辞令は恋のはじまり

冬野まゆ

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1巻

1-1

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   プロローグ 王子様と悪魔の契約


 ――どうか、全てが悪い夢であってください。
 八月最後の月曜日、心の中でそう祈る牧瀬彩羽まきせあやはは、ふらつく体を支えようと壁伝いに廊下を歩いていた。
 その時、ふと掲示板に張り出されている辞令書を見つけて、頬を引きらせる。

「そんな……」

 たった今内示を受けたばかりなのに、もう辞令が貼り出されているなんて。



 総務部   牧瀬 彩羽様 
                    株式会社トキコク
                    代表取締役社長 常葉忠継ときはただつぐ


   本日付で総務部の任を解き、明日より新規開発販売促進部 部長の勤務を命じます。
   今後の活躍を期待します。
                                  以上



 こうして貼り出された辞令書を目にしても、さっぱり実感が湧かない。それどころか、自分が悪い夢の中にいるのではないかと思ってしまう。
 というより、夢であって欲しい。
 そう願って頬をまむ彩羽の様子を見て、通りすがりの社員が「えっ! この子なの?」「見るからに無理じゃない?」などとささやき合う声が聞こえてくる。
 彩羽は心の中で「そのとおりでございます」と力強く頷きつつ、がっくりとうなだれた。
 心身共に感じる痛みから、やっぱりこれは現実なのだと思い知る。
 彩羽はうらめしい思いで今降りてきたばかりのエレベーターを振り返った。


     ◇ ◇ ◇


 今日、いつもどおり出社した彩羽は、突然、二十三階にある社長室に呼び出された。
 あり得ない場所からの呼び出しに、一瞬「クビ」という言葉が頭をよぎる。だけど、クビになる理由がまったく思い当たらない。
 国内外に根強いファンを持つ時計メーカーであるトキコクに入社して三年。彩羽は、目立たず真面目に仕事をしてきたつもりだ。社員数の多いこの会社で、ただの事務員一人をクビにするために、わざわざ社長室へ呼び出したりしないと思うけど……
 ――クビは、嫌だな。出来れば転勤もしたくない。
 そんなことになれば、憧れの王子様と会えなくなってしまう。会うといっても、彩羽が一方的に眺めているだけなのだが。
 戦々せんせん恐々きょうきょうとしながら社長室をノックすると、すぐに社長の息子であり、社長秘書である常葉圭太けいたがドアを開けてくれた。

「ああ、来たか」

 彩羽を出迎えた常葉秘書の声に、本能的な部分で不快なものを感じる。だけど、彼の顔の造りは憧れのあの人にどこか似ていて、つい目がいってしまう。

「待っていたよ」

 社長室の奥で人の動く気配がした。視線を向けると、現在のトキコクの社長である常葉忠継が席を立ち、彩羽の方へ近付いてくるのが見えた。
 親しげな笑みを浮かべている忠継社長にも、何故か圭太に感じたのと同じ不快感を覚える。

「……遅くなりました」

 湧き上がる不快感を抑え、彩羽は社長に向かって会釈えしゃくした。うながされるまま部屋の中に入ると、圭太がドアを閉める。それを合図に、忠継社長がパンッと手を打ち鳴らした。

「おめでとう」
「……?」

 ――おめでとう?
 にこやかに両手を広げる忠継社長に、彩羽は戸惑った視線を向ける。

「この度新設する新規開発販売促進部を、君に任せたい」
「はい?」

 話が呑み込めずキョトンとする彩羽に、内容を噛み砕くように、ゆっくりした口調で忠継社長が言った。

「君を、これから新規に立ち上げる部署の、部長に、任命したいんだよ」
「はいっ? ……はいぃっ!?」

 一瞬遅れて言葉の意味を理解した彩羽は、わけがわからなくなる。
 呆然とする彩羽に、戸口に立つ圭太が「おめでとう」と、どこかバカにした口調で拍手を送ってきた。


     ◇ ◇ ◇


 それから約一時間、彩羽は必死に部長就任の話を断り続けた。
 とりあえず「保留にするから考えてみて」となだめられ、社長室を出てきてみれば――すでに辞令が貼り出されているではないか。
 途方に暮れた表情で辞令を眺める彩羽は、自分というものについて考えてみる。
 身長百六十センチ。せている方ではあるけど、取り立ててスタイルがいいわけではない。目立つのが苦手で、いつもゆったりした服を着てメイクも最低限。癖のあるセミロングの髪を一つにまとめただけの地味なよそおい。本当にどこにでもいそうな、普通のOLだ。
 当然、バリバリ仕事をこなすキャリアウーマンではない。
 名門大学を卒業したわけでも、経済学を学んだわけでもなく、私立大学の文学部を平凡な成績で卒業して、就職後はずっと総務部で事務処理をしてきた。
 そんな彩羽が、なんでいきなり部長に!? しかも明日からの勤務が命じられているなんて。
 こんなのだまし討ちもいいところだ。

「以上って……」

 そんな短い言葉で、自分の行く末を片付けられては困る。

「あり得ない……」

 ショックで目眩めまいがしてくる。壁に両手をついて体を支えていないと、そのまま倒れてしまいそうだ。
 誰か私を救ってください。そう祈る彩羽の肩を、誰かがそっと叩いた。
 優しく肩に触れる手に、わらにもすがる気持ちで振り返る。次の瞬間、彩羽は盛大に顔を引きらせて硬直した。

「……っ!」
「大丈夫?」

 彩羽に気遣わしげな視線を向けるのは、細身のスーツを上品に着こなす男性だった。
 長めの前髪を無造作に後ろに流すことで意思の強そうな眉がよく見える。気品を感じる風貌なのに、どことなく野性的な雰囲気も感じる。
 香月湊斗こうづきみなと――彼の名前を、この会社で知らない人はいない。
 それは彼の非常に整った容姿であったり、高学歴で仕事ができることだけが要因ではなかった。
 前社長の孫である彼は、つい最近までこの会社の次期社長ともくされていたからだ。
 しかも彩羽にとって、湊斗は憧れの王子様なのであった。
 ――憧れの王子様は、間近で見てもやっぱり完璧な美しさだな。
 呆然としつつも、頭のどこかでしみじみとそんなことを考えてしまう。
 おまけに、至近距離にいることで、彼のまとうフレグランスの香りをリアルに感じて、なんだか胸が苦しくなってくる。
 息苦しさをこらえて湊斗に視線を向けると、彼は目の前の掲示板をじっと見ていた。
 不思議に思って改めて辞令の方を見ると、自分の辞令の隣にもう一枚、紙が貼り出されているのに気付く。その書面を見て、彩羽は再度、心の中で『あり得ないっ!』と、叫ぶのだった。
 彩羽の辞令の隣には、新設される部署に配属される四人の社員――つまり、彩羽の部下になる人たちの名前が書かれている。その中に、香月湊斗の名前があった。
 つまり、彩羽が、彼の上司になるということで……

「あの……これは、なにかの間違い……で……、私、その…………」

 自分が彼の上司になるなんて、なにかの間違いだ。湊斗だって納得するはずがない。
 ――さっき社長室で打診された時だって、全力で断ったんです。
 ――香月さんが私の部下になるなんて、知らなかったんです。
 そう伝えたいのに、焦って言葉が出てこない。
 どうにか気持ちを伝えようと、湊斗の目を見て必死に首を横に振る。
 そんな彩羽を見つめ、湊斗がフッと表情をゆるめた。
 そのつややかな表情に、つい状況を忘れて魅了されてしまう。
 思わずぽかんと見惚れている彩羽に、湊斗が口を開いた。

「君が俺の上司になるんだね」

 そう言って、湊斗は二重ふたえの切れ長の目を優しく細めて微笑んだ。誰もが見惚れずにはいられない完璧な王子様スマイルだけど、なにかが胸に引っかかる。
 ――なんだか胡散臭うさんくさい……?
 いぶかる彩羽の視線をかわすように、湊斗が清々すがすがしい微笑みを浮かべたまま言う。

「これからよろしく」

 その表情は一見、優しげで魅力的に感じる。でも、その瞳からは、彼の感情がまるで感じられない。

「お、お願いします……」

 どこか緊張しつつ彩羽が頭を下げると、湊斗が右手を差し伸べてきた。

「俺に出来ることがあれば、なんでも言ってください。全力でサポートさせてもらいます」
「……」

 この手を握り返せば、憧れの王子様と一緒に仕事が出来る。でもその代わりに、二十代女性の管理職という身の丈に合わない職務を背負うことになる。
 憧れの王子様と一緒に仕事をすることも、管理職に就くことも、本来の彩羽の日常ではまずあり得ない出来事だ。
 身動きできない彩羽をかすように、湊斗がかすかに手を動かした。
 この手をこばめば、この人に近付けるチャンスなんて、もう二度と訪れないだろう。それはそれで、後悔しそうな気がする。
 ――リスクを承知でチャンスをつかむ。まるで悪魔の契約書だ。
 だけど、目の前に差し出された彼の手をこばめる人間などいるのだろうか。
 窮地きゅうちに追い込まれると、逆に開き直ってしまう性格の彩羽は、悪魔と契約を結ぶ覚悟で腹を決める。

「ありがとうございます」

 はっきりとそう言って、彩羽は湊斗の手を握り返すのだった。



   1 ようこそ新規開発販売促進部へ


 翌日、彩羽は辞令に従い重い足取りで新しい部署へ向かっていた。総務部で使っていた私物を入れた段ボールを抱えて、エレベーターに乗り込む。
 二十階のボタンを押し、ため息を吐いた。まさか自分が十階より上の階に異動する日が来るなんて考えたこともなかった。明確な規定があるわけではないが、社内で重要なポジションほど上層階の部屋を与えられる傾向にある。
 彩羽が部長を務める新しい部署は、二十階の一室が用意されていた。
 二十一階から上は、会議室や重役室が占めているので、一つの部署に与えられるものとしては最高クラスの扱いと言えるだろう。
 昨日まで十階の総務部で働いていた自分が、何故いきなりこんな待遇を受けるのだろうと、一晩経った今も不安で仕方ない。
 しかも憧れの王子様である湊斗と、一緒に仕事をすることになるなんて……

「……」

 彩羽は、ふと自分の左手首へと視線を向ける。
 今は腕時計をしていないが、入社当時は古い腕時計を巻いていた。
 その時計を思い出すと、自然と初めて湊斗と出会った日のことを思い出す。
 あれは、大学四年生の時の企業面接。
 あの時の彩羽は、湊斗を時計の国の王子様のようだと思ったのだ。


     ◇ ◇ ◇


 ――王子様のようだ。
 時計メーカー「トキコク」の新卒者採用面接。気を引き締めなくてはいけない場面だというのに、彩羽は面接官の一人を見てそんなことを思った。
 細身のスーツを上品に着こなす彼は、際立って端整な顔立ちをしていた。
 年齢はもちろん彩羽より上だけど、それでも他の面接官より格段に若い。それもあって、目に留まったというのもあると思うけど、それだけでは片付けられない存在感が彼にはあった。
 それが、湊斗だった。
 当時の彩羽が就職先に望んでいたことはただ一つ、安定企業であること。そして、出来れば地道にこなせる事務職がいいと思っていた。
 そういう意味で、百年近く続く、国内にとどまらず海外にも根強いファンを持つ時計メーカー「トキコク」の事務職は、彩羽の希望を十分に満たしていた。
 志望理由や学生時代に頑張ったことなどひととおり話し終え、試験も終盤にさしかかった時、面接官の一人が「なにか質問はよろしいですか?」と、湊斗に尋ねた。
 ――この人、一体、何者なんだろう?
 彼より確実に年上の面接官が丁寧な言葉遣いで話しかけている様子に、つい首をかしげてしまう。
 湊斗が少し考えるようにした後、彩羽に視線を向けてくる。
 初めて真っ直ぐ向き合った湊斗の視線に緊張して、思わず必要以上に背筋を伸ばしてしまった。するとそんな彩羽の動きを見て、湊斗が口元だけで静かに笑う。

「そうだね……もしウチが女性向けの腕時計を作るとしたら、どんなものを作って欲しい?」
「女性向けの、時計ですか?」

 そう問われ、彩羽はあごに手を当てて真剣に考える。そして「一生見ていてきない、そんな時計が欲しいです」と答えた。

「一生見ていてきない時計?」
「はい」
「それはどんな時計かな?」

 湊斗とは違う面接官に問いかけられ、彩羽は言葉に詰まってしまう。
 面接がほぼ終わり、油断していた時に投げかけられた質問に、ふと思い浮かんだことを答えただけだった。なので、具体的なビジョンなどあるわけがない。
 ――それでもなにか答えなくちゃ……

「えっと……裏側が透明になっていて、内部の構造が見える腕時計はどうでしょうか? 時計の内部構造を見ていると、ワクワクしませんか? なんというか……時計の中に自分だけの宇宙があって、それを独り占めしているような満足感があります」
「後ろが透明……って、シースルーバックのことかな?」

 別の面接官が言う。
 ――しまった……。シースルーバックなんて単語、知らない。
 時計メーカーの企業面接を受けておきながら、基本的な時計の知識も持っていないと、みずか露呈ろていしてしまったようなものだ。
 もちろん、発した言葉に嘘はない。時計の規則正しい動きを見ていると、ワクワクするのは本当だ。
 だけど、どうしてそう思うのかを上手うまく言葉で説明することができない。
 内心で焦り始める彩羽が、視線を彷徨さまよわせると、湊斗が口を開いた。

「手軽に宇宙を独り占めできるなんて、幸せだね」

 ――これは落ちたかもしれない……
 静かに頬を引きらせる彩羽に、追い打ちをかけるように面接終了が告げられた。
 内心で落胆しつつ、彩羽が一礼して立ち上がった時、彼女の左手首をなにかが滑り落ちていった。
 不思議に思って視線を向けると、コトンッと、小さな音を立てて腕時計が床に落ちた。

「すみません」

 小さくびて落ちた時計を拾い上げる。すると、細い金属を編み上げたようなデザインのベルトが途中で切れていた。

「あ……」

 ――これは、いよいよ縁起が悪い。
 まだ退室していないことも忘れ、ベルトの切れてしまった時計に肩を落とす。そんな彩羽に「見せて」と、声がかけられた。声のした方を見ると、湊斗が自分の方へ手を差し伸べている。

「えっと……」

 一瞬どうしようかと思ったけど、きっともうこの会社は落ちただろう。そう割り切って、彩羽は湊斗へ歩み寄り、ベルトの切れた時計を差し出した。
 時計を受け取った湊斗が、それを観察しながら聞いてくる。

「古い時計だね。ネットで買ったの?」
「祖母から譲り受けたものです」

 この時計は祖母が若い頃に使っていたものだ。子供の頃の彩羽が、その時計を欲しがっていたことを覚えていた祖母が、大学合格のお祝いに譲ってくれたのだった。
 古くて傷だらけの時計だけど、彩羽にとっては、ここ一番のお守りのような存在なのだ。

「そうなんだ。プラスチック風防の手巻きムーブメント……。七十年代か、それより少し前のものかな? メッシュベルトは寿命だね……」

 時計を隅々まで観察しつつ湊斗がつぶやく。

「古い時計ですけど、なんとなく愛着があって……」

 ノーブランドの中古品かもしれないが、自分にとっては大切な時計だった。けれど、大手時計メーカーの面接に、古いプラスチックの時計をしてきたことを、責められているように感じて小さくなる。

「細かい傷がたくさんついている」
「すみません」

 説明のつかない恥ずかしさから、思わず謝ってしまう。

「この傷は、常に身につけていることで、自然につく傷だよ」

 優しい声に顔を上げると、穏やかに微笑む湊斗と目が合った。
 彩羽の目を見つめて湊斗が言う。

「浅く細かい傷は、アンティーク時計の勲章くんしょうだよ。ずっと君たち家族に寄り添ってきた証拠だ」
「……」

 その言葉に、彩羽の心に温かな思いがともる。
 湊斗はいつくしむように傷だらけの腕時計を指で撫でると、スマホとペンを取り出し近くにあった紙へなにかを書きつけた。そしてそれを彩羽に差し出してくる。

「ここなら、壊れたベルトを直せるかもしれない。もし直せなくても、違和感のないものに交換できると思うよ」
「え……」

 差し出されるまま紙と時計を受け取ると、そこにはお店の名前と住所が書き込まれていた。

「愛着があるなら、なるべくそのまま使いたいでしょ」

 湊斗が優しく微笑む。その微笑みに自然と頬が熱くなった。

「ありがとうございます」

 まるで王子様のようだと思った湊斗は、本当に優しくて素敵な人だった。自分には、決して手の届かない人だとわかっていても、彩羽の心臓が彼を思って大きく跳ねる。
 その時、面接官の一人が「では今度こそ、これで……」と、面接の終わりを告げた。


 それから数日後、トキコクから採用通知が届いた。それを見た瞬間、自分でも驚くほど嬉しかったのは、王子様みたいな彼にまた会えるという気持ちがあったからだ。


 そうして彩羽が、トキコクの総務部で働くようになって三年。備品の管理や会社内外の連絡調整などの雑務をこなしてきた。
 目立たない部署で地味に仕事をしていた彩羽でも、三年もいたらそれなりにトキコクの内情は耳に入ってくる。
 湊斗が、昨年亡くなった前社長の孫であることも就職してから知ったことの一つだ。
 嫁に出た娘の子供ということで、社長とは苗字が違うのだという。
 あの頃の湊斗は、海外留学を終え、社長秘書としてトキコクに就職したばかりで、社会勉強として面接に参加していたらしい。
 つまり、あの日彩羽が感じた「王子様」という印象はあながち間違いではなかったということだ。
 また湊斗に会えるかもしれない――そんな期待もあってトキコクに就職したけれど、総務の一社員と、社長秘書である湊斗の間にそう簡単に接点が生まれるはずもなく、日々は過ぎていったのである。
 それでも、なにかの拍子ひょうしに社長に同行する湊斗の姿を見かけることがあった。遠目で見る彼は、いつも強気で迷いのない表情をしていた。
 将来的に湊斗がトキコクの社長の座に就くと噂されていたので、その凜々りりしさに見惚れると同時に、社員として誇らしいものを感じていた。
 時折、廊下を移動する社長が足を止め、かたわらを歩く湊斗になにかを問いかける姿を見かけたことがある。湊斗がすぐにその答えを返すと、社長はなんとも満足げに頷いていた。その表情から、前社長がどれだけ湊斗に信頼を寄せているか伝わってきたのを覚えている。
 しかしその前社長が、去年の春に心筋梗塞しんきんこうそく急逝きゅうせいしてしまったのだ。それによって湊斗を取り巻く状況は、大きく変わってしまった。
 前社長の後を彼の息子であり、湊斗にとっては伯父にあたる常葉忠継が継いだ直後、湊斗は社長秘書を降ろされてしまった。そして忠継社長は、留学を名目に海外で気ままに暮らしていた息子の圭太を社長秘書に就任させたのである。
 役職を失った湊斗が、今後どうなるのかということは、よく話題になっていたのだが……
 ――それが、なんだって私の部下になるのだろう……
 彩羽はまだ、その事実が信じられずにいた。


     ◇ ◇ ◇


 二十階でエレベーターを降りた彩羽は、ため息を吐きつつ重い足取りで廊下を進む。
「新規開発販売促進部」という真新しいプレートがかかげられた部署の前で足を止めた。そして彩羽はスーツの胸ポケットから、古びた腕時計を取り出す。
 祖母から譲り受けた時計は、あの後もベルトを直して使っていたのだが、いつの間にか壊れて動かなくなってしまった。それでもここぞという時には、お守り代わりに持ち歩いている。
 彩羽は荷物を片手で持ちながら、祖母の時計をぎゅっと手のひらに握り込む。
 その手をひたいに当てて、新しい部署で頑張れますようにと祈る。
 この状況は、はっきり言って自信がない。トキコクに三年勤めたことで得た知識はそれなりにあるけれど、平社員がいきなり部長なんて、初めから無理な話なのだ。
 ――自分にも、なにか出来ることがあればいいのだけれど。
 そう祈りながら、時計をポケットにしまう。そして彩羽は、ドアを軽くノックして、返事を待たずにドアを開けた。

「おはようございます」
「お待ちしてました」

 すぐに、落ち着きのある声が聞こえてきた。
 その声に導かれるように視線を向けると、広く明るい部屋にはすでに四人の先客がいた。
 一人は湊斗。あと三人は初めて見る顔だ。
 中肉中背で縁の細い眼鏡をかけた白髪しらがの年配の男性。その隣にも、眼鏡をかけた男性がいる。そちらは、レンズの下部だけにフレームがあるアンダーリム型の眼鏡をかけた、ヒョロリとした長身の男性だ。髪も黒々としていて、年配の男性とは親子ほどの年齢差を感じる。
 残る一人は女性で、彼女だけ三人から距離を取り、デスクに座ってなにか書類に目を通していた。
 化粧っ気がなく、長い黒髪をお団子状にまとめて前髪をピンで留めている。きりっとした黒縁眼鏡をかけている彼女は、女子というより女史という表現がしっくりくる雰囲気だ。
 ――なんだか、眼鏡率の高い職場だな。
 思わず、そんなどうでもいい第一印象を持ってしまう。

「牧瀬彩羽です。よろしくお願いします」

 彩羽が挨拶あいさつをすると、それぞれが会釈えしゃくを返してくれた。
 年配の男性が「部長のデスクはそこになります」と、日当たりのいい奥の席を示す。その声で、さっき部屋に入ってくる時に聞こえた声の主が彼だったのだとわかる。


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