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第5章 35歳にして、愛について知る
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「こーすけ、ただいまー」
いくつかの壁を隔てたその向こうで、ドアの開く音と、僕を呼ぶ声が響いた。
眠気の濃いもやが立ちこめる頭の中に、澄んだ声が射し込んで僕は眠りから半分醒めた。
一体誰が呼んでいるんだろう……。
ベッドの心地の良い温もりに意識が溶けしまってなかなか頭が働かない。
あ、そうだ、今日は晴仁が帰ってくるんだった……。
溶けた意識を何とかかき集めて形にすると、少しずつ記憶と意識がリンクし始めた。
どうしよう……、ご飯作って出迎えるはずだったのに全然準備できてない……!
そこでようやく焦りから意識がしっかりしてきた。
と、とりあえず、せめてお出迎えだけでも……!
そう思って起きあがろうとした時、体に巻き付いた腕にぎゅっと力が入った。
……え? 体に巻き付いた腕?
晴仁は玄関にいる。
じゃあこの腕は……。
驚いて隣を見ると、目と鼻の先の距離に整った顔があり、僕は思わず「へっ!?」と間抜けな声を上げてしまった。
夢かと思ったが、それは間違えなく蓮さんの寝顔だった。
ど、どうして蓮さんが……! と一瞬状況が飲み込めなかったが、そういえば昨日体調の悪い蓮さんを自分が無理を言って家に連れ帰ったことを思い出し、ようやく現状に合点がいった。
歳のせいなのか、元々の頭の悪さのせいなのか、状況把握に時間が掛かってしまうので困りものだ。
しかし困ったのは自分の頭の造りだけではなかった。
若い、しかも見目麗しい男の子とベッドでこんなに密接して寝ているこの状況。
困った、非常に困った。
女っ気がないと思っていたけど通りで……なんて、誤解を受けかねない状況だ。
この年齢差、下手したら援交に見えるかもしれない。
「あ、あの蓮さん、起きてください」
とりあえず離れようとするけれど、ぎゅっと力を込めた蓮さんの腕はびくともしないし、蓮さん自身、僕の声に眉を少ししかめるだけで起きる気配もない。
「こーすけ? いないの?」
近づいてくる足音と声に慌てた僕は無理矢理、絡みつく腕とベッドから抜け出そうとした。
それがいけなかった。
抱きついたままの蓮さんと一緒にベッドから落ちてしまった。
上に蓮さんが覆い被さる形になり、僕の口から「うぇ」とカエルが潰れるような声が漏れ出た。
「こーすけ、寝てるの? 大丈夫?」
気遣わし気な声と同時にドアが開いた。
床に倒れる僕と、ドアの隙間から顔を出す晴仁の視線がかち合った。
見開いた目が驚きで固まっている。
妻の留守中に愛人を招いてはち合わせてしまった男、のような状況だ。
家主に許可なく他人を家に上げてしまった後ろめたさが、この空間に女性などひとりもいないのに、そんな錯覚を覚えさせた。
「は、晴仁、こ、これには事情があって……」
バキッ!
僕の言い訳がましい声は、何か固いものが割れるような音に遮られた。
音の方を見ると、部屋のドアにひびが入っていた。
そしてひびの中心には晴仁の手が……。
晴仁は今まで見たことのない冷たい顔をしていた。
「は、晴仁……?」
心臓が凍りそうな冷たい表情に怯えながら恐る恐る声を掛けると、晴仁はハッとしてすぐに笑みを浮かべた。
「こーすけ、大丈夫だよ。恐がらないで。なにも恐くないから。今から起きることも何もかも」
僕の不安をきれいに取り去ろうとするような優しい声と笑みは、なぜだか一層不安を煽った。
笑みを湛えたままこちらに近づいてくる晴仁に僕はごくりと唾を飲んだ。
な、なんだか不吉な予感が……。
「ふぁぁ……」
固まっている僕の上から、緊張とは真反対の大きな欠伸がこぼれ落ちてきた。
僕の上に覆い被さっていた蓮さんが目をこすりながら、体を起こした。
「……あ~、体痛ぇ……。寝すぎたな」
気だるげに体を伸ばす蓮さんだったが、僕の存在に気づくと目を見開き、次には顔をしかめた。
「テメェ……、まさか俺が弱ってるからって何か変なことしてねぇだろうな……っ」
「え……、ええぇ!? い、いやいや、そんなことは絶対ないよ!」
「信用ならねぇよ! 第一、初めて会った時なんか俺が寝ている時にキスしただろうが!」
「ち、違いますっ、あれは誤解です!」
「……こーすけ」
僕と蓮さんの会話に、冷たい声が入ってきて心臓が跳ね上がった。
恐る恐る声の主の方を振り向くと、全く目が笑ってない笑みを浮かべる晴仁がいた。
「詳しく話を聞かせてくれる?」
「は、はひ……」
二人の誤解を解くのには時間が掛かった。
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