8 / 8
僕は命に価値があると思っていないんです。
しおりを挟む
「君は動機を重視しているようだが、見当違いもいいところだ」
真っ暗闇の向こうから、少年の声が聞こえる。何も見えない状況では、少年の声だけが頼りだった。
「見当違いなのはあなたのほう。私にとって重要なのは動機。動機が重要だから、私はここにいる。それを忘れてはいけない」
私は声が聞こえたほうへ歩いていった。まだ何も見えない。
「忘れてはいないさ。だが肝心なことを君は忘れている」
おかしなことを言う。私は何も忘れてないから、ここにいるというのに。むしろ少年のほうが忘れていたではないか。彼が忘れさえしなければ、こんなことにはならなかった。
「普通、人は人を殺さない」
足が止まった。手にじわりと汗が滲む。自然と視線が下へ向く。握っているはずの包丁は見えなかった。
「たとえ動機があったとしても殺さない。一線はそう簡単には越えない」
私は越えてしまった。至極あっさりと。人として超えてはいけない一線を。
「なぜ一線を越えてしまったのか、どうして留まることができなかったのか、動機云々よりもそっちのほうがよっぽど重要だ」
人を殺したいと思っても、普通は超えない一線。それをあっさりと超えてしまった私。
「考えろ。一線を踏み越えた理由を」
どうして一線を越えてしまったのか。簡単な話だ。私には一線を越えなければならない動機があった。
少年は一線を越えた理由と殺人の動機を分けて考えているが、実際には両者は密接に関係している。動機があればこそ、一線は越えられるのだから。
あれは彼がまだ5歳の頃だった。当時の私は13歳。彼は純真無垢な笑顔でこう言ったのだ。――僕、お姉ちゃんと結婚するって。
私は彼の言葉を信じた。彼が結婚できる年になるまで待った。なのに少年はあろうことか、18歳の誕生日を迎える前に、私以外の女と婚約を交わしたのだ。
酷い裏切りだと思った。ずっと彼だけを想い続けていたのに。私をお嫁さんにしてくれると信じていたのに。
憎かった。私から彼を奪った女が。殺すしかないと思った。彼を取り戻すためには、女に死んでもらわなければならない。それが動機。
私は動機=アクセルみたいなものだと思っている。進まなければ一線は越えられない。
普通の人が一線を越えないのは、ブレーキを踏んでいるからだ。ブレーキの役割を成すのは理性。理性があればこそ、人は凶行に至る前に踏みとどまることができる。
私が一線を越えてしまったのは、踏みとどまることができなかったのは、ブレーキが壊れたからに他ならない。
私のブレーキ=理性は、少年とあの子が付き合っていると聞いた瞬間に壊れてしまった。止まることなどできなかった。進むしかなかった。――たとえその先が地獄に通じていようとも。
「君はいつまでそうしてるつもりだ?」
はっとした。考えに没頭していた。没頭しすぎていた。頭を軽く横に振る。目の前のことに集中しないと。
「答えは出たか?」
暗闇の奥から声が聞こえる。少年の姿は見えない。
「君はなぜ一線を越えた?」
答える必要はない……はずなのに、私の口は自然と開いた。有無を言わさない声というものがあるのなら、きっと今のがそうだったのだろう。
「理性が壊れたから。私は自分を止めることができなかった」
私はいまだに進んでいる。包丁を持って、少年の家を訪ねたのが良い証拠だ。鍵は開いていたから、容易に入ることができた。明かりがついていないのは予想外だったけれど。
「そうか。僕の理性は正常だ。君がまだ生きているからな」
ゾクッとした。背中に嫌な汗が流れる。包丁をぎゅっと握り締めた。
「さっきも言ったように、普通は動機があっても殺さない。そもそも人を殺したいと思うのはよっぽどのことだ。そう思わせる奴は、その程度の人間ってことに他ならない」
殺したいと思わせる奴はその程度の人間。彼はいったい誰のことを言っているのだろう?
婚約者のことか。それとも――私のことか。
「なぜその程度の人間のために、自分の人生を棒に振らないといけない。自分の人生を捨ててまで殺す価値があると思うか。いーや、ないね。殺す必要もない屑だ。放っておけばいい。自分の人生を捨てるくらいなら、自分の人生を生きたほうが有意義に決まってる」
少年は私に殺す価値はないと言っている。婚約者を殺されたにもかかわらず、彼は私を放置する気だ。
なんということだ。彼女を殺せば、少年は私を見てくれると思ったのに。視界に入れる価値すらないと、そう言う気なのだろうか。
包丁を持ってきて良かった。私を見てくれないのなら、私のものにならないのなら、少年を殺すしかない。
「僕は他人の命に価値があるなんて思ってない。価値のある命なんてない。奪う価値も殺す価値もないんだよ」
声に集中する。確実に仕留めるためには、少年の居場所を把握しなければ。
「分かるか? 僕が人を殺さないのは善人だからじゃない。人の命に価値を見出してないからだ。君は命を重んじている人は誰も殺さないと思っているだろう。逆だ。命を軽んじている奴こそが人を殺さないのさ」
私は今更ながら、おかしなことに気づいた。いくら真っ暗闇とはいえ、目が暗さに慣れてきたら、おぼろげながらも人の輪郭くらいは見えるはず。
だが実際は何も見えない。声だけが聞こえる。いったいなぜ?
「じゃあどういう人間が人を殺すと思う? もちろん命を重んじている人間だ。命に価値があると思っている。だからこそ奪うんだろう。大切だと知っているから」
急に頭がボーっとしてきた。呼吸も苦しい。胸も痛い。立っていることすら辛い。私は前のめりに倒れこんだ。
堅い物体が手のひらに触れた。それは――携帯電話だった。
「君が婚約者の命を奪ったのは、僕にとって大切だと知っていたからだろう」
携帯電話から少年の声が聞こえた。姿が見えないのも当然だ。彼はここにはいない。
「……何が起き……うぼえっ!」
私は吐いてしまった。何がなんだか分からない。どうしてこんなに気持ち悪い?
「ようやく効果が現れたか」
効果とは何のことだろう? 彼が何かしたから、私は嘔吐してしまったのか?
「君は今、一酸化炭素中毒に陥っている」
何を言っているのだ彼は? 彼はいったい何をした?
「部屋を暗くしたのは、僕が部屋にいないことを隠すため。長々と喋ったのは時間稼ぎのため。まんまと罠にかかってくれて助かったよ」
ハメられた。なんて様だ。彼女を殺した罰が当たったのだろうか。私はただ彼と未来を共にしたかっただけなのに。
「死にたくない」
私はまだ若い。未来がある。死にたくなんてない。終わりたくなんてない。
「私には殺す価値がないんじゃないの?」
少年は言っていたではないか。殺したいと思われるような奴に、殺す価値なんてないと。
「その通り。だが生かす義理もない」
止めを刺されたと思った。眠い。ものすごく。あぁ、私は死ぬのだ。死ぬなら、死ぬなら、せめて彼の顔を見ながら逝きたかった。
「終わった。すべて」
マンションの屋上で事の顛末を知った。携帯からはもはや何も聞こえない。きっと死んだのだ。
殺す価値も奪う価値もない命だった。だからだろうか、復讐を果たしたはずなのに何も感じない。もっと嬉しい気持ちが沸いてくると思っていた。
僕にとって価値のある命は、婚約者の彼女だけだったに違いない。否、彼女と出会って初めて命の価値を知ったというべきか。
彼女の命の重みを知っていなければ、僕は一線を越えることはなかっただろう。皮肉なものだ。愛する人との出会いが、僕をあちら側へ踏み込ませることになろうとは。
「自分の人生を捨てるくらいなら、自分の人生を生きたほうが有意義に決まってる……か」
僕の人生は彼女と共にあるはずだった。彼女が死んだ時点で、僕の人生は終わったも同然。あの女を殺そうが殺すまいが結果は変わらない。
「キレイなはずなのに霞んで見える」
マンションの屋上から見る景色は、色あせていた。柵を乗り越える。足元がグラグラとした。
「君のいない世界で、生きる意味なんてない」
一線は簡単に越えられる。もう一度彼女に会うためならば。
真っ暗闇の向こうから、少年の声が聞こえる。何も見えない状況では、少年の声だけが頼りだった。
「見当違いなのはあなたのほう。私にとって重要なのは動機。動機が重要だから、私はここにいる。それを忘れてはいけない」
私は声が聞こえたほうへ歩いていった。まだ何も見えない。
「忘れてはいないさ。だが肝心なことを君は忘れている」
おかしなことを言う。私は何も忘れてないから、ここにいるというのに。むしろ少年のほうが忘れていたではないか。彼が忘れさえしなければ、こんなことにはならなかった。
「普通、人は人を殺さない」
足が止まった。手にじわりと汗が滲む。自然と視線が下へ向く。握っているはずの包丁は見えなかった。
「たとえ動機があったとしても殺さない。一線はそう簡単には越えない」
私は越えてしまった。至極あっさりと。人として超えてはいけない一線を。
「なぜ一線を越えてしまったのか、どうして留まることができなかったのか、動機云々よりもそっちのほうがよっぽど重要だ」
人を殺したいと思っても、普通は超えない一線。それをあっさりと超えてしまった私。
「考えろ。一線を踏み越えた理由を」
どうして一線を越えてしまったのか。簡単な話だ。私には一線を越えなければならない動機があった。
少年は一線を越えた理由と殺人の動機を分けて考えているが、実際には両者は密接に関係している。動機があればこそ、一線は越えられるのだから。
あれは彼がまだ5歳の頃だった。当時の私は13歳。彼は純真無垢な笑顔でこう言ったのだ。――僕、お姉ちゃんと結婚するって。
私は彼の言葉を信じた。彼が結婚できる年になるまで待った。なのに少年はあろうことか、18歳の誕生日を迎える前に、私以外の女と婚約を交わしたのだ。
酷い裏切りだと思った。ずっと彼だけを想い続けていたのに。私をお嫁さんにしてくれると信じていたのに。
憎かった。私から彼を奪った女が。殺すしかないと思った。彼を取り戻すためには、女に死んでもらわなければならない。それが動機。
私は動機=アクセルみたいなものだと思っている。進まなければ一線は越えられない。
普通の人が一線を越えないのは、ブレーキを踏んでいるからだ。ブレーキの役割を成すのは理性。理性があればこそ、人は凶行に至る前に踏みとどまることができる。
私が一線を越えてしまったのは、踏みとどまることができなかったのは、ブレーキが壊れたからに他ならない。
私のブレーキ=理性は、少年とあの子が付き合っていると聞いた瞬間に壊れてしまった。止まることなどできなかった。進むしかなかった。――たとえその先が地獄に通じていようとも。
「君はいつまでそうしてるつもりだ?」
はっとした。考えに没頭していた。没頭しすぎていた。頭を軽く横に振る。目の前のことに集中しないと。
「答えは出たか?」
暗闇の奥から声が聞こえる。少年の姿は見えない。
「君はなぜ一線を越えた?」
答える必要はない……はずなのに、私の口は自然と開いた。有無を言わさない声というものがあるのなら、きっと今のがそうだったのだろう。
「理性が壊れたから。私は自分を止めることができなかった」
私はいまだに進んでいる。包丁を持って、少年の家を訪ねたのが良い証拠だ。鍵は開いていたから、容易に入ることができた。明かりがついていないのは予想外だったけれど。
「そうか。僕の理性は正常だ。君がまだ生きているからな」
ゾクッとした。背中に嫌な汗が流れる。包丁をぎゅっと握り締めた。
「さっきも言ったように、普通は動機があっても殺さない。そもそも人を殺したいと思うのはよっぽどのことだ。そう思わせる奴は、その程度の人間ってことに他ならない」
殺したいと思わせる奴はその程度の人間。彼はいったい誰のことを言っているのだろう?
婚約者のことか。それとも――私のことか。
「なぜその程度の人間のために、自分の人生を棒に振らないといけない。自分の人生を捨ててまで殺す価値があると思うか。いーや、ないね。殺す必要もない屑だ。放っておけばいい。自分の人生を捨てるくらいなら、自分の人生を生きたほうが有意義に決まってる」
少年は私に殺す価値はないと言っている。婚約者を殺されたにもかかわらず、彼は私を放置する気だ。
なんということだ。彼女を殺せば、少年は私を見てくれると思ったのに。視界に入れる価値すらないと、そう言う気なのだろうか。
包丁を持ってきて良かった。私を見てくれないのなら、私のものにならないのなら、少年を殺すしかない。
「僕は他人の命に価値があるなんて思ってない。価値のある命なんてない。奪う価値も殺す価値もないんだよ」
声に集中する。確実に仕留めるためには、少年の居場所を把握しなければ。
「分かるか? 僕が人を殺さないのは善人だからじゃない。人の命に価値を見出してないからだ。君は命を重んじている人は誰も殺さないと思っているだろう。逆だ。命を軽んじている奴こそが人を殺さないのさ」
私は今更ながら、おかしなことに気づいた。いくら真っ暗闇とはいえ、目が暗さに慣れてきたら、おぼろげながらも人の輪郭くらいは見えるはず。
だが実際は何も見えない。声だけが聞こえる。いったいなぜ?
「じゃあどういう人間が人を殺すと思う? もちろん命を重んじている人間だ。命に価値があると思っている。だからこそ奪うんだろう。大切だと知っているから」
急に頭がボーっとしてきた。呼吸も苦しい。胸も痛い。立っていることすら辛い。私は前のめりに倒れこんだ。
堅い物体が手のひらに触れた。それは――携帯電話だった。
「君が婚約者の命を奪ったのは、僕にとって大切だと知っていたからだろう」
携帯電話から少年の声が聞こえた。姿が見えないのも当然だ。彼はここにはいない。
「……何が起き……うぼえっ!」
私は吐いてしまった。何がなんだか分からない。どうしてこんなに気持ち悪い?
「ようやく効果が現れたか」
効果とは何のことだろう? 彼が何かしたから、私は嘔吐してしまったのか?
「君は今、一酸化炭素中毒に陥っている」
何を言っているのだ彼は? 彼はいったい何をした?
「部屋を暗くしたのは、僕が部屋にいないことを隠すため。長々と喋ったのは時間稼ぎのため。まんまと罠にかかってくれて助かったよ」
ハメられた。なんて様だ。彼女を殺した罰が当たったのだろうか。私はただ彼と未来を共にしたかっただけなのに。
「死にたくない」
私はまだ若い。未来がある。死にたくなんてない。終わりたくなんてない。
「私には殺す価値がないんじゃないの?」
少年は言っていたではないか。殺したいと思われるような奴に、殺す価値なんてないと。
「その通り。だが生かす義理もない」
止めを刺されたと思った。眠い。ものすごく。あぁ、私は死ぬのだ。死ぬなら、死ぬなら、せめて彼の顔を見ながら逝きたかった。
「終わった。すべて」
マンションの屋上で事の顛末を知った。携帯からはもはや何も聞こえない。きっと死んだのだ。
殺す価値も奪う価値もない命だった。だからだろうか、復讐を果たしたはずなのに何も感じない。もっと嬉しい気持ちが沸いてくると思っていた。
僕にとって価値のある命は、婚約者の彼女だけだったに違いない。否、彼女と出会って初めて命の価値を知ったというべきか。
彼女の命の重みを知っていなければ、僕は一線を越えることはなかっただろう。皮肉なものだ。愛する人との出会いが、僕をあちら側へ踏み込ませることになろうとは。
「自分の人生を捨てるくらいなら、自分の人生を生きたほうが有意義に決まってる……か」
僕の人生は彼女と共にあるはずだった。彼女が死んだ時点で、僕の人生は終わったも同然。あの女を殺そうが殺すまいが結果は変わらない。
「キレイなはずなのに霞んで見える」
マンションの屋上から見る景色は、色あせていた。柵を乗り越える。足元がグラグラとした。
「君のいない世界で、生きる意味なんてない」
一線は簡単に越えられる。もう一度彼女に会うためならば。
0
お気に入りに追加
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説

「あなたが犯人ですね?」「違う、私じゃない!」
音無威人
ミステリー
超短い三つの物語……というほどのものでもありませんが。とにかくすぐに読める三つのお話です。
※小説家になろう、ノベルアッププラスにも掲載しています

夜の動物園の異変 ~見えない来園者~
メイナ
ミステリー
夜の動物園で起こる不可解な事件。
飼育員・えまは「動物の声を聞く力」を持っていた。
ある夜、動物たちが一斉に怯え、こう囁いた——
「そこに、"何か"がいる……。」
科学者・水原透子と共に、"見えざる来園者"の正体を探る。
これは幽霊なのか、それとも——?

ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる