上 下
7 / 112
後悔

007 アルバイト(前編)

しおりを挟む

「ありがとうございましたー!」

店を出るお客さんに対してお辞儀をして見送る。最後の客が店を出て姿が見えなくなると途端にどっと疲労感が押し寄せて来た。

「だぁー、疲れたー!」
「お疲れ様」
「あっ、雪さん」
「はいこれ。コーヒーは飲めるかな?」
「えっ?はい、好きな方です。ありがとうございます」

20時の閉店時間、他のバイトの子は閉店作業に取り掛かっていたのだが、今日初めてアルバイトでありかつ短期の手伝いで来ている潤はここで上がりだった。
疲れた様子を見せている俺にコーヒーを差し出しながら声を掛けて来たのは今日一日近くで俺を指導していた凜のお姉さんの雪さんだ。

「それにしても呑み込みの良い子ね」
「そうですか?迷惑を掛けないように無我夢中でやっていたんですけど、あんなもんで良かったですか?」
「ええ、初日にしては及第点以上の働きぶりだったわ」
「なら良かったです。そういえば凛と真吾は?」

雪に今日の働きを評価されつつ凛と真吾の姿が見えないことについて尋ねると、凜と真吾は裏方で閉店作業に取り組んでいるとのことだった。真吾も人手が足りない時はこうして手伝っているそうなのだが、付き合って数か月で凜の家にそれだけ深く関わっているんだなと少しばかり感心していた。

潤は今日一日、注文を受けて商品の受け渡しや食器を下げて清掃をするなどといったそれほど食品には直接関与することのない業務を行っていたのだが、それでも客の数の多さで動き続けていた。

「それにしても凄いお客さんの数ですね」
「まぁケーキ屋からすればこの時期は仕方ないわね。忙しいことは有難いことだし」
「そうですね、おかげでほとんど売れ残りないですしね。あるのは日持ちするクッキーとかだけですし―――あっ!!」

客の多さについて話しながら商品が入っていたガラスケースの中に目をやると、売れ残りという売れ残りは見当たらなかった。見事なまでに完売してしまっていた。
無駄を出さないためにある程度終わりが見えた頃を見計らってケーキを出す量を抑えるらしいのだが、それでももっと作っても売れていたのではないのかと思う。だがそれを俺が口にしたところで店の方針があるのだろうし、素人の意見でしかない。

しかし、思っていた以上の忙しさの余り忘れていたことを今思い出した。

「どうしたの?急に大きな声を出して」
「いやぁ、杏奈に――、あっ、妹なんですが、ここにバイトに来ることを家を出る前に言ったら帰りにケーキを買って来て欲しいって言われたのすっかり忘れてまして…………」

頬をぽりぽりと掻きながらどうしようかと思うのだが、質問されたので何も言わないよりはと思ってとりあえず雪に杏奈の希望があったことを説明した。

「まぁ仕方ないですね、明日また来るんで取り置きできるように覚えておきます」
「ちょっと、妹さん楽しみに待ってるんでしょう?」
「まぁ……一応、はい。 ここのケーキが凄く美味しいって言って目を輝かせてましたね」
「嬉しい話だけど、それならきっと帰った時に何もないと知ったらがっかりするわよ!」

忘れていた自分が悪いのだから杏奈には今日は諦めてもらい、明日また買って帰ろうと思うのだが、雪は杏奈のことを思いやってか「ちょっと待ってて」と言って厨房の方に入って行った。

少しすると、パティシエを務めているこの店のオーナーでもある凜と雪の父親が雪と一緒に来た。
背は潤より少し高いぐらいで、髭面の強面のその顔からあんな繊細なケーキが生まれていると思えばそのギャップに戸惑いを覚えるのだが……。

「お父さんが良いって言ってくれたからその妹さん、杏奈ちゃんだっけ?のケーキ私が作るわ」
「えっ、雪さんがですか?」
「おう、坊主、今日は助かった、まぁ急に来てもらったお詫びとお礼も兼ねてな。俺はまだやることがあるから雪が作るが、俺には及ばないまでも良いもん作るのは俺が保証する」
「これでも小さい頃からお父さんを見て一杯練習したんだからね」

雪は父に材料を使用してもいいかどうかの許可をもらいに行っていたとのことで、杏奈の分というか、潤が持ち帰る用のケーキは雪さんが作ってくれるとのことだった。
その表情は営業中の真面目で少しばかり恐れを抱く表情とは一転して無邪気な笑顔でどこか子供っぽさが垣間見えたのは小さい頃から慣れ親しんだケーキを作る作業に取り掛かるからだろうかと思えた。

しばらく待っているように言われたので着替えて店の椅子に腰掛けていると、真吾と凜が来た。

「おお、なんかケーキ買い損ねたから今雪さんが作ってるんだってな」
「潤、ごめんね急に手伝ってもらってー。助かったわ」
「ああ、もう色々お礼を言われたからもういいって。それにバイト代だけじゃなくケーキまで作ってもらってるんだからもう気にすんな」
「そう?じゃあいいけど」

真吾と凜と一緒になって雪がケーキを作り終えるのを待つのだが、その間に話したことは店のことがほとんどだった。心の中では凜に浜崎花音のその後の話が聞けたらと思うのだが上手く言葉に出来ずに、あわよくば凜から言ってくれないかと期待をしたのだが、凜は潤の心情を知らないのでそんな言葉が出る筈がなかった。

そうして十数分待つと、雪がケーキの入っている箱を持って来た。

「ごめんね、お待たせ」
「いえ、こちらこそ無理を言ってすいません、ありがとうございます」
「いいのよ、久しぶりに他人に作ったから楽しかったしね。杏奈ちゃんと合わせてまた感想を聞かせて」
「はい、わかりました」
「あっ、もちろんお世辞なんていらないわよ?忌憚のない意見を聞かせてくれた方が私は嬉しいんだからね」
「そうですか、わかりました」

雪からケーキを受け取りながらお礼を言うと、雪はまだ本格的にパティシエとして他人に提供をしているわけではないので、こうして作る機会がそれほど多くはないのだと言った。そしてそのケーキの感想を素直に教えて欲しいと少しばかり意地悪く笑いながら言うのだが、その顔がひどく可愛らしく見えた。

「(大人の女性の余裕なんかな?)」


そんなことを思いながら帰路に着く。明日もまたバイトに行くことになっているので真吾と凜とは店でそのまま別れて、雪からもらったケーキは自転車の籠に入れてあるので崩れないように急ぎ過ぎず帰宅した。

家に帰ると玄関まで杏奈が迎えに来て、待ちきれない様子を見せていた。

「あのさ、先に謝らないといけないことがあるんだ」
「えっ、何?もしかしてケーキ買えなかった?けど、手に持ってるのはケーキの箱じゃないの?」
「いや、ケーキは持って帰って来れたんだが、中身の方がな……」
「?」

杏奈に事情を説明しようとするのだが、話をする前の杏奈は首を傾げて不思議そうにしている。ケーキがあるのに中身がどうしたのだろうかと思うのだが、店の正式なケーキを持ち帰るという要望に応えられなかった申し訳なさが少しだけあったのだが、そんな申し訳なさは数分後にはすぐに払拭された。

ケーキを頬張りながら舌鼓を打つ杏奈の笑顔を見たので、翌日雪さんに話す感想はすぐに決まったのだった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】愛くるしい彼女。

たまこ
恋愛
侯爵令嬢のキャロラインは、所謂悪役令嬢のような容姿と性格で、人から敬遠されてばかり。唯一心を許していた幼馴染のロビンとの婚約話が持ち上がり、大喜びしたのも束の間「この話は無かったことに。」とバッサリ断られてしまう。失意の中、第二王子にアプローチを受けるが、何故かいつもロビンが現れて•••。 2023.3.15 HOTランキング35位/24hランキング63位 ありがとうございました!

【完結】可愛くない、私ですので。

たまこ
恋愛
 華やかな装いを苦手としているアニエスは、周りから陰口を叩かれようと着飾ることはしなかった。地味なアニエスを疎ましく思っている様子の婚約者リシャールの隣には、アニエスではない別の女性が立つようになっていて……。

好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。

石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。 すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。 なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。

アクセサリー

真麻一花
恋愛
キスは挨拶、セックスは遊び……。 そんな男の行動一つに、泣いて浮かれて、バカみたい。 実咲は付き合っている彼の浮気を見てしまった。 もう別れるしかない、そう覚悟を決めるが、雅貴を好きな気持ちが実咲の決心を揺るがせる。 こんな男に振り回されたくない。 別れを切り出した実咲に、雅貴の返した反応は、意外な物だった。 小説家になろうにも投稿してあります。

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

私と彼の恋愛攻防戦

真麻一花
恋愛
大好きな彼に告白し続けて一ヶ月。 「好きです」「だが断る」相変わらず彼は素っ気ない。 でもめげない。嫌われてはいないと思っていたから。 だから鬱陶しいと邪険にされても気にせずアタックし続けた。 彼がほんとに私の事が嫌いだったと知るまでは……。嫌われていないなんて言うのは私の思い込みでしかなかった。

裏切られた令嬢は死を選んだ。そして……

希猫 ゆうみ
恋愛
スチュアート伯爵家の令嬢レーラは裏切られた。 幼馴染に婚約者を奪われたのだ。 レーラの17才の誕生日に、二人はキスをして、そして言った。 「一度きりの人生だから、本当に愛せる人と結婚するよ」 「ごめんねレーラ。ロバートを愛してるの」 誕生日に婚約破棄されたレーラは絶望し、生きる事を諦めてしまう。 けれど死にきれず、再び目覚めた時、新しい人生が幕を開けた。 レーラに許しを請い、縋る裏切り者たち。 心を鎖し生きて行かざるを得ないレーラの前に、一人の求婚者が現れる。 強く気高く冷酷に。 裏切り者たちが落ちぶれていく様を眺めながら、レーラは愛と幸せを手に入れていく。 ☆完結しました。ありがとうございました!☆ (ホットランキング8位ありがとうございます!(9/10、19:30現在)) (ホットランキング1位~9位~2位ありがとうございます!(9/6~9)) (ホットランキング1位!?ありがとうございます!!(9/5、13:20現在)) (ホットランキング9位ありがとうございます!(9/4、18:30現在))

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

処理中です...