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1巻
1-2
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鷺坂ごときの言葉に、自分が傷付くわけがないのに、なにを想像してなにを心配しているのだか。
そう呆れると共に、くすぐったい気持ちにもなる。
八歳年下の彼女は、賢悠からすれば庇護すべき存在なのに、彼女の方はそうは思っていないらしく、いつも真剣にこちらの心配をしてくる。
「心配してくれてありがとう」
素直にお礼を言うと、愛理が恥ずかしそうにそっぽを向いた。
その姿を微笑ましく思っていると、愛理がすぐにこちらに視線を戻して聞いてくる。
「もしかして、私が仕事をしていると迷惑になる?」
「……?」
急になにを言い出すのかと思い、軽く眉を動かして尋ねると、愛理が気まずそうな顔で続ける。
「就職の報告をした時、椿原のおじ様、あまりいい顔していなかったから。……賢悠さんも、なにか気になることがあったから、私の職場を確認しに来たんじゃないですか?」
「ああ……」
確かに昭吾は、一般学生に交じって就職活動をし、勤勉に働く愛理のことを、椿原の嫁として体裁が悪いと不満を漏らしていた。
だが賢悠としては、家柄に驕らず、自分で自分の道を切り開く愛理を好ましく思う。
「確かにどんな職場で働いているかは気になるよ。自分の許嫁の職場に興味を持つのは当然だろ? でも専務をはじめ、いい人が多そうな職場で安心したよ」
賢悠の言葉に、愛理がわかりやすく顔を綻ばせる。
「うん、いい職場だよ」
自慢げに頷く愛理に、賢悠も満足げに頷く。
どうやら自分の心配は杞憂に終わったようだし、ついでに愛理の職場に自分の存在を印象付けることもできた。
「……?」
そっとほくそ笑む賢悠の表情に、愛理が不思議そうに首をかしげた。
愛理の職場で愛理にマーキングできて一安心。そんな自分の大人げない打算を誤魔化すように、賢悠が尋ねる。
「就職といえば、それこそ浩樹さんは、愛理が働くことになにか言わなかったのか?」
「なにかって?」
愛理がなにを言われているのかわからないという顔をした。
「お前の行ってた大学、卒業後の進路は、圧倒的に『家事手伝い』が多かっただろう?」
愛理はああ、と納得した様子で頷く。
「別になにも。ウチの教育方針は『自分が正しいと思う方に進みなさい』だから、大学まで出してもらったし、働こうと思った。それで就職したんだけど、大学で就活するって言ったら、確かに変な顔をする人もいたかも……」
当時を思い出している様子の愛理に、思わず笑ってしまう。
「俺も浩樹さんの意見に賛成だよ。俺は愛理の選択を信じている」
「よかった」
「だから結婚後も、愛理が仕事を続けたいなら、周囲の言葉なんて気にせず続けてほしいと思ってる」
何気なく口にした賢悠の言葉に、愛理が驚いた顔をする。
その驚きの意味を知りたくて視線で問いかけると、愛理が戸惑い気味に言う。
「結婚なんて言葉、賢悠さんから初めて聞いたから」
「愛理が大人になるのを待ってたんだよ。今さら結婚を急ぐ仲でもないし」
「……そっか」
五歳で自分の許嫁となった彼女は、二十年という年月を重ねて随分大人びたと思う。
それでも喜怒哀楽を素直に顔に出すところはそのままで、彼女が健やかな心のまま成長したのだとわかった。そんな愛理の前でなら、自分も無駄に感情を隠す必要はないのだと思える。
両親から惜しみない愛情を注がれて育った彼女には、一緒にいる人の気持ちも明るくしてくれる素直さがあった。
――我が家とは大違いだ。
賢悠の父である昭吾が大切に思っているのは、名家の当主であり椿メディカルの創業一族という我が身の保身だけだ。
自分を第一に考える昭吾にとって、結婚も家族も保身のための道具でしかない。
言動の端々にそれを滲ませ常に傲慢に振る舞う父は、散々二藤家を成り上がりと軽んじておきながら尻尾を振って融資を頼みに行く。それでいて陰では「この私に金を貸してやったと思っている」と憤慨しているのだから、とことん歪んだ価値観の持ち主だと思う。
そして父に従う母もまた、特権意識の強い人だ。
そんな両親を見て育ち、夫婦や家族に冷めた価値観を持っていた賢悠にとって、両親に無償の愛を注がれ天真爛漫に育った愛理はひどく新鮮なものに映った。
愛理と一緒にいると、自分の家では感じたことのない安らぎを覚え、心が癒やされるようになった。
「俺は、早く愛理と家族になりたいよ。浩樹さんにも、そのことを伝えておいてくれ」
その言葉に愛理が赤面する。
きっかけは確かに打算だった。けれど、幼い頃からずっと、自分を慕い続けてくれる愛理を大事にしたいと思う。
二十年前、五歳の彼女がした決断が、正しいものであったと証明するために。
2 笹に願うこと
賢悠の突然の会社訪問から十日ほど過ぎた週末。
いつもは下ろしていることの多い髪を綺麗に結い上げ、爽やかな若菜色の単衣の着物に乳白色の薄い色合いの花の文様が入った名古屋帯を合わせた愛理は、父の浩樹と共に椿原家を訪れていた。
「結納をする時も、こんな感じなのかな」
門から玄関まで続く石畳を歩く浩樹は、ふと足を止めてしみじみとした口調で呟く。
ここしばらく仕事が忙しいらしく、あまり家で顔を合わせなかった父の感慨深げな表情に、愛理は首筋の後れ毛を撫でてはにかむ。
「気が早いよ」
賢悠に「早く家族になりたい」と言われたことを告げてから、浩樹もだいぶ覚悟ができてきたらしい。
苦笑する愛理に、浩樹はそんなことはないと首を振る。
「だけどこの前のテレビの発言は、各所で波紋を呼んでいるぞ。椿原家の御曹司がいよいよ結婚するんじゃないかと騒がれている」
実はカクミの社内でも、賢悠の発言とそれに続く突然の会社訪問で、愛理の素性や賢悠との関係がかなりの話題を呼んでいる。
浩樹の会社の関係者でもあの放送を見ていた者は多く、気の早い者の中には、結婚の日取りを確認してくる者もいたそうだ。
そんな周囲の空気を肌で感じ、愛理自身、二人の関係が結婚へ向かっているのだとじわじわ実感してきた。
まだまだ未熟な自分に、彼の妻の役目が務まるだろうかという不安はある。それでも二人の結婚を心待ちにしてくれている賢悠の言葉を聞いて、愛理自身も覚悟を決めた。
――賢悠さんと結婚……
あれこれ想像して気恥ずかしさから視線と落とすと、浩樹の足下に濃い影が落ちているのに気が付く。
そのまま視線を上げると、浩樹が目尻に皺を寄せてそっと笑った。
どこか疲れて見える父の表情に、ふと老いを感じてしまう。
「お父様、疲れてる?」
思わず漏れた愛理の言葉に、浩樹が困ったように首筋を摩る。
「普段の仕事に加えて、九月にはNF運輸の創業三十周年記念イベントの準備もあるから、少しな。愛理の結婚準備が始まれば、さらに忙しくなるだろうから体には気を付けるよ」
浩樹にとって愛理は遅くにできた子供で、同世代の友達には既に孫のいる人も多い。浩樹としては、そろそろ娘に結婚してほしいのかもしれない。
本人の自主性を重んじる教育方針の父は、賢悠との結婚のタイミングも二人の判断に任せる姿勢でいてくれたが、内心では気を揉んでいたのだろうか。
もしそうなら申し訳ないと眉尻を下げる愛理に、浩樹は柔和な笑みを浮かべた。
「今日の茶会でその話が出るかもな」
そう呟いて、立ち止まっていた足を動かす。
京都の公家の流れを汲む椿原家では、五節句の時期に、親しい人だけを招いて気楽な茶会を開く慣習があった。七月頭の日曜日である今日は、七夕の節句を名目に茶会が開かれる。
気楽と言いつつ、京都でも減少傾向にある配膳司を呼び茶を振る舞う格式高い茶会だ。
大きな茶会の席で、主催者の目が行き届かず失礼が起きないようにと雇われる配膳司は、客人の誘導に始まり、給仕や進行、帰る際のお見送りといった全てを取り仕切るプロだ。
そんな配膳司を配しての茶会は客も厳選されていた。特に政財界の者にとって、椿原家のお茶会に招かれるということは一つのステイタスとなっている。
二藤親子は、愛理が成人したのを機に、賢悠の婚約者として毎回招かれていた。
「ごめんください」
カラカラと軽快な音を立てて横に滑る和風建築の玄関扉を開くと、三和土には既に数人分の靴がある。
先客の履き物から、和装か洋装か、男女のどちらが多いか、そんなことを想像していると、長い廊下の奥から紋付き袴の白髪の男性が姿を見せた。
「二藤様、お待ちしておりました」
小柄だが姿勢が良く存在感のあるその男性は、配膳司の浅井だ。
初めて顔を合わせた時から一度たりとも二藤親子の名前を呼び間違えたことのない浅井は、愛理たちだけでなく、茶会の出席者全ての顔と名前を把握している。
「せっかく年に一度、織姫はんと彦星はんが互いの思いを確かめる日やと言いますのに、今日は少し、雲行きが怪しいようで……」
玄関まで歩み出て床に膝をついた浅井が、歯切れ悪く出迎えの挨拶をする。
彼の何気ない台詞に、愛理は違和感を覚えた。
確かに外は少し曇っているが、夜になっても星が見えないというほどではない。
それに普段の浅井なら験の悪い言葉を嫌い、星が見えなくても「二人が恥ずかしがって雲に隠れている」とでも言いそうなものだが。
内心首をかしげながら、先を歩く浅井についていく。
そして違和感の理由を、愛理は茶会の前室に通されて理解した。
浅井に案内されたのは、茶会の際、お茶の前に皆で懐石を食べるのに使う広い和室だった。
「二藤様がおみえになりました」
廊下に膝をつき、丁寧な所作で襖を開く。
黙礼してそっと立ち上がる浅井に続いて、浩樹、愛理の順で和室に入ると、部屋には左右それぞれに十席のお膳が用意されており、七人の人がそれぞれに割り当てられたお膳の前に座っている。
浩樹は顔なじみの数人に親しげに挨拶し、当然のように上座へ足を向けようとして、浅井とぶつかった。
賢悠の婚約者である二藤親子はこれまで、正客として上座の主賓席に案内されていた。それもあって、案内を待たずに浩樹の足が動いてしまったようだ。
戸惑う浩樹に、浅井が落ち着きのある声で詫びる。
「亭主より、本日は同業者同士で話しやすい席をとの指示がありまして……」
同業者同士と言われても、運送業界の招待客は浩樹だけだ。
「早とちりして申し訳ない」
恐縮する浅井の肩を軽く叩いて、案内される下座の席へ足を向けた。父の後に続く愛理は、さっきの浅井の言葉を心の中で反芻する。
つまりこれは、愛理と賢悠を離すための席なのだろう。
いよいよ結婚に向けて動き始めたと思った矢先、自分と賢悠の仲を邪魔するような仕打ちに、指先から血の気が引く。
自分との結婚を望む賢悠の言葉に、嘘があったとは思わない。お互いの気持ちが確かなのだから、時期がくればおのずと結婚に進むと思っていた。
突然の不穏な気配に、これはどういうことだと考えている間にも、次々と新たな招待客が自分の席へと案内されていく。
部屋へ入って来た客は皆一様に、下座に座る二藤親子に小さく驚く。その後に見せる表情が、素直な哀れみか、微かな嘲笑かは人によってだ。
その視線に居心地の悪さを感じていると、賢悠が秘書の鷺坂を従えて入室してくる。
愛理たちが下座に座っていることに気付いた二人の表情は、わかりやすく分かれた。
目を見開き驚く賢悠と、目を細めて口角を上げる鷺坂。
賢悠の秘書である鷺坂が、この席に招待されるのは初めてだ。深い紺色の着物を隙なく着こなす彼女の姿は華やかで、こういった場所への気後れを感じない。
その時、浅井がそっと賢悠になにかを耳打ちする。おそらく今日の座席の事情を説明しているのだろう。
一言二言交わし、二人は正客の座る席と向き合う席へ案内された。
歩きながら、自然に鷺坂が賢悠の肘へ手を触れさせた。その光景を見つめる愛理は、膝の上で揃えていた手で拳を作る。
――どういうこと……
まるで自分が婚約者であるように賢悠に寄り添う鷺坂の姿に、愛理は混乱してしまう。
寄り添う二人の姿が様になっているだけに、ざらつく心を抑えられない。
「……っ」
チラリと右隣に座る父の方を見ると、硬い表情をした彼の喉仏が上下した。
父もこの状況に、ただならぬものを感じているに違いない。
自分と賢悠の間に突然垂れ込めた暗雲に、背中に嫌な汗が流れ出す。
すると、上座へ案内されたはずの賢悠が浅井を伴いこちらへと近付いてきた。
「――っ!」
何事かと周囲が見守る中、賢悠は既に着席していた愛理の左隣の男性に小声で話しかけた。
一番末席に座る左隣の彼は、二期目の当選に向け、票集めが忙しい若手政治家だ。
そんな彼は、突然賢悠に話しかけられた緊張からか終始中腰で話をしている。しかし、不意に表情を明るくし深くお辞儀をして立ち上がった。
愛理たちにも頭を下げると、彼は浅井に案内されてその場を離れていく。浅井は、チラリと愛理に視線を向け、控え目な微笑みを浮かべて小さく頷いた。
一連の流れを呆気に取られて見守っていると、空いた席に賢悠がどかりと腰を下ろす。
「えっ?」
驚いて目を白黒させていると、隣席に座っていた彼は上座の鷺坂の隣に座った。
どうやら賢悠は、政治家の彼に席の交換を申し出たようだ。
茶の席で配膳司の案内を無視して好きな場所に座るなんてマナー違反もいいところだし、普段の賢悠ならそんなことはしない。
「いいの?」
思わず声を潜めて確認する愛理に、賢悠は悪戯を成功させた少年のようにクシャリと笑う。
「彼は今、新たな人脈作りに奔走しているようだから、こんな隅にいるより上座で存在感を示すべきだと助言したら、喜んで代わってくれた」
「そうじゃなくて、賢悠さんは上座にいないと……」
「茶の席で仕事の話をしようなんて無粋だ。別のことに気を取られた亭主が失礼をしないよう、息子として末席から場の進行を見守ることにした……って、ことにしてもらった」
「でも……」
大丈夫だろうかと心配する愛理の顔を覗き込み、賢悠が言う。
「大丈夫だから、お前はなにも心配しなくていいよ」
あれこれ考えてしまう愛理をよそに、賢悠は少し体を前に屈め彼女の向こう側に座る浩樹に話しかける。
「先日のテレビでのインタビューの件で、私が父の機嫌を損ねてしまったようです。そのせいで、二藤さんのメンツを潰すような形になってしまって……」
賢悠の言葉に、浩樹は納得したと頷く。
「なるほど。椿原君は、形式にこだわる人だ。自分の流儀にそぐわないことが、嫌なのだろうね」
「自分と違う価値観を認められないだけです」
どこか冷めた表情で呟く賢悠を、浩樹が優しく諭す。
「だが、自分の価値観をしっかり持った人だ。ある意味、揺るぎない信念の持ち主ともいえる。……それに、もし父親のそういう姿勢に賛同できないのであれば、君は自分と違う価値観の人を認められる心を持てばいい。手始めに、彼の価値観に理解を示してやってはどうだい?」
浩樹の言葉を聞き、賢悠は目尻に皺を寄せて苦笑する。
「私はいい義父に巡り会えて幸運です。おかげで道を誤らないで済む」
賢悠の表情が解れたのを見て、浩樹も目尻に皺を寄せて笑う。
「椿原君は、学生の頃から自分の流儀に反するのを嫌う人だった。また、自分で交わした約束を違えるようなことはしない律儀な性格をしている。私は、そんな彼が嫌いじゃないよ。だから、愛理と賢悠君の結婚に関しても、あまり心配はしていないんだ」
気を悪くするでもなく浩樹は穏やかに頷く。だがすぐに物憂げな様子で「ただ椿原君は、今はタイミングが悪いと思っているのかもしれないね」と、付け足した。
その言葉に賢悠も控え目な声で「訴訟の件でしたら、私は気にしていません」と、返す。
「……?」
なにか含みを感じる言い方が気になったが、人の目が多いこの場で質問は控えるべきだろうと思い直す。
後で浩樹と賢悠のどちらかから事情を聞こうと考えていると、浩樹と賢悠は愛理を挟んで雑談を始める。賢悠と話しているうちに、浩樹の硬かった表情が柔らかくなるのがわかった。
愛理にはあまり興味のない話で聞くともなく耳を傾けていると、徐々に客が席を埋めていく。そして全ての席が招待客で満たされると、襖が音もなく開き、着物姿の昭吾が現われた。
昭吾が室内に足を踏み入れると、座敷にピリリとした緊張が走る。そんな空気の中、昭吾は末席に座る賢悠に気付き眉をひそめた。
すかさず歩み寄った浅井が耳打ちすると、昭吾は愛理へと鋭い視線を向けてくる。
「……っ」
昭吾の鋭い眼差しに、思わず身がすくむ。
これまで向けられたことのない鋭い眼差しを見て、自分を取り巻く環境の変化に不安が込み上げてきた。
愛理から視線を逸らした昭吾は、何事もなかったように着席すると、招待客へ季節の言葉を織り込んだ挨拶を述べていく。
その後は、懐石料理をいただき、茶室に移動しての茶の振る舞い。それが終わると、招待客は品よく手入れされた庭園の散策を始めた。
都内とは思えない広い日本庭園に出ると、七夕の節句ということで笹と短冊が用意されていた。思い思いの願い事が笹の先でなびいている。
「二期当選……誰が書いたか、すぐにわかっちゃう」
揺れる短冊の願いを見上げ、自分もなにか書こうかと思っていると、背後に人の気配を感じた。
「他人の願いを盗み見るなんて、育ちの程度が透けて見えるわね」
あからさまな棘のある声に振り向くと、背の高い艶のある女性が薄笑いを浮かべて佇んでいた。
「鷺坂さん……」
口は微笑みの形を取っているが、その瞳の奥に暗い闇を感じる。
鷺坂とは面識があり、好かれていないとは思っていたが、今日の彼女はやけに攻撃的だ。
「これだからメッキ細工のお嬢様は駄目ね」
「素直な願い事ばかりで、ここに人目を避けるような願い事はないですよ」
彼女の態度に思うところはあるが、賢悠の秘書との間に波風を立てないよう笑顔で返事をする。
愛理の隣に立った鷺坂は、目に入った短冊に手を伸ばし、そこに書かれてある願い事を眺めて鼻で笑う。
「くだらない」
「……」
短冊を読んだ自分を非難しておいて……と、思わず眉根を寄せてしまう。そんな愛理に、自分だけはそれが許されていると言いたげに、鷺坂が高飛車な声音で言う。
「私なら、自分の願い事を人任せになんてしない。欲しいものは、自分で取りに行くわ」
挑戦的な笑みを浮かべ、鷺坂は愛理へ向き直る。目に入ってきた彼女の帯留めに、愛理は小さく眉をひそめた。
紺色の着物をお洒落に着こなす鷺坂の帯留めは、彫金細工の椿だ。大ぶりで凝った作りのそれは、かなり人目を引く。
本来、冬に使うべき椿の花を、夏の着こなしに取り入れている。これだけ隙なく着物を着こなす彼女が、小物選びを間違えるはずがない。
「――っ!」
賢悠がこちらを気遣って席を移動しなければ、彼女は上座に座る賢悠の隣で、椿原の苗字を表した椿の飾りを身につけて座っていたことになる。
その光景を見た茶会の参加者は、それをどう受け止めるだろうか……
不快な感情が、一気に自分の内側を黒く満たしていく。
「……っ」
「あら、いい顔」
平静を装い唇を固く引き結ぶ愛理を見て、鷺坂が満足げに微笑む。
その意地の悪い表情は、心の底から愛理を見下したものだ。
ここまで露骨な蔑みの眼差しを鷺坂から向けられるのは初めてだが、伝統あるお嬢様学校に通い「成り上がりの娘」という扱いを受けていた愛理には、見慣れた視線でもある。
――良家の子女が皆、こんな傲慢な人ばかりじゃないのはわかっているけど……
愛理の学生時代からの友達には、歴史ある家の生まれの子もいれば、自分同様一代で財を成した家の子供もいた。皆、気さくな人ばかりで、鷺坂のように家柄で人を見下すことはしない。
だから傲慢さは生まれがそうさせるのではなく、その人自身の問題だ。
理不尽な蔑みにこちらが小さくなる必要はないと、顎を引いて胸を張る。そんな愛理にわざと肩をぶつけるようにして、鷺坂は新しい短冊が置かれている台へ歩み寄り、硯の墨に筆を浸す。
「貴女程度のお願いなら、短冊に書くのが丁度いいのかもしれないわ」
そう言って、鷺坂は滑らかな筆遣いで『遼東の豕 無事に小屋に帰る』と書き記し、愛理に意地悪く微笑みかけてきた。
「遼東の豕」とは、世間知らずで得意になり、独りよがりになっていることや、そのような人のたとえだ。つまり、この場所に相応しくない愛理は、帰れということだろう。
敢えてあまり知られていない故事を使い、愛理が理解できなければ「成金の娘は教養がない」と、嘲るつもりなのが透けて見える。
だが、生憎愛理は文学部卒だ。
「あら意外。字は読めるのね」
鷺坂がつまらなそうに鼻を鳴らし、愛理に硯と筆を譲るよう体を動かす。
そして、ことさら意地の悪い笑みを浮かべて囁いた。
「貴女の場合は、NF運輸が倒産しないよう願った方がいいんじゃないかしら」
「……なっ!」
思いがけない鷺坂の言葉に振り向くと、鷺坂が大袈裟に目を見開いて驚いてみせた。
「あら、自分の親の会社が風前の灯火だってこと、知らなかったの?」
バカにしたような鷺坂の表情を見て、愛理の脳裏に最近忙しそうにしていた父の姿が思い出される。
「嘘……です」
否定する愛理を、鷺坂がせせら笑う。
「絵画の件、相当響いているみたいよ」
鷺坂の言葉に思い当たるものがある愛理は、口を噤んだ。
「怖いもの知らずの無知な豕は、勢いだけで一気に高みにのぼるけど、転げ落ちるのも早いわね。椿原の歴史をお金で買ったつもりかもしれないけど、身のほど知らずは素直に消えなさい」
冷淡な声色でピシャリと言い放ち、鷺坂は愛理の返答を待たずにその場を離れていく。
その後ろ姿を見送った愛理が、ぼんやり風に揺れる短冊を見上げていると、鷺坂と入れ替わるように背後に人が立つのに気付いた。
鷺坂が戻ってきたのだろうかと警戒して振り向くと、そこには長身の痩せた男性が立っていた。
「椿原のおじ様……」
愛理の言葉に、昭吾がそっと眉をひそめる。
それでもすぐに表情を整え、笹の枝を指で引き寄せ、そこに書かれている願い事を眺めて目を細めた。
「鷺坂君に、虐められたかな?」
愛理と視線を合わせることなく、昭吾が問う。そして愛理の答えを待つことなく、独り言のように続けた。
そう呆れると共に、くすぐったい気持ちにもなる。
八歳年下の彼女は、賢悠からすれば庇護すべき存在なのに、彼女の方はそうは思っていないらしく、いつも真剣にこちらの心配をしてくる。
「心配してくれてありがとう」
素直にお礼を言うと、愛理が恥ずかしそうにそっぽを向いた。
その姿を微笑ましく思っていると、愛理がすぐにこちらに視線を戻して聞いてくる。
「もしかして、私が仕事をしていると迷惑になる?」
「……?」
急になにを言い出すのかと思い、軽く眉を動かして尋ねると、愛理が気まずそうな顔で続ける。
「就職の報告をした時、椿原のおじ様、あまりいい顔していなかったから。……賢悠さんも、なにか気になることがあったから、私の職場を確認しに来たんじゃないですか?」
「ああ……」
確かに昭吾は、一般学生に交じって就職活動をし、勤勉に働く愛理のことを、椿原の嫁として体裁が悪いと不満を漏らしていた。
だが賢悠としては、家柄に驕らず、自分で自分の道を切り開く愛理を好ましく思う。
「確かにどんな職場で働いているかは気になるよ。自分の許嫁の職場に興味を持つのは当然だろ? でも専務をはじめ、いい人が多そうな職場で安心したよ」
賢悠の言葉に、愛理がわかりやすく顔を綻ばせる。
「うん、いい職場だよ」
自慢げに頷く愛理に、賢悠も満足げに頷く。
どうやら自分の心配は杞憂に終わったようだし、ついでに愛理の職場に自分の存在を印象付けることもできた。
「……?」
そっとほくそ笑む賢悠の表情に、愛理が不思議そうに首をかしげた。
愛理の職場で愛理にマーキングできて一安心。そんな自分の大人げない打算を誤魔化すように、賢悠が尋ねる。
「就職といえば、それこそ浩樹さんは、愛理が働くことになにか言わなかったのか?」
「なにかって?」
愛理がなにを言われているのかわからないという顔をした。
「お前の行ってた大学、卒業後の進路は、圧倒的に『家事手伝い』が多かっただろう?」
愛理はああ、と納得した様子で頷く。
「別になにも。ウチの教育方針は『自分が正しいと思う方に進みなさい』だから、大学まで出してもらったし、働こうと思った。それで就職したんだけど、大学で就活するって言ったら、確かに変な顔をする人もいたかも……」
当時を思い出している様子の愛理に、思わず笑ってしまう。
「俺も浩樹さんの意見に賛成だよ。俺は愛理の選択を信じている」
「よかった」
「だから結婚後も、愛理が仕事を続けたいなら、周囲の言葉なんて気にせず続けてほしいと思ってる」
何気なく口にした賢悠の言葉に、愛理が驚いた顔をする。
その驚きの意味を知りたくて視線で問いかけると、愛理が戸惑い気味に言う。
「結婚なんて言葉、賢悠さんから初めて聞いたから」
「愛理が大人になるのを待ってたんだよ。今さら結婚を急ぐ仲でもないし」
「……そっか」
五歳で自分の許嫁となった彼女は、二十年という年月を重ねて随分大人びたと思う。
それでも喜怒哀楽を素直に顔に出すところはそのままで、彼女が健やかな心のまま成長したのだとわかった。そんな愛理の前でなら、自分も無駄に感情を隠す必要はないのだと思える。
両親から惜しみない愛情を注がれて育った彼女には、一緒にいる人の気持ちも明るくしてくれる素直さがあった。
――我が家とは大違いだ。
賢悠の父である昭吾が大切に思っているのは、名家の当主であり椿メディカルの創業一族という我が身の保身だけだ。
自分を第一に考える昭吾にとって、結婚も家族も保身のための道具でしかない。
言動の端々にそれを滲ませ常に傲慢に振る舞う父は、散々二藤家を成り上がりと軽んじておきながら尻尾を振って融資を頼みに行く。それでいて陰では「この私に金を貸してやったと思っている」と憤慨しているのだから、とことん歪んだ価値観の持ち主だと思う。
そして父に従う母もまた、特権意識の強い人だ。
そんな両親を見て育ち、夫婦や家族に冷めた価値観を持っていた賢悠にとって、両親に無償の愛を注がれ天真爛漫に育った愛理はひどく新鮮なものに映った。
愛理と一緒にいると、自分の家では感じたことのない安らぎを覚え、心が癒やされるようになった。
「俺は、早く愛理と家族になりたいよ。浩樹さんにも、そのことを伝えておいてくれ」
その言葉に愛理が赤面する。
きっかけは確かに打算だった。けれど、幼い頃からずっと、自分を慕い続けてくれる愛理を大事にしたいと思う。
二十年前、五歳の彼女がした決断が、正しいものであったと証明するために。
2 笹に願うこと
賢悠の突然の会社訪問から十日ほど過ぎた週末。
いつもは下ろしていることの多い髪を綺麗に結い上げ、爽やかな若菜色の単衣の着物に乳白色の薄い色合いの花の文様が入った名古屋帯を合わせた愛理は、父の浩樹と共に椿原家を訪れていた。
「結納をする時も、こんな感じなのかな」
門から玄関まで続く石畳を歩く浩樹は、ふと足を止めてしみじみとした口調で呟く。
ここしばらく仕事が忙しいらしく、あまり家で顔を合わせなかった父の感慨深げな表情に、愛理は首筋の後れ毛を撫でてはにかむ。
「気が早いよ」
賢悠に「早く家族になりたい」と言われたことを告げてから、浩樹もだいぶ覚悟ができてきたらしい。
苦笑する愛理に、浩樹はそんなことはないと首を振る。
「だけどこの前のテレビの発言は、各所で波紋を呼んでいるぞ。椿原家の御曹司がいよいよ結婚するんじゃないかと騒がれている」
実はカクミの社内でも、賢悠の発言とそれに続く突然の会社訪問で、愛理の素性や賢悠との関係がかなりの話題を呼んでいる。
浩樹の会社の関係者でもあの放送を見ていた者は多く、気の早い者の中には、結婚の日取りを確認してくる者もいたそうだ。
そんな周囲の空気を肌で感じ、愛理自身、二人の関係が結婚へ向かっているのだとじわじわ実感してきた。
まだまだ未熟な自分に、彼の妻の役目が務まるだろうかという不安はある。それでも二人の結婚を心待ちにしてくれている賢悠の言葉を聞いて、愛理自身も覚悟を決めた。
――賢悠さんと結婚……
あれこれ想像して気恥ずかしさから視線と落とすと、浩樹の足下に濃い影が落ちているのに気が付く。
そのまま視線を上げると、浩樹が目尻に皺を寄せてそっと笑った。
どこか疲れて見える父の表情に、ふと老いを感じてしまう。
「お父様、疲れてる?」
思わず漏れた愛理の言葉に、浩樹が困ったように首筋を摩る。
「普段の仕事に加えて、九月にはNF運輸の創業三十周年記念イベントの準備もあるから、少しな。愛理の結婚準備が始まれば、さらに忙しくなるだろうから体には気を付けるよ」
浩樹にとって愛理は遅くにできた子供で、同世代の友達には既に孫のいる人も多い。浩樹としては、そろそろ娘に結婚してほしいのかもしれない。
本人の自主性を重んじる教育方針の父は、賢悠との結婚のタイミングも二人の判断に任せる姿勢でいてくれたが、内心では気を揉んでいたのだろうか。
もしそうなら申し訳ないと眉尻を下げる愛理に、浩樹は柔和な笑みを浮かべた。
「今日の茶会でその話が出るかもな」
そう呟いて、立ち止まっていた足を動かす。
京都の公家の流れを汲む椿原家では、五節句の時期に、親しい人だけを招いて気楽な茶会を開く慣習があった。七月頭の日曜日である今日は、七夕の節句を名目に茶会が開かれる。
気楽と言いつつ、京都でも減少傾向にある配膳司を呼び茶を振る舞う格式高い茶会だ。
大きな茶会の席で、主催者の目が行き届かず失礼が起きないようにと雇われる配膳司は、客人の誘導に始まり、給仕や進行、帰る際のお見送りといった全てを取り仕切るプロだ。
そんな配膳司を配しての茶会は客も厳選されていた。特に政財界の者にとって、椿原家のお茶会に招かれるということは一つのステイタスとなっている。
二藤親子は、愛理が成人したのを機に、賢悠の婚約者として毎回招かれていた。
「ごめんください」
カラカラと軽快な音を立てて横に滑る和風建築の玄関扉を開くと、三和土には既に数人分の靴がある。
先客の履き物から、和装か洋装か、男女のどちらが多いか、そんなことを想像していると、長い廊下の奥から紋付き袴の白髪の男性が姿を見せた。
「二藤様、お待ちしておりました」
小柄だが姿勢が良く存在感のあるその男性は、配膳司の浅井だ。
初めて顔を合わせた時から一度たりとも二藤親子の名前を呼び間違えたことのない浅井は、愛理たちだけでなく、茶会の出席者全ての顔と名前を把握している。
「せっかく年に一度、織姫はんと彦星はんが互いの思いを確かめる日やと言いますのに、今日は少し、雲行きが怪しいようで……」
玄関まで歩み出て床に膝をついた浅井が、歯切れ悪く出迎えの挨拶をする。
彼の何気ない台詞に、愛理は違和感を覚えた。
確かに外は少し曇っているが、夜になっても星が見えないというほどではない。
それに普段の浅井なら験の悪い言葉を嫌い、星が見えなくても「二人が恥ずかしがって雲に隠れている」とでも言いそうなものだが。
内心首をかしげながら、先を歩く浅井についていく。
そして違和感の理由を、愛理は茶会の前室に通されて理解した。
浅井に案内されたのは、茶会の際、お茶の前に皆で懐石を食べるのに使う広い和室だった。
「二藤様がおみえになりました」
廊下に膝をつき、丁寧な所作で襖を開く。
黙礼してそっと立ち上がる浅井に続いて、浩樹、愛理の順で和室に入ると、部屋には左右それぞれに十席のお膳が用意されており、七人の人がそれぞれに割り当てられたお膳の前に座っている。
浩樹は顔なじみの数人に親しげに挨拶し、当然のように上座へ足を向けようとして、浅井とぶつかった。
賢悠の婚約者である二藤親子はこれまで、正客として上座の主賓席に案内されていた。それもあって、案内を待たずに浩樹の足が動いてしまったようだ。
戸惑う浩樹に、浅井が落ち着きのある声で詫びる。
「亭主より、本日は同業者同士で話しやすい席をとの指示がありまして……」
同業者同士と言われても、運送業界の招待客は浩樹だけだ。
「早とちりして申し訳ない」
恐縮する浅井の肩を軽く叩いて、案内される下座の席へ足を向けた。父の後に続く愛理は、さっきの浅井の言葉を心の中で反芻する。
つまりこれは、愛理と賢悠を離すための席なのだろう。
いよいよ結婚に向けて動き始めたと思った矢先、自分と賢悠の仲を邪魔するような仕打ちに、指先から血の気が引く。
自分との結婚を望む賢悠の言葉に、嘘があったとは思わない。お互いの気持ちが確かなのだから、時期がくればおのずと結婚に進むと思っていた。
突然の不穏な気配に、これはどういうことだと考えている間にも、次々と新たな招待客が自分の席へと案内されていく。
部屋へ入って来た客は皆一様に、下座に座る二藤親子に小さく驚く。その後に見せる表情が、素直な哀れみか、微かな嘲笑かは人によってだ。
その視線に居心地の悪さを感じていると、賢悠が秘書の鷺坂を従えて入室してくる。
愛理たちが下座に座っていることに気付いた二人の表情は、わかりやすく分かれた。
目を見開き驚く賢悠と、目を細めて口角を上げる鷺坂。
賢悠の秘書である鷺坂が、この席に招待されるのは初めてだ。深い紺色の着物を隙なく着こなす彼女の姿は華やかで、こういった場所への気後れを感じない。
その時、浅井がそっと賢悠になにかを耳打ちする。おそらく今日の座席の事情を説明しているのだろう。
一言二言交わし、二人は正客の座る席と向き合う席へ案内された。
歩きながら、自然に鷺坂が賢悠の肘へ手を触れさせた。その光景を見つめる愛理は、膝の上で揃えていた手で拳を作る。
――どういうこと……
まるで自分が婚約者であるように賢悠に寄り添う鷺坂の姿に、愛理は混乱してしまう。
寄り添う二人の姿が様になっているだけに、ざらつく心を抑えられない。
「……っ」
チラリと右隣に座る父の方を見ると、硬い表情をした彼の喉仏が上下した。
父もこの状況に、ただならぬものを感じているに違いない。
自分と賢悠の間に突然垂れ込めた暗雲に、背中に嫌な汗が流れ出す。
すると、上座へ案内されたはずの賢悠が浅井を伴いこちらへと近付いてきた。
「――っ!」
何事かと周囲が見守る中、賢悠は既に着席していた愛理の左隣の男性に小声で話しかけた。
一番末席に座る左隣の彼は、二期目の当選に向け、票集めが忙しい若手政治家だ。
そんな彼は、突然賢悠に話しかけられた緊張からか終始中腰で話をしている。しかし、不意に表情を明るくし深くお辞儀をして立ち上がった。
愛理たちにも頭を下げると、彼は浅井に案内されてその場を離れていく。浅井は、チラリと愛理に視線を向け、控え目な微笑みを浮かべて小さく頷いた。
一連の流れを呆気に取られて見守っていると、空いた席に賢悠がどかりと腰を下ろす。
「えっ?」
驚いて目を白黒させていると、隣席に座っていた彼は上座の鷺坂の隣に座った。
どうやら賢悠は、政治家の彼に席の交換を申し出たようだ。
茶の席で配膳司の案内を無視して好きな場所に座るなんてマナー違反もいいところだし、普段の賢悠ならそんなことはしない。
「いいの?」
思わず声を潜めて確認する愛理に、賢悠は悪戯を成功させた少年のようにクシャリと笑う。
「彼は今、新たな人脈作りに奔走しているようだから、こんな隅にいるより上座で存在感を示すべきだと助言したら、喜んで代わってくれた」
「そうじゃなくて、賢悠さんは上座にいないと……」
「茶の席で仕事の話をしようなんて無粋だ。別のことに気を取られた亭主が失礼をしないよう、息子として末席から場の進行を見守ることにした……って、ことにしてもらった」
「でも……」
大丈夫だろうかと心配する愛理の顔を覗き込み、賢悠が言う。
「大丈夫だから、お前はなにも心配しなくていいよ」
あれこれ考えてしまう愛理をよそに、賢悠は少し体を前に屈め彼女の向こう側に座る浩樹に話しかける。
「先日のテレビでのインタビューの件で、私が父の機嫌を損ねてしまったようです。そのせいで、二藤さんのメンツを潰すような形になってしまって……」
賢悠の言葉に、浩樹は納得したと頷く。
「なるほど。椿原君は、形式にこだわる人だ。自分の流儀にそぐわないことが、嫌なのだろうね」
「自分と違う価値観を認められないだけです」
どこか冷めた表情で呟く賢悠を、浩樹が優しく諭す。
「だが、自分の価値観をしっかり持った人だ。ある意味、揺るぎない信念の持ち主ともいえる。……それに、もし父親のそういう姿勢に賛同できないのであれば、君は自分と違う価値観の人を認められる心を持てばいい。手始めに、彼の価値観に理解を示してやってはどうだい?」
浩樹の言葉を聞き、賢悠は目尻に皺を寄せて苦笑する。
「私はいい義父に巡り会えて幸運です。おかげで道を誤らないで済む」
賢悠の表情が解れたのを見て、浩樹も目尻に皺を寄せて笑う。
「椿原君は、学生の頃から自分の流儀に反するのを嫌う人だった。また、自分で交わした約束を違えるようなことはしない律儀な性格をしている。私は、そんな彼が嫌いじゃないよ。だから、愛理と賢悠君の結婚に関しても、あまり心配はしていないんだ」
気を悪くするでもなく浩樹は穏やかに頷く。だがすぐに物憂げな様子で「ただ椿原君は、今はタイミングが悪いと思っているのかもしれないね」と、付け足した。
その言葉に賢悠も控え目な声で「訴訟の件でしたら、私は気にしていません」と、返す。
「……?」
なにか含みを感じる言い方が気になったが、人の目が多いこの場で質問は控えるべきだろうと思い直す。
後で浩樹と賢悠のどちらかから事情を聞こうと考えていると、浩樹と賢悠は愛理を挟んで雑談を始める。賢悠と話しているうちに、浩樹の硬かった表情が柔らかくなるのがわかった。
愛理にはあまり興味のない話で聞くともなく耳を傾けていると、徐々に客が席を埋めていく。そして全ての席が招待客で満たされると、襖が音もなく開き、着物姿の昭吾が現われた。
昭吾が室内に足を踏み入れると、座敷にピリリとした緊張が走る。そんな空気の中、昭吾は末席に座る賢悠に気付き眉をひそめた。
すかさず歩み寄った浅井が耳打ちすると、昭吾は愛理へと鋭い視線を向けてくる。
「……っ」
昭吾の鋭い眼差しに、思わず身がすくむ。
これまで向けられたことのない鋭い眼差しを見て、自分を取り巻く環境の変化に不安が込み上げてきた。
愛理から視線を逸らした昭吾は、何事もなかったように着席すると、招待客へ季節の言葉を織り込んだ挨拶を述べていく。
その後は、懐石料理をいただき、茶室に移動しての茶の振る舞い。それが終わると、招待客は品よく手入れされた庭園の散策を始めた。
都内とは思えない広い日本庭園に出ると、七夕の節句ということで笹と短冊が用意されていた。思い思いの願い事が笹の先でなびいている。
「二期当選……誰が書いたか、すぐにわかっちゃう」
揺れる短冊の願いを見上げ、自分もなにか書こうかと思っていると、背後に人の気配を感じた。
「他人の願いを盗み見るなんて、育ちの程度が透けて見えるわね」
あからさまな棘のある声に振り向くと、背の高い艶のある女性が薄笑いを浮かべて佇んでいた。
「鷺坂さん……」
口は微笑みの形を取っているが、その瞳の奥に暗い闇を感じる。
鷺坂とは面識があり、好かれていないとは思っていたが、今日の彼女はやけに攻撃的だ。
「これだからメッキ細工のお嬢様は駄目ね」
「素直な願い事ばかりで、ここに人目を避けるような願い事はないですよ」
彼女の態度に思うところはあるが、賢悠の秘書との間に波風を立てないよう笑顔で返事をする。
愛理の隣に立った鷺坂は、目に入った短冊に手を伸ばし、そこに書かれてある願い事を眺めて鼻で笑う。
「くだらない」
「……」
短冊を読んだ自分を非難しておいて……と、思わず眉根を寄せてしまう。そんな愛理に、自分だけはそれが許されていると言いたげに、鷺坂が高飛車な声音で言う。
「私なら、自分の願い事を人任せになんてしない。欲しいものは、自分で取りに行くわ」
挑戦的な笑みを浮かべ、鷺坂は愛理へ向き直る。目に入ってきた彼女の帯留めに、愛理は小さく眉をひそめた。
紺色の着物をお洒落に着こなす鷺坂の帯留めは、彫金細工の椿だ。大ぶりで凝った作りのそれは、かなり人目を引く。
本来、冬に使うべき椿の花を、夏の着こなしに取り入れている。これだけ隙なく着物を着こなす彼女が、小物選びを間違えるはずがない。
「――っ!」
賢悠がこちらを気遣って席を移動しなければ、彼女は上座に座る賢悠の隣で、椿原の苗字を表した椿の飾りを身につけて座っていたことになる。
その光景を見た茶会の参加者は、それをどう受け止めるだろうか……
不快な感情が、一気に自分の内側を黒く満たしていく。
「……っ」
「あら、いい顔」
平静を装い唇を固く引き結ぶ愛理を見て、鷺坂が満足げに微笑む。
その意地の悪い表情は、心の底から愛理を見下したものだ。
ここまで露骨な蔑みの眼差しを鷺坂から向けられるのは初めてだが、伝統あるお嬢様学校に通い「成り上がりの娘」という扱いを受けていた愛理には、見慣れた視線でもある。
――良家の子女が皆、こんな傲慢な人ばかりじゃないのはわかっているけど……
愛理の学生時代からの友達には、歴史ある家の生まれの子もいれば、自分同様一代で財を成した家の子供もいた。皆、気さくな人ばかりで、鷺坂のように家柄で人を見下すことはしない。
だから傲慢さは生まれがそうさせるのではなく、その人自身の問題だ。
理不尽な蔑みにこちらが小さくなる必要はないと、顎を引いて胸を張る。そんな愛理にわざと肩をぶつけるようにして、鷺坂は新しい短冊が置かれている台へ歩み寄り、硯の墨に筆を浸す。
「貴女程度のお願いなら、短冊に書くのが丁度いいのかもしれないわ」
そう言って、鷺坂は滑らかな筆遣いで『遼東の豕 無事に小屋に帰る』と書き記し、愛理に意地悪く微笑みかけてきた。
「遼東の豕」とは、世間知らずで得意になり、独りよがりになっていることや、そのような人のたとえだ。つまり、この場所に相応しくない愛理は、帰れということだろう。
敢えてあまり知られていない故事を使い、愛理が理解できなければ「成金の娘は教養がない」と、嘲るつもりなのが透けて見える。
だが、生憎愛理は文学部卒だ。
「あら意外。字は読めるのね」
鷺坂がつまらなそうに鼻を鳴らし、愛理に硯と筆を譲るよう体を動かす。
そして、ことさら意地の悪い笑みを浮かべて囁いた。
「貴女の場合は、NF運輸が倒産しないよう願った方がいいんじゃないかしら」
「……なっ!」
思いがけない鷺坂の言葉に振り向くと、鷺坂が大袈裟に目を見開いて驚いてみせた。
「あら、自分の親の会社が風前の灯火だってこと、知らなかったの?」
バカにしたような鷺坂の表情を見て、愛理の脳裏に最近忙しそうにしていた父の姿が思い出される。
「嘘……です」
否定する愛理を、鷺坂がせせら笑う。
「絵画の件、相当響いているみたいよ」
鷺坂の言葉に思い当たるものがある愛理は、口を噤んだ。
「怖いもの知らずの無知な豕は、勢いだけで一気に高みにのぼるけど、転げ落ちるのも早いわね。椿原の歴史をお金で買ったつもりかもしれないけど、身のほど知らずは素直に消えなさい」
冷淡な声色でピシャリと言い放ち、鷺坂は愛理の返答を待たずにその場を離れていく。
その後ろ姿を見送った愛理が、ぼんやり風に揺れる短冊を見上げていると、鷺坂と入れ替わるように背後に人が立つのに気付いた。
鷺坂が戻ってきたのだろうかと警戒して振り向くと、そこには長身の痩せた男性が立っていた。
「椿原のおじ様……」
愛理の言葉に、昭吾がそっと眉をひそめる。
それでもすぐに表情を整え、笹の枝を指で引き寄せ、そこに書かれている願い事を眺めて目を細めた。
「鷺坂君に、虐められたかな?」
愛理と視線を合わせることなく、昭吾が問う。そして愛理の答えを待つことなく、独り言のように続けた。
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