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第1章

さようなら、シークベルト公爵家

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 あの夜目覚めたらリンドの姿は無く、掛けられた布団だけが、彼がそこにいた事を物語っていた。
 結局それから出発の日まで、リンドがカリーナの前に姿を表すことはなかった。

 リンドなりのけじめであったのかもしれない。
 リンドからアレックスへ求婚を受ける旨を伝えていた様で、数日後には城からの使者がやってきた。
 一週間後に迎えを寄越すので、城へと引っ越す様にとのこと。
 それから挨拶とお妃教育が始まるらしい。

 衣類や装飾品、日常生活で必要な物は全て向こうで用意するという。
 これまでに使っていたものは、カリーナにとって大切なものを除いて、全て公爵家に置いてくるように、とのことだった。

 カリーナはただ身一つでお城へと向かうだけだ。
 五年間慣れ親しんだ公爵家とも、これで本当のお別れである。
 もう二度とこの家の敷居を跨ぐことはないだろう。

 なぜならばその頃には、リンドの横に公爵夫人としてマリアンヌが寄り添っているからである。
 リンドにはもちろん幸せになってもらいたいが、彼が他の女性と並ぶ姿は見たくない。
 マリアンヌからしても、カリーナが屋敷に出入りするのを良くは思わないだろう。

「シークベルト公爵家とは、今生の別れだわ」

 カリーナは、懐かしい人々の元へ最後の挨拶に訪れた。

「ジル!」

「カリーナ! 聞いたわよ、お妃様になるんですって? 凄いじゃない!」

 カリーナとジルは手を取り合った。

「ええ、そうなの。でも不安なことだらけよ。元奴隷の娘が王妃になったなんて試しがないから……」

 親友のジルの前だからこそ、本心をさらけだすことができる。

「大丈夫よ、カリーナ! あなたはそのままで十分。王様だって、今のあなたを好きになったんですもの」

 それに、とジルは付け足す。

「何か嫌な思いをしても、あなたなら乗り越えられるわよ。私の時みたいに」

 ジルはそう言ってウインクした。

「あなたと離れるのが寂しいわ、ジル」

 王城に行けば1人きり。知り合いはいない。
 ジルの様に心から何でも話すことの出来る友人はできないであろう。

「私もよ。カリーナ。もしも、もしも王様が許してくださるのなら……たまには手紙を書いてくださると嬉しいわ。王妃様にお願いなんて、恐れ多いけど」

「もちろんよ、ジル! 王妃になったとしても、私たちは変わらないわ。永遠にね」

 ジルはカリーナが目の前から立ち去るまで、ずっと手を振り続けた。




 ジルと別れた後、屋敷の大広間にて懐かしい面々と対面した。

「ミランダさん! トーマス様!」

 ミランダはカリーナが五年前に初めて屋敷に連れてこられた際に、世話をしてくれた女中だ。
 カリーナが公爵家で奴隷として暮らすための手助けをしてくれた。
 その恩もあり、カリーナが奴隷としての役目を終えた後も、呼び方は『ミランダさん』のままである。

「カリーナ、あんたが王妃様になる日が来るなんて……。 五年前のあんたに教えてやりたいよ。努力は報われるってね」

 ミランダはまるで自分の娘のようにカリーナを抱きしめ、涙を流して喜んでくれた。

「ミランダさん、今の私があるのはあなたのお陰です。あなたが優しく導いてくださったから、こうして私は前を向いて生きていられるのです。」

 奴隷となったあの日。
 バルサミア、そしてシークベルト公爵家への恨みや憎しみでいっぱいだった。
 その固まった心を最初にほぐしてくれたのは、紛れもなくミランダである。

「これからも、私と同じ様な立場の娘を守ってあげてください」

 ミランダは涙ながらに何度も頷いた。

「トーマス様……直接お話したことはほとんどありませんが、私が奴隷として働いている姿を公爵様にお知らせしてくださっていたと聞きました。ありがとうございます」

 トーマスがカリーナの頑張りを見抜き、陰でリンドに伝えていてくれたからこそ、カリーナは奴隷から抜け出すことが出来たのだ。

「私ごときにお礼など。勿体無いお言葉です。まさかあの日の子どもが、国王の妻になるとは思いもよりませんでしたぞ。シークベルト公爵家にとってもめでたいことです」

 ……ただ旦那様が少し心配ですが。
 と、トーマスが小声で呟いた事にカリーナは気づかなかった。

「これからもシークベルト公爵家を、リンド様を支えていってください」

 カリーナは大広間を見渡す。
 五年前、ここで全てが始まった。

 (リンド様と初めてお会いしたのもこの大広間だったわね)

 なんて美しい男性かと思いつつも、あまりに冷酷な表情とその態度に憎しみを募らせ、復讐を誓った記憶が懐かしい。

 すっかり毒気を抜かれてしまった。

 リンドと接し距離が近くなるにつれて、徐々に憎しみが恋慕へと変わっていった。
 誰よりも真っ直ぐなはずなのに、その不器用さ故に損をする。

 そこが愛おしかった。
 リンドに愛されたかった。

 自分は高望みをしすぎたのかもしれない。
 いつの日かローランド辺境伯が言っていた事は、所詮身の丈に合わない願いだった。

「いつかリンド様の幸せを、笑って見ることができるのかしら」

 答えの出ない思いを胸に抱きながら、カリーナは大広間を後にした。



「カリーナ様、こちらからお城へお持ちする荷物は本当にこれだけでよろしいのですか?」

 カリーナの部屋では、メアリーが引っ越し支度に追われていた。
 慣れない王城での暮らしのために、アレックスはシークベルト公爵家から侍女を一人連れてきて良いと、許可を出した。

 リンドからその役目を任命されたのが、メアリーである。
 カリーナも全てを把握しているメアリーが共に来てくれるのならば心強い。

「ええ、いいのよ。ありがたいことに後はお城で用意してくださるみたいだから」

 もしかしたら。
 アレックスは、カリーナのドレスや装飾品をリンドが選んだ事に気づいていたのかもしれない。
 だからこそ、公爵家に置いてくる様にとのことなのであろう。

 カリーナはそっとドレッサーの引き出しを開ける。
 そこには母の形見のエメラルドの首飾りと、リンドからもらったルビーの首飾りがあった。
 カリーナはエメラルドの首飾りを、王城へと持っていく宝箱に入れる。

 そして引き出しを閉めた。
 しかしすぐに思い直した様に引き出しを開けて、ルビーの首飾りを取り出す。

「ごめんなさいリンド様。記憶だけではなく、あなたが存在した証をください。そうすればきっと、お城で何があっても頑張れますら」

 そう呟くと、そのままルビーの首飾りも宝箱にしまったのだった。

「カリーナ様、そろそろお時間です。城から迎えの者が来ております」

 ガチャリと扉が開き、執事のトーマスがそう告げた。
 最後までリンドは現れなかった。
 仕方がない。自分が選んだ道なのだから。
 リンドとカリーナの人生が交わる事はないのだ。

 カリーナはメアリーと共に、屋敷の前につけられた豪勢な馬車へ乗り込む。
 屋敷の前の階段には、ジルやミランダ、トーマスなど見慣れた面々が並び手を振る。
 カリーナが礼をすると同時に、馬車はゆっくり走り出した。

 さようなら、シークベルト公爵家。
 さようなら、皆さん。

 名残惜しげにカリーナが屋敷の方を振り返ったその時。

「リンド……様……」

 いつ来たのであろうか、そこにはリンドの姿があった。
 リンドの表情はよくわからない。
 ただいつまでもこちらを見続けていた。

「さようなら、リンド様。お幸せに」

 カリーナは呟く。

 リンドの姿は次第に見えなくなっていく。
 カリーナ振り返ることをやめた。
 それから王城に到着するまで、二度と後ろを振り返る事はなかった。

 この時、リンドが大粒の涙を流していた事をカリーナが知る事になるのは、まだしばらく先のことである。
 
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