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神様ごめんなさい
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空がどこまでも青い。
雲が一つも無いからだ。
じっと見つめていると吸い込まれるような気がする。
砂利(じゃり)の上で仰向けになりながら、僕はぼんやりと思った。
遠くでクラスメイトが鬨(とき)の声を上げている。
学校近くの藤枝神社で行われた『六年三組ガキ大将決定戦』は、女傑(じょけつ)黒羽明(くろばねあきら)が猪武者(いのししむしゃ)太田勇雄(おおたいさお)に勝利して決着がつきそうな気配だ。
短いけど、激しすぎる戦いだった。
頭を動かすと砂利の角が頭に当たって痛いので、なるべく頭は動かさないことにした。殴られたほっぺたが、じんじんと痛む。明日から夏休みだっていうのに、僕達は何をやっているのかな……。
僕は青葉貴志(あおばたかし)、私立博愛学園(はくあいがくえん)初等部に通う小学六年生だ。
担任の冴内(さえうち)先生からは問題児の烙印を押されているが、僕は争いを好まない。体がクラスの男子の中でも小さい方なので、けんかが弱いからだ。
それなのにクラス内の覇権争いに巻き込まれ、開始早々、黒羽さんの拳骨で神社の境内に転がされている。
「誰がクラスのガキ大将になってもいいじゃないか、みんな仲良く……」
近くに誰もいないのに、僕は喋った。
胸の中がもやもやとしていた。
なんか理不尽だ。
おかしいな、なぜこうなった?
話は一時間程前にさかのぼる。
六年三組において、以前からくすぶっていた黒羽班と太田班の確執は、学校の終業式が終わってから爆発した。爆発したというか、男の意地に太田君はこだわり、潔癖な黒羽さんは自分の正義を貫いたら、拳(こぶし)で白黒をつけるしかない事態まで発展したという感じだ。
黒羽さんは女の子だが、クラスの女子からは『六年三組の王子様』と呼ばれている。細く光沢のある髪はショートカットに切られ、クリッとした瞳はリスを思わせる愛嬌がある。御祖父ちゃんが外国人だからなのか、色白の肌は日本人離れしている上に、僕よりも背が高い。加えて、お人形さんみたいに整った顔立ちをしている。
黙っていれば雑誌の子供モデルに選ばれてもおかしくはないが、来ている服装はいつも男物だ。言葉づかいも男言葉なので、知らない人が黒羽さんのことを見れば、女顔の男の子と間違えるかもしれない。
対する太田君は、クラスの男子から『六年三組の遊び人』と呼ばれている。ジャガイモを思わせるごつごつした顔に、ぼさぼさの頭。身長は僕より頭一つ分は高い。柔道で鍛(きた)えたがっしりした体格は小学生に思えず、中学生と間違えられることもある。性格は楽しいことに目が無いお調子者。学園祭の出し物でも、率先してアイデアを出す。そして――無類の女好きだ。
学校帰りの本屋で、エロ本を立ち読みしている姿が多数のクラスメイトに目撃される。学園祭の出し物でメイド喫茶を候補に押し、クラスの女子からひんしゅくを買う等々、男としての本能に正直なのが太田君だ。
そんな太田君は、当然のごとくクラスの女子にアプローチをかけている。今日はクラスの戌亥(いぬい)さんにアタックしていた。
「戌亥、夏休み暇? 今度家族で海に行くんだけど、一緒に行かないか」
太田君はクラスメイトの視線をものともせず、教室の真ん中で熱く戌亥さんに語った。さりげなく、戌亥さんの手を握ろうと手を伸ばしている太田君だ。
クラスでも最も体が小さい戌亥さんは、困ったように笑っている。体が大きい太田君と一緒にいると、戌亥さんは子犬のようだ。
「やめろ変態。戌亥が嫌がっているじゃないか」
さっそうと現れたのは黒羽さんだ。
クラスで困っている女の子がいれば、黒羽さんは必ず助けに行く。まさに白馬に乗った王子様だ。
「黒羽、お前には関係ないだろ。俺は戌亥と大事な話をしているところなんだ」
太田君は露骨(ろこつ)に嫌そうな顔をするが、黒羽さんは意に介さない。
「何が大事な話だ、セクハラをしているだけじゃないか! 少しは相手のことを考えろ。このエロ猿!」
エロ猿と言われた太田君が、肩を震わせている。怒りのため、顔が真っ赤だ。
「言わせておけば、調子に乗りやがって。お前は、いつもいつも俺の邪魔ばかり。くそ、思い知らせてやる!」
ここで終われば、太田君と黒羽さんのけんかで済んだのだが、そうはいかなかった。
「そうだ、太田君の言う通りだ。太田君は勇者なんだ。黒羽の方が出しゃばりすぎなんだ」
太田君を『勇者』とあがめる一団が加わったからだ。
太田君は一部の男子の間で、遊び人ではなく勇者と言われている。自分がしたくても出来ないセクハラ行為の数々に憧れと勇気を感じるのが、その理由らしい。
「なにが勇者よ。セクハラをしているだけじゃない!」
これに黒羽さんを王子様と讃える女子の一団が加わり、事態は更に悪くなった。
「誰がクラスのボスか教えてやるぜ!」
太田君は啖呵(たんか)を切り、黒羽さんが応えた。
「その性格、叩き直してやる!」
こうして太田君率いるクラスの一部男子と、黒羽さんに味方するクラスの女子全員の間で抗争が勃発(ぼっぱつ)した。
このままでは、血で血を洗う戦いになると思った僕は、太田君を止めようとした。
「太田君、けんかで解決するなんてだめだよ。今ならまだ間に合う」
太田君に男としての器の大きさを見せてもらうしか、事態を収めることはできないだろう。黒羽さんは眉を吊り上げて怒っているし、話を聞いてもらえそうにない。
「男が女を殴っちゃいけないよ。太田君もそんなことはしたくないよね」
僕の言葉に、太田君は考えるような素振りをした。眉を寄せて口をへの字に曲げている。これは太田君が考え込むときの仕草だ。
太田君はセクハラ好きだが、何だかんだと言って女の子に弱いのだ。あとは、太田君のプライドを刺激しないように顔を立ててあげれば……。
「明、俺達も助太刀するぜ」
今まで遠巻きに様子を見ていた男子数名が黒羽班に加わった。
これを機会に、クラスの女子からポイントを稼ぎたいらしい。
これで太田君も後に引けなくなった。
もはや僕の説得も太田君には通じない。
そうこうする内に、藤枝神社で白黒をつけることになった。
事態は最悪の方向に向かっていた。それでも僕が藤枝神社まで付いていったのは、何とか暴力的な決着を避けたかったからだ。
そして太田班の一員と間違われた僕は、黒羽さんに倒された。平和を望む僕の願いは潰(つい)えた。こんなことなら五雷君みたいに、さっさと避難しておけば良かった。
五雷君というのは、クラス一の秀才だ。頭が良すぎて、ときどき何を考えているのか分からなくなるが、クラスのみんなから一目置かれている。
黒羽班、太田班両陣営から軍師として招き入れようとされたのだが、五雷君はあっさりと断った。
いわく『そんなことには興味が無い』のだそうだ。
「きゃぁ!」
僕の回想は、唐突に途切れた。
女の子の悲鳴が聞こえたかと思うと、何かの破裂音が聞こえた。
夏の抜けるような青空の下、一筋のロケット花火が白い煙を上げて飛んでいるのが目に入った。
「なんだぁ?」
僕の口から、素っ頓狂(とんきょう)な声が漏れた。
辺りを見回してみると、太田班の面々がロケット花火に火を点けているところだった。
「みんな逃げろ!」
黒羽さんの声が境内に響いた。続いて、ロケット花火の風切音が辺りに聞こえ始めた。
「うわぁ!」
「いやぁあ!」
花火は地面に落ちると、破裂音と共に火花を周囲に散らした。
「どうだ黒羽、恐れいったか!」
顔に青たんを作った太田君が、腕を組んで勝ち誇った顔をしている。
このままでは敗北と悟った太田君は、人に向けてロケット花火を打つという禁じ手に踏み切ってしまったのだ。
「泣いて謝るなら、今のうちだぞ」
太田君はそう言うと、地面に置いてあった一際大きい花火に手を伸ばした。『驚異三十連発』という物騒なラベルが貼られた花火だ。ポケットから百円ライターを取り出すと、太田君が導火線に点火しようとしたところで、黒羽さんが動いた。
「これでもくらえ!」
黒羽さんが太田君に投げつけた物は爆竹だ。
太田君の足元から、耳をつんざくような破裂音がした。
「おわぁ。黒羽、危ねぇぞ」
自分のことは棚に上げて、黒羽さんを責める太田君。だが、それで怯(ひる)む黒羽さんではない。
「それはこっちの科白(せりふ)だ。これだけはしたくなかったが、仕方がない。自分がしたことを思い知れ」
黒羽さんの掛け声とともに、体制を立て直した黒羽班から無数の爆竹が投げられた。
爆撃される太田班。
逃げ惑う、哀れな犠牲者達。
境内は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷(ちまた)と化した。
黒羽さん、これはやりすぎ……。
「く、黒羽。そこまでやるか、そこまで憎いか。ちきしょう」
追い詰められた太田君は、三十連発花火に火を点けた。だがそのとき、太田君の近くで爆竹が破裂した。
「うぉ」
驚いた太田君は、地面に設置していた花火を蹴っ飛ばし、花火が転がった。そして花火は神社の本殿の方に向かって止まると、三十発に及ぶ火柱を上げたのだった……。
こうして、忘れたくても忘れられない小学生最後の夏休みが幕を上げた。
「神というのも、案外暇なものね」
神社の本殿の中、床で寝ころびながら、私は欠伸(あくび)を噛み殺した。
私は神様だ。正確に言えば、藤枝佐久夜姫(ふじえださくやひめ)という名前の女神様だ。藤枝神社で祭られているし、年に一度は私に感謝を捧げる祭が開かれている。昔は年に二回だったんだけど、昨今の不況のせいで、今は年に一回だ。神様の生活も人間の都合に左右されるらしい。
することがないので、私は長い間眠っている。ここ数年、神社に願いごとをする人間も少なくなった。少なくなったというか、御利益があるという有名神社に参拝客を盗られたという感じだ。以前、宮司がなんとかしてくれと祈っている姿を見たが、神頼みをする前に、もっと広報活動に努めてほしい。人間の心をどうこうすることは、神でもままならないのだ。私ほどになれば、できなくはないが……。
まどろみにも似た眠りの中で、うとうとしていると遠くに子供達の歓声が聞こえた。神社の境内で子供が遊んでいるのだろう。珍しい。携帯ゲーム機の普及に伴い、外で遊ぶ子供なんてものは死滅したと思っていたのだが、そうでもないらしい。
(平和だ)
私もこの国に来て丸くなった。天竺(てんじく)や唐にいた頃は、平和なんて退屈だと思っていたが、今はこの平和が続いてくれればいいと感じる。日の本の国にきてから、千年近い月日が流れた。のんきなこの国の人間に、私もすっかり感化されたらしい。あとは、和菓子と玉露があれば幸せだ。紅茶と洋菓子でもいい。誰か供えたりしないだろうか。宮司では気が付かないだろうな。今度枕元に、人気スイーツショップを特集した雑誌でも置いておこうか。
(気の利いたことをしてくれれば、願いを聞いてやらんこともない)
茶器にもこだわりたいところだ――と思っていたら、私の側で何かが弾ける音がした。
一気に目が覚めた。
辺りを見回すと本殿の入り口に掛けられた御簾(みす)の隙間から、火柱が飛んでくるのが目に入った。
「な、何。火事!」
火柱は本殿の床に当たると、弾けた。辺りに火の粉が散る。火柱は続いて、一つ二つ……。数えきれないほど飛んできた!
「わー、火矢だ火矢だ。敵襲だ」
寝込みを襲われたのは、数百年振り。私に喧嘩を売るとはいい度胸だ。私を怒らせた愚かな者達に天罰を下さねばなるまい。
これも神の勤め!
「どこのどいつか知らないけど、末代まで後悔させてあげるわ!」
私が叫ぶと、私の周りで嵐のような風が吹き荒れた。
神の力、神通力(じんつうりき)だ。
「天誅(てんちゅう)!」
あー、やってしまった。
僕は天を仰いだ。
ど、どうしよう。
神社が燃えてしまう。
「み、水だ。とにかく燃えないようにしないと」
今も火柱を出し続けている花火に、水をかけなければ!
このままでは取り返しのつかないことになってしまう!
確か神社の入り口に手を洗う所があったはずだ。
鳥居の横に、屋根付きの手洗い場があることを僕は覚えていた。
僕はあたふたと神社の入り口まで来ると、石造りの手洗い場の前に立った。石をくり貫いて作った大きな洗面台に、龍の形をした置物が取り付けられている。龍の口からは止めどなく水が流れており、洗面台には水が溜まっている。
この洗面台は手水舎(てみずしゃ)と言うらしい。
「バ、バケツはどこだ!」
水が確保できると思ったら、今度は水を汲む物が無いことに気が付いた。手水舎には手洗い用の柄杓(ひしゃく)しか置いていない。
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
辺りを見回しても、バケツの代わりになるような物はない。
「とりあえず、柄杓に水を汲んで……」
焼石に水かもしれないけど、何もしないよりはいいだろう――と思っていたら、突如として耳をつんざくような雷鳴が聞こえた。
ぎょっとして空をみると、つい先程まで晴れ渡っていた空が、暗くなっている。暗雲が立ち込め、今にも雨が降りそうな感じだ。
「もしかして、今流行(はやり)の異常気象?」
天変地異という言葉が浮かんだが、その先は考えられなかった。
空がピカッと光ると、雷鳴とともに土砂降りの雨が降ってきたからだ。
「え、何が起こったんだ」
「きゃー」
境内の中では、事態の変化についていけないクラスメイトが右往左往している。
だが雨のおかげで、花火の火はすぐに消えた。
僕は手水舎の所にいたおかげで、雨に濡れずに済んだ。おかげで、辺りを見回す余裕があった。
盛大に降った雨は、一部が蒸発したのか霧のように辺りを白く煙らせた。
「ど、どうなるんだろう」
この雨は、何か悪いことが起こる前兆のような気がして、僕は落着かなかった。
「あれは……なんだ?」
雨が作った白いカーテンの向こう側に、何かが光るのが見えた。
「あれって本殿の中だよね」
本殿の入り口にかかっている簾(すだれ)のような物が風で一瞬めくれた。薄暗い本殿の中に、金色に光る物が見える。
なんだろうと思っていたら――なぜか猫の瞳を連想した。
学校の帰りに、給食のパンを野良猫にあげたことを思い出す。確か野良猫の瞳をのぞき込んだら、瞳が光って見えたんだ。
「あ、目が合った」
そう思ったのも束の間、簾のような物を持ち上げた風は止み、本殿の入り口は閉ざされ中は見えなくなった。
「なんだよ。台風のときでも、こんなに降らねぇぞ!」
境内を逃げ惑っている太田君が叫んだ。
そして、耳が痛くなるほど降っていた豪雨が――唐突に止んだ。
「へ?」
太田君がポカンと空を眺めている。
「え?」
僕も驚いた。思わず間抜けな声が出る。
水道の蛇口を閉めるときのように、勢いよく降っていた雨が急に止んだのだ。
空を見ると、みるみる雨雲が散っていくのが見える。
こんなの生まれて初めてだ。
「なんだったんだろう」
クラスメイトの誰かが言ったけど、それはみんなの心の声だ。
「ありえないよね」
話好きな女子が騒ぎだし、我に返った男子数名がくしゃみをした。
「うへぇ、パンツの中までびしょ濡れだ」
「寒い、早く熱い風呂に入りたい」
雨に濡れたら、みんなの頭も冷えたという感じだ。
これ以上、クラスメイト同士で戦う気にはなれそうもない。
かくして『六年三組ガキ大将決定戦』の結末はうやむやとなり、集まったクラスメイト達は一人また一人と三々五々に帰っていくことになった。
「黒羽、今日のところは引き分けということにしておいてやる。次に会うときまで首を洗って待っているんだな」
太田君は負け惜しみを言い、黒羽さんに潰されていた。
「次に会ったときと言わずに、さっさと片付けようじゃないか」
黒羽さんの右手が太田君の顎(あご)を捉えた。
地面に転がった太田君に黒羽さんは一瞥(いちべつ)をくれると、颯爽と帰っていった。
「太田君、喧嘩(けんか)を売る相手は考えた方がいいと思うよ」
今度こんなことが起こったら、僕も五雷君みたいに逃げに回るからね。
「うるせぇ!」
太田君は大の字で伸びたまま吠(ほ)えた。
この元気があれば大丈夫だろう。
六年三組を二分した、一大抗争劇はひとまず沈静化した。
だが、これでめでたし、めでたしとはいかないと僕は半ば確信のようなものを感じていた。
本殿の中に見えた光る目が、頭の中でちらちらとよぎる。
何かの見間違いかもしれないけれど、あれは神様が僕達を睨(にら)んでいたような気がするんだ。
(お前達がしたことは、ちゃーんと見ているぞ)
考えすぎかな。
神社の本殿は、何事も無かったように静まり返っているが、筋は通しておこうと思う。
僕は本殿の前に行くと、賽銭箱(さいせんばこ)に小銭を入れ、上から垂れ下がっている紐(ひも)を引っ張った。
紐の先に付いた鈴が音を立てる。
(神様、本殿に花火を撃ち込んでごめんなさい。クラスのみんなも、こんなことになるとは思わなかったんです。どうか許してください)
僕は本殿の前で頭を下げると、家への帰り道についた。
これでいいよね。
鳥居の横に立っている神社の案内には、藤枝神社の藤枝佐久夜姫は、動物を愛する心優しい女神様だと書かれていたしね。
なんでも、この辺り一帯の野生動物は、藤枝佐久夜姫の使いらしい。
「大丈夫、大丈夫」
僕は気持ちを切り替えると、明日からの夏休みに思いをはせた。
楽しい夏休みにしよう。
楽しい――はずの夏休みが始まった。
「逃げろおぉぉお!」
太田君の絶叫が、辺りに響いた。
神様は許してくれなかったらしい。
家族で海に来ていた太田君は、なぜか猪の大群に追われていた。
なぜか僕まで、一緒に追われていた。
猪の鳴き声が背中の向こうから聞こえる。
何を言っているのか分からないが、興奮しているのがはっきりと伝わる。
怖くて振り返れないが、三十匹くらいの猪がアスファルトの地面を暴走していることは分かった。
結局のところ、太田君は戌亥さんを誘うことはできなかった。
太田君を振った戌亥さんは、黒羽さんと山にキャンプへ行っている。
戌亥さんは賢明な判断をしたんだと心の底から思う。
僕は黒羽さんから誘われなかったので、代わりに太田君とつるむことにしたのだが、これが新たな災厄の始まりだった!
傷心の太田君に誘われて海に来たのは今朝のことだ。
海で一泳ぎをして、喉が渇いたからジュースを買いに行こうと国道に出たのは、ついさっきのことだ。
動物の鳴き声が聞こえて振り向いたのは三十秒くらい前のことだ。
「なに、猪?」
僕と一緒にいた太田君が、猪の群れを見つけてポカンとしたのが十秒くらい前で、猪の集団が鼻息荒く太田君に向かって来たのが三秒前だ!
「うわぁああ」
太田君は半泣きだ。
僕も泣きそうだ。
僕と太田君が猪に踏みつぶされて死ぬ姿が、頭にまざまざと浮かんだ。
生まれてこのかた、ここまで死の恐怖というもの感じたことはなかった。
保育園の頃に車にひかれそうになったときでも、ここまで怖くはなかった。
足を無茶苦茶に動かしながら、僕は神に祈った。
(神様助けてください。普段の行いが悪いというなら、心を入れ替えます。親の言うこともよく聞くし、休みの日はボランティアにも参加します)
自分でも何の神様に祈っているのか分からないが、とにかく祈った。
祈りに祈った。
「そんなことをしてもらっても嬉しくないわよ」
天に通じた?
耳元に、鈴のように澄んだ女の人の声が聞こえた。
姿は見えない。
「許してほしかったら、そうね――神前に神饌(しんせん)を供えなさい。中身はまかせるけど、変な物を供えたら、ただじゃすまないわよ」
「分かりました。誠心誠意させていただくので、どうか助けて!」
そのとき、石につまづいて太田君が転んだ。
太田君の方を振り向いたら、僕も足がもつれて転倒した。
万事休す。
僕は両手で頭を抱えると、猪の足音が恐るべき速さで近づいてくるのを感じた。
恐怖のあまり、意識が飛びそうだ。
来た。
僕は、猪の足音と鳴き声に包まれた。
地響きを思わせる猪の足音が、僕の横でしている。
「ひゃーっ」
よく分からない叫び声が、自分ののどから出た。
人生の終わりを思わせる恐怖の時間が続いた。
やがて、自分の周りから猪の気配が完全に消えたことを確認してから、僕は恐る恐る顔を上げた。
太田君も地面にうずくまっている。
怪我(けが)をした様子はないし、無事なようだ。
遠くに、猪の走る姿が見える。
猪の群れは、僕と太田君の横を通り過ぎると、そのまま道路の向こうまで走り去ったのだ。
死ぬかと思った……。
「貴志、無事か?」
太田君が、間の抜けた声を掛けてきた。
「な、なんとかね。幸いどこも怪我はしなかったし、助かった」
僕はアスファルトの地面にペタンと尻餅をついた。
なんとなく空を見上げる。
澄んだ青い空に、入道雲が映える。
ああ、生きているって素晴らしい。
「ねぇ、太田君。神様って信じるかい」
僕の呟きに、太田君が首をかしげた。
「はぁ?」
僕と太田君は藤枝神社に来ていた。
辺り一帯で鳴いている蝉の声がうるさい。
朱塗りの鳥居の向こうは、境内へと続く長い参道が伸びていた。
参道の両脇に鬱蒼(うっそう)と茂る鎮守の森は、昼間でも薄暗く、何かが潜んでいそうだった。
僕の手にはケーキの箱がぶら下がっている。太田君は、大福の入った菓子折りを持っていた。どちらも、地元では有名な菓子店のものだ。値段は高かったが、背に腹は代えられない。
辞書で調べたら、神饌とは神様に捧げる食べ物のことだと分かったからだ。
「なぁ、貴志。本当に、神様の祟り(たたり)なのか」
ここまで来ていて、太田君には迷いがある。
だが、太田君が信じきれないのも無理はない。
僕だって、自分の耳で聞いていなければ信じてはいないだろう。
「猪に追われているとき、僕は女の人の声を聞いたんだよ。あれは幻聴じゃない。どう考えても藤枝佐久夜姫だ。それ以外に説明がつかない」
僕はここに来るまでに、猪に追われているときに聞いた声のことを太田君に説明していた。
最初は信じようとしなかった太田君も、海からの帰りに猪の鳴き声を聞いて、考えを改めた。
海から車で帰る途中、僕達を見つめる一頭の猪が見えたのだ。
道路の脇で僕達の方を見ていた猪は、車が横を通り過ぎるときに一声鳴いた。
(見張っているぞ。忘れるな)
そう感じさせるのに十分な出来事だった。
「でもよ、いくら本殿に花火を撃ち込んだからって、女神様が猪をけしかけたりするのか? おまけに、お詫びの品を自分からせびるなんて、やってることが極道みたいだぜ」
太田君の言葉に、物思いにふけっていた僕は我に返った。
「僕もそう思うんだけど、五雷君に意見を聞きにいったら、藤枝佐久夜姫のことを色々教えてくれてね。藤枝佐久夜姫は、心優しい女神様――というのは、ここ数十年の間に言われ出したことで、元々は、性質(たち)の悪い祟(たた)り神だったらしい」
五雷君は、六年三組の中で最も優れた頭脳の持ち主だ。テストでは、常に全教科でほぼ満点を取っている。加えて、その知識はマンガ、アニメ、芸能から社会、経済、政治……と幅広く、学校の先生でもかなわない。
クラスのみんなも、本当に困ったことがあったときは、担任の冴内先生ではなく五雷君に相談している。僕もその一人だ。
冴内先生も授業でうまくいかなかったときは、五雷君にアドバイスをもらっているというのは、ここだけの話だ。
「五雷か、あいつが言うんだったら、そうなんだろう」
太田君は五雷君の名前を聞くや、あっさりと納得したようだ。
僕のときとは、えらい違いだ。
「五雷君いわく、藤枝佐久夜姫が歴史の表舞台に出てくるのは戦国時代。当時はこの辺り一帯を荒らし回り、誰も手が付けられなかったみたい。藤枝佐久夜姫が祟り神と呼ばれたのは、そのことが理由だね」
太田君も興味深そうに、僕の話を聞いている。
「それが変わったのは、戦国時代も終わり近くなってから。当時は柳原安兵衛(やなぎはらやすべえ)という豪族が藤枝佐久夜姫の縄張り近くに城を構えていたんだ。この人は武士なんだけど戦(いくさ)が弱くてね。隣国から攻められ、落城寸前まで追い詰められたんだ。もはや城を枕に討死にというときに藤枝佐久夜姫が城に現われ、正式に土地の神として祀る(まつる)ことを条件に、柳原安兵衛を破滅の淵から救った――はずが、今度は多額の布施(ふせ)を藤枝佐久夜姫から強要され、柳原家は戦国時代、その後の江戸時代を通して貧乏だったということなんだ」
僕の話を聞き終えると、太田君は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、うめくように言った。
「救いの神だと思ったら、ヤクザの親分だった。おまけに、尻の毛までむしられたというわけか」
柳原安兵衛には、あんまりと言えばあんまりな結果なんだけど、一族滅亡よりはましだったのかな?
僕には分からない。
「そんな訳だから、藤枝佐久夜姫に捧げ物をして、ご機嫌を取らないとね」
そうこうする内に、本殿の前へと到着した。
木製のがっしりした賽銭箱(さいせんばこ)と軒下から吊るされた真鍮(しんちゅう)製の鈴が目に入る。
僕と太田君は、神妙な面持ちで用意したお菓子を供えた。
賽銭箱に小銭を入れると、鈴に付いている紐を振る。パンパンと手を叩いてから、手を合わせた。
無言のまま、祈りの気持ちを込める。
言いつけ通り神饌を持ってきました。どうか、これで許して下さい。お願いします。
……。
伝わったかな?
本殿から藤枝佐久夜姫の声が聞こえないかと、耳を澄ませてみる。
(キーッ)
辺りに、何かが擦れるような高い音がした。
何だ、藤枝佐久夜姫からの新たなメッセージなのか!
思わず本殿の方に目がいってしまう。
「おい、ここで何をしているんだ?」
しかし、聞き覚えのある声がしたのは背後からだった。
「ひゃあ!」
僕は、その場から飛び退くと賽銭箱の陰に隠れた。
逃げ遅れた太田君は一瞬ギクリとした。しかし謎の来訪者が見知った顔だと気付くと、ほっと息をついた。
「なんだ黒羽か。おどかすなよ」
僕達に声を掛けたのは、マウンテンバイクに跨(またが)った黒羽さんだった。
Tシャツに短パンというラフな格好で、頭には野球帽を被っている。
さっきの音は、自転車のブレーキ音だったらしい。
「驚いたのは、こっちの方だ。青葉、隠れていないで出てこい。声を掛けただけで、そんな反応をされると傷つくぞ」
僕は、賽銭箱の陰からもじもじと出てくると、黒羽さんの前に出た。
さすがに、これは恥ずかしいな。
同級生の女の子に、みっともないところを見せてしまった。
黒羽さんなら、他の人には言わないとは思うけど。
黒羽さんは、マウンテンバイクをその場に留めると、僕と太田君の前までやって来た。
「いったいお前達は、ここで何をしているんだ。やけに熱心に祈っていたが、どうしたんだ。べつだん信心深い訳でもないんだろう」
怪訝(けげん)な顔をする黒羽さんに、僕と太田君は顔を見合わせた。
どう話したものか?
「神様を怒らせたら、ひどい目にあってな。詫(わ)びを入れにきたのさ。そういうお前の方は、何ともなかったのかよ」
黒羽さんもここにいるということは、黒羽さんも猪に襲われたのだろうか?
「何のことを言っているのか分からないが、私の方は特に変わったことはない。ここへは夏休みの課題で来たんだ」
そういえば夏休みの宿題に、地元の歴史を調べてレポートを書くというのがあった。
「そうか、なら関係ねぇな。こっちは猪の群れに追いかけ回されたのに、黒羽の方は何にもなしか」
やれやれ神様も不公平だと言いたげに、太田君は肩をすくめた。
「うん、猪の群れ? 猿の群れではないのか」
黒羽さんは何かを思い出したのか、妙なことを漏らした。
猿の群れ……?
僕は黒羽さんの話に、がぜん、興味がわいた。
「黒羽さん、その話をもっと詳しく教えて」
僕が勢い込んで尋ねると、一瞬驚いてから黒羽さんは話し始めた。
「大したことではないが――戌亥と私が、山へキャンプに行ったのは知っているな。実は、そこで猿の群れと出くわしたんだ」
それは恐らく、藤枝佐久夜姫の使いだ。
「荷物や食料を漁(あさ)ろうとするので困ったことになったが、父の知り合いに、その手のことに強い人がいてな。猿達を撃退してもらった」
何でもないことのように黒羽さんは語るが、それって物凄いことなんじゃないだろうか。神の使いを退けるなんて。
「黒羽さん、お父さんには霊能者か何かの知り合いがいるの」
僕の頭には、テレビの特番で見た山伏姿の霊能者が浮かんだ。
「何を言っているんだ? そんな訳ないだろう」
いぶかしそうな黒羽さんの顔を見るに、僕の予想とは全く違うらしい。
黒羽さんは両手で何かを構える仕草をすると、答えを教えてくれた。
「父が呼んだのは『猟友会の会長』だ」
黒羽さんがしていたのは、ライフルを構える真似だった。
「以前から、猿達は畑を荒らしたり人間に物を投げたりとするので、猟友会には駆除の依頼が来ていたらしい。だから、連絡をしたら直ぐに対処してくれた。おかげでキャンプの間、再び猿達が現れることは無かった」
黒羽さんは、狙いを付けると引き金を引く動作をした。
僕の頭の中で、血生臭い光景が繰り広げられた。
どこかの山の中、ライフルを構えた猟師達が、猿の群れに向かって発砲している。
轟(とどろ)く銃声、辺りには猿の悲鳴が響いた。
猿達は必死で逃げるが、一匹、また一匹と地面に倒れる。
血だまりの中、恨めし気な目で虚空(こくう)を見つめる猿の姿が、僕の目に浮かんだ。
……あんまりだ。
「何も殺すことはないじゃないか」
僕の悲痛な声に、黒羽さんがたじろいだ。
「刃向う奴は皆殺しか、やることがえぐいな」
太田君も、どん引きしている。
「お前達、ちょっと待て。何か誤解しているだろ!」
黒羽さんが怒鳴り返した。
「誤解も何も、猟師の人達を呼んで山狩りをした挙句、猿達を一匹残らず殺し尽したということだよね」
何ということを!
藤枝佐久夜姫の神罰が下るぞ!
「そんなことするか、空砲を一発撃ってもらっただけだ」
あれ、そうなの?
僕はてっきり……。
「一体私を何だと思っているんだ! いい加減にしろ!」
黒羽さんの気迫に押された僕は、すっかり冷静になった。
「それじゃあ、猿達は死んでいないんだね」
「当たり前だ。空砲に驚いた猿達は、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げていった。ただそれだけのことだ」
良かった。
思い描いていた地獄絵図は杞憂(きゆう)に終わった。
やれやれ、これで一安心。
ほっとしている僕に、むすっとした表情の黒羽さんは、口をとがらせた。
「まったく、青葉はそそっかしいんだ。すぐに勘違いをする上に、思い込みが強いから、いつも空回りするんだ。この前だって、冴内先生が妹さんと町を歩いていたら、それを見かけた青葉が勘違いをして、冴内先生が不倫しているとクラスで騒ぎを起こしただろ」
冴内先生から、昼ドラの見過ぎだと怒られた件のことだ。
「他にも、修学旅行が中止になるというガセ情報を信じた結果、クラスのみんなを煽(あお)ってプチ学級崩壊を起こしたよな」
我ながら、あれはやってしまったと思う。
「加えて……」
「黒羽さんストップ、もう、この辺でかんべんして」
これ以上、自分の忌まわしい過去を突っつかないでほしい。
「まぁ、いいだろう。ところで、さっき言っていた猪の群れというのは何なんだ? 私の方だけ話すというのは、フェアじゃないだろう」
僕をいじめて機嫌を直したのか、黒羽さんは、すっきりとした表情をしている。
藤枝佐久夜姫のことは、黒羽さんも知っておいた方がいい。
僕は意を決すると、口を開いた。
「黒羽さん。僕と太田君は、猪に襲われたんだ。信じられないかもしれないけど、これは藤枝佐久夜姫の祟(たた)りなんだ」
僕は、藤枝佐久夜姫から御詫びの品をせびられたことを話した。
僕の話を黒羽さんは冷静に聞いていたが、最後に感想を漏らした。
「映画かアニメの見過ぎなんじゃないか?」
まるっきり信じていない!
黒羽さんは、僕のことを憐れむような目で見ている。
黒羽さんの中で、僕に対する信頼は欠片(かけら)も無いらしい。
「青葉、祟りなんて非科学的じゃないか」
ちょっと待って、そんなことを言われても困る。
太田君も黙ってないで、何か言って!
「貴志、こいつはこうなると、何を言ってもダメだ。UFOとか幽霊といった超常現象の類(たぐい)を全く信じていないんだ」
太田君は、あきらめ顔だ。
「それに、私は恥ずべきことは何もしていない。故に、恐れる必要はない」
そう言って爽(さわ)やかに笑う黒羽さん。
怖いもの知らずって、黒羽さんの為にある言葉だと思った。
「もし何かが起こっても、返り討ちだ」
大河ドラマに出てくる戦国武将のようなことを言う。
「では、またな」
黒羽さんは本殿近くに留めてあったマウンテンバイクに跨り、風のように去っていった。
これがマウンテンバイクではなく、白馬だったら正に若武者だろう。
「太田君、黒羽さんて剛毅(ごうき)な人だね」
「やっと分かったか、あいつには不屈の魂が宿っているんだ」
黒羽さんなら、何が起こっても大丈夫かもしれない……。
藤枝佐久夜姫も突き方を間違えたら、自分の使いを滅ぼされたりして。
なんか気が抜けた。
「どうする、帰るか」
「そうだね。でもその前に――」
おみくじを引くことにする。
社務所の所に、おみくじを出す箱があったはずだ。
僕と太田君は、社務所の前まで移動した。
社務所は年末年始と祭のときを除けば無人だ。
辺りは閑散としている。
『おみくじ』と書かれた朱塗りの木箱は、すぐに見つかった。
財布から百円玉を取り出すと、木箱に空いた投入口に入れた。カタンという音がして木箱の下から、おみくじが出てくる。
僕は中吉、太田君は小吉だ。
「よし、これで大丈夫だ」
僕はガッツポーズを取ると、小躍りした。
これで神の怒りは解けた。
もう、安心だ。
やったやったと太田君と喜んでいたから、このときは気が付いていなかったんだ。
他の六年三組のみんなにも危機が迫っていることを。
黒羽さんの話を聞いた時点で察するべきだった。
藤枝佐久夜姫は、六年三組の全員に対して、落とし前をつけようとしている可能性を。
(まだまだ念が足りぬ)
気持ちが舞い上がっていた僕は、この声が聞こえなかった。
五雷君から電話がかかってきたのは、藤枝神社から家へ帰ってきて、のんびりしていたときだった。
僕は昼ごはんのソーメンを食べて、自分の勉強部屋で漫画を読んでいた。
「貴志、五雷君から電話よ」
母さんが、電話の子機を持って勉強部屋にやって来た。
おかしいな? 五雷君は僕の電話番号は知らないはずなのに。
個人情報保護がうるさいので、家の電話番号は、同じクラスメイトでも原則知らない。
「そうそう、今日の晩御飯はすき焼きよ。近江牛が特売していたの」
るんるん気分の母さんは、そのことに気付いていない。
鼻歌交じりに受話器を渡すと、スキップでもしそうな様子で台所に帰っていった。
食べることが好きな母さんは青葉早苗(あおばさなえ)、三十二歳。丸顔でぽっちゃりしていて、趣味は食べ歩きという人だ。
悪い人ではないんだけど、どこか抜けているんだよなぁ。
「もしもし青葉だけど」
気を取り直して、受話器を耳に当てる。
「青葉君か、急な話で申し訳ないんだが、三十分以内に僕の家まで来てほしい」
本当に急だ。
五雷君は、常に理知的に行動する。だから、そうするだけの必要があるのだろう。
「詳しいことは、こちらで話すから、今は黙って指示に従ってほしい」
僕が同意すると、電話は切られた。
うーん、何だろう?
「母さん。五雷君の所まで、ちょっと行ってくるね」
夕飯までには帰ってくるようにと念を押されてから、僕は家を出た。
自転車をこぎながら、五雷君の家を目指す。
僕は五雷君の家を知っていた。
五雷君から家に招かれたことはないけど、クラスでは『個性的な家』として有名だからだ。
五雷君の家は、小高い丘に建てられた大きなお寺だ。それも普通のお寺ではない。山城の跡地を利用して建てられたとかで、外敵を防ぐ深い空堀と高い塀を備えている。加えて、寺の正門に行くまでには、曲りくねった坂道を上らなければならず、大軍が攻めてきたときに守りやすいように造られている。まさに要塞。
大願寺(たいがんじ)というのが正式な名前だが、『大願寺城』(たいがんじじょう)とでも言うべきたたずまいだ。
どう考えても、戦うことを前提にして建てられている。
この寺を建てた人は、一体何を考えていたんだろう……。
クラスの中でも、百姓一揆の拠点になっていたんだとか、現政府と戦うつもりなんだと物騒な噂があるが、五雷君に聞いても笑ってごまかすだけで分からない。
そんなことを考えている内に、大願寺の麓(ふもと)に到着した。
目の前には、砂利を敷かれた坂道が続いている。
僕は自転車から降りると、自転車に鍵を掛けて坂を上り始めた。
目指す正門までは、直線距離にすれば四階建てのビルくらいの高さがある。
麓と正門の間には坂道しかないが、その坂道は途中で蛇行(だこう)していて、わざと遠回りしないといけない代物だ。
正門から麓まで石段を付ければ、もっと楽に行けるはずなのだが、そうはなっていないことが恨めしい。
坂を上りきったときには、軽い運動をした後のように汗をかいていた。
空堀に掛かった橋の向こうに、三メートル近い高さの正門が見える。
木造の橋を渡ると、老朽化が進んでいるのか、ギシッと木がきしむ音がした。
「何だ、あれ?」
正門の扉は開かれていたけれど、胸の高さくらいの柵が、正門の内側に設置されていた。
金属製のワイヤーが数本、支柱と支柱の間に渡されているだけの簡単なものだ。
ワイヤーとワイヤーの隙間は大きく、やろうと思えば隙間から体を入れることもできるだろう。支柱も細くて、頼りない。防犯用としては、ほとんど意味がないものだと思った。
柵の一角が開閉式になっていたので、そこから寺の境内に入る。
さて、どこへ行けばいいのかと思っていたら、視界の隅に小柄な人影が目に入った。
「戌亥さん、どうしてここに? もしかして、戌亥さんも五雷君に呼ばれたの」
境内の隅で所在無げにしていたのは、白いワンピースを着た戌亥さんだった。
天然パーマのかかった栗色の髪は、頭の左右でリボンに結ばれ、つばの広い麦わら帽子の下から出ている。
ワンピースの白さとあいまって、まさに夏の装いといった感じだ。
「青葉君、こんにちわ。この前は大変だったわね」
礼儀正しく答えた戌亥さんは、僕よりも頭半分だけ背が低い。
大きく円(つぶ)らな瞳で、下の方から見上げられると、子犬に見つめられているような感じだ。
「うん、大変だった。おかげで、あの後もえらい目にあった」
ああ、思い出したくもない。
僕がたそがれていると、戌亥さんは怪訝そうな顔をした。
「青葉君、どんよりしたオーラが全身から出ているよ。一体何が――ううん、やっぱり聞かないでおくね」
僕の様子から不吉なものを感じ取った戌亥さんは、どんな表情をするか逡巡(しゅんじゅん)した後、最後に、にっこり笑った。
「それじゃ、五雷君を探しましょう」
戌亥さんは何事も無かったかのように歩き出した……正門の方向に!
帰っちゃダメだよ、戌亥さん。
冷静にならなきゃ!
僕が戌亥さんを追いかけたところで、聞き慣れた太い声がした。
「お前ら、何やっているんだ?」
正門の柵を開けて入ってきたのは、太田君だった。
手には、何かが入った大きなビニール袋を持っている。
太田君、君まで呼ばれたのか!
五雷君の話というのは、思っていたより重大なものかもしれない。
「戌亥、麦わら帽子が似合っているな。白のワンピースも良い感じだ。そうだ、海にはもう行っちゃったけど、今度は花火大会をするんだ。きっと楽しくなる、戌亥もどうだ」
戌亥さんに気付いた途端、さっそく口説きにかかる太田君。
困った顔の戌亥さん。
どこかで見た光景だ。
終業式が終わった後も、こんなことをしていたな。確か、あのときは結局……。
「太田、お前は本当に懲(こ)りないやつだな」
この声は黒羽さん。
境内の奥から風のように現れたのは、『六年三組の王子様』だった。
「その性根を矯正(きょうせい)してやりたいところだが、今は時間が無い。ついてきてくれ」
その言葉を聞いた戌亥さんは、さっと黒羽さんの横に移動した。
二人は、そのまま仲良く歩き出すと、境内の奥にある本堂へと向かった。
『六年三組の遊び人』は、あっさりとその場に残された。
「相手が悪かったね、太田君」
僕は太田君の肩にポンと手を置いてから、しみじみと呟いた。
「ちっきしょう!」
太田君の叫びは、誰の心にも届かなかった。
黒羽さんに案内されたのは、境内の奥に建てられた本堂だった。
何やら中が騒がしい。
大勢の人が集まっているようだ。
靴を脱いでから、正面に設けられた木製の階段を上がる。
障子(しょうじ)を開けて中にはいると、本堂は見知った顔で埋まっていた。
「みんな、どうしたんだ!」
本堂にいたのは、六年三組のクラスメイト達だった。
見たところ、一人残らず全員いるようだ。
みな、正座や胡坐(あぐら)といった自由な座り方で座布団に座っている。
だが、その様子は一人一人違った。
ある者は思い詰めた顔で畳の目を見ているのに対し、他の者は出された茶菓子を食べて寛(くつろ)いでいるなど、人によって落差が激しい。
これでは何の集まりなのか、さっぱり読めない。
みんな、五雷君が集めたんだろうけど、どうやって集めたんだ?
こんなことをしようと思ったら、冴内先生しか知らないはずの『六年三組緊急連絡網』でも使ったとしか思えない……。
まさかね、違うよね。悪いことはしてないよね。
とりあえず、空いている座布団に座ることにする。
座る途中で、赤色のランプが壁に取り付けられているのが目に入った。
消防用かな?
太田君は僕の隣りに、戌亥さんと黒羽さんは、太田君と充分な距離を取った所に座った。
憐れ、太田君。
「これで全員集まったね」
落着いた声が前の方からした。
僕達が座ったことを確認した人物は、自分の座布団から立ち上がった。
銀縁眼鏡(ぎんぶちめがね)に、切れ長の瞳。顔は細く、髪は男なのにサラサラ。常に冷静で、余裕のある物腰を忘れない男。それがクラス一の切れ者、五雷繁(ごらいしげる)君だ。
五雷君は、本堂の正面に安置されている御本尊の前まで移動すると、僕達の方を見回した。
「クラスのみんな、急な呼び出しで申し訳ない。だが、六年三組のメンバーに危機が迫っている。いや、すでに一部のメンバーには被害が出ていて、ことは一刻を争う事態なんだ」
やけに大袈裟(おおげさ)なことを言うなと、この時点では思っていた。
だが、それは甘かったとすぐに知るはめになる。
五雷君は本堂の隅に行くと、荷物にかけてあった白布をめくった。
「これを見てくれ。これは佐藤君と橘君の自転車だ」
ぐちゃぐちゃに変形した自転車が二台、板の上に置かれていた。
交通事故にでも遭ったのか!
「佐藤君と橘君は、猪の群れに襲われたんだ」
あっ!
もしかして、クラスのみんなも藤枝佐久夜姫の襲撃を受けたのか!
「幸い、二人に怪我はなかったけど、これとよく似たことは至る所で起こっている! まだ被害を受けていない者も、これからどうなるか分からない!」
茶菓子をパクつきながら聞いていたクラスの面々も、改まった顔になった。
「佐藤君、橘君。他にも心当たりがある者は、どんなことが起こったのか、みんなに話してくれ」
五雷君の要請に、十名くらいの人間が立ち上がった。その中には、佐藤君と橘君も含まれている。
彼らは大きく息を吸い込むと、口を開いた。
「俺達は狙われている!」
「このままだと、みんな死ぬぞ!」
「何で、こんなことになったんだぁ!」
意味不明な絶叫(ぜっきょう)が、この後三十分近く続いた……。
三十分にわたるパニック劇場の結果、事態は落着こうとしていた。
本堂のあちこちで、絶叫者達を慰める言葉が聞こえる。
「せいしゅくに、せいしゅくに」
「落着け、落着け」
「これでも飲んで」
叫びまくって落着いたのか、出されたお茶をすする音がする。
これなら、大丈夫そうだ。
良かった、一時はどうなるかと思った。
切れ切れに聞こえてきた話を総合すると、藤枝佐久夜姫に――正確には、その使いに襲われた人間がクラス内に多数いることは確実だ。
みな、本当に死ぬんじゃないかという目にあったらしい。
僕や太田君のときと同様だ。
未だ危機に直面していないクラスメイトも、ただならぬものを感じて神妙にしている。
かくして、クラスの安全保障会議が始まった。
「野生動物の大群に襲われるという、普段では有りえない事件が頻発(ひんぱつ)しているけど、これらの事件には共通点がある」
五雷君が司会となって、会議が進む。
「青葉君、太田君。悪いんだけど説明してくれ」
いきなり話を振られた。
そんな、突然!
「二人には、この不可解な事件の真相が分かっているはずだ」
クラスメイトの視線が一斉に僕と太田君に集まった。
うわ、凄いプレッシャーだ。
改まって、みんなの前で発表するというのは苦手だ。
「思っていることを素直に言ってくれるだけでいい」
五雷君の言葉に、僕は腹をくくって立ち上がった。
「一連の事件は、藤枝神社に祭られている藤枝佐久夜姫が起こした祟りなんだ! 僕達が神社で暴れたことを怒っているんだよ!」
素直に言った。本当に思っていることだけ言った。
しーん。
あれ?
「はははは、祟りだってよ」
「冗談きついぜ」
「青葉らしいよ」
笑われた、クラス中で爆笑の渦(うず)だ。
笑わなかったのは、五雷君と黒羽さん。それに太田君だけだ。
「黒羽のときも、こんな感じだっただろ。学習しろよ」
やれやれといった感じの太田君。
太田君、それはないんじゃない。
君が何となく嫌そうにしていたから、代わりに話したのに!
あんまりだ!
僕がぷるぷるとしていると、意外な声が掛かった。
「そう、今起こっている事件は祟りなんだ」
五雷君だ。
爆笑が止まった。
クラスの視線が、今度は五雷君の所に集まる。
「藤枝佐久夜姫は実在する。そして何らかの手を打たない限り、怖い思いをする人は無くならないだろう」
五雷君に気負ったところは無い。
ただ事実を淡々と述べているという感じだ。
クラスのみんなは顔を見合わせている。
そんな中で自分の意見をはっきりと表したのは、黒羽さんだった。
「そんなことを言うが、私には祟りというものが信じられない。加えて、何も心にやましいことがないのに、何を恐れるというんだ」
真っ直ぐな黒羽さんの視線に、五雷君は少しだけ笑った。
「黒羽さんみたいに、道理の分かる相手だったら良かったんだけどね」
五雷君は心底残念そうに言うと、厳しい表情になった。
壁に付けられたランプが赤く点灯している。
「本当はもっと話したいんだけど、そうも言ってられなくなったみたいだ」
五雷君が言い終わるのと同時に、本堂にブザー音が鳴り響いた。
火事か!
僕が慌てていると、五雷君は本堂の入り口に向かって走り出した。そして入り口の障子を左右に開け放つと怒鳴った。
「侵入者だ!」
遠目に正門が見える。
茶色い何かが正門を潜って、境内に入ろうとしていた。
「あれは鹿だな」
両目の視力が二点ゼロな太田君が断言した。
「うん? 五匹以上いるぞ。ありゃ、強引に柵を破るつもりだな」
もしかしなくても、あれは藤枝佐久夜姫の使い!
六年三組のみんなが集まっていることをいいことに、まとめてお礼参りをするつもりなのか。
どうする、どうする。
柵は簡単な造りだったから、すぐに破られるぞ!
そうだ、バリケートだ。
「手伝って太田君、長机でバリケートを作るぞ」
僕は、本堂の隅に積まれていた折り畳み式の長机に気が付いた。
太田君を引っ張って連れて来ると、二人で長机を運び出す。
「貴志、ちょっと待て。あわてて行くな」
太田君の非難はもっともだけど、今は構っている暇がない。
「ごめん、だけど今だけは許して」
そんなことをしている内にも、鹿は柵に向かっている。
鹿の群れは柵に向かって突進すると――悲鳴を上げた!
え、悲鳴?
その後も、別の鹿が柵に体当たりをするが、その度に悲鳴を上げていた。
「言ってなかったけど、あの柵には電流が流れるんだ。さっきスイッチを入れておいた」
五雷君が、さらっと恐ろしいことを言った。
「電流といっても大したものじゃない。あれは獣害対策用の電気柵を改造したもので、触ってもビリッとくるだけさ」
そんなの、寺の入り口に置かないでよ。
電気が流れているときに、誤って人が触ったらどうするのさ……。
やがて鹿達は諦めたのか引き返していった。
「正門を閉めよう、これから籠城(ろうじょう)戦だ」
五雷君の号令の下、門は閉ざされた。
なんだか分からない内に、藤枝佐久夜姫と全面戦争をする展開になってしまった。
僕達は無事に帰れるのだろうか。
「机はそこに置いて、ホワイトボードはこっちへ」
五雷君の指示に従いながら、僕と太田君は本堂で荷物を運んでいた。
鹿の襲撃を受けてから、五雷君の行動は早かった。
非常用の乾パンや飲料水を寺の倉庫から出すと、籠城の準備を始めた。
他にも、懐中電灯やカセットコンロ、双眼鏡に非常用発電機、消火器、ヘルメット、ホイッスル……と、役に立つのか役に立たないのかよく分からない物を、倉庫からクラスの男子を使って引っ張り出した。
クラスの面々も、なんとなく流される形で五雷君の指示に従っている。
「ペットボトルのお茶は、まだ開けないように。お菓子は机の上に、それは食べちゃだめだよ。この紙は、ここに貼って」
『藤枝佐久夜姫対策本部』と毛筆で書かれた紙を柱に貼りつけて、作業は終わった。
本堂の正面にはホワイトボードが置かれ、その横には五雷君が立っている。
六年三組のメンバーは、五雷君を取り巻く形で座っていた。
「さっきの鹿は偵察(ていさつ)に来ただけだ。これから本格的な攻撃が来ると見た方がいい。今の内に、今後の段取りを決めておくよ」
五雷君は決然と言っているが、周りはなんと言うか緊張感が無い。
事態の推移についていけないからだ。
事情を知っている僕や太田君でさえ、急な展開で目を白黒させたくらいだ。
周りのみんなに至っては、頭に? マークが付いているみたいだ。
「五雷、本当にそうなのか?」
今まで黙っていた黒羽さんが、疑問の声を上げた。
「間違いない。藤枝佐久夜姫は、これであきらめるような相手じゃない」
自信満々の五雷君。対する黒羽さんは、眉根を寄せた。
「クラスメイトを標的として、獣による襲撃事件が起こっているのは確かなようだ。仮に、誰かがそれを仕組んでいるとしよう。だが、それが藤枝佐久夜姫なのか?」
黒羽さんの意見に同意するように、戌亥さんを始めとするクラスの女子が頷(うなず)いた。
「その通り。クラスのみんなも信じていないようだけど、藤枝佐久夜姫と名乗る何者かは藤枝神社に住んでいる。この相手は自称神様で、獣を操る力を持ち、山賊の女親分みたいな性格をしている」
藤枝佐久夜姫が聞いたら、怒るだろうな……。
僕には否定できないけど。
それにしても、五雷君はどうしてこうも断言できるんだろう?
「見てきたようなことを言うんだな」
黒羽さんが呆れたように言うと、五雷君は渋い顔をした。
「まぁね。それに近いことはしたよ」
そうなのか!
五雷君の交友関係は、どこまで広いんだ!
遠くの方を見つめる五雷君の背中には、哀愁(あいしゅう)が漂っていた。
誰も知らない所で苦労してるんだな、きっと。
このことには、これ以上触れてはいけないみたいだ。
なんとなく妙な間ができた。
「藤枝佐久夜姫には、みんなでごめんなさいをしたら、いいんじゃない?」
この隙に、自分の意見を言ってしまおう。
「僕と太田君は、藤枝神社にお供え物をしたよ。多分、これで僕と太田君は許してもらえたと思う。みんなも、そうすればいいんだ」
平和的な解決には、これが一番だろう。
これでいいよね?
「悪いが、それは却下だ」
黒羽さんに一蹴(いっしゅう)された!
「自分に落ち度がないのに謝るというのは、おかしい。それに神社の本殿に花火を撃ち込んだ太田がすでに謝っている。私達が神社で暴れたことで怒っているのなら、それで手打ちのはずだ。その上、さらなる謝罪なり金品を強要するというのは、公平じゃない。これはヤクザが因縁をつけて、搾(しぼ)れるだけ搾ろうとしているのと同じだ」
完璧な理屈だ。
ここまで的確に事態を言い当てるとは!
黒羽さん、将来は弁護士になれるんじゃない。
「そりゃそうだけど、他に方法が……」
僕には、これ以上のアイデアは浮かばない。
何か良い考えはないかと五雷君の方を見る。
「戦うしかない」
五雷君が言い切った。
「だよな」
今まで黙っていた太田君が同意した。
えぇぇえー。
「何、考えているの。相手は神様だよ。敵うわけないじゃないか!」
これは止めないと、本当に血の雨が降るぞ!
はやまっちゃダメだ。
「貴志。こういうのは、放っておくと際限なくたかられるんだ。白黒はっきりつけるぞ」
もっともらしいことを言う太田君。
男子の一部から、拍手が起こる。
ど、どうしたんだ。
太田君は何か悪い物でも食べたんだろうか。
「だから戌亥、これが解決したらデートしてくれ」
戌亥さんに、格好(かっこう)をつけたいだけじゃないか!
真面目に考えてよ、太田君!
「デート云々(うんぬん)はさておき、太田君が言っていることは正しい。過去の記録を見ても、藤枝佐久夜姫に因縁を付けられた相手は、例外なくたかられ続けている」
五雷君は、壁際に立っている書棚から何冊かのノートを取り出した。
それを広げてみせる。
そこには、新聞記事の切り抜きとおぼしき物がべたべたと貼られていた。
「昭和五十六年、酔っ払いが藤枝神社の灯篭(とうろう)を倒す」
「平成元年、タバコのポイ捨てが原因で、宝物庫で小火(ぼや)騒ぎ」
「平成十三年、暴走運転をしていた車が鳥居に激突。幸い、死傷者は無し」
これら以外にも、五雷君は藤枝神社で起こった数々の事件を読み上げていった。
どれも藤枝佐久夜姫が怒りそうなものばかりだ。
「これらの事件が起こした人間は、神社に多額の布施をしている。加えて神社の氏子でもないのに、祭の手伝いや清掃活動を行うなど、何年にもわたって奉仕活動をしている」
……いきなり信仰心に目覚めたわけじゃないよね。
五雷君は、ノートに挟まれていた『藤枝神社通信 第二十一号』というのを取り出した。
「これは藤枝神社の宮司さんが発行している会報だ。表紙に、集合写真が載っているだろ。こことそこ、それにこっちの人が、事件を起こした人だ」
二十人くらいの集団の中で、周囲の人と明らかに雰囲気が違う人が三人いた。
はっきり言って暗い。
目が死んでいる。
虚(うつ)ろ顔をして、生気が感じられない。
俺の人生終わったと無言で主張しているようだ。
「宮司さんに確認したところ、これらの三人は事件を起こした当日から、毎晩金縛りに苦しんだみたいだ。神社に寄付をしたところ、金縛りは解けたそうなんだが、今度は祭や大晦日(おおみそか)の時期になると、差出人不明の葉書が届けられたそうだ」
その葉書の写真を五雷君が取り出した。
『人手が足りない。藤枝神社に至急来い!』
差出人の名前は無い。達筆な毛筆でそれだけ書かれていた。
字は細いが力強い筆使いで、有無を言わせない妙な迫力があった。
怖くて葉書の指示を無視すると、悪夢に苛(さいな)まれたらしい。
なので、結局は神社に来るはめになったという。
気の毒な話だ。
「人の良い宮司さんは、藤枝佐久夜姫が行っている悪行を知らない。神社に寄進があるたびに神の加護だと思っているくらいだ。このままでは、僕達もこき使われることになる。自由を得るためには、戦うしかないんだ!」
五雷君の呼びかけに、周囲がどよめいた。
今までの話に、危機感を煽(あお)られたようだ。
僕はどうしようか。うーん、選択肢は無いんだろうな……。
悲壮な覚悟を決めるかどうか迷っていると、五雷君が気になることを言った。
「青葉君、対抗手段はある」
さすがは五雷君!
ぜひ、詳しく教えてくれ!
「五雷君、それはいったい……」
僕の質問は、最後まで言えなかった。
本堂の電気が、いきなり消えたからだ。
「なんだ、停電か?」
太田君が、のんきなことを言っている。
違う、そうじゃない!
僕は、不吉な予感に震えていた。
来た、来てしまった。
遠くから、猪の鳴き声が聞こえる。
これは一頭や二頭じゃない……。
「本隊が来てしまったようだね」
五雷君がニヒルに笑った。
うわー、こっちは準備ができてないよ。
もしかして時間切れでゲームオーバー?
「電気を止めたか。これで電気柵を封じたつもりだね」
五雷君が、危機的な状況を淡々と解説してくれる。
これで、正門を破られたらしまいだ……。
「そうだ、非常用の発電機!」
あれがあったんだ!
これで電気柵が復活だ。
発電機は、台車に載って本堂前の境内に置いてある。
「とにかく見に行こう」
見に行くのは怖いけど、ここでじっとしていると、色々考えてもっと怖い!
僕の呼びかけに、野次馬根性を刺激されたクラスの男子が答えた。
「え、何が始まるの」
「猪がいるのか」
「ちょっと見に行こうぜ!」
なんかうきうきとしている!
祭にでも行く前みたいだ。
「……本堂の裏手に、梯子(はしご)があるから持ってきてくれ」
五雷君は、緊張感に欠けるクラスメイトに指示を出すと、正門の方に向かった。
僕は境内に下りると、発電機が載った台車を押そうとした。
だが、思うように進まない。
「玉砂利が邪魔だ!」
境内に敷かれた玉砂利に阻まれた。
おかげで台車のタイヤが空回り……。
「なにやってるんだ、貸してみろ」
見かねた太田君が僕から台車を奪うと、あっさりと台車は動き出した。
こういうときに自分の体がもっと大きければと、つくづく思う。
僕が正門の前に到着すると、ステンレス製の梯子が正門横の塀に立て掛けられるところだった。
クラスの男性陣は、運んできた梯子を設置すると、不安と興奮が混じった顔で正門の方を見つめていた。
正門の向こう側から、興奮した猪達の鳴き声が聞こえてくる。
猪が正門に体当たりをしているのだろう。
正門がぎしぎしときしんでいる。
さらにどこからか、みりみりと不吉な音がしている。
五雷君は、太田君から発電機を受け取るとスイッチを入れた。
発電機はカチッと音がしたが動かない。
調子が悪いようだ。
この非常時に!
「門が破られるまで、もう間もなくか。発電機が動くまでの間、青葉君、時間を稼いでくれ」
なぜ、僕が!
無茶振りもいいとこだ!
自慢じゃないが、体育の成績は最悪に近い。
跳び箱も逆上がりもダメ。
この僕に、どうしろというんだ!
「君が適任なんだ。青葉君、これを使ってくれ」
五雷君が差し出したのは、一本の消火器だ。
寺の倉庫から、非常用発電機と一緒に出したっけ。
「防災訓練のときに、青葉君は消火器を使っただろ」
確かにそうだった。
夏休み前に行われた防災訓練で、僕はクラスを代表して消火の実演をした。
学校の校庭で、火事に見立てた焚き火を消火器で消すというものだ。
熾烈(しれつ)なじゃんけん合戦の末に、僕はその権利を得たのだった。
五雷君が言う通り、僕が行うのが一番良いだろう
「はい、ヘルメット。梯子の上から猪の鼻先に噴射してくれ」
渡されたプラスチック製のヘルメットを被ると、気合を入れた。
「よし、やるぞ!」
僕は腹を決めると梯子を上り始めた。
梯子を上りきったところで、下にいる五雷君から消火器を受け取る。
下を見下ろすと、空堀に掛かった橋の上に、茶色い絨毯(じゅうたん)のようなものが見えた。
猪の大群だ!
正門の前に集まった猪は、隙間が見えないほど密集していた。
絨毯のように見えたのは、そのためだ。
三十頭はいるだろう、木製の橋が重さに耐えられずに悲鳴を上げていた。
さきほど聞いたみりみりという音は、この橋からしていたのか。
頭がくらくらしそうな光景だ。
「貴志、びびったか~」
太田君が間延びした声を出した。
はっ!
「そんな訳あるか!」
太田君に怒鳴り返す。
そのまま、消火器を構えようとしたところで、はたと気が付いた。
「誰か後ろから支えて! このままだと後ろに落ちる」
左手で消火器を支え、右手でホースを握ると、両手が梯子から離れてしまう。
このまま消火器を吹くと、反動で真っ逆さまだ!
「私が行こう」
そう言ってくれたのは、様子を見に来ていた黒羽さんだ。
黒羽さんは梯子をするすると上ると、僕の腋(わき)の下に手を入れて梯子につかまった。
黒羽さんが僕の後ろから抱き付く格好だ。
なんか恥ずかしい……。
顔が赤くなるのを感じる。
僕も男の子なんだけど、黒羽さんは気にしていないのかな?
「どうした青葉、どこか痛むのか?」
もじもじしている僕に、普段と変わらぬ黒羽さんの声が届いた。
どうやら、黒羽さんは僕を男と思っていないらしい。
……がくっ。
「何でもないよ」
なるべく黒羽さんのことを意識しないようにしながら、ぎくしゃくとした動作で消火器を構える。
消火器のグリップを握ると、ノズルの先からピンク色の煙が噴き出した。
そのままノズルを先頭にいた猪の顔に向ける。
猪から一際高い鳴き声が上がった。
その猪は煙から逃げようと暴れたが、周りにも猪がいるので動けない。
それでも動こうとするので、周りの猪もつられて暴れ出した。
群れのあちこちから高い鳴き声が聞こえ始める。
足踏みする音が激しくなり、地響きのようだ。
何かが壊れるバキバキという音が……。
あれ?
この音は何!
確かめようとしたが、目の前がピンク色の煙で見えなくなった。
その間にも、バキバキという音は激しくなり、続いて猪の悲鳴が聞こえた。
最後は、重たい物が崩れる音が辺りに響いた。
え、何が起こったの?
猪達の悲しげな鳴き声だけが続いている。
そうこうする内に、煙が風に流されて徐々に晴れていった。
「橋が崩れているぞ」
僕の後ろから様子を見ていた黒羽さんが、驚きの声を上げた。
僕も驚いた。
腰を抜かして梯子から落ちなかったのは、黒羽さんがいてくれたおかげだ。
さっきまで掛かっていた橋が今はバラバラになり、空堀の底に残骸(ざんがい)が落ちている。
橋の崩壊に巻き込まれた猪達も空堀の底だ。
脚は動いているので生きているみたいだけど、よく分からない。
「ひとまず下りるぞ」
黒羽さんに促されて、僕は梯子を下りた。
あー、びっくりした。
足元がふらふらしているよ。
深呼吸をしていると、五雷君がやって来た。
「橋が落ちたんだね」
五雷君に動揺は無かった。
妙に落ち着いているのは、なぜだろう?
「老朽化していた橋が、猪の重さに耐えられなかったんだ。建て替えを予定していたから、手間が省けた」
さばさばと話す五雷君は、最後に薄く笑った。
思いのほか、うまくいった。
してやったりという感じの笑い方だ。
こうなることも、想定内だったのか。
藤枝佐久夜姫より、五雷君を敵に回す方が怖いかもしれない……。
身震いしつつ、頭に浮かんだ怖い考えを振り払う。
「ところで五雷君、お父さんやお母さんはどうしたの? さっきから姿が見えないけど?」
これだけの騒ぎが起こっているのだから、様子を見に来ていいはずだ。
「ああ、家族は用事があって留守にしているんだ。今日は戻ってこないよ」
帰ってきたら、驚くだろうな。
橋が無くなっているけど、五雷君はどう説明するんだろう。
僕だったら家出をしているとこだ。
僕の心配をよそに五雷君は涼しい顔をしている。
「心配はいらないよ、なんとかするさ」
僕の不安に気付いたのか、五雷君は軽い感じで答えた。
本当になんとかしそうだ。
五雷君なら、大人を舌先三寸で丸め込むことなど造作もないだろう。
進む道を間違えたら、天才的な詐欺師(さぎし)になるかもしれない。
寺の息子だし、ゆくゆくは自分を生き仏と仰ぐカルト教団を組織して――五雷君ならできそうだ。
「青葉君は何を考えているのかな」
五雷君の瞳が、眼鏡の奥で光った。
鋭い。
テレビのドラマで見た警察官も、こんな目をしていた。
カツ丼でも出てきそうな雰囲気だ。
「なんでもないよ。それより、これからどうするの」
これで終わり――じゃないよね。
「打って出るしかない。決戦は藤枝神社だ」
五雷君は力強く言うと、集まっていたクラスメイトを見渡した。
「これから作戦を伝える。みんな、よく聞いてくれ」
こうして、六年三組の自由を賭けた一大反攻作戦が開始された。
「異常は無いか?」
太田君が見張りの交代にやって来た。
僕は梯子の上で、双眼鏡を片手に正門の周囲を警戒していた。
直射日光を浴び続けるのは辛いので、梯子の上には白い日傘がくくり付けられていた。
「今のところはね」
太田君が来たということは、交代時間の三時三十分になったということだ。
昼の暑さもましになり、僕は額に浮かんだ汗を手で拭った。
流れる風は肌に心地よく、いつもならスイカでも食べたい気分だ。
だが、橋の残骸が平和な空気を裏切っていた。
空堀に落ちた猪達はいない。
大きな怪我をしなかったのか、自力で堀から抜け出したらしい。
堀に誤って落ちた人を助けるため、堀が浅くなっている所があると五雷君が言っていたから、そこから逃げたんだろう。
「お茶だ。飲め」
僕は地面に下りると、太田君が持ってきたペットボトルのお茶をぐびぐび飲んだ。
「ありがとう、生き返る」
『大願寺籠城戦』は、新たな局面を迎えていた。
五雷君の言葉を思い出す。
(援軍が来ない状況での籠城戦は、やがて兵糧が尽き殲滅される。この事態を打開するには、相手の本陣に斬り込み大将を抑えなければならない)
五雷君は六年三組のメンバーに事態を説明すると――桶狭間の戦いと同じだねとまとめた。
そこは誰も突っ込まなかった。
五雷君は、何事も無かったかのように次の話題に移った。
今にして思えば、あれは五雷君なりに場を和ませようとしていたのかもしれない。
乗ってあげれば良かったかな?
そんなことを思いつつ、お茶を飲み干したところで胸騒ぎを感じた。
微かにだけど、動物の鳴き声がする!
「何かが来たよ、太田君」
僕は梯子を上ると、坂道を上ってくる毛玉が見えた。
その数、二十あまり。
慌てて双眼鏡を構えた。
「今度は、猿の群れか!」
双眼鏡に写ったのは、赤い顔をした猿達だ。
見られていることに気付いたのか、猿達は歯を剥きだしにして威嚇(いかく)を始めた。
きーきーと、耳障りな声を上げる。
「敵襲、敵襲」
僕は太田君に声を掛けると、ホイッスルを吹いた。
これは体育の時間に使う笛に似てるけど、より遠くまで音が響く物だ。
ピーと高い音が、境内にこだました。
その間に猿達は空堀の淵まで来ると、一カ所に集まった。
橋を支えていた柱が一本、空堀の壁にもたれかかるように倒れている所だ。
猿達は柱に飛びつくと、そのまま橋の残骸を伝って空堀に下りだした。
「うん、まずいんじゃない!」
消火器は、もう無いぞ。
作戦決行までには、まだ時間がかかる。
なんとかして、それまで保たせないと!
僕が戦々恐々としていると、黒羽さんがやって来た。
「……猿か!」
勘のいい黒羽さんは、猿の鳴き声を聞いただけで全てを察したようだ。
黒羽さんは難しい顔をすると、はっと顔を上げた。
何かを思いついたらしい。
「太田、ちょっと本堂まで行って来い」
急に呼ばれた太田君は、珍しく黒羽さんの指示に従った。
「分かったよ。で、何をすればいいんだ?」
黒羽さんが言うことを、太田君が素直に聞いている……。
クラスでは、まず見られない光景だ。
けんかばかりしているが、太田君も黒羽さんのことは認めているみたいだ。
黒羽さんから指示を受けた太田君が、本堂へ走って行った。
「上ってきたよ!」
空堀に下りた猿達は、そのまま正門側の土壁に取り付くと、そのまま強引によじ登り始めた。
壁にできた、わずかな窪みを足掛かりにしているみたい。
人間にはできない、猿だからできる芸当だ。
「あ、滑った」
空堀の土壁から塀へと変わった所で、一匹の猿が落ちた。
大願寺を囲んでいる塀は、漆喰で造られている分厚い物だ。
加えて表面に全くと言っていい程凹凸が無く、つるんとしている。
「また落ちた」
だから塀をよじ登ろうとすると、猿でも苦労することになる!
正に、鉄壁の守りだ。
「おぉ、素晴らしい」
塀に上ろうとしては、次々と空堀に落ちていく猿達を見ながら、僕は手を叩きそうになった。
「あ、危ない。僕まで落ちるところだった」
梯子から、手を離してしまうとは……。
僕も猿のことは笑えない。
「青葉、もしかしてだけど、今落ちそうになった?」
こっちを見ている黒羽さんと目が合う。
しばらくの間があってから、黒羽さんは視線を逸らした。
気まずい。
無言の気遣いが辛かった。
「黒羽、持って来たぞ」
居心地の悪い空気を破ったのは、太田君だ。
「本当に、こんなのでいいのか?」
太田君は、黒羽さんに紙でできた箱を見せた。
あれは何だろう?
僕は確認することはできなかった。
すぐ近くで猿の声がしたからだ!
「え」
見下ろすと、一匹の猿が塀をよじ登っているところだった。
その猿は周囲の猿より一回りは大きい。目つきは悪く、あごが突き出ていて凶悪な顔つきをしている。ボス猿という言葉がぴったりだ。
「つかまる所も無いのに、どうやって」
よく見てみると、塀に指をめり込ませるようにして登っている。
んな、バカな……。
どんな握力をしているんだ!
「わわわ」
ボス猿は、そのまま塀を上りきると、顔を塀の上に出した。
僕とは目と鼻の先だ。
僕の方を見てニヤリと笑ったかと思うと、手を突き出して……。
「ぎゃぁああぁ!」
僕は全力で梯子を下りようとした。
だが、間に合わない。
「落ちろ!」
黒羽さんの気合がこもった声がした。
猿の手が、もうちょっとで届くというところで、何かが僕の頭の上を通り過ぎ、猿の顔面に命中した。
「きぃいぃー!」
驚いたボス猿は、そのままバランスを崩し、ズルズルと下に落ちていった。
……助かった。
黒羽さんの方を見ると、野球選手のピッチャーように何かを投げ終えた姿をしていた。
ありがとう、黒羽さん。
黒羽さんは、続けて何かを塀の向こう側へ投げた。
一回、二回、三回……。
黒羽さんが投げた物が、空堀に落ちるたびに、猿達がその周囲に集まる。
一匹の猿が拾うと、嬉しそうな鳴き声を上げた――と思ったら、別の猿が奪い取った!
盗られた猿は怒ったのか、鋭い声で威嚇(いかく)するが奪った猿は意に介さない。
あ、最初の猿が横取りした猿を殴った。
今度は、殴られた猿が殴り返したぞ。
つかみ合いの喧嘩に発展したところで、猿の手から何かが落ちる。
そこへ、漁夫の利を狙った第三の猿が現れると、かっさらった。
「きー! きー!」
不満を爆発させた二頭の猿は、三匹目の猿に襲い掛かった。
他にも、傍で様子を窺っていた四匹目と五匹目の猿が、争奪戦に加わり……どんどん混乱が拡大していく。
今や、猿の群れは内乱状態だ。
当初の目的を完全に忘れている。
塀から落ちたボス猿が立ち直って、周囲の猿に怒っているが相手にされていない。
どさくさに紛れて、自分も奪おうとしているからだ。
――行動が、どことなく太田君に似ている気がする。
こうして、藤枝佐久夜姫の猿強襲部隊は自滅した。
それにしても、黒羽さんは何を放り込んだだろう?
双眼鏡で、猿達が取り合っている物を確認してみると――それは和菓子だった!
「和菓子? 和菓子を取り合っているの?」
想像の斜め上をいく答えだったので、思わず連呼してしまった。
黒羽さんの方を見ると、清々しい顔をしている。
自分の仕事をやり遂げ、結果に満足しているスポーツ選手のようだ。
「猿は、やはり猿だ。欲望を刺激してやれば、すぐに統制がきかなくなる。私がキャンプをしているときに現われたときも、食糧に対する執着が尋常ではなかったからな。読みが当たった」
黒羽さんが太田君に持ってこさせたのは、和菓子の詰め合わせだった。
太田君が持っている紙箱には『二羽』と書かれている。
地元で有名な老舗(しにせ)和菓子店の名前だ。
「勝利の後にたべると、格別にうまいな」
黒羽さんは、箱に残っていた和菓子を口に入れた。
「俺にもよこせ」
太田君も手を伸ばした。
せっかくなので、僕もいただくことにする。
「太田君、僕にもちょうだい」
太田君から、和菓子を受け取る。
僕が手にしたのは、豆餅だ。
上品な甘さと適度な塩味が合っていて、うまい。
思わず、顔がほころぶ。
「それにしても、うまくいったな」
太田君が二つ目の和菓子を食べながら、黒羽さんに感心したように言った。
「猟友会の会長に聞いたんだが、今年は餌になる食糧が少ないらしくてな。猿達も生きるのに必死なんだろう」
え?
僕の眼下では、猿達が少ない食糧を未だ奪い合っている。
「ふーん、そうか。で、もう残っていないのか」
食い意地の張った太田君は、残っていた和菓子をあらかた食べてしまった。
「寺には、こういった贈り物が多いらしい。本堂に行けば、いくらでもあるぞ」
太田君と黒羽さんは、鬼気迫る猿達を直接見ていないので、どこかのんきな調子だ。
「悪いけど、もう一個ちょうだい」
太田君に渡されたのは、最後まで残っていた最中(もなか)だ。
僕は最中を受け取ると、猿達の中に投げた。
なぜか、そうしたい気分だった。
猿達が内輪もめでボロボロになり、ほうほうのていで引き上げたことを確認してから、僕達は本堂へと向かった。
もうすぐ作戦決行の時間だ。
見張りは、もう必要ない。
クラスのみんなは、すでに秘密の抜け道から大願寺の外にいる。
大願寺に残っているのは、僕と太田君、黒羽さんに五雷君だ。
戌亥さんは、黒羽さんが残るなら私も残ると言ったのだが、黒羽さんの説得により納得してもらうことができた。
その結果、何かを決意したらしい戌亥さんは、クラスメイトに檄(げき)を飛ばし、極秘任務達成に向けて動いている。
最後に見た戌亥さんは、小柄な体から強烈な気迫を周囲に放っていた。
人は見かけによらないとは、このことだ。
大願寺に残ったメンバーの使命は、藤枝佐久夜姫の注意を引き付け、先に脱出したクラスのみんなが行動できるように時間を稼ぐことだった。
正直に言って危険が伴う仕事だ。
残るべきメンバーは、志願者制となった。
五雷君や黒羽さんは、当然のことのように名乗り出た。
それに、クラスの女子にもてたいと考えている太田君が続いた。
僕は迷ったけど、結局残った。
――黒羽さんのことが気になったからだ。
こういうと僕が黒羽さんに惚れているみたいだが、それは違う、違う。
梯子で黒羽さんに支えてもらったとき、黒羽さんは女の子だと意識してしまったからだ。
黒羽さんは、大変しっかりした人だけど――女の子。
女の子を残していくのも、男が廃(すた)るというか、なんというか。
「僕は太田君とは違うんだからね!」
思わず一人突っ込みをしてしまった。
「貴志、頭でも打ったのか?」
太田君に、ものすごく変な顔をされた。
黒羽さんからは、きょとんとした目で見られた。
「何でもない、何でもないよ」
僕はあわてると、二人を促した。
「さ、時間が無いんだし、急いで本堂に行くよ」
僕達は駆け足になった。
本堂に入ると、懐中電灯を持った五雷君が、天井裏から下りるところだった。
天井の一角に穴が開いていて、梯子がかけられている。
五雷君は穴を板でふさぐと床に下りた。
いったい、何をやっていたんだ?
「青葉君、その様子だとうまくいったみたいだね。念のために、奥の手を用意していたけど、この分だと使わなくてもいいみたいだね」
本堂は見たところ変わりがない。
だが、上の方から、ぎちぎちという正体不明の音がした。
「あの五雷君、この音は何なのかな?」
不安を煽る音は直ぐに止んだが、天井裏に何かが潜んでいるんじゃないか? という怖い想像が頭をよぎった。
「この寺が山城の跡地に建てられたというのは聞いたことがあると思う。だが、それは正確じゃない。跡地ではなくて、山城の建物を改装したのが、今の大願寺なんだ。この音は、山城だったときの名残なのさ」
五雷君はそこで僕達を見渡すと、芝居がかった動作で眼鏡をクイッと押し上げた。
「青葉君には、柳原安兵衛のことは話したよね。実は安兵衛の居城が、大願寺の元になった山城なんだ。ここには、柳原家数百年にわたる怨念が籠っているんだよ」
そうきたか!
天井裏には、柳原家の怨霊でも住んでいるというのか!
「その柳原家も、明治維新のときに所領を召し上げられ完全に没落。残った居城も売りに出す羽目になり、それを僕の先祖が買い取ったんだ。僕が藤枝佐久夜姫のことに詳しいのは、柳原家の末裔(まつえい)が僕の先祖に教えてくれたからなんだ」
柳原家の人は、どこまでも運が無いんだな……かわいそうに。
「柳原家は、こうして藤枝佐久夜姫の呪縛から解放された。藤枝佐久夜姫の脅威を知った五雷家は、その動向に注意するようになった」
壮大な話になってきたな。どこまで根が深いんだ、この問題。
眩暈(めまい)がしそう。
「柳原安兵衛というのは、私は初耳だ。悪いが、教えてもらえないか」
そうか、黒羽さんは知らなかったね。
興味深そうな顔をしている黒羽さんに、僕は答えた。
「柳原安兵衛というのは戦国時代の武士なんだ。その居城は――僕も今知ったんだけど、現在の大願寺が建っている所にあった。そこへ隣国から攻撃があり、落城寸前のところへ藤枝佐久夜姫が現れ――」
(ズドォオン!)
僕は最後まで言えなかった。
なぜなら、何かが吹き飛ぶ轟音(ごうおん)が聞こえたからだ!
音がした方を見ると、何かがこっちへ飛んでくる!
それは本堂前の地面に激突すると、バラバラになった。
破片をよく見ると、それは正門の扉だったらしいことが分かった……。
「ついに来たか」
なぜか、不敵に笑う五雷君。
「そのようだ」
何が来たのか察したらしく、厳しい目で境内を見つめる黒羽さん。
「まだ、何かあるのか」
げんなりした感じの太田君。
「もしかして、藤枝佐久夜姫!」
最悪の展開に戦慄(せんりつ)する僕。
ラスボスが向こうからやって来たのか!
これは想定外だぞ。
魔王はラストダンジョンで待ち構えているものだろうに!
こちらは、軍師、王子、遊び人(勇者?)、町人A(僕)しかいない。
ど、どうにかなるのか。
僕の心配を余所(よそ)に、恐怖の大王は姿を現した。
まず目に入ったのは雪のように白い髪、それから金色に光る瞳だ。
それだけは、遠目からも分かった。
ぶち破った正門を潜り、しずしずと境内に入ってくる。
橋も無いのに、どうやって渡ってきたんだろう? と思っていたら、足元が地面から浮いていることに気が付いた!
「うそ!」
のどの奥から驚きの声が出た。
首にかけていた双眼鏡で、慌てて姿を確認する。
背はスラリと高く、百七十センチはあるだろう。
艶(つや)やかな髪は、腰まで届いている。
細い眉は柳のように綺麗な線を描いている。
形の良い鼻はツンと高く、気が強そうだ。
血色の良い唇は小さく、ぷくっとしている。
顔は卵型、だが引き締まった印象を受けるのは、切れ長の目に力があるからだと思う。
御伽噺(おとぎばなし)に出てくる高貴なお姫様といった顔立ちなのだが、どこか野生的な感じを受ける。
人間だったら、二十歳ぐらいか。
服は白い羽織のような着物と赤い袴(はかま)。
神社の巫女のような服なのだが、服のあちこちには金糸銀糸で豪華な刺繍(ししゅう)がされている。
飾りの付いた金色の簪(かんざし)を頭に刺し、このまま映画に出れそうなほど華やかだ。
歴史ものであれば、はまり役だろう。
だが、麗(うるわ)しい姿に似合わない禍々(まがまが)しい物が右手に握られている。
それは真っ黒な扇だ。
鳥の羽根を集めて作ったとおぼしき、大きな扇。
座布団くらいの大きさはあるだろう。
よく見ると、扇の羽根がざわざわと蠢(うごめ)いているのが分かった。
「ざわざわ?」
見間違いかと思ったところで、藤枝佐久夜姫(多分、そうだ)が扇を横に払った。
その途端、辺りに突風が吹き荒れた。
本堂の障子が軋む。
「これで正門を破ったのか!」
台風のような風を感じる。
小便をちびりそうだ。
あわわわ……。
「奥へ避難するんだ!」
五雷君の声で我に返った。
目指すは本堂の一番奥、御本尊(ごほんぞん)が安置されている所だ。
「わぁーあ!」
全力疾走(しっそう)だ。
僕達が御本尊の裏に飛び込んだところで、障子が吹っ飛んだ!
外れた障子が御本尊の横を飛んでいく。
障子は盛大な音を立てて本堂の壁に当たると床に落ちた。
つ、次は何が起こるんだ。
戦々恐々としながら身構えていたが――何も起こらなかった。
ど、どうしたんだ?
これで終わりってことはないよね。
本堂には静けさが戻った。
だが、これは嵐の前の静けさだ。
何か起こるぞ、起こるぞ……。
「貴志、ちょっと見に行けよ」
不安に耐えられなくなった太田君が、とんでもないことを言い出した!
「いや、太田君こそ」
さぁ勇者になるんだ、太田君。
僕と太田君が譲り合いの精神を発揮していると、黒羽さんの鋭い声が聞こえた。
「静かにしろ! 藤枝佐久夜姫がやって来るぞ」
一気に血の気が引いた。
心臓をわしづかみにされたような気分だ。
目の前が暗くなる。
「青葉君、僕が合図をしたら、そこの紐を思いっきり引っ張ってくれ」
心なしか緊張した面持ちの五雷君は、それだけ言うと御本尊の陰から出ていった。
「ダメだよ、五雷君!」
五雷君の手をつかもうとしたら、黒羽さんに止められた。
「待て、青葉。五雷を信じるんだ。あいつは勝算も無く動くようなやつじゃない」
五雷君の方を見ると、理知的な二つの瞳に見つめ返された。
何もあきらめていない。僕にまかせて――そこには、どんなときも冷静で余裕のある物腰を忘れない、いつもの五雷君がいた。
「分かったよ、五雷君」
ここまできたら、他に選択肢は無い。
やるしかないんだ。
僕は震える手で、近くの天井から伸びている紐を握った。
五雷君が御本尊の前に立つと、辺りに澄んだ声が響いた。
「神への懺悔(ざんげ)は済んだ? 悔い改めても、もう遅いわよ。でも慈悲深い私は、あなた達に選ぶ自由をあげる」
声の主は、姿を現さない。
声も反響して、どこからしているのか、はっきりとしない。
だが近くからだ。
「私が誰だか分かっているわね。私は藤枝佐久夜姫よ」
どこだ、どこにいるんだ。
「一つ、残りの一生を私の奴隷(どれい)として過ごす」
「二つ、心を入れ替えて熱心な信徒となり、藤枝神社繁栄のために奉仕する」
「三つ、藤枝佐久夜姫を崇め敬い、私の命令なら何でも行う」
どれも同じことじゃないか!
お先真っ暗だ!
「答えは、どれもノーだ」
五雷君は、ばっさりと斬捨てた。
「あぁ、そう」
周囲の空気の温度が下がったような気がした……。
「よく聞こえなかったわね!」
突如、本堂の中で暴風が荒れ狂った。
畳という畳が全て捲(めく)れ上がる。
このまま、本堂が倒壊するんじゃないか! と思ったところで、暴風は止んだ。
ほっとしたら膝から力が抜けそうになったが、踏ん張った。
遊園地で絶叫マシンに乗ったときも、こんな感じだった。
だが、今のをもう一度されたら、腰が抜けてしまうことだろう。
風が止み、直立していた畳が倒れ始めると、その向こう側に白い髪が見えた。
本堂の入口に立っているのは、藤枝佐久夜姫だ。
「もう一度だけ言うわ。私を崇めなさい、敬いなさい。そんでもって、絶対服従しなさい!」
何て性質(たち)の悪い脅迫なんだ!
理不尽過ぎて涙が出そう。
「あなたは一体何様のつもりなんだ!」
毅然(きぜん)と言い放ったのは黒羽さんだ。
「神様ですけど何か?」
藤枝佐久夜姫は当然のことだと言わんばかりだ。
こんなひねくれた神様なんて、聞いたことが無い。
これ以上何を言えばいいんだろう?
掛ける言葉が僕には出てこなかった。
「これだけは言わせてもらいます」
五雷君は、落着いた声で話し始めた。
「僕達が抵抗するのは、あなたには神として欠けているものがあるからです。それさえ改善してもらえれば、僕達は喜んであなたに従うでしょう」
五雷君の様子が余りに自然なためか、藤枝佐久夜姫もおとなしく聞いている。
礼儀正しくお辞儀をすると、五雷君は顔を上げた。
それから女神の瞳を見つめて、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。
「それは性格です」
うわ、言っちゃった!
藤枝佐久夜姫の方を見ると、何を言われたのか分からなかったのか、きょとんとしている。それから、徐々に事態を理解し――鬼のような形相になった。
目には見えないが、頭に二本の角が生えているようだ。
「今、何て言った!」
怒りの声が、辺りにビリビリと響いた。
「本当のことです」
火に油を注ぐ五雷君。
「こんなに虚仮(こけ)にされたのは何百年ぶりかしら。あなたは直接、私の手で神罰を下してあげる。そこへなおれ、腹を切れ!」
ずんずんと歩いて近づいてくる藤枝佐久夜姫。
天井があるためか、今は浮いていない。
ついに本堂の真ん中辺りにまで来てしまった。
僕達がいる御本尊の所まで、あと少しだ。
「一つ言い忘れていました」
五雷君が藤枝佐久夜姫の足元を指差した。
「さっきの大風のせいで、蜘蛛(くも)が天井から落ちてきました」
五雷君が示した所には、黒っぽい蜘蛛がもぞもぞしている。
「ほら、あなたの肩のところにもいますよ」
藤枝佐久夜姫の動きが止まった。
慌てて、肩に止まった蜘蛛を払い落とそうとしている。
「青葉君、今だ!」
えいや!
僕は握っていた紐を力いっぱい引っ張った。
天井裏からガタンと音がすると、地響きのような音が始まった。
「え?」
ぎょっとした藤枝佐久夜姫が天井を見上げるが、もう遅い。
落ちてきた天井は、そのまま藤枝佐久夜姫を押し潰すと、床に激突した。
本堂いっぱいに轟音が響くと――埃(ほこり)がもうもうと立ち込めた。
本堂の天井は吊(つ)り天井だった。
僕が引いた紐は、吊り天井のスイッチだったんだ!
「これが奥の手さ。柳原家の人間が、藤枝佐久夜姫に対抗するために用意していた秘密兵器さ」
五雷君が言っていた、柳原家の怨念とはこのことか!
こんな物を造るなんて、どれだけ恨んでいたんだ。
おかげで、助かったけど。
藤枝佐久夜姫はぺしゃんこになってしまったのか?
さすがに、それはいけないことなんじゃないか。
どうしようもない祟り神だけど、命まで奪うことは――。
「おーのーれー」
地の底から響いてくるような怨嗟(えんさ)の声が聞こえた……。
ひょっとして、いやひょっとしなくても。
良くない展開なんだけど、なぜかほっとした。
「こんなことじゃ藤枝佐久夜姫は倒せない。せいぜい時間稼ぎにしかならないんだ」
五雷君の指示は迅速(じんそく)だった。
「だから、今の内に脱出するよ」
僕達は脱兎(だっと)のごとく逃げ出した。
後にした本堂から、重い物を動かす音が聞こえる……。
気になったので後ろを振り返ると、落ちた天井がガタンガタンと動いていた。
持ち上げるつもりなんだろうか。
「貴志、急げ」
太田君に声を掛けられて、僕は意識を切り替えた。
今は大願寺から退避することが先だ。
僕達は境内の隅にある井戸に向かうと、井戸の蓋(ふた)を外した。
この井戸は、実は涸井戸(かれいど)だ。
しかも井戸の底は、寺の外に繋(つな)がる抜け道になっている。
六年三組のみんなも、ここから外へ出て行った。
井戸の淵にかかった縄橋子(なわばしご)を伝い、僕達は井戸の底に立った。
遠くから不吉な声が聞こえる。
「どこだー、どこにいる。おとなしく出てきたら、一瞬で楽にしてあげるわよ。無駄な抵抗は止めて、出ておいで」
怒りのあまり、錯乱(さくらん)しているようだ。
……逃げよう。
僕達は、なるべく音を立てないようにしながら抜け道を進んだ。
さすがと言うべきか、五雷君は懐中電灯を持ってきていた。
おかげで、真っ暗な中を進まずにすんだ。
僕は、何も持ってきていない。
太田君は、大きなビニール袋を手に提げていた。
「太田君、それは何なの?」
確か、大願寺にやって来たときも同じ物を持っていたな。
「へへ、これは俺の切り札さ。みんなを驚かせてやろうと思って持ってきたんだが、こんなことになるなんてな。役に立ちそうだぜ」
誇らしげに笑う太田君。
どんな役に立つんだろう?
――不安だ。
「出口だ」
先頭を歩いていた五雷君が、突き当りの壁の前で止まった。
足元には小さな穴が開いており、外からの光が漏れていた。
どうやら、最後は這(は)い出ないといけないらしい。
外は大丈夫だろうか?
藤枝佐久夜姫が待ち構えているなんてことは――ないと願いたい。
「私が外の様子を見てくる。安全を確認したら声を掛けるから、そのつもりでいてくれ」
黒羽さんはしゃがむと、穴の淵に手を掛けた。
「それなら僕が行くよ」
黒羽さんには、ボス猿に襲われそうになったときに助けられた。
今度は僕の番だろう。
「気持ちだけもらっておく」
黒羽さんは小さく笑った。
そして穴に潜り込むと、すぐに見えなくなる。
残された僕らは無言になった。
大丈夫だよね――。
不安でどきどきしながら待っていると、黒羽さんの声が聞こえた。
「大丈夫だ、来てくれ」
良かった。
五雷君、僕、太田君の順番で穴を潜る。
外に出ると、そこは大願寺が建っている丘の中腹だった。
辺りには胸の高さ位の草が生え、欝蒼(うっそう)としている。
暗い所から急に明るい所に出たので、太陽が眩しい。
目をパチパチとしていると、太田君の情けない声が聞こえた。
「悪い、腰がつかえた。引っ張ってくれ」
太田君が通るには、穴は小さすぎたらしい。
上半身だけが穴の外に出た状態で、太田君はバタバタともがいていた。
僕と黒羽さんで太田君の手をつかむと、穴から引きずり出す。
うん、重い。
食べすぎだよ、太田君。
よいしょっと。
「あぁ、助かった。ありがとよ」
太田君は礼を言うと、パンパンと服に付いた泥を払った。
僕は無駄に疲れた。
「時間が惜しい、すぐに行くぞ」
黒羽さんの掛け声の下、僕達は穴の前から続く獣道を下り始めた。
この獣道は、できて間もない。
踏まれて折れた草が青々としている。
恐らく、先に脱出した六年三組のみんなが草を踏み分けて作ったものなのだろう。
おかげで、麓までは楽に下りることができた。
麓には僕達の自転車が留めてある。
自転車の鍵を外すと、五雷君が決然と言った。
「行こう藤枝神社に!」
僕達は自転車を必死にこぎながら、藤枝神社に向かっていた。
藤枝神社が大願寺に現われたことで、元々の段取りよりも、早く行動しなければならなくなったからだ。
五雷君は自転車をこぎながら、作戦の肝に当たる部分を再確認している。
「柳原家の人間は、藤枝佐久夜姫の奴隷という立場から解放されるために、藤枝佐久夜のことを徹底的に調べたんだ。その結果、有効な対抗手段を見つけた。それは藤枝佐久夜姫の諱(いみな)だ」
「いみなって何?」
僕の疑問に、五雷君の解説講座が始まった。
「いい質問だね、青葉君。諱とは、古くは中国の……」
こうなると五雷君は長い。
「日本では、卑弥呼も諱を持っていたと言われている。皇族や御公家さん、武士なんかも、普段の呼び名とは別に諱があったんだ。さらには――」
さすがは五雷君、歴史の勉強にもなりそうだよ。
気持ちよさそうに話していて悪いんだけど、頭が痛くなるから僕なりにまとめさせてもらうね。
諱というのは魂の名前であり、それを知れば相手の行動を制限できる――というのが、五雷君が言いたいことらしい。
「そうすると、藤枝佐久夜姫というのは偽名なのか?」
黒羽さんが、もっともな疑問を口にした。
「偽名というわけではないよ。藤枝佐久夜姫といのは、藤枝神社の初代宮司が、暴れん坊の女神様に送った名前で、それはそれで正しいんだ。芸能人が使っている芸名みたいなものだね。それとは別に、本名と言うべきものがあるんだ。諱というのは、家族などの極親しい間でしか使われない特別なものなんだ。洋の東西を問わず、相手の本当の名前を知ることで、その相手を呪ったり支配するという信仰が存在する。藤枝佐久夜姫も例外じゃない」
五雷君、よくそこまで調べたね。
本当に感心してしまう。
「ようは、あの女神様をおとなしくさせる魔法の呪文があるってことだろ」
太田君がまとめた。
藤枝神社に到着した頃には、日も傾きかけていた。
西の空が薄くオレンジ色になっている。
暗くなる前に済ませないと、身動きができなくなる。
僕達は自転車で神社の境内に乗り込むと、その場に留めた。
目指すは、藤枝神社の宝物殿だ。
五雷君が言うには、ここに保管されている『初代宮司の日記』に、藤枝佐久夜姫の諱が書かれているそうだ。
五雷君は発行された全ての『藤枝神社通信』を読み込んで、その事実を突き止めたらしい。
「見つけた、こっちだ。でも鍵が掛かっている」
僕は本殿の裏手に木造の倉庫を思わせる建物が建っていることに気が付いた。
入り口に宝物殿という額が掛かっている。
だが、入れない。
どうする、宮司さんに事情を説明しても信じてもらえないだろうし……。
「方法はある、僕に代わって」
五雷君が僕と入れ替わりで入り口の前に立つと、ポケットから精密ドライバーを二本取り出した。
なぜか、その内の一本は、先っぽがL字形に曲がっている。
五雷君は、ドアの鍵穴にドライバーを突き刺すと、がちゃがちゃと動かし始めた。
テレビのサスペンスドラマで見た光景だ。
ドラマの刑事は、ピッキングと呼んでいたと思う。
「五雷君、それはまずいよ!」
はっきり言って犯罪だ。
やっちゃいけないことだ。
「後で元に戻しておくから、大丈夫だよ。今は緊急事態だからね」
それは、そうかもしれないけどさ。
黒羽さんや太田君の方を見ると、二人は既に腹をくくっている感じだ。
ええい、やむをえない。
僕はクラス一の優等生が泥棒まがいのことをしているのを見守った。
五分ほどして、扉が開いた。
五雷君、やけに手際がいいね。
ひょっとして、やり慣れていない?
「旧式の鍵で助かった。思っていたよりセキュリティーが甘かったね。さ、中に入るよ」
深くは考えないでおこう……。
宝物殿の中はひんやりとしていた。
収蔵品を劣化させないために、温度管理が徹底しているらしい。
壁際に付けられた電気のスイッチを入れる。
蛍光灯が点いて、暗かった部屋が明るくなった。
部屋の広さは、学校の教室くらいだ。
入り口と反対側の壁には、窓が一つ。
木製の棚が何列も並べられ、値段の高そうな壺や皿、反物(たんもの)なんかが、ぎっしりと置かれている。
貯め込んだなぁ。
宝物殿という言葉がぴったりだ。
「ここに置いてある物の多くは、柳原家が貢(みつ)がされた物なんだ」
五雷君は、棚に並べられた宝物を物色しながら、部屋の中をグルッと回った。
お目当ての物が見つからないのか、さらにもう一度……。
「うーん、ここにあるはずなんだけどねぇ」
思案顔の五雷君。
僕にも覚えがある。
けんかをして、母さんにマンガ本を全て隠されたときも、こんな感じだった。
こういうときは、意外な所で見つかるものだ。
誰も注意していないような所とか。
そんなことを考えていたら、部屋の隅で平積みにされている本の山が目に入った。
「まさか」
僕の直観がビビッと反応した。
近くで見てみると、積まれていたのは和綴(わと)じの本だった。
茶色く変色していて、どれも年季が入っていそうだ。
表紙に名前が書いてある。
『藤枝神社縁起』
『巷説(こうせつ)藤枝佐久夜姫物語』
『柳原安兵衛顛末(てんまつ)記』
他にも、難しい漢字で題名が書かれた本がいっぱい。
三、四十冊はあるだろう。
その中に気になる一冊を見つけた。
『藤枝神社日誌(一)』
多分、これが当たりだ。
「みんな、こっちに来て」
五雷君と一緒に棚を見ていた、黒羽さんと太田君がやって来た。
「あれ、五雷君は?」
五雷君はというと、鑑定士のように宝物をじっと見つめていた。
「良い壺だ……」
渋いよ、五雷君。
骨董品(こっとうひん)の趣味まであったのかい。
「ちょっと五雷君、見つかったよ」
放っておくと、いつまでもそうしていそうなので、僕は声を掛けた。
「――いや、すまない」
当初の目的を思い出したのか、五雷君はキリッとした表情になった。
だが、ほんのり顔が赤い。
内心は恥ずかしいようだ。
「見せてもらえるかな」
僕の側にやって来た五雷君に、僕は日誌を手渡した。
五雷君が中身を確認している間、僕は五雷君の肩越しに本の内容を見てみた。
「なに、これ?」
ミミズがのたくったような字が毛筆で書かれている。
達筆過ぎて読めない。
崩し字というやつだ。
「古文書の心得はあるけど、これはひどいな」
困ったという顔の五雷君。
「崩し字がどうのこうのという以前に、字が汚い。しかも誤字脱字が多いから、解読には時間がかかりそうだ」
意外な落とし穴が見つかった。
「なんてこった」
太田君が天を仰ぐ。
「とりあえず、読めるところだけでも読んでみよう」
黒羽さんの提案に従い、解読作業が始まった。
みんなで日誌を囲むと、頭を突き合わせて、文字を追う。
全く読めないというわけではなく、所々は僕でも読める部分があった。
意味が通る文章になるよう、読めない所は想像で補ってみる。
あーでもない、こーでもない。
「……どうやら、このページだね」
本とにらめっこしていた五雷君が、怪しい箇所を見つけ出した。
藤枝佐久夜姫の名前が、初めて出てきたページだ。
その前のページでは、柳原安兵衛を助けた女神のことが書かれている。
間には、神社を造るにあたり、後の初代宮司が女神の名前を聞くシーンが書かれているようだ。
「藤枝佐久夜姫というのは、初代宮司が名付けたものだ。だから宮司の質問に答えて、諱を答えているところがあるはずだ」
黒羽さんが自分の推理を披露(ひろう)する。
どこだ、どこだ……。
これか!
『阿頼無波羅土我見着物』
わけが分からない。
これって、どう読めばいいんだ!
「当て字もいいところだね……」
いやぁ、参ったよとでも言いそうな五雷君。
「素直にカタカナで書けばいいのに、無理に格好をつけたんだろうぜ」
うんうんと頷きながら、なぜか作者に共感している太田君。
「かくなる上は、どうにかして今の宮司に協力してもらうしかない」
どこまでも現実的な黒羽さん。
「そうと決まれば、善は急げだ」
散らかった本を整理し、後片づけを始める僕。
ここに忍び込んだという証拠を消さなければならない。
これで、よし!
「五雷君。宮司さんには、何て説明しようか」
宝物殿の扉を開けると、外は夕焼け空で真っ赤だった。
夕日に照らされた空は鮮やかで、怖いくらいに綺麗だった。
もうすぐ、完全に日が沈む。
確か、こういう時間帯を逢魔が時と言うんだった。
昼と夜が入れ替わるときには、何か悪い者が出てくる――テレビの心霊番組で聞いたセリフだ。
まさかね。
「見つけたわよ! 覚悟しなさい!」
本当に出た!
僕は扉をバタンと閉めた。
悪鬼羅刹(あっきらせつ)と化した藤枝佐久夜姫が、境内の入り口で仁王立ちしている。
服はあちこちがボロボロ。
長い髪を逆立て、般若のような顔で睨んでいる。
二度と会いたくない。
「来たか」
黒羽さんが静かに呟いた。
「へへ、いっちょやるぜ」
太田君は、持ってきたビニール袋をごそごそしだした。
外からは、絶え間ない怒声がしている。
「とっとと出てこい! 盗人(ぬすっと)どもが! 私の物に手を出すとはいい度胸だ。そこにあるのは、あなた達じゃ一生縁の無い……」
言っていることが、なんかがめつい。
宝物殿に入った理由を、完全に勘違いしているようだ。
五雷君は、神が言うとも思えない野次を聞きながら、策を練っていた。
「藤枝佐久夜姫が、僕の考えている通りの性格なら、まだ手はある」
私は怒っていた。
この藤枝佐久夜姫に、ここまでの狼藉(ろうぜき)を働いたのだから。
私の好意を無視して反抗することが、まず許せない。
神の言うことが聞けないというのだろうか?
初代の宮司などは、私に仕えろと言われて、泣いて喜んだものだ。
神に奉仕するというのは、人間として名誉のことだ。
その機会を用意してあげたのに、感謝の念が無さすぎる。
昔の人間は、言われなくても自発的に行い、私を楽しませたものだ。
それが、何なのだろうか?
神の使いを撃退し、私の申し出を断り、吊り天井の下敷きにするとは!
あまつさえ、私の持ち物に手を出そうとしている!
「八つ裂きにされたくなかったら、今すぐここに来て、詫びを入れろ!」
思わず、右手に力が入った。
握った扇の柄から、ぎりっと嫌な音がする。
この扇は、天狗(てんぐ)の羽根で作ったものだ。
何十年か前、近くの霊山に、山の神として崇められている天狗がいたのだが、私とは反りが合わなかった。
ことあるごとに突っかかってくるので、私自らの手で懲(こ)らしめてやった。
そのときに、二度と刃向う気がおきないように羽根をむしってやったのだ。
この扇には、その天狗の神通力が宿っている。
一振りで大風から竜巻まで起こせる優れ物だ。
風を操れば空も飛べる。
あの天狗も、最後に良い置土産(おきみやげ)をしてくれたものだ。
私に敗れた天狗は、山の神としての地位を失い、大部分の神通力も無くし、いずこかへ去っていった。
神の世界も厳しいのだ。
そんな神様にけんかを売った愚かな子供達が、ここにはいる。
さて、どうしてくれよう。
うん? 観念して出てきたか。
「げっ、あいつら何てことを」
私は呆気(あっけ)に取られた。
最近の親は、どういう教育をしている!
私の宝物をどうするつもりだ!
僕達は意を決して、宝物殿の外に出た。
ただし、手には金目の物を持ってだ。
僕と太田君で持っているのは西陣織の帯だ。
二人で煌(きら)びやかな帯を横に広げると、叫んだ。
「西陣織シールド!」
今にも爆発しそうな藤枝佐久夜姫の姿が見える。
扇を握った右手がぶるぶる震えていることからも、それは明らかだ。
「おかしなことをしてみろ、この壺を叩き割るぞ!」
黒羽さんが抱えているのは、伊万里焼の壺だ。
頭くらいの大きさしかないが、数百万円は下らないというのが、五雷君の鑑定結果だ。
「僕達が逃げるまでの間、じっとしていて下さい」
五雷君が広げているのは、水墨画の掛け軸だ。
「あなた達、自分が何をしているのか分かってる!」
藤枝佐久夜姫は、額に青筋を浮かべているが僕達も後には退けない。
「分かっているつもりです。これで、僕達の覚悟が伝わったと思います。僕個人としては、あなたに経済的損失を与えたくない。だから、ここは見逃して下さい」
五雷君の説得は、藤枝佐久夜姫に届くのだろうか?
藤枝佐久夜姫は、怒り、焦り、歎き……と表情がくるくる変わり、百面相をしているようだ。
手にしている扇からは、持ち主の心境を表すように、ごうごうと暴風が出ている。
「そ、そう。分かったわ。百歩譲って、ここは見逃してあげてもいいけど、私の物に傷を付けたら、即殺すわよ!」
暴風はやがて渦を巻き、小型の竜巻が境内に現われた。
竜巻に向かう風のせいで、体制を崩しそうだ。
僕達はじりじりと移動を始めた。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
しめた、もうちょっとだ。
太田君と僕の二人で持っていた帯を、僕一人で支える。
その間に、太田君は帯の陰で準備中だ。
隠し持っていたビニール袋から、太田君の切り札を取り出そうとしている。
藤枝佐久夜姫は、このことに気付いていない。
僕達が宝物殿の端にまで来たときだった。
「もう限界。これ以上、自分を抑えられない!」
藤枝佐久夜姫が、ぎりぎりと扇を振り上げようとした。
「やれ、太田!」
黒羽さんの掛け声に、太田君が答えた。
「おうともさ!」
帯の陰から、太田君が花火の筒を藤枝佐久夜姫に向ける。
『太田スペシャル』とでも呼ぶべき、凶悪極まりないロケット花火だ。
四本の三十連発ロケット花火をガムテープでグルグル巻きにして、大きな一本の花火にしている。
単純計算で百二十連発、太田君はこれを両脇に一本づつ抱えている。
どうだ、しめて二百四十連発だ!
太田君が誇らしげに、がははと笑う。
「ふーん、そんな物が私に通用するとでも思っているの?」
藤枝佐久夜姫は、心底呆れたという顔をした。
気を反らされたのか、扇の動きが止まっている。
「撃ちたければ撃てばいいけど、私の所まで届かないわよ」
藤枝佐久夜姫の周囲は、突風が荒れ狂っている。
花火を撃っても、明後日の方向に行くだろう。
「いや、これでいいんです。太田君は良い仕事をしてくれました」
最後の時間を稼ぐことができたのだから。
訝(いぶか)しそうな表情を浮かべた藤枝佐久夜姫の背後で、消防車のサイレンが鳴り響いた。
「なに!」
境内に続く参道の向こうには、消防車の他にもパトカーや救急車が見える。
間に合った。
戌亥さん達は、作戦に成功したみたいだ。
「おっしゃあ!」
花火を抱えていなかったら、太田君はガッツポーズを取っていだだろう。
遠目に消防隊員、警察官、救急隊員が、こちらにやって来るのが見えた。その数は、合わせて二十人以上。その他にも、ビデオカメラやカメラを構えた、マスコミ関係の人間とおぼしき人達もやって来る。
想像以上に、うまく集まったようだ。
「な、なに。あなた達は、何をしたの!」
藤枝佐久夜姫があたふたとしている。
意外と、突発的な事態には弱いらしい。
五雷君は、ゆったりとした動作で掛け軸を巻くと、その場に置いた。
「ふっふっふっ、かかりましたね。あなたが今まで好き勝手できたのは、その存在を世間が知らなかったからです。だが、これからは違う。藤枝佐久夜姫の存在は、新聞、テレビ、果ては警察にまで知れ渡り、それら全てが、あなたを追いかけるでしょう」
五雷君は人の悪い笑みを浮かべると、天を仰いだ。
「そうなれば藤枝神社の会計も調べられて、帳簿の不自然な点も見つかります。どうして地方の神社に、これだけの資産があるのか。ああ、なんということだ。最後には税務署がやって来て、全てを持っていってしまうとは」
マスコミと警察の力を利用して、藤枝佐久夜姫の動きを封じた上、身ぐるみを剥がす。
最後は、追い詰められた藤枝佐久夜姫が夜逃げを図り、六年三組には平和が戻る――というのが、『藤枝佐久夜姫破産作戦』だ。
本作戦は、『諱ですっきり解決作戦』がうまくいかなかった場合の保険でもある。
六年三組のメンバーは、このために奔走(ほんそう)していたわけだ。
藤枝神社に可能な限りの人間を集めるため、みんな、がんばってくれた。
打ち合わせの通りなら、こんなことをしていたはずだ。
ある者達は、警察署に何度も発煙筒を投げ込み、追いかけてきたパトカー数台を藤枝神社にまで誘導した。
またある者は、消防署に偽の火災連絡をし、藤枝神社一体が大火事だと思った消防車を出動させた。
他にも、ガス管が爆発して瀕死の重傷者が何人もいると、迫真の演技で救急車を呼んだ者もいる。
新聞やテレビ局を引っ張ってくるために、脅迫まがいのことをした者もいるはずだが、これは後で謝って済むかどうか分からない。
みな、必死だ。
藤枝佐久夜姫の脅威が無くなっても、夏休みの間中は自宅謹慎か、お詫びの奉仕活動か?
ええい、今は考えるな。
後は野となれ山となれ!
「……そう。だったら、仕方がないわね。これから先は、どうなっても自己責任よ! 神の怒りがどういうものか、思い知るがいいわ!」
藤枝佐久夜姫は、扇を振り上げた。
たちまち風の勢いが強くなり、小型の竜巻が大型の竜巻へと膨らみだした。
目が座っている。
何かやる気だ。
「どれだけ人を集めても、全て吹き飛ばしてしまえば、どうと言うこともない! 目撃者さえいなければ、なんとでもなる。あの人達は、あなた達の代わりに犠牲になるのよ」
藤枝佐久夜姫は参道を進む一群の方を向くと、肩の位置まで上げていた扇を、さらに頭の上まで振りかぶった。
やばい、口封じをするつもりだ!
早く避難してもらわないと。
くそ、ここからじゃ声が届かない。
「藤枝佐久夜姫、これを見ろ!」
声を張り上げたのは黒羽さんだ。
腕を組んで、仁王立ちをしている。
持っていた壺は、地面に置かれていた。
藤枝佐久夜姫が、首だけをひねって僕達を見た。
「なに、今さら命乞い。白旗を上げるにしても、もう遅いわよ」
さぁ、やるぞというところで水を差され、不機嫌そうだ。
「違うな。敗北するのは、お前の方だ! 太田、最後の仕上げだ! きっちりきめろ!」
「言われなくてもな、やってやるぜ!」
太田君は、体の向きをクルッと回転させると、抱えている『太田スペシャル』の照準を定めた。
『太田スペシャル』が向けられた先は、開け放しにされたままの宝物殿の入り口だ。
すかさず五雷君が、ポケットから取り出した百円ライターで導火線に火を点ける。
シュッと音を立てて導火線に火が伝わり、『太田スペシャル』は火を吹いた。
「おらおらおら!」
狂ったように、太田君が雄叫びを上げる。
「きぃやぁあ、やめてぇえー!」
藤枝佐久夜姫は絶叫すると、僕達の方に向き直った。
つられて、扇が振り下ろされる。
本殿の方に向かって!
「あぁああぁあ……」
藤枝佐久夜姫が、口をあんぐりと開けている。
この世の終わりだとでも言いたそうだ。
扇の指示に従い、動き出した竜巻が本殿に激突する。
メキメキだか、バキバキだか、耳を覆いたくなるような破壊音が響いた。
「青葉、伏せろ!」
黒羽さんの声がしたかと思うと、腰に衝撃を受けた。
持っていた帯を落とす。
地面に突っ伏していると、頭の上を何かが飛んでいくのを感じた。
木材の破片だろう。
黒羽さんは、僕を蹴飛ばして助けてくれたみたいだ。
急いで起き上がると宝物殿の陰に避難する。
そこへ黒羽さんと五雷君も飛び込んだ。
あれ、太田君は?
辺りを見ると、太田君はまだ『太田スペシャル』をぶっ放し続けていた。
最後まで撃たないと、気が済まないらしい。
「バカ、太田!」
黒羽さんは太田君の所まで行くと『太田スペシャル』を奪い取り、地面に捨てた。それから腰の入った右ストレートで太田君を沈めると、引きずり始めた。
僕も飛び出すと、太田君を宝物殿の陰にまで押し込む。
「悪い、興奮しちまった」
黒羽さんの前で手を合わせると、太田君は苦笑いした。
やれやれ、太田君らしい……。
「ともかく、みんな無事で良かった。頭を低くして、やり過ごすんだ」
五雷君は頭の上で手を組むと、その場にしゃがんだ。
僕達も、それにならう。
そうして、どれぐらいの時間が経っただろうか?
十分以上かもしれないし、もしかすると一分に満たないかもしれない。
不気味な破壊音が止んでいることに気が付いた。
「もう、大丈夫かな?」
僕の呟きに、太田君が顔を上げた。
太田君と顔を見合わせていると、境内の方で何かが倒れる音がした。
ビクッ!
だが、何も起こらなかった。
壁から首を出して、恐る恐るのぞいてみる。
「あ!」
本殿の右半分が吹き飛んでいた。
境内には、木材の破片が散乱している。
つい三十分前までは、傷一つ無かったのに、今では見る影もない。
そんな無残な姿をさらす本殿を前にして、藤枝佐久夜姫は、がっくりと地面に膝をついていた。
さっきの音は、藤枝佐久矢姫が崩れ落ちた音だったようだ。
なんだか、目が虚ろだ。
心、ここにあらず。
余りのショックに放心状態になっているのだろう。
だが、そんな悠長(ゆうちょう)なことをしている暇は無かった。
パシャ。
突如、カメラのフラッシュがたかれた。
続いて、境内に駆けてくる複数の足音。
「今のは、何だ? 誰がやった!」
「火事はどこだ!」
「けが人はどこだ!」
「スクープだ! 今なら夜のニュースに間に合うぞ!」
藤枝佐久夜姫に引導を渡すべく、六年三組が集めた刺客達が押し寄せる。
この戦いも終わりが近い。
戦意を喪失している藤枝佐久夜姫では、新たな脅威を防げないだろう。
藤枝佐久夜姫の存在は全国中に知れ渡り、テレビを始めとするマスコミに追いかけ回されるはずだ。
もはや、安住の場所は無い。
一生、逃げ回る生活だ。
これで決着――のはずだが、なんかひっかかる。
自衛のためとはいえ、ここまでしてしまっていいのだろうか。
がっくりと落ち込んでいる藤枝佐久夜姫を見ていると、そんなことを考えてしまう。
「おい、しっかりしろ」
いつの間にか、黒羽さんが僕の横に立っている。
黒羽さんの声に迷いは無い。
困っている人は放っておかないのが黒羽さんだ。
たとえ、相手が藤枝佐久夜姫だったとしても。
クラスでケンカをすることがあっても、後にひきずらず、過去にぶつかった相手にも手を差し伸べる。
爽やかで情に厚く、義理堅い。
それが『六年三組の王子様』だ。
「逃げろ! もう、いいだろう!」
僕も声を上げる。
これ以上の争いごとは、たくさんだ!
終わりにしよう。
「待って、ここまできて、何を言っているんだい!」
五雷君が、僕と黒羽さんを止めようとする。
気色(けしき)ばむ五雷君を止めたのは太田君だった。
「まぁ、いいじゃねぇか。これ以上、悪くなることはねぇよ」
『太田スペシャル』を撃ちまくって、すっきりした顔の太田君。
なんだか頼もしく見える。
「もうちょっとで完全勝利なんだよ。これで藤枝佐久夜姫は、表舞台から完全に消えるんだ」
五雷君が食い下がる。
完璧主義者だからな、五雷君は……。
なんと言ったものか。
「そうなった藤枝佐久夜姫は、日の当たる世界には戻ってこれず、完全に日陰(ひかげ)暮らしか。あの姉ちゃんには、今まで、さんざんひどい目にあわされたけどよ。だからって、何をやってもいいのか?」
太田君の発言に、五雷君がぐっと詰まる。
五雷君は物事を合理的に考えるけど、目的のためなら手段を選ばない非道な奴ではない。
ときに無茶苦茶な作戦を立てることもあるけど、五雷君なりの守るべき仁義がある。
だから、クラスのみんなも頼りにするんだ。
「……そこまで言うなら、僕からこれ以上言うことはない。だが、ここで藤枝佐久夜姫を助けるということは、覚悟がいるよ」
冷静に考えて、自分の考えにも非があると思ったらしい。
やっぱり紳士だね、五雷君。
「ぼやっとしてないで、さっさと起きろ、この祟り神!」
しゃっきりしない藤枝佐久夜姫に、黒羽さんが業を煮やした。
「暴れることしかできない、頭からっぽの性格破綻者(せいかくはたんしゃ)のくせに、しおらしく落ち込んでいるんじゃない!」
言っていることがひどい。
黒羽さん、励ましているつもりかもしれないけど、それはきついよ。
そこへ太田君が悪乗りする。
「ぺちゃぱい、ずんどう、金の亡者」
地面に手を突いていた藤枝佐久夜姫の背中が、ふるふると震えている。
「自分で本殿を壊した、大間抜け」
藤枝佐久夜姫が、がばっと起き上がった。
「お前が、それを言うか!」
噛み付きそうな勢いで太田君をにらむと、藤枝佐久夜姫は扇を一振りした。
辺り一帯に、砂ぼこりが舞い上がる。
「うわ、今度はどうしたんだ!」
遠くから、驚きの声が聞こえる。
見ると境内に突入してきた人達の足が止まっていた。
「これで勝ったと思ったら、いけないんだからね!」
捨てゼリフを残すと、藤枝佐久夜姫は神社の森へ飛び込んだ。
その動きが余りに早かったので、白い塊(かたまり)が森の方へ飛んで行ったようにも見える。
「あれは何だ!」
「カメラを回せ」
「追いかけろ」
我に返った人達で境内が騒がしくなった。
今は謎の白い飛行物体に注意が向いているが、やがて僕達の存在にも気付くだろう。
「ずらかるぞ」
太田君は、藤枝佐久夜姫が飛び去ったのとは反対方向を指差した。
そこは欝蒼(うっそう)とした森だ。
藤枝神社の周りは、鎮守の森が広がっている。
太陽は沈み、辺りは急速に暗さを増しているから、森に入れば逃げられるだろう。
「ここで捕まるのはまずい、ひとまず撤退だ」
五雷君は声を潜めると、抜き足差し足で移動し始めた。
なんか泥棒みたい。
宝物殿の端から森までは、十メートルくらいだ。
極力足音を立てないようにして、僕達は森へと移動した。
幸い、誰にも気づかれなかった。
だが、森に入ってからが大変だった。
懐中電灯を点けると、僕達がいることがばれてしまうので、真っ暗の中を進まなければならなかったからだ。
「いて!」
木の根につまづいて、転ぶ。
「しっ、声を出すな」
黒羽さんに注意されつつ、僕達は歩き続けた。
結局のところ、森を出るまでの間に僕は七回、太田君は四回、五雷君が一回転んだ。
黒羽さんは夜目がきくのか一回も転ばず、すたすたと進んだ。
ぬかるんでいる所にこけたので、僕の服はどろどろだ。
「あー、帰ったら、なんて言おう」
最後の最後でつまづいてしまった。
言い訳を考えるのに気を取られてしまい、周囲の状況に無警戒になる。
それがいけなかった。
ひょいと森を出たところで複数の懐中電灯の光に照らされた。
ぎょっとなる。
警察が待ち構えていたのか?
はたまたマスコミか。
このまま、明日の朝刊の一面を飾ることになってしまうのか。
不吉な予感にどきどきしていると、場違いに明るい声が聞こえた。
「明ちゃん、無事だったのね」
喜びを隠しきれずに飛び出してきたのは、戌亥さんだ。
懐中電灯を照らしていたのは、大願寺で別れた六年三組の面々だった。
「どこも怪我してない。ひどいことをされなかった」
僕の後ろにいた黒羽さんの所へ、戌亥さんは駆けて行った。
すぐ側には太田君もいるのだが、戌亥さんの目には入っていないようだ。
「ああ、大丈夫だ。私の方はなんともない。戌亥の方こそ、大変だっただろう」
あれだけのことがあった後で、戌亥さんを気づかえる黒羽さんは、本当に凄いと思う。
世が世なら、戦国武将にもなれたんじゃないかな。
五雷君を軍師に招いて、二人で全国制覇を目指してそうな気がする。
僕の空想をよそに、黒羽さんと戌亥さんは、きゃっきゃっと二人の世界を作っている。
この様子を見ていると、危機は去ったんだなぁと、しみじみ思えた。
それは、六年三組のみんなも同じだったらしい。
「終わったんだな」
「やったね」
「凄かった」
「俺達、やり遂げたんだよな」
それぞれの健闘を讃える言葉が、あちこちから聞こえてくる。
本当に長い一日だった。
死ぬかと思うこともあった。
だが、みなの力で切り抜けることができた。
ちょっとした奇跡みたいだ。
「あー、疲れた」
僕は大きく伸びをした。
腹が減った。
家へ帰ろう。
僕達は藤枝神社で別れると、家路についた。
泥まみれの姿で家へ帰ると、母さんは驚いたが、近江牛のすき焼きで頭がいっぱいだったせいか、深くは聞かれなかった。
風呂に入ってから、食卓につく。
父さんは帰りが遅くなるとかで、二人で先に食べ始めた。
母さんは、これ幸いと近江牛を食べまくった。
普段はおっとりしてるくせに、こういうときの母さんは情け容赦がない。
「ああ、おいしい。とろけるような味ね」
おかげで、父さんは白滝と野菜ばかり食べるはめになった。
あの日を境にして、六年三組のメンバーが怪事件に巻き込まれることはパタッと無くなった。
藤枝佐久夜姫にまつわる一連の事件は解決したみたいだ。
藤枝神社の本殿が半壊した件は、地元新聞の一面を飾ったけど、それも数日の間だけだった。
真相は闇の中。
突発的な竜巻によるものとして片づけられそうだ。
藤枝佐久夜姫のことは、事件発生当時、謎の怪人物がいたと一部のマスコミで報道されただけだった。
僕達、六年三組が起こした騒動――警察、消防署、マスコミに行った犯罪まがいの行為――は、結局、おとがめ無しだった。
理由は知らない。
五雷君が教えてくれないからだ。
多分、知らない方がいいと五雷君は判断したんだろう。
それでも気になるので、自分で想像してみる。
あの騒動を抑えるためには、どう考えても、あちこちに根回しが必要だ。
警察、消防署、地元の新聞社……。
関係のある全てのところが、六年三組の暴走を黙認していると見ていい。
無論、これだけのことは五雷君でもできない。
では、誰がそんなことをできるのか?
一番ありそうな話は、五雷君のお父さんやお爺さんが、裏から手を回したということだろう。
大願寺の門徒には、地元政治家、地方新聞社の社長、税理士、警察署長……といった、そうそうたる顔ぶれが揃っているから、不可能ではない。
この情報は、僕の父さんからだ。
父さんが、肉が残っていないすき焼きを一人食べているとき、その姿が寂しそうだったので、僕が父さんに話しかけたのだ。
そうしたら話が大願寺のことになり、あの寺は、この町を裏から支配しているんだと陰謀論を聞かされた。
五雷君のお爺さんのことを『紫衣の宰相(しえのさいしょう)』と、父さんは呼んでいた。
父さんいわく、五雷家は何代にも渡って、地元有力者と婚姻(こんいん)を繰り返しているらしい。
その結果、五雷一族と地元の権力者は親戚なんだそうだ。
だから、この町では、大願寺はどんなことでもできる――というのは、父さんの妄想(もうそう)だろう。
父さんは真面目すぎて、思い込みが強いところがある。
それはさておき、興味深い話だった。
大願寺で籠城戦をしていたとき、なぜか五雷君の家族は留守にしていた。
では、寺を離れて一体何をしていたのだろう?
もしかすると、このとき、町の有力者に会っていたのではないか?
これから起こる藤枝佐久夜姫との抗争で、大変なことが起こるが目をつぶってほしいと、協力を要請していた……。
突飛すぎる考えか?
うーん、僕も父さんのことを言えないな。
本当のことは、いつか、五雷君が話してくれるだろう。
夏休みも半分ほど過ぎたところで、登校日がやってきた。
事務的な連絡を学校からされるだけなので、昼前には終わる。
今は、体育館で校長先生の話を聞いているところだ。
体育館の床に三角座りをしながら、退屈な時間が続く。
お尻が痛くなってきたので、そろそろ終わらないかなと壁の時計をチラチラ見ていると、先生の人事移動についての話になった。
「六年三組には、夏休み明けから副担任として、新任の先生に来ていただきます」
これは初耳だ。
どんな人が来るんだろう?
「では、藤枝先生。みなさんにごあいさつをお願いします」
藤枝?
なぜか、とても嫌な予感がする。
檀上に新任の先生が現れた。
腰まで届く黒い髪は手入れが行き届いているのか、ツヤツヤと光沢がある。
背はスラリと高く、百七十センチくらい。
眉は細く柳のような……?
うん、この先生、どこかで見たぞ。
「初めまして、新任の藤枝佐久夜と言います。この春、大学を出たばかりで右も左も分からない状況ですが、皆さん、仲良くして下さい」
そこには、髪を黒く染め、金色の瞳はカラーコンタクトでごまかしたとおぼしき藤枝佐久夜姫が立っていた。
こんなのありか!
復讐(ふくしゅう)しに来たのか!
黒いスーツをきっちりと着こなしている姿は、本当に新任の先生のようだ。
だから、ありもしない希望にすがることになる。
き、きっと人違いだ。
ただの、そっくりさんだ。
体育館から教室に戻る間中、僕は自分にそう言い聞かせた。
「大丈夫、大丈夫。ただの偶然、偶然……」
ぶつぶつ呟きながら渡り廊下を歩いていると、後ろから涼やか声がした。
「そこの君、ちょっと待ちなさい」
よく通る心地よい声だ、いつまでも聞いていたくなる。
だから素直に振り返った。
「後で、体育館の裏まで来るように」
丁寧な口調にだまされた――そこにいたのは、教師の皮を被った祟り神だ。
近くで見て思ったけど、どう見ても藤枝佐久夜姫だ!
しかも、呼び出された先が職員室ではなく、体育館の裏だ!
「確かに伝えたから」
それだけ言うと、藤枝佐久夜姫は職員室の方へ去って行った。
あー、生きた心地がしない。
どうしよう、逃げるか?
逃げたら、逃げたで怖いことになりそうだ。
そうだ! 五雷君に相談しよう。
他力本願な考え方だけど、今はそれしかない。
教室に戻ると、僕は五雷君の姿を探した。
「こんなときに限って、五雷君や黒羽さん、太田君すらいない!」
なんてこった!
もしかして、すでに三人は藤枝佐久夜姫の魔の手にかかってしまったのか。
いや、太田君はともかくとして、五雷君と黒羽さんがやすやすと倒されてしまうとは思えない。
だが三人は、ホームルームが始まっても戻ってこなかった。
なぜか、担任の冴内先生もクラスメイトもそのことに気づいていない。
「先生、五雷君や黒羽さん、それに太田君が戻ってきていません」
僕がそのことを言っても、ろくな反応が返ってこなかった。
「確かに戻っていないな。そうかな? そうだ。次に夏休み中の注意だが……」
クラスの誰もがこの調子、誰かに頭をいじられたとしか思えない。
かくしてホームルームが終わり、教室には誰もいなくなった。
一人で行くしかない。
冷たい汗が、僕の背中を伝った。
正直に言って、僕が行ったところで何かできるだろうか?
それでも――見て見ぬ振りはできない。
悲壮な覚悟で教室を出ると、廊下の奥に小柄な人影が見えた。
「戌亥さん、どうしたの」
帰ったはずの戌亥さんが、教室に向かって歩いている。
忘れ物でもしたのだろうか?
「青葉君、明ちゃんを知らない? 誰に聞いても、知らないって言うの」
どうやら、クラスの中でも戌亥さんだけは正気だったらしい。
戌亥さんに、今起こっていることを話した方がいいのだろうか。
いや、黒羽さんなら、きっとこうする。
「黒羽さんなら、きっと大丈夫。僕もこれから探しに行くところなんだ。僕は校舎の外を探しに行くから、戌亥さんは校舎の中を探してね」
戌亥さんと別れると、僕は体育館の裏に向かった。
これで、戌亥さんに危険が及ぶことはないだろう。
戌亥さんと会ったことで、少し冷静になった。
やけになっちゃいけない。
最後まで粘らないと!
校舎の外に出て歩いていると、グランドにの隅にある用具庫の前を通りかかった。
管理がずさんなのか、鍵が開いていたので、しまってあった金属バットを一本借りた。
バットのグリップをギュッと握りしめる。
「よし!」
魔王が待つ体育館へと、僕はそろりそろりと近づいていく。
「伏魔殿(ふくまでん)に到着と」
体育館の壁に背中を預けて深呼吸。
藤枝佐久夜姫が待つ体育館の裏は、そこの角を曲がったところだ。
陽気な夏の日差しの下、学校はいたって平和に見えるというのに、僕はこれから人外魔境に入ろうとしている。
じっとしていると気持がくじけそうになるので、一気に行くことにした。
「一、二の三!」
そこに、魔王がいた――ただし、ランチタイムだった。
地面にビニールシートを広げて、優雅にお茶を飲んでいる。
シートの上には紅茶の茶器が一式、それとお弁当。
スーツ姿で寛いでいる姿は、OLがお昼を取っているようにも見えた。
「はぁ?」
構えたバットの向こうには、いなくなった五雷君、黒羽さん、太田君の三人がいた。
ただし、三人とも重箱入りの弁当を箸(はし)でつついている――藤枝佐久夜姫と一緒に!
「みんな、どうしたんだ! 何があったんだ?」
もしかして、三人とも頭をどうにかされたのか?
混乱している僕に、太田君が声を掛けた。
「貴志、とりあえず、そこに座れ」
ちょいちょいと手招きをされる。
迷ったけど、ここまできたら他に選択肢はないので、おずおずとシートの端に座る。
ここで暴れても事態は好転しないだろう。
「青葉君、さぞかし驚いたことだろうね」
本当に、想像の斜め上の展開だった。
五雷君の様子におかしな点はない。
いつもと同じ落着いた口調だ。
「藤枝佐久夜姫が学校にいることに気づいたのは黒羽さんだ。体育館で全校集会が始まる前に、僕に教えてくれてね。これは、どうにかしないといけないと思って、黒羽さんと二人で放送室に向かったんだ」
校内に緊急放送をするつもりだったようだ。
「その途中で太田君と出会ったんだけど、藤枝佐久夜姫に見つかってしまってね。大変だった」
五雷君は藤枝佐久夜姫の方を見るが、偽女教師は素知らぬ顔で芋の煮っ転がしを食べている。
「なんとか放送室まで逃げ込むと、入り口の扉に鍵を掛けることはできた。だが、窓を突き破って入られてしまったんだ」
そのときのことを思い出したのか、五雷君は珍しく渋い顔をした。
「どうなることかと思ったぜ」
五雷君の後を太田君が引き継いだ。
「このまま死んじまうのかと思っていたら、いきなり協力しろだもんな。頭がついていかなかったよな、本気で」
協力しろ?
藤枝佐久夜姫が、そう言ったのか。
「なんか事情があるみたいなんだよな、よく分からんけど」
太田君は、コップに注いだお茶をずずっとすすった。
「そろそろ教えてくれてもいいだろう。いったい何を企んでいるんだ? 教師の真似なんかして、どうするつもりなんだ」
黒羽さんが、しごくもっともなことを言う。
太田君とは違い、黒羽さんは注意深く様子をうかがっているようだ。
「お前に私達を襲うつもりがないのは分かった。その気があるなら、とうに無事では済まなかったからな。だが、放送室の窓ガラスを割ったのを、生徒のいたずらにみせかけろという指示は何なんだ? 口裏を合わせたり、小細工をするのに、放課後までかかったぞ」
教室に戻らず、三人はそんなことをしていたのか。
でも、なぜ?
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な藤枝佐久夜姫らしからぬ指示だ。
「私にも都合というものがあるのよ」
今まで口をつぐんでいた藤枝佐久夜姫が、ぶすっとした表情を作った。
「壊れた本殿だけど、掛けていた保険金が半分しか下りなかったのよ! おかげで、私が働くはめになったわけ!」
早口でそれだけ言うと、藤枝佐久夜姫は出し巻き卵に箸を突き刺した。
「きー、信じられる。あそこまで壊れたら、一度全てを取り壊して建て直さなければならないのに、保険会社ときたら半壊だから保険金は半分しか出ないと言うのよ!」
口の中に出し巻き卵を放り込むと、もぐもぐと食べる。
「宮司はショックのあまり寝込むし、放っておいたら御神木で首をくくりかねなかったわよ。どうしようもないから、宮司には私がどうにするから、安心しなさいと夢枕でお告げをしたわよ。あー、もう」
思い出すと腹が立つのか、バクバクと弁当のおかずを食べていく。
「宝物殿の物を売ればいいじゃないか。あれを処分すれば、本殿の再建費を引いてもお釣りがくる」
五雷君が、あっさりと解決策を出した。
実は、宝物殿の収蔵品は無傷だ。
『太田スペシャル』を使うのに先立ち、予め宝物殿の窓を開けておいたのだ。
入り口と反対側にある窓だ。
藤枝佐久夜姫から見ると分からなかったろうが、宝物殿に撃ち込んだ花火は、開いた窓から外へと出て行くようになっていたのだ。
「嫌! 何が悲しくて商売繁盛の神様が、そんなことをしなければならないの。人のために貧乏をするなんて、ありえない!」
神様って、もっと人間に優しいものなんじゃないの?
もちろん、そんなことは怖くて口には出せなかった。
「ふーん、その結果が、その姿か」
黒羽さんが冷静な突っ込みを入れた。
「そうよ! あなた達のところなら、どれだけ無茶をしても心が痛まないわ。残りの人生を棒に振りたくなかったら、私に協力しなさい」
そんなことを言われても……。
「それ以前に、教師なんて務まるのか?」
黒羽さんから、鋭い指摘を受ける藤枝佐久夜姫。
人を教えるなんてことは、苦手そうだ。
僕にも想像できない。
「だから、それらを含めて協力しろと言っているのよ!」
無茶苦茶だ。
いつものように、力技で乗り切ろうとしている。
「まぁ、なんとかなるんじゃね」
おもしろければ、それでいいという立場の太田君は、この状況にもどこ吹く風だ。
「いい、分かったわね!」
強引に承諾(しょうだく)させられてしまった。
学校からの帰り道、僕は気が重たかった。
お腹がパンパンだ。
出された物は、残さず食べろという藤枝佐久夜姫の方針により、用意されていた弁当を僕達は平らげた。
恐らく、これが藤枝佐久夜姫なりのものの頼み方なんだ。
「神様と一緒にご飯を食べることで、親ぼくを深めるという行事は、日本全国にある」
食べながら五雷君は、そう教えてくれた。
黒羽さんは、戌亥さんと一緒に帰って行った。
校舎の入り口で待っていた戌亥さんは、黒羽さんの姿を見て心底安心したようだ。
五雷君は調べることがあると言って、途中で別れた。
「藤枝佐久夜姫が、どうやって学校の人事にねじ込んだか気になるしね。それに、青葉君の話だと、クラスのみんなも様子が変だったということだから」
六年三組の平和を守るため、五雷君は去って行った。
太田君は新刊の雑誌があるとかで、一人本屋へ向かった。
「今日発売の漫画雑誌なんて、何かあったっけ?」
僕の疑問に、太田君はへへへと意味深な笑いを残した。
何の雑誌を買うつもりだい、太田君。
藤枝佐久夜姫は、新人教師の歓迎会があるとか言っていた。
ただ飯を食えるが嬉しいらしく、るんるんしていた。
はしゃいでボロを出さなければいいけど……。
「これから、どうなるんだろうな」
思わず、心の声が出た。
夏休みが明けたら、今までとは違う六年三組になっているのは間違いない。
藤枝佐久夜姫も教師として過ごすつもりだから、ぶっとんだことにはならないと――いいな。
あれこれと考えてみたが、これ以上心配しても仕方がない。
「きっと、なんとかなるよね」
夏休みが始まってから今日まで、何度も危ない目にあったけど、どうにかなったのだから。
だから、今は残りの夏休みを楽しむとしよう。
深く考えたら負けだ!
雲が一つも無いからだ。
じっと見つめていると吸い込まれるような気がする。
砂利(じゃり)の上で仰向けになりながら、僕はぼんやりと思った。
遠くでクラスメイトが鬨(とき)の声を上げている。
学校近くの藤枝神社で行われた『六年三組ガキ大将決定戦』は、女傑(じょけつ)黒羽明(くろばねあきら)が猪武者(いのししむしゃ)太田勇雄(おおたいさお)に勝利して決着がつきそうな気配だ。
短いけど、激しすぎる戦いだった。
頭を動かすと砂利の角が頭に当たって痛いので、なるべく頭は動かさないことにした。殴られたほっぺたが、じんじんと痛む。明日から夏休みだっていうのに、僕達は何をやっているのかな……。
僕は青葉貴志(あおばたかし)、私立博愛学園(はくあいがくえん)初等部に通う小学六年生だ。
担任の冴内(さえうち)先生からは問題児の烙印を押されているが、僕は争いを好まない。体がクラスの男子の中でも小さい方なので、けんかが弱いからだ。
それなのにクラス内の覇権争いに巻き込まれ、開始早々、黒羽さんの拳骨で神社の境内に転がされている。
「誰がクラスのガキ大将になってもいいじゃないか、みんな仲良く……」
近くに誰もいないのに、僕は喋った。
胸の中がもやもやとしていた。
なんか理不尽だ。
おかしいな、なぜこうなった?
話は一時間程前にさかのぼる。
六年三組において、以前からくすぶっていた黒羽班と太田班の確執は、学校の終業式が終わってから爆発した。爆発したというか、男の意地に太田君はこだわり、潔癖な黒羽さんは自分の正義を貫いたら、拳(こぶし)で白黒をつけるしかない事態まで発展したという感じだ。
黒羽さんは女の子だが、クラスの女子からは『六年三組の王子様』と呼ばれている。細く光沢のある髪はショートカットに切られ、クリッとした瞳はリスを思わせる愛嬌がある。御祖父ちゃんが外国人だからなのか、色白の肌は日本人離れしている上に、僕よりも背が高い。加えて、お人形さんみたいに整った顔立ちをしている。
黙っていれば雑誌の子供モデルに選ばれてもおかしくはないが、来ている服装はいつも男物だ。言葉づかいも男言葉なので、知らない人が黒羽さんのことを見れば、女顔の男の子と間違えるかもしれない。
対する太田君は、クラスの男子から『六年三組の遊び人』と呼ばれている。ジャガイモを思わせるごつごつした顔に、ぼさぼさの頭。身長は僕より頭一つ分は高い。柔道で鍛(きた)えたがっしりした体格は小学生に思えず、中学生と間違えられることもある。性格は楽しいことに目が無いお調子者。学園祭の出し物でも、率先してアイデアを出す。そして――無類の女好きだ。
学校帰りの本屋で、エロ本を立ち読みしている姿が多数のクラスメイトに目撃される。学園祭の出し物でメイド喫茶を候補に押し、クラスの女子からひんしゅくを買う等々、男としての本能に正直なのが太田君だ。
そんな太田君は、当然のごとくクラスの女子にアプローチをかけている。今日はクラスの戌亥(いぬい)さんにアタックしていた。
「戌亥、夏休み暇? 今度家族で海に行くんだけど、一緒に行かないか」
太田君はクラスメイトの視線をものともせず、教室の真ん中で熱く戌亥さんに語った。さりげなく、戌亥さんの手を握ろうと手を伸ばしている太田君だ。
クラスでも最も体が小さい戌亥さんは、困ったように笑っている。体が大きい太田君と一緒にいると、戌亥さんは子犬のようだ。
「やめろ変態。戌亥が嫌がっているじゃないか」
さっそうと現れたのは黒羽さんだ。
クラスで困っている女の子がいれば、黒羽さんは必ず助けに行く。まさに白馬に乗った王子様だ。
「黒羽、お前には関係ないだろ。俺は戌亥と大事な話をしているところなんだ」
太田君は露骨(ろこつ)に嫌そうな顔をするが、黒羽さんは意に介さない。
「何が大事な話だ、セクハラをしているだけじゃないか! 少しは相手のことを考えろ。このエロ猿!」
エロ猿と言われた太田君が、肩を震わせている。怒りのため、顔が真っ赤だ。
「言わせておけば、調子に乗りやがって。お前は、いつもいつも俺の邪魔ばかり。くそ、思い知らせてやる!」
ここで終われば、太田君と黒羽さんのけんかで済んだのだが、そうはいかなかった。
「そうだ、太田君の言う通りだ。太田君は勇者なんだ。黒羽の方が出しゃばりすぎなんだ」
太田君を『勇者』とあがめる一団が加わったからだ。
太田君は一部の男子の間で、遊び人ではなく勇者と言われている。自分がしたくても出来ないセクハラ行為の数々に憧れと勇気を感じるのが、その理由らしい。
「なにが勇者よ。セクハラをしているだけじゃない!」
これに黒羽さんを王子様と讃える女子の一団が加わり、事態は更に悪くなった。
「誰がクラスのボスか教えてやるぜ!」
太田君は啖呵(たんか)を切り、黒羽さんが応えた。
「その性格、叩き直してやる!」
こうして太田君率いるクラスの一部男子と、黒羽さんに味方するクラスの女子全員の間で抗争が勃発(ぼっぱつ)した。
このままでは、血で血を洗う戦いになると思った僕は、太田君を止めようとした。
「太田君、けんかで解決するなんてだめだよ。今ならまだ間に合う」
太田君に男としての器の大きさを見せてもらうしか、事態を収めることはできないだろう。黒羽さんは眉を吊り上げて怒っているし、話を聞いてもらえそうにない。
「男が女を殴っちゃいけないよ。太田君もそんなことはしたくないよね」
僕の言葉に、太田君は考えるような素振りをした。眉を寄せて口をへの字に曲げている。これは太田君が考え込むときの仕草だ。
太田君はセクハラ好きだが、何だかんだと言って女の子に弱いのだ。あとは、太田君のプライドを刺激しないように顔を立ててあげれば……。
「明、俺達も助太刀するぜ」
今まで遠巻きに様子を見ていた男子数名が黒羽班に加わった。
これを機会に、クラスの女子からポイントを稼ぎたいらしい。
これで太田君も後に引けなくなった。
もはや僕の説得も太田君には通じない。
そうこうする内に、藤枝神社で白黒をつけることになった。
事態は最悪の方向に向かっていた。それでも僕が藤枝神社まで付いていったのは、何とか暴力的な決着を避けたかったからだ。
そして太田班の一員と間違われた僕は、黒羽さんに倒された。平和を望む僕の願いは潰(つい)えた。こんなことなら五雷君みたいに、さっさと避難しておけば良かった。
五雷君というのは、クラス一の秀才だ。頭が良すぎて、ときどき何を考えているのか分からなくなるが、クラスのみんなから一目置かれている。
黒羽班、太田班両陣営から軍師として招き入れようとされたのだが、五雷君はあっさりと断った。
いわく『そんなことには興味が無い』のだそうだ。
「きゃぁ!」
僕の回想は、唐突に途切れた。
女の子の悲鳴が聞こえたかと思うと、何かの破裂音が聞こえた。
夏の抜けるような青空の下、一筋のロケット花火が白い煙を上げて飛んでいるのが目に入った。
「なんだぁ?」
僕の口から、素っ頓狂(とんきょう)な声が漏れた。
辺りを見回してみると、太田班の面々がロケット花火に火を点けているところだった。
「みんな逃げろ!」
黒羽さんの声が境内に響いた。続いて、ロケット花火の風切音が辺りに聞こえ始めた。
「うわぁ!」
「いやぁあ!」
花火は地面に落ちると、破裂音と共に火花を周囲に散らした。
「どうだ黒羽、恐れいったか!」
顔に青たんを作った太田君が、腕を組んで勝ち誇った顔をしている。
このままでは敗北と悟った太田君は、人に向けてロケット花火を打つという禁じ手に踏み切ってしまったのだ。
「泣いて謝るなら、今のうちだぞ」
太田君はそう言うと、地面に置いてあった一際大きい花火に手を伸ばした。『驚異三十連発』という物騒なラベルが貼られた花火だ。ポケットから百円ライターを取り出すと、太田君が導火線に点火しようとしたところで、黒羽さんが動いた。
「これでもくらえ!」
黒羽さんが太田君に投げつけた物は爆竹だ。
太田君の足元から、耳をつんざくような破裂音がした。
「おわぁ。黒羽、危ねぇぞ」
自分のことは棚に上げて、黒羽さんを責める太田君。だが、それで怯(ひる)む黒羽さんではない。
「それはこっちの科白(せりふ)だ。これだけはしたくなかったが、仕方がない。自分がしたことを思い知れ」
黒羽さんの掛け声とともに、体制を立て直した黒羽班から無数の爆竹が投げられた。
爆撃される太田班。
逃げ惑う、哀れな犠牲者達。
境内は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷(ちまた)と化した。
黒羽さん、これはやりすぎ……。
「く、黒羽。そこまでやるか、そこまで憎いか。ちきしょう」
追い詰められた太田君は、三十連発花火に火を点けた。だがそのとき、太田君の近くで爆竹が破裂した。
「うぉ」
驚いた太田君は、地面に設置していた花火を蹴っ飛ばし、花火が転がった。そして花火は神社の本殿の方に向かって止まると、三十発に及ぶ火柱を上げたのだった……。
こうして、忘れたくても忘れられない小学生最後の夏休みが幕を上げた。
「神というのも、案外暇なものね」
神社の本殿の中、床で寝ころびながら、私は欠伸(あくび)を噛み殺した。
私は神様だ。正確に言えば、藤枝佐久夜姫(ふじえださくやひめ)という名前の女神様だ。藤枝神社で祭られているし、年に一度は私に感謝を捧げる祭が開かれている。昔は年に二回だったんだけど、昨今の不況のせいで、今は年に一回だ。神様の生活も人間の都合に左右されるらしい。
することがないので、私は長い間眠っている。ここ数年、神社に願いごとをする人間も少なくなった。少なくなったというか、御利益があるという有名神社に参拝客を盗られたという感じだ。以前、宮司がなんとかしてくれと祈っている姿を見たが、神頼みをする前に、もっと広報活動に努めてほしい。人間の心をどうこうすることは、神でもままならないのだ。私ほどになれば、できなくはないが……。
まどろみにも似た眠りの中で、うとうとしていると遠くに子供達の歓声が聞こえた。神社の境内で子供が遊んでいるのだろう。珍しい。携帯ゲーム機の普及に伴い、外で遊ぶ子供なんてものは死滅したと思っていたのだが、そうでもないらしい。
(平和だ)
私もこの国に来て丸くなった。天竺(てんじく)や唐にいた頃は、平和なんて退屈だと思っていたが、今はこの平和が続いてくれればいいと感じる。日の本の国にきてから、千年近い月日が流れた。のんきなこの国の人間に、私もすっかり感化されたらしい。あとは、和菓子と玉露があれば幸せだ。紅茶と洋菓子でもいい。誰か供えたりしないだろうか。宮司では気が付かないだろうな。今度枕元に、人気スイーツショップを特集した雑誌でも置いておこうか。
(気の利いたことをしてくれれば、願いを聞いてやらんこともない)
茶器にもこだわりたいところだ――と思っていたら、私の側で何かが弾ける音がした。
一気に目が覚めた。
辺りを見回すと本殿の入り口に掛けられた御簾(みす)の隙間から、火柱が飛んでくるのが目に入った。
「な、何。火事!」
火柱は本殿の床に当たると、弾けた。辺りに火の粉が散る。火柱は続いて、一つ二つ……。数えきれないほど飛んできた!
「わー、火矢だ火矢だ。敵襲だ」
寝込みを襲われたのは、数百年振り。私に喧嘩を売るとはいい度胸だ。私を怒らせた愚かな者達に天罰を下さねばなるまい。
これも神の勤め!
「どこのどいつか知らないけど、末代まで後悔させてあげるわ!」
私が叫ぶと、私の周りで嵐のような風が吹き荒れた。
神の力、神通力(じんつうりき)だ。
「天誅(てんちゅう)!」
あー、やってしまった。
僕は天を仰いだ。
ど、どうしよう。
神社が燃えてしまう。
「み、水だ。とにかく燃えないようにしないと」
今も火柱を出し続けている花火に、水をかけなければ!
このままでは取り返しのつかないことになってしまう!
確か神社の入り口に手を洗う所があったはずだ。
鳥居の横に、屋根付きの手洗い場があることを僕は覚えていた。
僕はあたふたと神社の入り口まで来ると、石造りの手洗い場の前に立った。石をくり貫いて作った大きな洗面台に、龍の形をした置物が取り付けられている。龍の口からは止めどなく水が流れており、洗面台には水が溜まっている。
この洗面台は手水舎(てみずしゃ)と言うらしい。
「バ、バケツはどこだ!」
水が確保できると思ったら、今度は水を汲む物が無いことに気が付いた。手水舎には手洗い用の柄杓(ひしゃく)しか置いていない。
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
辺りを見回しても、バケツの代わりになるような物はない。
「とりあえず、柄杓に水を汲んで……」
焼石に水かもしれないけど、何もしないよりはいいだろう――と思っていたら、突如として耳をつんざくような雷鳴が聞こえた。
ぎょっとして空をみると、つい先程まで晴れ渡っていた空が、暗くなっている。暗雲が立ち込め、今にも雨が降りそうな感じだ。
「もしかして、今流行(はやり)の異常気象?」
天変地異という言葉が浮かんだが、その先は考えられなかった。
空がピカッと光ると、雷鳴とともに土砂降りの雨が降ってきたからだ。
「え、何が起こったんだ」
「きゃー」
境内の中では、事態の変化についていけないクラスメイトが右往左往している。
だが雨のおかげで、花火の火はすぐに消えた。
僕は手水舎の所にいたおかげで、雨に濡れずに済んだ。おかげで、辺りを見回す余裕があった。
盛大に降った雨は、一部が蒸発したのか霧のように辺りを白く煙らせた。
「ど、どうなるんだろう」
この雨は、何か悪いことが起こる前兆のような気がして、僕は落着かなかった。
「あれは……なんだ?」
雨が作った白いカーテンの向こう側に、何かが光るのが見えた。
「あれって本殿の中だよね」
本殿の入り口にかかっている簾(すだれ)のような物が風で一瞬めくれた。薄暗い本殿の中に、金色に光る物が見える。
なんだろうと思っていたら――なぜか猫の瞳を連想した。
学校の帰りに、給食のパンを野良猫にあげたことを思い出す。確か野良猫の瞳をのぞき込んだら、瞳が光って見えたんだ。
「あ、目が合った」
そう思ったのも束の間、簾のような物を持ち上げた風は止み、本殿の入り口は閉ざされ中は見えなくなった。
「なんだよ。台風のときでも、こんなに降らねぇぞ!」
境内を逃げ惑っている太田君が叫んだ。
そして、耳が痛くなるほど降っていた豪雨が――唐突に止んだ。
「へ?」
太田君がポカンと空を眺めている。
「え?」
僕も驚いた。思わず間抜けな声が出る。
水道の蛇口を閉めるときのように、勢いよく降っていた雨が急に止んだのだ。
空を見ると、みるみる雨雲が散っていくのが見える。
こんなの生まれて初めてだ。
「なんだったんだろう」
クラスメイトの誰かが言ったけど、それはみんなの心の声だ。
「ありえないよね」
話好きな女子が騒ぎだし、我に返った男子数名がくしゃみをした。
「うへぇ、パンツの中までびしょ濡れだ」
「寒い、早く熱い風呂に入りたい」
雨に濡れたら、みんなの頭も冷えたという感じだ。
これ以上、クラスメイト同士で戦う気にはなれそうもない。
かくして『六年三組ガキ大将決定戦』の結末はうやむやとなり、集まったクラスメイト達は一人また一人と三々五々に帰っていくことになった。
「黒羽、今日のところは引き分けということにしておいてやる。次に会うときまで首を洗って待っているんだな」
太田君は負け惜しみを言い、黒羽さんに潰されていた。
「次に会ったときと言わずに、さっさと片付けようじゃないか」
黒羽さんの右手が太田君の顎(あご)を捉えた。
地面に転がった太田君に黒羽さんは一瞥(いちべつ)をくれると、颯爽と帰っていった。
「太田君、喧嘩(けんか)を売る相手は考えた方がいいと思うよ」
今度こんなことが起こったら、僕も五雷君みたいに逃げに回るからね。
「うるせぇ!」
太田君は大の字で伸びたまま吠(ほ)えた。
この元気があれば大丈夫だろう。
六年三組を二分した、一大抗争劇はひとまず沈静化した。
だが、これでめでたし、めでたしとはいかないと僕は半ば確信のようなものを感じていた。
本殿の中に見えた光る目が、頭の中でちらちらとよぎる。
何かの見間違いかもしれないけれど、あれは神様が僕達を睨(にら)んでいたような気がするんだ。
(お前達がしたことは、ちゃーんと見ているぞ)
考えすぎかな。
神社の本殿は、何事も無かったように静まり返っているが、筋は通しておこうと思う。
僕は本殿の前に行くと、賽銭箱(さいせんばこ)に小銭を入れ、上から垂れ下がっている紐(ひも)を引っ張った。
紐の先に付いた鈴が音を立てる。
(神様、本殿に花火を撃ち込んでごめんなさい。クラスのみんなも、こんなことになるとは思わなかったんです。どうか許してください)
僕は本殿の前で頭を下げると、家への帰り道についた。
これでいいよね。
鳥居の横に立っている神社の案内には、藤枝神社の藤枝佐久夜姫は、動物を愛する心優しい女神様だと書かれていたしね。
なんでも、この辺り一帯の野生動物は、藤枝佐久夜姫の使いらしい。
「大丈夫、大丈夫」
僕は気持ちを切り替えると、明日からの夏休みに思いをはせた。
楽しい夏休みにしよう。
楽しい――はずの夏休みが始まった。
「逃げろおぉぉお!」
太田君の絶叫が、辺りに響いた。
神様は許してくれなかったらしい。
家族で海に来ていた太田君は、なぜか猪の大群に追われていた。
なぜか僕まで、一緒に追われていた。
猪の鳴き声が背中の向こうから聞こえる。
何を言っているのか分からないが、興奮しているのがはっきりと伝わる。
怖くて振り返れないが、三十匹くらいの猪がアスファルトの地面を暴走していることは分かった。
結局のところ、太田君は戌亥さんを誘うことはできなかった。
太田君を振った戌亥さんは、黒羽さんと山にキャンプへ行っている。
戌亥さんは賢明な判断をしたんだと心の底から思う。
僕は黒羽さんから誘われなかったので、代わりに太田君とつるむことにしたのだが、これが新たな災厄の始まりだった!
傷心の太田君に誘われて海に来たのは今朝のことだ。
海で一泳ぎをして、喉が渇いたからジュースを買いに行こうと国道に出たのは、ついさっきのことだ。
動物の鳴き声が聞こえて振り向いたのは三十秒くらい前のことだ。
「なに、猪?」
僕と一緒にいた太田君が、猪の群れを見つけてポカンとしたのが十秒くらい前で、猪の集団が鼻息荒く太田君に向かって来たのが三秒前だ!
「うわぁああ」
太田君は半泣きだ。
僕も泣きそうだ。
僕と太田君が猪に踏みつぶされて死ぬ姿が、頭にまざまざと浮かんだ。
生まれてこのかた、ここまで死の恐怖というもの感じたことはなかった。
保育園の頃に車にひかれそうになったときでも、ここまで怖くはなかった。
足を無茶苦茶に動かしながら、僕は神に祈った。
(神様助けてください。普段の行いが悪いというなら、心を入れ替えます。親の言うこともよく聞くし、休みの日はボランティアにも参加します)
自分でも何の神様に祈っているのか分からないが、とにかく祈った。
祈りに祈った。
「そんなことをしてもらっても嬉しくないわよ」
天に通じた?
耳元に、鈴のように澄んだ女の人の声が聞こえた。
姿は見えない。
「許してほしかったら、そうね――神前に神饌(しんせん)を供えなさい。中身はまかせるけど、変な物を供えたら、ただじゃすまないわよ」
「分かりました。誠心誠意させていただくので、どうか助けて!」
そのとき、石につまづいて太田君が転んだ。
太田君の方を振り向いたら、僕も足がもつれて転倒した。
万事休す。
僕は両手で頭を抱えると、猪の足音が恐るべき速さで近づいてくるのを感じた。
恐怖のあまり、意識が飛びそうだ。
来た。
僕は、猪の足音と鳴き声に包まれた。
地響きを思わせる猪の足音が、僕の横でしている。
「ひゃーっ」
よく分からない叫び声が、自分ののどから出た。
人生の終わりを思わせる恐怖の時間が続いた。
やがて、自分の周りから猪の気配が完全に消えたことを確認してから、僕は恐る恐る顔を上げた。
太田君も地面にうずくまっている。
怪我(けが)をした様子はないし、無事なようだ。
遠くに、猪の走る姿が見える。
猪の群れは、僕と太田君の横を通り過ぎると、そのまま道路の向こうまで走り去ったのだ。
死ぬかと思った……。
「貴志、無事か?」
太田君が、間の抜けた声を掛けてきた。
「な、なんとかね。幸いどこも怪我はしなかったし、助かった」
僕はアスファルトの地面にペタンと尻餅をついた。
なんとなく空を見上げる。
澄んだ青い空に、入道雲が映える。
ああ、生きているって素晴らしい。
「ねぇ、太田君。神様って信じるかい」
僕の呟きに、太田君が首をかしげた。
「はぁ?」
僕と太田君は藤枝神社に来ていた。
辺り一帯で鳴いている蝉の声がうるさい。
朱塗りの鳥居の向こうは、境内へと続く長い参道が伸びていた。
参道の両脇に鬱蒼(うっそう)と茂る鎮守の森は、昼間でも薄暗く、何かが潜んでいそうだった。
僕の手にはケーキの箱がぶら下がっている。太田君は、大福の入った菓子折りを持っていた。どちらも、地元では有名な菓子店のものだ。値段は高かったが、背に腹は代えられない。
辞書で調べたら、神饌とは神様に捧げる食べ物のことだと分かったからだ。
「なぁ、貴志。本当に、神様の祟り(たたり)なのか」
ここまで来ていて、太田君には迷いがある。
だが、太田君が信じきれないのも無理はない。
僕だって、自分の耳で聞いていなければ信じてはいないだろう。
「猪に追われているとき、僕は女の人の声を聞いたんだよ。あれは幻聴じゃない。どう考えても藤枝佐久夜姫だ。それ以外に説明がつかない」
僕はここに来るまでに、猪に追われているときに聞いた声のことを太田君に説明していた。
最初は信じようとしなかった太田君も、海からの帰りに猪の鳴き声を聞いて、考えを改めた。
海から車で帰る途中、僕達を見つめる一頭の猪が見えたのだ。
道路の脇で僕達の方を見ていた猪は、車が横を通り過ぎるときに一声鳴いた。
(見張っているぞ。忘れるな)
そう感じさせるのに十分な出来事だった。
「でもよ、いくら本殿に花火を撃ち込んだからって、女神様が猪をけしかけたりするのか? おまけに、お詫びの品を自分からせびるなんて、やってることが極道みたいだぜ」
太田君の言葉に、物思いにふけっていた僕は我に返った。
「僕もそう思うんだけど、五雷君に意見を聞きにいったら、藤枝佐久夜姫のことを色々教えてくれてね。藤枝佐久夜姫は、心優しい女神様――というのは、ここ数十年の間に言われ出したことで、元々は、性質(たち)の悪い祟(たた)り神だったらしい」
五雷君は、六年三組の中で最も優れた頭脳の持ち主だ。テストでは、常に全教科でほぼ満点を取っている。加えて、その知識はマンガ、アニメ、芸能から社会、経済、政治……と幅広く、学校の先生でもかなわない。
クラスのみんなも、本当に困ったことがあったときは、担任の冴内先生ではなく五雷君に相談している。僕もその一人だ。
冴内先生も授業でうまくいかなかったときは、五雷君にアドバイスをもらっているというのは、ここだけの話だ。
「五雷か、あいつが言うんだったら、そうなんだろう」
太田君は五雷君の名前を聞くや、あっさりと納得したようだ。
僕のときとは、えらい違いだ。
「五雷君いわく、藤枝佐久夜姫が歴史の表舞台に出てくるのは戦国時代。当時はこの辺り一帯を荒らし回り、誰も手が付けられなかったみたい。藤枝佐久夜姫が祟り神と呼ばれたのは、そのことが理由だね」
太田君も興味深そうに、僕の話を聞いている。
「それが変わったのは、戦国時代も終わり近くなってから。当時は柳原安兵衛(やなぎはらやすべえ)という豪族が藤枝佐久夜姫の縄張り近くに城を構えていたんだ。この人は武士なんだけど戦(いくさ)が弱くてね。隣国から攻められ、落城寸前まで追い詰められたんだ。もはや城を枕に討死にというときに藤枝佐久夜姫が城に現われ、正式に土地の神として祀る(まつる)ことを条件に、柳原安兵衛を破滅の淵から救った――はずが、今度は多額の布施(ふせ)を藤枝佐久夜姫から強要され、柳原家は戦国時代、その後の江戸時代を通して貧乏だったということなんだ」
僕の話を聞き終えると、太田君は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、うめくように言った。
「救いの神だと思ったら、ヤクザの親分だった。おまけに、尻の毛までむしられたというわけか」
柳原安兵衛には、あんまりと言えばあんまりな結果なんだけど、一族滅亡よりはましだったのかな?
僕には分からない。
「そんな訳だから、藤枝佐久夜姫に捧げ物をして、ご機嫌を取らないとね」
そうこうする内に、本殿の前へと到着した。
木製のがっしりした賽銭箱(さいせんばこ)と軒下から吊るされた真鍮(しんちゅう)製の鈴が目に入る。
僕と太田君は、神妙な面持ちで用意したお菓子を供えた。
賽銭箱に小銭を入れると、鈴に付いている紐を振る。パンパンと手を叩いてから、手を合わせた。
無言のまま、祈りの気持ちを込める。
言いつけ通り神饌を持ってきました。どうか、これで許して下さい。お願いします。
……。
伝わったかな?
本殿から藤枝佐久夜姫の声が聞こえないかと、耳を澄ませてみる。
(キーッ)
辺りに、何かが擦れるような高い音がした。
何だ、藤枝佐久夜姫からの新たなメッセージなのか!
思わず本殿の方に目がいってしまう。
「おい、ここで何をしているんだ?」
しかし、聞き覚えのある声がしたのは背後からだった。
「ひゃあ!」
僕は、その場から飛び退くと賽銭箱の陰に隠れた。
逃げ遅れた太田君は一瞬ギクリとした。しかし謎の来訪者が見知った顔だと気付くと、ほっと息をついた。
「なんだ黒羽か。おどかすなよ」
僕達に声を掛けたのは、マウンテンバイクに跨(またが)った黒羽さんだった。
Tシャツに短パンというラフな格好で、頭には野球帽を被っている。
さっきの音は、自転車のブレーキ音だったらしい。
「驚いたのは、こっちの方だ。青葉、隠れていないで出てこい。声を掛けただけで、そんな反応をされると傷つくぞ」
僕は、賽銭箱の陰からもじもじと出てくると、黒羽さんの前に出た。
さすがに、これは恥ずかしいな。
同級生の女の子に、みっともないところを見せてしまった。
黒羽さんなら、他の人には言わないとは思うけど。
黒羽さんは、マウンテンバイクをその場に留めると、僕と太田君の前までやって来た。
「いったいお前達は、ここで何をしているんだ。やけに熱心に祈っていたが、どうしたんだ。べつだん信心深い訳でもないんだろう」
怪訝(けげん)な顔をする黒羽さんに、僕と太田君は顔を見合わせた。
どう話したものか?
「神様を怒らせたら、ひどい目にあってな。詫(わ)びを入れにきたのさ。そういうお前の方は、何ともなかったのかよ」
黒羽さんもここにいるということは、黒羽さんも猪に襲われたのだろうか?
「何のことを言っているのか分からないが、私の方は特に変わったことはない。ここへは夏休みの課題で来たんだ」
そういえば夏休みの宿題に、地元の歴史を調べてレポートを書くというのがあった。
「そうか、なら関係ねぇな。こっちは猪の群れに追いかけ回されたのに、黒羽の方は何にもなしか」
やれやれ神様も不公平だと言いたげに、太田君は肩をすくめた。
「うん、猪の群れ? 猿の群れではないのか」
黒羽さんは何かを思い出したのか、妙なことを漏らした。
猿の群れ……?
僕は黒羽さんの話に、がぜん、興味がわいた。
「黒羽さん、その話をもっと詳しく教えて」
僕が勢い込んで尋ねると、一瞬驚いてから黒羽さんは話し始めた。
「大したことではないが――戌亥と私が、山へキャンプに行ったのは知っているな。実は、そこで猿の群れと出くわしたんだ」
それは恐らく、藤枝佐久夜姫の使いだ。
「荷物や食料を漁(あさ)ろうとするので困ったことになったが、父の知り合いに、その手のことに強い人がいてな。猿達を撃退してもらった」
何でもないことのように黒羽さんは語るが、それって物凄いことなんじゃないだろうか。神の使いを退けるなんて。
「黒羽さん、お父さんには霊能者か何かの知り合いがいるの」
僕の頭には、テレビの特番で見た山伏姿の霊能者が浮かんだ。
「何を言っているんだ? そんな訳ないだろう」
いぶかしそうな黒羽さんの顔を見るに、僕の予想とは全く違うらしい。
黒羽さんは両手で何かを構える仕草をすると、答えを教えてくれた。
「父が呼んだのは『猟友会の会長』だ」
黒羽さんがしていたのは、ライフルを構える真似だった。
「以前から、猿達は畑を荒らしたり人間に物を投げたりとするので、猟友会には駆除の依頼が来ていたらしい。だから、連絡をしたら直ぐに対処してくれた。おかげでキャンプの間、再び猿達が現れることは無かった」
黒羽さんは、狙いを付けると引き金を引く動作をした。
僕の頭の中で、血生臭い光景が繰り広げられた。
どこかの山の中、ライフルを構えた猟師達が、猿の群れに向かって発砲している。
轟(とどろ)く銃声、辺りには猿の悲鳴が響いた。
猿達は必死で逃げるが、一匹、また一匹と地面に倒れる。
血だまりの中、恨めし気な目で虚空(こくう)を見つめる猿の姿が、僕の目に浮かんだ。
……あんまりだ。
「何も殺すことはないじゃないか」
僕の悲痛な声に、黒羽さんがたじろいだ。
「刃向う奴は皆殺しか、やることがえぐいな」
太田君も、どん引きしている。
「お前達、ちょっと待て。何か誤解しているだろ!」
黒羽さんが怒鳴り返した。
「誤解も何も、猟師の人達を呼んで山狩りをした挙句、猿達を一匹残らず殺し尽したということだよね」
何ということを!
藤枝佐久夜姫の神罰が下るぞ!
「そんなことするか、空砲を一発撃ってもらっただけだ」
あれ、そうなの?
僕はてっきり……。
「一体私を何だと思っているんだ! いい加減にしろ!」
黒羽さんの気迫に押された僕は、すっかり冷静になった。
「それじゃあ、猿達は死んでいないんだね」
「当たり前だ。空砲に驚いた猿達は、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げていった。ただそれだけのことだ」
良かった。
思い描いていた地獄絵図は杞憂(きゆう)に終わった。
やれやれ、これで一安心。
ほっとしている僕に、むすっとした表情の黒羽さんは、口をとがらせた。
「まったく、青葉はそそっかしいんだ。すぐに勘違いをする上に、思い込みが強いから、いつも空回りするんだ。この前だって、冴内先生が妹さんと町を歩いていたら、それを見かけた青葉が勘違いをして、冴内先生が不倫しているとクラスで騒ぎを起こしただろ」
冴内先生から、昼ドラの見過ぎだと怒られた件のことだ。
「他にも、修学旅行が中止になるというガセ情報を信じた結果、クラスのみんなを煽(あお)ってプチ学級崩壊を起こしたよな」
我ながら、あれはやってしまったと思う。
「加えて……」
「黒羽さんストップ、もう、この辺でかんべんして」
これ以上、自分の忌まわしい過去を突っつかないでほしい。
「まぁ、いいだろう。ところで、さっき言っていた猪の群れというのは何なんだ? 私の方だけ話すというのは、フェアじゃないだろう」
僕をいじめて機嫌を直したのか、黒羽さんは、すっきりとした表情をしている。
藤枝佐久夜姫のことは、黒羽さんも知っておいた方がいい。
僕は意を決すると、口を開いた。
「黒羽さん。僕と太田君は、猪に襲われたんだ。信じられないかもしれないけど、これは藤枝佐久夜姫の祟(たた)りなんだ」
僕は、藤枝佐久夜姫から御詫びの品をせびられたことを話した。
僕の話を黒羽さんは冷静に聞いていたが、最後に感想を漏らした。
「映画かアニメの見過ぎなんじゃないか?」
まるっきり信じていない!
黒羽さんは、僕のことを憐れむような目で見ている。
黒羽さんの中で、僕に対する信頼は欠片(かけら)も無いらしい。
「青葉、祟りなんて非科学的じゃないか」
ちょっと待って、そんなことを言われても困る。
太田君も黙ってないで、何か言って!
「貴志、こいつはこうなると、何を言ってもダメだ。UFOとか幽霊といった超常現象の類(たぐい)を全く信じていないんだ」
太田君は、あきらめ顔だ。
「それに、私は恥ずべきことは何もしていない。故に、恐れる必要はない」
そう言って爽(さわ)やかに笑う黒羽さん。
怖いもの知らずって、黒羽さんの為にある言葉だと思った。
「もし何かが起こっても、返り討ちだ」
大河ドラマに出てくる戦国武将のようなことを言う。
「では、またな」
黒羽さんは本殿近くに留めてあったマウンテンバイクに跨り、風のように去っていった。
これがマウンテンバイクではなく、白馬だったら正に若武者だろう。
「太田君、黒羽さんて剛毅(ごうき)な人だね」
「やっと分かったか、あいつには不屈の魂が宿っているんだ」
黒羽さんなら、何が起こっても大丈夫かもしれない……。
藤枝佐久夜姫も突き方を間違えたら、自分の使いを滅ぼされたりして。
なんか気が抜けた。
「どうする、帰るか」
「そうだね。でもその前に――」
おみくじを引くことにする。
社務所の所に、おみくじを出す箱があったはずだ。
僕と太田君は、社務所の前まで移動した。
社務所は年末年始と祭のときを除けば無人だ。
辺りは閑散としている。
『おみくじ』と書かれた朱塗りの木箱は、すぐに見つかった。
財布から百円玉を取り出すと、木箱に空いた投入口に入れた。カタンという音がして木箱の下から、おみくじが出てくる。
僕は中吉、太田君は小吉だ。
「よし、これで大丈夫だ」
僕はガッツポーズを取ると、小躍りした。
これで神の怒りは解けた。
もう、安心だ。
やったやったと太田君と喜んでいたから、このときは気が付いていなかったんだ。
他の六年三組のみんなにも危機が迫っていることを。
黒羽さんの話を聞いた時点で察するべきだった。
藤枝佐久夜姫は、六年三組の全員に対して、落とし前をつけようとしている可能性を。
(まだまだ念が足りぬ)
気持ちが舞い上がっていた僕は、この声が聞こえなかった。
五雷君から電話がかかってきたのは、藤枝神社から家へ帰ってきて、のんびりしていたときだった。
僕は昼ごはんのソーメンを食べて、自分の勉強部屋で漫画を読んでいた。
「貴志、五雷君から電話よ」
母さんが、電話の子機を持って勉強部屋にやって来た。
おかしいな? 五雷君は僕の電話番号は知らないはずなのに。
個人情報保護がうるさいので、家の電話番号は、同じクラスメイトでも原則知らない。
「そうそう、今日の晩御飯はすき焼きよ。近江牛が特売していたの」
るんるん気分の母さんは、そのことに気付いていない。
鼻歌交じりに受話器を渡すと、スキップでもしそうな様子で台所に帰っていった。
食べることが好きな母さんは青葉早苗(あおばさなえ)、三十二歳。丸顔でぽっちゃりしていて、趣味は食べ歩きという人だ。
悪い人ではないんだけど、どこか抜けているんだよなぁ。
「もしもし青葉だけど」
気を取り直して、受話器を耳に当てる。
「青葉君か、急な話で申し訳ないんだが、三十分以内に僕の家まで来てほしい」
本当に急だ。
五雷君は、常に理知的に行動する。だから、そうするだけの必要があるのだろう。
「詳しいことは、こちらで話すから、今は黙って指示に従ってほしい」
僕が同意すると、電話は切られた。
うーん、何だろう?
「母さん。五雷君の所まで、ちょっと行ってくるね」
夕飯までには帰ってくるようにと念を押されてから、僕は家を出た。
自転車をこぎながら、五雷君の家を目指す。
僕は五雷君の家を知っていた。
五雷君から家に招かれたことはないけど、クラスでは『個性的な家』として有名だからだ。
五雷君の家は、小高い丘に建てられた大きなお寺だ。それも普通のお寺ではない。山城の跡地を利用して建てられたとかで、外敵を防ぐ深い空堀と高い塀を備えている。加えて、寺の正門に行くまでには、曲りくねった坂道を上らなければならず、大軍が攻めてきたときに守りやすいように造られている。まさに要塞。
大願寺(たいがんじ)というのが正式な名前だが、『大願寺城』(たいがんじじょう)とでも言うべきたたずまいだ。
どう考えても、戦うことを前提にして建てられている。
この寺を建てた人は、一体何を考えていたんだろう……。
クラスの中でも、百姓一揆の拠点になっていたんだとか、現政府と戦うつもりなんだと物騒な噂があるが、五雷君に聞いても笑ってごまかすだけで分からない。
そんなことを考えている内に、大願寺の麓(ふもと)に到着した。
目の前には、砂利を敷かれた坂道が続いている。
僕は自転車から降りると、自転車に鍵を掛けて坂を上り始めた。
目指す正門までは、直線距離にすれば四階建てのビルくらいの高さがある。
麓と正門の間には坂道しかないが、その坂道は途中で蛇行(だこう)していて、わざと遠回りしないといけない代物だ。
正門から麓まで石段を付ければ、もっと楽に行けるはずなのだが、そうはなっていないことが恨めしい。
坂を上りきったときには、軽い運動をした後のように汗をかいていた。
空堀に掛かった橋の向こうに、三メートル近い高さの正門が見える。
木造の橋を渡ると、老朽化が進んでいるのか、ギシッと木がきしむ音がした。
「何だ、あれ?」
正門の扉は開かれていたけれど、胸の高さくらいの柵が、正門の内側に設置されていた。
金属製のワイヤーが数本、支柱と支柱の間に渡されているだけの簡単なものだ。
ワイヤーとワイヤーの隙間は大きく、やろうと思えば隙間から体を入れることもできるだろう。支柱も細くて、頼りない。防犯用としては、ほとんど意味がないものだと思った。
柵の一角が開閉式になっていたので、そこから寺の境内に入る。
さて、どこへ行けばいいのかと思っていたら、視界の隅に小柄な人影が目に入った。
「戌亥さん、どうしてここに? もしかして、戌亥さんも五雷君に呼ばれたの」
境内の隅で所在無げにしていたのは、白いワンピースを着た戌亥さんだった。
天然パーマのかかった栗色の髪は、頭の左右でリボンに結ばれ、つばの広い麦わら帽子の下から出ている。
ワンピースの白さとあいまって、まさに夏の装いといった感じだ。
「青葉君、こんにちわ。この前は大変だったわね」
礼儀正しく答えた戌亥さんは、僕よりも頭半分だけ背が低い。
大きく円(つぶ)らな瞳で、下の方から見上げられると、子犬に見つめられているような感じだ。
「うん、大変だった。おかげで、あの後もえらい目にあった」
ああ、思い出したくもない。
僕がたそがれていると、戌亥さんは怪訝そうな顔をした。
「青葉君、どんよりしたオーラが全身から出ているよ。一体何が――ううん、やっぱり聞かないでおくね」
僕の様子から不吉なものを感じ取った戌亥さんは、どんな表情をするか逡巡(しゅんじゅん)した後、最後に、にっこり笑った。
「それじゃ、五雷君を探しましょう」
戌亥さんは何事も無かったかのように歩き出した……正門の方向に!
帰っちゃダメだよ、戌亥さん。
冷静にならなきゃ!
僕が戌亥さんを追いかけたところで、聞き慣れた太い声がした。
「お前ら、何やっているんだ?」
正門の柵を開けて入ってきたのは、太田君だった。
手には、何かが入った大きなビニール袋を持っている。
太田君、君まで呼ばれたのか!
五雷君の話というのは、思っていたより重大なものかもしれない。
「戌亥、麦わら帽子が似合っているな。白のワンピースも良い感じだ。そうだ、海にはもう行っちゃったけど、今度は花火大会をするんだ。きっと楽しくなる、戌亥もどうだ」
戌亥さんに気付いた途端、さっそく口説きにかかる太田君。
困った顔の戌亥さん。
どこかで見た光景だ。
終業式が終わった後も、こんなことをしていたな。確か、あのときは結局……。
「太田、お前は本当に懲(こ)りないやつだな」
この声は黒羽さん。
境内の奥から風のように現れたのは、『六年三組の王子様』だった。
「その性根を矯正(きょうせい)してやりたいところだが、今は時間が無い。ついてきてくれ」
その言葉を聞いた戌亥さんは、さっと黒羽さんの横に移動した。
二人は、そのまま仲良く歩き出すと、境内の奥にある本堂へと向かった。
『六年三組の遊び人』は、あっさりとその場に残された。
「相手が悪かったね、太田君」
僕は太田君の肩にポンと手を置いてから、しみじみと呟いた。
「ちっきしょう!」
太田君の叫びは、誰の心にも届かなかった。
黒羽さんに案内されたのは、境内の奥に建てられた本堂だった。
何やら中が騒がしい。
大勢の人が集まっているようだ。
靴を脱いでから、正面に設けられた木製の階段を上がる。
障子(しょうじ)を開けて中にはいると、本堂は見知った顔で埋まっていた。
「みんな、どうしたんだ!」
本堂にいたのは、六年三組のクラスメイト達だった。
見たところ、一人残らず全員いるようだ。
みな、正座や胡坐(あぐら)といった自由な座り方で座布団に座っている。
だが、その様子は一人一人違った。
ある者は思い詰めた顔で畳の目を見ているのに対し、他の者は出された茶菓子を食べて寛(くつろ)いでいるなど、人によって落差が激しい。
これでは何の集まりなのか、さっぱり読めない。
みんな、五雷君が集めたんだろうけど、どうやって集めたんだ?
こんなことをしようと思ったら、冴内先生しか知らないはずの『六年三組緊急連絡網』でも使ったとしか思えない……。
まさかね、違うよね。悪いことはしてないよね。
とりあえず、空いている座布団に座ることにする。
座る途中で、赤色のランプが壁に取り付けられているのが目に入った。
消防用かな?
太田君は僕の隣りに、戌亥さんと黒羽さんは、太田君と充分な距離を取った所に座った。
憐れ、太田君。
「これで全員集まったね」
落着いた声が前の方からした。
僕達が座ったことを確認した人物は、自分の座布団から立ち上がった。
銀縁眼鏡(ぎんぶちめがね)に、切れ長の瞳。顔は細く、髪は男なのにサラサラ。常に冷静で、余裕のある物腰を忘れない男。それがクラス一の切れ者、五雷繁(ごらいしげる)君だ。
五雷君は、本堂の正面に安置されている御本尊の前まで移動すると、僕達の方を見回した。
「クラスのみんな、急な呼び出しで申し訳ない。だが、六年三組のメンバーに危機が迫っている。いや、すでに一部のメンバーには被害が出ていて、ことは一刻を争う事態なんだ」
やけに大袈裟(おおげさ)なことを言うなと、この時点では思っていた。
だが、それは甘かったとすぐに知るはめになる。
五雷君は本堂の隅に行くと、荷物にかけてあった白布をめくった。
「これを見てくれ。これは佐藤君と橘君の自転車だ」
ぐちゃぐちゃに変形した自転車が二台、板の上に置かれていた。
交通事故にでも遭ったのか!
「佐藤君と橘君は、猪の群れに襲われたんだ」
あっ!
もしかして、クラスのみんなも藤枝佐久夜姫の襲撃を受けたのか!
「幸い、二人に怪我はなかったけど、これとよく似たことは至る所で起こっている! まだ被害を受けていない者も、これからどうなるか分からない!」
茶菓子をパクつきながら聞いていたクラスの面々も、改まった顔になった。
「佐藤君、橘君。他にも心当たりがある者は、どんなことが起こったのか、みんなに話してくれ」
五雷君の要請に、十名くらいの人間が立ち上がった。その中には、佐藤君と橘君も含まれている。
彼らは大きく息を吸い込むと、口を開いた。
「俺達は狙われている!」
「このままだと、みんな死ぬぞ!」
「何で、こんなことになったんだぁ!」
意味不明な絶叫(ぜっきょう)が、この後三十分近く続いた……。
三十分にわたるパニック劇場の結果、事態は落着こうとしていた。
本堂のあちこちで、絶叫者達を慰める言葉が聞こえる。
「せいしゅくに、せいしゅくに」
「落着け、落着け」
「これでも飲んで」
叫びまくって落着いたのか、出されたお茶をすする音がする。
これなら、大丈夫そうだ。
良かった、一時はどうなるかと思った。
切れ切れに聞こえてきた話を総合すると、藤枝佐久夜姫に――正確には、その使いに襲われた人間がクラス内に多数いることは確実だ。
みな、本当に死ぬんじゃないかという目にあったらしい。
僕や太田君のときと同様だ。
未だ危機に直面していないクラスメイトも、ただならぬものを感じて神妙にしている。
かくして、クラスの安全保障会議が始まった。
「野生動物の大群に襲われるという、普段では有りえない事件が頻発(ひんぱつ)しているけど、これらの事件には共通点がある」
五雷君が司会となって、会議が進む。
「青葉君、太田君。悪いんだけど説明してくれ」
いきなり話を振られた。
そんな、突然!
「二人には、この不可解な事件の真相が分かっているはずだ」
クラスメイトの視線が一斉に僕と太田君に集まった。
うわ、凄いプレッシャーだ。
改まって、みんなの前で発表するというのは苦手だ。
「思っていることを素直に言ってくれるだけでいい」
五雷君の言葉に、僕は腹をくくって立ち上がった。
「一連の事件は、藤枝神社に祭られている藤枝佐久夜姫が起こした祟りなんだ! 僕達が神社で暴れたことを怒っているんだよ!」
素直に言った。本当に思っていることだけ言った。
しーん。
あれ?
「はははは、祟りだってよ」
「冗談きついぜ」
「青葉らしいよ」
笑われた、クラス中で爆笑の渦(うず)だ。
笑わなかったのは、五雷君と黒羽さん。それに太田君だけだ。
「黒羽のときも、こんな感じだっただろ。学習しろよ」
やれやれといった感じの太田君。
太田君、それはないんじゃない。
君が何となく嫌そうにしていたから、代わりに話したのに!
あんまりだ!
僕がぷるぷるとしていると、意外な声が掛かった。
「そう、今起こっている事件は祟りなんだ」
五雷君だ。
爆笑が止まった。
クラスの視線が、今度は五雷君の所に集まる。
「藤枝佐久夜姫は実在する。そして何らかの手を打たない限り、怖い思いをする人は無くならないだろう」
五雷君に気負ったところは無い。
ただ事実を淡々と述べているという感じだ。
クラスのみんなは顔を見合わせている。
そんな中で自分の意見をはっきりと表したのは、黒羽さんだった。
「そんなことを言うが、私には祟りというものが信じられない。加えて、何も心にやましいことがないのに、何を恐れるというんだ」
真っ直ぐな黒羽さんの視線に、五雷君は少しだけ笑った。
「黒羽さんみたいに、道理の分かる相手だったら良かったんだけどね」
五雷君は心底残念そうに言うと、厳しい表情になった。
壁に付けられたランプが赤く点灯している。
「本当はもっと話したいんだけど、そうも言ってられなくなったみたいだ」
五雷君が言い終わるのと同時に、本堂にブザー音が鳴り響いた。
火事か!
僕が慌てていると、五雷君は本堂の入り口に向かって走り出した。そして入り口の障子を左右に開け放つと怒鳴った。
「侵入者だ!」
遠目に正門が見える。
茶色い何かが正門を潜って、境内に入ろうとしていた。
「あれは鹿だな」
両目の視力が二点ゼロな太田君が断言した。
「うん? 五匹以上いるぞ。ありゃ、強引に柵を破るつもりだな」
もしかしなくても、あれは藤枝佐久夜姫の使い!
六年三組のみんなが集まっていることをいいことに、まとめてお礼参りをするつもりなのか。
どうする、どうする。
柵は簡単な造りだったから、すぐに破られるぞ!
そうだ、バリケートだ。
「手伝って太田君、長机でバリケートを作るぞ」
僕は、本堂の隅に積まれていた折り畳み式の長机に気が付いた。
太田君を引っ張って連れて来ると、二人で長机を運び出す。
「貴志、ちょっと待て。あわてて行くな」
太田君の非難はもっともだけど、今は構っている暇がない。
「ごめん、だけど今だけは許して」
そんなことをしている内にも、鹿は柵に向かっている。
鹿の群れは柵に向かって突進すると――悲鳴を上げた!
え、悲鳴?
その後も、別の鹿が柵に体当たりをするが、その度に悲鳴を上げていた。
「言ってなかったけど、あの柵には電流が流れるんだ。さっきスイッチを入れておいた」
五雷君が、さらっと恐ろしいことを言った。
「電流といっても大したものじゃない。あれは獣害対策用の電気柵を改造したもので、触ってもビリッとくるだけさ」
そんなの、寺の入り口に置かないでよ。
電気が流れているときに、誤って人が触ったらどうするのさ……。
やがて鹿達は諦めたのか引き返していった。
「正門を閉めよう、これから籠城(ろうじょう)戦だ」
五雷君の号令の下、門は閉ざされた。
なんだか分からない内に、藤枝佐久夜姫と全面戦争をする展開になってしまった。
僕達は無事に帰れるのだろうか。
「机はそこに置いて、ホワイトボードはこっちへ」
五雷君の指示に従いながら、僕と太田君は本堂で荷物を運んでいた。
鹿の襲撃を受けてから、五雷君の行動は早かった。
非常用の乾パンや飲料水を寺の倉庫から出すと、籠城の準備を始めた。
他にも、懐中電灯やカセットコンロ、双眼鏡に非常用発電機、消火器、ヘルメット、ホイッスル……と、役に立つのか役に立たないのかよく分からない物を、倉庫からクラスの男子を使って引っ張り出した。
クラスの面々も、なんとなく流される形で五雷君の指示に従っている。
「ペットボトルのお茶は、まだ開けないように。お菓子は机の上に、それは食べちゃだめだよ。この紙は、ここに貼って」
『藤枝佐久夜姫対策本部』と毛筆で書かれた紙を柱に貼りつけて、作業は終わった。
本堂の正面にはホワイトボードが置かれ、その横には五雷君が立っている。
六年三組のメンバーは、五雷君を取り巻く形で座っていた。
「さっきの鹿は偵察(ていさつ)に来ただけだ。これから本格的な攻撃が来ると見た方がいい。今の内に、今後の段取りを決めておくよ」
五雷君は決然と言っているが、周りはなんと言うか緊張感が無い。
事態の推移についていけないからだ。
事情を知っている僕や太田君でさえ、急な展開で目を白黒させたくらいだ。
周りのみんなに至っては、頭に? マークが付いているみたいだ。
「五雷、本当にそうなのか?」
今まで黙っていた黒羽さんが、疑問の声を上げた。
「間違いない。藤枝佐久夜姫は、これであきらめるような相手じゃない」
自信満々の五雷君。対する黒羽さんは、眉根を寄せた。
「クラスメイトを標的として、獣による襲撃事件が起こっているのは確かなようだ。仮に、誰かがそれを仕組んでいるとしよう。だが、それが藤枝佐久夜姫なのか?」
黒羽さんの意見に同意するように、戌亥さんを始めとするクラスの女子が頷(うなず)いた。
「その通り。クラスのみんなも信じていないようだけど、藤枝佐久夜姫と名乗る何者かは藤枝神社に住んでいる。この相手は自称神様で、獣を操る力を持ち、山賊の女親分みたいな性格をしている」
藤枝佐久夜姫が聞いたら、怒るだろうな……。
僕には否定できないけど。
それにしても、五雷君はどうしてこうも断言できるんだろう?
「見てきたようなことを言うんだな」
黒羽さんが呆れたように言うと、五雷君は渋い顔をした。
「まぁね。それに近いことはしたよ」
そうなのか!
五雷君の交友関係は、どこまで広いんだ!
遠くの方を見つめる五雷君の背中には、哀愁(あいしゅう)が漂っていた。
誰も知らない所で苦労してるんだな、きっと。
このことには、これ以上触れてはいけないみたいだ。
なんとなく妙な間ができた。
「藤枝佐久夜姫には、みんなでごめんなさいをしたら、いいんじゃない?」
この隙に、自分の意見を言ってしまおう。
「僕と太田君は、藤枝神社にお供え物をしたよ。多分、これで僕と太田君は許してもらえたと思う。みんなも、そうすればいいんだ」
平和的な解決には、これが一番だろう。
これでいいよね?
「悪いが、それは却下だ」
黒羽さんに一蹴(いっしゅう)された!
「自分に落ち度がないのに謝るというのは、おかしい。それに神社の本殿に花火を撃ち込んだ太田がすでに謝っている。私達が神社で暴れたことで怒っているのなら、それで手打ちのはずだ。その上、さらなる謝罪なり金品を強要するというのは、公平じゃない。これはヤクザが因縁をつけて、搾(しぼ)れるだけ搾ろうとしているのと同じだ」
完璧な理屈だ。
ここまで的確に事態を言い当てるとは!
黒羽さん、将来は弁護士になれるんじゃない。
「そりゃそうだけど、他に方法が……」
僕には、これ以上のアイデアは浮かばない。
何か良い考えはないかと五雷君の方を見る。
「戦うしかない」
五雷君が言い切った。
「だよな」
今まで黙っていた太田君が同意した。
えぇぇえー。
「何、考えているの。相手は神様だよ。敵うわけないじゃないか!」
これは止めないと、本当に血の雨が降るぞ!
はやまっちゃダメだ。
「貴志。こういうのは、放っておくと際限なくたかられるんだ。白黒はっきりつけるぞ」
もっともらしいことを言う太田君。
男子の一部から、拍手が起こる。
ど、どうしたんだ。
太田君は何か悪い物でも食べたんだろうか。
「だから戌亥、これが解決したらデートしてくれ」
戌亥さんに、格好(かっこう)をつけたいだけじゃないか!
真面目に考えてよ、太田君!
「デート云々(うんぬん)はさておき、太田君が言っていることは正しい。過去の記録を見ても、藤枝佐久夜姫に因縁を付けられた相手は、例外なくたかられ続けている」
五雷君は、壁際に立っている書棚から何冊かのノートを取り出した。
それを広げてみせる。
そこには、新聞記事の切り抜きとおぼしき物がべたべたと貼られていた。
「昭和五十六年、酔っ払いが藤枝神社の灯篭(とうろう)を倒す」
「平成元年、タバコのポイ捨てが原因で、宝物庫で小火(ぼや)騒ぎ」
「平成十三年、暴走運転をしていた車が鳥居に激突。幸い、死傷者は無し」
これら以外にも、五雷君は藤枝神社で起こった数々の事件を読み上げていった。
どれも藤枝佐久夜姫が怒りそうなものばかりだ。
「これらの事件が起こした人間は、神社に多額の布施をしている。加えて神社の氏子でもないのに、祭の手伝いや清掃活動を行うなど、何年にもわたって奉仕活動をしている」
……いきなり信仰心に目覚めたわけじゃないよね。
五雷君は、ノートに挟まれていた『藤枝神社通信 第二十一号』というのを取り出した。
「これは藤枝神社の宮司さんが発行している会報だ。表紙に、集合写真が載っているだろ。こことそこ、それにこっちの人が、事件を起こした人だ」
二十人くらいの集団の中で、周囲の人と明らかに雰囲気が違う人が三人いた。
はっきり言って暗い。
目が死んでいる。
虚(うつ)ろ顔をして、生気が感じられない。
俺の人生終わったと無言で主張しているようだ。
「宮司さんに確認したところ、これらの三人は事件を起こした当日から、毎晩金縛りに苦しんだみたいだ。神社に寄付をしたところ、金縛りは解けたそうなんだが、今度は祭や大晦日(おおみそか)の時期になると、差出人不明の葉書が届けられたそうだ」
その葉書の写真を五雷君が取り出した。
『人手が足りない。藤枝神社に至急来い!』
差出人の名前は無い。達筆な毛筆でそれだけ書かれていた。
字は細いが力強い筆使いで、有無を言わせない妙な迫力があった。
怖くて葉書の指示を無視すると、悪夢に苛(さいな)まれたらしい。
なので、結局は神社に来るはめになったという。
気の毒な話だ。
「人の良い宮司さんは、藤枝佐久夜姫が行っている悪行を知らない。神社に寄進があるたびに神の加護だと思っているくらいだ。このままでは、僕達もこき使われることになる。自由を得るためには、戦うしかないんだ!」
五雷君の呼びかけに、周囲がどよめいた。
今までの話に、危機感を煽(あお)られたようだ。
僕はどうしようか。うーん、選択肢は無いんだろうな……。
悲壮な覚悟を決めるかどうか迷っていると、五雷君が気になることを言った。
「青葉君、対抗手段はある」
さすがは五雷君!
ぜひ、詳しく教えてくれ!
「五雷君、それはいったい……」
僕の質問は、最後まで言えなかった。
本堂の電気が、いきなり消えたからだ。
「なんだ、停電か?」
太田君が、のんきなことを言っている。
違う、そうじゃない!
僕は、不吉な予感に震えていた。
来た、来てしまった。
遠くから、猪の鳴き声が聞こえる。
これは一頭や二頭じゃない……。
「本隊が来てしまったようだね」
五雷君がニヒルに笑った。
うわー、こっちは準備ができてないよ。
もしかして時間切れでゲームオーバー?
「電気を止めたか。これで電気柵を封じたつもりだね」
五雷君が、危機的な状況を淡々と解説してくれる。
これで、正門を破られたらしまいだ……。
「そうだ、非常用の発電機!」
あれがあったんだ!
これで電気柵が復活だ。
発電機は、台車に載って本堂前の境内に置いてある。
「とにかく見に行こう」
見に行くのは怖いけど、ここでじっとしていると、色々考えてもっと怖い!
僕の呼びかけに、野次馬根性を刺激されたクラスの男子が答えた。
「え、何が始まるの」
「猪がいるのか」
「ちょっと見に行こうぜ!」
なんかうきうきとしている!
祭にでも行く前みたいだ。
「……本堂の裏手に、梯子(はしご)があるから持ってきてくれ」
五雷君は、緊張感に欠けるクラスメイトに指示を出すと、正門の方に向かった。
僕は境内に下りると、発電機が載った台車を押そうとした。
だが、思うように進まない。
「玉砂利が邪魔だ!」
境内に敷かれた玉砂利に阻まれた。
おかげで台車のタイヤが空回り……。
「なにやってるんだ、貸してみろ」
見かねた太田君が僕から台車を奪うと、あっさりと台車は動き出した。
こういうときに自分の体がもっと大きければと、つくづく思う。
僕が正門の前に到着すると、ステンレス製の梯子が正門横の塀に立て掛けられるところだった。
クラスの男性陣は、運んできた梯子を設置すると、不安と興奮が混じった顔で正門の方を見つめていた。
正門の向こう側から、興奮した猪達の鳴き声が聞こえてくる。
猪が正門に体当たりをしているのだろう。
正門がぎしぎしときしんでいる。
さらにどこからか、みりみりと不吉な音がしている。
五雷君は、太田君から発電機を受け取るとスイッチを入れた。
発電機はカチッと音がしたが動かない。
調子が悪いようだ。
この非常時に!
「門が破られるまで、もう間もなくか。発電機が動くまでの間、青葉君、時間を稼いでくれ」
なぜ、僕が!
無茶振りもいいとこだ!
自慢じゃないが、体育の成績は最悪に近い。
跳び箱も逆上がりもダメ。
この僕に、どうしろというんだ!
「君が適任なんだ。青葉君、これを使ってくれ」
五雷君が差し出したのは、一本の消火器だ。
寺の倉庫から、非常用発電機と一緒に出したっけ。
「防災訓練のときに、青葉君は消火器を使っただろ」
確かにそうだった。
夏休み前に行われた防災訓練で、僕はクラスを代表して消火の実演をした。
学校の校庭で、火事に見立てた焚き火を消火器で消すというものだ。
熾烈(しれつ)なじゃんけん合戦の末に、僕はその権利を得たのだった。
五雷君が言う通り、僕が行うのが一番良いだろう
「はい、ヘルメット。梯子の上から猪の鼻先に噴射してくれ」
渡されたプラスチック製のヘルメットを被ると、気合を入れた。
「よし、やるぞ!」
僕は腹を決めると梯子を上り始めた。
梯子を上りきったところで、下にいる五雷君から消火器を受け取る。
下を見下ろすと、空堀に掛かった橋の上に、茶色い絨毯(じゅうたん)のようなものが見えた。
猪の大群だ!
正門の前に集まった猪は、隙間が見えないほど密集していた。
絨毯のように見えたのは、そのためだ。
三十頭はいるだろう、木製の橋が重さに耐えられずに悲鳴を上げていた。
さきほど聞いたみりみりという音は、この橋からしていたのか。
頭がくらくらしそうな光景だ。
「貴志、びびったか~」
太田君が間延びした声を出した。
はっ!
「そんな訳あるか!」
太田君に怒鳴り返す。
そのまま、消火器を構えようとしたところで、はたと気が付いた。
「誰か後ろから支えて! このままだと後ろに落ちる」
左手で消火器を支え、右手でホースを握ると、両手が梯子から離れてしまう。
このまま消火器を吹くと、反動で真っ逆さまだ!
「私が行こう」
そう言ってくれたのは、様子を見に来ていた黒羽さんだ。
黒羽さんは梯子をするすると上ると、僕の腋(わき)の下に手を入れて梯子につかまった。
黒羽さんが僕の後ろから抱き付く格好だ。
なんか恥ずかしい……。
顔が赤くなるのを感じる。
僕も男の子なんだけど、黒羽さんは気にしていないのかな?
「どうした青葉、どこか痛むのか?」
もじもじしている僕に、普段と変わらぬ黒羽さんの声が届いた。
どうやら、黒羽さんは僕を男と思っていないらしい。
……がくっ。
「何でもないよ」
なるべく黒羽さんのことを意識しないようにしながら、ぎくしゃくとした動作で消火器を構える。
消火器のグリップを握ると、ノズルの先からピンク色の煙が噴き出した。
そのままノズルを先頭にいた猪の顔に向ける。
猪から一際高い鳴き声が上がった。
その猪は煙から逃げようと暴れたが、周りにも猪がいるので動けない。
それでも動こうとするので、周りの猪もつられて暴れ出した。
群れのあちこちから高い鳴き声が聞こえ始める。
足踏みする音が激しくなり、地響きのようだ。
何かが壊れるバキバキという音が……。
あれ?
この音は何!
確かめようとしたが、目の前がピンク色の煙で見えなくなった。
その間にも、バキバキという音は激しくなり、続いて猪の悲鳴が聞こえた。
最後は、重たい物が崩れる音が辺りに響いた。
え、何が起こったの?
猪達の悲しげな鳴き声だけが続いている。
そうこうする内に、煙が風に流されて徐々に晴れていった。
「橋が崩れているぞ」
僕の後ろから様子を見ていた黒羽さんが、驚きの声を上げた。
僕も驚いた。
腰を抜かして梯子から落ちなかったのは、黒羽さんがいてくれたおかげだ。
さっきまで掛かっていた橋が今はバラバラになり、空堀の底に残骸(ざんがい)が落ちている。
橋の崩壊に巻き込まれた猪達も空堀の底だ。
脚は動いているので生きているみたいだけど、よく分からない。
「ひとまず下りるぞ」
黒羽さんに促されて、僕は梯子を下りた。
あー、びっくりした。
足元がふらふらしているよ。
深呼吸をしていると、五雷君がやって来た。
「橋が落ちたんだね」
五雷君に動揺は無かった。
妙に落ち着いているのは、なぜだろう?
「老朽化していた橋が、猪の重さに耐えられなかったんだ。建て替えを予定していたから、手間が省けた」
さばさばと話す五雷君は、最後に薄く笑った。
思いのほか、うまくいった。
してやったりという感じの笑い方だ。
こうなることも、想定内だったのか。
藤枝佐久夜姫より、五雷君を敵に回す方が怖いかもしれない……。
身震いしつつ、頭に浮かんだ怖い考えを振り払う。
「ところで五雷君、お父さんやお母さんはどうしたの? さっきから姿が見えないけど?」
これだけの騒ぎが起こっているのだから、様子を見に来ていいはずだ。
「ああ、家族は用事があって留守にしているんだ。今日は戻ってこないよ」
帰ってきたら、驚くだろうな。
橋が無くなっているけど、五雷君はどう説明するんだろう。
僕だったら家出をしているとこだ。
僕の心配をよそに五雷君は涼しい顔をしている。
「心配はいらないよ、なんとかするさ」
僕の不安に気付いたのか、五雷君は軽い感じで答えた。
本当になんとかしそうだ。
五雷君なら、大人を舌先三寸で丸め込むことなど造作もないだろう。
進む道を間違えたら、天才的な詐欺師(さぎし)になるかもしれない。
寺の息子だし、ゆくゆくは自分を生き仏と仰ぐカルト教団を組織して――五雷君ならできそうだ。
「青葉君は何を考えているのかな」
五雷君の瞳が、眼鏡の奥で光った。
鋭い。
テレビのドラマで見た警察官も、こんな目をしていた。
カツ丼でも出てきそうな雰囲気だ。
「なんでもないよ。それより、これからどうするの」
これで終わり――じゃないよね。
「打って出るしかない。決戦は藤枝神社だ」
五雷君は力強く言うと、集まっていたクラスメイトを見渡した。
「これから作戦を伝える。みんな、よく聞いてくれ」
こうして、六年三組の自由を賭けた一大反攻作戦が開始された。
「異常は無いか?」
太田君が見張りの交代にやって来た。
僕は梯子の上で、双眼鏡を片手に正門の周囲を警戒していた。
直射日光を浴び続けるのは辛いので、梯子の上には白い日傘がくくり付けられていた。
「今のところはね」
太田君が来たということは、交代時間の三時三十分になったということだ。
昼の暑さもましになり、僕は額に浮かんだ汗を手で拭った。
流れる風は肌に心地よく、いつもならスイカでも食べたい気分だ。
だが、橋の残骸が平和な空気を裏切っていた。
空堀に落ちた猪達はいない。
大きな怪我をしなかったのか、自力で堀から抜け出したらしい。
堀に誤って落ちた人を助けるため、堀が浅くなっている所があると五雷君が言っていたから、そこから逃げたんだろう。
「お茶だ。飲め」
僕は地面に下りると、太田君が持ってきたペットボトルのお茶をぐびぐび飲んだ。
「ありがとう、生き返る」
『大願寺籠城戦』は、新たな局面を迎えていた。
五雷君の言葉を思い出す。
(援軍が来ない状況での籠城戦は、やがて兵糧が尽き殲滅される。この事態を打開するには、相手の本陣に斬り込み大将を抑えなければならない)
五雷君は六年三組のメンバーに事態を説明すると――桶狭間の戦いと同じだねとまとめた。
そこは誰も突っ込まなかった。
五雷君は、何事も無かったかのように次の話題に移った。
今にして思えば、あれは五雷君なりに場を和ませようとしていたのかもしれない。
乗ってあげれば良かったかな?
そんなことを思いつつ、お茶を飲み干したところで胸騒ぎを感じた。
微かにだけど、動物の鳴き声がする!
「何かが来たよ、太田君」
僕は梯子を上ると、坂道を上ってくる毛玉が見えた。
その数、二十あまり。
慌てて双眼鏡を構えた。
「今度は、猿の群れか!」
双眼鏡に写ったのは、赤い顔をした猿達だ。
見られていることに気付いたのか、猿達は歯を剥きだしにして威嚇(いかく)を始めた。
きーきーと、耳障りな声を上げる。
「敵襲、敵襲」
僕は太田君に声を掛けると、ホイッスルを吹いた。
これは体育の時間に使う笛に似てるけど、より遠くまで音が響く物だ。
ピーと高い音が、境内にこだました。
その間に猿達は空堀の淵まで来ると、一カ所に集まった。
橋を支えていた柱が一本、空堀の壁にもたれかかるように倒れている所だ。
猿達は柱に飛びつくと、そのまま橋の残骸を伝って空堀に下りだした。
「うん、まずいんじゃない!」
消火器は、もう無いぞ。
作戦決行までには、まだ時間がかかる。
なんとかして、それまで保たせないと!
僕が戦々恐々としていると、黒羽さんがやって来た。
「……猿か!」
勘のいい黒羽さんは、猿の鳴き声を聞いただけで全てを察したようだ。
黒羽さんは難しい顔をすると、はっと顔を上げた。
何かを思いついたらしい。
「太田、ちょっと本堂まで行って来い」
急に呼ばれた太田君は、珍しく黒羽さんの指示に従った。
「分かったよ。で、何をすればいいんだ?」
黒羽さんが言うことを、太田君が素直に聞いている……。
クラスでは、まず見られない光景だ。
けんかばかりしているが、太田君も黒羽さんのことは認めているみたいだ。
黒羽さんから指示を受けた太田君が、本堂へ走って行った。
「上ってきたよ!」
空堀に下りた猿達は、そのまま正門側の土壁に取り付くと、そのまま強引によじ登り始めた。
壁にできた、わずかな窪みを足掛かりにしているみたい。
人間にはできない、猿だからできる芸当だ。
「あ、滑った」
空堀の土壁から塀へと変わった所で、一匹の猿が落ちた。
大願寺を囲んでいる塀は、漆喰で造られている分厚い物だ。
加えて表面に全くと言っていい程凹凸が無く、つるんとしている。
「また落ちた」
だから塀をよじ登ろうとすると、猿でも苦労することになる!
正に、鉄壁の守りだ。
「おぉ、素晴らしい」
塀に上ろうとしては、次々と空堀に落ちていく猿達を見ながら、僕は手を叩きそうになった。
「あ、危ない。僕まで落ちるところだった」
梯子から、手を離してしまうとは……。
僕も猿のことは笑えない。
「青葉、もしかしてだけど、今落ちそうになった?」
こっちを見ている黒羽さんと目が合う。
しばらくの間があってから、黒羽さんは視線を逸らした。
気まずい。
無言の気遣いが辛かった。
「黒羽、持って来たぞ」
居心地の悪い空気を破ったのは、太田君だ。
「本当に、こんなのでいいのか?」
太田君は、黒羽さんに紙でできた箱を見せた。
あれは何だろう?
僕は確認することはできなかった。
すぐ近くで猿の声がしたからだ!
「え」
見下ろすと、一匹の猿が塀をよじ登っているところだった。
その猿は周囲の猿より一回りは大きい。目つきは悪く、あごが突き出ていて凶悪な顔つきをしている。ボス猿という言葉がぴったりだ。
「つかまる所も無いのに、どうやって」
よく見てみると、塀に指をめり込ませるようにして登っている。
んな、バカな……。
どんな握力をしているんだ!
「わわわ」
ボス猿は、そのまま塀を上りきると、顔を塀の上に出した。
僕とは目と鼻の先だ。
僕の方を見てニヤリと笑ったかと思うと、手を突き出して……。
「ぎゃぁああぁ!」
僕は全力で梯子を下りようとした。
だが、間に合わない。
「落ちろ!」
黒羽さんの気合がこもった声がした。
猿の手が、もうちょっとで届くというところで、何かが僕の頭の上を通り過ぎ、猿の顔面に命中した。
「きぃいぃー!」
驚いたボス猿は、そのままバランスを崩し、ズルズルと下に落ちていった。
……助かった。
黒羽さんの方を見ると、野球選手のピッチャーように何かを投げ終えた姿をしていた。
ありがとう、黒羽さん。
黒羽さんは、続けて何かを塀の向こう側へ投げた。
一回、二回、三回……。
黒羽さんが投げた物が、空堀に落ちるたびに、猿達がその周囲に集まる。
一匹の猿が拾うと、嬉しそうな鳴き声を上げた――と思ったら、別の猿が奪い取った!
盗られた猿は怒ったのか、鋭い声で威嚇(いかく)するが奪った猿は意に介さない。
あ、最初の猿が横取りした猿を殴った。
今度は、殴られた猿が殴り返したぞ。
つかみ合いの喧嘩に発展したところで、猿の手から何かが落ちる。
そこへ、漁夫の利を狙った第三の猿が現れると、かっさらった。
「きー! きー!」
不満を爆発させた二頭の猿は、三匹目の猿に襲い掛かった。
他にも、傍で様子を窺っていた四匹目と五匹目の猿が、争奪戦に加わり……どんどん混乱が拡大していく。
今や、猿の群れは内乱状態だ。
当初の目的を完全に忘れている。
塀から落ちたボス猿が立ち直って、周囲の猿に怒っているが相手にされていない。
どさくさに紛れて、自分も奪おうとしているからだ。
――行動が、どことなく太田君に似ている気がする。
こうして、藤枝佐久夜姫の猿強襲部隊は自滅した。
それにしても、黒羽さんは何を放り込んだだろう?
双眼鏡で、猿達が取り合っている物を確認してみると――それは和菓子だった!
「和菓子? 和菓子を取り合っているの?」
想像の斜め上をいく答えだったので、思わず連呼してしまった。
黒羽さんの方を見ると、清々しい顔をしている。
自分の仕事をやり遂げ、結果に満足しているスポーツ選手のようだ。
「猿は、やはり猿だ。欲望を刺激してやれば、すぐに統制がきかなくなる。私がキャンプをしているときに現われたときも、食糧に対する執着が尋常ではなかったからな。読みが当たった」
黒羽さんが太田君に持ってこさせたのは、和菓子の詰め合わせだった。
太田君が持っている紙箱には『二羽』と書かれている。
地元で有名な老舗(しにせ)和菓子店の名前だ。
「勝利の後にたべると、格別にうまいな」
黒羽さんは、箱に残っていた和菓子を口に入れた。
「俺にもよこせ」
太田君も手を伸ばした。
せっかくなので、僕もいただくことにする。
「太田君、僕にもちょうだい」
太田君から、和菓子を受け取る。
僕が手にしたのは、豆餅だ。
上品な甘さと適度な塩味が合っていて、うまい。
思わず、顔がほころぶ。
「それにしても、うまくいったな」
太田君が二つ目の和菓子を食べながら、黒羽さんに感心したように言った。
「猟友会の会長に聞いたんだが、今年は餌になる食糧が少ないらしくてな。猿達も生きるのに必死なんだろう」
え?
僕の眼下では、猿達が少ない食糧を未だ奪い合っている。
「ふーん、そうか。で、もう残っていないのか」
食い意地の張った太田君は、残っていた和菓子をあらかた食べてしまった。
「寺には、こういった贈り物が多いらしい。本堂に行けば、いくらでもあるぞ」
太田君と黒羽さんは、鬼気迫る猿達を直接見ていないので、どこかのんきな調子だ。
「悪いけど、もう一個ちょうだい」
太田君に渡されたのは、最後まで残っていた最中(もなか)だ。
僕は最中を受け取ると、猿達の中に投げた。
なぜか、そうしたい気分だった。
猿達が内輪もめでボロボロになり、ほうほうのていで引き上げたことを確認してから、僕達は本堂へと向かった。
もうすぐ作戦決行の時間だ。
見張りは、もう必要ない。
クラスのみんなは、すでに秘密の抜け道から大願寺の外にいる。
大願寺に残っているのは、僕と太田君、黒羽さんに五雷君だ。
戌亥さんは、黒羽さんが残るなら私も残ると言ったのだが、黒羽さんの説得により納得してもらうことができた。
その結果、何かを決意したらしい戌亥さんは、クラスメイトに檄(げき)を飛ばし、極秘任務達成に向けて動いている。
最後に見た戌亥さんは、小柄な体から強烈な気迫を周囲に放っていた。
人は見かけによらないとは、このことだ。
大願寺に残ったメンバーの使命は、藤枝佐久夜姫の注意を引き付け、先に脱出したクラスのみんなが行動できるように時間を稼ぐことだった。
正直に言って危険が伴う仕事だ。
残るべきメンバーは、志願者制となった。
五雷君や黒羽さんは、当然のことのように名乗り出た。
それに、クラスの女子にもてたいと考えている太田君が続いた。
僕は迷ったけど、結局残った。
――黒羽さんのことが気になったからだ。
こういうと僕が黒羽さんに惚れているみたいだが、それは違う、違う。
梯子で黒羽さんに支えてもらったとき、黒羽さんは女の子だと意識してしまったからだ。
黒羽さんは、大変しっかりした人だけど――女の子。
女の子を残していくのも、男が廃(すた)るというか、なんというか。
「僕は太田君とは違うんだからね!」
思わず一人突っ込みをしてしまった。
「貴志、頭でも打ったのか?」
太田君に、ものすごく変な顔をされた。
黒羽さんからは、きょとんとした目で見られた。
「何でもない、何でもないよ」
僕はあわてると、二人を促した。
「さ、時間が無いんだし、急いで本堂に行くよ」
僕達は駆け足になった。
本堂に入ると、懐中電灯を持った五雷君が、天井裏から下りるところだった。
天井の一角に穴が開いていて、梯子がかけられている。
五雷君は穴を板でふさぐと床に下りた。
いったい、何をやっていたんだ?
「青葉君、その様子だとうまくいったみたいだね。念のために、奥の手を用意していたけど、この分だと使わなくてもいいみたいだね」
本堂は見たところ変わりがない。
だが、上の方から、ぎちぎちという正体不明の音がした。
「あの五雷君、この音は何なのかな?」
不安を煽る音は直ぐに止んだが、天井裏に何かが潜んでいるんじゃないか? という怖い想像が頭をよぎった。
「この寺が山城の跡地に建てられたというのは聞いたことがあると思う。だが、それは正確じゃない。跡地ではなくて、山城の建物を改装したのが、今の大願寺なんだ。この音は、山城だったときの名残なのさ」
五雷君はそこで僕達を見渡すと、芝居がかった動作で眼鏡をクイッと押し上げた。
「青葉君には、柳原安兵衛のことは話したよね。実は安兵衛の居城が、大願寺の元になった山城なんだ。ここには、柳原家数百年にわたる怨念が籠っているんだよ」
そうきたか!
天井裏には、柳原家の怨霊でも住んでいるというのか!
「その柳原家も、明治維新のときに所領を召し上げられ完全に没落。残った居城も売りに出す羽目になり、それを僕の先祖が買い取ったんだ。僕が藤枝佐久夜姫のことに詳しいのは、柳原家の末裔(まつえい)が僕の先祖に教えてくれたからなんだ」
柳原家の人は、どこまでも運が無いんだな……かわいそうに。
「柳原家は、こうして藤枝佐久夜姫の呪縛から解放された。藤枝佐久夜姫の脅威を知った五雷家は、その動向に注意するようになった」
壮大な話になってきたな。どこまで根が深いんだ、この問題。
眩暈(めまい)がしそう。
「柳原安兵衛というのは、私は初耳だ。悪いが、教えてもらえないか」
そうか、黒羽さんは知らなかったね。
興味深そうな顔をしている黒羽さんに、僕は答えた。
「柳原安兵衛というのは戦国時代の武士なんだ。その居城は――僕も今知ったんだけど、現在の大願寺が建っている所にあった。そこへ隣国から攻撃があり、落城寸前のところへ藤枝佐久夜姫が現れ――」
(ズドォオン!)
僕は最後まで言えなかった。
なぜなら、何かが吹き飛ぶ轟音(ごうおん)が聞こえたからだ!
音がした方を見ると、何かがこっちへ飛んでくる!
それは本堂前の地面に激突すると、バラバラになった。
破片をよく見ると、それは正門の扉だったらしいことが分かった……。
「ついに来たか」
なぜか、不敵に笑う五雷君。
「そのようだ」
何が来たのか察したらしく、厳しい目で境内を見つめる黒羽さん。
「まだ、何かあるのか」
げんなりした感じの太田君。
「もしかして、藤枝佐久夜姫!」
最悪の展開に戦慄(せんりつ)する僕。
ラスボスが向こうからやって来たのか!
これは想定外だぞ。
魔王はラストダンジョンで待ち構えているものだろうに!
こちらは、軍師、王子、遊び人(勇者?)、町人A(僕)しかいない。
ど、どうにかなるのか。
僕の心配を余所(よそ)に、恐怖の大王は姿を現した。
まず目に入ったのは雪のように白い髪、それから金色に光る瞳だ。
それだけは、遠目からも分かった。
ぶち破った正門を潜り、しずしずと境内に入ってくる。
橋も無いのに、どうやって渡ってきたんだろう? と思っていたら、足元が地面から浮いていることに気が付いた!
「うそ!」
のどの奥から驚きの声が出た。
首にかけていた双眼鏡で、慌てて姿を確認する。
背はスラリと高く、百七十センチはあるだろう。
艶(つや)やかな髪は、腰まで届いている。
細い眉は柳のように綺麗な線を描いている。
形の良い鼻はツンと高く、気が強そうだ。
血色の良い唇は小さく、ぷくっとしている。
顔は卵型、だが引き締まった印象を受けるのは、切れ長の目に力があるからだと思う。
御伽噺(おとぎばなし)に出てくる高貴なお姫様といった顔立ちなのだが、どこか野生的な感じを受ける。
人間だったら、二十歳ぐらいか。
服は白い羽織のような着物と赤い袴(はかま)。
神社の巫女のような服なのだが、服のあちこちには金糸銀糸で豪華な刺繍(ししゅう)がされている。
飾りの付いた金色の簪(かんざし)を頭に刺し、このまま映画に出れそうなほど華やかだ。
歴史ものであれば、はまり役だろう。
だが、麗(うるわ)しい姿に似合わない禍々(まがまが)しい物が右手に握られている。
それは真っ黒な扇だ。
鳥の羽根を集めて作ったとおぼしき、大きな扇。
座布団くらいの大きさはあるだろう。
よく見ると、扇の羽根がざわざわと蠢(うごめ)いているのが分かった。
「ざわざわ?」
見間違いかと思ったところで、藤枝佐久夜姫(多分、そうだ)が扇を横に払った。
その途端、辺りに突風が吹き荒れた。
本堂の障子が軋む。
「これで正門を破ったのか!」
台風のような風を感じる。
小便をちびりそうだ。
あわわわ……。
「奥へ避難するんだ!」
五雷君の声で我に返った。
目指すは本堂の一番奥、御本尊(ごほんぞん)が安置されている所だ。
「わぁーあ!」
全力疾走(しっそう)だ。
僕達が御本尊の裏に飛び込んだところで、障子が吹っ飛んだ!
外れた障子が御本尊の横を飛んでいく。
障子は盛大な音を立てて本堂の壁に当たると床に落ちた。
つ、次は何が起こるんだ。
戦々恐々としながら身構えていたが――何も起こらなかった。
ど、どうしたんだ?
これで終わりってことはないよね。
本堂には静けさが戻った。
だが、これは嵐の前の静けさだ。
何か起こるぞ、起こるぞ……。
「貴志、ちょっと見に行けよ」
不安に耐えられなくなった太田君が、とんでもないことを言い出した!
「いや、太田君こそ」
さぁ勇者になるんだ、太田君。
僕と太田君が譲り合いの精神を発揮していると、黒羽さんの鋭い声が聞こえた。
「静かにしろ! 藤枝佐久夜姫がやって来るぞ」
一気に血の気が引いた。
心臓をわしづかみにされたような気分だ。
目の前が暗くなる。
「青葉君、僕が合図をしたら、そこの紐を思いっきり引っ張ってくれ」
心なしか緊張した面持ちの五雷君は、それだけ言うと御本尊の陰から出ていった。
「ダメだよ、五雷君!」
五雷君の手をつかもうとしたら、黒羽さんに止められた。
「待て、青葉。五雷を信じるんだ。あいつは勝算も無く動くようなやつじゃない」
五雷君の方を見ると、理知的な二つの瞳に見つめ返された。
何もあきらめていない。僕にまかせて――そこには、どんなときも冷静で余裕のある物腰を忘れない、いつもの五雷君がいた。
「分かったよ、五雷君」
ここまできたら、他に選択肢は無い。
やるしかないんだ。
僕は震える手で、近くの天井から伸びている紐を握った。
五雷君が御本尊の前に立つと、辺りに澄んだ声が響いた。
「神への懺悔(ざんげ)は済んだ? 悔い改めても、もう遅いわよ。でも慈悲深い私は、あなた達に選ぶ自由をあげる」
声の主は、姿を現さない。
声も反響して、どこからしているのか、はっきりとしない。
だが近くからだ。
「私が誰だか分かっているわね。私は藤枝佐久夜姫よ」
どこだ、どこにいるんだ。
「一つ、残りの一生を私の奴隷(どれい)として過ごす」
「二つ、心を入れ替えて熱心な信徒となり、藤枝神社繁栄のために奉仕する」
「三つ、藤枝佐久夜姫を崇め敬い、私の命令なら何でも行う」
どれも同じことじゃないか!
お先真っ暗だ!
「答えは、どれもノーだ」
五雷君は、ばっさりと斬捨てた。
「あぁ、そう」
周囲の空気の温度が下がったような気がした……。
「よく聞こえなかったわね!」
突如、本堂の中で暴風が荒れ狂った。
畳という畳が全て捲(めく)れ上がる。
このまま、本堂が倒壊するんじゃないか! と思ったところで、暴風は止んだ。
ほっとしたら膝から力が抜けそうになったが、踏ん張った。
遊園地で絶叫マシンに乗ったときも、こんな感じだった。
だが、今のをもう一度されたら、腰が抜けてしまうことだろう。
風が止み、直立していた畳が倒れ始めると、その向こう側に白い髪が見えた。
本堂の入口に立っているのは、藤枝佐久夜姫だ。
「もう一度だけ言うわ。私を崇めなさい、敬いなさい。そんでもって、絶対服従しなさい!」
何て性質(たち)の悪い脅迫なんだ!
理不尽過ぎて涙が出そう。
「あなたは一体何様のつもりなんだ!」
毅然(きぜん)と言い放ったのは黒羽さんだ。
「神様ですけど何か?」
藤枝佐久夜姫は当然のことだと言わんばかりだ。
こんなひねくれた神様なんて、聞いたことが無い。
これ以上何を言えばいいんだろう?
掛ける言葉が僕には出てこなかった。
「これだけは言わせてもらいます」
五雷君は、落着いた声で話し始めた。
「僕達が抵抗するのは、あなたには神として欠けているものがあるからです。それさえ改善してもらえれば、僕達は喜んであなたに従うでしょう」
五雷君の様子が余りに自然なためか、藤枝佐久夜姫もおとなしく聞いている。
礼儀正しくお辞儀をすると、五雷君は顔を上げた。
それから女神の瞳を見つめて、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。
「それは性格です」
うわ、言っちゃった!
藤枝佐久夜姫の方を見ると、何を言われたのか分からなかったのか、きょとんとしている。それから、徐々に事態を理解し――鬼のような形相になった。
目には見えないが、頭に二本の角が生えているようだ。
「今、何て言った!」
怒りの声が、辺りにビリビリと響いた。
「本当のことです」
火に油を注ぐ五雷君。
「こんなに虚仮(こけ)にされたのは何百年ぶりかしら。あなたは直接、私の手で神罰を下してあげる。そこへなおれ、腹を切れ!」
ずんずんと歩いて近づいてくる藤枝佐久夜姫。
天井があるためか、今は浮いていない。
ついに本堂の真ん中辺りにまで来てしまった。
僕達がいる御本尊の所まで、あと少しだ。
「一つ言い忘れていました」
五雷君が藤枝佐久夜姫の足元を指差した。
「さっきの大風のせいで、蜘蛛(くも)が天井から落ちてきました」
五雷君が示した所には、黒っぽい蜘蛛がもぞもぞしている。
「ほら、あなたの肩のところにもいますよ」
藤枝佐久夜姫の動きが止まった。
慌てて、肩に止まった蜘蛛を払い落とそうとしている。
「青葉君、今だ!」
えいや!
僕は握っていた紐を力いっぱい引っ張った。
天井裏からガタンと音がすると、地響きのような音が始まった。
「え?」
ぎょっとした藤枝佐久夜姫が天井を見上げるが、もう遅い。
落ちてきた天井は、そのまま藤枝佐久夜姫を押し潰すと、床に激突した。
本堂いっぱいに轟音が響くと――埃(ほこり)がもうもうと立ち込めた。
本堂の天井は吊(つ)り天井だった。
僕が引いた紐は、吊り天井のスイッチだったんだ!
「これが奥の手さ。柳原家の人間が、藤枝佐久夜姫に対抗するために用意していた秘密兵器さ」
五雷君が言っていた、柳原家の怨念とはこのことか!
こんな物を造るなんて、どれだけ恨んでいたんだ。
おかげで、助かったけど。
藤枝佐久夜姫はぺしゃんこになってしまったのか?
さすがに、それはいけないことなんじゃないか。
どうしようもない祟り神だけど、命まで奪うことは――。
「おーのーれー」
地の底から響いてくるような怨嗟(えんさ)の声が聞こえた……。
ひょっとして、いやひょっとしなくても。
良くない展開なんだけど、なぜかほっとした。
「こんなことじゃ藤枝佐久夜姫は倒せない。せいぜい時間稼ぎにしかならないんだ」
五雷君の指示は迅速(じんそく)だった。
「だから、今の内に脱出するよ」
僕達は脱兎(だっと)のごとく逃げ出した。
後にした本堂から、重い物を動かす音が聞こえる……。
気になったので後ろを振り返ると、落ちた天井がガタンガタンと動いていた。
持ち上げるつもりなんだろうか。
「貴志、急げ」
太田君に声を掛けられて、僕は意識を切り替えた。
今は大願寺から退避することが先だ。
僕達は境内の隅にある井戸に向かうと、井戸の蓋(ふた)を外した。
この井戸は、実は涸井戸(かれいど)だ。
しかも井戸の底は、寺の外に繋(つな)がる抜け道になっている。
六年三組のみんなも、ここから外へ出て行った。
井戸の淵にかかった縄橋子(なわばしご)を伝い、僕達は井戸の底に立った。
遠くから不吉な声が聞こえる。
「どこだー、どこにいる。おとなしく出てきたら、一瞬で楽にしてあげるわよ。無駄な抵抗は止めて、出ておいで」
怒りのあまり、錯乱(さくらん)しているようだ。
……逃げよう。
僕達は、なるべく音を立てないようにしながら抜け道を進んだ。
さすがと言うべきか、五雷君は懐中電灯を持ってきていた。
おかげで、真っ暗な中を進まずにすんだ。
僕は、何も持ってきていない。
太田君は、大きなビニール袋を手に提げていた。
「太田君、それは何なの?」
確か、大願寺にやって来たときも同じ物を持っていたな。
「へへ、これは俺の切り札さ。みんなを驚かせてやろうと思って持ってきたんだが、こんなことになるなんてな。役に立ちそうだぜ」
誇らしげに笑う太田君。
どんな役に立つんだろう?
――不安だ。
「出口だ」
先頭を歩いていた五雷君が、突き当りの壁の前で止まった。
足元には小さな穴が開いており、外からの光が漏れていた。
どうやら、最後は這(は)い出ないといけないらしい。
外は大丈夫だろうか?
藤枝佐久夜姫が待ち構えているなんてことは――ないと願いたい。
「私が外の様子を見てくる。安全を確認したら声を掛けるから、そのつもりでいてくれ」
黒羽さんはしゃがむと、穴の淵に手を掛けた。
「それなら僕が行くよ」
黒羽さんには、ボス猿に襲われそうになったときに助けられた。
今度は僕の番だろう。
「気持ちだけもらっておく」
黒羽さんは小さく笑った。
そして穴に潜り込むと、すぐに見えなくなる。
残された僕らは無言になった。
大丈夫だよね――。
不安でどきどきしながら待っていると、黒羽さんの声が聞こえた。
「大丈夫だ、来てくれ」
良かった。
五雷君、僕、太田君の順番で穴を潜る。
外に出ると、そこは大願寺が建っている丘の中腹だった。
辺りには胸の高さ位の草が生え、欝蒼(うっそう)としている。
暗い所から急に明るい所に出たので、太陽が眩しい。
目をパチパチとしていると、太田君の情けない声が聞こえた。
「悪い、腰がつかえた。引っ張ってくれ」
太田君が通るには、穴は小さすぎたらしい。
上半身だけが穴の外に出た状態で、太田君はバタバタともがいていた。
僕と黒羽さんで太田君の手をつかむと、穴から引きずり出す。
うん、重い。
食べすぎだよ、太田君。
よいしょっと。
「あぁ、助かった。ありがとよ」
太田君は礼を言うと、パンパンと服に付いた泥を払った。
僕は無駄に疲れた。
「時間が惜しい、すぐに行くぞ」
黒羽さんの掛け声の下、僕達は穴の前から続く獣道を下り始めた。
この獣道は、できて間もない。
踏まれて折れた草が青々としている。
恐らく、先に脱出した六年三組のみんなが草を踏み分けて作ったものなのだろう。
おかげで、麓までは楽に下りることができた。
麓には僕達の自転車が留めてある。
自転車の鍵を外すと、五雷君が決然と言った。
「行こう藤枝神社に!」
僕達は自転車を必死にこぎながら、藤枝神社に向かっていた。
藤枝神社が大願寺に現われたことで、元々の段取りよりも、早く行動しなければならなくなったからだ。
五雷君は自転車をこぎながら、作戦の肝に当たる部分を再確認している。
「柳原家の人間は、藤枝佐久夜姫の奴隷という立場から解放されるために、藤枝佐久夜のことを徹底的に調べたんだ。その結果、有効な対抗手段を見つけた。それは藤枝佐久夜姫の諱(いみな)だ」
「いみなって何?」
僕の疑問に、五雷君の解説講座が始まった。
「いい質問だね、青葉君。諱とは、古くは中国の……」
こうなると五雷君は長い。
「日本では、卑弥呼も諱を持っていたと言われている。皇族や御公家さん、武士なんかも、普段の呼び名とは別に諱があったんだ。さらには――」
さすがは五雷君、歴史の勉強にもなりそうだよ。
気持ちよさそうに話していて悪いんだけど、頭が痛くなるから僕なりにまとめさせてもらうね。
諱というのは魂の名前であり、それを知れば相手の行動を制限できる――というのが、五雷君が言いたいことらしい。
「そうすると、藤枝佐久夜姫というのは偽名なのか?」
黒羽さんが、もっともな疑問を口にした。
「偽名というわけではないよ。藤枝佐久夜姫といのは、藤枝神社の初代宮司が、暴れん坊の女神様に送った名前で、それはそれで正しいんだ。芸能人が使っている芸名みたいなものだね。それとは別に、本名と言うべきものがあるんだ。諱というのは、家族などの極親しい間でしか使われない特別なものなんだ。洋の東西を問わず、相手の本当の名前を知ることで、その相手を呪ったり支配するという信仰が存在する。藤枝佐久夜姫も例外じゃない」
五雷君、よくそこまで調べたね。
本当に感心してしまう。
「ようは、あの女神様をおとなしくさせる魔法の呪文があるってことだろ」
太田君がまとめた。
藤枝神社に到着した頃には、日も傾きかけていた。
西の空が薄くオレンジ色になっている。
暗くなる前に済ませないと、身動きができなくなる。
僕達は自転車で神社の境内に乗り込むと、その場に留めた。
目指すは、藤枝神社の宝物殿だ。
五雷君が言うには、ここに保管されている『初代宮司の日記』に、藤枝佐久夜姫の諱が書かれているそうだ。
五雷君は発行された全ての『藤枝神社通信』を読み込んで、その事実を突き止めたらしい。
「見つけた、こっちだ。でも鍵が掛かっている」
僕は本殿の裏手に木造の倉庫を思わせる建物が建っていることに気が付いた。
入り口に宝物殿という額が掛かっている。
だが、入れない。
どうする、宮司さんに事情を説明しても信じてもらえないだろうし……。
「方法はある、僕に代わって」
五雷君が僕と入れ替わりで入り口の前に立つと、ポケットから精密ドライバーを二本取り出した。
なぜか、その内の一本は、先っぽがL字形に曲がっている。
五雷君は、ドアの鍵穴にドライバーを突き刺すと、がちゃがちゃと動かし始めた。
テレビのサスペンスドラマで見た光景だ。
ドラマの刑事は、ピッキングと呼んでいたと思う。
「五雷君、それはまずいよ!」
はっきり言って犯罪だ。
やっちゃいけないことだ。
「後で元に戻しておくから、大丈夫だよ。今は緊急事態だからね」
それは、そうかもしれないけどさ。
黒羽さんや太田君の方を見ると、二人は既に腹をくくっている感じだ。
ええい、やむをえない。
僕はクラス一の優等生が泥棒まがいのことをしているのを見守った。
五分ほどして、扉が開いた。
五雷君、やけに手際がいいね。
ひょっとして、やり慣れていない?
「旧式の鍵で助かった。思っていたよりセキュリティーが甘かったね。さ、中に入るよ」
深くは考えないでおこう……。
宝物殿の中はひんやりとしていた。
収蔵品を劣化させないために、温度管理が徹底しているらしい。
壁際に付けられた電気のスイッチを入れる。
蛍光灯が点いて、暗かった部屋が明るくなった。
部屋の広さは、学校の教室くらいだ。
入り口と反対側の壁には、窓が一つ。
木製の棚が何列も並べられ、値段の高そうな壺や皿、反物(たんもの)なんかが、ぎっしりと置かれている。
貯め込んだなぁ。
宝物殿という言葉がぴったりだ。
「ここに置いてある物の多くは、柳原家が貢(みつ)がされた物なんだ」
五雷君は、棚に並べられた宝物を物色しながら、部屋の中をグルッと回った。
お目当ての物が見つからないのか、さらにもう一度……。
「うーん、ここにあるはずなんだけどねぇ」
思案顔の五雷君。
僕にも覚えがある。
けんかをして、母さんにマンガ本を全て隠されたときも、こんな感じだった。
こういうときは、意外な所で見つかるものだ。
誰も注意していないような所とか。
そんなことを考えていたら、部屋の隅で平積みにされている本の山が目に入った。
「まさか」
僕の直観がビビッと反応した。
近くで見てみると、積まれていたのは和綴(わと)じの本だった。
茶色く変色していて、どれも年季が入っていそうだ。
表紙に名前が書いてある。
『藤枝神社縁起』
『巷説(こうせつ)藤枝佐久夜姫物語』
『柳原安兵衛顛末(てんまつ)記』
他にも、難しい漢字で題名が書かれた本がいっぱい。
三、四十冊はあるだろう。
その中に気になる一冊を見つけた。
『藤枝神社日誌(一)』
多分、これが当たりだ。
「みんな、こっちに来て」
五雷君と一緒に棚を見ていた、黒羽さんと太田君がやって来た。
「あれ、五雷君は?」
五雷君はというと、鑑定士のように宝物をじっと見つめていた。
「良い壺だ……」
渋いよ、五雷君。
骨董品(こっとうひん)の趣味まであったのかい。
「ちょっと五雷君、見つかったよ」
放っておくと、いつまでもそうしていそうなので、僕は声を掛けた。
「――いや、すまない」
当初の目的を思い出したのか、五雷君はキリッとした表情になった。
だが、ほんのり顔が赤い。
内心は恥ずかしいようだ。
「見せてもらえるかな」
僕の側にやって来た五雷君に、僕は日誌を手渡した。
五雷君が中身を確認している間、僕は五雷君の肩越しに本の内容を見てみた。
「なに、これ?」
ミミズがのたくったような字が毛筆で書かれている。
達筆過ぎて読めない。
崩し字というやつだ。
「古文書の心得はあるけど、これはひどいな」
困ったという顔の五雷君。
「崩し字がどうのこうのという以前に、字が汚い。しかも誤字脱字が多いから、解読には時間がかかりそうだ」
意外な落とし穴が見つかった。
「なんてこった」
太田君が天を仰ぐ。
「とりあえず、読めるところだけでも読んでみよう」
黒羽さんの提案に従い、解読作業が始まった。
みんなで日誌を囲むと、頭を突き合わせて、文字を追う。
全く読めないというわけではなく、所々は僕でも読める部分があった。
意味が通る文章になるよう、読めない所は想像で補ってみる。
あーでもない、こーでもない。
「……どうやら、このページだね」
本とにらめっこしていた五雷君が、怪しい箇所を見つけ出した。
藤枝佐久夜姫の名前が、初めて出てきたページだ。
その前のページでは、柳原安兵衛を助けた女神のことが書かれている。
間には、神社を造るにあたり、後の初代宮司が女神の名前を聞くシーンが書かれているようだ。
「藤枝佐久夜姫というのは、初代宮司が名付けたものだ。だから宮司の質問に答えて、諱を答えているところがあるはずだ」
黒羽さんが自分の推理を披露(ひろう)する。
どこだ、どこだ……。
これか!
『阿頼無波羅土我見着物』
わけが分からない。
これって、どう読めばいいんだ!
「当て字もいいところだね……」
いやぁ、参ったよとでも言いそうな五雷君。
「素直にカタカナで書けばいいのに、無理に格好をつけたんだろうぜ」
うんうんと頷きながら、なぜか作者に共感している太田君。
「かくなる上は、どうにかして今の宮司に協力してもらうしかない」
どこまでも現実的な黒羽さん。
「そうと決まれば、善は急げだ」
散らかった本を整理し、後片づけを始める僕。
ここに忍び込んだという証拠を消さなければならない。
これで、よし!
「五雷君。宮司さんには、何て説明しようか」
宝物殿の扉を開けると、外は夕焼け空で真っ赤だった。
夕日に照らされた空は鮮やかで、怖いくらいに綺麗だった。
もうすぐ、完全に日が沈む。
確か、こういう時間帯を逢魔が時と言うんだった。
昼と夜が入れ替わるときには、何か悪い者が出てくる――テレビの心霊番組で聞いたセリフだ。
まさかね。
「見つけたわよ! 覚悟しなさい!」
本当に出た!
僕は扉をバタンと閉めた。
悪鬼羅刹(あっきらせつ)と化した藤枝佐久夜姫が、境内の入り口で仁王立ちしている。
服はあちこちがボロボロ。
長い髪を逆立て、般若のような顔で睨んでいる。
二度と会いたくない。
「来たか」
黒羽さんが静かに呟いた。
「へへ、いっちょやるぜ」
太田君は、持ってきたビニール袋をごそごそしだした。
外からは、絶え間ない怒声がしている。
「とっとと出てこい! 盗人(ぬすっと)どもが! 私の物に手を出すとはいい度胸だ。そこにあるのは、あなた達じゃ一生縁の無い……」
言っていることが、なんかがめつい。
宝物殿に入った理由を、完全に勘違いしているようだ。
五雷君は、神が言うとも思えない野次を聞きながら、策を練っていた。
「藤枝佐久夜姫が、僕の考えている通りの性格なら、まだ手はある」
私は怒っていた。
この藤枝佐久夜姫に、ここまでの狼藉(ろうぜき)を働いたのだから。
私の好意を無視して反抗することが、まず許せない。
神の言うことが聞けないというのだろうか?
初代の宮司などは、私に仕えろと言われて、泣いて喜んだものだ。
神に奉仕するというのは、人間として名誉のことだ。
その機会を用意してあげたのに、感謝の念が無さすぎる。
昔の人間は、言われなくても自発的に行い、私を楽しませたものだ。
それが、何なのだろうか?
神の使いを撃退し、私の申し出を断り、吊り天井の下敷きにするとは!
あまつさえ、私の持ち物に手を出そうとしている!
「八つ裂きにされたくなかったら、今すぐここに来て、詫びを入れろ!」
思わず、右手に力が入った。
握った扇の柄から、ぎりっと嫌な音がする。
この扇は、天狗(てんぐ)の羽根で作ったものだ。
何十年か前、近くの霊山に、山の神として崇められている天狗がいたのだが、私とは反りが合わなかった。
ことあるごとに突っかかってくるので、私自らの手で懲(こ)らしめてやった。
そのときに、二度と刃向う気がおきないように羽根をむしってやったのだ。
この扇には、その天狗の神通力が宿っている。
一振りで大風から竜巻まで起こせる優れ物だ。
風を操れば空も飛べる。
あの天狗も、最後に良い置土産(おきみやげ)をしてくれたものだ。
私に敗れた天狗は、山の神としての地位を失い、大部分の神通力も無くし、いずこかへ去っていった。
神の世界も厳しいのだ。
そんな神様にけんかを売った愚かな子供達が、ここにはいる。
さて、どうしてくれよう。
うん? 観念して出てきたか。
「げっ、あいつら何てことを」
私は呆気(あっけ)に取られた。
最近の親は、どういう教育をしている!
私の宝物をどうするつもりだ!
僕達は意を決して、宝物殿の外に出た。
ただし、手には金目の物を持ってだ。
僕と太田君で持っているのは西陣織の帯だ。
二人で煌(きら)びやかな帯を横に広げると、叫んだ。
「西陣織シールド!」
今にも爆発しそうな藤枝佐久夜姫の姿が見える。
扇を握った右手がぶるぶる震えていることからも、それは明らかだ。
「おかしなことをしてみろ、この壺を叩き割るぞ!」
黒羽さんが抱えているのは、伊万里焼の壺だ。
頭くらいの大きさしかないが、数百万円は下らないというのが、五雷君の鑑定結果だ。
「僕達が逃げるまでの間、じっとしていて下さい」
五雷君が広げているのは、水墨画の掛け軸だ。
「あなた達、自分が何をしているのか分かってる!」
藤枝佐久夜姫は、額に青筋を浮かべているが僕達も後には退けない。
「分かっているつもりです。これで、僕達の覚悟が伝わったと思います。僕個人としては、あなたに経済的損失を与えたくない。だから、ここは見逃して下さい」
五雷君の説得は、藤枝佐久夜姫に届くのだろうか?
藤枝佐久夜姫は、怒り、焦り、歎き……と表情がくるくる変わり、百面相をしているようだ。
手にしている扇からは、持ち主の心境を表すように、ごうごうと暴風が出ている。
「そ、そう。分かったわ。百歩譲って、ここは見逃してあげてもいいけど、私の物に傷を付けたら、即殺すわよ!」
暴風はやがて渦を巻き、小型の竜巻が境内に現われた。
竜巻に向かう風のせいで、体制を崩しそうだ。
僕達はじりじりと移動を始めた。
遠くでサイレンの音が聞こえる。
しめた、もうちょっとだ。
太田君と僕の二人で持っていた帯を、僕一人で支える。
その間に、太田君は帯の陰で準備中だ。
隠し持っていたビニール袋から、太田君の切り札を取り出そうとしている。
藤枝佐久夜姫は、このことに気付いていない。
僕達が宝物殿の端にまで来たときだった。
「もう限界。これ以上、自分を抑えられない!」
藤枝佐久夜姫が、ぎりぎりと扇を振り上げようとした。
「やれ、太田!」
黒羽さんの掛け声に、太田君が答えた。
「おうともさ!」
帯の陰から、太田君が花火の筒を藤枝佐久夜姫に向ける。
『太田スペシャル』とでも呼ぶべき、凶悪極まりないロケット花火だ。
四本の三十連発ロケット花火をガムテープでグルグル巻きにして、大きな一本の花火にしている。
単純計算で百二十連発、太田君はこれを両脇に一本づつ抱えている。
どうだ、しめて二百四十連発だ!
太田君が誇らしげに、がははと笑う。
「ふーん、そんな物が私に通用するとでも思っているの?」
藤枝佐久夜姫は、心底呆れたという顔をした。
気を反らされたのか、扇の動きが止まっている。
「撃ちたければ撃てばいいけど、私の所まで届かないわよ」
藤枝佐久夜姫の周囲は、突風が荒れ狂っている。
花火を撃っても、明後日の方向に行くだろう。
「いや、これでいいんです。太田君は良い仕事をしてくれました」
最後の時間を稼ぐことができたのだから。
訝(いぶか)しそうな表情を浮かべた藤枝佐久夜姫の背後で、消防車のサイレンが鳴り響いた。
「なに!」
境内に続く参道の向こうには、消防車の他にもパトカーや救急車が見える。
間に合った。
戌亥さん達は、作戦に成功したみたいだ。
「おっしゃあ!」
花火を抱えていなかったら、太田君はガッツポーズを取っていだだろう。
遠目に消防隊員、警察官、救急隊員が、こちらにやって来るのが見えた。その数は、合わせて二十人以上。その他にも、ビデオカメラやカメラを構えた、マスコミ関係の人間とおぼしき人達もやって来る。
想像以上に、うまく集まったようだ。
「な、なに。あなた達は、何をしたの!」
藤枝佐久夜姫があたふたとしている。
意外と、突発的な事態には弱いらしい。
五雷君は、ゆったりとした動作で掛け軸を巻くと、その場に置いた。
「ふっふっふっ、かかりましたね。あなたが今まで好き勝手できたのは、その存在を世間が知らなかったからです。だが、これからは違う。藤枝佐久夜姫の存在は、新聞、テレビ、果ては警察にまで知れ渡り、それら全てが、あなたを追いかけるでしょう」
五雷君は人の悪い笑みを浮かべると、天を仰いだ。
「そうなれば藤枝神社の会計も調べられて、帳簿の不自然な点も見つかります。どうして地方の神社に、これだけの資産があるのか。ああ、なんということだ。最後には税務署がやって来て、全てを持っていってしまうとは」
マスコミと警察の力を利用して、藤枝佐久夜姫の動きを封じた上、身ぐるみを剥がす。
最後は、追い詰められた藤枝佐久夜姫が夜逃げを図り、六年三組には平和が戻る――というのが、『藤枝佐久夜姫破産作戦』だ。
本作戦は、『諱ですっきり解決作戦』がうまくいかなかった場合の保険でもある。
六年三組のメンバーは、このために奔走(ほんそう)していたわけだ。
藤枝神社に可能な限りの人間を集めるため、みんな、がんばってくれた。
打ち合わせの通りなら、こんなことをしていたはずだ。
ある者達は、警察署に何度も発煙筒を投げ込み、追いかけてきたパトカー数台を藤枝神社にまで誘導した。
またある者は、消防署に偽の火災連絡をし、藤枝神社一体が大火事だと思った消防車を出動させた。
他にも、ガス管が爆発して瀕死の重傷者が何人もいると、迫真の演技で救急車を呼んだ者もいる。
新聞やテレビ局を引っ張ってくるために、脅迫まがいのことをした者もいるはずだが、これは後で謝って済むかどうか分からない。
みな、必死だ。
藤枝佐久夜姫の脅威が無くなっても、夏休みの間中は自宅謹慎か、お詫びの奉仕活動か?
ええい、今は考えるな。
後は野となれ山となれ!
「……そう。だったら、仕方がないわね。これから先は、どうなっても自己責任よ! 神の怒りがどういうものか、思い知るがいいわ!」
藤枝佐久夜姫は、扇を振り上げた。
たちまち風の勢いが強くなり、小型の竜巻が大型の竜巻へと膨らみだした。
目が座っている。
何かやる気だ。
「どれだけ人を集めても、全て吹き飛ばしてしまえば、どうと言うこともない! 目撃者さえいなければ、なんとでもなる。あの人達は、あなた達の代わりに犠牲になるのよ」
藤枝佐久夜姫は参道を進む一群の方を向くと、肩の位置まで上げていた扇を、さらに頭の上まで振りかぶった。
やばい、口封じをするつもりだ!
早く避難してもらわないと。
くそ、ここからじゃ声が届かない。
「藤枝佐久夜姫、これを見ろ!」
声を張り上げたのは黒羽さんだ。
腕を組んで、仁王立ちをしている。
持っていた壺は、地面に置かれていた。
藤枝佐久夜姫が、首だけをひねって僕達を見た。
「なに、今さら命乞い。白旗を上げるにしても、もう遅いわよ」
さぁ、やるぞというところで水を差され、不機嫌そうだ。
「違うな。敗北するのは、お前の方だ! 太田、最後の仕上げだ! きっちりきめろ!」
「言われなくてもな、やってやるぜ!」
太田君は、体の向きをクルッと回転させると、抱えている『太田スペシャル』の照準を定めた。
『太田スペシャル』が向けられた先は、開け放しにされたままの宝物殿の入り口だ。
すかさず五雷君が、ポケットから取り出した百円ライターで導火線に火を点ける。
シュッと音を立てて導火線に火が伝わり、『太田スペシャル』は火を吹いた。
「おらおらおら!」
狂ったように、太田君が雄叫びを上げる。
「きぃやぁあ、やめてぇえー!」
藤枝佐久夜姫は絶叫すると、僕達の方に向き直った。
つられて、扇が振り下ろされる。
本殿の方に向かって!
「あぁああぁあ……」
藤枝佐久夜姫が、口をあんぐりと開けている。
この世の終わりだとでも言いたそうだ。
扇の指示に従い、動き出した竜巻が本殿に激突する。
メキメキだか、バキバキだか、耳を覆いたくなるような破壊音が響いた。
「青葉、伏せろ!」
黒羽さんの声がしたかと思うと、腰に衝撃を受けた。
持っていた帯を落とす。
地面に突っ伏していると、頭の上を何かが飛んでいくのを感じた。
木材の破片だろう。
黒羽さんは、僕を蹴飛ばして助けてくれたみたいだ。
急いで起き上がると宝物殿の陰に避難する。
そこへ黒羽さんと五雷君も飛び込んだ。
あれ、太田君は?
辺りを見ると、太田君はまだ『太田スペシャル』をぶっ放し続けていた。
最後まで撃たないと、気が済まないらしい。
「バカ、太田!」
黒羽さんは太田君の所まで行くと『太田スペシャル』を奪い取り、地面に捨てた。それから腰の入った右ストレートで太田君を沈めると、引きずり始めた。
僕も飛び出すと、太田君を宝物殿の陰にまで押し込む。
「悪い、興奮しちまった」
黒羽さんの前で手を合わせると、太田君は苦笑いした。
やれやれ、太田君らしい……。
「ともかく、みんな無事で良かった。頭を低くして、やり過ごすんだ」
五雷君は頭の上で手を組むと、その場にしゃがんだ。
僕達も、それにならう。
そうして、どれぐらいの時間が経っただろうか?
十分以上かもしれないし、もしかすると一分に満たないかもしれない。
不気味な破壊音が止んでいることに気が付いた。
「もう、大丈夫かな?」
僕の呟きに、太田君が顔を上げた。
太田君と顔を見合わせていると、境内の方で何かが倒れる音がした。
ビクッ!
だが、何も起こらなかった。
壁から首を出して、恐る恐るのぞいてみる。
「あ!」
本殿の右半分が吹き飛んでいた。
境内には、木材の破片が散乱している。
つい三十分前までは、傷一つ無かったのに、今では見る影もない。
そんな無残な姿をさらす本殿を前にして、藤枝佐久夜姫は、がっくりと地面に膝をついていた。
さっきの音は、藤枝佐久矢姫が崩れ落ちた音だったようだ。
なんだか、目が虚ろだ。
心、ここにあらず。
余りのショックに放心状態になっているのだろう。
だが、そんな悠長(ゆうちょう)なことをしている暇は無かった。
パシャ。
突如、カメラのフラッシュがたかれた。
続いて、境内に駆けてくる複数の足音。
「今のは、何だ? 誰がやった!」
「火事はどこだ!」
「けが人はどこだ!」
「スクープだ! 今なら夜のニュースに間に合うぞ!」
藤枝佐久夜姫に引導を渡すべく、六年三組が集めた刺客達が押し寄せる。
この戦いも終わりが近い。
戦意を喪失している藤枝佐久夜姫では、新たな脅威を防げないだろう。
藤枝佐久夜姫の存在は全国中に知れ渡り、テレビを始めとするマスコミに追いかけ回されるはずだ。
もはや、安住の場所は無い。
一生、逃げ回る生活だ。
これで決着――のはずだが、なんかひっかかる。
自衛のためとはいえ、ここまでしてしまっていいのだろうか。
がっくりと落ち込んでいる藤枝佐久夜姫を見ていると、そんなことを考えてしまう。
「おい、しっかりしろ」
いつの間にか、黒羽さんが僕の横に立っている。
黒羽さんの声に迷いは無い。
困っている人は放っておかないのが黒羽さんだ。
たとえ、相手が藤枝佐久夜姫だったとしても。
クラスでケンカをすることがあっても、後にひきずらず、過去にぶつかった相手にも手を差し伸べる。
爽やかで情に厚く、義理堅い。
それが『六年三組の王子様』だ。
「逃げろ! もう、いいだろう!」
僕も声を上げる。
これ以上の争いごとは、たくさんだ!
終わりにしよう。
「待って、ここまできて、何を言っているんだい!」
五雷君が、僕と黒羽さんを止めようとする。
気色(けしき)ばむ五雷君を止めたのは太田君だった。
「まぁ、いいじゃねぇか。これ以上、悪くなることはねぇよ」
『太田スペシャル』を撃ちまくって、すっきりした顔の太田君。
なんだか頼もしく見える。
「もうちょっとで完全勝利なんだよ。これで藤枝佐久夜姫は、表舞台から完全に消えるんだ」
五雷君が食い下がる。
完璧主義者だからな、五雷君は……。
なんと言ったものか。
「そうなった藤枝佐久夜姫は、日の当たる世界には戻ってこれず、完全に日陰(ひかげ)暮らしか。あの姉ちゃんには、今まで、さんざんひどい目にあわされたけどよ。だからって、何をやってもいいのか?」
太田君の発言に、五雷君がぐっと詰まる。
五雷君は物事を合理的に考えるけど、目的のためなら手段を選ばない非道な奴ではない。
ときに無茶苦茶な作戦を立てることもあるけど、五雷君なりの守るべき仁義がある。
だから、クラスのみんなも頼りにするんだ。
「……そこまで言うなら、僕からこれ以上言うことはない。だが、ここで藤枝佐久夜姫を助けるということは、覚悟がいるよ」
冷静に考えて、自分の考えにも非があると思ったらしい。
やっぱり紳士だね、五雷君。
「ぼやっとしてないで、さっさと起きろ、この祟り神!」
しゃっきりしない藤枝佐久夜姫に、黒羽さんが業を煮やした。
「暴れることしかできない、頭からっぽの性格破綻者(せいかくはたんしゃ)のくせに、しおらしく落ち込んでいるんじゃない!」
言っていることがひどい。
黒羽さん、励ましているつもりかもしれないけど、それはきついよ。
そこへ太田君が悪乗りする。
「ぺちゃぱい、ずんどう、金の亡者」
地面に手を突いていた藤枝佐久夜姫の背中が、ふるふると震えている。
「自分で本殿を壊した、大間抜け」
藤枝佐久夜姫が、がばっと起き上がった。
「お前が、それを言うか!」
噛み付きそうな勢いで太田君をにらむと、藤枝佐久夜姫は扇を一振りした。
辺り一帯に、砂ぼこりが舞い上がる。
「うわ、今度はどうしたんだ!」
遠くから、驚きの声が聞こえる。
見ると境内に突入してきた人達の足が止まっていた。
「これで勝ったと思ったら、いけないんだからね!」
捨てゼリフを残すと、藤枝佐久夜姫は神社の森へ飛び込んだ。
その動きが余りに早かったので、白い塊(かたまり)が森の方へ飛んで行ったようにも見える。
「あれは何だ!」
「カメラを回せ」
「追いかけろ」
我に返った人達で境内が騒がしくなった。
今は謎の白い飛行物体に注意が向いているが、やがて僕達の存在にも気付くだろう。
「ずらかるぞ」
太田君は、藤枝佐久夜姫が飛び去ったのとは反対方向を指差した。
そこは欝蒼(うっそう)とした森だ。
藤枝神社の周りは、鎮守の森が広がっている。
太陽は沈み、辺りは急速に暗さを増しているから、森に入れば逃げられるだろう。
「ここで捕まるのはまずい、ひとまず撤退だ」
五雷君は声を潜めると、抜き足差し足で移動し始めた。
なんか泥棒みたい。
宝物殿の端から森までは、十メートルくらいだ。
極力足音を立てないようにして、僕達は森へと移動した。
幸い、誰にも気づかれなかった。
だが、森に入ってからが大変だった。
懐中電灯を点けると、僕達がいることがばれてしまうので、真っ暗の中を進まなければならなかったからだ。
「いて!」
木の根につまづいて、転ぶ。
「しっ、声を出すな」
黒羽さんに注意されつつ、僕達は歩き続けた。
結局のところ、森を出るまでの間に僕は七回、太田君は四回、五雷君が一回転んだ。
黒羽さんは夜目がきくのか一回も転ばず、すたすたと進んだ。
ぬかるんでいる所にこけたので、僕の服はどろどろだ。
「あー、帰ったら、なんて言おう」
最後の最後でつまづいてしまった。
言い訳を考えるのに気を取られてしまい、周囲の状況に無警戒になる。
それがいけなかった。
ひょいと森を出たところで複数の懐中電灯の光に照らされた。
ぎょっとなる。
警察が待ち構えていたのか?
はたまたマスコミか。
このまま、明日の朝刊の一面を飾ることになってしまうのか。
不吉な予感にどきどきしていると、場違いに明るい声が聞こえた。
「明ちゃん、無事だったのね」
喜びを隠しきれずに飛び出してきたのは、戌亥さんだ。
懐中電灯を照らしていたのは、大願寺で別れた六年三組の面々だった。
「どこも怪我してない。ひどいことをされなかった」
僕の後ろにいた黒羽さんの所へ、戌亥さんは駆けて行った。
すぐ側には太田君もいるのだが、戌亥さんの目には入っていないようだ。
「ああ、大丈夫だ。私の方はなんともない。戌亥の方こそ、大変だっただろう」
あれだけのことがあった後で、戌亥さんを気づかえる黒羽さんは、本当に凄いと思う。
世が世なら、戦国武将にもなれたんじゃないかな。
五雷君を軍師に招いて、二人で全国制覇を目指してそうな気がする。
僕の空想をよそに、黒羽さんと戌亥さんは、きゃっきゃっと二人の世界を作っている。
この様子を見ていると、危機は去ったんだなぁと、しみじみ思えた。
それは、六年三組のみんなも同じだったらしい。
「終わったんだな」
「やったね」
「凄かった」
「俺達、やり遂げたんだよな」
それぞれの健闘を讃える言葉が、あちこちから聞こえてくる。
本当に長い一日だった。
死ぬかと思うこともあった。
だが、みなの力で切り抜けることができた。
ちょっとした奇跡みたいだ。
「あー、疲れた」
僕は大きく伸びをした。
腹が減った。
家へ帰ろう。
僕達は藤枝神社で別れると、家路についた。
泥まみれの姿で家へ帰ると、母さんは驚いたが、近江牛のすき焼きで頭がいっぱいだったせいか、深くは聞かれなかった。
風呂に入ってから、食卓につく。
父さんは帰りが遅くなるとかで、二人で先に食べ始めた。
母さんは、これ幸いと近江牛を食べまくった。
普段はおっとりしてるくせに、こういうときの母さんは情け容赦がない。
「ああ、おいしい。とろけるような味ね」
おかげで、父さんは白滝と野菜ばかり食べるはめになった。
あの日を境にして、六年三組のメンバーが怪事件に巻き込まれることはパタッと無くなった。
藤枝佐久夜姫にまつわる一連の事件は解決したみたいだ。
藤枝神社の本殿が半壊した件は、地元新聞の一面を飾ったけど、それも数日の間だけだった。
真相は闇の中。
突発的な竜巻によるものとして片づけられそうだ。
藤枝佐久夜姫のことは、事件発生当時、謎の怪人物がいたと一部のマスコミで報道されただけだった。
僕達、六年三組が起こした騒動――警察、消防署、マスコミに行った犯罪まがいの行為――は、結局、おとがめ無しだった。
理由は知らない。
五雷君が教えてくれないからだ。
多分、知らない方がいいと五雷君は判断したんだろう。
それでも気になるので、自分で想像してみる。
あの騒動を抑えるためには、どう考えても、あちこちに根回しが必要だ。
警察、消防署、地元の新聞社……。
関係のある全てのところが、六年三組の暴走を黙認していると見ていい。
無論、これだけのことは五雷君でもできない。
では、誰がそんなことをできるのか?
一番ありそうな話は、五雷君のお父さんやお爺さんが、裏から手を回したということだろう。
大願寺の門徒には、地元政治家、地方新聞社の社長、税理士、警察署長……といった、そうそうたる顔ぶれが揃っているから、不可能ではない。
この情報は、僕の父さんからだ。
父さんが、肉が残っていないすき焼きを一人食べているとき、その姿が寂しそうだったので、僕が父さんに話しかけたのだ。
そうしたら話が大願寺のことになり、あの寺は、この町を裏から支配しているんだと陰謀論を聞かされた。
五雷君のお爺さんのことを『紫衣の宰相(しえのさいしょう)』と、父さんは呼んでいた。
父さんいわく、五雷家は何代にも渡って、地元有力者と婚姻(こんいん)を繰り返しているらしい。
その結果、五雷一族と地元の権力者は親戚なんだそうだ。
だから、この町では、大願寺はどんなことでもできる――というのは、父さんの妄想(もうそう)だろう。
父さんは真面目すぎて、思い込みが強いところがある。
それはさておき、興味深い話だった。
大願寺で籠城戦をしていたとき、なぜか五雷君の家族は留守にしていた。
では、寺を離れて一体何をしていたのだろう?
もしかすると、このとき、町の有力者に会っていたのではないか?
これから起こる藤枝佐久夜姫との抗争で、大変なことが起こるが目をつぶってほしいと、協力を要請していた……。
突飛すぎる考えか?
うーん、僕も父さんのことを言えないな。
本当のことは、いつか、五雷君が話してくれるだろう。
夏休みも半分ほど過ぎたところで、登校日がやってきた。
事務的な連絡を学校からされるだけなので、昼前には終わる。
今は、体育館で校長先生の話を聞いているところだ。
体育館の床に三角座りをしながら、退屈な時間が続く。
お尻が痛くなってきたので、そろそろ終わらないかなと壁の時計をチラチラ見ていると、先生の人事移動についての話になった。
「六年三組には、夏休み明けから副担任として、新任の先生に来ていただきます」
これは初耳だ。
どんな人が来るんだろう?
「では、藤枝先生。みなさんにごあいさつをお願いします」
藤枝?
なぜか、とても嫌な予感がする。
檀上に新任の先生が現れた。
腰まで届く黒い髪は手入れが行き届いているのか、ツヤツヤと光沢がある。
背はスラリと高く、百七十センチくらい。
眉は細く柳のような……?
うん、この先生、どこかで見たぞ。
「初めまして、新任の藤枝佐久夜と言います。この春、大学を出たばかりで右も左も分からない状況ですが、皆さん、仲良くして下さい」
そこには、髪を黒く染め、金色の瞳はカラーコンタクトでごまかしたとおぼしき藤枝佐久夜姫が立っていた。
こんなのありか!
復讐(ふくしゅう)しに来たのか!
黒いスーツをきっちりと着こなしている姿は、本当に新任の先生のようだ。
だから、ありもしない希望にすがることになる。
き、きっと人違いだ。
ただの、そっくりさんだ。
体育館から教室に戻る間中、僕は自分にそう言い聞かせた。
「大丈夫、大丈夫。ただの偶然、偶然……」
ぶつぶつ呟きながら渡り廊下を歩いていると、後ろから涼やか声がした。
「そこの君、ちょっと待ちなさい」
よく通る心地よい声だ、いつまでも聞いていたくなる。
だから素直に振り返った。
「後で、体育館の裏まで来るように」
丁寧な口調にだまされた――そこにいたのは、教師の皮を被った祟り神だ。
近くで見て思ったけど、どう見ても藤枝佐久夜姫だ!
しかも、呼び出された先が職員室ではなく、体育館の裏だ!
「確かに伝えたから」
それだけ言うと、藤枝佐久夜姫は職員室の方へ去って行った。
あー、生きた心地がしない。
どうしよう、逃げるか?
逃げたら、逃げたで怖いことになりそうだ。
そうだ! 五雷君に相談しよう。
他力本願な考え方だけど、今はそれしかない。
教室に戻ると、僕は五雷君の姿を探した。
「こんなときに限って、五雷君や黒羽さん、太田君すらいない!」
なんてこった!
もしかして、すでに三人は藤枝佐久夜姫の魔の手にかかってしまったのか。
いや、太田君はともかくとして、五雷君と黒羽さんがやすやすと倒されてしまうとは思えない。
だが三人は、ホームルームが始まっても戻ってこなかった。
なぜか、担任の冴内先生もクラスメイトもそのことに気づいていない。
「先生、五雷君や黒羽さん、それに太田君が戻ってきていません」
僕がそのことを言っても、ろくな反応が返ってこなかった。
「確かに戻っていないな。そうかな? そうだ。次に夏休み中の注意だが……」
クラスの誰もがこの調子、誰かに頭をいじられたとしか思えない。
かくしてホームルームが終わり、教室には誰もいなくなった。
一人で行くしかない。
冷たい汗が、僕の背中を伝った。
正直に言って、僕が行ったところで何かできるだろうか?
それでも――見て見ぬ振りはできない。
悲壮な覚悟で教室を出ると、廊下の奥に小柄な人影が見えた。
「戌亥さん、どうしたの」
帰ったはずの戌亥さんが、教室に向かって歩いている。
忘れ物でもしたのだろうか?
「青葉君、明ちゃんを知らない? 誰に聞いても、知らないって言うの」
どうやら、クラスの中でも戌亥さんだけは正気だったらしい。
戌亥さんに、今起こっていることを話した方がいいのだろうか。
いや、黒羽さんなら、きっとこうする。
「黒羽さんなら、きっと大丈夫。僕もこれから探しに行くところなんだ。僕は校舎の外を探しに行くから、戌亥さんは校舎の中を探してね」
戌亥さんと別れると、僕は体育館の裏に向かった。
これで、戌亥さんに危険が及ぶことはないだろう。
戌亥さんと会ったことで、少し冷静になった。
やけになっちゃいけない。
最後まで粘らないと!
校舎の外に出て歩いていると、グランドにの隅にある用具庫の前を通りかかった。
管理がずさんなのか、鍵が開いていたので、しまってあった金属バットを一本借りた。
バットのグリップをギュッと握りしめる。
「よし!」
魔王が待つ体育館へと、僕はそろりそろりと近づいていく。
「伏魔殿(ふくまでん)に到着と」
体育館の壁に背中を預けて深呼吸。
藤枝佐久夜姫が待つ体育館の裏は、そこの角を曲がったところだ。
陽気な夏の日差しの下、学校はいたって平和に見えるというのに、僕はこれから人外魔境に入ろうとしている。
じっとしていると気持がくじけそうになるので、一気に行くことにした。
「一、二の三!」
そこに、魔王がいた――ただし、ランチタイムだった。
地面にビニールシートを広げて、優雅にお茶を飲んでいる。
シートの上には紅茶の茶器が一式、それとお弁当。
スーツ姿で寛いでいる姿は、OLがお昼を取っているようにも見えた。
「はぁ?」
構えたバットの向こうには、いなくなった五雷君、黒羽さん、太田君の三人がいた。
ただし、三人とも重箱入りの弁当を箸(はし)でつついている――藤枝佐久夜姫と一緒に!
「みんな、どうしたんだ! 何があったんだ?」
もしかして、三人とも頭をどうにかされたのか?
混乱している僕に、太田君が声を掛けた。
「貴志、とりあえず、そこに座れ」
ちょいちょいと手招きをされる。
迷ったけど、ここまできたら他に選択肢はないので、おずおずとシートの端に座る。
ここで暴れても事態は好転しないだろう。
「青葉君、さぞかし驚いたことだろうね」
本当に、想像の斜め上の展開だった。
五雷君の様子におかしな点はない。
いつもと同じ落着いた口調だ。
「藤枝佐久夜姫が学校にいることに気づいたのは黒羽さんだ。体育館で全校集会が始まる前に、僕に教えてくれてね。これは、どうにかしないといけないと思って、黒羽さんと二人で放送室に向かったんだ」
校内に緊急放送をするつもりだったようだ。
「その途中で太田君と出会ったんだけど、藤枝佐久夜姫に見つかってしまってね。大変だった」
五雷君は藤枝佐久夜姫の方を見るが、偽女教師は素知らぬ顔で芋の煮っ転がしを食べている。
「なんとか放送室まで逃げ込むと、入り口の扉に鍵を掛けることはできた。だが、窓を突き破って入られてしまったんだ」
そのときのことを思い出したのか、五雷君は珍しく渋い顔をした。
「どうなることかと思ったぜ」
五雷君の後を太田君が引き継いだ。
「このまま死んじまうのかと思っていたら、いきなり協力しろだもんな。頭がついていかなかったよな、本気で」
協力しろ?
藤枝佐久夜姫が、そう言ったのか。
「なんか事情があるみたいなんだよな、よく分からんけど」
太田君は、コップに注いだお茶をずずっとすすった。
「そろそろ教えてくれてもいいだろう。いったい何を企んでいるんだ? 教師の真似なんかして、どうするつもりなんだ」
黒羽さんが、しごくもっともなことを言う。
太田君とは違い、黒羽さんは注意深く様子をうかがっているようだ。
「お前に私達を襲うつもりがないのは分かった。その気があるなら、とうに無事では済まなかったからな。だが、放送室の窓ガラスを割ったのを、生徒のいたずらにみせかけろという指示は何なんだ? 口裏を合わせたり、小細工をするのに、放課後までかかったぞ」
教室に戻らず、三人はそんなことをしていたのか。
でも、なぜ?
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な藤枝佐久夜姫らしからぬ指示だ。
「私にも都合というものがあるのよ」
今まで口をつぐんでいた藤枝佐久夜姫が、ぶすっとした表情を作った。
「壊れた本殿だけど、掛けていた保険金が半分しか下りなかったのよ! おかげで、私が働くはめになったわけ!」
早口でそれだけ言うと、藤枝佐久夜姫は出し巻き卵に箸を突き刺した。
「きー、信じられる。あそこまで壊れたら、一度全てを取り壊して建て直さなければならないのに、保険会社ときたら半壊だから保険金は半分しか出ないと言うのよ!」
口の中に出し巻き卵を放り込むと、もぐもぐと食べる。
「宮司はショックのあまり寝込むし、放っておいたら御神木で首をくくりかねなかったわよ。どうしようもないから、宮司には私がどうにするから、安心しなさいと夢枕でお告げをしたわよ。あー、もう」
思い出すと腹が立つのか、バクバクと弁当のおかずを食べていく。
「宝物殿の物を売ればいいじゃないか。あれを処分すれば、本殿の再建費を引いてもお釣りがくる」
五雷君が、あっさりと解決策を出した。
実は、宝物殿の収蔵品は無傷だ。
『太田スペシャル』を使うのに先立ち、予め宝物殿の窓を開けておいたのだ。
入り口と反対側にある窓だ。
藤枝佐久夜姫から見ると分からなかったろうが、宝物殿に撃ち込んだ花火は、開いた窓から外へと出て行くようになっていたのだ。
「嫌! 何が悲しくて商売繁盛の神様が、そんなことをしなければならないの。人のために貧乏をするなんて、ありえない!」
神様って、もっと人間に優しいものなんじゃないの?
もちろん、そんなことは怖くて口には出せなかった。
「ふーん、その結果が、その姿か」
黒羽さんが冷静な突っ込みを入れた。
「そうよ! あなた達のところなら、どれだけ無茶をしても心が痛まないわ。残りの人生を棒に振りたくなかったら、私に協力しなさい」
そんなことを言われても……。
「それ以前に、教師なんて務まるのか?」
黒羽さんから、鋭い指摘を受ける藤枝佐久夜姫。
人を教えるなんてことは、苦手そうだ。
僕にも想像できない。
「だから、それらを含めて協力しろと言っているのよ!」
無茶苦茶だ。
いつものように、力技で乗り切ろうとしている。
「まぁ、なんとかなるんじゃね」
おもしろければ、それでいいという立場の太田君は、この状況にもどこ吹く風だ。
「いい、分かったわね!」
強引に承諾(しょうだく)させられてしまった。
学校からの帰り道、僕は気が重たかった。
お腹がパンパンだ。
出された物は、残さず食べろという藤枝佐久夜姫の方針により、用意されていた弁当を僕達は平らげた。
恐らく、これが藤枝佐久夜姫なりのものの頼み方なんだ。
「神様と一緒にご飯を食べることで、親ぼくを深めるという行事は、日本全国にある」
食べながら五雷君は、そう教えてくれた。
黒羽さんは、戌亥さんと一緒に帰って行った。
校舎の入り口で待っていた戌亥さんは、黒羽さんの姿を見て心底安心したようだ。
五雷君は調べることがあると言って、途中で別れた。
「藤枝佐久夜姫が、どうやって学校の人事にねじ込んだか気になるしね。それに、青葉君の話だと、クラスのみんなも様子が変だったということだから」
六年三組の平和を守るため、五雷君は去って行った。
太田君は新刊の雑誌があるとかで、一人本屋へ向かった。
「今日発売の漫画雑誌なんて、何かあったっけ?」
僕の疑問に、太田君はへへへと意味深な笑いを残した。
何の雑誌を買うつもりだい、太田君。
藤枝佐久夜姫は、新人教師の歓迎会があるとか言っていた。
ただ飯を食えるが嬉しいらしく、るんるんしていた。
はしゃいでボロを出さなければいいけど……。
「これから、どうなるんだろうな」
思わず、心の声が出た。
夏休みが明けたら、今までとは違う六年三組になっているのは間違いない。
藤枝佐久夜姫も教師として過ごすつもりだから、ぶっとんだことにはならないと――いいな。
あれこれと考えてみたが、これ以上心配しても仕方がない。
「きっと、なんとかなるよね」
夏休みが始まってから今日まで、何度も危ない目にあったけど、どうにかなったのだから。
だから、今は残りの夏休みを楽しむとしよう。
深く考えたら負けだ!
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