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第5章 35歳にして、愛について知る

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麻奈美さんのヘルプに初めて入った日から、一週間が経った。

「お疲れ様です! この右京、インフルエンザ無事回復しました!」
「……っ! 右京君! おかえりなさいっ!」

額に手を添え敬礼ポーズで厨房に入ってきた右京君に僕は思わず抱きついた。

「あ、らっきょうずる~い!」
「よ、よかったぁ……っ! 右京君が復活してくれて本当によかった……っ!」
「え、え、ど、どど、ど、うしたんですか青葉さんっ!」

突然抱きつかれ困惑する右京君。
三十五歳のおっさんにいきなり半泣きで抱きつかれたら驚くのも無理はない。
驚きを越えて不気味ですらあるかもしれない。
でも、それでも僕はこの沸き上がる安心感を抑えることはできなかった。
僕は涙ながらに事の経緯を話した。

「右京君がいない間、大変だったんだよ。隙あらば桜季さんがピアッサーを握って僕に詰め寄ってきて……」

あれからは恐怖の連続だった。
常にピアッサーの気配に怯える職場というものもなかなかないだろう。
職場でこんなに身の危険を感じたのは初めてだ。
僕の言葉に右京君の眉根がぴくりと動いた。

「ちょっと桜季さん! 俺がいない間に何してんですか! あれほど青葉さんにピアス禁止って言ったでしょ!」
「え~、言ったっけぇ? ごめぇん、おれどうでもいい約束ってすぐわすれちゃうんだぁ」

ごめんね~、と誠意の欠片も感じられない謝罪に右京君のこめかみがピクピクと引きつる。

「ていうか、インフルだったのぉ? それなら厨房立ち入り禁止ぃ。菌をばらまかないでくれるぅ?」
「この野郎……っ」

しっしっと追い払うように手を振る桜季さんに、右京君の拳が強く握られる。
不穏な空気に慌てて二人の間に割って入った。

「う、右京君、インフルエンザだったんだね! 大丈夫? きつくない? もし仕事中きつくなったらいつでも僕を呼んで! ね?」

険悪な流れを何とか止めようと必死に言い募ると、なぜか目に涙をじわりと滲ませ今度は右京君の方から僕に抱きついてきた。

「ヤバイ、青葉さんマジ天使……っ!」
「え? いや天使ってそんな大袈裟な……」

職場の仲間として当然の心配だと思うけれど、彼は違ったようだ。

「いや! 天使ですよ! 俺のばあちゃんと妹たちなんか病原菌扱いして隔離するわ、俺が歩いたところは消毒するわ、食事はポットとお湯でできる雑炊を俺の部屋に置くだけであとは全てセルフサービスだし、本当に人間扱いされなかったんですから……っ」
「それは……つらかったね」

てっきり優しいおばぁちゃんに手厚く看病してもらっていると思っていたのだけど、まさかそんな環境に身を置いていたとは……。

「それじゃあお見舞い行けばよかったな」
「え! マジですか! ぜひ! ぜひ来てくださいっ! つーか、風邪じゃなくてもいいんで見舞いに来てください!」
「えー、それってもうお見舞いじゃなくなぁい? とゆーか、そんな鼻息荒く自分の家に誘うって、なんかやらしー。おばぁちゃんと年頃の妹ちゃんたちにご披露しちゃうわけぇ? きゃー超上級者ぁ」
「やらしいのはテメェだ、黙ってろこの改造野郎……っ」

火花を散らせる二人にわたわたと慌てふためいていると、そこに天の助けがやってきた。
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