寝ても覚めても恋の罠!?

冬野まゆ

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1巻

1-2

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 強く押さえ付けられているわけでもないのに、花芯がキリキリと引き絞られるように痛い。その痛みと共に、鈴香の体の奥が妙にうずいた。
 それを見透みすかしているのか、雅洸は触れるか触れないかの微妙なところでれったく指を動かしている。

「んんっ……!」

 雅洸に心臓の音を聞かれるのではないかと、恥ずかしがっている余裕はもうない。鈴香はこの切ない熱の逃がし場所を求めて雅洸の背中に手を回し、彼の首筋に強く顔を押し付けた。

「そうやって、素直に感じていればいいよ」

 そうささやき、雅洸は長い人差し指を下着の中へと忍び込ませてくる。
 彼の指がヌルリとした感触と一緒に薄い茂みをかき分け、鈴香の肉襞にくひだに触れた。

「――――っ!」

 戸惑う鈴香をよそに、雅洸はゆっくりと指を動かす。

「嫌がっているわりには、もう濡れているよ」
「…………」

 認めがたい事実を突き付けられ、鈴香は息を呑んだ。
 自分の中からなにか熱いものがあふれてくるのは感じていたが、それを雅洸に指摘されると、とたんに羞恥心しゅうちしんに襲われる。

「別に恥ずかしがることじゃないよ。鈴香が、俺を欲しがっている証拠なんだから」

 雅洸はそう言って、彼女の肉襞にくひだに浅く指を入れた。

「やぁっ」

 不意に与えられた刺激に思わず悲鳴を上げると、雅洸が「心配しなくても大丈夫だよ」と笑う。

「鈴香とは結婚するんだから、焦ってこんな場所で最後まで奪ったりしない」
「う……」

 奪うという言葉で、この行為の主導権がどちらにあるのかを思い知らされる。
 緊張と羞恥しゅうちで硬直した鈴香のほおに、雅洸の唇が触れ、そして静かに離れた。
 それに合わせて、雅洸の指も鈴香の秘部から離れる。

「続きは、また今度」

 解放されてもなお、体には愛撫あいぶ余韻よいんが強烈に残っている。鈴香は赤面したまま黙り込んだ。
 雅洸は「嫌なら、結婚してからでいいよ」と笑った。
 その行為が嫌なわけではない。結婚すれば、当然のようにすることだとも思う。
 けれど、その結婚相手が雅洸でいいのか――自分の歩むべき道がこれで合っているのか自信がない。そんな鈴香に、雅洸が宣言する。

「鈴香が短大を卒業して、俺も今の仕事が落ち着いたら、結婚するから」
「えっ……」

 結婚しようではなく、結婚すると断言されて、体の熱が一気に冷めていく。
 小説やドラマでは、男性が女性に――ときどきはその逆もあるけど――「結婚してください」といった感じで申し込むのが普通だ。それなのに、雅洸は鈴香の意思を確かめようともしなかった。
 それはあくまでも恋愛結婚の話で、自分たちのような許嫁いいなずけの間には必要ないのかもしれないが……
 ふとスクリーンへ視線を向けると、映画のヒロインが王子様と愛の言葉を交わしていた。
 永遠の愛を誓う王子様に、ヒロインがまぶしいほどの笑顔を見せている。

「……」

 花が咲き誇るようなその表情が、鈴香の心に影を落とした。
 隣では雅洸が、何事もなかったかのようにスクリーンを眺めている。
 なにを考えているのか読み取れないその横顔と、スクリーンを見比べて、鈴香はそっと溜息をいた。
 ――雅洸さんって私との結婚に、なにを求めているのかな?
 さっきの行為は、雅洸なりの愛情表現なのだろうか。
 だとしたら鈴香も、スクリーンの中のヒロインのように、雅洸の結婚宣言を喜ぶべきだったのかもしれない。
 ――でも……
 なぜだか素直に喜ぶことが出来ない。鈴香は落ち着かない心のまま、雅洸の隣で映画を眺めた。


 試写室を出ると、空調がきいた施設内と外の気温差に、くらりと目眩めまいがした。
 それに、さっきの雅洸の言葉が妙に心にひっかかっていて、もやもやが消えない。
 駐車場に向かう雅洸のうしろを無言で歩いていると、彼が不意に足を止めた。
 不思議に思って顔をのぞき込んだとき、なにかを見上げていた雅洸の唇が「嘘だろ」と動く。
 その視線を追うと、大きな街頭モニターが見えた。

「嘘っ!」

 モニターを見上げた鈴香も、息を呑んで硬直した。
 無音で流れる情報番組のテロップには『ハナミヤ産業 会社更生法適用へ』とある。
 カイシャコウセイホウテキヨウ――
 よく知っている会社名の後に、不吉な言葉が続いていた。会社更正法ということは、すなわち会社の経営が立ち行かなくなっているということだ。
 すぐさまどこかに電話をかけた雅洸の口から、「倒産?」「間違いないのか?」といった言葉が聞こえてくる。

「……」

 自分の身に、一体なにが起きているのか。
 世界が足元から崩れ落ちていくような感覚に震えが止まらない。
 呆然とする鈴香の体を、雅洸が包むように抱きしめてくれた。
 腰に触れる雅洸の手が温かい。
 鈴香は自分の手を、彼の手に添えた。モニターを見て一気に血の気が引いた体に、体温が戻ってくるのを感じる。

「俺がいるから大丈夫」

 電話の合間に、雅洸が鈴香の耳元でささやいた。

「……私、どうなるんですか?」

 しっかりしようと思うのに、声が震えてしまう。
 不安な眼差しを向ける鈴香に、雅洸は迷いのない声で言う。

「俺が結婚してあげるから、心配しなくていいよ」
「……」

 すがるような思いで彼を見上げていた鈴香は、「結婚してあげる」という言葉に、止まりかけていた指の震えがふたたび強まるのを感じた。


 鈴香の家へと向かう車の中で、雅洸がさっき電話で集めた情報をかいつまんで話してくれた。
 でも今の鈴香の頭には、その情報がうまく入ってこない。
 ぼんやりした頭で理解出来たのは、三つのことだけ。
 ハナミヤ産業が事実上の倒産をしたこと。それにともない、社長である父の博茂が社長職を辞すること。そして、法人債務の連帯保証人である博茂は、財産のほとんどを失うだろうということだった。

「俺がいるから大丈夫だよ」

 赤信号で車を停めた雅洸が、左手をハンドルから離して鈴香の手を握る。

「……」

 鈴香は雅洸を見た。
 前を向いたままの雅洸は、いつもと変わらない強気な顔をしている。鈴香の身に起きたことなどたいしたことではないのだと、その横顔が物語っていた。

「倒産は決定事項だし、博茂さんの退任も回避出来ない。それにともなって鈴香の生活にも変化が生じるだろう。……でも俺がいるから大丈夫だ」
「大丈夫って?」
「卒業までの学費や生活費は俺が面倒みるし、卒業した後はすぐ俺と結婚すればいい。鈴香はなにも考えず、今まで通りに過ごせばいいよ」
「今まで通り……」

 それは、今まで鈴香に必要なもの全てを与えてくれていた人が、両親から雅洸に変わるだけということだろうか。これからも鈴香は、自分でなにかを選ぶことなく、雅洸に与えられるものをただ受け取っていればいいということだろうか。

「……」

 鈴香の人生を、鈴香以外の人が決めていく。
 それでは駄目な気がする。
 鈴香は雅洸に触れられている、自分の指先を見つめた。いまだに震えが止まらない。

「大丈夫だから」

 優しく繰り返す雅洸に、鈴香は問いかける。

「もし明日、雅洸さんの会社が倒産したら、私はどうしたらいいんですか?」
「そんなこと、あるわけないだろ」
「父の会社が倒産するなんて、あるわけない。……私もさっきまでそう思ってました」

 かすかに震える声で話す鈴香に、雅洸はやれやれと言うように肩をすくめた。

「まあ、この世に絶対なんてないからな。……でも、もしそうなっても問題ない。俺にはそれなりの資産があるし、新たに起業して巻き返すだけの才覚もある」

 雅洸はそう断言する。
 自信過剰と思われかねない台詞せりふだけれど、雅洸のことをよく知っている人にはわかる。彼の自信は確かな実績に裏打ちされたものなのだと。

「とにかく俺といれば、なんの心配もないよ」

 だからおびえることはない、と彼は触れている手に力を込める。
 きっと、その通りなのだろう。
 今まで両親に庇護ひごされてきたのと同じように、今度は雅洸に庇護ひごされて生きていけばいい。
 それが一番楽だ。
 ――でも……
 それはものすごく危険なことのような気がする。

「どうして、私と結婚しようと思うんですか?」

 自分の中にうず巻く不安の出口を探して、鈴香は雅洸に問いかけた。切実な眼差しを向ける鈴香に、雅洸がさとすような口調で答える。

「今さら、ほっとけないだろ」

 その言葉に、鈴香は静かに息を呑んだ。
 ――雅洸さんは、私との結婚に、なにも求めていないんだ。
 鈴香と雅洸の間にあるのは、お互いの家の利害関係と、許嫁いいなずけとして過ごすうちにはぐくまれた「親しみ」や「情」といった、恋愛感情とは違う感情なのだろう。
 そんな同情的な立場で結婚してもらったら、鈴香はこの先ずっと雅洸に遠慮しなくてはいけなくなる。
 そうなればさっきの映画のヒロインのように、愛を告げられて手放しに喜ぶ瞬間なんて一生訪れない。
 ――私、なにも考えてなかった。
 なにもかも与えてもらうことに慣れていた鈴香は、今さらながらに気付いた。自分が、結婚の意味を深く考えていなかったことに。

「…………しません」

 鈴香はポツリとつぶやいた。

「え? なんて言った?」

 うまく聞き取れなかったらしい雅洸に、同じ言葉を繰り返す。

「私は、雅洸さんと結婚しませんっ!」
「…………なんで?」

 理解出来ない。ハンドルに体重を預けるようにしてこちらをのぞき込む雅洸の顔に、そう書いてある。
 いつもより少し位置が低くなった雅洸の目を見つめて、鈴香は呼吸を整えた。
 ――雅洸さんの目、初めて同じ高さでちゃんと見た気がする。
 子供の頃から見上げてばかりいたし、デートのときは、雅洸に手を引かれて歩くことが多かった。
 同じ高さで正面から見る雅洸は、凛々りりしく精悍せいかんな顔立ちをしている。
 ――迷いがない、自信にあふれた大人の男の顔だ。
 そんな雅洸と鈴香のことを周囲が「お似合い」と言ってくれていたのは、「お似合いの二人」ではなく「お似合いの家柄」という意味だったのだろう。
 今回のことで、その家柄を失ったも同然の鈴香は、自分のことすら一度も選んだことがない、中身のない人間だった。
 全てを失っても自力で巻き返せるという雅洸とは違って、途方に暮れることしか出来ない。
 こんな自分は雅洸に不釣り合いだ。
 たとえ彼の情にすがって結婚しても、愛し合う関係にはなれないだろう。なにも出来ない自分は、雅洸にとって真剣に向き合う価値がない。
 そのことに気付いてしまった以上、この先雅洸の隣にいても、きっと辛くなるだけだ。
 鈴香は心の中で自分にそう言い聞かせ、ゆっくりと息を吐いて呼吸を整えた。

「一方的に頼るだけの結婚なんて、私はしたくないんです。……私は、ちゃんと自分の力で生きていけるようになってから、そのときに好きだと思える人と結婚したいです」
「なにを言ってるんだ?」
「私たちの婚約は、私が大人になったときに双方に異存がなかったら……という条件付きです。今の私は、雅洸さんとの結婚を望みません。だから婚約を破棄します」

 鈴香は雅洸の目を見て、そう宣言したのだった。


   2 それから五年

 ハナミヤ産業が倒産してから五回目の夏が来た。
 都内の一等地にある屋敷を失い、無一文になった花宮家の末路まつろは悲惨なものだった。
 鈴香の母、香穂子かほこはお嬢様育ちで苦労したことがない。そんな彼女が貧乏な暮らしに耐えられるはずもなく、自分を窮地きゅうちに追いやった夫、博茂を憎むようになった。博茂自身も会社を失った喪失感そうしつかんから立ち直れず、まるで別人のように性格が変わってしまい、徐々に夫婦間に亀裂きれつが走っていった。
 幼稚園からエスカレーター式の名門私立に通っていた鈴香の苦労も、計り知れないものがあった。短大卒業を間近にして、後期の学費を支払うことが出来ず、自主退学を余儀よぎなくされ……
 ――というようなことは、まったくなかった。
 会社のお盆休みが明けたばかりで忙しく仕事をしていた鈴香は、オフィスにある自分のパソコンの前で、ふとこれまでのことを振り返る。
 ハナミヤ産業の倒産以降、確かに大変ではあった。プール付きの屋敷や別荘を手放したのは事実だし、父が資産のほぼ全てを失ったのも本当だ。
 けれど人間、なかなかしぶといものである。
 父の博茂は自己破産したものの、母の香穂子が祖父母から受け継いだ資産は手元に残った。それに鈴香にだって、自分名義の貯金がそれなりにあったのだ。
 根っからの楽天家である香穂子は、博茂をうらむこともなく、彼との新しい生活を前向きに受け入れていた。
 そして家族で相談した結果、両親は物価の安い郊外に引っ越し、鈴香だけが都内に残って短大を卒業することになったのだ。

「花宮さん、二番にミズモトの刑部おさべさんから電話」
「あ、はい」

 隣に座る同僚、広瀬ひろせ千夏ちなつの言葉に鈴香は返事をし、デスクに設置されている電話の外線ボタンを押した。

荻野おぎのガラス、営業部の花宮です」

 そう名乗る鈴香に、相手は数日前に送ったサンプルについて次々と質問を投げかけてくる。
 それらの質問に答えるべく、鈴香は商品に関するファイルを手にページをめくった。そうしながら、また当時のことを思い出す。
 ――一番苦労したのは、就職だったな。
 鈴香が通っていた、お嬢様学校と名高い私立短大は、就職には恐ろしく不利だった。
 卒業生の進路は結婚か家事手伝い、もしくは留学というのがお決まり。たまに就職する子がいても縁故採用が当たり前だった。
 そんな学校なので就職課はまともに機能しておらず、夏休みが終わってから就職したいと言い出した鈴香の助けにはなってくれなかった。
 仲の良かった友達は親の会社で働かないかと誘ってくれたが、鈴香はそれを断り孤軍奮闘こぐんふんとう。自力で今の会社――荻野ガラスの営業職を手にしたのだった。
 荻野ガラスは業界では中堅どころに位置する会社で、技術力に定評があり、海外メーカーからも注文がある。
 国内外問わず舞い込む注文に対応するため、社員が時間差で働いており、大企業のように豊富ではない人員の穴を補うべく、一人一人が頑張っている。そんな会社なので常に活気に満ちていて、鈴香自身も仕事にやりがいを感じていた。
 ――与えてもらう幸せは、楽だけど危うい。
 それがハナミヤ産業の倒産から始まる一連の出来事を受けて、鈴香が導き出した結論だ。
 社会人生活も五年目。それだけの時間を自力で過ごしてきた今の鈴香には、仕事に対するプライドも自信もある。だから昔のような贅沢ぜいたくは出来なくても、毎日が楽しくてしょうがない。
 もしあのとき、雅洸の情にすがるような形で結婚していたら、自分はもっと卑屈ひくつな人間になっていたと思う。
 だから雅洸との婚約を解消したことを、少しも後悔していなかった。

「――わかりました。では、その方向で進めさせていただきます」

 そう言って電話を切り、鈴香は深い溜息をく。すると千夏が「またネチネチ言われた?」と問いかけてきた。
 ミズモトの刑部といえば、サンプルを受け取るたび、添付てんぷされている資料を読めばわかることまでネチネチと質問してくることで有名だ。しかも開発部の者に問い合わせたほうが早いのに、必ず営業部に説明を求めてくる。
「私どもではわかりかねますので開発部に……」と言って電話を回そうとしても、「自分たちが理解してない商品を、他人に売り付ける気かっ!」と怒り出すのだ。だから営業部の人間には敬遠されている。

「ああ、刑部さんのことなら大丈夫です。とらまきを用意してますから」

 そう言って鈴香は千夏に、手にしていたファイルを見せる。
 それは刑部の性格を承知している鈴香が、サンプルを送る際に必ず用意しておく想定問答集だ。
 確かに刑部は、重箱のすみつつくような細かい質問をしてくる。だが自分が納得した製品には、金額の交渉をすることなくすぐに発注してくれるので、ありがたい存在でもあった。
 そんな刑部と円滑な商談をするために、鈴香は前もって彼が質問してきそうなことを想定し、開発部に確認しておくことにしている。
 その結果、刑部の対応は花宮に……、という暗黙のルールが出来上がっていた。
 ミズモトが都内に会社を構えていないこともあり、刑部とのやり取りはもっぱら電話だが、数回顔を合わせたことがある。太い眉をした白髪しらが交じりのおじさんで、見るからに頑固オヤジだった。
 だが、そんな刑部との仕事が、鈴香は嫌いではない。だから鈴香としても、刑部の対応を任されるのは嬉しいことなのだ。

「うわっ! 専門用語がいっぱい」

 とらまきをパラパラめくって、千夏が驚きの声を上げた。
 千夏は三年制の専門学校を卒業していて、年齢は鈴香より一つ上だ。けれど鈴香とは同期入社なので、営業部の中では一番親しい仲である。

「花宮さん、偉いねぇ」

 千夏が感心した様子で何度もうなずくと、その動きに合わせて彼女の癖毛くせげが揺れた。
 無理して自分を飾っても疲れるだけ。そう公言している千夏は、髪型もメイクもナチュラルを心がけていて、外見同様、性格も見栄をはらないさっぱりしたものだ。
 そのおかげで取引先のウケもよく、特に年配の人には男女問わず可愛がられている。

「自分の知識力に自信がないし、臆病おくびょうだから、出来るだけ事前準備をしておきたいんです」
「それは謙遜けんそんってヤツだよ。花宮さんは、偉いよ」

 鈴香をめながら、千夏がファイルを返してきた。
 鈴香はそれを受け取りつつ、「そんなことないです」と首を横に振る。

「私なら相手が刑部さんでも、『わからないので、確認して折り返します』って無理矢理電話切っちゃうと思うよ」

 千夏がそう言って、あっけらかんと笑う。

「それはちょっと、危険かもしれませんね……」

 刑部の激昂げきこうした姿を想像して、二人同時に苦笑いが漏れた。
 相手が刑部以外なら、その対応で問題ない。その場しのぎの中途半端な回答をして信用を失うよりよっぽどいいし、いち営業部員に専門的な知識など求めていない人がほとんどだ。
 でも鈴香は、自社の扱っている商品がどんなものなのか、事前に把握しておきたいのだ。なにも知ろうとせず、ただ流されることの危うさを知ってから、些細ささいなことでも自分で確かめるようになった。

「やっぱり刑部さんの相手は、花宮さんしか出来ないよ」
「私の臆病おくびょうな性格と、刑部さんの細かい性格がたまたま合ってるだけですよ。私の場合、逆にちゃんと確認してくれない人のほうが苦手なんです」
「そんなものかな?」
「そんなものですよ。……それに最近気付いたんですけど、刑部さんが本気で知りたいのは商品のことじゃなくて、うちの社員が自社の製品をどれくらい信頼して、自信を持ってすすめているかどうかってことなんですよ」
「なるほど。……じゃあ、なんで溜息なんかいてたの? 刑部さんのせいじゃないの?」
「ああ、それは……」

 昨夜、自宅のパソコンに届いたメールが原因だ。けれど、そのことは話題にしたくないので、鈴香は「昔の知り合いとちょっと」と曖昧あいまいに答えた。

「そうなんだ」

 良くも悪くも物事を深く追及しない千夏は、「じゃあ、これあげるから元気出して」と、自分のデスクの中からチョコレートを取り出し、鈴香のデスクに置く。
 鈴香は千夏にお礼を言って、刑部との電話の内容を部長に報告すべく立ち上がった。
 そして歩きながら、昨日雅洸から届いたメールの内容を思い返す。

『日本に戻った。明日、迎えに行くから食事をしよう』

 そんな文章から始まるメールには、雅洸がINSの開発本部長に就任すべく帰国したことも書かれていた。
 鈴香は、そのメールに返事をしていない。
 ――だって、なんて返せばよかったの?
 婚約を破棄してからも、雅洸からはときどきメールが届いていた。
 鈴香の暮らしぶりを案じる内容のときもあれば、雅洸の仕事ぶりに関することや、日常の些細ささいな出来事を伝える内容のときもあった。頻度は婚約していたときよりも多いくらいで、話題も様々だ。写真が添えられていることもある。
 だが、もし雅洸からメールをもらっていなくても、鈴香は彼が順調に出世していることを知っていた。
 長い付き合いなので、共通の知り合いが多い。鈴香の生活環境が一変した今も、昔と変わらない付き合いをしてくれる人もいて、彼らの口から雅洸のうわさを聞くことがあった。
 特に鈴香の母方の遠縁にあたる有川ありかわ尚也なおやは、雅洸と高校生時代からの親友ということもあり、鈴香と会うと必ず雅洸の近況を教えてくれた。
 ――付き合い、無駄に長すぎるから……
 鈴香は溜息をく。
 子供の頃からの知り合い。婚約を解消したところで、その事実は変わらない。
 しかも明確な恋愛感情に基づいて付き合っていたわけではない分、男女のドロドロとしたしがらみがないので、婚約を解消したからといって邪険に扱う理由も見当たらない。
 結婚の予定がなくなった今、鈴香と雅洸はただの幼なじみのような関係になっている。
 だから、メールを受け取れば普通に返信していた。けれど、いざ会おうと言われると、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
 実は今までも、雅洸が一時帰国した際に食事に誘われることはあった。でも、なにかと理由を付けて断り続けてきたのだ。
 元許嫁いいなずけとして、もしくはいち幼なじみとして、雅洸の出世を祝いたい気持ちはある。でも帰国が突然すぎて、気持ちの整理が付かない。
 鈴香から返信がなければ、雅洸も食事の話は流れたと思うだろう。
 今一人暮らしをしているマンションの住所を教えた覚えはないし、鈴香の仕事が何時に終わるのかも雅洸にはわからないはずだから、突然迎えに来られる心配もない。
 ――まあ、とりあえず今日のところはスルーしておこう。
 鈴香は、そう決めて部長のもとへと向かった。


   ◇◇◇


「ありえない……」

 いつも通りに仕事をこなし、自宅マンションの近くまで戻ってきた鈴香は、目の前の光景に目眩めまいを感じた。
 転ばないよう道路脇にあるカーブミラーのポールにしがみ付き、もう一度マンションのほうへと視線を向ける。

「花宮鈴香様、お帰りをお待ちしておりました」

 プレスの利いたスーツ姿の男性が、うやうやしく頭を下げる。そして「どうぞ」と、背後にある白いリムジンのドアを開けた。

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