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1巻
1-3
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「あの、もしよかったら、近くで絵を見てもいいですか?」
カイルが心を開いてくれたことをいいことに、ダリルはおずおずと申し出た。
「……別にいいけど」
「っ、ありがとうございます!」
ダリルは急いで床に散らばった掃除道具をバスケットに詰めて部屋の出入り口付近に置くと、キャンバスのほうへ駆け寄った。
改めてまじまじと絵を見て、思わず感嘆の息を漏らした。
「近くで見るとさらにすごいですね。同じ葉っぱでも場所で全然色合いが違う。……あ! 床に時々こびりついている染みはこの絵の具だったんですね!」
ベッドの上でシーツに包まっているカイルのほうを振り返る。まだ顔を見せないまま「そうだ」と答えた。
「なるほど、ようやく合点がいきました。いやぁ、最初は血じゃないかと思って驚きましたよ」
「普通に考えたら血とは思わないだろう。まったく、覗き見をするにしても不注意だし、ダリルは本当にそそっかしいんだな」
カイルが呆れたように溜め息をつく。
十以上も歳下の子供にそそっかしいと言われ、ダリルは複雑な気持ちになった。
「ははは、まぁ確かにそそっかしいのかもしれません。弟にも『兄さんは危なっかしくて目が離せない』ってよく言われていましたし。ところで、絵はまだ他にあるんですか?」
自分のそそっかしさをこれ以上言及されるのが恥ずかしくなって、さりげなく話を逸らす。
「あるけど……」
「どんな絵を描いているんですか?」
「この部屋から見えるものばかりで、その絵とそんなに変わらない」
「でも並べたら時間の移ろいが感じられて面白そうですね」
「……他の絵も、見るか?」
ぼそり、と小さな声でカイルが訊いてきた。
振り返ると、包まったシーツの隙間からちょこんと顔を出してじっとこちらを見つめている。物言いは不遜だが、ダリルの反応を窺うその顔は臆病で、あどけない期待の眼差しが躊躇いがちに向けられている。
それは前世で妹が、小説を書いていると打ち明けてくれた時の目とよく似ていた。
ダリルは懐かしさと愛おしさを感じて、顔を綻ばせ「もちろん、見せてください!」と明るく答えた。
カイルはもぞもぞとシーツから出ると「持って来るからそこに座って待っていろ」と言い置いて、いつも掃除の時に隠れているクローゼットに向かった。
どうやらあそこは服ではなく、絵に関するものを入れているようだった。
小さな両腕でキャンバスを目一杯抱えてこちらに駆け寄って来るカイルの姿に、ダリルは一層目を細めた。
****
カイルから、姿を見せることも顔を見ることも許可されたあの日以降、ダリルの仕事の幅は大きく広がった。
カイルの部屋への食事運びや身支度の手伝いなど、これまでローマンがひとりでやっていた仕事を多く引き継ぐことになった。
これにはローマンも大喜びだった。
『カイル様に信頼できる人間が増えることは喜ばしいものです』
仕事を引き継ぐ際、ローマンは口癖のようにそう言いながらにこにこと頬を緩めた。
本当に信頼されているかは別として、心を許してくれたのは確かであり、ダリルは以前に増して仕事に精を出すようになった。
ただひとつ、予想外の仕事がひとつ増えた。
ある日、いつも通り朝食を部屋に運んだ時のことだ。
「今日からダリルもここで食べろ」
脇に控えようとしたダリルを呼び止め、カイルが隣の椅子をポンポンと叩いた。
「え?」
思いもよらない言葉に目を丸くする。しかしその表情は、すぐに戸惑いに変わった。
「あの、そのお言葉は嬉しいのですが、使用人が屋敷の主と食事をとるのはどうかと……」
常識的に考えればあまり褒められたものではない。カイルがそこまで心を開いてくれたことは嬉しいが、それでは他の者に示しがつかないだろう。
その辺は年上である自分のほうが考慮しなければならないと思っての言葉だったのだが、カイルはムッと鼻に皺を寄せた。
「僕は屋敷の主じゃない。主の子供だ。だから関係ない」
珍しく子供っぽい屁理屈をこね、再び椅子の座面を叩く。
「でも……」
「もし僕がこの屋敷の主だと言うなら、それこそ主の命令を聞かないのはどうかと思うぞ」
「ですが――」
「カイル様の言う通りですよ」
答えに困っているダリルに、あるいは是が非でもダリルと食事がしたいカイルに助け舟を出すように現れたのは、配膳用カートを押して部屋に入ってきたローマンだった。
カートにはカイルの食事と同じものが載っていた。
「せっかくですから召し上がってください。給仕は私がしますので」
「えっ、でも、それじゃあローマンさんに悪いです」
ローマンの負担を軽くするために雇われたところもあるのに、それでは本末転倒もいいところだ。
遠慮するダリルにローマンがこっそりと耳打ちした。
「カイル様は長い間、おひとりでお食事をしてきたのです。きっと寂しかったのでしょう。ですから、どうか一緒に召し上がってください」
耳元から口を離すと、ローマンは優しく微笑んだ。
ローマンの言葉で、食事に誘うカイルの子供っぽい強引さの理由にようやく合点がいき、ダリルはようやく頷いた。
「では、お言葉に甘えていただきます」
ダリルの言葉に、パッとカイルの表情が明るくなった。
「そうだ、それでいい。分かったらさっさと座れ」
言い方は相変わらず傲慢だが、隣の椅子を叩くその手は弾んでいて、くすりと笑みが零れる。
「それでは座らせていただきます」
「ああ、座れ」
ダリルが腰を下ろすと、手際よくローマンが食事をテーブルに並べた。
「ダリル、お前は嫌いな食べものはあるか?」
「いえ、ありませんよ。なんなら雑草だって食べられるくらいですから」
悪役令息の役目を終えた後、無一文になっても食べるに困らないように雑草料理を学んだ賜物だ。少し得意げに答えるダリルに、カイルが笑った。
「ダリルは本当に変な奴だな。でも嫌いなものがないのは好都合だ。ローマンが給仕をしているんだ、ダリルも仕事をしないとな」
そう言うと、皿の上の人参のソテーをフォークで刺してダリルの口元に差し出した。
「ダリルの仕事は毒味だ」
ニッとカイルが悪戯っぽく唇を吊り上げる。ダリルはちらっと皿の食事に目をやった。
「……では、そのメインの魚のムニエルも毒味していいんですか?」
「これはだめだ。今日のメニューでいえば、後はブロッコリーだな」
「……これはもしかして毒味という名の嫌いなもの処理係ですか?」
「そんなわけないだろう。毒味だよ、毒味。ほら、食べて」
唇にぷにぷにと軽く人参を押し当てられ、ダリルは苦笑しつつ口を開いて人参を含んだ。
「どうだ? 毒は入っていそうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。すごくおいしいです」
「そうか。それじゃあ次はブロッコリーだ」
そう言って、ブロッコリーにフォークを刺すカイルは至極楽しそうだった。
脇に立つローマンも、その様子に目を細めていた。もちろん、ダリルもである。
こうしてダリルの仕事に『毒味係』が新たに加わったのだった。
****
「もう少しで完成ですか?」
掃除を終えたダリルは、筆を走らせているカイルの背後からキャンバスを覗きこんで訊いた。
少し前まで、カイルはダリルが掃除中は邪魔にならないように気遣ってソファで本を読んでいたが、最近は窓辺で絵を描いていることが多い。
恐らく、描いている途中にダリルから感想を言われるのが嬉しいのだろう。その証拠に、甘えたがりだが素直になれない猫が飼い主の様子を窺うような期待混じりの視線が、時折ちらちらと向けられる。
そんな可愛らしい視線を無視できるはずがない。ダリルは視線を感じる度に頬を緩め、掃除をする手を速めるのだった。
「ああ、今日中には完成させる」
カイルはひと伸びしながら答えた。
素人のダリルの目には十分完成しているように思えるが、カイルからしたらもう少し手を加える必要があるようだ。
(すごいな。妥協を許さない芸術家って感じだ)
感心しながらダリルは微笑んだ。
「完成したら見せてくださいね」
「見せなかったらどうする?」
ダリルのほうを振り仰ぎながら、カイルが悪戯っぽく笑う。その健やかな笑みは、痛々しい頬の痣をかすませるほどで、ダリルの目尻も自然と下がった。
「そうですねぇ……、その時は食事を人参料理ばかりにしてもらいます」
「地味に嫌な嫌がらせだな」
くくっ、と喉を震わせてカイルが笑う。
「分かった。せっかくの食事を台なしにされるのは嫌だから、完成したら見せる」
「そう言ってくださってよかったです。私もカイル様の食事をすべて毒味するのは心苦しいので」
「よく言うよ」
二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。
「それにしても、カイル様は本当に絵が上手ですよね。専門の先生から指導を受けたりしたんですか?」
ふと、前々から気になっていたことを訊いてみた。
この絵のうまさは生まれついてのものもあるだろうが、それだけではないだろう。
何気ない質問だったのだが、カイルは少し答えに詰まったように視線を床に落とした。
何か踏み入ってはいけない事情がありそうなのを察して、慌てて口を開こうとしたダリルだったが、それよりも早くカイルが答えた。
「……いや、専門の先生はいなかった。ただ、お母様が上手で、いつも隣に座って見ていたのを覚えている」
カイルは筆を置いてぽつぽつと話し始めた。
「小さい頃だからぼんやりとした記憶でしかないけど、絵を描くお母様はとても楽しそうで目がキラキラしていた。そんなお母様の顔やどんどん完成に近づくキャンバスの絵を見ていたらこっちまで楽しくなってきて、ただ見ているだけなのに全然飽きなかった」
思い出を語る声は薄い湿り気を帯びていたが、表情は懐かしさに優しく緩んでいた。その温かな思い出がダリルにも伝わってくるようだった。
「……ダリルは僕のお母様が亡くなっていることは知っているよな」
「は、はい。カイル様が三歳の頃に病気で亡くなられたと聞きました」
痣の件には触れず、聞いた事実のみを簡潔に答えると、カイルは悲しげに目を伏せて頷いた。
「その通りだ。……お別れを言う間もなくいなくなって、当時の僕にはわけが分からなかった。泣いて泣いて、ようやく死んだことが分かった時に、もっとお母様のことを知りたかったって思った。だから、絵を描いた。お母様の絵を繰り返し真似て描きまくった。……でも絵が上達しただけで、結局は何も分からなかったけどな」
自嘲するように笑うと、カイルは話を打ち切るように再び筆を持ってキャンバスに向かった。
カイルがこんなにも個人的なこと、特に家族のことを話したのは初めてだった。だからこそ、その真意を図りかねた。
何か言葉をかけるべきだろうか。いや、別に慰めを求めているわけではなく、ただ話したかっただけなのかもしれない。むしろ的外れな慰めは彼の気分を害す可能性すらある。
だが、何も分からなかったというカイルはひどく悲しげで、母を知りたいがための健気な自身の行動を無駄だと嘲笑って否定しているのを見て、余計に胸が痛くなった。
だから気づくと口を開いていた。
「……何も分からなかったってことはないと思いますよ」
カイルが振り返る。見開いたその目に微笑みかけながらダリルは続けた。
「だって、絵を描いているカイル様はすごく楽しそうで、その顔とキャンバスに出来上がっていく絵を見ていると私までわくわくしてきて……。それって絵を描くお母様を見ていたカイル様と同じ気持ちですよね。そんな気持ちにさせてくれるカイル様の絵を描く姿は、きっとお母様と通じるものがあるんだと思います」
そしてその通じるものを得られたのは、紛れもなく母の絵を模写し続けたカイルの健気な努力の賜物だ。
「お母様の生まれや性格、好きだったものは他の人に聞いたりすれば分かるでしょうけど、でも絵を描く時の目が輝くような気持ちは、きっと他の人には分からないですよ。お母様のことを知りたいと思ってお母様の絵をたくさん真似て描いたカイル様だからこそ、分かったんだと思います」
きっと、母の絵を何度も辿ることで、言葉にできないものを時を越えて共有したに違いない。
「だから、断言できます。カイル様のしたことは決して無駄じゃありません」
この年でここまでの画力に達したのだ。何度も何度も母の絵を真似て描いたのだろう。それは並大抵のことではない。
だから亡き母を知りたいという一心で繰り返した努力を、たとえそれがその当人だとしても、無駄だなんて思ってほしくなかった。
「……」
カイルは俯き、筆を握りしめた拳を膝の上に置いた。
「……本当に無駄じゃなかったと思うか?」
震える小さな声で、カイルが言った。
ダリルは隣にしゃがむと、膝の上の小さな手をぎゅっと握りしめて答えた。
「はい、もちろんです。そのおかげで、絵を描いている時のお母様の気持ちを知ることができたんですから。そのことに関してはきっとカイル様が世界一です」
力強く言って、下から覗きこみながら笑顔で真っ直ぐカイルを見つめる。すると、大きく見開かれた目が涙で潤んだ。
「……っ」
涙の気配を感じたのだろう、カイルは慌てて目元をごしごしと腕で拭った。
「……ダリルのせいだ。僕はもう大丈夫なはずなのに、……ダリルといると泣き虫になる」
赤い目で八つ当たり混じりに睨むカイルに、ダリルは小さく笑った。
「いいじゃないですか、泣き虫でも。まだ子供なんですから」
「……もう六歳だ。子供じゃない」
拗ねたようにプイッとカイルがそっぽを向く。六歳はまだ十分子供だけどな……という言葉は呑みこんで「そうですね」と苦笑混じりに同意した。
その苦笑に、呑みこんだ言葉を察したのだろう。カイルはムッと口をへの字に曲げた。
「子供扱いするな」
「すみません。そんなつもりは――」
「どうせ子供扱いするなら、頭くらい撫でろ」
カイルの言葉を遮って、ぼそりとカイルが言った。その頬は赤く、こちらに向けている眼差しは拗ねた子供そのものだった。
ダリルはくすりと笑って、カイルの頭を優しく撫でた。こういったことに慣れていないのか、最初こそ居心地が悪そうにそわそわしていたカイルだったが、徐々にその頬は緩んでいった。
その変化にダリルのほうも心が温まり、自然と微笑みが口元に浮かんでいた。
****
カイルの毒味係に任命されて一ヶ月ほど経った頃、カーティスが別邸に来るという報せをローマンから受けた。時期的な忙しさも落ち着いて時間ができたということらしい。
カーティスの訪問前日、使用人総出で屋敷を隅々まで掃除するために早めに起きたダリルは、ベッドの上でカーティスについて思いを巡らせた。
(噂では、真面目で厳格な人物で、敵に対しては容赦ない冷酷さを持ち、それゆえに呪われた公爵だと聞いたけど――)
先日、庭園で思わぬ形で対面したが、噂のような冷酷さは感じられなかった。だが、雇い主であることには変わりない。
(いつも以上に気を張って頑張らないと!)
ダリルは気合いを入れるために両頬をパチン! と叩いてベッドから降り、身支度を始めた。
一日中、屋敷の掃除をしてヘトヘトになっていたダリルだったが、夕食を前にして目を輝かせた。
「わぁ、おいしそう!」
「別にいつもと変わらないだろう」
隣に座るカイルが大袈裟だなとでも言うように溜め息をつきながら、毒味用、もとい自分の嫌いな野菜を皿の上で選り分けている。
「今日は屋敷中をピカピカに掃除したので特別おいしそうに見えるんです」
「つまりいつもは手を抜いているということか」
「いえいえっ、そんなことは断じてありません!」
慌てて否定するダリルに、カイルがくすりと笑う。
「分かってるよ。ダリルが手抜きなんて、そんな器用なことできるはずないもん」
「……もしかして、馬鹿にしてます?」
「褒め言葉だ。はい、口開けて」
いつも通り毒味用のものをフォークに刺して、ダリルの口元に差し出す。
自分で食べられるので皿に移すだけでいいと前に言ってみたが、どうも手ずからあげたいらしい。
(ペットへの餌やりみたいな気持ちなのかな……。もしくは弟や妹がいないからお兄さんぶりたいのか)
どちらにせよ、カイルがこれを楽しんでいるようなので大人しく従う。
「どう? 毒は入ってそう?」
「いえ、とてもおいしいですよ」
「ならよかった」
そう言ってまた別の野菜をダリルの口へと運ぶ。その楽しげな様子に、前世で妹のおままごとに付き合っていたことを思い出し、顔を綻ばせた。
「――そういえば、明日ですね。カーティス様が来られるのは」
食事を終えたダリルは、ふとカイルの父、カーティスの来訪を話題に上げた。
母親の話は聞いたことはあったが、父親についてカイルの口から語られたことはまだなかった。だから少し気になってさり気なく訊いてみようと思ったが、カーティスの名前が出た途端、カイルの表情が少し曇った。
「……そうみたいだな」
ナプキンで口元を拭いながらカイルが答えるが、他人事のように素っ気ない口振りだった。これはあまり深入りしないほうがよさそうだと、早々に話を切り上げることにした。
「とても厳格なお方だと聞いているので、少し緊張します。緊張のあまり、目の前で転ぶなんてことがないように気をつけないとですね」
冗談めかして笑い、そのまま話題を他のものにすり替えようとしたが、「大丈夫だ」と思いがけずカイルから言葉が返ってきた。
驚くダリルに、カイルは静かに微笑んで、続けた。
「お父様は確かに厳格な人だけど、一生懸命な人をすぐに怒ることはない。だから、緊張なんかしなくていい」
声は優しく柔らかで、そしてどこか誇らしげで、確かに父への尊敬の念が感じられた。
そのことに、ダリルは少しホッとした。先ほどの素っ気ない反応から、もしかすると父親のことを嫌っているのかもしれないと思ったが、とんだ邪推だったようだ。
「そう聞いて安心しました。お優しい方なんですね」
「別に優しいとまでは言ってない」
ふい、と顔を背けてややぶっきらぼうに言うカイルに、ダリルはくすりと笑った。
「明日、お会いするのが楽しみですね」
「……僕は会わない」
「え?」
驚いて目を丸くすると、カイルはフッと悲しげな自嘲めいた笑いを浮かべた。
「別邸に移り住んでから、お父様が僕の部屋を訪ねてくれたことは一度もない。きっと僕の顔を見たくないんだ」
その声があまりに寂しい諦観を滲ませていたので、つい反射的に「そんなことありません」と言いかけそうになった。しかし、カーティスとほぼ面識のない自分が言っても空々しいだけだ。
ダリルは言葉をぐっと呑みこみ、俯いた。
「……そういえば、この間、ダリルに絵をあげると約束していたな。今から持って来るから選べ」
ダリルを気遣わせるのはカイルも本意ではないのだろう、話題を変えるように気丈な明るさを声に持たせてそう言うと、席を立ってクローゼットへ向かった。
「さぁ、好きなのを選べ」
カイルがベッドの上に絵を並べて言った。カイルの調子に合わせ、ダリルも先ほどの会話などなかったように振る舞うことにした。
「ありがとうございます。ふふ、どれも素敵で迷いますね」
絵を一枚一枚じっくりと見ながら悩むダリルだったが、ふと、あるひらめきが頭に浮かんだ。
「……あの、いただいた絵はどこに飾っても構いませんか?」
楽しげに絵を選んでいる自分の様子を、傍で腕を組んで眺めているカイルのほうを振り返って問う。
「もちろん、あげたらもうそれはダリルのものだ。好きにすればいい」
「ありがとうございます!」
快い返事に、ダリルは相好を崩した。
(よし、これで言質はとったぞ……!)
にやりと心の中で笑うダリルに、もちろんカイルは気づくはずもなかった。
****
翌日、ダリルはローマンに事情を話して許可をもらうと、その足で街に向かった。
そして目当てのものを買うとすぐに屋敷に戻り、カーティスの来訪に備えて準備を始めた。
「……よしっ、これでいいな」
玄関ホールの壁に掛けた絵を見上げながら、ダリルは満足げに息を吐いた。
もちろんその絵は昨夜カイルからもらったものであり、今、それは繊細な装飾を施した額縁の中に収まっている。
(安物の額縁はどうかと思ったけど、カイル様の絵のおかげで様になってるな)
額縁は今日街で買ってきたものだが、ダリルの持ち金から出せる程度の金額である。もちろんダリルにとっては安い買い物ではなかったのだが、屋敷内の高価な装飾品に比べればタダも同然だった。
額縁のせいで、かえってカイルの絵を台無しにしてしまうのではないかという不安もあったが、杞憂だったようだ。
「素晴らしい絵ですね」
後ろからやってきたローマンが優しく話しかけてきた。
「カイル様が絵を描いていることは画材などを頼まれていたので知っていましたが、これほどまでの腕前とは」
しげしげと眺めながら感心するように呟くローマンに、ダリルは描いたのは自分でもないのに誇らしい気持ちになった。
「すごいですよね。せっかくですから、みんなに見えるところに飾りたくて」
その『みんな』というのはもちろんカーティスを含んでいる。いや、むしろ、カーティスに見てもらいたいというのが本心だった。
カーティスが息子のカイルにどれほどの愛情や関心があるかは分からないが、見る者の心を動かすこの絵ならば、足を止めて興味を持つかもしれない。
カーティスの書斎に続く廊下近くの壁に掛けたのも、そのためだ。
新入りの自分が直接カーティスにカイルへの気持ちを確かめるなど、そんな大それたことはできない。だが、カイルの絵に興味を示した、その事実だけは伝えることができる。
言葉にはしないだろうが、きっとカイルも喜んでくれるに違いない。
「本当に、人の目に触れないところに仕舞っているのはもったいないくらいの作品です。素敵な提案をしてくれてダリルさんには感謝です。……カーティス様もきっと驚きになられるでしょう」
ダリルの目論見を見透かしたローマンが柔らかな微笑みを向けてくる。やはりこの人にはすべてお見通しか、とダリルは照れ笑いとも苦笑いともつかない表情で微笑み返した。
「驚かなかった時は、次は書斎の壁のど真ん中に飾ります」
「ふふ、それはまた別の意味で驚きそうですね」
その様子を想像したのか、ローマンはくすくすと笑った。
そうこうしている内に、あっという間に時が経ち、ついにカーティスが来訪する時間となった。
****
「お帰りなさいませ。カーティス様」
屋敷のほとんどの使用人が玄関ホールに並び、主であるカーティスを迎え入れる。
皆、普段より身だしなみを小綺麗に整えており、顔はかすかに緊張を帯びていた。普段と変わりないのはローマンくらいである。
「お久しぶりでございます、カーティス様。お変わりはございませんか」
「ああ、変わりない。長い間、来られなくてすまなかったな。何か変わったことはあるか?」
「いえ、特に変わりはございません。カイル様もお元気ですよ」
カーティスのコートを受け取りながら、ローマンは口元を品よく和らげた。
そして書斎へと歩み始めた二人だったが、その途中、カーティスの足が止まった。
「……これは?」
目論見通りカイルの絵を目に留めたカーティスに、ダリルは嬉しさのあまり思わず飛び跳ねそうになった。雷が落ちても動じなさそうな無表情がかすかに崩れた瞬間だった。
「カイル様が描かれたものです」
ローマンがすかさず答えた。その目元は優しく和らいでいた。
「カイルが描いたのか……」
絵のほうに真っ直ぐ向き直り、しげしげと見つめるその表情には、我が息子への関心が見て取れた。
(よしっ! これでカイル様にこのことを報告できるぞ!)
願わくはそのままカイルの部屋へ行き、絵について褒めるなり何なりしてほしいところだが、一介の使用人であるダリルが主の親子関係に口出しするわけにはいかなかった。
せめてこの願いが何らかの形で叶いますように、とダリルは祈るような気持ちでカーティスの背中を見つめた。
「この絵はカイル様が使用人のダリルにあげたものですが、みんなにもぜひ見てほしいと彼がここに飾ったのです」
(えっ!)
まさか自分のことが話題に上がるなど夢にも思っていなかったダリルは、目を見開いた。素っ頓狂な声を寸前のところで呑みこんだのは、もはや奇跡に近かった。
ローマンは善意で言ったのだろうが、良くも悪くも目立たず、長くこの仕事を続けたいダリルにとっては、望ましくない展開だった。
カーティスがゆっくりとダリルのほうを振り返った。視線と視線が合った瞬間、緊張のあまり息が止まりそうだった。
「……君がここに飾ってくれたのか?」
責める風ではないのに淡々とした口調に、まるで尋問でもされているような心地になり、ダリルは目を泳がせた。
「あっ、はい、飾らせていただきました。も、もちろん、カイル様には許可をいただいています」
ダリルは先手を打つようにして言ったが、内心冷や冷やしていた。
確かにどこに飾ってもいいと許可は得たものの、玄関ホールの壁に飾ると知ったらカイルも頷きはしなかっただろう。それが分かっているからこそ後ろめたさを覚え、自分の言葉が余計に言い訳がましく聞こえた。
じっとこちらを見つめる目がまるでダリルの真意を見定めているかのようで、とてもではないが真っ直ぐ見返すことなどできなかった。
しかし射貫くような視線に反して、返ってきた言葉はあっさりしたものだった。
「そうか。ありがとう」
そう言うと、カーティスはダリルに背を向け、歩みを進めた。
相変わらず感情の読み取りにくい平坦な声だったが、少なくともそこに怒りは感じられなかった。ダリルはとりあえずホッと胸を撫で下ろした。
しかし、「そうだ、ダリル君」と思い出したかのように言って、カーティスは足を止めて再び振り返った。
「手が空いたら書斎に来てくれ。君に話したいことがある」
「え?」
思いもよらない言葉に、目を丸くする。
(書斎に来てくれ? 話したいことがある? え? え? えぇっ!)
予想外の展開に動揺が隠せなかった。
「都合が悪いか?」
無表情のまま問われ、慌てて首を横に振った。
「い、いえっ、とんでもございません! すぐに参ります!」
「急がなくてもいい」
そう言うと、カーティスは踵を返してまた歩き始めた。
遠のいていくその背中を見送りながら、ダリルは冷や汗が止まらなかった。
(な、なんで、呼び出し? お、俺、何か悪いことした!?)
しかしその絶叫に近い胸の内の問いは、もちろんカーティスに届くわけもなく、しばらくの間、ダリルは放心状態でその場に立ち尽くしていた。
カーティスの書斎に向かう間、ダリルは溜め息を何度も漏らし、その度に歩みを鈍らせた。
(わざわざ部屋に呼び出すってことは、何かあるんだよな……)
しかし、ダリルには思い当たる節がなかった。
決してローマンのように仕事ができる人間ではないが、しかしだからといって手を抜いたり、怠けたりということはなく、自分なりに一生懸命頑張ってきたつもりだ。幸いにも重大なミスをしたこともない。
(もしかして、退学とか勘当された経緯を聞かれるんだろうか……)
その可能性は十分にあり得た。使用人に気がかりな点があれば、主として見過ごせないのは当然だ。幼い息子の傍に置く使用人となればなおさらだろう。
しかし、できればその経緯は口にしたくなかった。やむを得ない事情があったにしても、悪役令息として行ってきたことについて話すのは気が進まない。
その上、そのやむを得ない事情は、やり直しの可能性を考えると人に話すことができない。そもそも、話したところで初対面の赤の他人が信じてくれるとは到底思えない。
憂鬱な気持ちがますます胸の内に重く立ちこめた。
(でも、ハウエル公爵家くらいの力があれば、そのくらいのことは調べていそうだけどな)
もしくは調べた上で、本人の口から確かめたいのか……
どちらにせよ、受け答えを少しでも間違えたら、最悪の場合、解雇されかねない。
(やっぱり、聞かれるとしたらそのことしかないよな……。他に思い当たることは――)
ない、と言い切ろうとしたところで、不意に心当たりが頭の中に浮かび、足を止めた。
(……もしかして、カイル様と一緒に食事してることについてとか?)
その可能性も否定できない。恐らく先ほどの絵の件のように、ローマンが悪意なく、むしろ善意でカーティスに伝えたのかもしれない。
ダリルは頭を抱えた。
カーティスは厳格な人物だと聞く。たとえカイルから半ば無理やり『毒味係』に任命されたとはいえ、我が子が使用人と一緒に食事をとっているとなれば、ハウエル公爵家当主として看過できないのかもしれない。
(カイル様から一緒に食べるように言われたとか弁解したら、もっと印象が悪くなりそうだしな……)
たとえそれが事実とはいえ、自分が言うと言い訳がましく聞こえるかもしれない。下手をすれば、カイルに責任をなすりつけていると受け取られる可能性すらある。
(……逃げたい! 全力で逃げ出したい……っ!)
キリキリと胃が痛くなる。しかし、逃げたらそれこそ解雇間違いなしである。
呼び出された理由が何にせよ、謝罪は不可避だ。せめて解雇という最悪な展開だけは回避できるよう、ダリルは頭の中で謝罪の練習をしながら、書斎へと歩みを進めた。
カイルが心を開いてくれたことをいいことに、ダリルはおずおずと申し出た。
「……別にいいけど」
「っ、ありがとうございます!」
ダリルは急いで床に散らばった掃除道具をバスケットに詰めて部屋の出入り口付近に置くと、キャンバスのほうへ駆け寄った。
改めてまじまじと絵を見て、思わず感嘆の息を漏らした。
「近くで見るとさらにすごいですね。同じ葉っぱでも場所で全然色合いが違う。……あ! 床に時々こびりついている染みはこの絵の具だったんですね!」
ベッドの上でシーツに包まっているカイルのほうを振り返る。まだ顔を見せないまま「そうだ」と答えた。
「なるほど、ようやく合点がいきました。いやぁ、最初は血じゃないかと思って驚きましたよ」
「普通に考えたら血とは思わないだろう。まったく、覗き見をするにしても不注意だし、ダリルは本当にそそっかしいんだな」
カイルが呆れたように溜め息をつく。
十以上も歳下の子供にそそっかしいと言われ、ダリルは複雑な気持ちになった。
「ははは、まぁ確かにそそっかしいのかもしれません。弟にも『兄さんは危なっかしくて目が離せない』ってよく言われていましたし。ところで、絵はまだ他にあるんですか?」
自分のそそっかしさをこれ以上言及されるのが恥ずかしくなって、さりげなく話を逸らす。
「あるけど……」
「どんな絵を描いているんですか?」
「この部屋から見えるものばかりで、その絵とそんなに変わらない」
「でも並べたら時間の移ろいが感じられて面白そうですね」
「……他の絵も、見るか?」
ぼそり、と小さな声でカイルが訊いてきた。
振り返ると、包まったシーツの隙間からちょこんと顔を出してじっとこちらを見つめている。物言いは不遜だが、ダリルの反応を窺うその顔は臆病で、あどけない期待の眼差しが躊躇いがちに向けられている。
それは前世で妹が、小説を書いていると打ち明けてくれた時の目とよく似ていた。
ダリルは懐かしさと愛おしさを感じて、顔を綻ばせ「もちろん、見せてください!」と明るく答えた。
カイルはもぞもぞとシーツから出ると「持って来るからそこに座って待っていろ」と言い置いて、いつも掃除の時に隠れているクローゼットに向かった。
どうやらあそこは服ではなく、絵に関するものを入れているようだった。
小さな両腕でキャンバスを目一杯抱えてこちらに駆け寄って来るカイルの姿に、ダリルは一層目を細めた。
****
カイルから、姿を見せることも顔を見ることも許可されたあの日以降、ダリルの仕事の幅は大きく広がった。
カイルの部屋への食事運びや身支度の手伝いなど、これまでローマンがひとりでやっていた仕事を多く引き継ぐことになった。
これにはローマンも大喜びだった。
『カイル様に信頼できる人間が増えることは喜ばしいものです』
仕事を引き継ぐ際、ローマンは口癖のようにそう言いながらにこにこと頬を緩めた。
本当に信頼されているかは別として、心を許してくれたのは確かであり、ダリルは以前に増して仕事に精を出すようになった。
ただひとつ、予想外の仕事がひとつ増えた。
ある日、いつも通り朝食を部屋に運んだ時のことだ。
「今日からダリルもここで食べろ」
脇に控えようとしたダリルを呼び止め、カイルが隣の椅子をポンポンと叩いた。
「え?」
思いもよらない言葉に目を丸くする。しかしその表情は、すぐに戸惑いに変わった。
「あの、そのお言葉は嬉しいのですが、使用人が屋敷の主と食事をとるのはどうかと……」
常識的に考えればあまり褒められたものではない。カイルがそこまで心を開いてくれたことは嬉しいが、それでは他の者に示しがつかないだろう。
その辺は年上である自分のほうが考慮しなければならないと思っての言葉だったのだが、カイルはムッと鼻に皺を寄せた。
「僕は屋敷の主じゃない。主の子供だ。だから関係ない」
珍しく子供っぽい屁理屈をこね、再び椅子の座面を叩く。
「でも……」
「もし僕がこの屋敷の主だと言うなら、それこそ主の命令を聞かないのはどうかと思うぞ」
「ですが――」
「カイル様の言う通りですよ」
答えに困っているダリルに、あるいは是が非でもダリルと食事がしたいカイルに助け舟を出すように現れたのは、配膳用カートを押して部屋に入ってきたローマンだった。
カートにはカイルの食事と同じものが載っていた。
「せっかくですから召し上がってください。給仕は私がしますので」
「えっ、でも、それじゃあローマンさんに悪いです」
ローマンの負担を軽くするために雇われたところもあるのに、それでは本末転倒もいいところだ。
遠慮するダリルにローマンがこっそりと耳打ちした。
「カイル様は長い間、おひとりでお食事をしてきたのです。きっと寂しかったのでしょう。ですから、どうか一緒に召し上がってください」
耳元から口を離すと、ローマンは優しく微笑んだ。
ローマンの言葉で、食事に誘うカイルの子供っぽい強引さの理由にようやく合点がいき、ダリルはようやく頷いた。
「では、お言葉に甘えていただきます」
ダリルの言葉に、パッとカイルの表情が明るくなった。
「そうだ、それでいい。分かったらさっさと座れ」
言い方は相変わらず傲慢だが、隣の椅子を叩くその手は弾んでいて、くすりと笑みが零れる。
「それでは座らせていただきます」
「ああ、座れ」
ダリルが腰を下ろすと、手際よくローマンが食事をテーブルに並べた。
「ダリル、お前は嫌いな食べものはあるか?」
「いえ、ありませんよ。なんなら雑草だって食べられるくらいですから」
悪役令息の役目を終えた後、無一文になっても食べるに困らないように雑草料理を学んだ賜物だ。少し得意げに答えるダリルに、カイルが笑った。
「ダリルは本当に変な奴だな。でも嫌いなものがないのは好都合だ。ローマンが給仕をしているんだ、ダリルも仕事をしないとな」
そう言うと、皿の上の人参のソテーをフォークで刺してダリルの口元に差し出した。
「ダリルの仕事は毒味だ」
ニッとカイルが悪戯っぽく唇を吊り上げる。ダリルはちらっと皿の食事に目をやった。
「……では、そのメインの魚のムニエルも毒味していいんですか?」
「これはだめだ。今日のメニューでいえば、後はブロッコリーだな」
「……これはもしかして毒味という名の嫌いなもの処理係ですか?」
「そんなわけないだろう。毒味だよ、毒味。ほら、食べて」
唇にぷにぷにと軽く人参を押し当てられ、ダリルは苦笑しつつ口を開いて人参を含んだ。
「どうだ? 毒は入っていそうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。すごくおいしいです」
「そうか。それじゃあ次はブロッコリーだ」
そう言って、ブロッコリーにフォークを刺すカイルは至極楽しそうだった。
脇に立つローマンも、その様子に目を細めていた。もちろん、ダリルもである。
こうしてダリルの仕事に『毒味係』が新たに加わったのだった。
****
「もう少しで完成ですか?」
掃除を終えたダリルは、筆を走らせているカイルの背後からキャンバスを覗きこんで訊いた。
少し前まで、カイルはダリルが掃除中は邪魔にならないように気遣ってソファで本を読んでいたが、最近は窓辺で絵を描いていることが多い。
恐らく、描いている途中にダリルから感想を言われるのが嬉しいのだろう。その証拠に、甘えたがりだが素直になれない猫が飼い主の様子を窺うような期待混じりの視線が、時折ちらちらと向けられる。
そんな可愛らしい視線を無視できるはずがない。ダリルは視線を感じる度に頬を緩め、掃除をする手を速めるのだった。
「ああ、今日中には完成させる」
カイルはひと伸びしながら答えた。
素人のダリルの目には十分完成しているように思えるが、カイルからしたらもう少し手を加える必要があるようだ。
(すごいな。妥協を許さない芸術家って感じだ)
感心しながらダリルは微笑んだ。
「完成したら見せてくださいね」
「見せなかったらどうする?」
ダリルのほうを振り仰ぎながら、カイルが悪戯っぽく笑う。その健やかな笑みは、痛々しい頬の痣をかすませるほどで、ダリルの目尻も自然と下がった。
「そうですねぇ……、その時は食事を人参料理ばかりにしてもらいます」
「地味に嫌な嫌がらせだな」
くくっ、と喉を震わせてカイルが笑う。
「分かった。せっかくの食事を台なしにされるのは嫌だから、完成したら見せる」
「そう言ってくださってよかったです。私もカイル様の食事をすべて毒味するのは心苦しいので」
「よく言うよ」
二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。
「それにしても、カイル様は本当に絵が上手ですよね。専門の先生から指導を受けたりしたんですか?」
ふと、前々から気になっていたことを訊いてみた。
この絵のうまさは生まれついてのものもあるだろうが、それだけではないだろう。
何気ない質問だったのだが、カイルは少し答えに詰まったように視線を床に落とした。
何か踏み入ってはいけない事情がありそうなのを察して、慌てて口を開こうとしたダリルだったが、それよりも早くカイルが答えた。
「……いや、専門の先生はいなかった。ただ、お母様が上手で、いつも隣に座って見ていたのを覚えている」
カイルは筆を置いてぽつぽつと話し始めた。
「小さい頃だからぼんやりとした記憶でしかないけど、絵を描くお母様はとても楽しそうで目がキラキラしていた。そんなお母様の顔やどんどん完成に近づくキャンバスの絵を見ていたらこっちまで楽しくなってきて、ただ見ているだけなのに全然飽きなかった」
思い出を語る声は薄い湿り気を帯びていたが、表情は懐かしさに優しく緩んでいた。その温かな思い出がダリルにも伝わってくるようだった。
「……ダリルは僕のお母様が亡くなっていることは知っているよな」
「は、はい。カイル様が三歳の頃に病気で亡くなられたと聞きました」
痣の件には触れず、聞いた事実のみを簡潔に答えると、カイルは悲しげに目を伏せて頷いた。
「その通りだ。……お別れを言う間もなくいなくなって、当時の僕にはわけが分からなかった。泣いて泣いて、ようやく死んだことが分かった時に、もっとお母様のことを知りたかったって思った。だから、絵を描いた。お母様の絵を繰り返し真似て描きまくった。……でも絵が上達しただけで、結局は何も分からなかったけどな」
自嘲するように笑うと、カイルは話を打ち切るように再び筆を持ってキャンバスに向かった。
カイルがこんなにも個人的なこと、特に家族のことを話したのは初めてだった。だからこそ、その真意を図りかねた。
何か言葉をかけるべきだろうか。いや、別に慰めを求めているわけではなく、ただ話したかっただけなのかもしれない。むしろ的外れな慰めは彼の気分を害す可能性すらある。
だが、何も分からなかったというカイルはひどく悲しげで、母を知りたいがための健気な自身の行動を無駄だと嘲笑って否定しているのを見て、余計に胸が痛くなった。
だから気づくと口を開いていた。
「……何も分からなかったってことはないと思いますよ」
カイルが振り返る。見開いたその目に微笑みかけながらダリルは続けた。
「だって、絵を描いているカイル様はすごく楽しそうで、その顔とキャンバスに出来上がっていく絵を見ていると私までわくわくしてきて……。それって絵を描くお母様を見ていたカイル様と同じ気持ちですよね。そんな気持ちにさせてくれるカイル様の絵を描く姿は、きっとお母様と通じるものがあるんだと思います」
そしてその通じるものを得られたのは、紛れもなく母の絵を模写し続けたカイルの健気な努力の賜物だ。
「お母様の生まれや性格、好きだったものは他の人に聞いたりすれば分かるでしょうけど、でも絵を描く時の目が輝くような気持ちは、きっと他の人には分からないですよ。お母様のことを知りたいと思ってお母様の絵をたくさん真似て描いたカイル様だからこそ、分かったんだと思います」
きっと、母の絵を何度も辿ることで、言葉にできないものを時を越えて共有したに違いない。
「だから、断言できます。カイル様のしたことは決して無駄じゃありません」
この年でここまでの画力に達したのだ。何度も何度も母の絵を真似て描いたのだろう。それは並大抵のことではない。
だから亡き母を知りたいという一心で繰り返した努力を、たとえそれがその当人だとしても、無駄だなんて思ってほしくなかった。
「……」
カイルは俯き、筆を握りしめた拳を膝の上に置いた。
「……本当に無駄じゃなかったと思うか?」
震える小さな声で、カイルが言った。
ダリルは隣にしゃがむと、膝の上の小さな手をぎゅっと握りしめて答えた。
「はい、もちろんです。そのおかげで、絵を描いている時のお母様の気持ちを知ることができたんですから。そのことに関してはきっとカイル様が世界一です」
力強く言って、下から覗きこみながら笑顔で真っ直ぐカイルを見つめる。すると、大きく見開かれた目が涙で潤んだ。
「……っ」
涙の気配を感じたのだろう、カイルは慌てて目元をごしごしと腕で拭った。
「……ダリルのせいだ。僕はもう大丈夫なはずなのに、……ダリルといると泣き虫になる」
赤い目で八つ当たり混じりに睨むカイルに、ダリルは小さく笑った。
「いいじゃないですか、泣き虫でも。まだ子供なんですから」
「……もう六歳だ。子供じゃない」
拗ねたようにプイッとカイルがそっぽを向く。六歳はまだ十分子供だけどな……という言葉は呑みこんで「そうですね」と苦笑混じりに同意した。
その苦笑に、呑みこんだ言葉を察したのだろう。カイルはムッと口をへの字に曲げた。
「子供扱いするな」
「すみません。そんなつもりは――」
「どうせ子供扱いするなら、頭くらい撫でろ」
カイルの言葉を遮って、ぼそりとカイルが言った。その頬は赤く、こちらに向けている眼差しは拗ねた子供そのものだった。
ダリルはくすりと笑って、カイルの頭を優しく撫でた。こういったことに慣れていないのか、最初こそ居心地が悪そうにそわそわしていたカイルだったが、徐々にその頬は緩んでいった。
その変化にダリルのほうも心が温まり、自然と微笑みが口元に浮かんでいた。
****
カイルの毒味係に任命されて一ヶ月ほど経った頃、カーティスが別邸に来るという報せをローマンから受けた。時期的な忙しさも落ち着いて時間ができたということらしい。
カーティスの訪問前日、使用人総出で屋敷を隅々まで掃除するために早めに起きたダリルは、ベッドの上でカーティスについて思いを巡らせた。
(噂では、真面目で厳格な人物で、敵に対しては容赦ない冷酷さを持ち、それゆえに呪われた公爵だと聞いたけど――)
先日、庭園で思わぬ形で対面したが、噂のような冷酷さは感じられなかった。だが、雇い主であることには変わりない。
(いつも以上に気を張って頑張らないと!)
ダリルは気合いを入れるために両頬をパチン! と叩いてベッドから降り、身支度を始めた。
一日中、屋敷の掃除をしてヘトヘトになっていたダリルだったが、夕食を前にして目を輝かせた。
「わぁ、おいしそう!」
「別にいつもと変わらないだろう」
隣に座るカイルが大袈裟だなとでも言うように溜め息をつきながら、毒味用、もとい自分の嫌いな野菜を皿の上で選り分けている。
「今日は屋敷中をピカピカに掃除したので特別おいしそうに見えるんです」
「つまりいつもは手を抜いているということか」
「いえいえっ、そんなことは断じてありません!」
慌てて否定するダリルに、カイルがくすりと笑う。
「分かってるよ。ダリルが手抜きなんて、そんな器用なことできるはずないもん」
「……もしかして、馬鹿にしてます?」
「褒め言葉だ。はい、口開けて」
いつも通り毒味用のものをフォークに刺して、ダリルの口元に差し出す。
自分で食べられるので皿に移すだけでいいと前に言ってみたが、どうも手ずからあげたいらしい。
(ペットへの餌やりみたいな気持ちなのかな……。もしくは弟や妹がいないからお兄さんぶりたいのか)
どちらにせよ、カイルがこれを楽しんでいるようなので大人しく従う。
「どう? 毒は入ってそう?」
「いえ、とてもおいしいですよ」
「ならよかった」
そう言ってまた別の野菜をダリルの口へと運ぶ。その楽しげな様子に、前世で妹のおままごとに付き合っていたことを思い出し、顔を綻ばせた。
「――そういえば、明日ですね。カーティス様が来られるのは」
食事を終えたダリルは、ふとカイルの父、カーティスの来訪を話題に上げた。
母親の話は聞いたことはあったが、父親についてカイルの口から語られたことはまだなかった。だから少し気になってさり気なく訊いてみようと思ったが、カーティスの名前が出た途端、カイルの表情が少し曇った。
「……そうみたいだな」
ナプキンで口元を拭いながらカイルが答えるが、他人事のように素っ気ない口振りだった。これはあまり深入りしないほうがよさそうだと、早々に話を切り上げることにした。
「とても厳格なお方だと聞いているので、少し緊張します。緊張のあまり、目の前で転ぶなんてことがないように気をつけないとですね」
冗談めかして笑い、そのまま話題を他のものにすり替えようとしたが、「大丈夫だ」と思いがけずカイルから言葉が返ってきた。
驚くダリルに、カイルは静かに微笑んで、続けた。
「お父様は確かに厳格な人だけど、一生懸命な人をすぐに怒ることはない。だから、緊張なんかしなくていい」
声は優しく柔らかで、そしてどこか誇らしげで、確かに父への尊敬の念が感じられた。
そのことに、ダリルは少しホッとした。先ほどの素っ気ない反応から、もしかすると父親のことを嫌っているのかもしれないと思ったが、とんだ邪推だったようだ。
「そう聞いて安心しました。お優しい方なんですね」
「別に優しいとまでは言ってない」
ふい、と顔を背けてややぶっきらぼうに言うカイルに、ダリルはくすりと笑った。
「明日、お会いするのが楽しみですね」
「……僕は会わない」
「え?」
驚いて目を丸くすると、カイルはフッと悲しげな自嘲めいた笑いを浮かべた。
「別邸に移り住んでから、お父様が僕の部屋を訪ねてくれたことは一度もない。きっと僕の顔を見たくないんだ」
その声があまりに寂しい諦観を滲ませていたので、つい反射的に「そんなことありません」と言いかけそうになった。しかし、カーティスとほぼ面識のない自分が言っても空々しいだけだ。
ダリルは言葉をぐっと呑みこみ、俯いた。
「……そういえば、この間、ダリルに絵をあげると約束していたな。今から持って来るから選べ」
ダリルを気遣わせるのはカイルも本意ではないのだろう、話題を変えるように気丈な明るさを声に持たせてそう言うと、席を立ってクローゼットへ向かった。
「さぁ、好きなのを選べ」
カイルがベッドの上に絵を並べて言った。カイルの調子に合わせ、ダリルも先ほどの会話などなかったように振る舞うことにした。
「ありがとうございます。ふふ、どれも素敵で迷いますね」
絵を一枚一枚じっくりと見ながら悩むダリルだったが、ふと、あるひらめきが頭に浮かんだ。
「……あの、いただいた絵はどこに飾っても構いませんか?」
楽しげに絵を選んでいる自分の様子を、傍で腕を組んで眺めているカイルのほうを振り返って問う。
「もちろん、あげたらもうそれはダリルのものだ。好きにすればいい」
「ありがとうございます!」
快い返事に、ダリルは相好を崩した。
(よし、これで言質はとったぞ……!)
にやりと心の中で笑うダリルに、もちろんカイルは気づくはずもなかった。
****
翌日、ダリルはローマンに事情を話して許可をもらうと、その足で街に向かった。
そして目当てのものを買うとすぐに屋敷に戻り、カーティスの来訪に備えて準備を始めた。
「……よしっ、これでいいな」
玄関ホールの壁に掛けた絵を見上げながら、ダリルは満足げに息を吐いた。
もちろんその絵は昨夜カイルからもらったものであり、今、それは繊細な装飾を施した額縁の中に収まっている。
(安物の額縁はどうかと思ったけど、カイル様の絵のおかげで様になってるな)
額縁は今日街で買ってきたものだが、ダリルの持ち金から出せる程度の金額である。もちろんダリルにとっては安い買い物ではなかったのだが、屋敷内の高価な装飾品に比べればタダも同然だった。
額縁のせいで、かえってカイルの絵を台無しにしてしまうのではないかという不安もあったが、杞憂だったようだ。
「素晴らしい絵ですね」
後ろからやってきたローマンが優しく話しかけてきた。
「カイル様が絵を描いていることは画材などを頼まれていたので知っていましたが、これほどまでの腕前とは」
しげしげと眺めながら感心するように呟くローマンに、ダリルは描いたのは自分でもないのに誇らしい気持ちになった。
「すごいですよね。せっかくですから、みんなに見えるところに飾りたくて」
その『みんな』というのはもちろんカーティスを含んでいる。いや、むしろ、カーティスに見てもらいたいというのが本心だった。
カーティスが息子のカイルにどれほどの愛情や関心があるかは分からないが、見る者の心を動かすこの絵ならば、足を止めて興味を持つかもしれない。
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言葉にはしないだろうが、きっとカイルも喜んでくれるに違いない。
「本当に、人の目に触れないところに仕舞っているのはもったいないくらいの作品です。素敵な提案をしてくれてダリルさんには感謝です。……カーティス様もきっと驚きになられるでしょう」
ダリルの目論見を見透かしたローマンが柔らかな微笑みを向けてくる。やはりこの人にはすべてお見通しか、とダリルは照れ笑いとも苦笑いともつかない表情で微笑み返した。
「驚かなかった時は、次は書斎の壁のど真ん中に飾ります」
「ふふ、それはまた別の意味で驚きそうですね」
その様子を想像したのか、ローマンはくすくすと笑った。
そうこうしている内に、あっという間に時が経ち、ついにカーティスが来訪する時間となった。
****
「お帰りなさいませ。カーティス様」
屋敷のほとんどの使用人が玄関ホールに並び、主であるカーティスを迎え入れる。
皆、普段より身だしなみを小綺麗に整えており、顔はかすかに緊張を帯びていた。普段と変わりないのはローマンくらいである。
「お久しぶりでございます、カーティス様。お変わりはございませんか」
「ああ、変わりない。長い間、来られなくてすまなかったな。何か変わったことはあるか?」
「いえ、特に変わりはございません。カイル様もお元気ですよ」
カーティスのコートを受け取りながら、ローマンは口元を品よく和らげた。
そして書斎へと歩み始めた二人だったが、その途中、カーティスの足が止まった。
「……これは?」
目論見通りカイルの絵を目に留めたカーティスに、ダリルは嬉しさのあまり思わず飛び跳ねそうになった。雷が落ちても動じなさそうな無表情がかすかに崩れた瞬間だった。
「カイル様が描かれたものです」
ローマンがすかさず答えた。その目元は優しく和らいでいた。
「カイルが描いたのか……」
絵のほうに真っ直ぐ向き直り、しげしげと見つめるその表情には、我が息子への関心が見て取れた。
(よしっ! これでカイル様にこのことを報告できるぞ!)
願わくはそのままカイルの部屋へ行き、絵について褒めるなり何なりしてほしいところだが、一介の使用人であるダリルが主の親子関係に口出しするわけにはいかなかった。
せめてこの願いが何らかの形で叶いますように、とダリルは祈るような気持ちでカーティスの背中を見つめた。
「この絵はカイル様が使用人のダリルにあげたものですが、みんなにもぜひ見てほしいと彼がここに飾ったのです」
(えっ!)
まさか自分のことが話題に上がるなど夢にも思っていなかったダリルは、目を見開いた。素っ頓狂な声を寸前のところで呑みこんだのは、もはや奇跡に近かった。
ローマンは善意で言ったのだろうが、良くも悪くも目立たず、長くこの仕事を続けたいダリルにとっては、望ましくない展開だった。
カーティスがゆっくりとダリルのほうを振り返った。視線と視線が合った瞬間、緊張のあまり息が止まりそうだった。
「……君がここに飾ってくれたのか?」
責める風ではないのに淡々とした口調に、まるで尋問でもされているような心地になり、ダリルは目を泳がせた。
「あっ、はい、飾らせていただきました。も、もちろん、カイル様には許可をいただいています」
ダリルは先手を打つようにして言ったが、内心冷や冷やしていた。
確かにどこに飾ってもいいと許可は得たものの、玄関ホールの壁に飾ると知ったらカイルも頷きはしなかっただろう。それが分かっているからこそ後ろめたさを覚え、自分の言葉が余計に言い訳がましく聞こえた。
じっとこちらを見つめる目がまるでダリルの真意を見定めているかのようで、とてもではないが真っ直ぐ見返すことなどできなかった。
しかし射貫くような視線に反して、返ってきた言葉はあっさりしたものだった。
「そうか。ありがとう」
そう言うと、カーティスはダリルに背を向け、歩みを進めた。
相変わらず感情の読み取りにくい平坦な声だったが、少なくともそこに怒りは感じられなかった。ダリルはとりあえずホッと胸を撫で下ろした。
しかし、「そうだ、ダリル君」と思い出したかのように言って、カーティスは足を止めて再び振り返った。
「手が空いたら書斎に来てくれ。君に話したいことがある」
「え?」
思いもよらない言葉に、目を丸くする。
(書斎に来てくれ? 話したいことがある? え? え? えぇっ!)
予想外の展開に動揺が隠せなかった。
「都合が悪いか?」
無表情のまま問われ、慌てて首を横に振った。
「い、いえっ、とんでもございません! すぐに参ります!」
「急がなくてもいい」
そう言うと、カーティスは踵を返してまた歩き始めた。
遠のいていくその背中を見送りながら、ダリルは冷や汗が止まらなかった。
(な、なんで、呼び出し? お、俺、何か悪いことした!?)
しかしその絶叫に近い胸の内の問いは、もちろんカーティスに届くわけもなく、しばらくの間、ダリルは放心状態でその場に立ち尽くしていた。
カーティスの書斎に向かう間、ダリルは溜め息を何度も漏らし、その度に歩みを鈍らせた。
(わざわざ部屋に呼び出すってことは、何かあるんだよな……)
しかし、ダリルには思い当たる節がなかった。
決してローマンのように仕事ができる人間ではないが、しかしだからといって手を抜いたり、怠けたりということはなく、自分なりに一生懸命頑張ってきたつもりだ。幸いにも重大なミスをしたこともない。
(もしかして、退学とか勘当された経緯を聞かれるんだろうか……)
その可能性は十分にあり得た。使用人に気がかりな点があれば、主として見過ごせないのは当然だ。幼い息子の傍に置く使用人となればなおさらだろう。
しかし、できればその経緯は口にしたくなかった。やむを得ない事情があったにしても、悪役令息として行ってきたことについて話すのは気が進まない。
その上、そのやむを得ない事情は、やり直しの可能性を考えると人に話すことができない。そもそも、話したところで初対面の赤の他人が信じてくれるとは到底思えない。
憂鬱な気持ちがますます胸の内に重く立ちこめた。
(でも、ハウエル公爵家くらいの力があれば、そのくらいのことは調べていそうだけどな)
もしくは調べた上で、本人の口から確かめたいのか……
どちらにせよ、受け答えを少しでも間違えたら、最悪の場合、解雇されかねない。
(やっぱり、聞かれるとしたらそのことしかないよな……。他に思い当たることは――)
ない、と言い切ろうとしたところで、不意に心当たりが頭の中に浮かび、足を止めた。
(……もしかして、カイル様と一緒に食事してることについてとか?)
その可能性も否定できない。恐らく先ほどの絵の件のように、ローマンが悪意なく、むしろ善意でカーティスに伝えたのかもしれない。
ダリルは頭を抱えた。
カーティスは厳格な人物だと聞く。たとえカイルから半ば無理やり『毒味係』に任命されたとはいえ、我が子が使用人と一緒に食事をとっているとなれば、ハウエル公爵家当主として看過できないのかもしれない。
(カイル様から一緒に食べるように言われたとか弁解したら、もっと印象が悪くなりそうだしな……)
たとえそれが事実とはいえ、自分が言うと言い訳がましく聞こえるかもしれない。下手をすれば、カイルに責任をなすりつけていると受け取られる可能性すらある。
(……逃げたい! 全力で逃げ出したい……っ!)
キリキリと胃が痛くなる。しかし、逃げたらそれこそ解雇間違いなしである。
呼び出された理由が何にせよ、謝罪は不可避だ。せめて解雇という最悪な展開だけは回避できるよう、ダリルは頭の中で謝罪の練習をしながら、書斎へと歩みを進めた。
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