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健斗があの日私のアパートを出て行ってから一週間、珍しく一度も姿を現さなかった。
これでいいはずなのに、毎日のようにあったものが突然無くなると不思議な感覚に陥ってしまうのだから、人間とは恐ろしい生き物だ。
私はいつもと同じように会社へ行き、仕事を終えて自宅へと戻る。
数週間前までは当たり前だった平穏な日常がようやく戻ってきたのである。
◇
「ねえ沙良、上条さんが探してたよ」
そんなある日のこと。
いつもの同じように自分のデスクに向かって作業をしていた私は、隣に座る愛に肩をつつかれた。
「嘘、昨日資料提出したんだけど……どこか間違えてたかな」
「上条さん、なんで結婚しないんだろう? あの見た目で独身なら引くて数多なはずなのに」
「気にするところ、そこ?」
上条さんは、私と愛よりも3つ歳上の先輩社員だ。
私は入社した時から彼と同じグループに配属されたため、愛よりも上条さんとの接点は多い。
ピシリと撫で付けたような黒髪に、高級ブランドのスーツ。
もちろんその着こなしも爽やかで、おまけにイケメン。
さらに仕事はそつなくこなす、いわゆるハイスペック男子なのだろう。
そんなハイスペックな上条さんは、もちろん女子社員達の憧れの的。
数多の女性達からアタックされる姿を見てきたが、未だにこれといった特定の相手がいる様子はない。
私は愛に言われた通りに上条さんのデスクへと向かった。
「上条さん、今お時間よろしいですか?」
デスクに向かう男性にそう声をかけると、彼はパッと顔を上げて私の方を見上げた。
「おお、須藤。昨日もらった書類なんたけどさ」
「何か間違ってましたか?」
「いや、よくできてたよーってそれだけ」
なんだ、てっきり間違いの指摘だと思っていたので思わず肩の力が抜ける。
「何、注意されると思った?」
「ええ、まあ……」
上条さんは自分の仕事も抜かりなくこなすが、その分他人への要求レベルも高い。
「大丈夫、今回のはよくできてる」
「よかったです。では失礼しま……」
「お疲れ様もかねて、近々ご飯行かない?」
「食事、ですか……」
「本当は今日って言いたいところだけど急ぎの仕事があってさ。また連絡するから」
上条さんは矢継ぎ早にそれだけ告げると、自分の仕事に戻ってしまった。
実を言うと彼に誘われたのはこれが初めてではない。
だが私はその度に、のらりくらりと理由をつけて断り続けている。
もちろん複数人との食事会ならば断ることもないが、彼の言う食事とは二人きりのものを意味している。
これは初めて食事に誘われた時にそう言っていたので、間違いないだろう。
社内でも人気抜群の彼からの誘いを断るなど、他の女性社員たちからすればあり得ないことだろう。
だが私はなんとなく気乗りがしないのだ。
それでも定期的に誘いをかけてくる上条さんのメンタルはかなり強い。
本当はハッキリと断りたいのだが、同じ会社の同じチームということもあって躊躇してしまう。
(次はなんて言って断ろう……。彼氏でもいるって言ってみようかな)
そんなことを悶々と考えながら、自分のデスクへと戻る。
「ねえねえ、怒られた? 大丈夫そう?」
咳につくなり横のデスクからひょっこりと顔を覗かせる愛。
「あー、うん。大丈夫……」
「何? また例のご飯のお誘い? 懲りないねー上条さんも」
歯切れの悪い私の返答に、愛はすぐに何かを悟ったらしく呆れたように軽く両手を挙げた。
愛は婚約している彼氏がいるため、上条さんのことなど元々眼中にはない。
そんな彼女にだけは、彼から頻繁に食事に誘われていること、それを断り続けていることも話すことができていた。
「でもなんでそんなに頑ななの? 上条さん、ハイスペックじゃん。付き合ったら尽くしてくれそうだし」
「うーん、なんだろう。わからないけど、勘かな……」
愛は私の答えに対して納得のいかないような表情を浮かべた後、席を立って飲み物を買いに出て行った。
◇
「……久しぶり」
その日の夜、仕事を終えてアパートへ戻ると久しぶりに健斗の姿があった。
どうやら体調は治ったようで、その表情はスッキリとして見える。
「体調治ったんだね。よかった」
「沙良のおかげだよ。ありがとう」
ドアにもたれかかるようにしてこちらを見ていた健斗は、ゆっくりと体を離して私の方を向き、こう言った。
「あのさ。沙良にお願いがある」
「……何?」
「一ヶ月でいいから、俺と付き合ってほしい」
「は?」
「一ヶ月の間に俺がどれだけ変わったか見てほしい。それでやっぱり沙良の気持ちが無理なら、俺のこと振っていいから。そしたらもう二度と沙良には近づかない。約束する」
突然の提案に思考が停止する。
うまく言葉が出てこない様子の私を見て、健斗は気まずそうに笑って続けた。
「大丈夫、そういうことはしないから」
「……そういうこと?」
「うん。そういうこと」
そういうこととは、つまりセックスのことだろうか。
「……なんでそこまで私がいいのか、わからない。他に可愛い子たくさんいるでしょ。わざわざこんな面倒なことしなくても……」
「近くにいすぎると、気づけなかったんだ。沙良みたいな女は他にはいない」
一ヶ月健斗とヨリを戻したところで、私の彼への気持ちはいい方向に変わっていくのだろうか?
彼はどうやって自分が変わったということを証明するのだろうか。
「なあ、頼むよ……一ヶ月だけチャンスをください」
再びそう呟くと、健斗は私に向かって頭を下げた。
たったの一ヶ月だ。
それで私が以前の彼のように関係を終わらせれば、それで私たちは今度こそ終わり。
このよくわからない関係が延々と続くよりは、その方がお互いのためなのかもしれない。
このままでは健斗も私に囚われながらの人生となってしまうだろう。
私だってそのようなことは望んでいない。
「じゃあ、一つ条件がある」
「何? 何でもする」
「なんで私に対しての態度があんなに冷たくなったのか、理由が知りたい。そしたら考える」
私の言葉は想定外だったのだろう。
健斗は呆気に取られたような表情でしばらく立ちすくむ。
だがやがて我に返ったかのようにズボンを握りしめた。
「わかった。多分、すごい嫌な気持ちにさせるかも……」
「そんなのもうとっくになってるから、大丈夫」
「またファミレス行く……?」
「ううん、うちでいいよ」
「えっ……」
私はカバンのポケットから鍵を取り出してドアを開けた。
だが健斗は一向に中へ入ろうとはしない。
ずっとドアの前で不安げに瞳を揺らしていた。
「入らないの?」
「……入っていいのかなと思って」
「今更? この前初めてここに来た時、中に入れてって言ってたじゃん」
「……図々しかったよな、ごめん」
以前よりもその言動に弱さが出るようになったのは、気のせいだろうか。
「あの時はようやく沙良に会えた興奮で、おかしくなってた……。冷静になったら、俺やばいやつだなって」
「……とりあえず、入ろう。ご近所の目もあるし」
私の促しにより、健斗はようやく玄関へ足を踏み入れたのである。
◇
「狭いけどね、会社からもそこそこ近くて気に入ってるの」
「……前の部屋と雰囲気が似てる気がする」
「そうかな? あの時のものはほとんど処分して新しく買い直したものも多いけど」
私はそんなたわいもない会話を交わしながら上着を脱いでハンガーにかけ、コップを二つ出してお茶を注ぐ。
(まさかこの家に、健斗が来るなんて……)
人生とはわからないものだ、と思いながらコップを持ってテーブルの方へ向かった。
健斗は手持ち無沙汰にリビングに立ちっぱなしで、どことなく気まずそうである。
「座りなよ。立ったまま話すつもり? はい、お茶」
「……あ、ああ……ありがとう」
テーブルに向かい合うようにしてそれぞれ腰掛け、コップに注がれたお茶を一口飲む。
そして一息ついたところで、健斗が話し始めた。
「今から話すこと、本当に自分でもクズだと思ってる……でも隠し事はせずにちゃんと話すから……」
「うん、わかった」
久しぶりの再会を果たした際に何となくの経緯は聞いていたものの、腑に落ちないことはたくさんあった。
直接彼からあの時のことを聞いて、自分の中に眠っていたあの時の気持ちたちを消化させてあげたかったのだ。
これでいいはずなのに、毎日のようにあったものが突然無くなると不思議な感覚に陥ってしまうのだから、人間とは恐ろしい生き物だ。
私はいつもと同じように会社へ行き、仕事を終えて自宅へと戻る。
数週間前までは当たり前だった平穏な日常がようやく戻ってきたのである。
◇
「ねえ沙良、上条さんが探してたよ」
そんなある日のこと。
いつもの同じように自分のデスクに向かって作業をしていた私は、隣に座る愛に肩をつつかれた。
「嘘、昨日資料提出したんだけど……どこか間違えてたかな」
「上条さん、なんで結婚しないんだろう? あの見た目で独身なら引くて数多なはずなのに」
「気にするところ、そこ?」
上条さんは、私と愛よりも3つ歳上の先輩社員だ。
私は入社した時から彼と同じグループに配属されたため、愛よりも上条さんとの接点は多い。
ピシリと撫で付けたような黒髪に、高級ブランドのスーツ。
もちろんその着こなしも爽やかで、おまけにイケメン。
さらに仕事はそつなくこなす、いわゆるハイスペック男子なのだろう。
そんなハイスペックな上条さんは、もちろん女子社員達の憧れの的。
数多の女性達からアタックされる姿を見てきたが、未だにこれといった特定の相手がいる様子はない。
私は愛に言われた通りに上条さんのデスクへと向かった。
「上条さん、今お時間よろしいですか?」
デスクに向かう男性にそう声をかけると、彼はパッと顔を上げて私の方を見上げた。
「おお、須藤。昨日もらった書類なんたけどさ」
「何か間違ってましたか?」
「いや、よくできてたよーってそれだけ」
なんだ、てっきり間違いの指摘だと思っていたので思わず肩の力が抜ける。
「何、注意されると思った?」
「ええ、まあ……」
上条さんは自分の仕事も抜かりなくこなすが、その分他人への要求レベルも高い。
「大丈夫、今回のはよくできてる」
「よかったです。では失礼しま……」
「お疲れ様もかねて、近々ご飯行かない?」
「食事、ですか……」
「本当は今日って言いたいところだけど急ぎの仕事があってさ。また連絡するから」
上条さんは矢継ぎ早にそれだけ告げると、自分の仕事に戻ってしまった。
実を言うと彼に誘われたのはこれが初めてではない。
だが私はその度に、のらりくらりと理由をつけて断り続けている。
もちろん複数人との食事会ならば断ることもないが、彼の言う食事とは二人きりのものを意味している。
これは初めて食事に誘われた時にそう言っていたので、間違いないだろう。
社内でも人気抜群の彼からの誘いを断るなど、他の女性社員たちからすればあり得ないことだろう。
だが私はなんとなく気乗りがしないのだ。
それでも定期的に誘いをかけてくる上条さんのメンタルはかなり強い。
本当はハッキリと断りたいのだが、同じ会社の同じチームということもあって躊躇してしまう。
(次はなんて言って断ろう……。彼氏でもいるって言ってみようかな)
そんなことを悶々と考えながら、自分のデスクへと戻る。
「ねえねえ、怒られた? 大丈夫そう?」
咳につくなり横のデスクからひょっこりと顔を覗かせる愛。
「あー、うん。大丈夫……」
「何? また例のご飯のお誘い? 懲りないねー上条さんも」
歯切れの悪い私の返答に、愛はすぐに何かを悟ったらしく呆れたように軽く両手を挙げた。
愛は婚約している彼氏がいるため、上条さんのことなど元々眼中にはない。
そんな彼女にだけは、彼から頻繁に食事に誘われていること、それを断り続けていることも話すことができていた。
「でもなんでそんなに頑ななの? 上条さん、ハイスペックじゃん。付き合ったら尽くしてくれそうだし」
「うーん、なんだろう。わからないけど、勘かな……」
愛は私の答えに対して納得のいかないような表情を浮かべた後、席を立って飲み物を買いに出て行った。
◇
「……久しぶり」
その日の夜、仕事を終えてアパートへ戻ると久しぶりに健斗の姿があった。
どうやら体調は治ったようで、その表情はスッキリとして見える。
「体調治ったんだね。よかった」
「沙良のおかげだよ。ありがとう」
ドアにもたれかかるようにしてこちらを見ていた健斗は、ゆっくりと体を離して私の方を向き、こう言った。
「あのさ。沙良にお願いがある」
「……何?」
「一ヶ月でいいから、俺と付き合ってほしい」
「は?」
「一ヶ月の間に俺がどれだけ変わったか見てほしい。それでやっぱり沙良の気持ちが無理なら、俺のこと振っていいから。そしたらもう二度と沙良には近づかない。約束する」
突然の提案に思考が停止する。
うまく言葉が出てこない様子の私を見て、健斗は気まずそうに笑って続けた。
「大丈夫、そういうことはしないから」
「……そういうこと?」
「うん。そういうこと」
そういうこととは、つまりセックスのことだろうか。
「……なんでそこまで私がいいのか、わからない。他に可愛い子たくさんいるでしょ。わざわざこんな面倒なことしなくても……」
「近くにいすぎると、気づけなかったんだ。沙良みたいな女は他にはいない」
一ヶ月健斗とヨリを戻したところで、私の彼への気持ちはいい方向に変わっていくのだろうか?
彼はどうやって自分が変わったということを証明するのだろうか。
「なあ、頼むよ……一ヶ月だけチャンスをください」
再びそう呟くと、健斗は私に向かって頭を下げた。
たったの一ヶ月だ。
それで私が以前の彼のように関係を終わらせれば、それで私たちは今度こそ終わり。
このよくわからない関係が延々と続くよりは、その方がお互いのためなのかもしれない。
このままでは健斗も私に囚われながらの人生となってしまうだろう。
私だってそのようなことは望んでいない。
「じゃあ、一つ条件がある」
「何? 何でもする」
「なんで私に対しての態度があんなに冷たくなったのか、理由が知りたい。そしたら考える」
私の言葉は想定外だったのだろう。
健斗は呆気に取られたような表情でしばらく立ちすくむ。
だがやがて我に返ったかのようにズボンを握りしめた。
「わかった。多分、すごい嫌な気持ちにさせるかも……」
「そんなのもうとっくになってるから、大丈夫」
「またファミレス行く……?」
「ううん、うちでいいよ」
「えっ……」
私はカバンのポケットから鍵を取り出してドアを開けた。
だが健斗は一向に中へ入ろうとはしない。
ずっとドアの前で不安げに瞳を揺らしていた。
「入らないの?」
「……入っていいのかなと思って」
「今更? この前初めてここに来た時、中に入れてって言ってたじゃん」
「……図々しかったよな、ごめん」
以前よりもその言動に弱さが出るようになったのは、気のせいだろうか。
「あの時はようやく沙良に会えた興奮で、おかしくなってた……。冷静になったら、俺やばいやつだなって」
「……とりあえず、入ろう。ご近所の目もあるし」
私の促しにより、健斗はようやく玄関へ足を踏み入れたのである。
◇
「狭いけどね、会社からもそこそこ近くて気に入ってるの」
「……前の部屋と雰囲気が似てる気がする」
「そうかな? あの時のものはほとんど処分して新しく買い直したものも多いけど」
私はそんなたわいもない会話を交わしながら上着を脱いでハンガーにかけ、コップを二つ出してお茶を注ぐ。
(まさかこの家に、健斗が来るなんて……)
人生とはわからないものだ、と思いながらコップを持ってテーブルの方へ向かった。
健斗は手持ち無沙汰にリビングに立ちっぱなしで、どことなく気まずそうである。
「座りなよ。立ったまま話すつもり? はい、お茶」
「……あ、ああ……ありがとう」
テーブルに向かい合うようにしてそれぞれ腰掛け、コップに注がれたお茶を一口飲む。
そして一息ついたところで、健斗が話し始めた。
「今から話すこと、本当に自分でもクズだと思ってる……でも隠し事はせずにちゃんと話すから……」
「うん、わかった」
久しぶりの再会を果たした際に何となくの経緯は聞いていたものの、腑に落ちないことはたくさんあった。
直接彼からあの時のことを聞いて、自分の中に眠っていたあの時の気持ちたちを消化させてあげたかったのだ。
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