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1巻
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そんな思いを込めて見上げるが、相手は構うことなくテーブルを回り込み、千春の手首を掴んだ。
「え、ちょっとっ!」
有無を言わせぬ勢いで千春を立ち上がらせ、そのまま腕を引いて歩き出す。
さすがに失礼だと思ったのか、背後で母が戸惑いの声を上げているのが聞こえた。
だけど、相手の父親が息子を止める気配はない。その隣の奥方に至っては、首がもげてしまうのではないかと思うほど頭を低くしていた。
そうして千春を外に連れ出した見合い相手は、景色を楽しむわけでもなく、無言のまま足早にホテルの庭園を進んでいく。
そして背の高い樹木と萩の茂みで周囲の視界が遮られる場所まで来ると、掴んでいた手首を離し、スーツの内ポケットから電子煙草を取り出した。
「煙草を吸われるなら、喫煙所に行きませんか?」
カチリと電源を入れ加熱を待つ彼に、千春がそう提案する。しかし相手は鼻で笑い、首を反らして煙草を咥えた。
そして空に向かって白い煙を吐き出しながら言う。
「喫煙所なんかで吸ったら、他のヤツの匂いがつくだろ」
バカじゃないのか。そう呟き、煙をくゆらせる。
灰色の空に煙草の煙が溶けていく様を見ていると、目の前の男に対する嫌悪感が抑えられなくなってきた。
自分が吐き出した煙を見るともなく見上げ、男が言う。
「それと、仕事はさっさと辞めろよ」
「え?」
「どうせ結婚したら、仕事を辞めて家事をするんだから、続けても意味はないだろう」
千春も、もし結婚して地元に戻ることになれば、今の仕事を続けられないことは理解していた。
けれど今の仕事には愛着があるし、任されている仕事への責任感もある。
結婚して地元に戻るにしても、今担当している仕事全てに区切りをつけてからのつもりでいたし、結婚後もこちらでなにかしらの仕事をする気でいた。
いくらなんでも、千春の考えを確かめることもなく、一方的に意見を押しつけられても困る。
せめて、TUYUKAのホームページの仕事が終わるまで待ってほしい。
「仕事は、任されている企画もありますので、すぐに辞めることはできません」
それは譲れないと訴える千春に、相手は意地の悪い笑みを浮かべる。
「どうせ、誰にでもできる仕事をしているんだろう? 辞める会社に義理立てする必要なんかないだろ」
冷めた口調で話す彼には、千春の仕事に対する思いを理解する気はなさそうだ。
その姿に、どうしても確かめてみたくなる。
「私がどんな仕事をしているか、ご存じですか?」
その問いに、男は軽く眉を動かすだけで答えない。
見合いの形を取っているので、千春の釣書は相手に送っている。
でも、おそらく彼は、それに目を通していないのだろう。
結婚を提案しておきながら、千春を理解しようという意思が感じられない。
千春は仕事も含め、多くのことを諦める覚悟でこの見合いに臨んでいるのに。
――この人と、仲良く暮らせる自信がない。
というか、仲良くなれない自信がある。
しかし、千春の方からこの見合いを断るわけにはいかないのだ。だから、自分なりに感情と折り合いをつけなくちゃいけない。
「我が家の経営状況について、少し説明させていただいてもよろしいでしょうか……」
千春がこの縁談を受けた目的は、一乃華への支援にある。
だから具体的な支援内容を聞かせてもらえれば、少しはこの縁談に前向きになれるはずだ。
そう思って話を振った千春に、相手はとんでもない言葉を投げかけてくる。
「一乃華の土地は、更地にしてマンションを建てる予定だから」
「はい?」
意味がわからないと目を瞬かせる千春に、相手は饒舌に語る。
「お前の実家、ウチにいくら借金してるかわかる? ウチは潰れかけている酒蔵にこれ以上の融資をするつもりはない。そのうち倒産して、債権回収で土地を取り上げられるくらいなら、今のうちに廃業した方がいいだろう。立地はいいから、賃貸マンションを建てて家賃収入を得られるようにする。そのための根回しと事業計画書はこっちで準備してやるよ」
一乃華周辺の土地は、土地開発が進んだおかげで利便性が上がり、地価が高騰していると聞く。
古くからそこに建つ一乃華の敷地面積は広く、そこにマンションを建てれば需要はあるだろう。
しかし千春たち家族は、先祖代々受け継いだ土地や会社をそんなふうに変えるつもりはない。
「結婚したら、ウチの立て直しに協力してくれるんじゃないんですか!?」
だからこの縁談を受けたのに。
戸惑いを露わにする千春に、相手は意地の悪い笑みを浮かべて言う。
「あんな落ち目の酒蔵、今さらどうしようもないだろ。お前の母親とアニキには、管理人の仕事をくれてやる。それで生活には困らないし、文句はないだろ」
「なっ……!」
どこまでも上からな物言いに、頭が白くなる。
もし千春がこの男と結婚したとしても、千春の実家の土地がこの男の物になるわけではないというのに。
あまりのことに絶句する千春の態度をどう思い違いしたのか、男は得意げな表情を浮かべる。
「オヤジの言うとおり、嫁にするなら可哀想な女に限るな。こちらの好きにできるんだから」
ククッと喉を鳴らす彼の言葉に、存在を消すようにして同席していた彼の母親の姿を思い出す。
ここまで聞けば、顔の印象が残らないほど俯いていたあの女性が、どんな経緯で彼の父親と結婚して、どんな夫婦生活を送ってきたかおおよその想像がつく。
「それじゃあ、話が違います……ッ」
やっとの思いでそう言い返し、踵を返そうとした千春の手首を男が掴んだ。
そのまま強く腕を引かれて、慣れない着物ということもありバランスを崩しそうになる。
どうにか踏ん張り、体勢を保つ千春の顔に煙を吹きかけて、男が言う。
「今さら縁談を断って俺に恥をかかせたら、一乃華への融資が止まると思えよ」
吐き捨てる男の言葉に、千春の思考が凍りつく。
さすがにここまで話せば、この男に自分の人生を差し出す価値などないとわかる。けれども、一乃華銘醸のことを出されると、拒絶の言葉を口にすることができない。
家族を助けたくてこの縁談を受けたのに、とんでもない方向に話が進もうとしている。
最悪の状況を回避する術を持たない自分の不甲斐なさに泣きたくなる。
それでも弱気な姿は見せたくないと、奥歯を噛みしめて涙を堪える千春に、男は唐突な質問を投げかけてくる。
「ところでお前、スリーサイズは?」
「え?」
ありえないくらい話が飛んだ。
そう思ったのは一瞬で、ねっとりとした男の眼差しから、その意味を理解した千春の背筋に冷たいものが走る。
敢えて意識しないようにしていたが、彼と結婚すれば、当然この男に体を求められることになるのだ。
「着物でわかりにくけど、胸のサイズはCかDってところか?」
「……っ」
ニタニタ笑いながら投げかけられる品のない問いに鳥肌が立つ。
「答えないなら、直接確認してやろうか?」
「――っ!」
――誰か助けてっ!
心の中でそう叫ぶ千春の脳裏に浮かぶのは、涼弥の顔だ。
不毛な片思いを続けるくらいなら、家族のために結婚しようと覚悟を決めたはずなのに、結婚に含まれる具体的な内容が浮き彫りになった途端、彼以外の人と結婚するなんて絶対に無理だとわかってしまった。
男が電子煙草をしまい、千春の着物の合わせ目に手を入れようとしてくる。その時、どこかから伸びてきた手がその手首を掴んだ。
「わっ! 痛っ!」
突然腕を捻られた男は、悲鳴を上げて暴れた。
その弾みで手首を解放された千春が、バランスを崩して転びそうになる。だけど、素早く伸びてきた腕が、よろめいた体を支えてくれる。
「大丈夫か?」
心地よく響く低音が、そう問いかけてくる。
よく知るその声に、千春の鼓動が大きく跳ねた。
――そんな夢みたいなこと、あるはずがない。
自分にそう言い聞かせつつ後ろを仰ぎ見て、千春は目を見開く。
「五十嵐さん……どうして?」
腰に腕を回し、自分の体を支えてくれているのは、涼弥だった。
――どうして彼がここに……
思考が追いつかず目を丸くする千春に、涼弥が気遣わしげな視線を向ける。
「大丈夫か?」
涼弥はもう一方の手で見合い相手である男の腕を捻っている。
それほど体格差があるようには見えないが、片手一本で後ろ手にねじ伏せられた男は、地面に膝をついて「痛いっ離せ」と騒いでいた。
涼弥が現れなければ、この男に胸を触られていたかもしれない。そう思うと、強い嫌悪感が込み上げてきて体が震えてくる。
「五十嵐さんが来てくれたから大丈夫……」
「間に合って良かった」
涙ぐむ千春の体を両腕で抱きしめて、涼弥はほっとした声で呟く。
と同時に、乾いた砂の上を重たいものが滑る音が聞こえた。
視線を向けると、腕を離されたことでバランスを崩した男が地面に倒れ込んでいた。
「テメエ、ふざけるなよ。人の女に気安く触れるんじゃねぇっ!」
素早く立ち上がった男は、顔を真っ赤にして涼弥に詰め寄る。
そして腕を伸ばし、千春の腕を掴もうとしてきたけれど、涼弥が身をもってそれを阻んだ。
「ずいぶんと品のない言葉遣いだな。しかも女性の扱いもなっていない。お前みたいな知性の欠片も感じない男を、彼女が選ぶとは思えないが?」
片手で千春の肩を抱き、男との距離を取りながら涼弥が言う。
その声は冷ややかで、彼に対する嘲りが感じられた。
「お前、何様のつもりだよっ!」
ツバを飛ばして騒ぐ男に、涼弥は冷ややかな眼差しを向けてしばし考え込む。
すぐになにか思いついた様子でニッと口角を上げると、穏やかな口調で提案する。
「私が何者かは、貴方のお父上に確認してみたらどうですか? お父上が勤める銀行とは付き合いもありますし、もし近くにいらっしゃるのなら、ここに連れてきたらいい」
「なんだお前、ウチから金を借りてるのか」
涼弥の言葉に、男の顔が意地悪く歪む。
その表情で「それでよくこんな態度を取れたよな」と思っているのがわかった。
涼弥は男の質問に答えることなく、そっと肩をすくめる。
「ウチから金を借りてとは……一銀行員の身で、ずいぶんと勘違いした発言ですね」
明確な嘲りを含んだ涼弥の声に、男がグッと奥歯を噛んだ。
怒りで紅潮する見合い相手の顔を見て、千春は慌てて仲裁に入る。
「この人は、関係ありません……」
涼弥の素性を知られないように、言葉を選ぶ。
さすがに涼弥の会社は、この銀行から融資を切られたくらいで倒産することはないだろうけど、面倒事に巻き込むわけにはいかない。
だけど男は千春の言葉を無視して「ここで待ってろよっ!」と吐き捨てると、足早にその場を去っていった。本当に父親を呼びに行くつもりらしい。
「待ってくださいっ」
慌ててその背中を追いかけようとした千春の体を、涼弥が両腕で抱きしめる。
「ほっとけばいい。そんなことより、千春ちゃんは大丈夫?」
不意に昔のように下の名前で呼ばれて、鼓動が大きく跳ねる。
「はい。涼弥さんが、来てくれたから」
彼につられて、千春も昔のように彼の名前を口にする。
「そうか。良かった」
心から安堵した様子の涼弥を目にした途端、千春の緊張の糸が切れた。
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。そんな千春の体を涼弥が抱き留めた。
「千春ちゃんっ!」
自分を支える彼の手を握りしめても、指先の震えを抑えることができない。
涼弥は、そんな千春の体をもう一度抱きしめてきた。
まるで自分の腕の中に千春がいることを確かめるような力強い抱擁に、守られている安心感を覚える。
「あの、五十嵐さんは、どうしてここに?」
少し気持ちが落ち着いたことで、冷静な思考が戻ってくる。千春は、彼の呼び方をいつもどおりに戻して聞く。
支えてもらわなくても、もう大丈夫と、彼の腕を軽く押して自分の足で立つ。
適切な距離感に戻ったのに、涼弥が若干不満そうな顔をしているのはどうしてだろうか。
なにか失礼なことをしたのだろうかと、首をかしげる千春を見て、涼弥は少し乱れた前髪を整えて答える。
「俊明さんから、今日、君が見合いをすると聞いた」
「ああ……」
兄は今日、地元の酒造メーカーの会合に出席している。喜葉竹グループの跡取りとして、涼弥もそれに出席していたらしい。
「そこで、君の見合い相手がどんな人間か知っているかと聞かれたよ。俊明さんは、今回の見合いについて、かなり心配していた」
父の急逝後、どうにか一乃華の業績を回復しようと奔走している兄に、これ以上心配をかけたくなくて、見合いのことはギリギリまで伏せておくよう母に頼んでいた。
それでも兄は千春のことを心配して、涼弥に相談したらしい。
「あの男は、父親の権力を笠に着て、新人行員や小規模事業主に圧をかけて追い込むことに生きがいを感じるような性悪だし、父親の方も決して好感の持てるタイプではない。見合いの目的はだいたい俊明さんから聞かせてもらったけど、結婚したところで、須永さんが願っているような結果は得られないと思うよ」
「そう……ですね」
見合いの途中から、千春もそのことは察していた。けれど相手が一乃華のメインバンクの重役なだけに、千春にはこの先どうすればいいのかわからなかった。
「あんな男と結婚して、幸せになれると思うか?」
「……私はただ、家を守りたかっただけなんです」
諭すような涼弥の言葉に、細い声でそう返すことしかできない。
結局、家族によけいな負担をかけることになってしまった。
うなだれる千春の手首を、涼弥が掴んだ。
驚いて顔を上げると、涼弥の方へと引き寄せられる。
「五十嵐さん……、あの?」
端整な彼の顔は、間近で見ると一段と美しく、そんな場合じゃないと思いつつも目が離せなくなる。
戸惑う千春の目を見つめ、涼弥は癖のある笑みを浮かべて、ある提案を口にした。
「須永さん、どうだろう、俺と取引をしないか?」
「取引?」
突然の申し出に、理解が追いつかない。
丸い目をさらに見開いてキョトンとする千春に、涼弥が言う。
「俺の条件を呑んでくれるなら、一乃華に影響がないようにこの見合いをなかったことにしてあげるし、家の立て直しにも協力しよう」
涼弥が並べる好条件のカードに、思わず息を呑む。
「条件は、なんですか?」
なにを引き換えにすれば、それを叶えてもらえるのだろう。
自分のできることならなんでもすると、祈るように見つめる千春に、涼弥は思いがけないことを口にした。
「家のためにあんな男と結婚するくらいなら、俺と結婚しないか?」
「はい?」
予想外の提案に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
そんな千春の反応を楽しむように、涼弥は上品に口角を持ち上げる。
「こう言っては失礼かもしれないが、ウチが一乃華の土地や財産をあてにすることはない。だから約束を違える心配をする必要はない」
確かに大企業である喜葉竹グループに、一乃華が勝るところなどない。強いて言うなら、一乃華の方が蔵の歴史が長いことくらいだ。
涼弥の人柄を考えれば、もとよりその心配はないのだけど。
「でも……」
だからこそ、彼が何故自分との結婚を望むのかわからない。
まさに今、同じような条件の見合いに飛びついて、痛い目に遭っているところなので、どうしても警戒心が働く。
千春が答えられずにいると、男が二人、声を荒らげながらこちらへ近付いてくる気配がした。
見合い相手の男が、本当に父親を呼んできたらしい。
父親に向かってなにか捲し立てている男の声に気を取られていると、涼弥に腕を引かれてバランスを崩した。
「――っ」
前のめりになる千春の体を素早く抱きしめて、涼弥は挑発的な表情で聞いてくる。
「考えている暇はないようだが、どうする?」
綺麗に持ち上がった口角に、彼のしたたかさを感じる。
きっと涼弥は、千春がどちらを選ぶのかすでにわかっているのだろう。
――結婚するなら、涼弥さんがいい。
さっき、咄嗟に胸に浮かんだ本心を再確認した千春は、覚悟を決めて涼弥を見上げる。
「五十嵐さんのご提案を、お受けしたいと思います」
千春の言葉に、涼弥が満足そうに目を細める。晴れやかなその表情は魅力的で、そんな状況じゃないとわかっているのについ見惚れてしまう。
「では、交渉成立ということで」
涼弥は狩りに成功した獣のような誇らしげな表情を浮かべると、千春の背中に回した腕でそのまま強く抱き寄せた。
「おいっ! お前、人の女になにしてるんだっ!」
「須永千春、ウチの息子に恥をかかせて、家がどうなるかわかっているのかっ!」
駆けつけるなり、親子が揃って怒声を上げる。
家のことを引き合いに出され、思わず肩を跳ねさせる。そんな千春の耳元に顔を寄せ「大丈夫だ」と囁いた涼弥は、二人に冷めた視線を向けた。
「彼女が誰のものだと?」
不快さを隠さない涼弥の声に、息子の方は「ああ?」と不機嫌に眉を跳ねさせる。けれど、父親は彼の顔を見るなり表情を一変させた。
緊張した面持ちですぐさま息子の肘を掴んで合図を送るが、息子の方はそれを無視して涼弥に詰め寄る。
「は? コレに決まってるだろ」
そう言って男が千春に腕を伸ばしてくると、涼弥は素早く千春を背に庇う。
そして伸びてきた男の腕を取り、あっさりとねじ伏せた。
「痛ッ」
後ろ手に腕を捻られた男は、痛みに顔を歪めて地面に膝をつく。
「オヤジ、警察を呼んでくれ。立派な傷害事件だ」
腕を捻られたまま騒ぐ男性は、涼弥に攻撃的な眼差しを向けている。
けれど彼の父親が、息子に同意する気配はない。
「警察を呼びますか?」
涼弥は、冷めた眼差しを父親に向けた。
膝をつく息子に合わせて腰を屈め、上目遣いで父親を見つめる彼の顔には「できるものならやってみろ」と書いてある。
どこまでも強気な涼弥の態度を見れば、この場の主導権が誰の手にあるのかは一目瞭然だった。
「と、とんでもない。……五十嵐様、ご無沙汰しております」
騒ぐ息子には目もくれず、父親が卑屈な愛想笑いを浮かべる。
「おや、お会いしたことがありましたか?」
「五十嵐……って、まさか喜葉竹グループの?」
涼弥の苗字を耳にしたことで、息子もピンとくるものがあったらしい。涼弥の会社の名前を口にして、一気に顔を青くする。
相手が戦意を喪失したのを見て、涼弥は息子から手を離した。
よろよろと立ち上がった息子に構うことなく、父親は自分の勤める銀行の名前と、自身の役職を涼弥に伝える。
「失礼。喜葉竹がメインバンクを都市銀行に移してから、そちらの銀行には祖父の代に懇意にしていた頭取さんの顔を立て一部の個人資産をお預けしているだけなので。たいした肩書きでもない行員さん一人一人の名前までは覚えていなくて」
見合い相手の父親の役職を確認した上で、涼弥はさらりと言ってのける。
「いえいえとんでもない。これを機会にぜひ覚えていただければ」
先ほど千春親子に見せていた横柄な態度を引っ込めて、どこまでも低姿勢に出る相手に、涼弥はさらなる毒を吐く。
「ええ、覚えました。今日の夜にでも、そちらの担当者に今日のことを報告させていただきます。貴方方親子の態度があまりにも目に余り、そのような行員がいる銀行は信用できないので、預けている資産を全て他行に移させてもらう旨、きっちり伝えさせていただきます」
「そんなっ! 困りますっ」
経営資金のために銀行から借り入れをしている一乃華と違って、涼弥は資産を預けているだけなのだろう。そして相手の態度を見るに、その額は相当なものらしい。
「ああ、中途半端に担当者を間に入れて間違った情報が伝わるのも良くないですね。人が間に入ると、話が歪んで伝わることが多々ありますから。それは、私としても不本意です」
「……」
涼弥の言葉に、相手の表情が一瞬和む。
長い指で自分の顎のラインをなぞり、少し考えるそぶりを見せた涼弥は、名案が思い付いたといった感じで言う。
「融資の打ち切りをちらつかせて若い女性に婚姻を迫るなんて、行員の風上にも置けない。私から、しっかり頭取に伝えておきます。彼はそういった横暴を許す人ではないので、必ず正しい判断をしてくれるでしょう」
「ま、待ってください! それだけは……」
冷静に考えれば、涼弥の言うとおり、そもそも銀行の資産は彼ら親子の物じゃないのだから、この男との結婚によって融資の条件が変わるはずがないのだ。
なにより、融資の打ち切りを盾に縁談を無理強いするなんて、公私混同も甚だしい。
「悪評が広まる前に、今後の進退について考えておくことをお勧めします」
情けない声を上げる相手に対して、涼弥はどこまでも容赦ない。
言葉遣いが丁寧なだけに、彼の怒りの度合いが伝わってきて怖いくらいだ。
「あの……これは?」
一足遅れで駆けつけた綾子が、戸惑いの声を上げる。
涼弥の存在に気付いた綾子は、「喜葉竹さんのとこの……?」と、怪訝そうな面持ちで彼に曖昧な会釈を送る。彼がこの場にいることが、不思議でしょうがないのだろう。
涼弥の方はといえば、礼儀正しく綾子に頭を下げて事情を説明する。
「え、ちょっとっ!」
有無を言わせぬ勢いで千春を立ち上がらせ、そのまま腕を引いて歩き出す。
さすがに失礼だと思ったのか、背後で母が戸惑いの声を上げているのが聞こえた。
だけど、相手の父親が息子を止める気配はない。その隣の奥方に至っては、首がもげてしまうのではないかと思うほど頭を低くしていた。
そうして千春を外に連れ出した見合い相手は、景色を楽しむわけでもなく、無言のまま足早にホテルの庭園を進んでいく。
そして背の高い樹木と萩の茂みで周囲の視界が遮られる場所まで来ると、掴んでいた手首を離し、スーツの内ポケットから電子煙草を取り出した。
「煙草を吸われるなら、喫煙所に行きませんか?」
カチリと電源を入れ加熱を待つ彼に、千春がそう提案する。しかし相手は鼻で笑い、首を反らして煙草を咥えた。
そして空に向かって白い煙を吐き出しながら言う。
「喫煙所なんかで吸ったら、他のヤツの匂いがつくだろ」
バカじゃないのか。そう呟き、煙をくゆらせる。
灰色の空に煙草の煙が溶けていく様を見ていると、目の前の男に対する嫌悪感が抑えられなくなってきた。
自分が吐き出した煙を見るともなく見上げ、男が言う。
「それと、仕事はさっさと辞めろよ」
「え?」
「どうせ結婚したら、仕事を辞めて家事をするんだから、続けても意味はないだろう」
千春も、もし結婚して地元に戻ることになれば、今の仕事を続けられないことは理解していた。
けれど今の仕事には愛着があるし、任されている仕事への責任感もある。
結婚して地元に戻るにしても、今担当している仕事全てに区切りをつけてからのつもりでいたし、結婚後もこちらでなにかしらの仕事をする気でいた。
いくらなんでも、千春の考えを確かめることもなく、一方的に意見を押しつけられても困る。
せめて、TUYUKAのホームページの仕事が終わるまで待ってほしい。
「仕事は、任されている企画もありますので、すぐに辞めることはできません」
それは譲れないと訴える千春に、相手は意地の悪い笑みを浮かべる。
「どうせ、誰にでもできる仕事をしているんだろう? 辞める会社に義理立てする必要なんかないだろ」
冷めた口調で話す彼には、千春の仕事に対する思いを理解する気はなさそうだ。
その姿に、どうしても確かめてみたくなる。
「私がどんな仕事をしているか、ご存じですか?」
その問いに、男は軽く眉を動かすだけで答えない。
見合いの形を取っているので、千春の釣書は相手に送っている。
でも、おそらく彼は、それに目を通していないのだろう。
結婚を提案しておきながら、千春を理解しようという意思が感じられない。
千春は仕事も含め、多くのことを諦める覚悟でこの見合いに臨んでいるのに。
――この人と、仲良く暮らせる自信がない。
というか、仲良くなれない自信がある。
しかし、千春の方からこの見合いを断るわけにはいかないのだ。だから、自分なりに感情と折り合いをつけなくちゃいけない。
「我が家の経営状況について、少し説明させていただいてもよろしいでしょうか……」
千春がこの縁談を受けた目的は、一乃華への支援にある。
だから具体的な支援内容を聞かせてもらえれば、少しはこの縁談に前向きになれるはずだ。
そう思って話を振った千春に、相手はとんでもない言葉を投げかけてくる。
「一乃華の土地は、更地にしてマンションを建てる予定だから」
「はい?」
意味がわからないと目を瞬かせる千春に、相手は饒舌に語る。
「お前の実家、ウチにいくら借金してるかわかる? ウチは潰れかけている酒蔵にこれ以上の融資をするつもりはない。そのうち倒産して、債権回収で土地を取り上げられるくらいなら、今のうちに廃業した方がいいだろう。立地はいいから、賃貸マンションを建てて家賃収入を得られるようにする。そのための根回しと事業計画書はこっちで準備してやるよ」
一乃華周辺の土地は、土地開発が進んだおかげで利便性が上がり、地価が高騰していると聞く。
古くからそこに建つ一乃華の敷地面積は広く、そこにマンションを建てれば需要はあるだろう。
しかし千春たち家族は、先祖代々受け継いだ土地や会社をそんなふうに変えるつもりはない。
「結婚したら、ウチの立て直しに協力してくれるんじゃないんですか!?」
だからこの縁談を受けたのに。
戸惑いを露わにする千春に、相手は意地の悪い笑みを浮かべて言う。
「あんな落ち目の酒蔵、今さらどうしようもないだろ。お前の母親とアニキには、管理人の仕事をくれてやる。それで生活には困らないし、文句はないだろ」
「なっ……!」
どこまでも上からな物言いに、頭が白くなる。
もし千春がこの男と結婚したとしても、千春の実家の土地がこの男の物になるわけではないというのに。
あまりのことに絶句する千春の態度をどう思い違いしたのか、男は得意げな表情を浮かべる。
「オヤジの言うとおり、嫁にするなら可哀想な女に限るな。こちらの好きにできるんだから」
ククッと喉を鳴らす彼の言葉に、存在を消すようにして同席していた彼の母親の姿を思い出す。
ここまで聞けば、顔の印象が残らないほど俯いていたあの女性が、どんな経緯で彼の父親と結婚して、どんな夫婦生活を送ってきたかおおよその想像がつく。
「それじゃあ、話が違います……ッ」
やっとの思いでそう言い返し、踵を返そうとした千春の手首を男が掴んだ。
そのまま強く腕を引かれて、慣れない着物ということもありバランスを崩しそうになる。
どうにか踏ん張り、体勢を保つ千春の顔に煙を吹きかけて、男が言う。
「今さら縁談を断って俺に恥をかかせたら、一乃華への融資が止まると思えよ」
吐き捨てる男の言葉に、千春の思考が凍りつく。
さすがにここまで話せば、この男に自分の人生を差し出す価値などないとわかる。けれども、一乃華銘醸のことを出されると、拒絶の言葉を口にすることができない。
家族を助けたくてこの縁談を受けたのに、とんでもない方向に話が進もうとしている。
最悪の状況を回避する術を持たない自分の不甲斐なさに泣きたくなる。
それでも弱気な姿は見せたくないと、奥歯を噛みしめて涙を堪える千春に、男は唐突な質問を投げかけてくる。
「ところでお前、スリーサイズは?」
「え?」
ありえないくらい話が飛んだ。
そう思ったのは一瞬で、ねっとりとした男の眼差しから、その意味を理解した千春の背筋に冷たいものが走る。
敢えて意識しないようにしていたが、彼と結婚すれば、当然この男に体を求められることになるのだ。
「着物でわかりにくけど、胸のサイズはCかDってところか?」
「……っ」
ニタニタ笑いながら投げかけられる品のない問いに鳥肌が立つ。
「答えないなら、直接確認してやろうか?」
「――っ!」
――誰か助けてっ!
心の中でそう叫ぶ千春の脳裏に浮かぶのは、涼弥の顔だ。
不毛な片思いを続けるくらいなら、家族のために結婚しようと覚悟を決めたはずなのに、結婚に含まれる具体的な内容が浮き彫りになった途端、彼以外の人と結婚するなんて絶対に無理だとわかってしまった。
男が電子煙草をしまい、千春の着物の合わせ目に手を入れようとしてくる。その時、どこかから伸びてきた手がその手首を掴んだ。
「わっ! 痛っ!」
突然腕を捻られた男は、悲鳴を上げて暴れた。
その弾みで手首を解放された千春が、バランスを崩して転びそうになる。だけど、素早く伸びてきた腕が、よろめいた体を支えてくれる。
「大丈夫か?」
心地よく響く低音が、そう問いかけてくる。
よく知るその声に、千春の鼓動が大きく跳ねた。
――そんな夢みたいなこと、あるはずがない。
自分にそう言い聞かせつつ後ろを仰ぎ見て、千春は目を見開く。
「五十嵐さん……どうして?」
腰に腕を回し、自分の体を支えてくれているのは、涼弥だった。
――どうして彼がここに……
思考が追いつかず目を丸くする千春に、涼弥が気遣わしげな視線を向ける。
「大丈夫か?」
涼弥はもう一方の手で見合い相手である男の腕を捻っている。
それほど体格差があるようには見えないが、片手一本で後ろ手にねじ伏せられた男は、地面に膝をついて「痛いっ離せ」と騒いでいた。
涼弥が現れなければ、この男に胸を触られていたかもしれない。そう思うと、強い嫌悪感が込み上げてきて体が震えてくる。
「五十嵐さんが来てくれたから大丈夫……」
「間に合って良かった」
涙ぐむ千春の体を両腕で抱きしめて、涼弥はほっとした声で呟く。
と同時に、乾いた砂の上を重たいものが滑る音が聞こえた。
視線を向けると、腕を離されたことでバランスを崩した男が地面に倒れ込んでいた。
「テメエ、ふざけるなよ。人の女に気安く触れるんじゃねぇっ!」
素早く立ち上がった男は、顔を真っ赤にして涼弥に詰め寄る。
そして腕を伸ばし、千春の腕を掴もうとしてきたけれど、涼弥が身をもってそれを阻んだ。
「ずいぶんと品のない言葉遣いだな。しかも女性の扱いもなっていない。お前みたいな知性の欠片も感じない男を、彼女が選ぶとは思えないが?」
片手で千春の肩を抱き、男との距離を取りながら涼弥が言う。
その声は冷ややかで、彼に対する嘲りが感じられた。
「お前、何様のつもりだよっ!」
ツバを飛ばして騒ぐ男に、涼弥は冷ややかな眼差しを向けてしばし考え込む。
すぐになにか思いついた様子でニッと口角を上げると、穏やかな口調で提案する。
「私が何者かは、貴方のお父上に確認してみたらどうですか? お父上が勤める銀行とは付き合いもありますし、もし近くにいらっしゃるのなら、ここに連れてきたらいい」
「なんだお前、ウチから金を借りてるのか」
涼弥の言葉に、男の顔が意地悪く歪む。
その表情で「それでよくこんな態度を取れたよな」と思っているのがわかった。
涼弥は男の質問に答えることなく、そっと肩をすくめる。
「ウチから金を借りてとは……一銀行員の身で、ずいぶんと勘違いした発言ですね」
明確な嘲りを含んだ涼弥の声に、男がグッと奥歯を噛んだ。
怒りで紅潮する見合い相手の顔を見て、千春は慌てて仲裁に入る。
「この人は、関係ありません……」
涼弥の素性を知られないように、言葉を選ぶ。
さすがに涼弥の会社は、この銀行から融資を切られたくらいで倒産することはないだろうけど、面倒事に巻き込むわけにはいかない。
だけど男は千春の言葉を無視して「ここで待ってろよっ!」と吐き捨てると、足早にその場を去っていった。本当に父親を呼びに行くつもりらしい。
「待ってくださいっ」
慌ててその背中を追いかけようとした千春の体を、涼弥が両腕で抱きしめる。
「ほっとけばいい。そんなことより、千春ちゃんは大丈夫?」
不意に昔のように下の名前で呼ばれて、鼓動が大きく跳ねる。
「はい。涼弥さんが、来てくれたから」
彼につられて、千春も昔のように彼の名前を口にする。
「そうか。良かった」
心から安堵した様子の涼弥を目にした途端、千春の緊張の糸が切れた。
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。そんな千春の体を涼弥が抱き留めた。
「千春ちゃんっ!」
自分を支える彼の手を握りしめても、指先の震えを抑えることができない。
涼弥は、そんな千春の体をもう一度抱きしめてきた。
まるで自分の腕の中に千春がいることを確かめるような力強い抱擁に、守られている安心感を覚える。
「あの、五十嵐さんは、どうしてここに?」
少し気持ちが落ち着いたことで、冷静な思考が戻ってくる。千春は、彼の呼び方をいつもどおりに戻して聞く。
支えてもらわなくても、もう大丈夫と、彼の腕を軽く押して自分の足で立つ。
適切な距離感に戻ったのに、涼弥が若干不満そうな顔をしているのはどうしてだろうか。
なにか失礼なことをしたのだろうかと、首をかしげる千春を見て、涼弥は少し乱れた前髪を整えて答える。
「俊明さんから、今日、君が見合いをすると聞いた」
「ああ……」
兄は今日、地元の酒造メーカーの会合に出席している。喜葉竹グループの跡取りとして、涼弥もそれに出席していたらしい。
「そこで、君の見合い相手がどんな人間か知っているかと聞かれたよ。俊明さんは、今回の見合いについて、かなり心配していた」
父の急逝後、どうにか一乃華の業績を回復しようと奔走している兄に、これ以上心配をかけたくなくて、見合いのことはギリギリまで伏せておくよう母に頼んでいた。
それでも兄は千春のことを心配して、涼弥に相談したらしい。
「あの男は、父親の権力を笠に着て、新人行員や小規模事業主に圧をかけて追い込むことに生きがいを感じるような性悪だし、父親の方も決して好感の持てるタイプではない。見合いの目的はだいたい俊明さんから聞かせてもらったけど、結婚したところで、須永さんが願っているような結果は得られないと思うよ」
「そう……ですね」
見合いの途中から、千春もそのことは察していた。けれど相手が一乃華のメインバンクの重役なだけに、千春にはこの先どうすればいいのかわからなかった。
「あんな男と結婚して、幸せになれると思うか?」
「……私はただ、家を守りたかっただけなんです」
諭すような涼弥の言葉に、細い声でそう返すことしかできない。
結局、家族によけいな負担をかけることになってしまった。
うなだれる千春の手首を、涼弥が掴んだ。
驚いて顔を上げると、涼弥の方へと引き寄せられる。
「五十嵐さん……、あの?」
端整な彼の顔は、間近で見ると一段と美しく、そんな場合じゃないと思いつつも目が離せなくなる。
戸惑う千春の目を見つめ、涼弥は癖のある笑みを浮かべて、ある提案を口にした。
「須永さん、どうだろう、俺と取引をしないか?」
「取引?」
突然の申し出に、理解が追いつかない。
丸い目をさらに見開いてキョトンとする千春に、涼弥が言う。
「俺の条件を呑んでくれるなら、一乃華に影響がないようにこの見合いをなかったことにしてあげるし、家の立て直しにも協力しよう」
涼弥が並べる好条件のカードに、思わず息を呑む。
「条件は、なんですか?」
なにを引き換えにすれば、それを叶えてもらえるのだろう。
自分のできることならなんでもすると、祈るように見つめる千春に、涼弥は思いがけないことを口にした。
「家のためにあんな男と結婚するくらいなら、俺と結婚しないか?」
「はい?」
予想外の提案に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
そんな千春の反応を楽しむように、涼弥は上品に口角を持ち上げる。
「こう言っては失礼かもしれないが、ウチが一乃華の土地や財産をあてにすることはない。だから約束を違える心配をする必要はない」
確かに大企業である喜葉竹グループに、一乃華が勝るところなどない。強いて言うなら、一乃華の方が蔵の歴史が長いことくらいだ。
涼弥の人柄を考えれば、もとよりその心配はないのだけど。
「でも……」
だからこそ、彼が何故自分との結婚を望むのかわからない。
まさに今、同じような条件の見合いに飛びついて、痛い目に遭っているところなので、どうしても警戒心が働く。
千春が答えられずにいると、男が二人、声を荒らげながらこちらへ近付いてくる気配がした。
見合い相手の男が、本当に父親を呼んできたらしい。
父親に向かってなにか捲し立てている男の声に気を取られていると、涼弥に腕を引かれてバランスを崩した。
「――っ」
前のめりになる千春の体を素早く抱きしめて、涼弥は挑発的な表情で聞いてくる。
「考えている暇はないようだが、どうする?」
綺麗に持ち上がった口角に、彼のしたたかさを感じる。
きっと涼弥は、千春がどちらを選ぶのかすでにわかっているのだろう。
――結婚するなら、涼弥さんがいい。
さっき、咄嗟に胸に浮かんだ本心を再確認した千春は、覚悟を決めて涼弥を見上げる。
「五十嵐さんのご提案を、お受けしたいと思います」
千春の言葉に、涼弥が満足そうに目を細める。晴れやかなその表情は魅力的で、そんな状況じゃないとわかっているのについ見惚れてしまう。
「では、交渉成立ということで」
涼弥は狩りに成功した獣のような誇らしげな表情を浮かべると、千春の背中に回した腕でそのまま強く抱き寄せた。
「おいっ! お前、人の女になにしてるんだっ!」
「須永千春、ウチの息子に恥をかかせて、家がどうなるかわかっているのかっ!」
駆けつけるなり、親子が揃って怒声を上げる。
家のことを引き合いに出され、思わず肩を跳ねさせる。そんな千春の耳元に顔を寄せ「大丈夫だ」と囁いた涼弥は、二人に冷めた視線を向けた。
「彼女が誰のものだと?」
不快さを隠さない涼弥の声に、息子の方は「ああ?」と不機嫌に眉を跳ねさせる。けれど、父親は彼の顔を見るなり表情を一変させた。
緊張した面持ちですぐさま息子の肘を掴んで合図を送るが、息子の方はそれを無視して涼弥に詰め寄る。
「は? コレに決まってるだろ」
そう言って男が千春に腕を伸ばしてくると、涼弥は素早く千春を背に庇う。
そして伸びてきた男の腕を取り、あっさりとねじ伏せた。
「痛ッ」
後ろ手に腕を捻られた男は、痛みに顔を歪めて地面に膝をつく。
「オヤジ、警察を呼んでくれ。立派な傷害事件だ」
腕を捻られたまま騒ぐ男性は、涼弥に攻撃的な眼差しを向けている。
けれど彼の父親が、息子に同意する気配はない。
「警察を呼びますか?」
涼弥は、冷めた眼差しを父親に向けた。
膝をつく息子に合わせて腰を屈め、上目遣いで父親を見つめる彼の顔には「できるものならやってみろ」と書いてある。
どこまでも強気な涼弥の態度を見れば、この場の主導権が誰の手にあるのかは一目瞭然だった。
「と、とんでもない。……五十嵐様、ご無沙汰しております」
騒ぐ息子には目もくれず、父親が卑屈な愛想笑いを浮かべる。
「おや、お会いしたことがありましたか?」
「五十嵐……って、まさか喜葉竹グループの?」
涼弥の苗字を耳にしたことで、息子もピンとくるものがあったらしい。涼弥の会社の名前を口にして、一気に顔を青くする。
相手が戦意を喪失したのを見て、涼弥は息子から手を離した。
よろよろと立ち上がった息子に構うことなく、父親は自分の勤める銀行の名前と、自身の役職を涼弥に伝える。
「失礼。喜葉竹がメインバンクを都市銀行に移してから、そちらの銀行には祖父の代に懇意にしていた頭取さんの顔を立て一部の個人資産をお預けしているだけなので。たいした肩書きでもない行員さん一人一人の名前までは覚えていなくて」
見合い相手の父親の役職を確認した上で、涼弥はさらりと言ってのける。
「いえいえとんでもない。これを機会にぜひ覚えていただければ」
先ほど千春親子に見せていた横柄な態度を引っ込めて、どこまでも低姿勢に出る相手に、涼弥はさらなる毒を吐く。
「ええ、覚えました。今日の夜にでも、そちらの担当者に今日のことを報告させていただきます。貴方方親子の態度があまりにも目に余り、そのような行員がいる銀行は信用できないので、預けている資産を全て他行に移させてもらう旨、きっちり伝えさせていただきます」
「そんなっ! 困りますっ」
経営資金のために銀行から借り入れをしている一乃華と違って、涼弥は資産を預けているだけなのだろう。そして相手の態度を見るに、その額は相当なものらしい。
「ああ、中途半端に担当者を間に入れて間違った情報が伝わるのも良くないですね。人が間に入ると、話が歪んで伝わることが多々ありますから。それは、私としても不本意です」
「……」
涼弥の言葉に、相手の表情が一瞬和む。
長い指で自分の顎のラインをなぞり、少し考えるそぶりを見せた涼弥は、名案が思い付いたといった感じで言う。
「融資の打ち切りをちらつかせて若い女性に婚姻を迫るなんて、行員の風上にも置けない。私から、しっかり頭取に伝えておきます。彼はそういった横暴を許す人ではないので、必ず正しい判断をしてくれるでしょう」
「ま、待ってください! それだけは……」
冷静に考えれば、涼弥の言うとおり、そもそも銀行の資産は彼ら親子の物じゃないのだから、この男との結婚によって融資の条件が変わるはずがないのだ。
なにより、融資の打ち切りを盾に縁談を無理強いするなんて、公私混同も甚だしい。
「悪評が広まる前に、今後の進退について考えておくことをお勧めします」
情けない声を上げる相手に対して、涼弥はどこまでも容赦ない。
言葉遣いが丁寧なだけに、彼の怒りの度合いが伝わってきて怖いくらいだ。
「あの……これは?」
一足遅れで駆けつけた綾子が、戸惑いの声を上げる。
涼弥の存在に気付いた綾子は、「喜葉竹さんのとこの……?」と、怪訝そうな面持ちで彼に曖昧な会釈を送る。彼がこの場にいることが、不思議でしょうがないのだろう。
涼弥の方はといえば、礼儀正しく綾子に頭を下げて事情を説明する。
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