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ユニス・カトレア
しおりを挟むシグラム王国。
広大な中央大陸の北東部に位置し、国土としてそれほど大きくはないが、実り豊かな土地。
そのシグラム王国の南西部にあるのは小さな領地であるラスペル。
隣国カサンド帝国、パルスタット神聖国との国境線であった土地なのだが、魔素が濃くなり、結果魔素によって生まれる魔物が跋扈していたことで人が住める環境ではなかった。だが、豊かな土地を国家としても放置しておくことができなかったために新たに領主を選任し開拓されている。
そんな土地であるラスペルを治める領主はまだ年若い。辺境伯の地位を賜ったヨハン・カトレアなのだが、その年齢は三十を回って少し。とはいえ、領主となって既に十六年が経過していた。
英雄とも称される領主ヨハン・カトレアを始めとして、その仲間達の協力によりもう魔素のほとんどが浄化されている。おかげで現在は十分に人が住めるだけの環境が整っていた。
もう今では立派な国境線の重要拠点ともなっているその青空を巨大な影が通過する。
「ほんと、めんどくさいなぁ」
ゴツゴツとした固い面に背を預けながら風を感じて空を見上げているのは桃色の髪を肩まで伸ばした少女。
「お父さん、今日もいないんだよねぇ」
うつ伏せになり、不満気に小さく問いかける。
「ニーナと一緒に依頼を受けているのだったな」
固い面から聞こえる声。その遥か眼下には広々とした木々や平野が広がっていた。
「…………」
「どうした?」
少女が寝転んでいるのは緑がかった巨大な竜。翼竜と呼ばれる竜種であり、その中でも一際大きな竜。通常の翼竜の優に三倍の大きさはある。
「ねぇギガゴン、どうしてアタシは魔法が使えないの?」
「またその話か。オレにわかるわけがないだろ。お前の父ヨハンと母のニーナでさえわからぬのだろう?」
「…………うん」
少女の父と母、辺境伯であるヨハン・カトレアとその第四夫人であるニーナがかつて冒険者学校の生徒であった時代に出向いた先、パルスタット神聖国でこの翼竜ギガゴンと出会い、いくらかの騒動を経てこのシグラム王国まで来ている。
「魔力がないわけではないみたいだがな」
「うん。それはお母さんも、エレナさんも言ってたから。でもそれは誰だって小さくとも魔力は持ってるもん」
「ならば不要な心配だな」
「でも使えないと意味がないし、それに闘気に変換もできないんだもん」
「魔法など、そもそも人間ではまだ十かそこらでは扱えぬものなのだろう?」
「そうだけど、キャロルちゃんとかは五歳で使えたって言ってたよ。ジェラール兄ちゃんもこんなに遅くなかったって。アイリスだって」
「わかったわかった。それよりそろそろ時間だ。降りるぞ」
「もう時間かぁ。やだなぁ」
少女が溜め息を吐くのをギガゴンは上目遣いで見上げるのだが、お構いなしに一直線で降下していく。
轟音を立てながら、地面へと降り立つ先は先程まで少女が見ていた街の中にある大きな屋敷の庭へ。踏み固められたことでいくらか禿げた土が見えるのだが、広く芝生が敷かれたそこは基本的には手入れがしっかりと行き届いている。
「あっ、きたきた」
その庭には長い金色の髪を背に流している女性が立っていた。
「逃げずに来たわねユニス」
「なに言ってるのモニカさん。逃げたって捕まるだけじゃない。そっちの方があとあと痛い目に遭うし。それにだいたい、モニカさんから逃げられる人がこの国にどれだけいるのって話じゃない?」
「ふふ。それもそうね。それこそ他の国にでも逃げないとね。それでも伝手を全部使ってでも追いかけるけどね」
「…………はぁ。めんどくさ」
「なにか言った?」
「なんでもないでぇっす」
翼竜ギガゴンが光を放ちながら人型へと姿を変え、壁に背を当てて腕を組む中、桃色の髪の少女ユニスは溜め息を吐きながら近くに立て掛けられている木剣へと手を伸ばす。目の前の女性、モニカは既に木剣を手にしていた。
「さて。じゃあどこからでもかかってきなさい」
威風堂々と言い放つモニカ。しかし剣はだらりと下げているだけで構えという構えを取ってはいない。
(ほんとモニカさん、相変わらず隙がないなぁ)
ユニスの眼にはそう映っている。何度となく模擬戦をしている仲なのだが、初見であったとしても一定以上の力量があればこの異様な気配は肌感で得られるはず。そうでない者はすべからくモニカに絡んだ結果吹っ飛ばされているのをユニスは何度も目にしていた。
(どうしよう)
じりッと地面を踏み躙りながら飛び込むタイミングを探るのだが、どこにも隙が見当たらない。
(さすが剣姫と呼ばれるだけあるよ)
目の前の女性の二つ名ぐらいはユニスも知っている。ただ剣の達人というだけでなく、その美しさも相まって【剣姫】の異名を得ているのだと。
「こないなら、こっちからいくわよ?」
「っぅ!」
笑顔と釣り合わない威圧感を受け、思わず踵に力を込めて後退りしそうになるのだが、抱く怖気を振り払いながらユニスは力強く地面を踏み込んだ。
「やあっ!」
顔面目掛けて横薙ぎに素早く剣を振るうものの、これが剣姫に通じるはずがないということはわかっている。その予想の通り、モニカは上体を仰け反らして正確な見切りで鼻先を掠めることなくユニスの剣を躱した。
(だけど)
しかしこれはあくまでも陽動。躱されるのは想定内。
「だあッ!」
剣を振るった回転力を活かして残る胴体に回し蹴りを繰り出すのだが、響くのは鈍い音ではなく乾いた音。
「良い攻撃だったけど、甘いわ」
片手の平で受け止められている。
「蹴りっていうのは、こう、するのよっ!」
「ぐぇっ」
受け止めた足を掴んでそのまま引き寄せるモニカはユニスの腹部に膝蹴りを打ち込んだ。
「つぅっ」
「……へぇ、やるわね」
ダメージを負うのは覚悟している。ならば肉を切らせて骨を絶てばいい。膝蹴りを受けながらも顔面に鋭く打撃を放っていたのだが、モニカの頬を掠めただけ。
「なんか、ユニスの相手をしていると、思い出すな」
「それってヘレンおばさんのこと?」
「ええそうね。私も散々やられたしね。丁度ユニスと同じ歳だったわ」
「そういう意味ではアタシは全く成長していないですね」
「うーん、そんなことないんだけどなぁ。体術は凄く上がってるのは確かだし」
「…………」
それは事実間違いないということはユニス自身が自覚している。
口を閉ざすユニスの様子を見ながら、モニカは小さく息を吐いた。
(この子、やっぱり気にしてるのね)
母親とは性格的には似通っている部分は多分にあるのだが、唯一似ていない部分がある。
「動きが止まってるわよ」
とはいえ、モニカが何かできるわけでもないので、今はとにかく自分の役割をこなすだけ。攻勢に回るモニカ。
素早く動き回っては攻撃を繰り出しているモニカに対してユニスは守勢に回るのみ。
「――……へぇ」
邸宅の角から顔を覗かせた人物は一連の攻防を見て感嘆の息を漏らす。
そのまま歩き、モニカによって的確に指導している様子を見守っていたギガゴンの横に立つのは銀色の髪の女性。
「随分と強くなったわね」
「ああ。だが強くなった、だけだがな」
「それだけでも大したものだけど、でもどうしてあの子魔力が使えないのかしら」
銀色の髪の女性は顎に手の平を当てて考え込む。
「カレン殿は心当たりはないのか?」
「ええ。あなたも知っての通り、ニーナは出会った頃からとんでもなかったしね。ユニスも見ての通り十分素質があると思うけど…………」
ラスペル領の領主であるヨハン・カトレアの第一夫人であるカレン・カトレア。
母国は隣国カサンド帝国であり、生まれは皇帝の娘として。つまりは皇女。それだけでなく、類い稀な才を持つ精霊術士でもある。そのカレン・カトレアからしてもユニスが魔力を扱えないことに対しては覚えがない。
「ティアはどう?」
カレンの問いに対してポンと目の前に姿を見せる妖精かと思えるほどの小さな少女。カレンと契約している精霊。
「そうだね。こればっかりは個人の事情にもよるからボクから何か言えることがあるわけじゃないよ。だけど、強いて言うなら、きっかけさえあればもしかすれば変化があるかもしれないね」
「それって潜在的な何かってこと?」
「そうとも言えるし、そうではないかもしれない」
「ふぅん……まぁ、そうよね」
素質があれども必ずしも開花するとは限らない。南のパルスタット神聖国の光の聖女を例えにするならば、元々は水の聖女であったのだが、ある出来事をきっかけに光属性を宿して数年後には光の聖女の位置に就いている。
(だとすれば、あの子の血が何か関係しているのかしら?)
思案に耽るカレン。特殊とも言えるユニスの血縁。まだ本人は多くを知らない。
「終わったみたいだ」
「え?」
顔を上げるカレンの視線の先には、地面に倒れ伏しているユニスの姿。荒い息を吐いて疲労困憊の様子を見せているのだが、対照的にモニカは疲労を感じさせないどころか、汗を拭うことすらない。圧倒的な実力差。
「あの子、今でも現役でやれるのじゃないかしら?」
その底知れぬ強さにカレンは思わず感心してしまう。モニカの本業であった冒険者としての活動は既に引退しており、今はラスペル領の剣の指南役としての活動がほとんど。時折、その実力の高さから年に数回程度だが王都の騎士団に剣の指導をしていることもあった。
「じゃあユニス、またね」
「……う、うん。ありが、とぅ……ございました」
「大丈夫よ。あなたは確実に強くなってるわ。そんなに自信を失くさなくたって私が保証するから」
そう言い残してモニカはカレンの下へと歩いて行った。
「強くなってる、かぁ」
ゴロンと仰向けになり、青空を眺める。
「だったら、自由に生きるための力、欲しいなぁ」
グッと拳を突き出し、先程までギガゴンの背に乗り駆けていた大空に思いを馳せた。
◆
陽が大きく傾き始めた頃、ユニスは街の中を歩いている。
「ててて。モニカさんも治癒魔法ぐらいかけてくれたらいいのに」
魔法がそれほど得意ではないモニカなのだが、治癒魔法だけは特別得意なのだともっぱらの評判。実際、大怪我した兵や冒険者が時々モニカの治癒魔法を受けに屋敷へ訪れる程。
「けち」
頬を膨らませて不満を漏らした。
それもそのはず。ユニスの身体は生傷だらけ。毎度のことなのだが、傷の治療を行わなかったのは敢えてのことなのだと。その理由自体もユニスは知っている。
他の者に対してもそうなのだが、モニカの鍛錬の方針は傷を負う痛みを身をもって知っておくべきなのだと。戦いで傷を負ったとしても、いつだって治癒魔法があるわけではない。加えて、治癒魔法があるからといって無謀な行動に出ないことも必要な思考。不要な傷を負うこともない。
「アタシも使えたらいいのだけど」
治癒魔法は魔法の中でも高等魔法。魔法を使えないユニスには治癒魔法を使いたいというのも過ぎた希望なのだが、そもそもユニスの異母兄妹で治癒魔法が使える者は同じような事態で隠れて自身の傷を癒していることをユニスは知っていた。
自分自身に施すには効果が低くなるのは必定とはいっても、こんな時こそ魔法が使えないことが殊更もどかしい。
「おや? 誰かと思えば、そこにいるのはユニスじゃねぇか」
背後から聞き覚えのある声が聞こえて来たのだが振り返ることはない。むしろ邪魔。
「なに無視してんだよっ!」
ガッと肩を掴まれ、強引に振り向かされる。
そこにはユニスより少しだけ背の高い男が立っていた。少年といっても差し支えない。
「別に無視してないよ。あんたに興味がないだけ」
「っ! それを無視してるってんだよ!」
視線を合わせることなく、肩に置かれた手を振り払う。
「そう。それで? 何の用?」
足を止めて会話を交わしたくもない。
目の前の男、デロンはこれまで何度となくこうしてユニスに声を掛けて来ていた。
(なんでこいついつもかまってくるんだろ)
歳はユニスと同じ十歳なのだが、無碍に出来ないのもデロンが貴族の子息であるため。
「またひどい面してるねぇ。怪我してるじゃねぇかよ」
「アンタには関係ないって」
貴族とはいっても子爵家であることからして、辺境伯であるユニスの父ヨハンとは大きく位が異なっている。
だが、デロンは事あるごとにユニスにある言葉を掛けていた。
「ったく、愛人の子は大変だなおい」
「…………」
だからデロンと話をしたくなかった。いつだって堂々と罵詈雑言を吐いてくるのだから。
「なんだよその目は。事実じゃねぇかよ。お前の母ちゃん第四夫人っても、平民だってんだからよぉ」
実際事実その通り。返す言葉もない。
ユニスの父ヨハンはユニスからしても本当に良い父親。妻と子に分け隔てない愛情を注いでいるのは子どもながらにしっかりと感じられた。母たちの仲の良さを見てもそれらは十分に窺い知れる。辺境伯という高位な地位であることからして多忙なことは勿論なのだが、ヨハンにはもう一つの肩書がある。
本当に類い稀な功績を残した者にしか与えられない称号である【英雄】を冠していた。
どういった経緯でそう呼ばれることとなったのかユニスは詳しく知らない。
だが聞き及んでいる限り、幼い頃より国を跨いで活躍したその成果として、第一夫人に当時カサンド帝国の皇女であったカレン・エルネライを、第二夫人にシグラム王国の王女であるモニカ・スカーレットを、第三夫人に同じくシグラム王国の王女であり、後にパルスタット神聖国の教皇の下へと養子入りした元光の聖女であったエレナ・スカーレットを娶っているのだと。
(確かに凄い人たちなんだよねぇ)
直接話している分にはそうは思わないのだが、公務に就いている姿や面会に来る人達を見ていると本物なのだということはよくわかる。
(アタシには関係ないけど)
とはいえそもそも興味もない。
ユニスの母親である第四夫人であるニーナは家名もない平民。今でこそニーナ・カトレアとして幅広く活動しているが、元は名うての冒険者であったのだと。
それがどうして第四夫人として嫁いだのか、聞いている限りでは父と母のその親、ユニスからすれば祖父たちが婚約を交わしたからなのだと聞かされている。
「で、なに?」
デロンのせいで抱かなくても良い劣等感を思い出しながら、鋭く睨みつけるのだが、デロンは臆さない。
「ハッ! お前も嫁の貰い手がいるだろ? だ、だからよぉ、お、オレがなってやるって」
「は?」
「妾の子だってことならオレは気にしねぇしな」
全く以て何を言っているのか理解できなかった。どうしてこれだけ上から目線で自信満々で言えるのかわからない。
「…………はぁ」
大きく吐き出す息。溜め息。
わかっていることはデロンがアホだということだけ。
「はいはい、そうですか。それは良かったですね」
「お、おまえそんな態度をしてられるのも今の内だけだからな!」
「さっきから何言ってんの?」
「し、知ってんだからな。お前が魔法を使えないことで悩んでるってことをよ。オレはこう見えても魔法の才能があるんだぞ!? 家庭教師にも褒められたんだからな! ぅっ!」
そこまで言い終えたところでユニスと目が合うデロンは思わずたじろぐ。
「だからなに?」
先程までの視線の鋭さとは打って変わる、突き刺さるような眼光。まるで今すぐにも斬りかかられそうな程の殺気を伴っていた。
「それが何だっていうのさ。賢者の石でも手に入れようものなら能力ぐらいは認めてやらないこともないけど、でもたとえあんたが賢者の石を手に入れたとしてもそれとこれとは話は別だけどね」
「ふん。何が賢者の石だ。あんな眉唾ものの話。そもそもお前はオレに頭が上がらなくなるって言いたかっただけだ! しっかりと考えとけよッ! ふ、フンッ!」
鼻を鳴らしてどすどすとデロンはその場を後にする。
「なに言ってんのあいつ。死ねばいいのに」
ただでさえ傷心の傷口をさらに抉られた気分。それもよりにもよってデロンなんかに。
「ふぅ。あんな奴のこと考えてたって仕方ないから早く遊びにいこっと」
午後から街の子と遊ぶ約束をしていたユニスは足早で駆けて行った。
◆
ユニスとしても現在の生活に不満はない。父が辺境伯ということで生活が苦しくなることもない。むしろ間違いなく裕福。とはいえ、叩き上げの領主ということによる貴族間でのしがらみや嫌味はいくらか聞こえ、その子らであるユニスらにもその矛先が向けられもする。
「キャロル様はいつ見ても綺麗だよな」
「ああ。それになんといっても聖母といっても差し支えないぐらい優しいしな」
しかしユニス以外の他の兄妹はそういった雑音を自ら消してしまえるだけの才能を生まれながらに持っていた。
一番上の姉であるキャロル・カトレアは母親譲りの精霊術士として母の手伝いである精霊の住まう環境を維持するといったことで既に活躍の場を大きく広げている。その美貌も相まって求婚が絶えないのだと。
二番目の長兄であるジェラール・カトレアは現在シグラム王都にある冒険者学校に在籍しているのだが、剣の腕前と身体能力の高さによってもう既に名声を轟かせるほどに名を挙げていた。次期剣聖の呼び声も高く、それに見合う程に意志の強さも鋼なのだと。
母親の違うその二人の兄と姉なのだが、ユニスと顔を合わせればいつも優しくしてくれる。不満など何もなかった。
「ふぅ…………」
片肘を着いて溜息を吐く。
不満があると言えば、勉強が嫌いなことと、隣にいる子と比較されることぐらい。
「あら? ユニスさん? どこかわかりませんの?」
領主邸での座学の時間。綺麗な金色の髪を耳にかき上げながらユニスの紙を覗き見る少女。
「べっつにぃ。わかるんだけど、わかんないってだけだから」
「…………なるほど。わかるのだけれど、わからないことがある。確かにそれは真理ですわね」
「…………そんなつもりで言ってないけど」
その返しに小さく呟く。
隣に座る子を嫌ったことはない。好きか嫌いかで言えば好き。だがその魔法の才能には正直嫉妬する。
「わたくしの顔に何かついていますの?」
「ううん。アイリスちゃんっていつも優しいし可愛いし、魔法も上手くって、全部凄いなぁって思ってるだけだよ? お嫁にするならアイリスちゃんがいいなぁ」
ユニスの言葉にアイリスは一瞬目を丸くさせるのだが、次の瞬間にはボンっと顔を赤らめていた。
「そ、そんなことありませんわ。わ、わたたたくしはまだそのようなことを言われるほどではありませんもの。それにわたくしとゆ、ユニスさんではけっこんは」
「ふふふ。そうやって恥ずかしがるアイリスちゃんかわいい」
「も、もうっ! そんなこと言っていないで早く課題を終わらせますわよ!」
頬の熱を感じるように手の平を頬に当てながら視線を机の課題へ向けるアイリスの横顔を眺めるユニス。
(べつに、アイリスちゃんが悪いわけじゃないし、ね)
比較されることは嫌いだが、原因がアイリスにあるわけではない。むしろアイリスはアイリスでこの歳で重責を感じているのはユニスも知っていた。
(どっちも大変、かぁ)
四番目の子であるアイリス・カトレアは第三夫人のエレナ・カトレアの子。
ユニスとは同じ歳ではあるのだが、ユニスの方が早く生まれたことでユニスの妹である。
アイリス・カトレアは幼少期から類い稀な魔法の才能を発揮しているのだが、神童として持て囃されるその期待値が高いことに重圧があるのだとふとした時に漏らしていたことがあった。
そのアイリスとは対照的に魔法が使えないユニス。本来であれば不要な比較をされることにアイリスが責任を感じていることも知っている。
「――……そういえば、ユニスさんはご存知ですか?」
僅かの時間の後に口を開いたアイリス。その表情は思案顔。
「なにを?」
「いえ、先日キャロルお姉様と話していた時に聞いた話なのですが、エレクトラㇽの森の魔素が再び活性化しているそうですわ」
「ふぅん、じゃあもしかしてそれをキャロル姉が鎮静化させるの?」
「ええ。カレン様がしてもいいのですが、キャロルお姉様の経験のために一任するそうですわ」
「そうなんだ。でもキャロル姉なら問題ないでしょ?」
「…………ええ。そうですわね」
キャロル・カトレアの実力の高さは折り紙付き。それだというのに、何を心配しているのかと、ユニスには不思議でならなかった。
「どうかしたの?」
「いえ、杞憂に過ぎないですわ」
「それって?」
「聞いたことありませんか? わたくし達が生まれるよりも前、それこそキャロルお姉様が生まれる前のことを」
そこまで言われてユニスも記憶を辿る。
(えっと……エレクトラㇽの森で起きたことといえば)
このラスペル領を平定する前のこと。領主になりたてのヨハン・カトレア率いる一行が特に苦労したという場所のひとつ。森に濃度の濃い魔素が充満しており、凶暴な魔物が住み着いているのだと。
(でもカレンさんが鎮めたって)
最終的にはカレン・カトレアが精霊の力を用いて浄化を図ったのだという。
となれば、思い当たることと言えば一つしかない。
「もしかして、精霊石のこと?」
「……ええ」
アイリスが杞憂だと言ったのはこの辺りのことに起因していた。
僅かに思案に耽るユニス。
(でもティアっちは大丈夫って言ってたけどなぁ)
カレンの契約精霊であるセレティアナ。聞くところによると大精霊らしいのだが詳細は教えてもらえない。見た目は妖精かと見紛う程に小さな存在なのだが、内包する魔力量が尋常ではないことをユニスは知っている。使い慣れていないが、魔力を視通せる魔眼でぼんやりと把握できていた。
エレクトラㇽの森に供えられた精霊石。目的は自然発生する濃度の濃い魔素を精霊が使役する魔素へと浄化させる仕組み。
(心配性だなぁ、アイリスちゃんは)
五年周期で行う浄化は従来キャロルの母カレンが行っていたのだが、つまりは今回キャロルが単独で行うことへの不安。
(アタシにすればどっちにしろ凄いけどね)
キャロル程ではないとはいえ、アイリス自身の精霊力も相当に高い。アイリスの母であるエレナ・カトレアも武芸百般であり魔法全般を扱えるという万能型。
「あーあ、アタシも遺伝してくれてたらよかったのに」
「え?」
「あっ、ううん。なんでもないの。とにかく、キャロル姉の心配をアタシたちがしたってしょうがないって」
「それはそうかもしれないですが」
「だったらちゃっちゃと終わらせて遊びにいーこおっと。よーし、覚悟してよね」
卓上の課題に目線を走らせるユニス。勢いよく羽ペンを走らせる。
その横顔を見つめるアイリスは小さく息を吐く。
(遺伝……ですか。でしたらユニスさん、ほんとうどうして魔法を使えないのかしら?)
不思議でならなかった。
アイリスから見れば、ユニスの肉体的な能力は間違いなく母から遺伝されたもの。魔力も恐らく多少の大小はあれども遺伝されているはず。
「なにやってるのアイリスちゃん。課題終わらないとおやつもらえないよ? あっ、わかった。アイリスちゃん優しいからわざと課題を終わらせないでアタシに全部くれるつもりなんだ」
「な、なに言ってますの!? そんなわけないですわよ! わたくしのおやつはわたくしが食べますわ!」
「えー? けちーっ」
「どこがけちですのどこが! だいたいユニスさん遊びに行くって言ってたではありませんの」
「そんなのおやつ食べてから遊びに行くに決まってるじゃない」
「…………」
あっけらかんと言い放つ様に目を丸くさせるアイリス。
「……わかりましたわ。ではこうしましょう。わたくしが先に課題を終えたら、ユニスさんの分のおやつは全部わたくしがいただく、そういうことで」
「えっ!?」
「では勝負ですわよ!」
「ちょ、ちょ、まってよ! アタシまだ勝負するって言ってない」
「ほらほら、早く取り掛かりませんとわたくしが勝ちますわよ」
「だ、だからずるいって!」
とはいうが、まるで手を止める様子のないアイリス。
「むーぅ、いいもん! アタシがアイリスちゃんの分も全部もらうからね!」
急いで課題に取り掛かる。
結果、予定よりも早く課題を終える二人。
「――……あら? お二人とももう課題を終えたのですか?」
廊下を走る姿に驚く使用人姿の女性。
「うん。だからアイシャさんおやつちょうだい! アイリスちゃんの分と!」
「わたくしが先に終わりましたのよ!」
「アタシが先だって!」
いがみ合う二人の様子を見ながら、使用人の女性は笑みを漏らした。
「ふふ。その様子だと、何か勝負していたみたいですね。ですがうーん、困りましたねぇ。こんなに早く来るとは思ってなかったからまだご用意できていないの。これから作るつもりだったから」
「ええぇっ」
「そうですね。でしたら、お二人ともせっかくですのでご一緒に作りますか?」
「「するっ!」」
満面の笑みを浮かべるユニスとアイリス。
「やたっ。アイシャさんとお料理だ」
「楽しみですわね」
街で菓子店を営むアイシャ。その腕前は王家御用達。元々ヨハン・カトレアとは古い付き合いがあったらしく、領地経営する際に一緒に使用人として従事しているのだと。
そうしてアイシャに教わりながら、楽しく三人でおやつ会を終える。
「……くっそぉ。舐めやがって」
「そういえばデロンさん」
「んだよ?」
「いえ、ちょっと聞いた話なんすけど、エレクトラㇽの森にはすっげぇ力がある魔石があるみたいなんすよね」
「だからなんだってんだ?」
「いえ、それがあればあの生意気なユニスもデロンさんになびくんじゃないかと」
「テュポ。てめぇ」
「あっ、いや、デロンさんならそんな必要ないっすね」
「どうしてそれをもっと早く言わねぇんだッ!」
「え? は?」
「あのヤロウ。待ってやがれ」
デロンの脳裏を過る先日の会話。
「強大な力を持つ魔石、か。もしかしたら賢者の石かもな」
ニヤリと笑みを浮かべていた。
◆
朝陽が差し掛かる頃、いつもならまだ寝ているはずのユニスがパチリと目を覚ます。
「ふ、ふわぁぁ…………」
ゆっくりと伸びをしながら身体を起こす。
「ん?」
ぎぃとドアが軋む音がするので、視線を向けると隙間から覗いている眼。
「…………なにやってんの、キャロルちゃん」
「え? あれ?」
呆れ混じりに疑問を投げかけると、ドアが開いた先にいるのは透き通るような銀色の髪の女性。戸惑いの色を滲ませながらぱちぱちと目を見開いていた。
「おっかしいなぁ。ユニスちゃんっていつもこんなに朝早いの?」
「そんなことないけど、今日はなんだか目が覚めちゃった」
そう返すものの、いつもはもっと遅い。むしろ寝坊の常習犯。何故目を覚ましたのかはわからないが、いつもよりも寝覚めが良い。
「ふぅん。せっかく久しぶりにユニスちゃんの寝顔を堪能しようと思ってたのになぁ」
「何を考えてるのよキャロルちゃんは」
数日前、領内の巡回に出ていた長女が帰ってきている。目的はエレクトラㇽの森の鎮静化。
多方面に動いているキャロル・カトレアは家を不在にすることも多い。
(これが聖母だっていうんだから困ったものだよねぇ)
領民からは尊敬と羨望の眼差しを向けられるその女性は母親譲りの器量を持ち合わせている。しかしユニスから見るキャロルはまるでそのような素振りは見られない。
「そんなことよりキャロルちゃん、こんな日までアタシのとこに来ていいの?」
「え?」
「だって、今日はあそこに行くんだよね?」
数瞬目を瞬かせるキャロルは、次にはニヤケ顔になる。
「なぁに言ってるのよぉ。こんな日だからこそユニスちゃん成分の補充に来てるのじゃない!」
「ちょ、ちょっと急になにさ! は、離れてよ!」
盛大に抱き着かれては髪の匂いをクンクンと嗅いで大きく吸い込むキャロル。
「はぁぁぁ。癒されるわぁ。ユニスちゃんってほんと良い匂いがする」
「べ、別に一緒でしょ! アイリスも使ってる石鹸同じだからアイリスのとこに行ってよ!」
「だあってぇ、アイリスちゃんってば冷たいんだものぉ」
「だ、だからって…………もうっ! しつこいっ!」
「ああん」
強引に引き離すと、キャロルは床に両手を着く。
「いい加減にしないとほんとうに怒るよ!?」
「そんなに恐い顔しないでよぉ、ユ・ニ・ス・ちゃ・ん」
「ぐぅっ!」
「朝っぱらから何をやっているのですか、あなた達は」
「「ネネさん」」
大きく息を吐きながら姿を見せたのは使用人長のネネ。領地開拓以前より領主であるヨハンへ仕えている女性。
「ち、違いますって! キャロル姉がまた」
「別にやましいことはしていませんよ」
慌てふためくユニスとは対照的に居直るキャロル。その佇まいは公人然と堂々としていた。
「まったく。仕方ありませんねあなたは」
「ですが、大事な日だからこそ気負うよりもいつも通りすることが必要なはずです」
「そうですね。そのあたりのことは私よりもあなたの方が理解しているでしょうから何も言いませんが、私から言えることは一つだけですよ」
指を一本立てるネネの顔は真剣そのもの。
「結果を出してください。これまでと変わらず」
「ええ。もちろんよ。じゃあねユニスちゃん、またあとで」
手をひらひらとさせネネと連れ立ち部屋を出ていく姉の姿を目で追い、ドアが閉まると同時に盛大に溜息を吐くユニス。
「……ほんと、あの二面性なんとかなんないの?」
隠しているわけではないキャロルによるユニスへの溺愛ぶり。父であるヨハンも、キャロルの母であるカレンでさえもその姿には笑って済ますだけ。しかしユニスからすれば迷惑極まりない。いつだって返って来る言葉は異母姉妹が仲良くするのはむしろ問題ない、と。
(でも、あのキャロルちゃん)
どうしてこれだけの早朝に目が覚めたのか、その違和感の正体がはっきりとした。
ベッドから立ち上がり、窓の外を見る。そうして先程のキャロルの表情を思い返す。
(やっぱり、緊張してるんだ)
一瞬だけ見せた眼差し。いつもであれば何食わぬ顔で物事をこなす姉の姿には感心しっぱなしだったのだが、今日に限ってはその限りではない。その様子が昨晩顔を合わせた時にも垣間見られたからなのだと。
「んぅぅぅぅん!」
目一杯の伸びをしながら大きく息を吐く。
「ま、そもそもアタシがキャロル姉の心配をする必要なんてないか」
時には落ちこぼれとも揶揄される者が天才の心配をすることなどおこがましい。
「アタシはできることをするだけ。背伸びしたって仕方ないしね」
早起きしたことで時間は十分にあった。
「さーて、もうひと眠りしーよおっと」
ぼすっと再びベッドに横になり、枕を抱きしめた途端、乾いた破裂音が響く。
「ったぁ!」
「なにバカなこと言ってんのあんた」
「へ? おかあ……さん?」
目の前には自分と同じ桃色の髪を頭上で結っている女性の姿。その表情は怒り顔。
「い、いつのまに!?」
「ほらほら、早く仕度してよね」
「仕度って?」
「へ? 今日はあたしと狩りに出かけるって言っておいたよね?」
「あっ……」
そういえば忘れていた。実戦経験を積む為に母ニーナと狩猟に出かけるのだということを。
「だからはやくしてよね」
「…………はぁい」
それから準備を終え、朝食の席に着く。
(にしても、このお母さんが昔は無茶苦茶してたなんて)
今でもそれなりだとは思うのだが、若い頃は今以上なのだと。正確には父やモニカ達と話している時にはその片鱗を確かに見せているのだが、ユニスに対してはのほほんとした母の一面しか持ち合わせていなかった。
しかし、第一夫人であるカレンや第二夫人のモニカから聞く母の人物像は正に天真爛漫そのもの。ギガゴンから聞く母の姿とも一致する。
『どうして変わったんですか?』
『『どうしてって……――』』
顔を見合わせるカレンとモニカ。僅かに生まれる沈黙。少しの間を挟むと、にまっと笑みを浮かべて口を開く二人。
『まぁ、あの子も母親になったってことよ』
『そうね。いつまでも子どもじゃいられないもの』
至ってまともな返答でありその答えに十分理解はできるのだが、僅かに気になるのは生まれた沈黙と二人の様子。
「どしたの?」
食事の手を止め母の姿を見ていると、疑問を浮かべて小首を傾げるニーナ。
「ううん。なんでもない」
「そう? そういえば今日はアイリスたんも一緒に行くんだよね?」
「うん。アイリスも行ってみたいって言うから」
「そっかぁ。あたしは別にユニスが良いって言うなら良いんだよ」
「? べつにいいけど?」
どうしてその言葉が出たのか。若干の疑問を抱くものの質問をする程でもなかったのだが、その言葉の本当の意味を理解したのは狩りを終えた頃。
◆
狩りの準備といっても用意するのはナイフやロープに麻袋といった程度。
荷馬車は母が用意し、乗せて行ってもらうことになっていた。
「アイリスたんは本格的な猟は初めて?」
「はい」
「そっかぁ、ユニスちゃんは何度も連れてってるけど、他の子はあんまり連れてけてないからねぇ。向こうでは二人で色々とやってね。基礎や仕込みは先に確認するから。にしても思い出すなぁ、ジェラールちゃんを初めて連れてった時のこと。あの子、びっくりしておもらししたんだよ」
「え? あのジェラール兄ちゃんが?」
「そうよユニス……って、この話ジェラールに口止めされてたんだった」
手綱を握りながら、数瞬どうしようかと迷ったニーナは後ろの二人の顔を見やるのだがすぐに前を向く。
「まぁいっか。言っちゃったもんは仕方ないしね。忘れてくれなくたっていいよ」
「忘れなくていいんですの?」
「まぁ、お母さんだしね」
母が面白げに笑う中、後ろに乗るアイリスと僅かに顔を見合わせる。
「そっかぁ、あのジェラール兄にもそんな時があったんだ」
あの冷静で剣の達人の兄にそんなことがあったなど意外でならない。
「――……そこ、アイリスちゃん!」
陽の光が差し込む森の中。ユニスの声が響きあがった。
「はいですわ!」
アイリスがロープを勢いよく引っ張ると上方から降って来るのは木と蔓で編み込まれた巨大な檻。
「ブホォォォォ!」
ガシャンと巨体を閉じ込める。
「ブフゥッ! ブフゥッ!」
ガンガンと檻に体当たりを繰り返すのは、姿形は猪なのだが、鼻に大きな一輪花の蕾があった。
「やったねアイリスちゃん」
「ええ。上手くいって良かったですわ」
手を上げハイタッチをするユニスとアイリス。
ニーナ指導の元で予め仕掛けておいた罠にかかる花猪。そのニーナは周囲の捜索に出ており、罠にかかった獲物を仕留めておくようにとだけ伝えられていた。
「さーて、さっさとトドメをさして、と。この鼻についてる丸っこいの斬り落とせばいいんだよね?」
「それはそうですが、何か忘れているような……」
「なにかって?」
「いえ、このイノシシですが……――」
顎に手の平を当てて首を傾げるアイリスの様子に同じようにして首を傾げながら疑問符を浮かべるユニス。
「ブフッ! ブフッ!」
ゴンゴン鼻を当て続ける花猪。徐々に鼻の蕾が赤みを帯びていく。
「――……思い出しましたわ!」
アイリスが弾けるように顔を上げた途端、同時に響き渡るのは倒壊音。
「ブフォォォォォツ!」
木製檻を破壊して花猪がユニスとアイリス目掛けて一直線に駆けていた。
赤みを帯びていた花猪の蕾は赤色光を放ち開花している。その様子を見て呆然とするのはアイリス。
花猪は草食動物であり、基本的には穏やかな性格。
しかし鼻の蕾が咲いた時には凶暴性が大きく増すのだと、今になって思い出した。どうしてこんな基本的なことに考えが及ばなかったのだろうと後悔するのだが時すでに遅し。
「ブフォォォォォツ!」
眼前へと迫りくる巨体。二人を圧し潰そうとする勢い。
「きゃっ!」
直後、ドンっと突き飛ばされるアイリス。
「ユニスちゃん!」
アイリスを突き飛ばしていたのはユニスであり、そのユニスは花猪の突進の直撃を受けことになる。
物凄い勢いの突進。
「っ!」
余りにも凄まじい衝撃を目にして思わず片目を閉じるアイリス。
ユニスの小さな身体は花猪の突進に耐えられず弾けるように後方に吹き飛んだ。
「がはっ」
そのまま巨木へと叩きつけられる。
「ぐっ……」
強打する背中。全身に激痛が走った。
これまで経験した痛みの中でも最大。単身であればまだ防御姿勢を取ることができてダメージの軽減を図れたのだが、アイリスを突き飛ばしたことで微かに突進への反応が遅れてしまっている。
「げほっ」
片膝を着きながら吐血するユニス。朦朧とする意識の中、薄く目を開けると眼前には再び突進しようとしている花猪の姿。
「ま、まいったなぁ…………」
横っ飛びなりなんなりして早くこの場を離れなければならないのだが、膝がガクガクと震えて上手く動かせない。
「火玉()っ!」
小さく響く声と同時に、花猪の臀部に着弾するのは火の玉。
「ゆ、ユニスさん! は、はやくにげて!」
ガチガチと歯を鳴らしながらも必死に花猪の気を引こうとしているアイリス。
「ブフォッ!」
花猪はアイリスへと向き直り、足を動かし突進の構えを取る。
「だ、め」
アイリスの方が逃げなければならない。魔法で花猪の気を引こうとしているのはわかるのだが、まだ身体が他の人間よりも頑丈な自分だからこそあの突進に耐えられた。だが、華奢なアイリスでは間違いなく即死か少なくとも重傷は免れない。
こんな時に気を引くための魔法でさえも使えない自分がもどかしい。
「あ、氷槍!」
ユニスが逃げるだけの時間を作ろうと、再び魔法を放つアイリス。
生み出された氷の槍は真っ直ぐに飛んでいき、花猪の右目へと突き刺さる。
「ブフォォォォォツ!」
突然視界の片方を奪われた花猪は怒りで我を忘れ、一直線でアイリスへと突進する。
「ひっ!」
逃げる余裕などなかったアイリスなのだが、偶然片目に氷の槍が刺さったことで目標を正確に定められなかった花猪はアイリスのすぐ近くの木に衝突した。
「あ、ああ……」
まともに衝突したはずなのに、花猪は意識を失うどころか木の方がベキベキと音を立てて倒れる。
「火玉! 火玉! 火玉!」
慌てて何度も魔法を繰り出すアイリスなのだが、僅かに焦げ跡を残すのみでほとんど効果は見られない。
「ぐっ!」
少しばかりの時間を稼いでくれたことで、ユニスの身体も微かに動くようになった。支えの利かない足を必死に鼓舞して駆け出す。今動かなければアイリスが大変なことになる。
「ブフォッ!」
「あ……あ……あぁ…………」
ペタンと座り込むアイリスはもう腰が抜けてしまっていた。息を荒くさせ、目に涙を溜め込む。
「アイリスちゃん!」
そのアイリスの後方から飛び込んで来る影。
「やああああっ!」
向かう先は今にも突進しようとしている花猪へ。手に持つのはナイフ。
渾身の力を込めて花猪の右目へナイフを突き刺した。
「ブフォッ!?」
視界の両方を奪われた花猪は混乱し、その場で大きく暴れ出す。
「アイリスちゃん、今のうちに!」
「う、うん――えっ!?」
狙い通りに逃げる隙を作ることに成功したのだが、運悪くアイリスへと覆いかぶさる影は花猪の足。
何もそんな悪運に見舞われることはないじゃないかとその状況を呪うユニス。もう間に合わない。巨大な質量によってアイリスが押し潰されてしまう。
「だッ!」
そう思った次の瞬間、ユニスの目の前で花びらが盛大に飛び散った。花猪の怒りの象徴でもあったその花が舞い散っており、意識を失くした花猪はぐらっと倒れ込む。
「え?」
いったい何が起こったのか理解できなかった。わかっているのは花猪が倒れるということと、圧し潰されようとしていたアイリスの姿が既にそこにはないこと。
「ふぅ。あぶないあぶない」
背後から聞こえる母の声。
呆気に取られているユニスの後方へ軽やかに着地する母。腕の中にはアイリスが抱きかかえられている。
「もう少しで大変なことになるところだったね」
「「…………」」
ゆっくりとアイリスを地面へと下ろすニーナ。花猪を倒したのは母であることはすぐに理解したのだが、信じられないのは次に言い放った母の言葉。
「それにしても二人ともよく頑張った方だよ。ジェラールはこれぐらいで漏らしてたんだよねぇ」
ケラケラと笑う様に呆気に取られた。
(こんな目に遭ってたなら漏らしても仕方ないよお母さん)
(…………黙っておきましょう。わたくし、少しだけ漏らしました)
危険な目に遭うことがあるのは承知の上なのだが、母からすればこの程度の事態はまだ大変な部類に入らないのだということ。それを証明するのは先程言った言葉、もう少しで大変なことになる、と。
「アイリスちゃん」
「……なぁに?」
「なんか、ごめんね」
「…………べつに、いいですわ。そもそもわたくしも忘れていましたが、この人たちはこういう人たちですもの」
元々二人の周りにいるのは破天荒な人が多い。
ほとんど顔を見せない割に、ふらっと姿を見せて酒を飲んではトラブルを起こしていく祖父アトムや、アイリスの母であるエレナと同じ元聖女らしいのだが、ことあるごとに第六夫人の座に納まろうとするベラル。他にも、まともに見えるカレンでさえも、興奮すると精霊術をすぐに繰り出しては屋敷に被害がでるというのだから始末に負えない。
そしてユニスの母であるニーナもまたその一人。基本的には自由奔放。普段は現役の冒険者として活動しているのだが、どうにも価値基準が異なる時があるというのは知っていた。
『まぁ、ニーナ、あっ、お母さんのことは気にしなくてもいいよ。僕はニーナには自由に生きて欲しいからね』
以前父ヨハンが口にしていた母のこと。愛人だのなんだのと言われようともまるで意に介していない父の懐の深さ。
「それにしても、うーん……――」
腕を組んで小さく呟いているニーナはチラとユニスを見る。聞こえないように言ったつもりなのだろうが、ユニスには聞こえていた。
「――……あたしの時は確かこれぐらい自力で倒してたと思うんだよねぇ」
それが自身の生い立ちのことを言っているのだとすぐに理解する。
(だって、それはお母さんだからだよ)
元々幼少期から類い稀な強さを発揮していたとは聞いていた。その身体能力の高さを受け継いでいるというのはモニカからもよく聞かされている。何より、そのモニカが懐かしそうに話していたのは母ニーナと王都の冒険者学校で始めて闘った時のことを。
『私もあの時はさすがにびっくりしたわ』
魔力の変換である闘気――身体能力を劇的に向上させる魔法を扱えたのだと。そもそも戦士系の魔法技術である闘気は特定の師から教わったり、冒険者学校の授業などで身に付ける者が大半なのだが、ニーナに至っては入学前に独学で扱えるようになったというのだから尚更驚いたのだと。
「こうして改めて見ると、ニーナさんもさすがですわね」
「……うん、そうだね」
目を輝かせるアイリスに軽く相槌を打つのは今のニーナの立場、冒険者として最高位にある【S級】であることから。
(竜の咆哮……か)
母の二つ名であるその名。由来を詳しくは知らないのだが、本気を出した時の母の暴れっぷりからその名が付けられたのだという。
「なにをのんびりしてるの? さっさと処理して帰るよ」
羨望と劣等感、二人から自身へ向けられる異なる視線にニーナは若干の疑問を浮かべていた。
「――――にしてもアイリスたんも良かったね。良い経験ができて」
森から出る道中、満面の笑みを浮かべるニーナ。
「えっ? あっ、はい、まぁ……」
「いやぁ、それにしても実際丁度良いぐらいの経験ってそうそうないんだよねぇ。だいたいは死ぬかどうかの瀬戸際になっちゃうから」
「あっ……」
その満足そうな母の顔を見てようやく理解する。朝食の席でアイリスが一緒に行くことに対して確認していたことを。
(ごめんアイリスちゃん)
母の想定の中にこの程度の事態は織り込み済み、下手をすれば狙ってさえいた可能性があった。
◆
そうして日が暮れかかる頃に街へと戻る道中、馬車の荷台に揺られながらウトウトしているアイリスの寝顔を眺めながらユニスは一人考える。
(S級冒険者、か)
シグラム王国ではその筆頭にまず挙げられるのが国士無双の英雄ヨハン・カトレア。しかしそれだけに留まらず、第一夫人であるカレン・カトレアから第四夫人であるニーナ・カトレアまでその全員がS級に上り詰めているというのだから。
【竜殺しヨハン】【精霊女王カレン】【剣姫モニカ】【双聖エレナ】【竜の咆哮ニーナ】
冒険者ランクはE級から始まりC級で一人前。A級ともなれば上級に位置する。その更に上であるS級は国内でも数える程度しかいない。それぐらい上り詰めるのに偉業を達成しなければならないのだが、その半数近くがこのラスペル領に集結していた。そしてその誰もが万夫不当。
冒険者学校時代に出会ったその人たちは、その当時奇跡のパーティーと呼ばれていた。本にまでなるほど。
しかし話に聞くのと実際に当人たちを見てみるのとでは印象は大きく違う。確かに誰もが類い稀な実力者に違いはないのだが、直接接するユニスからすれば良くも悪くも当人たちは人間味に溢れていた。
(あれ?)
そこでふと疑問に思ったのが、手綱を握って鼻唄を歌っている母の後ろ姿。
(そういえば、竜の咆哮って何か意味があるのかな?)
二つ名の由来は大半がその者を形容する言葉。実際に目にしたことはないのだが、竜の討伐を果たしたという父ヨハンや、精霊術の最高峰の技量を持つと云われるカレンなどはその名の通りなのだが、母ニーナの二つ名の意味がもう一つ理解できない。竜の咆哮とはどういう類を由来としているのか。
「…………ねぇ、お母さん?」
「んー?」
「あのさ、お母さんのその竜の咆哮って、どういう意味なの?」
「へ? どらごんろーあ? なに言ってんの。そんなのお母さんにわかるわけないじゃない。そんなの、お母さんを見ていた人たちが勝手に付けただけなんだもん」
「え? でも……」
確実に何かしらの意味を成しているはず。
「じゃ、じゃあ、例えば、竜の息吹みたいに火を吐けたりする、とかは?」
「そんなのできるわけないじゃん」
「……だよね」
「って言おうと思ったけど、できたの思い出した」
「へ?」
即座に自身の言葉を否定する様に呆気に取られる。
「できるの?」
「いや、できるっていうか、なんか前に色々やってた時、それこそ遊びの時なんだけど、魔力の凝縮をこう口の中にいっぱいにして吐き出したらどうなるのかなーってやったことあったからさ。それこそ竜みたいにさ」
「そ、それで竜の息吹ができたの!?」
「んー、結果としては半分かなぁ。口の中が大火傷してたし」
「…………」
笑いごとのようにして話す母の姿に驚愕する。実際口の中が大火傷をするなど笑いごとでは済まない。
「やりたいの?」
「べ、べつにやりたいわけじゃないって! むしろ絶対いやっ!」
「あっそ。っていうか、どうしたのいきなり」
「べ、べつに、なんとなく気になったからさ……」
「ふぅん。まぁそんなあだ名なんか気にすることないよ。ユニスはユニスらしく頑張ったらいいんじゃない? そんなのなくても強い人なんていくらでもいるし、あたしもその辺の調節全く得意じゃないし。どっちかというと豪快にやりたいしね」
「……うん」
まるで考えを見透かされているかのような母の眼差し。思わず目を逸らしてしまう。
「こっちおいでさ」
「う、うん」
結局答えが出ないままに手綱を握る母の横に座った。
(お母さんも魔法はそんなに得意じゃなかったんだ)
少なくとも母が魔力操作は苦手なのだということは先程の会話で認識する。それならば自身が魔力を扱えないことも不自然ではないのだろう、と。
チラリと肩越しに見るのは背後ですやすやと眠っている妹へ、抱いていた劣等感が僅かに薄まった。
ユニスが前を向くのと同時に片眼を薄く開けるアイリス。
(……竜の息吹を真似て口の中が大火傷ですって? ありえませんわ)
――――眠っている振りをしながら、アイリスは先程の二人の会話について思考を巡らせる。
(そもそも、口の中に魔力を溜め込むなど、聞いたことありませんもの)
通常、魔法を行使するのは両の手。それが杖や剣などを用いる場合であってもどのみち手の平から魔力を武具へと供給する。その理由は何よりイメージと体内の魔力回路が密接に関係していることから。
体内を循環している魔力を外に放出するのが一般的な魔法。魔力量は個々に異なり、その結果、最大威力や射程は魔力量によってある程度は比例するものである。故に魔力量が少ない者がそれらを補完するため補助的に用いられるのが杖や魔石といった魔道具類。例外的には魔法陣といった特殊な事例。
他には精霊術士のように微精霊を始めとして、体外の魔力を用いることの出来るものはその限りではないのだが、それでも基本的には両の手を使う。
(だとすれば、凄まじいですわ)
しかしそれはあくまでも基本的には、といった話。
武勇に優れている者であれば足先に魔力を溜めて体術と織り交ぜて放つこともできるのだと。手以外にも使う方法があるにはあるので、必ずしもというわけではない。
だが、いくら遊びとはいえ口腔内に魔力を溜め込み竜の息吹として放とうとするなど普通は考えつかない。考えついたとしても実践するには技術的に確立されていないため遠く及ばないはずだし、仮に実践できたとしても口腔内で暴発した時のイメージがどうしてもつきまとうので相当な精神力を要する。話していたことが事実だとすれば、ニーナはほぼ失敗しており大火傷を負っていた。
それは魔法を扱う者にとっては致命的な失敗であり、そんなことが起きれば精神に異常を来して二度と魔法が使えなくなることもある。そもそも手が扱えるのにそれらの危険を冒す必要性は全くと言っていいほどに皆無。
竜種はあくまでも生物的に、四足歩行という身体的な特徴から口が最適な用い方であるからこそ息吹を多用していた。失敗のイメージなどないのは本能でそれができると知っているからこそ。
(これが天才、なのですわね)
母エレナから聞かされたニーナ評。本人に言えばすぐに調子に乗るから褒めることは少ないというのだが、間違いなくアイリスの母であるエレナはニーナのことを認めていた。
しかし同時に思うのは、母の言っていた通り、そんな無謀なことをする目の前の女性は少しばかり考えで浅慮な部分があるのだと。
(もしかすれば、ユニスさんが使えなくて良かったのかもしれませんわね)
魔力操作ができてしまえば好奇心旺盛で考えなしのユニスのこと。あれもこれも色々と試さずにはいられなかった可能性が多いにあり得る。
そうして、それぞれが若干の複雑な感情を抱きながらラスペルへと帰還した。
◆
西日が差す頃、街の入り口で不安気な顔を浮かべている三人の少年。
「あら? あの方たちは確か」
「んん? デロンの腰巾着だねぇ」
アイリスとユニスに見覚えがある少年たち。
「それは二人の知り合い?」
「ううん」「いいえ」
「…………あ、そ。じゃあ別に停まらなくていいね」
間髪入れずに返答をする様に、誰だか知らない少年たちを気の毒に思うニーナ。名前が挙がった以上、顔見知り以上なのは間違いないはず。
(まぁ二人がいいなら別にいっか)
手綱を握り直し、荷馬車を停めることなく街の中へ馬を歩かせた。
「お、おい」
「あ、ああ」
ユニス達に目線を送る三人なのだが、何か言いたげにしていても誰もはっきりと口を開かない。特にニーナに視線を向けては俯く始末。
(なんなのこいつら)
抑えていた苛立ちが込み上げて来た。
幾度も向けられていた母を蔑む視線。社交界で陰口を叩いていることを耳にするのも一度や二度では済まない。母に言いたくとも言えない、だからといって誰彼なしに愚痴れないもどかしさ。いつだってギガゴンが不満を見せながらも耳を傾けてくれたことにどれだけ救われてきたか。
(またお母さんをみてる。けど……)
ただし、若干の疑問もあるのは母へ向けられる視線がいつもとは違うこと。何か困惑している様子なのだが、いつも遠目からユニスやアイリスに聞こえるように声を発する時は決まって愛人や妾などといった言葉。
「お、おいっ!」
その中で一人の少年が意を決して口を開いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「呼んでるけど?」
荷馬車は既に少年たちを通過している。
「停まる?」
「ですが、誰を呼んでるのかわかりませんので」
「うん。そうだねぇ」
ニーナの問いに対して少年たちに一切の関心を示さない二人。
「頼むから待ってくれって!」
無関心を決め込んでいるユニスとアイリスなのだが、しかし手綱を握っているのはニーナ。
「まぁ何を揉めてるのか知らないけど、とりあえず話して来たら?」
荷馬車を停め、片肘を着いて親指を後方に向ける。
その言葉にユニスとアイリスは顔を見合わせるのだが、母のことなどとは言えず溜息を吐きながら荷馬車から降りた。
「で? なに?」
あからさまに悪辣な態度を取るユニスに対して、三人の少年の内の一人、テュポという準男爵家の子が前に立つ。
「じ、じつはだな、デロンさんが朝から出掛けたきり、帰ってこないんだ」
消え入りそうな声で言葉にするのだが、全く以て要領を得ない。
「どっか出掛けただけなんでしょ?」
「「「…………」」」
「黙ってたらわからないじゃないっ!」
苛立ちからつい怒声を発してしまった。周囲を行き交う視線がユニス達へと集まる。
「ちょ、声が大きいって!」
「だったら早く用件を言いなさいって」
「そうですわ。わたくし達これから花猪を売りに行かなければならないですもの」
「……あの獲物、お前たちが?」
「まぁ、最後はお母さんにやってもらったけど」
再び顔を見合わせるテュポ達。次には頭を大きく下げた。
「頼む! デロンさんを探しに行ってくれ!」
「は?」
「で、デロンさんが帰って来ないのは、もしかしたらヤバいことになってるかもしれないんだ」
「なに言ってんの? あいつどこに行ってんのさ」
「そ、それは…………」
「黙ってたらわからないって言ってるでしょ!」
「頼むから大きな声だすなって」
「あんたさっきから頼んでばかりじゃない。それもまったくわけのわかんないことばっか言って」
「デロンさんが出掛けたのは…………エレクトラルの森、なんだ」
テュポの横に立つ色白の少年が口を開く。
「え?」
その言葉に耳を疑うのはアイリス。
「ど、どうしてあそこに? 今日は特にあそこに立ち入らないように御触れが出ているのを知らないはずないですわよね?」
十年前ならいざ知らず、もう三度目ともなる本日は魔素の浄化の為に立入禁止になっていた。魔素が悪化して瘴気に当てられ異常を来す可能性がある。
何より、その場所で誰が何をしているのかということはユニスとアイリスが誰よりも一番よく知っていた。
「デロンさんはお前の鼻を明かすために行ったんだ」
「どうしてそんなことを」
「俺のせいなんだ。あそこには強力な魔石があるって言ったら、デロンさん、それを取りに行くって…………」
俯き加減に呟く様に困惑を示すアイリス。
「帰ろう、アイリスちゃん」
「え? ですが」
グイっとアイリスの腕を引っ張るユニス。
「だってそれなら別にあいつが死んだって自己責任でしょ」
「お、おま」
「デロンさんがどうしてあの森に行ったと思ってるんだよ! お前の鼻をあかすためだろ!」
「そんなことアタシ知らないし。尚更自分のせいじゃん」
「……ユニスさん」
「なに? アタシが悪いっていうの? 何を言われたってどっちにしろアタシには何もできないって」
「いや、だから、お前の母ちゃんに頼んで」
その言葉を耳にした途端、苛立ちが最大に達する。
「勝手なこと言わないでよ! 都合の良い時ばかり押し付けて来て! なに? こっちが辺境伯だからって、領地や領民の安全を守るために行動を起こさないといけないの? それは確かにそうだよ! そういう立場だってあるよ! だから常日頃お父さんやお母さん、それに今日だってキャロル姉は危険を顧みずにそこに行ってるんじゃないの!? それをさも当然とばかりに尻拭いをしろって!? バッカじゃないの!?」
「ちょ、ちょっとユニスさん、痛いですわ」
強引にアイリスの腕を引っ張っていくユニス。捲し立てられたテュポ達は何も言い返せずにただただ黙っているだけしかできなかった。
「なぁんか怒ってたねユニス」
「…………べつに、怒ってないよ。ただムカついただけ」
「まぁ、あなた達の問題に首を突っ込むつもりはないから好きにしたらいいんじゃない? 若い頃は失敗もするもんね。あたしだってそうだったし」
「うん。だから失敗して反省したらいいんだよ、あいつらも」
「反省できる状態だったらいいんだけどねぇ。死んじゃったら反省できないからさ」
「なにを当たり前のことを」
「そっか。じゃあ出発するよ」
「…………うん」
そうして荷台に乗り込むと再び動き出す荷馬車。
「ね、ねぇユニスさん、あんなに冷たいこと言わなくたって良かったんじゃ?」
「どうしてよ? デロンが勝手にやってるだけでしょ?」
思い出すだけで腹立たしい。だいたい、明かす鼻など生憎と持ち合わせていない。今日だって大切なアイリスを危険に曝してしまった。
「じゃあアイリスちゃんはデロンの救援に向かって、他の誰かが巻き添えを喰らって危険な目に遭ってもいいって言うの? 下手したら二次被害で死んじゃうかもしれないんだよ? それでいいの?」
「そんなことは言わないですけど、ですが、ほらわたくし達も、さっきあんなに危険な目に遭って、それこそニーナさんがいなければどうなってたか。さきほどニーナさんも申しました通り、失敗してしまうのも仕方ないって、いつもわたくしの母も言っていますし」
「う…………うぅん…………」
そう言われてしまうと返す言葉がない。
(でも……だって…………)
微かな迷いを抱いてしまうのだが、発した言葉に間違いもない。
そうして解体屋に花猪を売りに行って邸宅へと帰ってきた。
「じゃああたしは他に用事あるから行くね」
母の後ろ姿を見送る際、隣のアイリスはユニスとニーナを交互に見やっていた。
「……それではユニスさん」
「……うん」
「わたくしは少しだけキャロル姉様の動きを調べてみますわ。何か役に立てるかもしれませんので」
「……ほっとけばいいのよあんな奴」
そうしてアイリスも帰っていく。
◆
エレクトラルの森は平時であっても禁忌の森とされてきていた。
それは魔素が他の場所より発生し易いということもあるが、カレン・カトレアによって平定された後も精霊地として扱われていることからして。
夜、陽が完全に沈み切った頃、屋根の上へ足を運ぶユニス。
星明りに照らされる屋上にはなにもない。ただそこには会いに行く人物――いや、正確には一頭の竜がいるだけ。
「どうした? 珍しいなこんな時間に」
月の光を浴びる男はユニスを生まれた頃より知っている。
「あのさ、ギガゴン、ちょっと教えて欲しい事があって」
まるで歳をとっていないかのように常にその姿の男は竜種の内のひとつである翼竜。しかしその中でも特に特殊であることは竜の姿の時の大きさもそうなのだが、何より宿す魔力が極めて稀有。人間の姿へと変えることができるのは竜種の中でもほんの一握りだけ。
「教えて欲しい事とはなんだ?」
「えっと……キャロル姉はいま、どうしてる?」
「む? キャロルか」
街の明かりが眼下に広がる中、遠く西側へ視線を向けるギガゴン。
「たしか、あの辺りだったな」
ジッと目を凝らし、深みを増し始めた暗闇の中でギガゴンの黒目は黄色い縦長になった。それは竜種の特徴として見られる独特の眼。
「どうやら苦戦しているようだな」
「わかるの?」
「可笑しなことを言う。お前が聞いてきたのだろう?」
「いや、そうなんだけどさ。で、苦戦してるってのは?」
「ここからでは遠くてわかりにくいが、あの精霊地で悪しき波動を感じ取れるのだが、同時に揺らぎもある」
「……そっか」
精霊地が落ち着いていなく、かつ揺らぎがあるということは精霊石の浄化にキャロルが取り組んでいるということ。
「やっぱりキャロル姉でも難しいんだ」
「珍しいな。お前がキャロルの心配をするなど。いつもキャロル姉は凄いと言っていたではないか」
「まぁ、ね」
劣等感だということははっきりと自覚している。しかし今回に限っては話の焦点はそこではない。
「ちょっと、見に行ってもいい?」
「オレはかまわんが、そっちはいいのか?」
「うん。ちょっとだけ見ておきたくて」
「そうか。そんなに勉強熱心だとは思わなかったが。心境の変化でもあったか?」
いつも不平不満を漏らすユニスからすれば考えにくいその判断。キャロルの仕事している様子を見に行きたいと言ったのも初めてのこと。いつもであれば比較してしまうことを嫌って目にするのも嫌なはず。
「まぁ…………そんなとこね」
「ふむ。それは良い心掛けだな。だがオレは送り届けるだけだぞ? ヨハン達との契約上、お前たち子の行動には必要以上に干渉するなと言われてるのでな」
「それでいいよ」
「わかった。ならば乗れ」
カッと光り輝くギガゴンはすぐさまその身体を大きくさせ巨大な翼竜の姿へと変える。
(ごめんね、アイリスちゃん)
夕刻のことがあった手前、声を掛けようかとも思ったのだが、掛け方もわからない。結果一人で来る始末。
そうしてギガゴンの背に飛び乗り、漆黒の空へと羽ばたいていった。
◆
精霊地エレクトラル。
およそ十五年前までそこは鬱蒼とした森であり、ただでさえ人があまり寄り付かないのだが、それ以上に問題だったのは瘴気とも呼ばれる魔素が広く充満していた土地。
魔素が充満したその結果、肥沃な大地であったが故に強大な魔獣が住みつくこととなる。
しかし苦難の末、精霊石による魔素の浄化が図られて以降は精霊が住み着き、現在の精霊地となっていた。精霊の純度も相当に高く、新たなる精霊が生まれることも期待されていた。
「そ、そこから絶対に動かないで!」
バチバチと光が広がる中で響く女性の声。背後には少年。
「ぅあ……あぁ…………あああ………………」
女性から声をかけられた少年は動きたくとも足が言うことを聞かない。
「下手に動き回られるよりもマシね。それにしてもまったく。母様も大変な仕事をさせてくれるわね!」
普段はその美しさから誰もが見惚れる程の透き通る銀色の髪。いつもは辺境伯子女として綺麗に揃えて結っているのだが、今は髪飾りもほどけ、巻き起こる衝撃で激しく揺れている。
「でも、根を上げてなんかいられない!」
握りしめる杖に目一杯の魔力を漲らせ、周囲の微精霊の波動を感じ取っていた。
「現状、五分と五分といったところね。あとは体力勝負!」
上方を見上げるキャロルは、感覚的な時間経過しかわからないのだが、空の暗さからして相当な時間が経過しているのだということを感じ取る。
――――キャロル・カトレアが精霊地エレクトラルへ足を運んでかれこれ十二時間は経過していた。目的は五年毎に訪れるという精霊石の浄化。上手くいけば数時間程度で終えるはずだったのだが、不測の事態が生じた事で現状はそこまで順調にいってはいない。
「オオオオオオッ!」
キャロルの前で弾ける閃光のその先、そこには巨大な石碑があり、浮かび上がるのは黒い影。まるで怨霊かの如き呻き声を上げている。
「おれのせいだ……おれのせいだ…………おれのせいだ…………」
自責の念に駆られながらただただ呟く事しかできないキャロルの後ろで尻餅を着いている少年、デロン。
――――遡ること数時間前。
「へっへへ。これが噂の魔石か」
目の前の石碑をぐるりと一周回り見回す。しかし見たところ普通の石碑。特に何か変わったところは見られない。
「しっかし何書いてんだこれ?」
石碑には何かの文字が刻まれているのだが、デロンには読むことができない。
刻まれている文字は精霊文字。精霊術に造詣が深ければそれらを読み解くこともできたのだが、読めない者にしてみれば意味不明の記号でしかなかった。
「でもなんか魔力は感じるんだよなぁ」
なんとなくだが魔力の波動は感じられる。
「まぁこんだけの大きさだ。ちょっとぐらい削り取ったところで問題ねぇだろ」
腰元からナイフを取り出し、石碑に打ち立てた。ガンガンと鈍い音が森に響く。
「――……ふぅ、これで四つ目。残すはあと一つね」
エレクトラルの森の別の場所。同じような石碑の前に立つキャロルは周囲の色とりどりの微精霊から喝采を受け取っていた。
「ありがとう。これであなた達もまた住みやすくなるわね」
石碑――精霊石に溜め込まれていた魔素の浄化を微精霊たちが喜んでいるのをしっかりと感じ取る。
「さて、と。次に行かないと」
残りの一つの精霊石の波動を感じ取るために目を瞑り集中を始める。
「……え?」
しかし不意に訪れる感覚はこれまでとは別物。まるで異なっていた。
「だめっ!」
残りの一つに何らかの衝撃が加えられている。同時に遠くから微精霊たちが慌ててキャロルの下に向かって来ていた。
「大丈夫。安心して。わたしがなんとかするから」
不安気に周囲を飛び回る微精霊をなだめ、素早くその場を後にする。
◆
「せぇのっ!」
ギンッと金属音が響くと、ピシッと石碑に罅が入った。
「おっ?」
僅かに反応があったことでデロンは表情を綻ばせる。
「なるほどね。さすがはすげぇ力がある魔石だな。ようやくかよ。つまりこの変なやつに傷をつければいいのか」
何度となく打ち付けていたナイフは刃こぼれしてしまっていたのだが、偶然刻まれた精霊文字のところに当たったところで反応があった。
「よぉし、もうちょっとだ」
「あなた! そこでなにしてるの!?」
最後の仕上げだとばかりに大きく振りかぶったところで不意に響く女性の声。
「え?」
声に反応するのと同時に振り下ろされるナイフは精霊文字の一部を削り取る。
次の瞬間、石碑――精霊石からはどす黒い瘴気が噴出した。
「いけない! 早く鎮めないと!」
慌てて駆けだすキャロル。
デロンを押しのけ、精霊石に手を当てる。
「これは!?」
瘴気を通じて流れ込んで来るのは悪しき波動。
「間に合って!」
精霊石の荒ぶる魔力に対して、キャロルは包み込むように魔力を放った。
瘴気は精霊石へと押し戻されていく。
「あともう少し」
なんとか間に合うかもしれないと安堵しかけたその瞬間、押し留めていた瘴気が破裂する様に噴き出した。
「きゃっ!」
バチンッと弾かれる。
「なんて……ことなの…………」
顔を上げるその先には、黒い瘴気が先程よりも激しく噴き出していた。
◆
眼下には薄暗い森が広がっており、ギガゴンの背に乗るユニスは目を凝らして森を大きく見渡している。
「どうだ? 視えるか?」
「うん、なんとなくだけど」
「そうか。ならばどこに向かえばいい」
「…………あそこ」
ユニスが指差す方角、森には五つの大きな光が点在していた。
(たぶん、これは魔方陣)
これまで知り得た情報から判断するにそう考えられる。
キャロルが精霊術を行使して浄化を図っていたことにより、今日はいつもよりも魔力反応をよく捉えられていた。
エレクトラㇽの森に広がっている光は全部で五つ。それらを繋ぎ合わせると五芒星が描かれる。座学でアイリスから教えられていた。魔法が使えなくとも、魔道具や魔方陣を用いて魔法と同じような特性を持たせることも可能なのだと。
普段は勉強が苦手なのだが、そのことだけはよく覚えていた。
加えてもう一つ。ユニスの眼球の奥にある魔力。特殊な目――魔眼とも云われるその眼で魔力を可視化する。
(あそこだけ、おかしい)
五芒星を形成する内の四つは白い光。しかし一つだけ黒い光が溢れていた。
「嫌な予感がする。ギガゴンはやく!」
胸中を駆け巡る不安。目にした途端、得も言われぬ恐ろしさを孕んでいた。
そうしてユニスが指定した付近を滑空するギガゴン。
「この辺りか」
「うん。ありがと!」
高度と速度を下げたところでそっと立ち上がるユニス。
「どうするつもりだ?」
「こう、するのよ!」
パッとその場で跳躍する。
ギガゴンの背からフワッと浮かび上がった。
「じゃあまたあとでね!」
手を振り、笑顔で落下していく。
「フゥ。まったく無茶をしおる」
旋回しながらユニスの落ちる先を見届けると、ギガゴンが向かう先は夜空へ。
「やはり血は争えん、ということだな」
これまで何度となく見届けて来た英雄の所業。そして、その快活な様はまるで出会った頃のニーナを想起させた。
「不要やもしれぬが、一応報告だけでもしておこうか」
夜空に浮かぶのは一隻の船。そこには英雄が乗船している。
「――……あた、あたたたた」
バキバキと木の枝を折りながら地面へと落下するユニス。
「っつぅ。ったぁ…………」
お尻を擦りながらしかめっ面になる。
「えっと」
のんびりとしている暇はない。
「……あっち」
方向を確認するなり、一目散に駆け出す。
(なに? この嫌な感じ?)
キャロルの下へ行ったところで使命の邪魔になるかもしれない。しかし、どうにも足を向かわさずにはいられなかった。
「デロンは、いない」
一応来たついでに視線を左右に振る。
広大な森の中でそもそも簡単に見つけられるとも思っていない。本音を言えば野垂れ死んでいたところで自己責任。どうでもいい。
「……ほんと、なにしに来てるんだろって話だね」
独り言を呟いたところで虚しくなった。
そうして茂みの中を抜けると、少しばかりの広場に出る。
「え?」
目の前の光景に驚愕した。
「あれ、なに?」
眼前には黒い瘴気がまるで人型を成すかのようにしてキャロルの前に立ち塞がっている。
「キャロルちゃん!」
駆け出す先のキャロルはひどく疲労を滲ませていた。
「キャロルちゃんがあんななになるなんて」
あのいつだって聡明で、無邪気で、可愛らしくて、人気者で、時にはその関係が煩わしくて、その才能に嫉妬して、しかし、しかしそれでも活躍を耳にすると嬉しくて、尊敬できて、誰よりも、誰よりも憧れを以て見ていたのは自分自身なのだと。
「くっ!」
はっきりと自覚している。向き合うべきは己なのだと。しかし右往左往する心の弱さ。
「キャロルちゃん!」
その自慢の姉が、目の前では見たことがない程にボロボロの窮地に陥っていた。
「お、おま」
「キャロルちゃん!」
倒れ伏しているキャロルに駆け寄るユニスへデロンが声を掛けるのだがユニスは無視する。今はデロンに構っている暇など一切ない。
「あ、あ……れ? ゆ、にす……ちゃん?」
「何があったの!?」
「へ、へへ。しっぱい……しちゃった」
信じられない。いくらこれまで【精霊女王カレン】が行っていた精霊石の浄化とはいえ、カレンに追随する力を身に付けているのではないかと評されるキャロルが失敗するなどと。同時に、大変な作業だとは聞いてはいたが、あのカレンがキャロルにできないことをさせるとも思えない。
「お、おれのせいだ」
消え入りそうな声が耳に入って来た。
「なにをしたデロンっ!」
「うぐっ」
殺気が籠った眼差しで睨まれると思わずデロンは怯む。
「そういきり立つな小娘」
反対側、耳に飛び込んで来る声。
「あ、あいつが……あいつがやったんだ」
恐怖に顔面を歪めるデロンが指差す先、振り返るそこには瘴気の塊。
「あなた、だれ?」
「我にそれを問うか。我は名などない。ただこの地に宿る精霊。それのみだ」
「精……霊?」
そう言われ、ジッと観察するようにして見つめていると、なんとなく理解した。カレンの契約精霊であるセレティアナや、四大精霊であるウンディーネとどこか通ずるところがある。
(あそこから出て来た?)
精霊と名乗った存在のその奥に見える罅割れた石碑。漏れ出ている瘴気と精霊の魔力が似ていた。
「……ユニスちゃん、下がってて」
ぐぐっと起き上がるキャロルは杖を握り直す。
「キャロルちゃん、大丈夫なの!?」
「まぁ、大丈夫じゃないのだけど、でもこれはわたしの仕事だから」
「……うん、わかった。あのさ、ねぇ、アタシにできることない?」
偉そうに何かができるわけではない。いたところで邪魔になるだけかもしれない。しかしそれでも力になれる何かがあれば力を貸したい。
「そう……ね」
チラリとデロンに視線を送るキャロル。
「できればその子を連れて、遠く離れててくれれば嬉しいかなぁ」
「え?」
そんなことを聞いたわけではない。しかしグッと奥歯を噛みしめるのは、それぐらいしか手伝えることがないのだという無力さ。
「……わかった」
「ありがとう、ユニスちゃん。助かるわぁ」
「…………うん、頑張って」
「まっかせて。せっかくここまで来てくれたユニスちゃんにみっともないところ見せられないもの。自慢のお姉ちゃんが大活躍するところ、しっかり見ていてね!」
「…………――」
泥で汚れた衣服、傷だらけの地肌、隠そうとしているが明らかに疲労を感じさせる顔。それでも気丈に強がる様には見ていられないのだが、ここで返すのは不安気な表情ではない。
笑顔、ただそれだけで良い。
「――……ほんとだよ。下手なことしてたらカレンさんに言いつけるからね」
「やぁっ! それは絶対にだめっ! 母様にこんな失態がバレたらどんな目に遭うか」
「はははっ。だよね。だから、だからさ、強くて頼りがいのある、いつも通りのキャロルちゃんを見せてね」
「あいあいー」
そう言い、前へ歩を進めるキャロル。振り返ることのないその表情には笑顔がこぼれる。
「ありがと。ユニス」
そのまま妹へ感謝の念を抱き、同時に湧き上がって来る感情。
「頑張って。お姉ちゃん」
小さく呟かれる精一杯の声援。振り絞った力を貸すことへの答え。未熟で戦う力を持たない自分にはこれぐらいしかできない。
「ちゃんと、見てるから」
あんなことしか言えない自身の力不足を痛感しながらも、それでもその後ろ姿をしっかりと見届けた。
「ふふ。それにしてもまったく。強くて頼りがいのあるいつも通りのわたし、か」
杖を握る指に力が入る。
「いつからあの子あんなにしっかりした子になったのかしら。にしても、ほんと、お姉ちゃんはたいへんだぁ」
いったいどれだけの評価をされているのだろうか。あの年頃の自分と重ね合わせるのだが、あんなにも行動する力があったか疑問が浮かぶ。
「どれだけ高貴な身分にあろうとも、英雄であろうとも、本質的な部分は他の人と何も変わらない、か」
以前成人の日に母たちから聞かされた言葉がキャロルの脳裏に甦った。
自戒の念も込められているのだが、その言葉は常に胸に刻み続けて来た。
「母様も、こんな気持ちだったのかな?」
母の場合はもっと大変だったのだろうということは想像に難くない。なにせカサンド帝国の皇女だったのだから。
父とのその馴れ初めを以前恥ずかし気に口にしていたことを思い出す。
「さぁて。しっかりと頼りになるお姉ちゃんだってところを見せないと、ね」
湧き上がって来る力。真っ直ぐに杖の先端を黒き精霊へと向けた。
「フム。今際の言葉ぐらいは受け取ってやらんでもないぞ?」
「ありがとう。でも、今はまだ必要ないかしら?」
「どうやらまだ理解していないようだな。貴様程度の格では我には歯が立たないと」
「いえ、しっかりと理解しているつもりよ」
「ならば何故まだ立ち向かう?」
問い掛けに対して、地面を強く踏み躙るキャロルの構える杖は先端を白く光らせる。
「それが役割だから、よ」
「……ニンゲンは時には死に急ぎたがることもあるのが不可解だが、構わぬか。死ね」
黒き精霊より放たれるどす黒い波動。
「はあっ!」
キャロルより放出される白く輝く波動と衝突し、凄まじい爆発音を響かせた。
思わず目を奪われるその様子をのんびりと眺めている暇はユニスにはない。頼まれた役割をこなさなければならない。
「今のうちに早く離れるわよ!」
「け、けど」
「なによ?」
ジッとデロンを観察すると、どうにも膝が震えて立ち上がれない様子。
「なっさけないわね。いつもの威勢はどこにいったのよ」
「ん、んなこといったってよぉ」
「いいから早く立ちなさいっ!」
ガンッとデロンの臀部を蹴り上げる。
「ってぇ!」
「あんたがこんなとこにいたらキャロル姉の邪魔になるでしょ!」
「だからって蹴ることねぇだろうがよッ!」
「なにいってんのよ。おかげで立てたじゃないの」
「へ?」
確かに立ち上がっているデロン。まだ指先の微かな震えからして恐怖は残っているのだが、それでも身体は動かせるようになっていた。
まじまじと身体を見回した後に戦いの動向へ視線を追っているユニスを見るデロン。
「あ、ありがと、な」
鼻を擦りながら視線を落とすデロン。
「あぶないっ!」
「え? ぶふっ!」
次の瞬間、デロンの顔面に訪れるとてつもない衝撃。鼻血を撒き散らしながら後方に弾け飛ぶ。
「ふぅ。危機一髪」
安堵に息を漏らすユニス。
「なにしやがんだてめぇ!?」
繰り出されていたのはユニスの裏拳。
「はぁ? アタシが突き飛ばさないとあんた今頃ああなってんのよ?」
ユニスが指差すその先を見てデロンは顔を青くさせた。そこには太い木の幹に大きな穴が開いている。
「……にしたって他にもやり方が……ちょっと暴力的すぎだろおまえ」
「なんか言った?」
「…………いや、なんでもねぇ」
その圧迫感のある笑みを見て思わず視線を逸らすのだが、それでも不思議と悪い気はしない。
(ほんと、良い女だよおまえは)
こんな時だというのに、その凛々しい眼差しにデロンは釘付けとなる。
「ほら、ぼーっとしてないで早く離れるよ」
デロンの手を引き、その場から距離を取った。
流れ弾がユニス達の下へと飛んだことに胆を冷やしていたキャロルだったのだが、そもそも気を配っている余裕などない。キャロルと精霊の戦いが激化しているのがその証左。
「――…………はぁ、はぁ」
「どうした? もう終わりか?」
「…………」
精霊術士は自身の魔力よりも大事なのは精霊との融和性。そして何よりも契約精霊の存在が最も大きい。
そうした条件がある上に、ここに至るまでの体力の消費が著しい。それにそもそも、キャロルはまだ特定の精霊と契約を交わしているわけでもない。ないものねだりをしても仕方ないのだが、理想を言えば中位以上の精霊と契約を交わしていればこの局面を打開することも可能。しかしそれだとしてもそう易々とはいかない。
「ほんと、嫌になるわね」
その理由として、目の前の精霊は少なくとも中位精霊以上としての格があるのだから。
キャロルの周囲を漂う微精霊たち。
「わたしにできるのはあなた達から力を借りることぐらいしか…………」
現時点で扱える魔法は微精霊の力を行使した精霊魔法。属性は多岐に渡るのだが、それでも威力や内容を問うのであれば精霊自体の格がモノを言う。
「あなた達が悪いわけではないのにね」
周囲を漂う微精霊に謝罪の念を送る。
自分の力がもどかしい。しかし泣き言を言っている暇もない。
「あとは…………」
もう残された手段はそれこそ玉砕覚悟の手のみ。それでも通じるかどうか怪しい部分があった。しかしやるしかない。
チラリと後方、ユニスとデロンが離れたことを確認すると、そのまま杖に視線を向ける。
「……コレはやりたくなかったけど」
キャロルの杖には先端にいくらかの宝石が散りばめられていた。
「母様、ごめんなさい」
ギュッと握る杖に目一杯の力を込める。
「やああああああっ!」
次には、黒き精霊目掛けて一直線に駆けた。
「フンッ。魔法が効かないからといって肉弾戦に臨むか」
愚行。実体を伴わない相手へ行われる肉弾戦といえば、魔力を宿した武具での直接攻撃のみ。
しかしそんなやぶれかぶれの行いは脅威になり得ない。
「キャロル姉、何をするつもり!?」
それはユニスにとっても衝撃的だった。身体能力で言えばキャロルよりもユニス自身の方が間違いなく上。そんなキャロルがどうしてそんな戦法を選んだのか。相手が一般人ならまだしも。
お世辞にも体術に優れているとは言えない姉の行動に焦燥感が胸中を駆け巡ったのだが、すぐにそれを否定する。
「ちがう」
一瞬、自暴自棄になったのかと考えたものの、あの聡明な姉がいくら窮地に立たされたからといってそんな方法を取るとはとても思えなかった。
魔眼に魔力を通し、姉の行動の意味を探ろうと魔力の可視化を図る。
「はあっ!」
「ムダだ」
ガンッと鈍い音と共に、キャロルの杖は大きく砕け散った。
「所詮この程度だったか。浅はかなことよ」
「きゃあ」
至近距離で精霊の魔力弾の直撃を受ける。
「これで終わりにしよう。非力な人間よ」
「ふ……ふふ」
地面に横たわるキャロルに腕を伸ばす精霊なのだが、顔を起こすキャロルは不敵な笑みを浮かべた。
「何が可笑しい? 死期が近いのを察して気でも触れたか?」
「ふふふ。おかしいに決まってるわ。だってあなたにわたしの考えが読まれなかったもの」
「なに?」
「この森がどういうところなのか、あなたが知らないはずはないわよね?」
「なにが言いたい?」
この地がどういう場所なのかと云うことは、この場に居合わせている誰もが知っている。
魔素が発生・停滞する場であり、充満した結果、魔物の発生や招き寄せることがあった。しかもそれだけでなく、人間が濃度の濃い魔素を直接吸うということは害でしかない。
そのため、それらを浄化して精霊地としているのが現状。
(こやつ、何を言っている?)
だからといってそれが何だというのか。その蓄積した魔素の影響によって自身が生まれている。
「わからない? だったらもう一つヒントを出してあげるわ。よぉく周りを見てみなさい」
言われるがままに精霊は周囲を見回すのだが何もない。あるのは激しい戦闘によって倒壊した木々や抉り取られた地面。あとは壊れた杖。
「酔狂か。キサマが砕いた武器以外何もないではないか」
「なによ。だったらわかってるじゃない。それが狙いよ」
「!?」
瞬間、精霊はキャロルが何をしたのか理解した。
キャロルはグッと上方に拳を掲げている。
キャロルと黒き精霊の戦況は離れた場所から見ているデロンには理解できない。
「お、おい! お前の姉ちゃんやべえじゃねぇかよ!」
武器まで壊れたことで打つ手がなくなったと思い、慌てふためいていた。
しかしユニスは違う。姉の狙いが何なのかを正確に汲み取るため、具に観察している。
「…………」
「おいってば!」
「うるさいッ!」
怒声が響いた。
「だいたい誰のせいでこんなことになってると思ってるのよッ!? 黙って見てなさい!!」
「お、おぅ……」
イライラが募る。せっかくまとまりかけた思考がデロンのせいで阻害された。
ユニスの魔眼に映るのは、二人の状況以外他にもある。
(もしかして、わざと?)
飛び散ったキャロルの杖の欠片。四方に飛び散っているのだが、それらはどれも魔力を灯していた。
「あっ!?」
そして持ち得る知識を全て動員してキャロルの狙いに辿り着く。それは黒き精霊が察知したのと同じ瞬間。
「精霊円陣っ!」
前方へ腕を大きく振り下ろすキャロルが発する声。
「しまっ――」
た、と精霊が思ったのだが既に遅し。飛び散った杖の欠片から立ち昇る光の柱。
「ぐおおおおおおおお」
苦悶の声を上げる。
「へ?」
その瞬間を目撃するデロンには何が起きたのか理解できなかった。
「……魔法陣よ」
「まほうじん?」
「見てわからない? キャロル姉は魔力を通じてアイツを閉じ込めたのよ」
魔法陣を用いる柔軟な思考には感服せずにはいられない。確かに効果的。
事実その通り、黒き精霊は苦しみもがいているのだから。
しかし本当に感服しているのはそこではない。
「…………」
凄まじい発想。それを成すためには技能以外にも様々な要素を必要とした。
溜息がでる。
(ほんと、凄いよ。お姉ちゃん)
肉体的には非力なはずの姉が、体術を絡めた近距離戦を仕掛けるその勇気に。
あれだけ大事にしていた、母カレンからもらったという、愛用していた杖を砕かなければならなかったその覚悟に。
それだけでなく、その大事な杖を砕いたとしても、魔法陣が上手くできる保証などない。間違いなく不確実。
そして、仮に出来たとしても、相手にそれを悟られれば待つのは死だけだという現実に。微精霊の力を溜め込む時間を稼ぐためにわざわざ会話をけしかけて。
これは賭け。成功度がどれぐらいなのかはユニスには計れない。
何より凄いのは、賭けだとわかった上で不敵さを生み出す度胸と実践力。
「敵わないや」
年齢差があるのだから当然とは思っていたのだが、それでもこんなにも力の差があるのだと思うと、嫉妬を越えて呆れるしかない。
「すげぇじゃねえかよ!」
「……そうだね」
「なんだよ。姉ちゃんが勝とうとしてるのに嬉しくねぇのかよ?」
「嬉しいに決まってるじゃない。でも……」
そう言いかけたところで口を噤む。思わず口に仕掛けたのは弱音。姉が優勢だということに間違いはない。だから内心で抱く程度の小さな予感でしかない。しかし、いったいどうしてデロンに弱音を吐こうとしたのか。悪い予感が片隅に残り続ける。
このまま姉が勝てばそれで良い。
「でもなんだよ?」
「なんでもない」
「んだ?」
自身の性根に嫌気が差したところ、不意に飛び込んで来る光景。
「だめっ!」
「へ?」
瞬発的に駆け出すユニス。
「お、おいっ!」
手を伸ばすデロン、まるで届かない速さでユニスは駆けだしていた。
「なんだよあいつ。そんなに嬉しいのかよ」
しかしデロンの考えとは真逆。ユニスは焦燥感に駆られている。
(お姉ちゃん! お姉ちゃん! おねえちゃん!)
確かに魔方陣に黒き精霊は封じ込めた。形勢を逆転させることにキャロルは成功している。
「ぐっ……」
「どうした? 力が弱まっているぞ?」
しかし、肝心のキャロル自身の魔力が底を尽きかけていることを、ユニスの眼にはそれがはっきりと視認できていた。
「フム。ここまでのようだな」
魔法陣から腕を出す黒き精霊はキャロルへと伸ばす。
「中々粘ったがキサマ程度の格ではこの辺りが限界だ。死ね」
「っ!」
キャロル目掛けて魔力弾が放たれた。
「だめえええええぇぇぇぇっ!」
万事休すのキャロルの視界に飛び込んで来る人影。
思わず目を疑うその光景。飛び込んできた人影は魔力弾の直撃を受けて弾け飛んでいく。
「あっ……」
まるで信じられない。
地面を転がっていく愛しい妹をただただ目で追うだけ。
「ゆ、にす?」
守らなければならない存在が、自身を守るために立ち塞がった。
「あ……ああ…………」
「邪魔が入ったか」
「…………あ……あぁ…………」
無様。こんなにも自分の不甲斐なさを悔いたことはない。
「しかし次はもう防げまい」
割れた石碑の辺りへ吹き飛んだ小さな人間は既に立ちあがれない様子。しかしピクリと指を動かしたことで、まだ息はあるのだと安堵する。
「…………あなた…………自分が何をしたのか、わかっているの?」
「む?」
静かに響くキャロルの声。つい先程まで魔力が底を尽き、枯れかけていたのだが、周囲の微精霊が集まり始めていた。
魔力の低下と共に微精霊との繋がりを失いつつあったのだが、まるで真逆。かつてない程の威圧感を生み出していた。
「わたしの……」
その姿は、まるで微精霊を従える女王かの如く。
「わたしの全てを賭けてでも、あなたを倒すッ!」
煌々と光を放ち立ち上がる精霊術士。
「ど、どこにそんな力が!?」
魔法陣にも再び力が戻る。
黒き精霊には納得のできないその状態なのだが、理由はわかっていた。
「ぐっ、忌々しい」
魔力の肩代わり。それを成しているのは周囲の微精霊なのだと。
しかし通常と異なるのは、相乗的にその効果を底上げしているのがキャロルの呼びかけに微精霊が応えているためだと黒き精霊は知覚している。
「まさかこれだけの格を持ち合わせていようとは」
見誤っていた。
特定の精霊と契約している気配がない、取るに足らない存在なのだと。
しかし否。これは微精霊から愛されているからこそ。このような状態ともなれば、下手をすると矮小な微精霊という存在が将たる精霊術士に呼応し、上位精霊へと昇格してしまう恐れすらあった。
「だが!」
ならばこれ以上の力を付ける前にケリをつけてしまえばいい。
「ぬおおおおおおオッ!」
「はあああああああッ!」
巻き起こる魔力の渦。その余波で周囲の木々が大きく揺れる。
「うぅっ……――」
意識を朦朧とさせるユニス。
背中は大きく焦げており、本来であれば激痛を伴うのだが、もう既に痛みなのか何なのかよくわからなくなっている奇妙な感覚。
『大丈夫じゃないかな?』
そんな中で頭の中に響く声。親しみのある父の声。
『ユニスはなにか不思議な感じがするね』
『不思議な感じがするってどういうこと?』
『うーん、なんていうのかな? ニーナみたいな感じなんだけど、ニーナよりももっと深い感じ、かな?』
『あたしみたいだけどあたしよりも深い?』
『うん。魔法が使えないのもそのせいかも。たぶんだけど、竜人族の力に関係していると思うんだ。上手く説明できなくてごめんね』
『いいよ。でもあなたがそう言うなら、そうなんだろうね』
『ユニスに説明した方がいいかな? 気にしてるみたいだし』
『いや、いらないよ? こういうのは自分の力で乗り越えるものだし。お父さんがあたしにやったみたいにね』
『そっか。リシュエルさんから聞く限りだと、竜人族にもしきたりがあるみたいだしね』
『中途半端に守ってるアレね』
『時代の移り変わりがあるのは仕方ないよ。でもうんわかった。ユニスにまた何かあったらいつでも教えて』
『うん』
いつそのやり取りがあったのかわからない。記憶の遠い向こう側。記憶と呼んでいいのかすらわからない。
(なんだろ)
竜人族という単語も微かに聞き覚えがある程度。それをいつ聞いたのかも、知ったのかもわからない。ただ、なんとなくアイリスと一緒に勉強した時にそのような単語があった気がしなくもない。思考が上手くまとまらない。
「――――……うぅ…………」
混濁する思考の中、唯一わかっているのは悔しさだけ。
「くそぉ……くそぉ!」
こんなにも、こんなにも力がないのかと、悔しさが込み上げてくる。
地面に倒れ伏したまま、微かに動いた指を、悔しさを表すようにしてゆっくりと土を握りしめた。
「そんなに悲しい気持ちにならなくたっていいよ」
「え?」
また幻聴かと思ったのだが、はっきりと認識できるその声。
「だ、れ?」
どこから聞こえて来るのかと思えば、薄っすらと光を放っている右の手。
ゆっくりと手の平を開けると、そこには土に紛れている光る石。
「せいれい……せき?」
どうしてそう思ったのか。ただの直感。
その石が、石碑と同じ石だったことで自然とその答えに行き着いている。
「キミは十分な力を宿しているよ。その小さな身体に」
「そんな、こと……言ったって」
魔法も使えなければ特別な何かがあるわけでもない。
親姉妹――――身近である人物達と比較しても何もない。
「わからないのだね。キミの価値を。ならいいさ、今はわからなくとも」
「…………」
意識が混濁したまま、ゆっくりと立ち上がるユニス。石を握りしめたまま、ぼーっと前方を眺める。
少し離れた場所では、姉と精霊が死力を尽くしてせめぎ合いをしているところ。
「ねぇ」
「なんだい?」
「あんた、精霊なの?」
「ああそうだね」
「アイツみたいに悪い感じはしないけど?」
この場に意思ある精霊が生まれるなどあり得ない。あるとすれば黒き精霊のような存在。
「それはそうだよ。あの子はボクと違って、魔素に侵された精霊だからね」
「じゃああんたはその逆ってこと?」
「うーん、そんなに単純な話じゃないけど、まぁ簡単に説明するとそんなとこ、かな?」
「そっか」
「納得したかい?」
「わかんないよ。だけど、いまはそんなことどうだっていいよ」
「ならキミはそんな今を、どうしたい?」
問い掛けの意図が全くわからない。しかしどうするもこうするも、やりたいことはたった一つ。
「アタシに力を貸して。お姉ちゃんを助けたいの」
たとえ小さな石であろうとも、人間と会話をすることができる精霊ともなればそれなりの格があるということ。それぐらいはわかる。魔法が使えないからこそ、精霊術に関してはそれなりに座学で真剣に勉強してきた。
だったら、この精霊に力を借りられれば姉の助けになることも可能なはず。
「それはできない相談だね」
「……そっか」
ただし、返って来た答えは予想通り。
「そのままのキミではボクを扱いきれない。それは覆すことのできない事実だから」
「今さらそんなことに期待してないって。でもあのさ、さっきは言ったよね。アタシに力があるって」
「言ったことは言ったけど、ソレとコレとは別の話だよ?」
「わかった。ちんたら考えるのもめんどくさいし、だったら無理矢理扱えばいいってことだね」
「え?」
大きく口を開けるユニスは精霊石を口の中に放り込んだ。
「な、なんてことを!?」
「つべこべ言ってないで力を貸しなさいッ!」
ゴクンと一息に呑み込む。
「わたたたたた」
「あとは勝負よッ!」
目算がないわけでもない。
格上の精霊であろうとも、自身を認めさせることができれば問題はないのだと。細かい誓約と制約はあるらしいのだが、それも内容次第。覚悟さえあれば、時には生来の格を上回ることもできるのだと、【精霊女王】カレン・カトレアの契約精霊であるセレティアナにこっそりと聞いたことがあった。
「こ、こんなことをすればっ、どどどうなるかわからないよっ!?」
「覚悟の上よ!」
先程はあれだけの姉の覚悟を見た。戦う勇気をもらった。
自身の身の安全を考慮して死に物狂いの戦いなどできはしない。死の境界線ともなればそれ相応の覚悟は伴うもの。頭では理解していたのだが、いざ身体を動かすともなると上手くはいかない。
「どうなっても知らないからね!」
「どうやら諦めたみたいね。望むところよっ!」
体内からの精霊の言葉に若干の高揚感を得た瞬間、ユニスの身体に異変が生じる。
「ぐっ!?」
「ほら見たことか。ボクを無理矢理取り込もうとするから」
「ぐあああああああああああッ!?」
絶叫。キャロルと黒き精霊の衝突以外に響く突然の木霊。
「え?」
「この波動はッ!?」
大規模な戦闘を繰り広げていたのだが、突然の衝動を受け、共にユニスへと視線を奪われた。
そこには地面を転がりながら苦悶の表情を浮かべるユニスの姿。
「どうしたの!?」
「この感覚、穢れ、か?」
「穢れ?」
「フッ。まさかあのような小娘が穢れを宿しているとはな」
「何を言っているのあなた!?」
「どうやらあの娘はキサマの身内のようだが、キサマは自分の近くにいる者のことも良く知らないのか?」
「っ! いいから知っていることを教えなさい!」
「…………まぁよかろう。死地へ向かう者へのせめてもの餞別だ」
黒き精霊は、その黒き腕を、指を一本ユニスへと伸ばす。
「あの小娘は穢れ、つまり異種交配の成れの果てだ」
「異種交配?」
疑問を浮かべるキャロルなのだが、それには思い当たることがあった。
(もしかして、ニーナ様のことを言ってる?)
当人には時期がくれば知らせるとのことらしいのだが、キャロルが知っているニーナの素性。それは、街で噂されているようなものではない。
ヨハン・カトレア辺境伯の第四夫人となるニーナはただの実力派冒険者などではなく、その存在は、最古の種族であり最強の種でもあった、竜人族の末裔なのだと。
(だったら穢れとは)
その意味が差すのは、竜人族が竜の力を宿す一族ということに起因しているのではないかという直感。
「……もう少し、教えて欲しいわね」
「死にゆくものにこれ以上教えてやることもない」
「それなら、力づくで聞き出してあげるわ」
「できるのであればな。次はキサマが油断したな」
「え?」
上方に手をかざす黒き精霊。
「しまっ――」
情報を引き出すことに気を取られ過ぎて、完全に油断してしまっていた。
上方に視線を送ると、上空には黒雲が立ち込めている。
次の瞬間、激しく響き渡る破裂音と炸裂音。
「きゃあああああああ」
その場を埋め尽くす落雷。幾つもの稲光が地面を這い回った。
「ごへぁ!?」
衝撃に吹き飛ぶデロン。後方に吹き飛んでいく。
距離を取っていたはずのデロンへも及ぶほどの広範囲攻撃。突然の落雷で感電するデロンは気を失ってしまった。
「ぐ、ぐうぅぅぅっ…………」
「どうやらここまでのようだな。我がただキサマの話につきあってやったとでも?」
意趣返し。
魔法陣によって拘束されていた黒き精霊が一手で形勢を逆転させるために唯一取れた戦法。魔法陣の効力が薄くなっている上方でじわじわと魔力を蓄積させていた。
「今度こそ、終わりだ」
「くっ」
もはやここまでと観念した瞬間、強烈な気配が襲い掛かって来る。素早く駆け抜ける人影。
それが誰なのかということは一目で理解した。
「ゆ、ユニスちゃん!?」
しかし目を疑うのは、それが本当にユニスなのかということ。
キャロルのよく知る妹(ユニス)とはまるで異なっている。
「があああああぁッ!」
前傾姿勢で前のめりに構えるその姿はこれまでのユニスではない。野性味に溢れていた。
「キサマ、穢れが濃くなっているな!?」
「ガアッ!」
刹那の瞬間、黒き精霊との距離を詰めるユニス。振り切られるのは爪撃。
黒き精霊の前面にありありと傷を残す。
「ぐふッ」
これまでと打って変わって、まるで信じられないのは、その爪撃が魔力を宿しているということ。とても人間の所業ではない。
「かはっ……こ、これほどの脅威、すぐに排除せねばなるまいな」
放置しておけばどれだけの脅威になり得るのか。
魔力弾を中空に漂わせる黒き精霊。いくつも放つのだが、蜿蜒なる俊敏な動きを用いたユニスはそのどれをも回避する。
「な、なにっ!?」
野獣。見る人によってはその言葉が適切であるのだが、満身創痍の状態とはいえその状況を見ているキャロルにとってはまた別の言葉が浮かんでいた。
「…………竜?」
野獣でも間違いはないのだが、それはあくまでも広義での意味。キャロルの目にはまさしく竜、そう映っている。
野生の獣と竜、外見上でも大きく違うのだがその決定的な違い。それはその眼に他ならない。キャロル自身竜種との対面は数える程しかないのだが、その竜種独特である黄色い縦長の黒目は、見紛うことなく竜の眼に他ならなかった。
「でも……」
しかしどうして急にそれだけの力を発揮したのか気にはなる。だが、それ以上に気になっていたことがあった。
「あの子、精霊術は使えないはずだけど…………」
胸中に流れる不安。ユニスの体内に感じる違和感の正体。
はっきりと精霊の存在を認識できる。
「はやくなんとかしないと!」
精霊術士としての直感。このままでは手遅れになる気がしてならなかった。
「がああああああああッ!」
「ぐっ」
突如として戦局に飛び込んできた少女によって劣勢に立たされる黒き精霊。
「ならば!」
避けきれない一撃を見舞えばいいだけ。
立ち起こすのは爆炎。
「これならば避けきれまい!」
ユニスを覆い尽くす程に広範囲の魔法を放つ。
「ユニスちゃんっ!」
キャロルの悲痛な叫びの中、巻き起こる業火は周囲の木々を焼き払い、辺り一帯は火の海となった。
「くははっ! いったいどのようにしてそれだけの力を手にしたのかわからぬが、ならばすべて燃やし尽くせば問題あるまい。骨まで焦がし尽くしてやろう」
ユニスがいた場所へ背を向け、勝利を確信したその口上。
「さて、せっかく現世に顕現できたのだ。人の世を破壊と混乱で埋め尽くすのも一興。いや、その前に魔人を探すのも面白いやもしれぬな」
残すのはこの場にいる残りの人間を殲滅。事後のことへ思考を回すのだが、不意に抱くのは疑問。
「ん?」
背後からビュウッと吹き荒ぶ風。後方への妙な気配を感じ取る。
「…………ユニス……ちゃん?」
しかしキャロルの方がより先に異変を察知していた。理由は黒き精霊よりもユニスへ注視していたことによるのだが、その理由は安否の行方のために。
結論的にはユニスは無事ではいたのだが、ほっと胸を撫でおろすよりも先に、キャロルの目には信じられない光景が映っている。
「これは……?」
疑問を抱く黒き精霊。
風がないはずの森の中で、広範囲に燃え盛る火が一点へと向かっていた。
「そ、そんなバカな」
螺旋状に渦を描くその火。まるで何かに呑み込まれていくかの如く。
異変の正体は、巻き起こる炎を吸い込むようにして呑み込んでいた。
「に、人間が炎を呑み込むなど……――」
聞いたことがない。
しかし黒き精霊の脳裏を過るひとつの答え。
「――……穢れの血か!?」
答え合わせをする間もなく、目の前の小さな存在は口腔内に溜め込んだ炎を大きく吐き出す。
「ガアッ!」
「っ!?」
異常なまでの速度で迫りくる爆炎。避けるどころか、相殺することすら不可能。
「ぐ、ぐがああああああああああ……――」
どう考えても先程視認した魔力を越えている。
自身が爆炎として放った魔力だけでなく、その威力は何故か倍化されていた。
黒き精霊を爆炎が襲い、次にはぷすぷすと溶解するかのようにして焦げ跡を残す地面。
「――……くふぅ、よもや、よもやこのような小娘がこれだけのことをしてこようとは」
驚きを禁じ得ない。
さらに衝撃的なのは、もう前方へと踏み込んでいるその少女。
「フッ。認めよう。此度、我はキサマ等に敗北したのだと」
既に振り切られているその剣戟を、正面から受ける黒き精霊は袈裟懸けに引き裂かれる。
「余興としては十分だったと言わざるを得ないな」
「…………」
黒き精霊がその存在を元の魔素へと還る中、ユニスは脱力していた。
「…………ゴフッ……――」
そのまま吐血すると、前のめりに倒れる。
「ユニスちゃん!」
慌てて駆け寄るキャロル。そのまま抱きかかえた。
「だめよっ! 絶対に死なせないから!」
疲労困憊、満身創痍の身体を圧して、最後の魔力で治癒魔法を施す。
「目を覚ましてユニス! おねがいっ!」
試練など、もはやどうでもいい。愛しい妹を助けられれば何もいらない。
「おねがいっ! おねがいっ! おねがいっ! かみさま…………――」
キャロルの悲痛な叫びだけが火の粉を残す森の中で響いていった。
◆
「――――なんか、ふわふわする」
浮遊感に苛まれながら、ユニスは宙を漂っている。
「どこだろう、ここ?」
まるで身に覚えのない場所。辺り一帯は真っ白な空間。
ギガゴンの背に乗り空を飛んだことはもう数えられないぐらいにあるのに、そのどの経験とも一致しない。
「まったく。無茶をしたものだね」
「え?」
振り向く先は、白い光。
「えっと? だれ?」
「おいおい、ひどい話だよまったく。ボクを取り込もうとしておきながらその言い草はないだろう?」
「んんー? なんのこと?」
「……はぁ。まぁいいや。一応ボクがわかるだけのことは説明しておくね。でもその感じだと、起きたとしてもキミは覚えてないかもしれないけどね」
「はい?」
「結論から言うと、今回キミは無事だったけど、無茶が過ぎるのだと忠告しておくよ。そんな無茶はそう何度も通じないよ? ただだけど、その特殊な血を持っていたからこそ無事だったと言えるのだけどね」
「あのさ、さっきから何言ってんの?」
「まず、キミの身体に流れているのは竜の血。本来であれば人間を遥かに上回る素質を持っている筈なのだけど、何代も人間と交わったことで血が薄まっているね。キミが魔法を使えないのはそのせいだよ」
「え? アタシが魔法を使えないのをどうして知ってるの?」
「…………気にするのはそこなんだね。一応答えておくと、ボクがキミの中に入ったことでキミの苦悩ぐらいなら感じ取れるからだよ」
「そうなんだ?」
とはいえ、何を言っているのかよくわからない。
「それより、竜の血のことはどうでもいいのかい?」
「え? うん、まぁ。だってお母さんたちが何か隠してるっぽいのは知ってたから」
「驚かないのだね?」
「いや、驚いてるよ? だけど、驚くよりも、なんかちょっと嬉しかったっていうのが本音かな?」
「嬉しいのかい?」
「うん。だってそれってさ、アタシに特別な力があるってことじゃないの? だったら嬉しいじゃない」
「特別、か。それはそうとも言えるが、でもそうとも言えないかもしれない。さっきも言った通り、この力はかなり薄くなっているからね。今回はボクが手を貸したことで潜在的に眠っている力を強引に覚醒させた」
「へぇ」
「その代わり、キミは理性を失ったんだ」
「ふぅん。だから覚えてないの?」
「恐らくそうだろうね。それと、この力を自由自在に使えるかどうかはこれからのキミにかかっているよ。それでも扱えるようになるかはわからない」
「…………うん、わかった。ありがとう」
「意外だね。お礼を言われるとは思わなかったよ」
「お礼ぐらい言うよ。諦めかけていたことに希望が持てたんだからさ」
「そうかい。じゃあそろそろ起きようか。あまり心配させるものじゃないよ。人間は弱いのだから」
「うん」
白い光が眩いばかりに光を放つと、目の前が光で覆い尽くされる。
「――――……ユニスちゃん! ユニスちゃん!」
薄っすらと瞼を開けるユニスの目の前には、涙で濡らしたキャロルの顔。
「あ、あれ? アタシ」
「良かった!」
「ちょ、ちょっと痛いよキャロルちゃん」
どうしてこれだけ涙を流しながら抱きしめられているのか理解できない。
「まったく。心配させないでよね」
「ん? カレンさん?」
隣には、溜息を吐いている銀髪の女性。ユニスが目を覚ましたことで喜び離れようとしないキャロルの母。
「えっと……?」
辺りを見回すと、そこは焼けただれた森の中。ぼんやりとだがそこがどこなのかという記憶が思い起こされて来た。
カレンがこの場にいるのは、娘が帰って来るのが遅くて様子を見に来たのだと。
「わたしだけじゃないわよ」
「え?」
燃える木に水魔法を放って消火をしていた男性。ユニスが身体を起こしているのを目にすると、笑顔で振り返る。
「おはよう。ユニス」
「あれ? おとう、さん?」
ゆっくりと歩みを寄せるのは、しばらくぶりに顔を合わせる茶色い髪の男性。
「おかえり、おとうさん」
「ただいま、ユニス」
「でもどうしてここに?」
父は他国の視察に赴いていたはず。近々帰るということは聞いていたが、ここにいる理由がわからない。
「オレが声を掛けておいた」
「あっ、ギガゴン」
背後から聞こえる声に視線を送ると、この森まで連れて来てもらった翼竜。その翼竜が人間へと変化した姿。
「……あれれ? そういえば、アイツはどうなったの?」
「あいつって?」
「ほら、キャロルちゃんが戦ってたあの黒いやつ」
「ユニスちゃん、覚えてないの?」
「なにが?」
「…………」
顔を見合わせるキャロルたち。
「とりあえず色々と落ち着いたみたいだし帰ろうか」
ヨハンが全体へと声を掛ける中、ユニスは事情を正確に呑み込めないまま帰路へと着いた。
◆
普段は賑やかな街並みなのだが、今は人通りもなく静かなもの。
東の空には山間部より覗き始めた朝陽が差す頃、ラスペル領の辺境伯邸の前には一台の馬車が待機している。
「ほら、早く仕度をしてくださいませユニスさん」
「……ふぁい」
部屋からアイリスによって強引に連れ出されるユニスは頭を何度となく沈ませていた。
「まったく。何を寝ぼけていますの」
「むぐっ!」
廊下に控えていた使用人よりパンを受け取るアイリスは、寝ぼけ眼のユニスの口へ強引に押し込む。
「むがっ」
「ほら、起きてくださいませ」
背中を叩かれ、ごっくんと飲みこむ。
「ぷはぁ! 入学式前に殺す気なの!?」
「こんな日まで寝坊しているユニスさんが悪いのですわ。はいお水」
続けざまに手渡される水を受け取りながら、ユニスはジロリとアイリスを見る。
(ほんと、こういうところでこの子は怖いんだよねぇ)
悪びれる様子もなく、ニコニコと嬉しそうにしている妹の顔を見ては、呆れつつも水を飲み干す。
「……ふぅ。ありがと。でさ、ちょっと聞きたいんだけど、アイリスちゃんはどうしてそんなに張り切ってるのさ」
問いかけを受けるアイリスはすぐに目を丸くさせた。次には盛大に溜め息を吐く。
「そんなの決まってるではありませんか。わたくし達はシグラム王都のあの冒険者学校へ入学するのですわよ?」
「わたくしたちって、アタシはしたくないって言わなかったっけ?」
呆れ眼のアイリスによる二度目の溜め息。
「確かにお母様たちはそこまで言いませんが、ですが、ユニスさんも向こうに通えば、もしかすれば魔法が使えるようになるかもしれませんのよ?」
「…………」
その言葉に思わず沈黙してしまった。
思い返すのは二年前のこと。あのエレクトラㇽの森の騒動の事の顛末を姉(キャロル)から聞いたところによると、どうやら無意識下で魔法と思しき行動をしていたというのだから。
(けど……――)
ただ、それも従来の魔法とは具体的にいえば少し違う。
(――……固有魔法、か)
現存する魔法とは一線を画すというのが、その特異性。魔法の素養がある者が扱える一般的な魔法以外に、エルフ独特の魔法や古代魔法などはあるのだが、それらとも違う。
どうにも肉体を強化する魔法を使っていたのではないかという見解。
戦士系が扱う一般的な魔法では身体強化の【闘気】と呼ばれる付与魔法があるのだが、ユニスが行使したのはそれともまた別なのだと。
本当にそんなものが使えたのかと、高揚感を抱いたもの。しかし、それから何度か実践しようとしたものの、一度として使えたことがない。
――――この二年間、一度として。
そうして迎えた十二歳。
シグラム王国では十二歳を迎えた貴族の大半は冒険者学校へと入学する決まりとなっている。通わなくても良いのだが、通った方が人脈や見識など、成人して後に大きく役立つのでユニスのように貴族社会に興味がない者でなければ通わない理由がない。
それ以外にも、平民であれば冒険者としての実戦形式での経験や知識など多くを学べる場所でもある。他には親元を離れて自立したい者や一般教養を学ぶ場所としても重宝している。
「うふふ。それにしても、どのような方がいらっしゃるのでしょうかね」
ユニスの仕度を隣で監視しているアイリスは目を輝かせていた。明らかに期待に胸が膨らんでいる。その理由をユニスは知っていた。むしろ知らない筈がない。
格差が極力ないようにされているその冒険者学校はおよそ二十年前に両親達が出会った場所。
「なに言ってるのさ。どうせ碌な奴いないって。デロンみたいにね」
「あら? そんなこと言っていいですの? あんなに慕ってくれていますのに」
「……それがヤなんだって」
嫌悪感を抱きながら窓の外を見ると、外に待機しているのは王都までユニスとアイリスを乗せて走る予定の馬車。その御者台には使用人が手綱を握っているのだが、この家の関係者ではない人物が一人。まるで従者のようにして馬車の前に立っている。
「デロンさん、明け方から来てらっしゃったみたいですわよ?」
「……ばっかじゃない?」
二年前のあの騒動以降、愛人だ妾だなんだといった、ユニスへの罵詈雑言は鳴りを潜めていた。それどころか何を血迷ったのか、辺境伯家と子爵家の立場を弁えるといったように下手にでるようなものではない。まるで下僕かのようにユニスに付き従っているのだから怖くて仕方ない。その態度が一変したことにデロンの周囲も困惑していた。
そのデロン自身も十二の歳を迎え、ユニスとアイリスと共に王都へ向かうことになっている。
(はぁ。めんどくさいなぁ)
やる気の起きない王都での生活。
しかし、一応行く気にはなっていた。
(まぁでも、何か掴めるかもしれないのはあるか)
期待がないわけではない。
魔法を使うということは、厳密には魔力を扱えたということ。二年前のことを何も覚えていないと周囲へは話していたのだが、たった一つだけ覚えていたことがある。
(あの時の魔力の流れ)
本当に魔法が使えたのかどうかは正直な感想としては怪しいところ。しかし確実にこれだけは言えた。
(あんなの、初めてだったから)
記憶にない経験。体内に流れる魔力が熱を持っているかのよう。
実体験として、体内を流れる魔力がこの身に実感として残っている。
「二人ともおはよう」
「お父様!」「おとうさん」
着替えを終え、マントを羽織ったところで姿を見せたのは二人の父であるヨハン・カトレア辺境伯。
「二人に会えなくなると思うと寂しいね」
「わたくしもですわ」
「うん」
ゆっくりと二人へ歩むヨハンはその胸の中に二人を抱き寄せた。
「でも、可愛い子には旅をさせよっていうみたいに、二人の自立を願っているよ。僕も、二人のお母さんもそうだったしね。それに、二人なら立派な大人になって帰って来るって信じてるから」
「ええ。お任せくださいませ。お父様の期待にしっかりと応えてみせますので」
「うん、やっぱりアイリスはエレナに似てもう十分に立派だね。その調子だよ」
「えへへ」
父に頭を撫でられ、顔を綻ばせているアイリス。
「ユニスもしっかりね。ユニスの思う通りにしたらいいからさ」
「うん。でもおとうさん、そんなこと言ってるけど、王都にもちょろちょろ顔を出してるんでしょ? だったらいつでも会えるじゃん」
「ははは。確かにユニスの言う通りだけど、でも必要以上には干渉しないつもりだよ。冒険者学校は、きみ達が自分で考え、答えを出し、それでいて尚もぶつかる壁や直面する問題を乗り越えることによる成長にこそ意味があるからね」
かつての自分達が正にそうだったのだと。そしてそれは父たちだけでなく、祖父たち先代の英雄達やもっと言えば一番近しい姉や兄もそうして成長したのだと。
「まぁそうはいっても、二人のことだから困ったからってすぐに助けを求めることもないと思うけどね」
スッと身体を離れる父の体温。いつも父に抱きしめられることはどこか安らぎをくれていた。向けられる笑顔が信頼の証。その父の顔を見ていると、不思議と先程まで抱いていた不安や倦怠感といったものがいつの間にかなくなっている。
「よしっ。じゃあアイリスちゃん、いこっか」
「あら? 急にやる気になりましたわね。さすがはお父様です」
「もうっ! そんなんじゃないってば!」
「ふふふ。素直ではありませんわねぇ。ではお父様。ごきげんよう」
「うん。二人とも、気を付けてね」
「ええ」「うん」
二人で頷き、自然と手を繋いだ。
エントランスでは母たちが見送りに出る中、二人手を繋いで玄関の扉を開ける。
「いってらっしゃい二人とも」
「二人なら大丈夫ですわ」
二人の母であるニーナとエレナが小さく声を掛ける中、外に出たところで振り返った。
「「いってきます!」」
大きく手を振りながら、顔を見合わせると笑顔で駆けだす。
「お待ちしておりましたユニスさま。アイリスさま」
「デロン、それ向こうで言ったら一生口きかないからね」
「そうですわ。学校では一学年時は身分を隠さないといけませんのよ」
「はっ。承知しております」
そのまま馬車に乗り込む中、デロンは御者の横に座る。
「では出発致します」
御者が手綱を強く握ると、馬車はガラガラと走り出す。
「――――……ま、なるようになるか」
馬車はラスペルの街を出て、街道を走りながら外の景色を眺めるユニス。
街を出た直後は若干の哀愁を抱いたのだが、なんとなく目を向けた車窓から見えるその景色に全てを呑み込まれた。
「あっ、ギガゴン」
流れる雲を見つめていると、空を飛ぶ一頭の翼竜。
「いってくるよ。またね」
幼い頃より心許して過ごして来た友に別れを告げ、そうしてこれから三年間を過ごすシグラム王都へと向かう。
――――その双眸に宿す魔力。
自身の血である、竜人族の血の真相を知ることになるその冒険者学校へと。
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