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1巻

1-1

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「――契約を延長してもらうことは可能だろうか」

 目の前に座る夫、カーティス・ハウエルが静かに言った。その声はどこかすがるような切実さを帯びていた。

「え?」

 壁際にいくつもの本棚が並ぶカーティスの書斎で応接用のソファに座り、他愛のない会話を交わしていたダリルは、唐突に思いがけない言葉を寄越され、目を見開いた。
 カーティスの言葉が聞こえなかったわけではない。むしろ屋敷は夜の静寂に包まれ、今この世にいるのは自分たちだけではないかと錯覚するほどに静かだった。
 しかし、それでも聞き返してしまうくらい、カーティスの言葉は予想外のものだった。
 契約と聞いて、思いつくものはひとつだけだ。ハウエル公爵家当主と使用人、このあまりに身分の違う二人を繋げる婚姻関係である。
 確かに二人は婚姻関係にあるが、それは一年だけ。彼の息子、カイルが全寮制の学園に入学する今日までのはずだ。
 契約という言葉通り、そこに恋愛感情は一切なく仮初めの関係である。それこそ、先ほどまで二人で今日学園に入学したカイルとの思い出話に花を咲かせていたのだ。このまま綺麗に関係を終えるものだと信じて疑わなかった。

「えっと……契約、というのは、この婚姻関係についてでしょうか?」

 念のため、ダリルは確認した。

「ああ、そうだ」

 戸惑うダリルに反して、カーティスは落ち着いた様子で頷き返す。ダリルの困惑はますます深まるばかりだった。

「あの、どうして延長を……?」

 そもそも一年だけという条件を出したのはカーティスのほうだ。しかも二人の結婚を望んだのはカイルであり、その彼はもうこの屋敷にいない。
 はっきり言って、この婚姻関係を延長する意図が分からなかった。

「あ、もしかして、学園の行事などで両親の参加が必要なのですか? それなら、いつでも呼び出してくれれば駆けつけ――」
「違う」

 ダリルが言い終える前に否定したその声は鋭く、少し苛立っているようでもあった。よく見ると、眉間にも薄っすらとしわが寄っている。

(何か悪いことを言っただろうか……?)

 もちろんカーティスがちまたで聞くような冷血な人間でないことは、偽りとはいえ、彼の伴侶として傍にいたこの一年でよく知っている。
 しかし、オーデル王国を長き戦争から救った英雄として称えられるその凄みは、時に威圧感を生み出す。おびえるダリルに気づいたカーティスは、ハッとして「すまない」と自身の態度を恥じ入るように謝った。

「別に怒っているわけじゃない。ただ、君は本当に私のことなんか少しも眼中にないのだと思ったらつい……」
「え?」

 カーティスは視線を逸らし、口元に当てた手の中で苦々しく呟く。そしてゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐダリルを見た。

「君はこの一年、カイルの親としてよく頑張ってくれた。そのことにはとても感謝している」
「いえ、私は別に大したことはしていませんよ」

 謙遜ではなく、事実、カイルの親代わりの役目は特段大変なものではなかった。むしろカイルと過ごす日々は楽しかった。それに生家から勘当されて帰る場所のなかったダリルのほうこそ、契約結婚とはいえ家族として屋敷に置いてもらったのだから、いくら感謝しても足りないくらいだ。

「ところで、契約延長の理由は何ですか? もしかしてカイルが寂しがるからとかですか?」

 カイルは屋敷にはいないが、その間に書類上の話ではあれど親子関係がなくなるのは寂しいことに違いない。しかしカイルのいないこの屋敷に、親代わりとしての自分は不要だ。
 それにカーティスには、今後もカイルとの手紙のやり取りや面会を自由にしていいと言われている。だからたとえ親子関係がなくなっても、カイルが嫌がらない限り、彼とはずっと親交を続けていくつもりだ。
 それを伝えようとしたが、先に「いや、違う」とカーティスが答えた。

「確かにカイルも寂しがるだろう。父親としてそれは避けてやりたいところだ。だが、延長の申し出はカイルの父親としてではない。――君の夫としてだ」

 赤い瞳が真っ直ぐダリルを見据える。そのひたむきな眼差しに、思わずドクンと鼓動が跳ねた。

「さっきも言った通り、君はカイルの親としてこの一年よく頑張ってくれた。……だから今度は、私の伴侶として傍にいてくれないだろうか」

 プロポーズと言っても差し支えないほどの真剣な声と言葉に、ダリルは戸惑った。
 確かにこの一年で彼に好意的な感情を抱くようになった。しかし、そこに甘い恋愛感情はない。
 だからといって、彼の申し出を無下に断るのも躊躇ためらった。もちろん相手がこのオーデル王国で王族に次いで権力のあるハウエル公爵家当主であることも理由のひとつだが、それだけではない。
 契約結婚とはいえ、家族として一年過ごしてきた。恋愛的な感情はなくとも情は湧く。しかも相手は真剣そのもので、契約延長を申し出るその声にどこか痛切さを感じたのだ。
 これを断れというほうが無理な話だ。しかし安請け合いできる類のものでもない。

「……半年だけでいい」

 どう答えるべきか思いあぐねていると、カーティスが縋るような声で言った。

「半年だけ、契約を延長してくれないだろうか。もしその間に君が私に好意を抱かなければ、大人しく契約を解消――離婚、するつもりだ」

 そしてカーティスは、ふところから一枚の紙を取り出した。

「半年の延長に合意してくれるのなら、そこにサインをしてくれ」

 言い終えるとカーティスはゆったりと長い脚を組み、テーブルの上の紅茶を口に運んだ。
 ダリルは冷や汗をかきながら、ハウエル公爵家の家紋が押された契約書をじっと見つめた。

(な、なんでこんなことに……! 俺はただ、第二の人生で自由気ままなスローライフを送りたかっただけなのに……!)

 もし目の前に神が現れたなら、すぐさま詰め寄りこう言っていただろう。
 悪役令息としての役目は全うした!
 これ以上、試練を課してくるな!


    ****


 約二年前、まだダリルがコッド侯爵家の人間で、王立アリシア学園に在籍していた時のこと。

「ダリル・コッド、君との婚約はこの場をもって破棄する!」

 学園の定例行事である舞踏会で、婚約者であるゴードン公爵家令息、アルフレッド・ゴードンがダリルに言い放った。金髪碧眼の美少年、フィル・ガーネットを抱き寄せながら……
 ダリルは震える手をぎゅっと握りしめながら、問い返した。

「な、なぜですか……?」
「まさか心当たりがないとでも言うつもりか?」

 侮蔑ぶべつの表情をありありと浮かべ、アルフレッドがじろりとダリルを睨みつける。

「フィルからすべて聞いた。彼に嫉妬して数々の陰湿な嫌がらせをしてきたそうだな」
「そ、それは……っ」

 言葉に詰まるダリルを見て、アルフレッドはハッと鼻を鳴らした。

「顔だけでなく心まで醜いようだな。心も美しいフィルとは正反対だ」
「……ッ!」

 ダリルはうつむき、震える拳を握りしめた。
 しかし、その震えは怒りや屈辱からくるものではなかった。

(……や、やっと、これで悪役令息の役目から解放される!)

 長い間待ち望んだ展開に、ダリルは心の中で思わず両手を挙げて歓喜した。


 ダリルには前世――佐野幹明さのみきあきの記憶がある、そしてその記憶に基づくと、この世界は妹の書いた小説『薔薇色ばらいろきみ』で、どうやら自分は主人公の恋敵で悪役令息のダリル・コッドに転生したようである。
『薔薇色の君』はいわゆるボーイズラブというジャンルで、同性同士の結婚も普通という設定だ。
 前世の自分であれば絶対に読まないジャンルの小説だが、目に入れても痛くないほど可愛い妹が初めて書いた小説だ。読まないはずがない。
 反応がもらえないと嘆いている妹を見かねて、小説が更新される度に匿名で長文の感想を送っていたほどに読みこんでいたので、展開どころか台詞までほぼ覚えている。
 この物語は、美少年のフィルが、運命の人――アルフレッドと出会い、幸せになる物語だ。そのためにはアルフレッドが、親同士が勝手に決めた婚約を、ダリルの悪行を理由に破棄しなければならない。つまり、悪役令息ダリルの悪行はこの物語において必須なのである。
 しかし、常識的な良心を持つ幹明の記憶があるダリルにとって、人を傷つける陰湿な言動をとるのは抵抗があった。
 なので、そういったことをしなくても婚約破棄できるように努めたが、駄目だった。物語の展開に反することをすると過去に戻され、何度もやり直しを強いられるのだ。
 最初こそ、物語の展開に差し支えのない程度に嫌がらせの内容を加減していたのだが、前回のやり直しの時に弟のネイトを巻きこんでしまい、彼を死なせてしまった。
 このことがきっかけで、ダリルは決意した。
 ――加減など一切せず完全に悪役令息の役目を全うしよう、と。


(長かった……。でも、これで終わりだ!)

 ダリルはそう安堵しながらも、いかにも気が動転しているような表情を作って、勢いよく顔を上げた。

「だ、だって、アルフレッドには僕という婚約者がいるのに、そいつがあなたにまとわりついているから……!」
「それで嫉妬したということか? 聞き苦しい言い訳だ。それで許されていると思っている貴様の心根が醜い。そもそも、俺は貴様など一度も愛したことはない」
「そ、そんな……っ」

 冷たく浴びせかけられた言葉に目を見開き、ダリルはその場にくずおれた。もちろんすべて演技だ。

「そんなひどすぎる……っ」

 顔を覆って泣くダリル。そんなダリルを見下ろすアルフレッドの目はますます冷たいものとなり、軽蔑するようにハッと息を吐き捨てた。

「ひどいのはそっちだろう。可愛いフィルを傷つけて。しかもこの間は、階段からフィルを突き落として――」
「アルフレッド様」

 あおい瞳を潤ませて二人のやり取りをアルフレッドの腕の中で静観していたフィルが遮った。

「もう、おやめください。ダリル様がお可哀想です。確かに僕はダリル様に嫌がらせをされました。でも、それはダリル様がアルフレッド様をそれだけ愛しているということです。人を愛すると嫉妬心が出てくるのは当然のことです。ただ、今回はそれが行きすぎたということで……」
「フィル……! お前は何と優しい!」

 感極まった様子でフィルを思いきり抱きしめるアルフレッド。

「姿だけでなく、心までまるで天使のようだ」
「そ、そんな、僕はただ当然のことを言ったまでで……」

 フィルは恥じらうようにその頬を赤く染めた。

(はいはい、そういうのは後でいくらでもやってくれ……)

 顔を覆う指の隙間から二人の甘いやり取りを見て、ダリルは心の中で毒を吐く。もちろん嫉妬心からではない。早くこの茶番から解放してくれという気持ちからだ。
 フィルはアルフレッドから離れると、ダリルの前まで歩み寄り、片膝をついた。

「ダリル様、大丈夫ですか。よければ僕の手を」

 差し出された白く美しい手と、天使のような美貌に浮かぶ微笑みに目をいてみせる。そして、すぐにその顔を険しく歪めた。

「お前如きが僕に同情するな!」

 そう怒鳴りつけ、ダリルはフィルの手を叩き払う。その光景に周囲がどよめく。
 しかしダリルは気にすることなく立ち上がると、「覚えていろ! この学園にいられないようにしてやる!」と捨て台詞を吐き、そのまま舞踏会のホールを後にした。


 学生寮へと続く回廊の途中で足を止め、ダリルは自分の胸に手を当てる。
 ホールを出てからずっと、バクバクと激しい鼓動が止まらなかった。

(こ、これで、やっと終わった……)

 これまでの理不尽なやり直しと、心が痛む悪役令息の役目からようやく解放された安堵と喜びに、じわりと目尻に涙がにじんだ。

(もうこれからは小説の展開なんか気にしないで自由に生きられるんだ……!)

 夜空に浮かぶ綺麗な満月を見上げながら、目を細めた。

「兄さん!」

 突如、背後からした声に、完全に気が緩んでいたダリルは思わずビクッと体を震わせた。振り返ると、ひとつに束ねた黒い長髪をなびかせて駆け寄って来る弟、ネイトの姿があった。

「ああ、ネイトか」
「『ああ、ネイトか』じゃないよ! 何だよ、さっきのは!」

 吊り上がったその紫色の目は怒りに満ちていた。とても同じ血が流れているとは思えないほどに整ったその顔は、怒るとさらに威圧感が増すので、思わずひるんでしまう。
 ネイトはダリルの二つ下の弟だが、コッド侯爵家当主の後妻との子で、ダリルの異母弟である。ダリルの母は彼を産んでから一年も経たずにこの世を去っている。
 ネイトの母は前妻の子であるダリルのことをうとましく思っているが、ネイト自身はダリルを実の兄のように慕っており、ダリルもまた彼を可愛がっていた。

「あの男、ふざけてる! 兄さんとの婚約を破棄するなんて! 他の奴らがいなければ殴ってやったのに……っ」

 心底憎らしそうに奥歯をギリッと鳴らすネイトを見て、ダリルは思わず小さく笑った。

「なに笑ってるんだよっ。笑い事じゃないよ!」
「ごめんごめん。ただ、いつもアルフレッドのことを『あいつは兄さんの婚約者にふさわしくない』とか言ってたのに、いざ婚約破棄となるとすごく怒ってるから」
「そりゃあ、こんな婚約関係なんかなくなれってずっと思ってたよ。でも、あいつから言い出すのは違う。しかも、あんな人前で言うなんて!」

 ネイトは苦々しげに言って、拳を血管が浮き立つほど強く握りしめた。
 小説通りの展開を望んでいたダリルにとって、正直なところ、この婚約破棄は痛くも痒くもない。なのに、まるで自分のことのように怒り悲しんでくれるネイトに、少し胸が痛くなった。
 何か言葉をかけようとしたとき、彼はダリルをキッと睨んだ。

「兄さんも兄さんだ! どうしてあんなことを言ったんだ! あれじゃあまるで兄さんが本当に嫌がらせしたみたいじゃないか」
「したみたい、じゃなくて、したんだよ」

 兄を信じる弟の真っ直ぐな目に後ろめたさを覚えつつ、苦笑しながら答える。それを聞いたネイトの目が驚愕に見開かれた。

「そんな兄さんが……。信じられない」
「信じられなくても事実だよ」
「どうしてそんなことを……!」
「えっと、まぁ、嫉妬に狂ってという感じかな」

 頭を掻きながらぎこちなく笑う。
 当然ながら、アルフレッドへの愛もなければ、フィルへの嫉妬心もない。だが、婚約者の自分がフィルに嫌がらせをする理由としては、それが一番妥当だ。物語上でもそうなっている。

「嘘だね」

 だが、長年傍で兄を見てきた弟の目は誤魔化せなかったようだ。
 ネイトはそう断言して、溜め息をついた。

「兄さんは嫉妬なんかで人を傷つけるような人じゃない。そのことは弟の僕がよく知っている。あまり僕を見くびらないでほしい」

 毅然とした目で見つめてくるネイトに少したじろぐ。そして、こんなにも自分を信じている人がいるという事実は、純粋に嬉しかった。
 気づけば頬が緩み、満面の笑みを浮かべていた。

「ははは、そんな風に言ってくれる弟がいて、俺は本当に幸せ者だ」
「はぐらかさないで。……それで? なんで嫌がらせなんかしたの? フィルにひどいことでもされたとか? それとも誰かに脅されたとか?」
「あー……」

 ずい、と顔を近づけて詰め寄るネイトから、ダリルは視線を逸らす。
 誰かに脅されて、というのは当たらずもといえども遠からずだ。ただし、相手は人ではなく、この世界を統べる者、もしくはこの世界そのものかもしれないが……

「……言えないの?」
「えっと、できれば、そこには触れないでもらえると嬉しいな」

 ネイトが真意をうかがうようにじっと見つめてくるので、ダリルはぎこちなく笑い返した。
 まさかこの世界が妹の書いた小説の世界だと言っても、信じてもらえるはずがない。さらには小説通りの展開にしなければ過去に戻ってやり直さなければならない、などという突拍子のない話をすれば、間違いなく正気を疑われるだろう。
 しばらくすると、ネイトは小さく溜め息をついて顔を引いた。

「分かった。兄さんを困らせるのは僕の信条に反するから、これ以上は詮索しないであげるよ」

 不服そうに腕を組みつつも追及を打ち切ってくれたので、ホッとする。

「ネイト、ありが――」
「ただし!」

 ずいっ、と彼は先ほどよりさらに顔を近づけてきた。

「今後困ったことがあったら絶対に僕に相談すること! いいね?」
「う、うん、分かった」

 ネイトの圧にひるみながら、ダリルはこくこくと頷いた。すると、ネイトはようやく顔を離した。

「まったく。嫌がらせの件にしたって、僕に言ってくれればもっとうまくやり通したのに」

 溜め息をつくネイトの言葉を聞いて、ダリルは苦笑した。
 頭脳明晰な彼ならば本当に一切の証拠を残さずにやり通しそうだからだ。

(まぁ、それだとまたやり直しになってしまうな……)

 それに前回のやり直しでネイトを死なせてしまったのも、物語の繰り返しにすっかり疲弊し、彼につい胸の内を吐露したことで、この呪われた物語に巻きこんでしまったのが原因だ。
 自分の腕の中で冷たくなっていく血まみれのネイトを思い出すだけで、全身から血の気が引く。
 だから、目の前で生きている彼を見ていると胸に熱いものがこみ上げてきて、ダリルの目に涙が浮かんだ。それに気づいたネイトがぎょっとする。

「兄さん? どうしたの? もしかして、本当はアルフレッドとの婚約破棄が悲しいとか……?」
「いや、違うんだ。ただ、ネイトがいてくれて、本当によかったと思って……」

 目元の涙を拭うと、ダリルはそのままネイトをぎゅっと抱きしめた。彼の体温が布越しに伝わってきて、前回の冷たく忌まわしい記憶が消えていくようだった。

「兄さん……」

 突然、抱きついてきたダリルに戸惑いつつも、ネイトは頬を緩めた。ネイトもダリルの背中に腕を回すと、二人はしばらくの間、互いの親愛の情をじっくりと味わうように抱擁を続けた。

「……ひとつだけ確認しておきたいんだけど」

 ダリルを抱きしめたままネイトが口を開いた。

「何?」
「フィルを階段から突き落としたって噂もあるけど、それも本当に兄さんなの……?」

 問いつつも否定を願うその声に、ダリルは言葉を詰まらせた。
 物語では、ダリルがフィルを階段から突き落とすシーンがある。それはアルフレッドに婚約破棄を決断させる、悪役令息ダリルにとって最も重要な悪行である。
 しかし人を階段から突き落とすなど、一歩間違えれば大怪我を負わせかねない。前回のやり直しでネイトの死を目の当たりにし、完璧な悪役令息をやり通そうと決意したダリルであっても、やはり躊躇ためらいがあった。
 婚約破棄を言い渡される舞踏会の日までにどうにか決行しなければと思いつつ、なかなか行動に移せず焦っていたダリルはその日、階段付近でウロウロしていた。
 どの辺から突き落とせば怪我なく、なおかつ悪役令息らしい悪行に見えるだろうかと思案していると、ちょうどフィルがやって来た。
 人気もなく最大のチャンスだったが、ダリルにはまだ心の準備ができていなかった。仕方なく、フィルの挨拶を無視してその場を立ち去るに留めた……のだが――

『きゃ……っ!』

 すぐ背後から短い悲鳴が聞こえたと同時に、ドタドタと激しい物音が続いた。
 振り返ると、フィルが階段の下に倒れていた。

『大丈夫か!』

 音を聞きつけ生徒たちが駆けつける。そして、その中にはアルフレッドの姿もあった。

『フィル……!』

 顔面蒼白で駆け寄るとアルフレッドは膝をつき、フィルを抱き寄せた。
 そして原因を探るように、階段を見上げた。目の前で起こった事態に茫然と立ち尽くすダリルと目が合う。その瞬間、アルフレッドの表情が侮蔑ぶべつの表情に変わった。他の生徒も同じような表情を浮かべていた。
 だから、誰も気づかなかった。アルフレッドの腕の中で、ニッと勝ち誇ったように微笑むフィルに……
 ダリルは恐ろしくなってそのまま彼らに背を向け、その場を立ち去った――
 今となれば、ダリルにとってフィルをこの手で突き落とさずに正しい物語を辿たどれたのは、ある意味ありがたいことではあった。しかし、愛する弟にまで自分が嫉妬のあまり人を突き落とすような卑劣な人間だと思われるのは、嫌だった。
 だがここで違うと否定すれば、もしかするとまた振り出しに戻るかもしれない。それはもう勘弁願いたい。
 悪役令息としての役目を完遂しなければという気持ちと、ネイトに誤解されたくないという気持ちの間で揺れ動き、返答に困っていると、柔らかな溜め息が耳の近くで落ちた。

「……もう言わなくていいよ。全部、分かったから」
「え?」

 少し体を離して顔を上げると、ネイトが微笑んでいた。

「僕を誰だと思っているの? 兄さんを一番近くで見てきたんだ、言葉なんてなくても分かるよ」

 そう言って、さらに強く抱きしめてきた。

「兄さん、好きだよ。大好き。たとえ皆が兄さんを悪者だと見なしても、僕だけは兄さんの優しさを知っているし、それを信じている。だから、辛い時は僕を頼ってね」

 切々せつせつつむがれる言葉を聞いて、目頭が熱くなる。
 自分は幸せ者だ、とダリルはしみじみ思った。ダリルの意思を無視して、物語を忠実になぞることを強要する神を何度も恨んだ。しかし、この物語で悪役令息として生を受けた自分にはもったいないほどのいい弟を得たことには感謝している。

「ははは、ネイトは本当に頼もしいな。これじゃあどっちが兄だか分かんないよ」
「兄さんに頼もしいなんて言ってもらえるなんて嬉しいな。頼もしいって言ったからにはちゃんと頼ってよね」
「ああ、嫌ってくらい頼ってやる」

 冗談めかして返すダリルだが、それが叶わないことはこの世界で誰よりも知っていた。
 なぜなら、フィルへの嫌がらせ、特に階段から突き落とした件について責任を問われ、学園から追放されるからだ。
 さらには、以前からダリルをうとましく思っていたネイトの母がこれを理由に父――コッド侯爵にダリルの勘当を進言する。もともと妻に尻に敷かれている上に、彼女の言い分は至極正論であり、従わざるを得ない。
 学園追放に勘当、まさに悪役令息らしい結末である。しかし、ダリルはその未来をまったく嘆いておらず、むしろ気分は晴れやかだった。

(ここからは物語に関係ない俺の人生だ。第二の人生、自由にやらせてもらうぞ!)

 悪役令息の役目を強いられない未来に、希望すら抱いていた。

(退学後についても、すでに手を打っているしな)

 ダリルは学園追放後の未来に思いを馳せ、胸の内でほくそ笑んだ。


    ****


 無事、というのもおかしな話だが、あの舞踏会の夜から滞りなく学園追放、勘当と物語は進み、ダリルは晴れて自由の身となった。
 兄への理不尽な決定にその都度激怒し、学園長や父に異議を申し立てに行こうとするネイトを止めるのには随分と骨が折れたが、何とか物語通りの結末を迎えることができ、ダリルは安堵した。
 最低限の荷物を革製のトランクケースに詰めて家を出たダリルの行き先は、決まっていた。

「お客さん、本当にここに行くのかい?」

 街で馬車の御者ぎょしゃに行き先を伝えると、困惑気味に聞き返してきた。

「ええ、そうです。明日からそこで働くことになってるんです」

 ダリルが答えると御者ぎょしゃは目をいて、それから眉尻を下げた。

「そうかい。そりゃあ、何というか……、お気の毒様だね」

 同情しきったその物言いと表情にダリルは苦笑のみ返して、馬車に乗りこんだ。
 ダリルがこれから向かう場所は、この国で王家の次に権力があると言われるハウエル公爵家の別邸である。ダリルはその屋敷の使用人として雇われたのだ。しかも、その給金は普通の使用人としては考えられないほど高い。
 その高額な給金と御者ぎょしゃの同情からして分かるように、ハウエル公爵家別邸の使用人の仕事は通常のものと少し異なる。仕事内容それ自体は普通の使用人のものと至って変わらないが、問題は仕える屋敷の主にあった。
 ハウエル公爵家現当主のカーティス・ハウエルは、五年前、長きに渡って続いた大戦で活躍し、オーデル王国を勝利に導いた英雄とされている。
 しかしこの大戦から帰還して数日後、彼の妻――クリスティーナは全身に赤黒いあざが広がり、謎の死を遂げた。その遺体はひどいもので、元の美貌が想像できないほどおぞましい姿に変わり果てたという。臭いもひどく、葬儀の出席者の中には棺からにじみ出る死臭に嘔吐した者もいるらしい。
 謎の病気という言葉では片付けられない、ひどい死に様に、やがて英雄の功績を怪しむ者が出てきた。
 彼らはこう言った。

『あの人並み外れた力は邪術によって得た力で、妻はそのせいで亡くなったのではないか』

 しかし、邪術の効果については眉唾ものであり、その噂はすぐに廃れた。だが代わりに『戦場での虐殺を繰り返したゆえの呪いではないか』という噂が広がり、それは人々の間でまことしやかに囁かれ続けた。もちろん彼が虐殺を繰り返した事実はないが、無実を証明するものもなかった。
 加えて、クリスティーナの死から二年後、当時五歳の息子――カイルの顔に妻と同じ赤黒いあざが広がり始めた。
 幸いにも、カイルの場合は全身に広がることはなかったが、このことは噂をさらに確固たるものとした。
 ――ハウエル公爵家は呪われている。
 カイルは現在、療養を兼ねて本邸から自然に囲まれた別邸へ移っているが、噂のせいでなかなか使用人が集まらない。そのため、破格の給金が設定されたのである。
 高額の給金、その上住みこみというのは、まさにダリルが探していた仕事だった。

(それにしても呪い、ね……)

 賑やかな街から瑞々しい木々へと変わった窓の風景をぼんやり眺めながら、ダリルは思った。

(まぁ、俺も呪われていたみたいなもんだしな)

 自分の繰り返しの人生を思い返して、思わず苦笑する。ハウエル公爵家に対する世間の噂に反して、ダリルはあの呪われた繰り返しを乗り越えたのだ。何とかなるだろう、と楽観的な気持ちでいた。

(調べたところ、別に使用人に死人は出てないし、噂は噂でしかないってことだな)

 呪いなどというおどろおどろしい言葉とは無縁の、道中の爽やかな木漏れ日に目を細めながら、ダリルは屋敷に到着するのを待った。


 公爵家別邸に着いたのは、それから二時間後。別邸と聞いていたが、屋敷はコッド家の本邸以上の大きさだった。
 応接間に通されたダリルは、執事長のローマン・マクレイに仕事の説明をひと通り受けた。
 仕事の内容は主にハウエル公爵家令息、カイルの身の回りの世話で、部屋の掃除や洗濯など普通の使用人とほとんど変わらなかった。ただ、こんなにも広い屋敷でありながら使用人は最低限しかおらず、仕事量は少なくなさそうだ。

「――何か質問はありますか?」

 向かいのソファに対座するローマンが、穏やかな声で訊いてきた。
 肩にかかるくらいの銀髪を後ろでひとつに束ねた高年の男性で、重ねた歳の分だけゆとりがあるような物腰の柔らかさに、緊張し通しだったダリルの心はホッと緩んだ。
 何か質問があるかとの問いも形式的なものではなく、親切心から言っているのが伝わってくる。とりあえず何か困ったことがあったら彼に相談できそうだった。

「仕事内容については特に質問はないのですが、カイル様について少しお聞きしてよろしいですか?」

 カイルの名前を出した瞬間、かすかにローマンの瞳に緊張が帯びた。しかし、すぐに柔らかな微笑みを浮かべ「どうぞ」と言葉を促した。

「確かお歳は六歳でしたよね」
「ええ、そうです」
「顔のあざについてですが、何か気をつけることはありますか?」
「……気をつけること、ですか?」

 ローマンが軽く眉間にしわを寄せて聞き返してきた。無神経な質問に聞こえてしまったかとダリルは慌てて弁解した。

「すみませんっ。決して失礼な意味ではなくて、たとえば直射日光に当たってはいけないとか、特定のものは食べてはいけないとか……もしあざを悪化させてしまうものがあれば事前に教えていただきたいと思いまして」

 おずおずと訊くダリルの言葉に目をみはるローマンだったが、すぐに眉間のしわを散らして微笑んだ。

「大丈夫ですよ。特にそのような配慮はいりません。……それにしても、そのような質問をされたのは貴方が初めてです」
「え?」

 今度はダリルのほうが目を丸くした。
 あざの療養のために別邸に移り住んでいるのだ。自分の質問は至極当然ではないかと首を傾げる。
 そんな不思議がるダリルの様子を見て、ローマンはますます笑みを深めた。

「貴方は、カイル様のあざを呪いではなく病気だと思っているのですね」
「ええ」
「ふふ、貴方のような人が来てくれて本当によかった」

 かすかに剣呑けんのんさを含んだ態度をひるがえして好意的な言葉をかけるローマンに少し戸惑っていると、彼は悲しげな苦笑を浮かべて言い加えた。

「大概の人は大抵こう訊くのですよ。カイル様が使用したシーツなども触れたら呪いが伝染うつるのではないか、同じ空間にいるだけで自分も呪われるのではないか……と。どれも呪いを恐れて自分の身を守るためのものばかりで、そこには少しもカイル様に対する思いやりはありません」

 ローマンは憂いを帯びた溜め息をついて一旦言葉を切ったが、すぐにまた続けた。

「カイル様は聡く鋭いお方です。使用人のそういった自分への恐怖心や忌避感を敏感に察して、傷ついてしまわれるのです」
「そうですか……」


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