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しおりを挟むプロローグ 夏目向日葵です
目の前にそそり立つ近代的なビル。その存在感に、夏目向日葵はコクリと喉を鳴らした。
「大きい……」
壁全面がガラス張りになっているそれは、降りそそぐ秋の日差しを鈍く反射させ、黒光りしている。
決して眩しすぎないその光が、メタリックな外観をさほど違和感なく周囲のビル群に溶け込ませているのだが、それでも大学四年生の向日葵には高圧的な建物に思えてしまう。
ショウノ・ホールディングス。
明治時代、華族であった庄野院家は明治政府より勅命を受け、炭鉱開発事業に着手した。それを発端として、激動する時代の荒波に揺らぐことなく事業を拡大してきたのだ。現在では、石油、天然ガスの開発と生産販売、それに関連する技術サービスを主な事業としている。
だが、そんな知識を持ち合わせていない向日葵は、ただただ眼前のショウノ・ホールディングス本社ビルの大きさに圧倒されていた。
ビルに出入りする人々も皆自信に溢れ、いかにも如才なく仕事をこなせそうな社会人オーラを放っている。彼らを見ていると、自分がここにいていいものかと不安になってしまう。
――入り口にショウノ・ホールディングスの名前しか書いてないってことは、このビルで働いている人全員が、この会社の社員ってことだよね。
――そんなにたくさんの人が必要な仕事が、この世にあるのかな?
正しくは、ここはショウノ・ホールディングスの本社。企業全体で考えれば、社員は日本全国どころか世界中にいた。だけど自宅とその周辺の商店街、そして大学の間のみを行き来してきた向日葵には、そこまで考えが及ばない。
「こんな大きな会社の就職試験に、私が受かるわけないよね……」
面接を受ける前から、弱気が襲う。
どうせ落ちるなら、面接を受けずこのまま帰ろう。そんな思いまでこみ上げてくる。
大学卒業後は、家業である煎餅屋の手伝いをする気でいた向日葵としては、こんな大きな企業で働く自分の姿なんて想像もつかない。
「――っ」
自分を落ち着かせるために、目を閉じて深呼吸を一つ。
すると、自然とあの人の顔が思い浮かぶ。
いくつもの本が落ちてくる中、自分を守ってくれた〈ハムスター王子〉。
すっとした鼻筋と、切れ長の目。いかにも大人の男性らしい穏やかさは、どこか艶やかな黒毛の大型犬を連想させた。あの彼は、今もこの会社で働いているのだろうか。
「ハムスターが大好きな、ハムスター王子」
昔勝手につけたあだ名を口にするだけで、不思議と心が落ち着く。
まだ彼がここで働いているのであれば、なにかの偶然でもう一度会えるかもしれない。そう考えると、さっきまで弱気に覆われていた心に明るい光が射す。
「よしっ!」
向日葵は、気合を入れるために自分の頬を軽く叩いて、ショウノ・ホールディングスビルへと足を進めた。
自動ドアを潜り、大理石のロビーを進むと、正面の受付カウンターに座っていた女性が二人、同じタイミングで向日葵に会釈をする。向日葵は勢いのまま彼女たちに話しかけた。
「あの、すみません」
「はい、なんでしょう?」
――うわっ! 二人とも美人で、なんだかお人形さんみたい。
思わず心の中で感嘆の声をあげた。
女性たちは髪を綺麗にまとめ、毛穴がないのではと思うほどに丁寧な化粧をしている。
――派手じゃないのに綺麗って感じさせるお化粧には、なにか特別なコツがあるのかな?
――それとも、持って生まれた素材の違いのせいかな?
何にせよ自分がどれだけ化粧を頑張ったところで、きっとこうはならないだろう。さすが大手企業に勤める人は、化粧一つとっても違う。
――やっぱり私がこの会社で働くなんてあり得ない。
目の前にいる二人の女子力に圧倒されつつ、向日葵は遠慮がちにまた話しかけた。
「この時間にこの会社の高梨さんを訪ねるように言われたんですけど」
「高梨……?」
「はい」
今日の面接をセッティングしてくれた彼は、受付で自分の名前を伝えるように言っていた。
「高梨とおっしゃられましても、当社には何人もいますので……」
受付嬢の一人が、困ったような笑みを浮かべた。
確かにこれほど大きな会社なのだから、同じ苗字の人はたくさんいるだろう。
「そうですよね。……えっと、もらった名刺に下の名前も書いてあったはず。……あ、あった!」
慌てて鞄を漁った向日葵は、彼からもらった名刺を取り出した。
「えっと……専務第一秘書の高梨秀清さんです」
「えっ!」
名刺を探す間、眉一つ動かさず穏やかに微笑んでいた二人が、小さく驚きの声を漏らした。
「もう一度、今のお名前を言っていただいてもよろしいでしょうか? あと申し訳ございません、お客様のお名前もいただきたいのですが……」
『お名前をいただく』という聞き慣れない言い回しに少し戸惑ったものの、すぐに名前を教えてほしいと言われていることに気付いた。
「専務第一秘書の高梨秀清さん。その人に、この時間に来るように言われているんです。私の名前は、夏目向日葵です」
「……夏目……向日葵……?」
両親が、すくすく大きく育つようにと願って付けてくれた名前だ。自分では気に入っているのだが、初対面の人には怪訝な顔をされることも多い。
「はい。夏目向日葵です」
もう一度繰り返すと、受付の二人は微笑むことも忘れて、カウンターの向こうで来客リストに指を走らせる。そして「あった!」と小さな声をあげ、なにかを確認するようにお互いの顔を見つめた。
そして目で合図らしきものを送り合うと、向日葵に視線を戻して立ち上がり、深々と頭を下げた。
「失礼いたしました、夏目様。来客予定リストにお名前がありましたのに見落としておりました。高梨は三十四階で待っておりますので、これを着けてそのままエレベーターでお上がりください」
「……『様』なんて」
こんな綺麗なお姉さんに『様』を付けて呼ばれると、なんだかこそばゆくなってしまう。
向日葵は照れ笑いを浮かべながら『GUEST』と書かれた名札を受け取り、二人のお辞儀を背にエレベーターへと向かう。
エレベーターを待つ間、側に備え付けられている鏡で自分の姿を確認してみた。
身長一五〇センチちょっと。女子としても小柄な部類に入る自分の特徴といえば、ハッキリした二重の目と、癖のある栗色の髪くらいだろうか。
――ハムスター王子は、さっきのお姉さんみたいな綺麗な人たちに囲まれて働いているんだよね。
だとしたら、特別人目を惹く容姿でもない、ましてや四年前に一度会っただけの高校生のことなど、忘れてしまっているだろう。
――私にとっては、忘れられないファーストキスの相手なのに。
そんなどこか拗ねた思いを抱えてエレベーターに乗り込む。
そうして向日葵は、ハムスター王子との出会いを思い出していた。
1 始まりは本屋さん
高校三年生の九月、学校帰りの向日葵はいつもとは違う駅で降り、そこに隣接した三階建ての書店に向かった。
丸の内のオフィス街の近くにある広々とした書店。中は、向日葵が普段寄り道する商店街の本屋さんとは違い、上品で落ち着いた空気に満ちている。店内に並ぶ本たちも、それだけで何故か商店街の本屋さんに並ぶ本より高級品に見えた。
――これで売っている本の値段が一緒って、なんだか変なの。
商店街でも扱っている煎餅や野菜は、原価や品質が同格なものでも、売っている場所によって値段が大きく違ってくる。だけど本は、東京だけじゃなく日本全国、どんな規模のお店でも値段が変わらないから不思議だ。
「これだけ本があれば、勉強したいこと見つかるかな? ……それにしても、おばあちゃんには勝てないなぁ」
向日葵は、昨夜のことを思い出して小さく唸りつつ、店内をゆっくりと歩き始めた。
児童文学――子供は大好きだけど、保育士さんってピアノ弾けないと駄目なんだっけ?
漫画コーナー――読むのは好きだけど、描くのは無理。
建築関連書籍――興味なし。
医療関連書籍――血を見る勇気がないです。
気ままに店内を歩く向日葵は、それぞれのコーナーを覗いては、自分なりの考えをまとめていった。
――それにしても、やっぱり大きな本屋さんは、品ぞろえが違うなぁ。
感心する反面、選択肢が広がりすぎて余計に悩んでしまう。
「別に大学行かなくてもいいんだけどな……」
こんな風に悩んでいるのは、昨夜突然、祖母の京子に大学進学を勧められたからだ。
進学校に通っているわけでもなく、進学など高校三年生二学期の今になるまで一度も話題に上ったことがない。当然向日葵としては大学に進む気などなかった。
向日葵は、煎餅屋を営む祖父母と三人暮らし。高校を卒業したら、家業である『夏目煎餅』を手伝うつもりでいる。
そう話す向日葵に、京子は頑ななまでに大学進学を勧めた。というより、強要したという方が正しいかもしれない。
しかも急にそんなことを言い出した理由が、「その方が〝お得な男性〟との出会いがありそうだから」だというのだから、納得がいかない。
夏目煎餅の会計と、夏目家の財布の管理を一手に引き受けている京子は、損得勘定に厳しい。よくソロバン片手に、「最終的にお得なら初期投資は許す。だけど無駄使いは許さないよ」と、祖父の勘吉に小言を言っている。その彼女の頭が、向日葵には大学進学させた方が最終的にお得、と弾き出したらしい。
勘吉は、「特に勉強したいことがあるわけでもなく、そもそも勉強が好きじゃない向日葵に、無理して進学させなくても……」とフォローを入れてくれたけど、普段から女房の尻に敷かれっぱなしの彼が京子に勝てるわけもない。結局向日葵は、急な進路変更を余儀なくされた。
――お店はいつでも手伝えるんだから、とりあえず大学に進学するのも悪くないかな。
進学しなければ家を追い出しかねない勢いの京子を前に、向日葵はそう結論を出した。
とはいえ、向日葵にだって譲れない条件がある。
環境の変化が苦手な向日葵にとって、進学のためとはいえ家を出るなんてあり得ない。それに家には、早くに亡くなった両親の仏壇もあるので、離れるのは寂しい。
浪人せずに入れて、自宅から通える大学。……で、どうせなら、自分が楽しんで勉強できる学部がいい。だけどどんな勉強なら楽しめるのかがわからないので、それを考えるために、こうして大きな書店まで足を伸ばしてみたのだった。
経済経営――は、計算が苦手だから問題外……
ここに用はないと素通りしようとした向日葵は、一瞬鼻孔をかすめた爽やかな匂いに足を止めた。
甘さを含んだ柑橘類のような匂い。その出所を探して周囲を見渡すと、背の高いスーツ姿の男性が二人、向日葵の目についた。
そのうちの一人、短い黒髪を後ろに流している男性は、真剣な表情で難しそうな経済の本に視線を走らせている。もう一人の男性――銀縁の眼鏡を掛け、少しちぢれた鳶色の髪を左右に分けている彼は、二人分のビジネスバッグを持ち、黒髪の男性の様子を静かに見守っていた。
――若い……二人とも二十代だよね。若いのにビシッとしていて、ビジネスマンって感じ。
――それに二人とも、すごくハンサム。
若いのに上品な質感のスーツを着こなす二人の姿に、思わず見とれてしまう。
もちろん向日葵の暮らす下町の商店街でも、スーツ姿の男性を見かけることはある。だけどそんな人たちはビジネスマンというより、サラリーマンという言葉の方がしっくりくるのだ。
――この違いは、スーツの違いかな?
――ああ、襟元のバッジのせいかも。丸の内だし、会社がこの辺なのかな?
二人とも、向日葵にも見覚えのある有名な会社――ショウノ・ホールディングスのロゴが入ったバッジを身に付けている。きっとそこの社員なのだろう。
本を物色するふりをして二人を観察していると、向日葵の視線は、自然と黒髪の男性の方へと引き寄せられた。
すっとした鼻筋と、伏し目がちにしていても切れ長だとわかる目元。横顔でも端整な顔立ちであることが窺える。目尻が上がり気味の、鳶色の髪をした彼を猫だとすれば、黒髪の男性は穏やかな黒毛の大型犬を連想させる。
――それにしても、どうしてだろう……?
初対面のはずなのに、彼を見ていると不思議と懐かしい気持ちになる。そのまま説明のつかない感情の出所を探っていたら、ふと、鳶色の髪をした彼が向日葵の存在に気付いた。
ギョッ!
漫画だったらそんな擬態語までつきそうな表情で向日葵の顔を凝視する。そうして本を読みふけっているもう一人の男性の袖口を引っ張った。顔を上げた黒髪の男性は、鳶色の髪をした彼の視線を辿り、向日葵を見た。
「――っ!」
黒髪の男性は、さっきの彼以上に驚きの表情を浮かべ、息を大きく吸い込んだ。
なにか言いたげに自分を見つめる彼の視線に、向日葵の頬が熱くなる。
――私……なにか変かな?
そこで向日葵は、きっと難しいビジネス書が並ぶコーナーに高校生がいることに驚いたんだろう、と考えた。
――お仕事の勉強の邪魔をしてごめんなさい。
そんな意味を込めて軽く頭を下げる。それからビジネス書コーナーを抜けた向日葵は、旅行関連書籍のコーナーで足を止めた。
「……」
意識しないでおこうと思っても、視線は表紙を飾る飛行機の写真に引き寄せられてしまう。
過去の記憶が蘇り、チリチリと焼けるような痛みに胸を押さえた。
――飛行機に乗らなきゃいけないような仕事は絶対に無理。
小さく首を横に振り、逃げるようにその場から離れた向日葵は、今度は趣味の書籍が並ぶコーナーで足を止めた。
――お料理やお裁縫は好きだから、そっち関連がいいかも。
そのコーナーを見ると、お菓子作り、編み物といった女性受けしそうな書籍は左側に、将棋やゴルフといった男性受けしそうな書籍は右側に集中している。その二種類の書籍の間には、園芸やペットといった、両者に需要がありそうな書籍が並べられていた。
コーナーの中間あたりで立ち止まった向日葵は、四季の花々が紹介されている本を手にしてパラパラとページを捲った。
「……あった」
なずなの写真が掲載されているページで手を止めると、懐かしそうに目を細める。
夏目なずな。
それが向日葵が六歳の時、父親の満作と一緒に飛行機事故で亡くなった母親の名前。
お互い植物の名前が付いていることがきっかけで付き合い、やがて結婚した二人は、生まれた最愛の一人娘に、『すくすく大きく、元気に育つように』という願いを込めて〈向日葵〉と名付けた。
――身長はご希望に応えられなかったけど、元気にやっているから許してね。
向日葵は、なずなの花の写真を指で撫でた。
「……ん?」
不意に、さっきの爽やかな香りが背後から漂ってきた。それと同時に、すぐ後ろに人が立つ気配を感じる。
この香りは、さっきのビジネスマンのうちの、どちらかの香水だろう。
――さっきの黒髪の人、大人の男の人って感じがして、カッコよかったな。
――ああいう人は、どんな趣味を持っているのかな? 後ろの人が、黒髪の人の方だといいのに。
そんなことを考えながら、背後に立つ彼が本を選ぶ瞬間を待っていると、突然、目眩を感じた。
グラリッと足元から崩れるような揺れに驚いて、手にしていた本を落としてしまう。
慌てて体を屈めて本を拾おうとすると、再び視界が大きく揺れた。本能的な恐怖から身動きできなくなる。
その時、向日葵の肩にたくましい手が触れた。
「――!」
その手に引き寄せられ、背後から強く抱きしめられる。
自分を包み込む上質なスーツをまとった腕と爽やかな香りから、抱きしめているのはさっきのビジネスマンのうちのどちらかだということがわかる。けれどそれに驚く以前に、なおも続く揺れが怖くて身動きが取れない。
ドサッ バサッ
俯く視界の端に、本が乱暴に床に散らばっていくのが見える。
――地震!
向日葵は一足遅れで、この目眩が建物全体の揺れのせいであることに気付いた。
その間も揺れは続き、見せるレイアウトが仇となったのか、本がいくつも床に打ちつけられる。中には大判サイズの本もあるようだ。
あんな本の角が勢いよく当たれば、酷い怪我をするかもしれない。なのに、それらの本が自分に当たる気配はない。
――ああ、そうか。この人が、私を守ってくれているんだ。
向日葵は、背後から突然抱きしめられた意味を理解した。咄嗟の判断で自分を守ってくれたその人が、二人のうちどちらなのか確かめたくて肩と首を大きく捻る。
「…………あっ」
その瞬間、自分の唇に柔らかな感触が触れ、思わず息を呑んだ。
「――っ」
向日葵を抱きしめている人も、突然の出来事に驚いて息を呑んでいる。戸惑いを隠せない彼の息遣いが、触れ合う唇から伝わってくる。
向日葵も突然のことに頭が真っ白になり、またもや動けなくなってしまった。
――……わ、私……キスしてる。
向日葵は停止しかけた思考回路をどうにか動かして、何とかそれを理解した。と同時に、羞恥心で足から力が抜けていくのを感じる。
いつの間にか地震は収まっていた。けれど心なしかまだ揺れているような気がして、その場に崩れ落ちる。
「大丈夫?」
すると相手との間に距離ができ、自分の口付けの相手が、黒髪の男性の方だとわかった。
「えっと……」
守ってくれたお礼を言わなくては。頭ではわかっているのだけれど、言葉が続かない。
そんな向日葵に視線を合わせるため、男性が膝を屈めた。心配そうな視線を送ってくるその顔は、心なしか赤い。
「その……こんなつもりでは……」
戸惑った口調で話す彼の口元をつい見てしまい、向日葵は無意識に人差し指と中指で自分の唇を押さえた。混乱する頭で、これはファーストキスになるのだろうかなどと考える。
そうしているうちに、黒髪の男性は何か言葉を探すようにしながら向日葵に手を差し伸べた。
「あの日……ハムスターを」
「若っ!」
その手に掴まろうとした向日葵は、突然の声に驚いて思わず手を引っ込めた。黒髪の男性も、弾かれたように姿勢を正す。
二人そろって声の方向に視線を向けると、さっき黒髪の男性と一緒にいた鳶色の髪の彼が、床に散乱する本を踏まないよう器用に飛び跳ねながら駆け寄ってきた。
「若、お怪我は?」
「問題ない」
「でも本が当たりましたよね。念のため、病院に行った方が……」
「必要ない」
鳶色の髪の彼はおろおろとした様子で、素っ気ない態度で答える黒髪の男性の全身を観察している。黒髪の男性は、「若」と呼ばれることにも、過保護なまでに心配されることにも慣れているのか、照れたり戸惑ったりする様子はない。ただ不機嫌そうな視線を相手に向けているだけだ。
――私なら、こんなに過保護に心配されたら恥ずかしくて困っちゃう。
――それに普通に「若」なんて呼ばれて、この人何者なんだろう?
床に座り込んだまま二人のやり取りを見上げていた向日葵は、とりあえず立ち上がろうと床に手をついた。その拍子に指に本が触れる。
『可愛いハムスターの飼い方』。
丸い可愛らしい文字でそう書かれている本の表紙には、ヒマワリの種を持つハムスターの写真が掲載されている。
――そういえばさっきこの人、ハムスターがどうのって言っていたような……
――もしかしてさっき手を差し伸べてくれたのは、この本を取りたかったから?
本を手に取り黒髪の男性を見上げると、向日葵の視線に気付いたのか、彼も向日葵を見た。
視線が合うだけで頬が熱くなってくる。けれど、相手は大人のビジネスマン。
――きっと高校生との事故みたいなキスなんて、気にしてないよね。
――恥ずかしがっている私の方が逆に恥ずかしいかも……。気にしてないフリしなきゃ。
「……君が…………」
「あのっ! 好きなんですか?」
黒髪の男性とハムスターの写真を見比べていた向日葵は、恥ずかしさを誤魔化すように大きな声をあげ、手にしていた本を差し出した。
「………えっ? 好き?」
男性は、何故かぎょっとしたような顔をした。
「小さくて可愛くて、見ていて飽きないですよね」
「ああ……確かに、小さくて可愛い。………好き、なのかもしれない」
――そうか。やっぱりハムスターが好きなんだ。
――さっきこの人の手に間違って掴まったりしなくてよかった。
安堵の笑みを浮かべてさらに本を突き出すと、黒髪の男性は口をパクパクさせながらも膝をつき、本を受け取った。
「よかった。………?」
そう言いつつも向日葵は、黒髪の男性がさっきより赤い顔をしているのに気づいた。
――私を庇ったせいで、やっぱりどこか怪我をしたのかな?
そんな不安から、思わず男性の頬に手を伸ばす。
「――!」
「やっぱり、熱い。大丈夫ですか?」
――頭を打った拍子に熱を出すなんてことあるのかな?
頬から額へと探るように手を動かしながら、向日葵は心配げに黒髪の男性を見上げた。その拍子に彼と目が合うと、また自分の行動が恥ずかしくなってくる。
――私、初対面の男の人になにしているんだろう。
「ご………ごめんなさい」
「いや。それより………あの日の………」
慌てて手を引っ込めると同時に、鳶色の髪の彼が黒髪の男性の腕を引き、強引に立ち上がらせた。
「若、やっぱり病院に行きましょう。若の身になにかあったらっ!」
黒髪の男性は、軽いパニック状態で騒ぐ彼と向日葵とを見比べ、深いため息を吐いた。
「もういい」
そう言って髪を乱暴に掻き上げた彼は、また向日葵に手を差し伸べる。
そこで自分がいつまでも床に座り込んでいたことに気付いた向日葵は、促されるようにその手に掴まった。触れた瞬間、大きくてたくましい掌の感触に、緊張して指先が跳ねる。
彼はそんな反応を気にする様子もなく、そのまま向日葵の手を引き、立ち上がらせてくれた。
「とにかく、君に怪我がなくてよかった」
「あ……」
「では、またいつか」
向日葵がお礼を言うよりも早く、黒髪の男性は踵を返して歩き出した。
「若、待ってくださいっ!」
鳶色の髪の彼は、慌ててその背中を追いかけたが、途中で振り返って向日葵に一度お辞儀をする。それから店員を呼びとめてお金を渡し、再び足早に主の背中を追いかけていった。
「……そうか、ハムスターの本の代金だ」
店員とのやり取りの意味を理解した向日葵は、こんな状況でもハムスターの飼育本を買っていく黒髪の男性を、奇妙に、また可愛らしくも感じていた。
――若って呼ばれていたから、きっとすごいお金持ちなんだよね。
――王子様みたいに私を助けてくれたと思ったら、こんな風にハムスターの本を欲しがったりして、なんだか変な人。
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