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私と彼の八年間 10

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「葵がいなくなってから、生きた心地がしなかった。なあ、葵の中にはもう俺はいないのか……?」

 結局私たちが行き着いた場所は、長年共に暮らしたアパートだった。
 二ヶ月ぶりに足を踏み入れたそこは、最後に訪れたあの日よりもさらに荒れ果てていて、生活感を全く感じない。

「……汚すぎて座るところないんだけど」
「ごめん、葵はベッドに座って……俺は離れて座るから」

 そう言いながら俊は私から距離を取って、リビングのダイニングチェアに腰掛けた。

「私はもうあの日で俊とは終わったと思ってる。今更やり直すつもりもないよ」
「どうしてだよ……俺らずっと一緒にいただろ? そんな簡単に終わりとか言うなよ……」
「だから何? 過ごした長さなんて関係ないよ。それに最後の方なんて別れたも同然だったじゃない」
「俺は、いずれはお前と結婚するつもりで……指輪だってっ……」
「あのテーブルに置いてあった箱のこと? 私、もうあのブランド好きじゃないんだよね」

 俊は私の言葉に目を見開くと、くしゃっと顔を歪めた。

「何だよ、それ……お前があの指輪が欲しいって言ってたじゃねーか」
「それ何年前の話? 社会人なりたての頃じゃん。俊は私のこと全然見てないし、わかってない」
「俺は葵と結婚したい。葵以外考えられない」
「いやいや、やめてよ。結婚なんて考えてないって去年言ってたじゃん」
「っそれは……」
「私さ、あの時になんとなく俊と別れようと思い始めてた。なかなかきっかけが掴めなかったけど、なぜか急に気持ちに踏ん切りがついたの。一人になってみたら意外と快適で、今まで俊の顔色を気にして振られないかビクビクしていた自分が馬鹿みたいだなって」

 俊は俯いたまま言葉を発さない。

「私たち、もう無理だよ。俊はほとんど家に帰ってこなかったし、ご飯作って待ってても外で済ませてくるし。連絡だって寄越さない日も多かったよね? 急にどうしたの? 本命の彼女に振られたりした? 結婚したいってのも、家事だけしてくれる都合いい女が欲しいからでしょ? 私はそんなのまっぴらごめんなの」

 黙ったままの俊に見切りをつけて、私は立ち上がった。
 膝の上に抱えたままでいた鞄を肩にかけると、リビングのドアへ向かって歩き出す。

「もう帰るね。これ以上話しても時間の無駄だし。じゃ……」
「待てって!」

 俊は勢い良く立ち上がると私の元へ駆け寄る。
 いつかと同じように掴まれた手首が痛い。
 
「痛い、離して」
「じゃあ帰るな」
「何それ脅し?」
「ごめん、でも俺……お前が好きだ……俺の初めては全部葵なんだよ……何か勘違いしてるのか知らねーけど、他に女なんていないから。葵しか知らないんだよ……」

 俊の声が震え始め、ポロポロと涙を流し始めた。
 俊が泣くのを私は初めて見たかもしれない。
 何かあった時に泣くのはいつだって私で、俊はその度に私の背中を撫でて慰めてくれていたのだから。

「ごめんな、葵……お前のこと放ったらかしにして、たくさんひどいことして、たくさん傷つけた」
「別にもういいから。もう忘れて」
「忘れられるわけないだろ!」

 その言葉と共に私は俊に抱きしめられる。
 息もできないほどの強さに息苦しさを感じた私は、彼の胸元を必死に押し返そうとするがびくともしない。

「ねえほんとやめて? こういうことしないって、約束でしょ」
「お前が出て行こうとするからっ……」
「私もう俊のこと、前みたいに好きじゃない」

 はっと俊の息が止まるのを感じた。
 それと同時に時間までもが止まったように私たちの間に静寂が訪れる。

「嘘だろ……なぁ、嘘って言えよ」
「嘘じゃない。ちょっと前からそう思ってた。愛されない、先の見えない関係が辛くなったの」
「俺は、お前と結婚する。愛してるんだよ」
「私はもう結婚したくない。私の中でその時期はとっくに過ぎちゃったんだよね。今更俊と結婚したいとか、全く思わない」

 一度ずれた歯車が元通りになることはないのだ。
 俊はこの世の終わりのような顔で呆然と佇む。
 いつのまにか掴まれていた手首も体も解放されて、私は自由の身となった。

「私行くね。じゃあ、元気で」

 最後になんて言葉をかけたらいいかわからずに当たり障りのない言葉をかけると、私は再びリビングのドアから廊下へ向けて歩き出した。

「俺、仕事変えたんだよ……」
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