さらっと終わらせて、健斗が昔私にしたみたいに振り返してやればいい)
いつしか私の頭の中をそんな考えが支配し始める。
『今からそっち、行ってもいい?』
気付けば私の指先はそんな文字を打ち込んでいた。
◇
「ごめん、まさか来るとは思ってなかったから何もなくて……」
健斗の家は私のアパートから二十分ほどの距離のところに位置していた。
こんなに近くにいたというのに、この二年もの間全く気づかずに生活していたのだと思うと笑えてしまう。
私があのメッセージを送った後、すぐに既読がついた。
しかしなかなか返事は返ってこず。
数分後にようやく返ってきた返事は短かった。
『待ってる』
そしてその返事の後に送られてきた住所をもとに、私は彼の家を訪ねた。
健斗の家は十階建てのマンションで、私の住むアパートよりも立地に恵まれている。
「……すごい高そう、家賃」
一人暮らしには十分すぎるほどの広さに、綺麗なキッチン。
かなり快適な生活を送ることができそうだ。
「他に金使うことないから……。とりあえず座って……」
私は案内されたダイニングテーブルの方へと足を進め、言われるがままに椅子に腰掛ける。
「お茶でいい?」
「あ、うん……」
健斗にお茶を淹れてもらうなんて、初めての経験だ。
その姿が見慣れなくて、チラチラとキッチンに立つ彼の方を見てしまう。
「はい」
トン、とテーブルの上にお茶の入ったグラスを置くと、向かい合った椅子に彼も腰掛けた。
「……」
「……」
お互いがお互いを探り合っているようで、なかなか口を開くことができない。
健斗は俯き、何を考えているのかわからない。
どれほど沈黙の時間を過ごしただろうか。
先に口を開いたのは、健斗の方であった。
「あの、さ……ここに来たってことは……」
途中まで言いかけたくせに、言おうか言うまいか迷い始めて口を噤んでしまった。
「何……? 最後までちゃんと言ってくれないと、わかんない」
「……俺の家に来てくれたってことは……その……一か月だけ、俺にチャンスをくれるのか?」
だんだんと小さくなるその声。
最後の方はもはや何を言っているのか聞き取れないほどだ。
「チャンスなんて、ない」
「えっ……」
私の告げた言葉で一気に顔面蒼白となる健斗。
「あんなにひどいことして、チャンスなんて、あるわけない。だけど、このままズルズルこんなわけのわからない関係を続けるのは、お互いによくない。だから……一か月だけ、我慢する」
我慢する、という言い方が適切であったのかどうかはわからないが、これが今の私の本心だ。
いい加減健斗のことを吹っ切って、新しい人生を歩み始めたい。
……本当は一度そうなっていたはずなのに。
「……わかった。それでも俺は嬉しい、ありがとう沙良」
ぐっと唇を噛みしめるような険しい表情で、健斗は頷く。
私は緊張でからからになった喉を潤すために、先ほど出してもらったグラスに口をつける。
そして一息つくと、そのまま口を開いた。
「でも勘違いしないで。そういうことは、一切なしね」
「わかってる。……てかできないし」
「……それだけじゃない。キスとか、そういうのも」
「……わかった」
「約束してね。その約束が守れないなら、一か月待たずにこの関係はお終いにする」
強い決意をこめて彼の目をじっと見つめると、意外にも健斗はその視線を受け止め、真剣な顔で頷いた。
その様子になんだか拍子抜けしてしまい、全身の力が抜けていく。
その時私は初めて、自分がかなり緊張していたのだということを思い知った。
「沙良、飯食べた?」
「へっ……?」
突然変わった話題に、思わず気の抜けた声で返事をしてしまう。
その声に少し微笑んだような様子を見せた健斗は、続けてこう尋ねる。
「会社終わって、きっと飯食べてないんじゃないか? 俺何か作るよ。あり合わせで簡単なものにはなるけど……」
「え、いいよそんな……私もう帰るし」
「一か月だけは、付き合ってくれるんだろ……?」
「あ……」
「座ってて。チャーハンでも作るわ」
一度立ち上がりかけた体を、再び椅子に戻す。
キッチンへと姿を消した健斗の姿が、あまりにもらしくなくて。
本当にこれは私の知っている、幼馴染であった彼なのだろうかと思わずその姿を目で追ってしまった。
◇
意外にも彼の手際はよく、さほど待たぬうちにいい匂いがリビングまで漂ってきた。
「できた」
平皿によそわれたチャーハンが私の目の前で湯気を立てている。
「いただきます……」
その味は、お世辞抜きに美味しかった。
いつのまにか健斗も私の正面に座っているが、彼はどうやら食べないらしい。
「食べないの? せっかく作ったのに」
「俺、もう食べたから」
「え……じゃあわざわざ作らなくてもよかったのに」
私一人のために、キッチンを汚してしまったということだ。
「そんな顔するなよ。俺が食べて欲しかっただけだから」
そう言って健斗は微笑む。
その微笑みに、心の奥に閉じ込められていた記憶たちが呼び戻されて、どうしようもなく胸が苦しくなる私なのであった。
「そう……」
お昼休み、私は愛と弁当をつつきながらあの日の一部始終を話す。
彼女には当初健斗と再会したことを話していなかったが、一人で抱え込むにはどうにも荷が重すぎる。
気持ちが壊れてしまう前に、彼女に相談したのだ。
私はあれから結局健斗を部屋から追い出した。
とてもではないが、今すぐどうこう結論を出すことのできる精神状態ではなかったのだ。
『沙良、俺待ってるから……』
掠れた小声でそう呟き、背を向けて帰る彼の姿は、今まで以上に寂しそうに見えた。
だがそんな僅かな彼への同情を、必死に心から追い出す。
「このままでいいの? 何も結論出てないよね」
「わかってる。でも……」
「いいじゃん、一か月だけ、形だけでも付き合えば」
愛は卵焼きを頬張りながら、あっけらかんとそう告げた。
「他人事だと思って……」
「だってやれないんでしょ? その元彼」
「や、やれないって……」
私は思わず口に含んでいたお茶を吹き出しそうになる。
「だったら襲われるような心配もないんだしさ。それで断って金輪際すっきりおさらばできるなら、お互いのためじゃない?」
愛の言うことも一理あった。
今健斗を拒絶した場合、彼の中での思いが不完全燃焼となり、下手な方向へと拗らせかねない。
これまでの彼の行動を見ているとそれが怖くなる。
「でもあんな気持ち悪いことしてた人と、一か月とはいえ彼氏として過ごさなきゃいけないのが辛いんだけど……」
健斗と手を繋ぐなど、想像ができない。
あの手でさぞ多くの女の人に触れてきたのだろうと考えてしまい、ぞっとしてしまうのだ。
そこまで拒絶反応を示してしまう彼と、仮染めとはいえ恋人になどなれっこない。
「もうそれも二年以上前じゃん。元彼君も少しは反省したんだしさ、前みたいな嫌な思いさせられることもないでしょ」
それに……と愛は続ける。
「早く切り替えて、次の恋愛に向かってほしいんだよね私は。ここ最近の沙良、ずっとどこか上の空って感じだったし」
「そ、そんな風に見えた?」
「見えたよ。あのもう一人の元彼のこともあったのかもしれないけど」
(そうだ、優馬…)
彼からも仕事が落ち着いたと連絡が来ていたのだが、すっかり返すことを忘れていたと思い出す。
とてもではないが彼と食事などする気分にはなれなかったのだ。
「ま、私から言えることはこれだけ。あとは沙良が自分で満足する方を選びな」
あっという間に終わりを迎えた昼休みに、私は残りの弁当を慌ててかきこんだのであった。
◇
(とはいうものの、気が重い……)
仕事を終えた私は、自宅へと戻ると夕飯も食べずにひたすらスマホとにらみ合う。
手元にはかつて健斗がドアノブにかけた紙袋に入っていた、彼の連絡先。
帰り道、三階の共用廊下からドアの前にたたずむ彼の姿が見えないことに、ホッとしている自分がいた。
毎日こんなことを繰り返すのかと思うとばかばかしく感じる。
(たったの一か月じゃない。さらっと終わらせて、健斗が昔私にしたみたいに振り返してやればいい)
いつしか私の頭の中をそんな考えが支配し始める。
『今からそっち、行ってもいい?』
気付けば私の指先はそんな文字を打ち込んでいた。
◇
「ごめん、まさか来るとは思ってなかったから何もなくて……」
健斗の家は私のアパートから二十分ほどの距離のところに位置していた。
こんなに近くにいたというのに、この二年もの間全く気づかずに生活していたのだと思うと笑えてしまう。
私があのメッセージを送った後、すぐに既読がついた。
しかしなかなか返事は返ってこず。
数分後にようやく返ってきた返事は短かった。
『待ってる』
そしてその返事の後に送られてきた住所をもとに、私は彼の家を訪ねた。
健斗の家は十階建てのマンションで、私の住むアパートよりも立地に恵まれている。
「……すごい高そう、家賃」
一人暮らしには十分すぎるほどの広さに、綺麗なキッチン。
かなり快適な生活を送ることができそうだ。
「他に金使うことないから……。とりあえず座って……」
私は案内されたダイニングテーブルの方へと足を進め、言われるがままに椅子に腰掛ける。
「お茶でいい?」
「あ、うん……」
健斗にお茶を淹れてもらうなんて、初めての経験だ。
その姿が見慣れなくて、チラチラとキッチンに立つ彼の方を見てしまう。
「はい」
トン、とテーブルの上にお茶の入ったグラスを置くと、向かい合った椅子に彼も腰掛けた。
「……」
「……」
お互いがお互いを探り合っているようで、なかなか口を開くことができない。
健斗は俯き、何を考えているのかわからない。
どれほど沈黙の時間を過ごしただろうか。
先に口を開いたのは、健斗の方であった。
「あの、さ……ここに来たってことは……」
途中まで言いかけたくせに、言おうか言うまいか迷い始めて口を噤んでしまった。
「何……? 最後までちゃんと言ってくれないと、わかんない」
「……俺の家に来てくれたってことは……その……一か月だけ、俺にチャンスをくれるのか?」
だんだんと小さくなるその声。
最後の方はもはや何を言っているのか聞き取れないほどだ。
「チャンスなんて、ない」
「えっ……」
私の告げた言葉で一気に顔面蒼白となる健斗。
「あんなにひどいことして、チャンスなんて、あるわけない。だけど、このままズルズルこんなわけのわからない関係を続けるのは、お互いによくない。だから……一か月だけ、我慢する」
我慢する、という言い方が適切であったのかどうかはわからないが、これが今の私の本心だ。
いい加減健斗のことを吹っ切って、新しい人生を歩み始めたい。
……本当は一度そうなっていたはずなのに。
「……わかった。それでも俺は嬉しい、ありがとう沙良」
ぐっと唇を噛みしめるような険しい表情で、健斗は頷く。
私は緊張でからからになった喉を潤すために、先ほど出してもらったグラスに口をつける。
そして一息つくと、そのまま口を開いた。
「でも勘違いしないで。そういうことは、一切なしね」
「わかってる。……てかできないし」
「……それだけじゃない。キスとか、そういうのも」
「……わかった」
「約束してね。その約束が守れないなら、一か月待たずにこの関係はお終いにする」
強い決意をこめて彼の目をじっと見つめると、意外にも健斗はその視線を受け止め、真剣な顔で頷いた。
その様子になんだか拍子抜けしてしまい、全身の力が抜けていく。
その時私は初めて、自分がかなり緊張していたのだということを思い知った。
「沙良、飯食べた?」
「へっ……?」
突然変わった話題に、思わず気の抜けた声で返事をしてしまう。
その声に少し微笑んだような様子を見せた健斗は、続けてこう尋ねる。
「会社終わって、きっと飯食べてないんじゃないか? 俺何か作るよ。あり合わせで簡単なものにはなるけど……」
「え、いいよそんな……私もう帰るし」
「一か月だけは、付き合ってくれるんだろ……?」
「あ……」
「座ってて。チャーハンでも作るわ」
一度立ち上がりかけた体を、再び椅子に戻す。
キッチンへと姿を消した健斗の姿が、あまりにもらしくなくて。
本当にこれは私の知っている、幼馴染であった彼なのだろうかと思わずその姿を目で追ってしまった。
◇
意外にも彼の手際はよく、さほど待たぬうちにいい匂いがリビングまで漂ってきた。
「できた」
平皿によそわれたチャーハンが私の目の前で湯気を立てている。
「いただきます……」
その味は、お世辞抜きに美味しかった。
いつのまにか健斗も私の正面に座っているが、彼はどうやら食べないらしい。
「食べないの? せっかく作ったのに」
「俺、もう食べたから」
「え……じゃあわざわざ作らなくてもよかったのに」
私一人のために、キッチンを汚してしまったということだ。
「そんな顔するなよ。俺が食べて欲しかっただけだから」
そう言って健斗は微笑む。
その微笑みに、心の奥に閉じ込められていた記憶たちが呼び戻されて、どうしようもなく胸が苦しくなる私なのであった。
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