辞令は恋のはじまり

冬野まゆ

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1巻

1-2

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 彩羽がデスクに荷物を置くと、年配の彼が代表してその場にいる人たちを紹介してくれた。
 年配の彼は友岡博光ともおかひろみつといい、長年技術開発関係の部署で働いており、前社長が健在だった頃、湊斗と一緒に仕事をしたことがあるのだという。
 もう一人の男性は、水沢学みずさわまなぶ、三十歳。旧帝国大学の一つをトップの成績で卒業した秀才で、部署は違うが友岡と同じく技術畑にいたそうだ。そしてきっちりした印象の彼女は、新島にいじま桐子きりこ、二十八歳。帰国子女で英語が堪能たんのうなのだとか。その語学力を買われて、これまでは海外とのやり取りが多い情報技術部に籍を置いていたらしい。

「すごいですね」

 彩羽がそれぞれの経歴に感嘆の声を上げると、たちまち桐子ににらまれた。

「どこがっ!」

 攻撃的な桐子の声に思わず肩をすくめる。そんな彩羽に、勢いよく立ち上がった桐子が足早に歩み寄り、思いっきり彩羽の机を叩いた。
 バンッと、乾いた音が部屋に響く。突然のことに驚くより、彼女の手のひらが痛くないか心配になってしまう激しさだ。
 しかし桐子は、手の痛みを訴えることなく「それ、嫌味ですか?」と、彩羽をにらみつける。

「嫌味って……本当に皆さん、私なんかよりすごい経歴で……」

 戸惑う彩羽に桐子は「それが嫌味なんです」と、声を絞り出す。

「ここにいる誰もが、貴女より年齢も学歴も高い。それに、貴女より長くこの会社に勤め、それぞれの部署で実績を積んできた人間ばかりなんです。そんな私たちが、貴女の部下になる気持ち、わかりますか?」
「……」

 強い口調でなじられて、改めて桐子たちの心境に思いが至った。
 経歴も実績も、自分の足元にも及ばない彩羽が、部下となった桐子の経歴をのほほんと称賛したりすれば、そりゃあ腹も立つだろう。
 気持ちが収まらない様子の桐子は、今度は湊斗に視線を向けた。

「誰にでも出世のチャンスを与えるため設立される部署だなんて言われていたけど、ふたを開けてみたらどうよっ! 前社長が亡くなってからずっと邪魔者扱いされている貴方に、定年間近の友岡さん。前の部署でミスをして会社に多大な損失を出した水沢君。……全員、会社にはいらない存在ばっかり。しかも仕事内容は、前社長の負の遺産処理ときている!」

 湊斗を指さし、桐子がヒステリックに怒鳴どなる。その勢いに彩羽は、ただ気圧けおされてしまう。
 ――負の遺産処理……、香月さんが邪魔者扱い……?
 思いもしなかった言葉に、彩羽は必死に自分の知る情報を整理する。
 この新規開発販売促進部は、前社長が取り組んでいたプロジェクトを進めるために新設された部署だと聞いている。
 前社長と現社長の経営方針が違うのは、総務にいた彩羽にも感じられた。それに、社長秘書から降ろされた湊斗の進退について、皆が噂していたことも。けれど、現社長にとって湊斗は身内であるし、秘書として前社長の仕事を支えてきた会社にとって必要な存在なのではないか。
 それなのに社長の残したプロジェクトを負の遺産と呼び、湊斗を邪魔者扱いするこの状況はなんなのだろうか。
 わけがわからず視線を彷徨さまよわせると、神妙な顔をしている湊斗が目に入った。その表情から察するに、桐子の発言は彼女の一方的な思い込みではないのかもしれない。

「初めから社長は、この部署になんの期待もしてないのよ。それどころか、プロジェクトが失敗すればいいと思っているんじゃない?」
「それはさすがに……」

 そこで初めて、ずっと黙っていた水沢が口を挟もうとした。
 しかし、すかさず桐子に「負け組は黙っててっ!」と怒鳴どなられ、首をすくめて黙り込む。強く否定しないところを見ると、彼が会社に損失を与えたという話は事実なのかもしれない。
 桐子は再び彩羽に鋭い視線を向けてきた。

「貴女が部長に選ばれたのだって、無力で失敗しそうな人なら誰でもよかったからよ。それがたまたま貴女だっただけなんだから、上司づらしないでくれるっ!」
「……っ」

 厳しい桐子の言葉に、彩羽はグッと唇を噛む。
 悔しいが、桐子の言い分には一理ある。
 彩羽自身、何故自分がここにいるのか納得できていない。自分が、湊斗はもとより他の三人より優れているなにかを持っているとは思わない。
 それでも、ここまで辛辣しんらつな言葉を投げかけられると、少なからず傷付くわけで。
 黙り込む彩羽の視線の先で、桐子は彩羽以上に悔しげな表情を浮かべてつぶやいた。

「……なんで私が選ばれなきゃいけないのよ」

 さっきまでの勢いが嘘のような、桐子の弱々しい声に驚く。

「なんで私まで、負け組の中に入れられなきゃいけないんですか?」
「それは……」

 彩羽自身、この状況がよく呑み込めていないのだ。悔しげな顔をする桐子に、咄嗟とっさにかける言葉が出てこない。すると、ドアの方から突然、声がかけられた。

「誰でもよかったから、君が選ばれただけじゃない?」

 驚いてドアの方を見ると、現社長秘書である常葉圭太が胡蝶蘭こちょうらんの鉢を抱えて立っていた。
 ノックもせずに部屋に入ってきた圭太は、室内を見渡して薄く笑う。
 昨日社長室で会った時も思ったが、湊斗の従兄弟いとこだけあって、圭太もそれなりに整った顔立ちをしている。なのに、湊斗のような魅力を感じない。それはきっと、彼がかもし出している軽薄な印象のせいだろう。
 圭太と一緒に仕事をした社員が、彼のことを「軽薄の圭太」と陰口を言っていたのを思い出した。
 そんな圭太は、室内をぐるりと見渡し意地の悪い笑みを浮かべる。その笑い方だけで、彼が彩羽たちを見下しているのが伝わってきた。
 ――なんか、失礼な人……
 自分の力不足は確かに否定しようがない。それでも、桐子に頭ごなしに否定された上、圭太からここまであからさまに見下されると、さすがに悔しくなってくる。
 静かに眉を寄せる彩羽に視線を向け、圭太が口を開いた。

「社長より、牧瀬部長にお祝いの品をお届けにまいりました」

 慇懃無礼いんぎんぶれい――そんな言葉がピッタリな口調で話す圭太は、邪魔そうに鉢を軽く揺らす。それを見て、友岡が素早く鉢を受け取った。

「史上最年少の部長就任、おめでとうございます」
「……ありがとうございます」

 感情のこもっていない祝辞に、一応のお礼を返す。圭太はそんな彩羽を鼻で笑い、湊斗へと視線を向けた。

「お前の力量が試されるな。ちゃんと部長を補佐しろよ」

 そう話す圭太は、チラリと彩羽を見て「まあ、無理だろうけど」と、さげすみの声をらす。
 圭太のその態度に、彩羽はギリリと奥歯を噛んだ。
 確かに今回の部長昇進は、自分でも分不相応だと思う。でも、それを決めたのは、圭太の父親である忠継社長であり、彩羽が望んでこうなったわけではない。
 それなのに、理不尽に見下された挙げ句、彩羽の力量不足は、まるで湊斗に責任があるような言い方にカチンときた。
 大体桐子の、ここにいる全員が負け組のような言い方にも納得がいかなかったのだ。
 ――なんだか腹が立ってきた……
 彩羽は、おもむろに「お言葉ですが……」と、圭太に声をかけた。
 その声に、まだなにか言おうとしていた圭太が彩羽を見る。

「私を部長に任命したのは社長です。私の力量が足りないとおっしゃるのであれば、それは選んだ社長に見る目がなかっただけで、香月さんに責任はありませんよね」
「なに!?」

 湧き上がる怒りを抑え、ゆっくりと話す彩羽の言葉に、圭太の片眉が吊り上がった。だが、彩羽はそれに臆することなく言葉を続ける。

「昨日社長室で、私が必死に部長昇進を断っている姿を、常葉さんは見ていましたよね? それをどうしてもと、押し切ったのは社長です。そのやり取りも、見ていましたよね?」
「ああ……」

 彩羽が強い口調で確認すると、圭太が渋々といった様子で頷いた。
 それを確認した彩羽は、はっきりと断言する。

「つまり、私がなにか仕事に支障をきたした場合、能力不足を承知で私を部長にした社長の責任ということになると思いますが?」

 彩羽の物言いに、圭太の頬がひくひくと痙攣けいれんする。

「負け組が、生意気なこと言うなっ! 大体お前、女のくせに、男に口答えするんじゃねぇよっ!」

 怒鳴どなる圭太に、いよいよ怒りが抑えられなくなる。
 女は男に意見する権利がないというのか。そのあまりに時代錯誤な発言に、目眩めまいを覚える。
 ――そもそも、怒鳴どなれば女が黙って言うことを聞くとでも思っているわけ?
 それならなおさら、ここで黙るわけにはいかない。
 彩羽はぐっと顔を上げ、にらみつけてくる圭太の目を真っ直ぐに見返して言った。

「負け組ってなんですか? ここは学校ではないので、組なんてものは存在しません。ここは新規開発販売促進部という社長の命で新設された部署であり、ここにいる全員が社長に選ばれたトキコクの社員です」
「なっ……っ」

 彩羽の反撃に、圭太がわずかにひるむ。
 チラリと周囲に視線を向けると、彩羽が言い返すと思っていなかったのか、友岡だけでなく桐子や水沢も驚きの表情を浮かべている。ただ湊斗だけは、どこか楽しげに見えた。
 その表情に背中を押された気がして、苦い顔をする圭太に向かって言葉を続ける。

「大体『負け組』って、なにに対する負けですか? この部署は今日立ち上げられたばかりで、なにかと勝負するのはこれからです。それになにと戦うのかよくわかりませんけど、私たち絶対に負けませんのでっ!」

 これでクビにするなら、クビにすればいい。もしそうなったら、どこかに訴えてやる――そんな覚悟で、彩羽は圭太に言い切った。
 それでも腹の虫がおさまらず、彩羽は桐子に怒りの矛先ほこさきを向ける。

「それから新島さんも、勝手に『負け組』とか言わないでください。自分で自分を『負け』って決めたら、たとえ勝負に勝っても、勝ったことに気付けなくなりますよ」

 勢いのまま桐子に言い聞かせる。彩羽の剣幕に気圧けおされたのか、桐子が目を丸くしたまま「すみません」と謝った。
 彩羽は、再び圭太へと視線を戻す。それにひるんだ圭太が、湊斗をにらんで怒鳴どなった。

「お前、部下にどんな教育してんだよっ!」

 そんな圭太に、笑いを噛み殺しつつ湊斗が言い返す。

生憎あいにくと彼女は私の上司ですので。もし、なにかご意見があるようなら、彼女を部長に任命した社長にお願いします」

 さっきの圭太の慇懃無礼いんぎんぶれいな物言いをそのまま返す湊斗の姿に、圭太が怒りをあらわにした。

「お前がこの会社でそんな口が利けるのも、あと少しだからなっ!」

 ――それはどういう意味だろう?
 疑問に思う彩羽の前で、友岡が湊斗と圭太の間に割って入る。

「まあ今日は、牧瀬部長の就任初日ですから……」

 この場は怒りを収めてくださいと、温和な口調で友岡が取りなす。それで少し冷静さを取り戻したのか、圭太は背筋を伸ばし乱れてもいないスーツのえりを整えた。
 そして彩羽と湊斗を見比べてフンッと鼻を鳴らす。

「でかい口叩いていられるのも今だけだっ! なにを言ったところで、賭けの条件は変わらないんだからな」

 そんな捨て台詞ぜりふを残して圭太が部屋から出て行った。その瞬間、緊張の糸が切れた彩羽は、その場にしゃがみ込んだ。

「大丈夫ですかっ?」

 さっきまで彩羽に攻撃的な態度を取っていた桐子が、慌てて彩羽に駆け寄ってくる。
 彩羽を気遣う桐子が床に膝をつくと、そんな二人の側に他の三人も集まってきた。

「大丈夫?」

 湊斗が彩羽に手を差し出す。
 彩羽は差し出された手につかまりながら、湊斗の顔を見上げて聞く。

「あの……私は一体なにと戦って、なにに負けそうなのでしょうか?」

 ちっとも状況が呑み込めていない彩羽の問いに、湊斗が一瞬キョトンとした後、クッと喉を鳴らして笑いを噛み殺す。彼はつかんだ手を引いて彩羽を立ち上がらせると、「それは後で話すよ」と、耳打ちしてきた。
 急に顔を寄せられてドキッとするが、とりあえずこの件に関しては追及しないでおく。
 彩羽が立ち上がるのを見届けて、桐子も立ち上がった。

「なかなか印象に残る就任演説になりましたね」

 友岡が苦笑いを浮かべながら全員の顔を確認していく。

「……まずは、今後の業務について確認していきましょうか。その前に、前社長が指揮をっていたプロジェクトについて、少し説明させてください」

 友岡が彩羽に「いいでしょうか?」と、同意を求めてくる。

「お願いします」
「ではこちらで……」

 友岡が広い会議用のテーブルを示すので、そこに移動した。
 全員が着席すると、友岡がカラーコピーされた用紙を配っていく。
 そこには、時計の写真がプリントされていた。でも画質が粗くて全容がわかりにくい上に、時計を隠すように赤字で「社外秘」と書かれている。

「最初に基本的知識の確認をさせていただきますが、この部署は、昨年急逝きゅうせいされた前社長が長年温め続けてきたプロジェクトを遂行すいこうするために発足ほっそくされました。前社長である常葉正史まさし氏は、来年迎えるトキコク創業百年の節目に向けて新規プロジェクトを指揮していましたが、急逝きゅうせいされたことで、プロジェクトは頓挫とんざしていました」

 その場にいた皆が頷くと、友岡が「しかしこの度、新社長のもと、プロジェクトの再始動が正式に決定されました」と、感慨深げに言う。

「やっと……」

 彩羽の隣に座る湊斗が、そうつぶやくのが聞こえた。

「新社長である常葉忠継氏は、プロジェクト遂行すいこうメンバーを今までとは異なる方法で選考されました。ゴールデンウィーク頃に、全社員を対象にした社内アンケートがあったと思います。そのアンケートの結果によって選出されたのが、ここにいる私たちです」

 友岡がそこで言葉を句切る。
 確かにゴールデンウィーク頃、『百年先のトキコクに残したいこと』というアンケートというか、作文を書くように求められた。
 しかも、このアンケートの結果によっては、社員全員に昇進のチャンスがあると聞き、出世を夢見て熱心に取り組む者もいた。だが彩羽は、仕事の一環として当たり障りのない言葉を並べただけ。
 それなのに、何故か彩羽が部長に抜擢ばってきされ、今回のプロジェクトを任されることになってしまったのだ。
 ――アンケートの結果で選出されたって、全然納得できない……
 彩羽自身がそう思っているのだから、きっと全員が思っていることだろう。

「牧瀬部長をはじめ、ここにいる人たちはプロジェクト遂行すいこうのために選ばれた人間です。決して、新島さんの言うような負け組の島流しではありません」

 力強く言った後、「と、私は信じています」と、友岡が付け足した。
 その場にいる誰もが神妙な顔をする中、控えめに水沢が発言する。

「つまり、どう思ってこの仕事に取り組むかは、自分次第ってことですか?」
「そうなりますね」

 友岡が目尻にしわを寄せて穏やかに頷くと、ふと空気がなごんだ気がした。
 ――水沢さんの言うとおりだ。
 わけがわからないことだらけだけど、これが今自分に与えられた仕事ならば、前向きに取り組みたい。

「力不足なのは重々承知していますが、私にも出来ることがあると信じたいです」

 そう口にした彩羽は、チラリと桐子の様子をうかがう。
 テーブルを挟んで彩羽の斜め前に座る桐子からは、初対面の時のような攻撃的な雰囲気は感じられない。ただ、無表情で黙り込み、彩羽と目が合わないようにしている。
 ――私が上司って、やっぱり無理があるよね。
 仕方ないことだけど、受け入れてもらえないことについ落ち込んでしまう。
 友岡は、全員の顔を見回して説明を再開する。

「次に、プロジェクトの詳細についてお話しします。トキコクはこれまで、男性向けの高級腕時計を商品の主軸にしてきました。女性向けは、男性向けのサイズ違いでスポーツタイプが数パターンある程度。しかし前社長の中には、長年、女性向けの高品質な時計を手掛けたいという思いがあり、トキコク創業百周年を機に、女性向けの時計の製造販売に着手する予定でした。これがそれです……」

 そう言って、友岡が最初に配った紙をかかげる。

「正式名称は『バルゴ・オービット』。正義と天文の女神である乙女座から名前を取りました」
「ぼんやりして、よくわからないわね」

 黙り込んでいた桐子がぽつりとつぶやく。その声に友岡が理由を説明した。

「再来週までは、ここにいるメンバーにも詳細を明かせない決まりなので。この中でバルゴの詳細を知っているのは、私と香月さんだけですが、バルゴは間違いなくいい時計です」

 その言葉に、自然と視線が湊斗に集まる。ずっと黙って話を聞いていた湊斗が、頷いて口を開いた。その表情は、社長秘書をしていた頃と変わらない自信に満ちている。

「ご存知のとおり、私は前社長の秘書としてこのプロジェクトに深く関わってきました。もともと技術開発部に所属されていた友岡さんも、このプロジェクトの初期メンバーの一人です。その関係で、我々は、皆さんより早くバルゴに触れる立場にいました」
「ああ……なるほど」

 納得する桐子の隣で、水沢が目を細めたり、紙の角度を変えたりしてカラーコピーを眺めている。そんな水沢に代わり、桐子が「バルゴとは、どんな時計ですか?」と湊斗に聞いた。

「祖父は常々、バルゴはこれからのトキコクを背負う商品になると話していました。私もそう確信しています。実物は、二週間後の牧瀬部長の就任会見で見られる予定なので、それまでのお楽しみということで」

 そう話す湊斗の自信に満ちたつややかな表情に、彩羽だけでなく桐子の頬も心なし赤くなる。
 でも次の瞬間、彩羽は「ん?」と、まばたきをした。

「今、私の就任会見……って、言いました?」

 徐々に顔色を変える彩羽に、湊斗は「言いましたよ」と、にこやかに頷く。

「二十代の女性管理職の誕生。それは、貴女が思っているよりずっと世間の注目を集めるニュースです。社長は話題作りのために、牧瀬さんの部長就任を大々的にアピールするつもりのようですね。辞令が出て間もないですけど、すでに経済誌数社から単独取材の申し込みが来てますよ」
「はいぃっ?」

 湊斗の言葉に、彩羽が頬を引きらせる。

「私……そんなこと、一言も聞いてませんけど」
「だから今話しました。部長の初仕事なので、頑張ってください」

 湊斗がにこやかに返してきた。表情こそ穏やかだが、有無うむを言わせない圧力を感じる。

「……っ」

 部長の仕事と言われてしまっては、彩羽に放棄することはできない。
 頬を引きらせたまま硬直する彩羽に、桐子が「頑張ってくださいね」と、若干の同情とはげましを混ぜたエールを送ってくれた。最初に厳しいことを言われただけに、その一言で随分救われた気になる。

「頑張ります」

 そう言うしかない。ここまで来たら、覚悟を決めるしかないのだから。

「あの……」

 そこで、水沢が遠慮がちに手を挙げた。

「どうぞ」

 発言をうながす湊斗に、水沢がおずおずと口を開く。

「この部署が、前社長の手掛けたプロジェクトのために立ち上げられたというのはわかりましたけど、そのために僕たちは、それぞれなにをすればいいんですか?」

 水沢の質問に、湊斗がゆっくりと頷いた。

「この部署に課せられた一番の仕事は、バルゴ・オービットの販売ルートを確保することです」
「それは、技術畑にいた僕や友岡さんに、営業回りをしろってことですか?」

 うなるような声を出した水沢が、困った様子で眼鏡のフレームをいじる。
 確かに、ずっと技術畑にいたのなら、突然営業を命じられても困るだろう。
 水沢の疑問に答えることなく、湊斗はさらに言葉を続けた。

「社長の意向として、バルゴ・オービットはトキコクの既存の販売ルートを使わず、新しい販売ルートを開拓して欲しいとのことです」
「えっ!? どうしてですか? 既存の販売ルートを使った方が確かじゃないですか!」

 そう驚きの声を上げたのは、桐子だ。

「忠継社長は、バルゴ・オービットの製造販売における全てを、新しい分野への挑戦ととらえているようです。そのため、既存の販売ルートに頼ることなく、販路も一から開拓して欲しいとのことでした。既成概念にとらわれないアイディアを引き出すために、あえて営業経験のない者ばかりを集めたのかもしれませんね?」

 嘘か本当かわからない友岡の言葉に、湊斗以外の三人が言葉を失う。
 普通に考えて、販路なんてそう簡単に新規開拓できるとは思えない。さらなる無茶振りに、頭を抱えたくなった。そんな彩羽の脳裏に、先ほどの水沢の言葉がよみがえる。

『どう思ってこの仕事に取り組むかは、自分次第』

 文句を言っていても先には進めない。ならば、この状況を受け入れ前に進むしかないのだ。

「じゃあ、当面の仕事は、自分たちなりにバルゴの販売ルートを検討していく、ということでいいですか?」

 彩羽が、友岡、湊斗のどちらともなく問いかけると、二人共が頷いた。
 その後は、今後の仕事についての擦り合わせや、お互いが元の部署でどういった仕事をしていたかという情報交換をする。その内に、終業時刻になった。
 すると友岡がいち早く帰り支度を始める。
 ――慌ただしい……
 さっきまで穏やかに話していた人とは思えない、友岡の手際よい帰り支度に驚く。そんな彩羽の視線に気付いた友岡が「妻の病院に行かないとならないので」と、説明する。

「奥さん、どこかお悪いんですか?」

 なにげなく発した彩羽の言葉に、友岡が支度の手を止めて言った。

「ええ、長患ながわずらいで入院しています」

 その表情がなんとも寂しげだ。

「あ……すみません」

 ――プライベートに踏み込んでしまった。
 咄嗟とっさに謝る彩羽に、友岡が「隠しているわけじゃないので」と、柔らかく微笑む。

「それに、皆さんにも知っておいていただいた方がいい話ですから。技術部にいた頃もそうでしたが、妻の介護があるので定時で帰らせていただくと思います。皆さんにも迷惑をかけてしまうかと思いますが、よろしくお願いします」
「わかりました」

 彩羽が答えると、他の三人も頷く。

「でも、立ち上げ時からたずさわってきたこのプロジェクトに、縁あって再び関わることができて幸せです」

 感慨深げに話す友岡は「それでは」と、その場にいる一人一人に頭を下げてから部屋を出ていった。
 それを見送り、桐子、水沢の順に部屋を出ていくと、彩羽と湊斗が部屋に残された。
 この後の行動に迷う彩羽に、帰り支度をした湊斗が近付いてくる。

「じゃあ、食事でもしながら二人でゆっくりこれからのことについて話しましょうか」

 少し前の自分なら、憧れの王子様と食事なんて緊張して舞い上がっていただろう。けれど、今はそれどころじゃない。
 昨日からわけのわからないことの連続だ。聞きたいことはたくさんある。

「はい。よろしくお願いします」

 覚悟して頷く彩羽に、湊斗は綺麗に微笑んだのだった。


     ◇ ◇ ◇


 湊斗に案内されたのは、看板のない路地裏の小料理屋だった。
 屋号を書いたのれんが下げられていなければ、町屋造りの民家にしか見えない外観だ。けれど、中に入ると、すぐに白木の一枚板のカウンターが目に飛び込んでくる。さらに奥にも幾つか座敷があるようで、しっかりした造りの店だとわかった。
 湊斗を見るなり、カウンターの中の板前が「お待ちしておりました」と声をかけ、手の動きでカウンターの一番奥の席に座るよううながしてくる。
 並んで席に腰を下ろすと、湊斗が「とりあえずビールでいい?」と、彩羽に確認してきた。戸惑いながら頷くと、彼は慣れた様子でビールを頼んだ。
 すぐに冷えたグラスと瓶ビールが運ばれてきて、湊斗が彩羽のグラスにビールをぐ。


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