上 下
10 / 21

10

しおりを挟む
 まるで昨晩の醜態などなかったかのように、あるいは、彼女への気持ちなどもともと存在しなかったかのように……。


 ****

 ディアナの婚約の一件から、イアンはすっかり生きる気力を失っていた。
 自ら命を絶ちたいと願うほどの激しさはないものの、胸の底でずっと絶望が燻って、生に対して半ば投げやりな気持ちが拭えないでいる。
 そんなイアンを心配して、リチャードが新しい本を買ってきたり、巷で評判の甘味を持ってきたりしてくれるのだが、それが心苦しくてならなかった。
 彼の気遣いに応えようと笑みを浮かべてみるが、瞳の虚ろさがかえって際立ち、歪な形で内の悲哀を露呈することになるのだった。
 リチャードとの語らいだけがこの生活で癒しだったはずが、それすらも気まずくぎこちない時間となってしまい、イアンの心の陰りは晴れることなく日に日に濃くなる一方であった。



 そんなある晩、馬の蹄の音が扉を隔てた向こうから近づいてきた。
 ベッドの上でぼんやりと空を見つめていたイアンは、そのおぼろげな表情をたちまち強張らせ、身を固くした。
 馬の足音だけならリチャードだろうと思えたが、馬の足音だけでなく、荷車らしき車輪の音が後からついてきている。
 イアンの行方を探す役人か親衛隊の人間か……。いずれにせよ、リチャード以外の人間がここに近づかれては困る。
 気配を悟られてはならないと、イアンは固唾を飲んで外の不吉な足音が通り過ぎるのを待った。
 しかし、イアンの警戒に反して、扉を叩いたのはリチャードだった。

「イアン、僕だ。入るよ」

 いつもと変わらない声、いや、どこか喜色を滲ませた声で言ってリチャードが扉を開けた。
 イアンはホッと肩で息をついて、ベッドから立ち上がった。
 だが、リチャードの後ろにフードを被った男が控えているのを認め、再び体を固くした。

「リチャード、その人は……?」

 強張った視線をリチャードの背後に向けながらおずおずと訊く。
 リチャードが自分を裏切るとは思えなかったが、それでも警戒せずにはいられなかった。
 
「ああ、ごめん。びっくりしたよね。でも警戒しなくていいよ。彼は我が家に長年仕えているだジェフだ」
「ジェフ・ロートンと申します。はじめまして」

 リチャードに紹介され、男――ジェフ・ロードンはフードの帽子を脱ぎ挨拶をした。
 歳は四十代半ばくらいだろうか。がっしりとした体格だが、顔つきは柔らかで上品さが漂っている。

「聖女強姦の事件について、僕ひとりで調べ上げるのは時間がかかるから、彼にも協力してもらっているんだ。もちろん秘密が漏れる心配はない。彼は先祖代々我が家に仕える優秀な執事だ」
「ええ、ご安心ください。私はブラッドリー家に忠誠を誓っております。たとえ拷問を受けようとも、イアン様がここにいることは吐きません」

 冗談めかした物言いだが、その目は真剣そのもので、リチャードへの忠誠心は確かなものだと分かった。

「あ、ありがとうございます……」

 ジェフが味方であることは分かったものの、ここに来た理由がわからず、リチャードに戸惑いの視線を向ける。
 その視線の意味を察したのか、リチャードはにこりと微笑んで言った。

「今日はいいものを持ってきたんだ。少し準備に時間がかかるから、ベッドの上で待っておいて」

 そう言うと、半ば強引にイアンをベッドに座らせ、ジェフと一緒に外へ出た。そして、しばらくすると二人は人ひとりが入れるほどの大きな木の桶を持って入ってきた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

涙は流さないで

水場奨
BL
仕事をしようとドアを開けたら、婚約者が俺の天敵とイタしておるのですが……! もう俺のことは要らないんだよな?と思っていたのに、なんで追いかけてくるんですか!

【完結済】ラスボスの使い魔に転生したので世界を守るため全力でペットセラピーしてみたら……【溺愛こじらせドS攻め】

綺沙きさき(きさきさき)
BL
【溺愛ヤンデレ魔術師】×【黒猫使い魔】のドS・執着・溺愛をこじらせた攻めの話 <あらすじ> 魔術師ギディオンの使い魔であるシリルは、知っている。 この世界が前世でプレイしたゲーム『グランド・マギ』であること、そしてギディオンが世界滅亡を望む最凶のラスボスで、その先にはバッドエンドしか待っていないことも……。 そんな未来を回避すべく、シリルはギディオンの心の闇を癒やすため、猫の姿を最大限に活用してペットセラピーを行う。 その甲斐あって、ギディオンの心の闇は癒やされ、バッドエンドは回避できたと思われたが、ある日、目を覚ますと人間の姿になっていて――!? ======================== *表紙イラスト…はやし燈様(@umknb7) *表紙デザイン…睦月様(https://mutsuki-design.tumblr.com/) *9月23日(月)J.GARDEN56にて頒布予定の『異世界転生×執着攻め小説集』に収録している作品です。

悪役令息だったはずの僕が護送されたときの話

四季織
BL
婚約者の第二王子が男爵令息に尻を振っている姿を見て、前世で読んだBL漫画の世界だと思い出した。苛めなんてしてないのに、断罪されて南方領への護送されることになった僕は……。 ※R18はタイトルに※がつきます。

主人公に「消えろ」と言われたので

えの
BL
10歳になったある日、前世の記憶というものを思い出した。そして俺が悪役令息である事もだ。この世界は前世でいう小説の中。断罪されるなんてゴメンだ。「消えろ」というなら望み通り消えてやる。そして出会った獣人は…。※地雷あります気をつけて!!タグには入れておりません!何でも大丈夫!!バッチコーイ!!の方のみ閲覧お願いします。 他のサイトで掲載していました。

【完結】【R18BL】清らかになるために司祭様に犯されています

ちゃっぷす
BL
司祭の侍者――アコライトである主人公ナスト。かつては捨て子で数々の盗みを働いていた彼は、その罪を清めるために、司祭に犯され続けている。 そんな中、教会に、ある大公令息が訪れた。大公令息はナストが司祭にされていることを知り――!? ※ご注意ください※ ※基本的に全キャラ倫理観が欠如してます※ ※頭おかしいキャラが複数います※ ※主人公貞操観念皆無※ 【以下特殊性癖】 ※射精管理※尿排泄管理※ペニスリング※媚薬※貞操帯※放尿※おもらし※S字結腸※

転生したら同性の婚約者に毛嫌いされていた俺の話

鳴海
BL
前世を思い出した俺には、驚くことに同性の婚約者がいた。 この世界では同性同士での恋愛や結婚は普通に認められていて、なんと出産だってできるという。 俺は婚約者に毛嫌いされているけれど、それは前世を思い出す前の俺の性格が最悪だったからだ。 我儘で傲慢な俺は、学園でも嫌われ者。 そんな主人公が前世を思い出したことで自分の行動を反省し、行動を改め、友達を作り、婚約者とも仲直りして愛されて幸せになるまでの話。

βの僕、激強αのせいでΩにされた話

ずー子
BL
オメガバース。BL。主人公君はβ→Ω。 αに言い寄られるがβなので相手にせず、Ωの優等生に片想いをしている。それがαにバレて色々あってΩになっちゃう話です。 β(Ω)視点→α視点。アレな感じですが、ちゃんとラブラブエッチです。 他の小説サイトにも登録してます。

博愛主義の成れの果て

135
BL
子宮持ちで子供が産める侯爵家嫡男の俺の婚約者は、博愛主義者だ。 俺と同じように子宮持ちの令息にだって優しくしてしまう男。 そんな婚約を白紙にしたところ、元婚約者がおかしくなりはじめた……。

処理中です...