秘書見習いの溺愛事情

冬野まゆ

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1巻

1-3

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   ◇ ◇ ◇


「世間知らずにも程があります」

 向日葵が帰った後、樰賢のコーヒーをれていた秀清は、やや憤慨ふんがいした様子で声をあげた。

「彼女がか?」
「ええ。面接時のマナーもなっていないばかりか、若の苗字を聞いて『苗字がこの会社の名前と似ていて』ですよ。江戸時代は大名家だいみょうけ維新いしん後は華族かぞくとして日本を代表する大財閥を築いた庄野院家の次期当主である若に対してあの言いぐさ! 似ているのではなく、ショウノ・ホールディングスは、若の会社なんです。二十八歳の若さで専務という役職を務めていることからも、容易に想像できるはずです」

 一部向日葵の口調を真似て主張する秀清を、樰賢は手でさえぎりながら訂正した。

「その言い方は正しくない。将来的に社長になる予定ではあるが、会社は個人の物ではない」
「八〇パーセント以上の株をお父上と若が有している段階で、若の会社と言っても過言ではありません」
「では父の会社と言うべきだろう。現在の筆頭株主は父だ」

 だが、親子で有している八〇パーセント以上の自社株の内、半分近くを樰賢が所有しているのも事実。

「庄野院家の跡取りは若お一人。将来的には若のものです。旧華族である名家の家長として、その威厳を保つ心構えでいてください」

 この手の話になるとやたらムキになる秀清と話をするのは骨が折れる。樰賢は肩をすくめつつ、別の質問を投げかけた。

「その他に彼女をどう思った?」
「ハムスターみたいですね。小柄で癖のある栗色の髪、どんぐりまなこって言うんでしたっけ? 黒目がちな大きく丸い目………なんだかハムスターを思い出しますよね」

 履歴書に張られた写真に目をやり、秀清が答えた。

「ハムスター? 似ているかな?」

 自分には、無条件に守ってあげたくなる、愛護すべき対象に思えるのだが。そう思いつつ樰賢は、傍らにコーヒーを置く秀清を見上げた。

「似ていますよ。〈ハムスターがハムスターを欲しがる〉というのも、妙な話ですが」
「……」

 クスリと笑う秀清から視線を履歴書に移した樰賢は、先ほど向日葵に「初めまして」と挨拶した時のことを思い出していた。
 本当なら「覚えていますか?」と聞きたかった。だけどどこまでさかのぼってそう問いかけたいのかわからなくて、咄嗟とっさにそんな挨拶をしてしまった。
 そして「初めまして」と当然のように返した向日葵に、静かに落胆したのだった。
 ――あの時、彼女は六歳かそこら。
 ――しかもあんなひどい事件の直後。
 自分と出会ったことや、交わした約束のことなど、覚えていなくてもしょうがない。
 その後、向日葵が高校生の時に偶然にも再会しているのだが、さっきのやり取りから察するに、その記憶も残っていないらしい。なかなか衝撃的な出来事だったから、そのこと自体は覚えているのかもしれないが、その相手が自分だということには思い至らないようだ。
 ――若い彼女から見れば私など、取り立てて特徴のないサラリーマンに見えるのだろう。
 頭ではそう理解しているのに、感情の部分でどうしても落胆してしまう。

「若、どうされました?」

 樰賢は、秀清の声に顔を上げた。

「いや、なんでもない。それより彼女の内面について、お前の評価は?」
「バカですね」

 さらりと答えた秀清は、ムッとする樰賢にからかうような視線を向けながら言い直した。

「失礼。……バカ正直なくらい、純粋な子と言っておきましょうか」
「なるほど。それがお前の見解か」

 代々庄野院家の家令かれいとして忠義を尽くしてきた高梨家。その長男である秀清は、父親が樰賢の父・樰治ゆきはるの秘書だったこともあり、幼いころから共に育った。そして自分も先祖にならい、庄野院家の跡取りである樰賢に仕えることに強い誇りを持っている。その忠誠心を疑ったことはないが、彼自身にはどこか人を喰ったようなきらいがあり、油断するとすぐに揚げ足を取られてしまう。
 だから、高校生になった向日葵に偶然再会した日、事故とはいえ彼女の唇が自分の唇に触れたことも、その時に自分の胸に淡い思いが溢れたことも、秀清には話すまいと決めている。
 秀清はきっと、樰賢が同情心から向日葵を気にかけているに過ぎないと思っているのだろう。
 ――確かに最初はそうだった。
 十数年前の〈あの日〉以来、涙でまぶたらした向日葵や、あの小さな手の感触がずっと忘れられなかった。だから定期的に人をって、彼女の成長を確認させていたのだ。
 幸せでいるのなら、それでいい。でももしなにかあったら、必要な手助けはしてあげたい。
 そんな思いで遠くから見守っていた向日葵と、四年前、偶然にも本屋で再会した。
 声をかけようかと悩んでいる時に突然地震が起き、咄嗟とっさに向日葵を守った。その拍子に抱きしめた彼女がもう小さな女の子ではなくなっていることに驚き、同時に何故か胸が高揚するのを感じたのだ。しかも偶発的とはいえ、あんなこともあったし。
 ――あれはキスにカウントしていいのだろうか?
 ――しかも動揺のあまり、告白めいたことも口にしてしまったのだが……
 向日葵がそれを覚えていないのだから、どうしようもない。

「若、どうかされました? 心なしか顔が赤いですよ」
「気のせいだ」
「それにしても、若も無茶をされますね」

 ポーカーフェイスを装ってカップに口をつける樰賢を見て、秀清がため息をく。

「なにがだ?」
「確かに私は、彼女が急に就職活動を始めた理由を若がお知りになりたいだろうと思い、先日の説明会で彼女に声をかけ、面接をセッティングしました。……ですが、そのために若が出張を早々に切り上げて帰国するとは思ってもいませんでした」

 その出張の際も、向日葵からの急な連絡があるといけないからと、秀清を電話番として残していったのだ。

「商談はとどこおりなく済ませてきた。無駄な接待や、会食を断ってきただけだ。会社には、なんの損害も与えていないはずだが?」

 文句は言わせない、と樰賢は視線で牽制けんせいする。

「もちろん。我が社には、なんの支障もありません。ただ、先方が気の毒で」

 商談といっても、優位に立っているのはショウノ・ホールディングス。少しでも心証を良くするため、先方は万全のもてなしをしようと構えていたはずだ。なのに到着するなり有無を言わさぬ勢いで商談をし進め、それがまとまった途端に帰国した樰賢をどう思っただろうか。きっと今頃、自分たちのなにが気にさわったのかと、重役クラスが頭を寄せ集めて検証していることだろう。

「……先方にも、悪い条件にはしていないつもりだが?」
「なおさら気の毒です」

 怒っているらしき相手に推し進められた、悪くない条件での契約。代わりにこれからどんな無理難題を押し付けられるのだろうかと邪推しているに違いない。
 意味が分からないと眉を寄せる樰賢に、秀清が「それで、彼女のことをどうしますか?」と問いかけた。

「どうするとは?」
「我が社の新卒採用は締め切っておりますし、内定式も終わっています。それに彼女の学歴では、はなから我が社の採用基準を満たしていません。……ただ若が、彼女の就職を支援したいとお考えでしたら、彼女の希望条件に見合う子会社か系列会社にでも受け入れるように手配しますが?」
「そうか……」

 視線を落としながら、樰賢は拳を作ってあごを押さえた。
 ――夏目向日葵。彼女に会うのは、今日で三回目……
 十数年という年月の間、それだけしか会っていなかった彼女が、気になってしょうがない。
 昔は、彼女が幸せに暮らしていることだけを純粋に願っていた。そんな思いに、妙な感情が混ざるようになったのは、高校生の彼女と偶然の再会を果たしてからだ。
 以来、再び彼女に会いたいと、ずっと願っていた。さっきの面接でも、自分の暮らす街のことを楽しげに話す彼女から目が離せなくなっていた。そしてそんな姿を見ているだけで、過密スケジュールで疲れていた心身がいやされていくのも感じていた。束の間の癒しを味わった心は、貪欲にさらなる癒しを求めてしまう。
 ――まるで、歯止めのきかない媚薬びやくのようだ。
 苦笑いを浮かべ、顔を上げた樰賢は、黙って自分の答えを待っていた秀清に問いかけた。

「もし私が、彼女を本社採用にしたいと言ったらどうなる?」

 それを聞いた秀清は、「ほうっ」と内心感嘆の息を漏らした。
 物欲が薄く、職権乱用を嫌う樰賢が、公私混同ともいえる発言をするのは意外だった。十数年もの間、あるじが夏目向日葵という存在に固執していること自体理解できずにいる秀清には、当然この発言の理由もわからない。だがいつも仕事最優先で、個人的な要望などないに等しい樰賢がそんな発言をするのであれば、その思いを尊重すべきと考える。

「ショウノ・ホールディングスは若の会社です。若が望むのであれば、採用基準を曲げて新卒採用者を一人や二人増やすことなど、造作もないことです」

 秀清は、驚きを抑えながら答えた。

「会社は……」

 自分のものではない。そう言いかけた樰賢は、深く息を吐き視線を落とすと、再び拳であごを押さえた。
 ――こんなことを言い出すなんて、自分はどうかしている。
 冷静な部分ではそう思うのだが、夏目向日葵に関することとなると、いつもの自分ではいられなくなってしまう。
 長い沈黙の末、樰賢は観念したようにまた息を吐く。

「では、彼女を本社採用、かつ私の秘書にするよう手配してもらおう」
「若の……秘書ですか?」
「もちろん私の第一秘書は生涯、秀清だけと決めている。よって彼女は第二秘書、もしくは秀清の補佐という扱いでいい」
「ですが……」
「無理か?」

 なにか言いかけた秀清だったが、次の瞬間その言葉を呑み込むように深々と頭を下げた。

「若が望むのであれば、そのように手配させていただきます」
「ではそれを望もう。それと出来るだけ早く、彼女を手元に置きたいと思う。……さて、この話はこれまでだ」

 ため息とともにつぶやいた樰賢は、秀清に向日葵の履歴書を渡す。
 そうして残りのコーヒーを飲み干し、仕事の書類に目を通し始めた。



   3 ハムスター王子の訪問


 ショウノ・ホールディングスを訪問した次の日、大学帰りの向日葵は、一軒の古い日本家屋の前で足を止めた。
 ――花田さん、もう引っ越しちゃったんだよね。
 京子から、花田家の引っ越しは先週末に済んだと聞いている。だが――

「車?」

 今は空き家になっているはずの花田家の前に、一台の高級車が停まっている。

「もしかして、噂の地上げ屋さんの車かな?」

 花田夫妻が引っ越した後でお店のお客さんから、夫妻が地上げ屋からひどい嫌がらせを受けていたという噂を聞いた。確かに隅田川流域の都市開発が盛んになってから、強引な地上げ屋の噂はたびたび耳にしている。だがそれはどこか別の街の話で、自分が暮らすこの街には関係のない話だと思っていたのに。
 向日葵は、背伸びをして垣根越しに中を覗いてみた。
 鉢植えや洗濯物が消えた庭は、それだけでどこか色褪いろあせて見える。そんな庭で、スーツ姿の男性が三人話しているのが見えた。
 その内二人は中年で、自分たちより若い男に身ぶり手ぶりしながらなにかを説明している。細い目の左下に泣きボクロがある若い男は、二人の説明に頷き、薄い唇の端を吊り上げて意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
 ――なんかトカゲみたいな顔してる。
 ――あの若い人が、地上げ屋さんのボスなのかな?
 好感の持てない笑顔に眉を寄せていると、泣きボクロの男が不意に向日葵の方に顔を向けた。
 ――うっ、目が合っちゃった……
 頭をひっこめ損ねた向日葵がどうすればいいのだろうかと固まっていると、男がわずらわしそうに息を吐く。そして侮蔑ぶべつするような視線をこちらに向け、邪魔な虫を追い払うように手をひらひらさせた。
 その眼差しから推測するに、自分の価値観だけで人の優劣を決めて、一旦劣っていると判断した相手は平気で見下すタイプなのだろう。

「……っ、なんだか、感じ悪い……」

 向日葵は誰にも聞こえないような小声でうなると、頭を引っ込めてその場を離れた。


「確かに、勝手に家を覗いていた私が悪いんだけど……」

 さっきの男の態度を思い出し、向日葵は唇をとがらせる。
 花田夫妻が手放した家をあの男たちが購入したのであれば、勝手に覗き見していた向日葵の方が悪い。あの家だって、彼らがどう扱おうと文句は言えない。
 花田夫妻が長年暮らしてきた家だから、出来れば大切に扱ってほしいけれど、さっきの男の態度を思い出すと、その願いは叶えられない気がする。
 花田家を後にした向日葵は、自宅の看板が見えてきたところで、後ろから追い越していく車の姿に足を止めた。
 お店の前の道は、軽自動車二台がどうにかすれ違えるくらいの幅しかない。そんな道に不釣り合いな高級車が侵入してきて、夏目煎餅の前で停まったのだ。
 あの入り口を塞ぐような停まり方からして、向日葵の家に用があるのは明らかだ。
 ――うちにも地上げ屋?
 車に詳しくない向日葵だけど、花田家の前に停まっていた車と車種が違うことは辛うじてわかる。とはいえ、見慣れない高級車に警戒心が働く。
 慎重に店に近づくと、運転席のドアが開き、ドライバーが降りてくる気配がした。
 地上げ屋の中には、土地を手放した方が楽と思うほどの嫌がらせを仕掛けてくる者もいるという。向日葵は、かばんの肩紐を握りしめて身構えた。

「……高梨さん」

 向日葵は、車から降りてきた人の姿を確認して、表情を緩めた。そんな向日葵に秀清は軽く目礼もくれいだけして、後部座席のドアを開ける。
 秀清がうやうやしく頭を下げると、開かれたドアからもう一人の人物が姿を見せた。
 ――ハムスター王子……じゃなくて、庄野院さん。

「どうしたんですか?」

 思わず駆け寄る向日葵に、樰賢は軽くスーツを直しながら、はにかんだ笑みを浮かべた。

「やあ。君に話があって」
「なんですか?」

 彼の言葉を聞き逃さないよう真っ直ぐ見上げると、樰賢は何故か向日葵から視線を逸らして秀清を見た。すると秀清が口を開く。

「実はですね……」

 その時、秀清の言葉をさえぎるように木製の引き戸の開く音がして、お店の暖簾のれんが勢いよくまくれた。

「なんだ、なんだ? ……おう、ヒマっ! おかえり」

 祖父の勘吉が、店先に停まる高級車に興味を持って顔を出した。生粋きっすいの江戸っ子で、良く言えば職人気質かたぎ、悪く言えば頑固者かつ短気な勘吉は、無遠慮な視線を車、秀清、樰賢へと順に巡らせ、最後に向日葵を見た。

「ただいま、おじいちゃん。この人たちは私のお客さん。私に話があるんだって」
「お前に?」

 露骨なまでに怪訝けげんそうな眼差しを向けられても、樰賢は気にする様子もなく、穏やかな表情で胸元のポケットから名刺入れを取り出し、その一枚を勘吉に差し出した。

「挨拶が遅くなって申し訳ありません。私……」
「へえぇ。ショウノ・ホールディングスの専務さん。そっちの彼は?」

 勘吉と同様に車が気になったのか、祖母の京子も店先に顔を出す。そして勘吉より素早く、差し出された名刺を奪い取った。

「俺がもらった名刺だぞ」

 名刺を取り返そうとする勘吉をひょいっとかわした京子は、樰賢と秀清を見比べた。

「庄野院の秘書を務める高梨と申します」

 秀清がそう自己紹介すると、京子は納得した様子で頷いた。

「で、そんなお偉い人が、うちの向日葵になんの用で?」
「私、昨日この会社の面接受けたでしょ。だから、そのことで用事があるんだと思う」

 りずに名刺を取り返そうとする勘吉を器用にかわしながら、京子は笑みを浮かべた。

「ああ、そういえばそんなことを話していたね。わざわざ家まで来てくれるってことは、もちろんいい返事なんだろうね?」

 ――えっ! そうなの?
 思わず向日葵も、二人に期待のこもった眼差しを向けてしまう。

「ええ……実は……」
「まあ、立ち話もなんですから、家に上がってください」

 京子は樰賢の腕を掴むと、半ば強引に店の中に連れ込もうとする。

「あ、若……!」

 暖簾のれんをくぐる樰賢の背中を追いかけようとする秀清に、京子は手をひらひらさせながら言う。

「アンタはとりあえず、その大きな車を退かしておくれ。こんなのが店の前にあったら、商売の邪魔になるからね」

 言われて秀清は、しぶしぶといった様子で一人車に乗り込んだ。
 どうやら京子は、肩書どおりに二人を扱うことに決めたらしい。秀清の姿を見送ることなく、そのまま樰賢の腕を引いてお店の中へと消えていく。その背中を追いかけて、勘吉も店に戻っていった。

「……そこの交差点を右に曲がって、少し進んだところの右手にコインパーキングがありますよ。そんなに離れてないから、すぐに戻ってこれます。駐車場の小さい方の出口からこっちの方角に歩いてくれば、うちの裏庭に辿り着きますよ」

 車に乗り込む秀清がドアを閉める前に、向日葵は指差しながらそう説明した。

「……ありがとう」

 秀清はどこかねた口調でお礼を言うとドアを閉め、教えられた方角へと車を走らせていった。


「もう。おばあちゃんは強引なんだから……」

 秀清を見送った向日葵がお店に入ると、京子は店番を勘吉に押しつけ、樰賢を奥の自宅スペースに招き入れた後だった。
 店舗、作業所、自宅と、うなぎの寝床のように細長く伸びた家の中、廊下を小走りに進んでいた向日葵は、自宅スペースに入ってすぐの台所に、京子の姿を見つけた。薄いガラスの引き戸越しに確認すると、京子はお茶をれるお湯を沸かしている。
 お茶の用意は京子に任せることにして、向日葵は樰賢の姿を探した。
 ――……いた。
 たいして広くない家。樰賢の姿は、居間から続く縁側ですぐに見つけることが出来た。

「やあ。庭を見せてもらっていた」

 縁側にたたずみ、庭を眺めていた樰賢は、向日葵の気配に振り返った。

「……はい」

 手を伸ばせば触れられるような距離で樰賢を見上げ、向日葵はぎこちなく頷いた。
 ――ウチの家族ってみんな小柄だから、こんな背の高い人がいると、それだけで緊張しちゃう。

「素敵な庭だね」

 向日葵が生まれた頃、建築物としてもう限界というところまで老朽化していた倉庫を取り壊して広げた庭。東京の下町とはいえ、その面積は比較的広い。そのため置石おきいし水鉢みずばちと一緒に、様々な植物が植えられている。

「どこにでもある、普通の庭ですよ」
「そんなことないよ。季節の樹木が上手に配置されていて、いつの時期でも縁側から花を楽しめるようになっている。……今は、金木犀きんもくせいが香っているね。それに紅葉もみじもいい」
「……」

 香りを楽しむように樰賢はまぶたを伏せ、大きく息を吸う。向日葵も真似て大きく息を吸い込むと、金木犀きんもくせいの香りに混じって、もっと甘く爽やかな匂いが鼻孔びこうをくすぐった。
 ――あの時と同じ匂い。
 匂いに釣られて、高校時代の思い出が鮮明によみがえる。一度会っただけなのに、ずっと頭の片隅に存在し続けていたハムスター王子が、自分の家にいるなんて不思議な気がする。

「それによく手入れがされていて、丁寧に守られてきたのがわかるよ。いい庭だ」
「両親が喜びます」
「……?」
「庭の木の配置を決めたのは、私の両親なんです……って、おじいちゃんから聞いています」

 もちろん古い家だから、向日葵の両親が庭をいじる前から生えている木もある。だけど、金木犀や小手毬こでまりといった小さな花を咲かせる木は、両親の趣味だ。

「なるほど。センスのいいご両親だったんだね。庭全体が優しい空気に満ちている。こうして君と一緒に見ているだけで、心がいやされるよ」

 向日葵も、庭を見ると優しい気持ちになれる。樰賢の目にも、両親が残してくれた庭が優しい景色として映っているのが嬉しい。
 感心した様子で再び庭を眺める樰賢の横顔に、向日葵は頬が熱くなるのを感じた。

「……ありがとうございます」

 小さな声でお礼を言った向日葵は、縁側に出しっぱなしになっているサンダルを突っ掛けた。
 樰賢を縁側に残して自分だけ居間に行って座るのは失礼だし、ずっと彼の隣にいるのも緊張する。だからって着替えを口実に自分の部屋に戻るのは、もったいない気がした。
 ――自分の家なのに、どこにいればいいかわからない。
 一緒にいると緊張して落ち着かないのに、一緒にいたいと思ってしまう矛盾をどう解消すればいいのかわからない。迷った末に向日葵は、縁側の下に置いてあったジョウロを手にした。
 秀清が戻ってくるのを待つ間、とりあえず庭に水をいていよう。そう決めて、縁側の隅にある水道へと歩み寄った。

「…………あれ? ……固い…………んっ」

 緩いと水が漏れるので、水栓をいつも固めに締めているのだ。だけど今日の水栓はいつになく固く、指先が白くなるくらい力を込めてもびくともしない。

「どうした?」
「水栓が固くて」

 苦戦していると、背後で樰賢がサンダルを履く気配がした。

「どれ?」

 近づいてきた樰賢の手が、背後から向日葵の手に重なる。

「あっ!」

 重なる手に驚いて向日葵が背筋を伸ばすと、背中に樰賢の筋肉質な胸板が触れた。
 大学で仲のいい男友達はいないし、触れるほど接近することがある男性といえば、勘吉と幼馴染おさななじみのトオルぐらい。そんな向日葵にとって、大柄で引き締まった樰賢の体の感触は、ひどく緊張をもたらすものだった。
 それに、向日葵を包み込む、甘さを含んだ柑橘かんきつるいのような匂い。
 その匂いは庭の金木犀きんもくせいよりも甘く、向日葵の頭の芯をくすぐったくさせた。

「小さな手だね」

 ふと聞こえた樰賢の感想に、向日葵は咄嗟とっさに「ごめんなさい」と返した。

「どうして謝る? ただ、可愛いと思っただけなのに」

 不思議そうに笑う樰賢の声に、耳が熱くなる。
 ――側にいるのが落ち着かないから、庭に出てきたのに……
 向日葵が心の中で戸惑っている間に、樰賢が向日葵の手をのけて水栓を回すと、蛇口から勢いよく水が流れ出した。

「……あっ、ありがとうございました」

 ジョウロに水を溜め、再び水栓を固く締めると、向日葵は首をひねって背後の樰賢を見上げた。その瞬間、彼の顔が予想以上に間近にあったことに驚く。

「……えっと……っふぁっ」

 同時にファーストキスのことまで思い出し、向日葵の体に緊張が走る。すると、樰賢がふいに向日葵の頬をつまんだ。
 ぱちぱちとまばたきを繰り返す向日葵に、樰賢は「駄目だよ」と悪戯いたずらっぽく笑った。

「ふぁい?」

 なにを注意されているのかわからない。
 樰賢は頬を抓む指先を少しずらして、向日葵の唇の端をでた。その感触に肌がゾクリとする。

「そういう油断しきった顔は、特別な男性以外に見せるものじゃない」

 そうたしなめて、頬から手を離す樰賢。
 ――特別な人……
 と言うなら、近くにいるだけでこんなにドキドキしてしまう樰賢もそれにあたるのだろうか。でもそのことを、本人に直接聞くのはすごく恥ずかしい。
 それを悟られないよう、向日葵がうつむいて庭に水をき始めると、垣根がガサガサと揺れた。

「若っ! お待たせしました」

 顔を上げると、教えたとおり裏路地から回ってきた秀清が、庭に入ってくるのが見えた。
 ――そこ、入り口じゃないんだけどな……
 大きな体を植木の間に半ば強引に割り込ませる秀清の姿に苦笑いし、向日葵は「じゃあ、縁側からになっちゃうけど上がってください」と言って、二人を居間に招き入れた。


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