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禊の対価

第 三百四 話 最後の願い

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「おい。ルーシュ様の容体はどうだ?」

シンがローズに声を掛けると、ローズは僅かに小さく首を振る。それを受けたシンは舌打ちしながら天を仰いだ。

「ルーシュ! ルーシュっ! お願いっ! 目を覚ましてっ!」

必死の懇願。悲壮感漂う声で何度となくルーシュに声を掛けるカレンなのだが、とてつもない無力感にさいなまれている。とても間に合っていない。
実際的には傷は塞がっているのだが意識のないその自発的な呼吸はもうか細く浅くなっており、それが示すのは間もなくルーシュの命の火が尽きるのだと。
今この場に於いてローズ以上の治癒魔法の使い手はいない。ヨハンもローズの治癒魔法の光を見てすぐに理解していた。明らかに抜きんでた魔法の使い手なのだと。

「……カレンさん」

声を掛けたくてもかけられない。何かしてあげたくとも何もしてあげられない。もう枯渇寸前の魔力では回復にも加われない。この場においてもう何もできない自身の力不足、歯痒さだけが込み上げてくる。

「ねぇヨハン?」

ぴとっと肩に乗るセレティアナ。

「約束、覚えてるよね?」
「約束?」
「カレンちゃんをよろしくって言ったことだよ」
「それはもちろん覚えてるけど…………」

何度か交わしたそのやりとり。しかしそれが今ここで何の関係があるのだろうか。問い掛けられた意図がわからない。

「もう時間がないや。じゃあ約束通りカレンちゃんのことよろしくね」

いつもよりもほんの少し重く発されたセレティアナの言葉。

「え? ティア?」

セレティアナはヨハンの疑問に応えることなくすぐさまふわっと浮かび上がると微かな笑みを向けるだけでカレンの下にまっすぐ飛んでいった。

「ティア」

小さな呟き。数瞬遅れてその笑みの理由をなんとなくだが理解する。

「カレンちゃん」
「ティア……どうしよう。ルーシュが目を覚まさないの」

涙で視界がぼやけてしまっているカレンに対してセレティアナはにっこりと微笑んだ。

「……てぃあ」

真っ赤に充血した眼。擦れた声。涙でくしゃくしゃになった顔。

「わかってるよ」

今ここで契約主カレンの願いを叶えてあげることが出来る存在はセレティアナボクしかいない。

「カレンちゃん。お別れだよ」

セレティアナの言葉を聞いたカレンはほんの、ほんの一瞬だけ呆けた顔をしてすぐにその言葉の意味を察する。

「…………ティア」
「わかってるよね。元々ヨハンを助けたことで契約は解除されていたんだ。そう長くない時をもってカレンちゃんとは別れなければならなかったんだから」
「……わかってる。わかっていたわよそんなこと」
「ならせめて最後にその子、カレンちゃんが愛したその子を助ける役目をボクに与えてくれないかな? それが出来たらどれだけ誇らしいことか」

笑顔の問いかけ。カレンは微かに迷った。
もっと心の整理を付けてから別れを迎えるつもりだったのに、それでも決心する。セレティアナの心がわからないわけではない。一瞬だけ見せた迷いをすぐに振り切り、涙を袖で拭うとセレティアナと同じようにした笑顔を向けた。

「わかったわ。お願いティア」
「うん」
「ほんとは落ち着いたらちゃんと話をしたかったのだけど」

笑顔の中に含まれるカレンの気持ち。思い。想い。これまで培った絆には相応の時間を設けたかった。それでもここでは笑顔が手向けになる。

「大丈夫だよ。カレンちゃんが考えてることはわかっているからさ」
「それはそれで考え物よね」
「あはは。ボクはそれで十分に楽しませてもらったからね」
「まったくもう。あなたって子は」

呆れながら溜め息を吐くカレンに対して、隣にいるローズは疑問でしかない。

「(カレン様? こんな時に何を?)」

先程までと全く違う感情を見せている、泣きじゃくっていた弱い女性だった皇女カレンはどこにもいない。大切な人の、ルーシュの、弟の命を救う為に必死に、懸命に治癒魔法を施していた末に及ばない自身の力不足を呪っていたカレンの姿はそこにはなかった。それどころかここに至ってはルーシュが確実に助かるのだという確信を持っているようにすら見える。

「ほらっ。早くしないと時間がないよ」
「ええ」

カレンはすくっと立ち上がり、追いかけるようにローズは目を向けた。そのままゆっくりと目を閉じるとセレティアナはカレンの前にふわっと浮かび上がる。

「カレン様?」

目の前にいる女性の凛とした佇まいにローズは思わず目を奪われた。自分との戦闘によってところどころ破れているローブですらもどこかカレンを引き立てているようにすら見える。得も言われぬ感覚に襲われた。
それでも片隅に残る疑問。突然冷静になったカレンの行動に驚きと困惑を抱き、何をしようとしているのか皆目見当もつかないそんな中、カレンの口はゆっくりと、はっきりとソレを口にする。

「【わたしの名はカレン。彼の者、セレティアナと契約せし者なり。此度、交わされた契約と盟約に従い我の願いを叶えんと万物の王に願いたてまつらん】」

カレンが詠唱ソレを口にするのと同時にセレティアナの身体が赤や青に黄といったいくつもの光に包まれ始めた。

超級の魔法の中には詠唱を必要とするものはあるにはあるのだがこれは精霊術。精霊術に詠唱が必要になる程の魔法など四大精霊かそれに匹敵、又は近しい精霊だけに限られる。
つまりセレティアナはそれだけの存在、格のある精霊なのだということは即座に理解したのだが、それよりも不思議な現象が起きていた。

「どういうこと?」

今はもう可視化されていない自身の周囲に存在する微精霊たちが再び可視化される程に反応している。加えて、戦闘の時の怯えに似たような感覚とは真逆の歓喜や喝采かっさいにも似た反応が感じられた。

「【火よ、水よ、風よ、土よ、自然界に存在するあらゆる生物を司る生命いのちの源。王よ。陽の光を宿りし夜の月の王よ。混沌を誘う破壊の王よ。永久とわ輪廻りんねの狭間に生まれし英霊達よ】」

初めて口にするその詠唱。文言は誰に教えられたものでもない。だが、まるで神託かのようにそれはカレンの頭の中に降り注いでいた。
そのままカレンはゆっくりと目を開けながら両の腕をセレティアナに向けて伸ばす。慈しむような愛おしいような眼差しを向け、そっと手の平の上に乗せると夜空に目掛けて掲げた。

「【今ここにその御霊みたまあらわしたまえッ!】」

カレンが詠唱を終えた直後、光に包まれていたセレティアナから放たれるのは激しい太く大きな光の柱。
天まで届きそうな勢いで伸びる程に立ち上った光の柱は上空の雲を吹き飛ばし、満点の星空が浮かんだかと思えばすぐさま翡翠ひすい色の空に変わる。

「お兄ちゃん、アレ……」
「うん。もしかしてあれがティアなのか?」

ヨハンの横にくるニーナと二人でその翡翠の空を見上げるのだが、二人だけではない。その場にいる全員。ラウルやペガサス、遠くにいる帝国兵の全員が空を見上げていた。
それだけに留まらず、更に離れた場所であるドミトールの住人達ですらも空を見ており、中にはまるで世界の終わりを連想する者もいるのは、空に浮かび上がるその存在がまるで信じられないといったような眼差しをもって見ている。

翡翠の空に浮かび上がるその姿。そこには白く輝くドレスを纏った神々しくも巨大、人間の優に数十倍もある大きさを見せる存在が顕現けんげんしていた。

「はじめまして。それがあなたの本当の姿なのねティア」
「そうだよカレンちゃん……いいえ。カレン・エルネライ」

二人変わらず笑顔なのだが、その言葉にはこれまでのような馴れ馴れしさ、言葉遣いは鳴りを潜めている。

「まさか……精霊王!?」

その中で一人驚愕して口を開けるのはローズ。ただ一人その場でセレティアナの存在を理解した。

「なんだよその精霊王ってのは」
「言葉のままよ。精霊たちの王のことに決まってるじゃない」

ローズはシンの疑問に呆れるように応える。

「(ティアが精霊王?)」

不意にヨハンの耳にも飛び込んできたその言葉。知識でしか知らないのだが造詣があれば誰もが精霊王ソレを知っていた。
精霊王はその存在自体が神話級の扱いをされている。精霊とは元来自然の魔素や魔力を司る存在であり、精霊王はその精霊達の頂点に位置する万物の王。書物における御伽噺にも何度となく登場するその崇高なる存在、精霊王がセレティアナそのものであるのだと。

「(カレンさんは知っていた?)」

先程の詠唱にしてもそうなのだが、セレティアナと契約しているカレンが精霊王ソレを知っていてもなんら不思議はない。だがまるで信じられないでいるのは、精霊王などいう存在自体が四大精霊すらも遥かに凌駕する存在。

「不思議そうだねヨハン」

セレティアナの優しい眼差しがスッとヨハンに向けられた。

「え? あ、うん……」
「説明するには多くを語らないといけないからね。でもまずはその前に――」

セレティアナが眼下に向けて手を伸ばす。向けられた先は横たわるルーシュへ。
ポウッとセレティアナの手の平に光の粒子が集束すると、すぐさま一粒の光を落とした。

ルーシュの身体の上に落ちた粒子はスッと染み渡る様にルーシュの身体に溶け込んでいく。

「目を覚ますまで少し時間はかかるでしょうけどこれでひとまずは安心です」
「ありがとうティア」
「どういたしましてカレンちゃん」

他人行儀の中であってもその中に含まれるいつも通りの親しみ。妙な感覚。確かに目の前の神々しき存在がヨハンとニーナも知るセレティアナなのだと認識しなければいけないのだがまるで理解が追い付かない。

「本当にこれでお別れなのよね」

見上げながら答えの分かっている問いかけ。その眼には微かな悲しさや寂しさを伴っている。

「ええ」
「寂しくなるわね」
「そんなことないよ。もうあなたは独りなんかじゃないのだから」
「…………――」

見上げていた視線を落として周囲に向け、その場に誰がいるのかをしっかりと確認したカレンは再びセレティアナを見上げた。

「――……そうね」

柔らかな笑みを向ける。

「あの、えっと……」

状況の理解が呑み込めずにいるヨハンはそもそもセレティアナをどう呼んだらいいのかすらわからない。

「ふふふ。困惑しているね。いつも通りでいいよヨハン」

途端に普段通りの口調に戻ったセレティアナ。翡翠色の空はスーッと次第にその色を薄めていき、徐々に夜空の星の輝きを取り戻していく。同時に巨大なセレティアナはその姿を小さくさせ、人間と同程度の大きさまで縮めていった。背はニーナとそれほど変わらない程。見た目には少女にしか見えない。

「あの……じゃあ、ティア?」
「なにかな?」

困惑しながらも問いかけるのだが、セレティアナはニコッと笑みを浮かべる。

「あー……、えっと、どういうこと?」

漠然とした問い。

「ヨハンが龍脈の力を取り戻してくれたからこの姿に戻ることが出来たのよ?」
「えっと、それって?」
「わたしとティアが龍脈を探していたって言ったでしょ?」

サリーの農園の屋敷の地下を訪れた時のそのやりとり。確かにそんなことを言っていたのだが、そこからここに至るまでの激しく目まぐるしい戦いの連続ですっかりと頭から抜け落ちてしまっていた。

「そういえばそんなこと言っていたっけ。でもそれがなんで?」
「元々この地に流れる龍脈は精霊の力の源なのさ。それが長い時を経て徐々にその力が失われていき、ボクは力を出せなくなっていたのだよ」
「そう、なんだ」

龍脈の力が失われていったことで本来の力を発揮できなかった中で偶然にも出会ったらしいカレンとセレティアナ。その経緯は詳細には語られはしなかったのだが、シトラスを倒したことで正常な龍脈の力を取り戻すことに成功したのだと。

「その力でルーシュ様を助けたんだ。でも別れるって?」
「そうだね。最後だから正直に言うよ。カレンちゃんがキミをボクに護らせたことで契約は不履行。そう遠くない未来に別れの時が来ていたのさ」
「えっ!?」

その言葉を聞いて衝撃を受ける。
それならば自身の力不足が招いた結果。危うく死にかけた結果カレンとセレティアナの別れが訪れているのだと。

「僕……」
「でもそれも本当は半分。お互いの契約は半分ずつ履行、成し遂げているからボクはまだここに存在できているのだよ」

セレティアナの言っていることがまるで理解できない。

「わたしとティアはいくつか契約を交わしているの。その中の一つが龍脈の力を取り戻す事。だから結果がどうであれいつかは別れが来ていたのよ」
「そう。だからヨハンが責任を感じる必要はないよ」
「でも、僕を守ったせいで」
「確かにティアの役目はわたしを護る事。わたし以外を護ることを許されないということもあったけど、でも別に後悔はないわよ? 契約は他にもいくつかあるのだから…………」

最初は饒舌じょうぜつに説明していたカレンが徐々に口籠り始めた。

「そ。他にはカレンちゃんがす――」
「な、仲間を見つけることよッ!」

セレティアナが口にするのを遮るようにして、慌てて力強く答える。

「なるほど。そういうことか」
「兄さん」
「ラウルさん」

それまでの遠巻きに話を聞いていたラウルもおおよそを理解した。

「すまかった。正直助かった」
「いやいや。こっちもいっぱい楽しませてもらったからおあいこだよ。久しぶりの人間界をこれだけ長く過ごせたのだし、目的も達成したし」
「そうか。なら良かった。短い付き合いになったな」
「ほんとだね。じゃあカレンちゃん。もう時間がないからボクはいくね」
「ええ。本当に今までありがとうティア」

軽く口にする感謝の言葉の中には多くの感情が含まれている。
これまで独りだったカレンに寄り添うようにして契約をしたセレティアナ。それが多くの助けになっていたのは事実間違いない。最後には最愛の弟、ルーシュの命まで救ってくれているのだからこれ以上望んでしまうと罰が当たる、と。

セレティアナの身体を溶かすように粒子が散り始めていた。その散り方にヨハンとニーナ、それにカレンは覚えがある。
サリーが消えていく時とまるで同じような光景。しかし、サリーとセレティアナで決定的な違いがあった。サリーは確かに命を消していき、それもサリーの望みの一つ。セレティアナはサリーとはまた別の存在。命の概念がそもそも存在しない精霊。

「また会えたらいいわね」

今生の別れではないのかもしれない。

「そうだね。きっといつかまた会えるよ」
「ほんと?」
「うん。かもしれないねって程度だけど」
「なにそれ」

クスっと笑いを漏れ出すカレン。

「じゃあヨハン。くれぐれも約束を忘れないように。あなたあの時アレを契約だって言ったのだからね」
「大丈夫。わかってるって」

セレティアナと初めて会った時に交わした約束。カレンには秘密の契約。正式な契約ではないのだが、それが消えゆくセレティアナがどういう意味を持って【契約】と今口にしたのかなどということは十分に理解している。精霊の契約という言葉には特別な意味が込められているということぐらいは。

「僕とカレンさんはこれからもずっと仲間だよ」

先程のカレンとセレティアナの契約内容に沿った言葉。短い付き合いとはいえ、これからもずっとカレンとは仲間でいるつもりであることは間違いない。

「ずっと、ずっと仲間だよ」
「……ヨハン」

シグラム王国とカサンド帝国と互いに住む国は違えども、遠く離れることになったとしてもそれは変わらない。

「あたしもだよ!」
「あははっ。そうだねニーナ。じゃあよろしく頼むね。邪魔を、ね」
「へ?」
「ちょ、ちょっとあなたは最後の最後に何を言ってるのよ!」
「あははははは――――」

そのままセレティアナは笑い声を上げながらスーッと姿を消していった。

「カレンさん」
「……ええ」

カレンがゆっくりとセレティアナが居た場所に歩いていくと屈んで地面に手を伸ばす。

「これは……」

そっと手に持つのは翡翠色の石。魔石とはまた違うのは、手に持つ感触でなんとなく理解できた。

「カレン様。それはどうやら先程の精霊王の力の一端のようです」
「ローズさん?」
「にわかには信じられませんが、私にはなんとなくわかります。微精霊もそう告げていますので」
「そっか」

もう繋がらないのだと思っていたのだが、それでもまた会えると言ったセレティアナの言葉を信じてカレンはその翡翠の石をグッと手の中に握って胸に押し当てる。

「ありがとうティア。またいつか、ね」

俯きながら呟いたその瞬間にポツリと一滴の雫、涙を零した。

「カレンさん」

空を見上げたカレンは鼻をすするとヨハン達に向けて笑顔で振り返る。

「さーって。じゃあ後片付けしましょうか。ニーナ。ご飯はまだ待ちなさいよ」
「えー!? もうあたしお腹ペコペコだよぉ」
「大丈夫。終わったらたらふく食べさせてあげるから」
「えっ? やたっ!」
「その代わり、しっかりと働きなさいよ」
「りょーかい!」

まだまだやらなければいけないことが山積みなのだとばかりに張り切って声を発した。

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