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僕は命に価値があると思っていないんです。

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「君は動機を重視しているようだが、見当違いもいいところだ」
 真っ暗闇の向こうから、少年の声が聞こえる。何も見えない状況では、少年の声だけが頼りだった。
「見当違いなのはあなたのほう。私にとって重要なのは動機。動機が重要だから、私はここにいる。それを忘れてはいけない」
 私は声が聞こえたほうへ歩いていった。まだ何も見えない。
「忘れてはいないさ。だが肝心なことを君は忘れている」
 おかしなことを言う。私は何も忘れてないから、ここにいるというのに。むしろ少年のほうが忘れていたではないか。彼が忘れさえしなければ、こんなことにはならなかった。
「普通、人は人を殺さない」
 足が止まった。手にじわりと汗が滲む。自然と視線が下へ向く。握っているはずの包丁は見えなかった。
「たとえ動機があったとしても殺さない。一線はそう簡単には越えない」
 私は越えてしまった。至極あっさりと。人として超えてはいけない一線を。
「なぜ一線を越えてしまったのか、どうして留まることができなかったのか、動機云々よりもそっちのほうがよっぽど重要だ」
 人を殺したいと思っても、普通は超えない一線。それをあっさりと超えてしまった私。
「考えろ。一線を踏み越えた理由を」
 どうして一線を越えてしまったのか。簡単な話だ。私には一線を越えなければならない動機があった。
 少年は一線を越えた理由と殺人の動機を分けて考えているが、実際には両者は密接に関係している。動機があればこそ、一線は越えられるのだから。


 あれは彼がまだ5歳の頃だった。当時の私は13歳。彼は純真無垢な笑顔でこう言ったのだ。――僕、お姉ちゃんと結婚するって。
 私は彼の言葉を信じた。彼が結婚できる年になるまで待った。なのに少年はあろうことか、18歳の誕生日を迎える前に、私以外の女と婚約を交わしたのだ。
 酷い裏切りだと思った。ずっと彼だけを想い続けていたのに。私をお嫁さんにしてくれると信じていたのに。
 憎かった。私から彼を奪った女が。殺すしかないと思った。彼を取り戻すためには、女に死んでもらわなければならない。それが動機。

 私は動機=アクセルみたいなものだと思っている。進まなければ一線は越えられない。
 普通の人が一線を越えないのは、ブレーキを踏んでいるからだ。ブレーキの役割を成すのは理性。理性があればこそ、人は凶行に至る前に踏みとどまることができる。
 私が一線を越えてしまったのは、踏みとどまることができなかったのは、ブレーキが壊れたからに他ならない。
 私のブレーキ=理性は、少年とあの子が付き合っていると聞いた瞬間に壊れてしまった。止まることなどできなかった。進むしかなかった。――たとえその先が地獄に通じていようとも。

「君はいつまでそうしてるつもりだ?」
 はっとした。考えに没頭していた。没頭しすぎていた。頭を軽く横に振る。目の前のことに集中しないと。
「答えは出たか?」
 暗闇の奥から声が聞こえる。少年の姿は見えない。
「君はなぜ一線を越えた?」
 答える必要はない……はずなのに、私の口は自然と開いた。有無を言わさない声というものがあるのなら、きっと今のがそうだったのだろう。
「理性が壊れたから。私は自分を止めることができなかった」
 私はいまだに進んでいる。包丁を持って、少年の家を訪ねたのが良い証拠だ。鍵は開いていたから、容易に入ることができた。明かりがついていないのは予想外だったけれど。
「そうか。僕の理性は正常だ。君がまだ生きているからな」
 ゾクッとした。背中に嫌な汗が流れる。包丁をぎゅっと握り締めた。
「さっきも言ったように、普通は動機があっても殺さない。そもそも人を殺したいと思うのはよっぽどのことだ。そう思わせる奴は、その程度の人間ってことに他ならない」
 殺したいと思わせる奴はその程度の人間。彼はいったい誰のことを言っているのだろう?
 婚約者のことか。それとも――私のことか。
「なぜその程度の人間のために、自分の人生を棒に振らないといけない。自分の人生を捨ててまで殺す価値があると思うか。いーや、ないね。殺す必要もない屑だ。放っておけばいい。自分の人生を捨てるくらいなら、自分の人生を生きたほうが有意義に決まってる」
 少年は私に殺す価値はないと言っている。婚約者を殺されたにもかかわらず、彼は私を放置する気だ。
 なんということだ。彼女を殺せば、少年は私を見てくれると思ったのに。視界に入れる価値すらないと、そう言う気なのだろうか。
 包丁を持ってきて良かった。私を見てくれないのなら、私のものにならないのなら、少年を殺すしかない。
「僕は他人の命に価値があるなんて思ってない。価値のある命なんてない。奪う価値も殺す価値もないんだよ」
 声に集中する。確実に仕留めるためには、少年の居場所を把握しなければ。
「分かるか? 僕が人を殺さないのは善人だからじゃない。人の命に価値を見出してないからだ。君は命を重んじている人は誰も殺さないと思っているだろう。逆だ。命を軽んじている奴こそが人を殺さないのさ」
 私は今更ながら、おかしなことに気づいた。いくら真っ暗闇とはいえ、目が暗さに慣れてきたら、おぼろげながらも人の輪郭くらいは見えるはず。
 だが実際は何も見えない。声だけが聞こえる。いったいなぜ?
「じゃあどういう人間が人を殺すと思う? もちろん命を重んじている人間だ。命に価値があると思っている。だからこそ奪うんだろう。大切だと知っているから」
 急に頭がボーっとしてきた。呼吸も苦しい。胸も痛い。立っていることすら辛い。私は前のめりに倒れこんだ。
 堅い物体が手のひらに触れた。それは――携帯電話だった。
「君が婚約者の命を奪ったのは、僕にとって大切だと知っていたからだろう」
 携帯電話から少年の声が聞こえた。姿が見えないのも当然だ。彼はここにはいない。
「……何が起き……うぼえっ!」
 私は吐いてしまった。何がなんだか分からない。どうしてこんなに気持ち悪い?
「ようやく効果が現れたか」
 効果とは何のことだろう? 彼が何かしたから、私は嘔吐してしまったのか?
「君は今、一酸化炭素中毒に陥っている」
 何を言っているのだ彼は? 彼はいったい何をした?
「部屋を暗くしたのは、僕が部屋にいないことを隠すため。長々と喋ったのは時間稼ぎのため。まんまと罠にかかってくれて助かったよ」
 ハメられた。なんて様だ。彼女を殺した罰が当たったのだろうか。私はただ彼と未来を共にしたかっただけなのに。
「死にたくない」
 私はまだ若い。未来がある。死にたくなんてない。終わりたくなんてない。
「私には殺す価値がないんじゃないの?」
 少年は言っていたではないか。殺したいと思われるような奴に、殺す価値なんてないと。
「その通り。だが生かす義理もない」
 止めを刺されたと思った。眠い。ものすごく。あぁ、私は死ぬのだ。死ぬなら、死ぬなら、せめて彼の顔を見ながら逝きたかった。




「終わった。すべて」
 マンションの屋上で事の顛末を知った。携帯からはもはや何も聞こえない。きっと死んだのだ。
 殺す価値も奪う価値もない命だった。だからだろうか、復讐を果たしたはずなのに何も感じない。もっと嬉しい気持ちが沸いてくると思っていた。
 僕にとって価値のある命は、婚約者の彼女だけだったに違いない。否、彼女と出会って初めて命の価値を知ったというべきか。
 彼女の命の重みを知っていなければ、僕は一線を越えることはなかっただろう。皮肉なものだ。愛する人との出会いが、僕をあちら側へ踏み込ませることになろうとは。
「自分の人生を捨てるくらいなら、自分の人生を生きたほうが有意義に決まってる……か」
 僕の人生は彼女と共にあるはずだった。彼女が死んだ時点で、僕の人生は終わったも同然。あの女を殺そうが殺すまいが結果は変わらない。
「キレイなはずなのに霞んで見える」
 マンションの屋上から見る景色は、色あせていた。柵を乗り越える。足元がグラグラとした。
「君のいない世界で、生きる意味なんてない」
 一線は簡単に越えられる。もう一度彼女に会うためならば。
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