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1巻
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プロローグ 王子様と出会ったなら
物語のような素敵な奇跡を体験したいのなら、その秘策は簡単なこと。
心震わす素敵な物語を読んだ時、ここに描かれていることが、自分にもきっと起こると信じることだよ。
それは、二藤愛理が幼い頃、物流大手NF運輸の社長を務める父の浩樹から、幾度も聞かされた言葉だ。
眠る前、幼い愛理に本の読み聞かせをする時、父はいつも必ずその言葉で締めくくった。
浩樹が自信を持ってその台詞を口にするのは、貧しい家に生まれながらも、起業して一代で巨万の財を成したという実体験からくるものなのかはわからない。
でも自分の今の生活が素敵な奇跡の積み重ねでできていると思っているからこそ、浩樹は愛娘の愛理にそう繰り返し語っていたのだろう。
そして、父の言葉を信じていた愛理は、椿原賢悠に会った時、それが自分の身に起こった奇跡だと信じて疑わなかった。
端整な顔立ちに、濡羽色の髪、育ちの良さを感じさせる品のある身のこなし。彼の醸し出す雰囲気全てが、幾度となく読み聞かせてもらってきた物語の王子様そのものだった。
ただ、なにもかもが愛理の知る物語そのままというわけでない。
愛理が知る物語はどれも、完璧な王子様は、お姫様に永遠の愛を誓い結婚を申し込む。だけど、結婚の申し込みをされたのは賢悠の方だった。
五歳の愛理にとって、それは些細な違いでしかない。だから八歳も年上の賢悠に、心を込めてプロポーズの言葉を口にした。
「私が結婚してあげる。だから、一生分の約束をして」
一生分の愛や幸せ――物語の世界から抜け出してきた王子様なら、幼い愛理がうまく言葉にできないそういったものを与えてくれる気がした。
そんな愛理の言葉に、賢悠は驚きで目を丸くした。
でも次の瞬間、優麗な笑みを浮かべて床に片膝をつき、小さな愛理の手を取って「わかった。約束する」と、プロポーズを受け入れてくれたのだった。
そうやってNF運輸社長の一人娘である二藤愛理は、医療機器メーカー椿メディカルの御曹司である椿原賢悠の許嫁になった。
この時の愛理はまだ幼く、世間というものがわかっていなかった。
このプロポーズはちっともロマンチックではなかったし、歴史ある名家の椿原にとって、成り上がりと蔑む二藤家の、しかも五歳の子供に「結婚してあげる」なんてプロポーズをされることが、どれほど屈辱的なことだったのか。
それから二十年、二十五歳の分別ある大人になった愛理は、理解している。あの日の二人の約束が、まごうかたなき政略結婚だったと――
1 画面の向こうの王子様
――よく考えたら、五歳の私って、かなり怖いもの知らずだったよね……
六月末、文具メーカー・カクミのオフィスで、他の社員と一緒にタブレットを眺める愛理は、苦笑いをする。
「いや~専務、完全に食われちゃってるな」
愛理の近くにいた男性社員も、苦笑いして自分の頬を擦る。
そんな彼に、愛理と仲のよい同僚である加賀春香が「芸能人じゃないんだから、関係ないでしょ。専務にそういうの求めるの可哀想だし」と、ツッコミを入れ、周囲の笑いを誘う。
そして同意を求めるように、愛理に腕を絡めて微笑みかけた。春香が頭を動かすと、パーマをかけたショートボブの髪から薔薇の香りが漂う。
愛理が曖昧に微笑むと、春香は視線を画面へと戻した。
その動きにつられて愛理も画面に視線を向ける。テレビ代わりにしているタブレット画面には、自社の専務を含めた四人の人の姿が映し出されていた。
小さなガラステーブルを挟んで左右に分かれて向かい合う四人の、右側に座る男女二人は軽妙な話術に定評があるタレントだ。そして左側に座る二人のうちの一人は愛理が勤めるカクミの専務で、もう一人は……
椿メディカル副社長、椿原賢悠。
次世代の若き指導者に問う――昼の情報番組で月一回組まれるコーナーのゲストとして、自社の専務と自分の許嫁が一緒に出るというのはなかなかない偶然だ。
だからつい、二十年前、彼にプロポーズした日のことを思い出したりしたのだろう。
そんなことを考えながら画面を観ていると、近くの男性社員がまた苦笑いを零した。
「そうは言っても、見ろよ。ナポミンだって、さっきからもう一人のゲストにメロメロだよ」
ナポミンとは、女性司会者のあだ名だ。
彼の言うとおり、確かにナポミンは瞳を輝かせて賢悠にばかり話を振っている。
平日昼のこの番組を見ることはあまりないが、アイドルグループ出身の彼女は、周囲の空気を読みながらバランスよく話題を広げる印象があるので、この番組だけこういうスタイルということはないだろう。
「あれだけのイケメン御曹司を前にしたら、誰だって舞い上がるよな」
愛理に腕を絡めたままの春香が画面を覗き込んで「極上の男って感じだよね」と、恍惚の呟きを漏らす。
賢悠が体を動かす度、彼が好んで着用しているイギリス織りのスーツの光沢が絶妙な変化を見せる。
画面にアップで映し出される賢悠の顔は、シャープな顎のラインが美しく、高い鼻梁に薄い唇、一重の切れ長の目がバランスよく配置されていた。
極上の男という表現がしっくりくる賢悠は、相手の話を聞き逃さないよう軽く首を傾け、目を細めているため、冷淡で切れ者といった印象を与える。それでいて、昼の番組で軽めの話題が多いからか、質問に答える前に、はにかむような優しい微笑みを添えるのだ。
きりりとした苦味と極上の甘さを兼ね備えている上に、世界シェアを拡大している医療機器メーカーの御曹司ときている。
画面越しにも色気が伝わってくる極上の男を前にして、普段から華やかな人たちに囲まれている女性司会者も、理性を保つのは難しいらしい。
愛理たちですら、自社の専務ではなく賢悠のことばかり話題にしている。
「まあ、話題的にも、小学生女子をターゲットに可愛く便利な文具で売り上げを伸ばしたウチの会社より、一度は経営が傾いた医療機器メーカーを数年で立て直した椿原さんの話の方がドラマ性もあるし」
年配の男性社員が、フロア内に溢れる賢悠への羨望と、専務への同情に満ちた空気をどうにかしようと口を開いたが、結局のところ、彼も専務に同情しているということだ。
「椿原さんは独身と伺いましたが、さぞ女性にモテるんでしょうね」
経営方針などの話が終わったタイミングで、ナポミンが明るい口調で切り出した。
口調は冗談めかしているが、目の奥が笑っていない。
思わず顔を顰める愛理の視線の先で、賢悠は質問を楽しむように顎のラインを指でなぞり、しばし考えてから口を開いた。
「どうでしょう? 私の人生には関係のない話題ですから」
そんなことないでしょうとはしゃぐナポミンに、賢悠は肩をすくめる。そして長い脚を持て余すように組み替え、色気たっぷりに微笑んだのだ。
「私には許嫁がおりますので、他の女性を意識したことはないですね」
「婚約されているんですか?」
「ええ。二十年前に双方の両親が認めた女性がいます」
「……にじゅっ」
賢悠の言葉に、ナポミンはポカンと口を半開きにして、指折りなにかを数え始めた。おそらく当時の賢悠の年齢を確認しているのだろう。
そんな彼女の行動を見て、賢悠は人さし指を唇に添えて悪戯っぽい表情を見せた。
これは内緒の話とでも言いたげだが、生憎と彼の発言は全国ネットで放送されている。頭のいい賢悠がそのことを理解していないはずはないので、その仕草は彼流のジョークなのだろう。
茶目っ気たっぷりな賢悠の仕草に、愛理の腕にぶら下がる春香が甘い悲鳴を上げる。
「ねえ、聞いた? 婚約者じゃなくて許嫁だって。今時、許嫁ってあるんだね! さすが由緒正しいお家柄だね。物語みたい」
「痛いっ、痛いっ」
春香が腕にぶら下がったまま跳ねるので、愛理は肩を押さえて抗議する。
跳ねるのをやめた彼女は、キラキラした目で愛理を見上げた。
「あんなハイスペックな王子様の許嫁なら、やっぱり由緒正しい家柄のご令嬢とかよね。きっと私たちみたいにあくせく働いたりしないで、お茶とかお花とかピアノとか、花嫁修業とかやって過ごしているんだよ」
それに対して愛理は「ハハッ」と、乾いた笑いを漏らす。
許嫁という浮き世離れしたワードに、春香は勝手な想像を膨らませているようだ。
そのご令嬢とやらに今ぶら下がってますよ。と、教えたらさぞや驚くことだろう。
ちなみにピアノは習っていたが、お茶とお花は最低限の基本知識があるだけだ。ついでに言えば、家は確かに裕福だが、由緒正しき家柄とはほど遠い。
そして大学在学中に就職活動をして、卒業と同時に社会人として働いている。何故そうしたかといえば、父を見て育った愛理としては、家柄は関係なく働けるのであれば働くことが正しいと思っているからだ。
――諸々、恥ずかしいから言わないけど。
考えなしの子供の頃ならいざ知らず、大人になり、それなりに分別が付いてくれば、こんな極上の男と自分では、いかに不釣り合いであるかは理解できる。
それなのに彼は、未だ二十年前の約束を律儀に守り、愛理を許嫁として扱ってくるから対応に困るのだ。
「でも二十年前ってことは、子供の頃の話よね。そんな昔に親に結婚相手を決められるのって、嫌じゃないのかな?」
ナポミン同様、指を折りながら確認した春香が呟く。
「当人同士が納得しているなら、いいんじゃないかな……」
思わず返す声が小さくなってしまうのは、愛理にも思うところがあるからだ。
「そうだよね。椿原さんほどの男性なら、好きでもない人と我慢して結婚なんてしないよね。……てことは、親の決めた許嫁を心から愛しているんだ。それってすごくドラマティック」
素敵な夢物語を想像して、春香がうっとりした声を漏らす。
「うん。そうだね」
一方愛理は、そうならいいのだけど……と、ため息を零してしまう。
婚約してから二十年、椿メディカルの若きリーダーとして日々努力している賢悠と、のんびり生きてきた自分では、差がありすぎてなんとも言えない気持ちが溜まっていく。
たまたま裕福な家に生まれただけで、愛理はこれといった才能もなく顔も知能も平々凡々。
それに、賢悠が自分に向ける優しさは、男女の愛情というより、年の離れた兄妹のような親しさでしかない。出会った頃と変わらない二人の関係に再びため息を漏らすと、二十年前の記憶が鮮明に蘇ってきた。
二十年前のあの日。賢悠は、父であり、愛理の父・浩樹の大学時代の知人である昭吾に連れられ二藤家を訪れた。
当時から彼の容姿は完成されていて、上品な微笑みで挨拶をする賢悠の姿に、父と一緒に出迎えた愛理は、王子様が絵本の中から抜け出してきたのかと錯覚したのを覚えている。
当時中学生だった賢悠は、大人たちの話を待つ間、幼い愛理の遊び相手をしてくれていた。
後になって知ったことだが、由緒ある椿原の家は当時、昭吾の采配ミスで事業が傾き、資金援助をしてくれる相手を探していたのだという。銀行や他の企業から融資を受けるには経営陣の刷新が条件で、創業家のプライドがある昭吾はそれを受け入れられなかったらしい。
それで大学時代の知人であり、一代で財を築いた愛理の父の個人資産を頼って融資を求めに来たのだった。
そんな大人の事情を知るよしもない愛理は、話し合いの際、賢悠に遊び相手をしてもらい、素敵な王子様に仄かな恋心を抱くようになっていった。
昭吾が希望する金額がかなり高額だったこともあり承諾しかねていた浩樹は、ある日、冗談交じりに「将来、愛理を賢悠の嫁として椿原の家に迎え入れるのであれば、融資しても構わない」と提案したそうだ。
その提案に、昭吾は露骨に眉をひそめた。
そこで、融資の話と一緒にその提案もなかったことになるはずだったのに、たまたまその場に居合わせた愛理が、詳しい経緯もわからないまま賢悠を指さして「この人と結婚したい」と宣言してしまったのだ。
呆気に取られる大人をよそに、賢悠が愛理のプロポーズを受け入れたことで、融資と婚約が決まったのである。
そうして、愛理は椿原賢悠の許嫁となり、経営危機にあった椿メディカルは二藤家の融資で延命し、賢悠が経営に携わるようになって見事復活し今に至るのだった。
「あ、いいなぁ。専務、王子様と握手してる」
過去を思い出していた愛理は、春香の声で現実へと引き戻された。
画面に視線を戻すと、対談が終わったらしく、専務と賢悠が握手を交わしている。
拍手と共にカメラが引きになりコーナーが終わると、タブレットの持ち主である上司が画面を切った。
それを合図に、社員たちは散り散りに自分の持ち場へと戻っていく。
「後で専務に握手してもらおうかな……」
春香がそう呟いて、自分のデスクへと帰っていく。
腕を解放された愛理も、やれやれと自分のデスクに戻った。
席に着いても、そこかしこで先ほどの対談のことを話題にする声が聞こえてくる。その内容はやはり、自社の専務ではなく賢悠に偏っているようだ。
そんな声にぼんやり耳を傾けながら、愛理の脳裏に春香がさっき口にした「椿原さんほどの男性なら、好きでもない人と我慢して結婚なんてしないよね」という言葉が蘇ってくる。
この年になれば、愛理だって自分と賢悠の関係が不自然なものであることを理解していた。
おそらく父は、名家の椿原相手に無理難題を提案することで、融資を諦めてもらおうとしたのだろう。しかし、愛理が余計な一言を言ったばかりに状況は一変してしまった。
冷静に考えれば、当時中学生の賢悠が、幼い自分との結婚を喜んだわけがない。融資がなければ実家が立ち行かなくなることをわかっていたから、愛理の求婚に応じたのだろう。
それならそれで、実力で椿メディカルの経営状況を回復させた今、賢悠が愛理と婚約関係を続ける意味はないと思うのだが……
賢悠は、今も変わらず愛理を許嫁として大事に扱ってくれている。
クリスマスや愛理の誕生日といったイベントを欠かすことはなかったし、愛理が大学生になってからは、どれだけ忙しくても月に一度は愛理と過ごす時間を作ってくれた。
そして顔を合わせれば賢悠はどこまでも紳士的に、それこそ完全無欠の王子様として優しく接してくれる。
そんな彼と過ごす時間はまさに至福の一言で、もし彼と結婚すれば、それこそお伽噺のお姫様のような日々が待っているのだと思わせた。
なのに、このまま結婚に進むことを躊躇ってしまうのは、きっと自分に自信がないからだ。
――仲は悪くないけど、賢悠さんに愛されてる気がしないんだよね……
埋められない年齢差はどうしようもないけれど、彼の優しさが年の離れた妹に向けるもののように感じられてしまう。
――もう少し私が大人になれば、今よりいい関係になれるのかな。
どうすれば彼に見合った女性になれるのかと悩みつつ、愛理は眼前の仕事に意識を切り替えていくのだった。
午後四時を過ぎた頃、テレビ出演を終えた専務が会社に戻ってくると、再び社内にざわめきが起きた。何故なら先ほどテレビで同席していた賢悠を引き連れて戻ってきたからだ。
ギョッと目を見開き、思わず背筋を伸ばした愛理は、すぐに背中を丸めて彼に気付かれないよう身を小さくする。
突然の王子様の登場に色めき立つ女子社員たちに「話が盛り上がって」と、自慢するように語る専務の顔は、恋する乙女のごとく輝いている。
どうやら先ほどの対談で、賢悠に心を鷲掴みにされたらしい。
――まあ、それが椿原賢悠という人だけど。
男女問わず、相手の心を惹きつけてやまない魅力が賢悠からは溢れ出ている。
それをカリスマ性と呼ぶのか、フェロモンと呼ぶのかは人によるけど、五歳の自分を一瞬で恋に落とした相手だからな、と一人納得する。
――こうして客観的に見ても、やっぱり賢悠さんって華があるな……
体を縮こまらせてパソコンの隙間から様子を窺えば、賢悠は熱っぽい視線を向ける女性陣に甘い微笑みを返しつつ周囲に視線を巡らせていく。
賢悠を応接室へと案内しようとしていた専務も、不思議そうに彼の視線を追ってキョロキョロと視線を彷徨わせた。
「……っ」
その動きに嫌な予感を覚え、愛理は体をより小さくさせる。だが、その行動がかえって目立ってしまったようだ。
一人だけ周囲と異なる動きをする愛理に気付いた賢悠が、顔を綻ばせる。
「――っ!」
こっちを見ないで。
視線でそう訴える愛理に、無情にも賢悠がよく通る声で言い放った。
「愛理、仕事が終わるまで待ってるから一緒に帰ろう」
「ッ」
次の瞬間、オフィスにどよめきが走る。と同時に、近くのデスクにいた春香が飛びつくようにして愛理の肩を掴んで「どういうこと?」と、騒ぐ。
肩をぐらぐら揺らされながら、その事態を引き起こした張本人へと視線を向けると、賢悠は楽しそうに目を細めて応接室へと入っていった。
◇ ◇ ◇
車のハンドルを握る賢悠は、信号待ちのタイミングで助手席に座る許嫁の様子を窺った。
革張りのシートにちょこんと行儀よく座る愛理は、色白でふっくらとした輪郭をし、緩いウェーブのかかった栗色の髪をしている。子供の頃から彼女を知る賢悠は、彼女のその髪質が、色素の薄い瞳同様に天然のものであることを知っている。
大学に入った頃から急激に大人びてきた愛理だが、化粧でいくら印象を変えても小ぶりな鼻や形のよいハッキリした二重の目、ふっくらとした唇などに子供の頃の面影が残っていた。
唇を尖らせて窓の外に視線を向けていた愛理だが、賢悠の眼差しに気付くと、こちらを睨んでくる。
「なんでウチの会社にくるかな」
唸るようにそれだけ言うと、また唇を尖らせた。
感情が透けて見える愛理の表情に内心笑いつつ、賢悠は澄ました顔で返す。
「今日の対談相手が、偶然、愛理の会社の人だったんだ。だから、好奇心から会社訪問してみた」
その言葉は、半分嘘だ。
番組出演のオファーがあった際、対談してみたい相手がいれば指名して構わないとのことだったので、敢えて愛理の勤めている会社を指名した。子供心をくすぐるマーケティング戦略について聞いてみたい……と、もっともらしい理由をつけて。
何故そんなことをしたかと問われれば、愛理の働く環境が気になったからだ。
大学卒業後、家事手伝いや縁故就職という道を選択することなく、今の会社に就職を決めた愛理は、会えば職場でのことを楽しそうに話してくれた。
働くことが楽しくてしょうがないと全身で語る愛理の姿を見るのは楽しいが、それと同時に、なんとも落ち着かない気持ちにもさせられる。
もしや、職場に彼女の心をときめかせる相手でもいるのではないかと勘ぐってしまい、口実ができたのをいいことに職場まで押しかけてしまった。
「賑やかな職場だな」
職場で女性の同僚とじゃれ合う彼女の姿を思い出しクスクス笑うと、彼女の眉間に皺が寄る。
「あれは、賢悠さんのせいです」
「俺の? なんで?」
信号が青に変わりアクセルを踏む賢悠の横で、愛理が深いため息を漏らした。
「テレビの向こう側の存在だと思っていた人が、突然こちら側に現れたんだから、大騒ぎにもなるでしょ」
「なんかそういうホラー映画あったな」
目尻に皺を作って言うと、愛理が眉根を寄せる。
「それ、絶対私が言ってる状況じゃない」
そんな愛理の表情を横目で窺い、賢悠は頬を緩めた。
本人は気付いていないのだろうけど、愛理の感情は彼女の唇を見ていればわかる。不機嫌そうに唇を引き結んではいるが、唇の端に小さなえくぼができているので、本気で怒っているわけではない。
言いたいことを言えば機嫌が直ることも承知しているので、むくれる愛理をしばらく放置していると、拗ねるのに飽きた愛理がこちらをチラチラ窺い始める。
「なんだ?」
「今日のアレ、わざと言ったの?」
「アレ?」
と、とぼけてみせるが、もちろん賢悠には愛理が言わんとしていることはわかっている。
「許嫁がいるって、口を滑らせたっていうより、敢えて話題にしたみたいに見えたから」
――相変わらず、変なところで鋭いな。
密かに感心する賢悠に、愛理が言葉を重ねる。
「全国放送のテレビで突然あんなこと言って、鷺坂さんに怒られたんじゃない?」
愛理の言う鷺坂さんとは、鷺坂紫織という賢悠の第一秘書のことだ。
「ああ……、すごく怒ってた」
その時のことを思い出し、賢悠は癖のある笑みを浮かべて頷く。
秘書の鷺坂は、鷺坂汽船という海運会社の社長令嬢で、今年から賢悠の第一秘書になった女性だ。
彼女の雇用を決めたのは賢悠の父、昭吾で、これまで働いたことのなかった彼女を賢悠の秘書として雇い入れた理由を「社会勉強のため頼まれて預かることになった」と説明した。
だが、その目的が別にあることはお見通しだ。
時代錯誤なまでに血筋や家柄にこだわる昭吾は、椿メディカルが経営を立て直した今、どうにかして二藤家との婚約関係を解消し、鷺坂の娘を嫁に迎え入れたいと考えているのだろう。
プライドの高い昭吾にとって、融資のために決まった息子と愛理の婚約は恥ずべき過去だからだ。
そんな昭吾の意向を理解しているためか、鷺坂は長年、賢悠の秘書を務めている斎木守を第二秘書として扱い、肩書きだけの第一秘書にもかかわらず高飛車で傲慢に振る舞っている。
もっと言えば、二人の婚約関係に不満を抱いていた昭吾に、鷺坂があれこれ入れ知恵してそそのかしたことも承知していた。
鷺坂にいいように踊らされている父の姿を見るのは気分のいいものではないし、大した仕事もせずに我が物顔で振る舞う彼女の存在は不快でしかない。
会社で顔を合わすだけでもうんざりする女を、どうして妻として迎え入れたいと思うものか。
第一自分には、二十年も前に結婚を誓った相手がいるのだ。その事実を変えるつもりはない。
父や鷺坂にその事実を自覚させるために、敢えて許嫁の存在を公の場で口にしたのだ。
その結果は、愛理の予想どおり鷺坂を激怒させたが、賢悠の知ったことではない。
収録直後、鷺坂はヒステリックに文句を言うだけでは飽き足らず「業績が低迷しているNF運輸に、早く見切りをつけるべきだ」とか、よく知りもしない愛理のことを「成金の親に溺愛された傲慢な娘」などと言い放った。
声のボリュームこそ抑えていたが、人目のある場所で上司に対し感情に任せて文句を言うに留まらず、その許嫁をも批難する。
その振る舞いになんの疑問も持たないで、なにが社会勉強だ。
三十歳まで社会に出す気もなく箱入りで育てた娘を知人の会社に好待遇で預けて、なにを勉強できるというのか。
――そもそもウチは託児所じゃない。
鷺坂の態度を思い出し、眉をひそめる。
「そんなに叱られたの?」
無言になった賢悠へ、愛理が気遣わしげな声をかけてくる。
物語のような素敵な奇跡を体験したいのなら、その秘策は簡単なこと。
心震わす素敵な物語を読んだ時、ここに描かれていることが、自分にもきっと起こると信じることだよ。
それは、二藤愛理が幼い頃、物流大手NF運輸の社長を務める父の浩樹から、幾度も聞かされた言葉だ。
眠る前、幼い愛理に本の読み聞かせをする時、父はいつも必ずその言葉で締めくくった。
浩樹が自信を持ってその台詞を口にするのは、貧しい家に生まれながらも、起業して一代で巨万の財を成したという実体験からくるものなのかはわからない。
でも自分の今の生活が素敵な奇跡の積み重ねでできていると思っているからこそ、浩樹は愛娘の愛理にそう繰り返し語っていたのだろう。
そして、父の言葉を信じていた愛理は、椿原賢悠に会った時、それが自分の身に起こった奇跡だと信じて疑わなかった。
端整な顔立ちに、濡羽色の髪、育ちの良さを感じさせる品のある身のこなし。彼の醸し出す雰囲気全てが、幾度となく読み聞かせてもらってきた物語の王子様そのものだった。
ただ、なにもかもが愛理の知る物語そのままというわけでない。
愛理が知る物語はどれも、完璧な王子様は、お姫様に永遠の愛を誓い結婚を申し込む。だけど、結婚の申し込みをされたのは賢悠の方だった。
五歳の愛理にとって、それは些細な違いでしかない。だから八歳も年上の賢悠に、心を込めてプロポーズの言葉を口にした。
「私が結婚してあげる。だから、一生分の約束をして」
一生分の愛や幸せ――物語の世界から抜け出してきた王子様なら、幼い愛理がうまく言葉にできないそういったものを与えてくれる気がした。
そんな愛理の言葉に、賢悠は驚きで目を丸くした。
でも次の瞬間、優麗な笑みを浮かべて床に片膝をつき、小さな愛理の手を取って「わかった。約束する」と、プロポーズを受け入れてくれたのだった。
そうやってNF運輸社長の一人娘である二藤愛理は、医療機器メーカー椿メディカルの御曹司である椿原賢悠の許嫁になった。
この時の愛理はまだ幼く、世間というものがわかっていなかった。
このプロポーズはちっともロマンチックではなかったし、歴史ある名家の椿原にとって、成り上がりと蔑む二藤家の、しかも五歳の子供に「結婚してあげる」なんてプロポーズをされることが、どれほど屈辱的なことだったのか。
それから二十年、二十五歳の分別ある大人になった愛理は、理解している。あの日の二人の約束が、まごうかたなき政略結婚だったと――
1 画面の向こうの王子様
――よく考えたら、五歳の私って、かなり怖いもの知らずだったよね……
六月末、文具メーカー・カクミのオフィスで、他の社員と一緒にタブレットを眺める愛理は、苦笑いをする。
「いや~専務、完全に食われちゃってるな」
愛理の近くにいた男性社員も、苦笑いして自分の頬を擦る。
そんな彼に、愛理と仲のよい同僚である加賀春香が「芸能人じゃないんだから、関係ないでしょ。専務にそういうの求めるの可哀想だし」と、ツッコミを入れ、周囲の笑いを誘う。
そして同意を求めるように、愛理に腕を絡めて微笑みかけた。春香が頭を動かすと、パーマをかけたショートボブの髪から薔薇の香りが漂う。
愛理が曖昧に微笑むと、春香は視線を画面へと戻した。
その動きにつられて愛理も画面に視線を向ける。テレビ代わりにしているタブレット画面には、自社の専務を含めた四人の人の姿が映し出されていた。
小さなガラステーブルを挟んで左右に分かれて向かい合う四人の、右側に座る男女二人は軽妙な話術に定評があるタレントだ。そして左側に座る二人のうちの一人は愛理が勤めるカクミの専務で、もう一人は……
椿メディカル副社長、椿原賢悠。
次世代の若き指導者に問う――昼の情報番組で月一回組まれるコーナーのゲストとして、自社の専務と自分の許嫁が一緒に出るというのはなかなかない偶然だ。
だからつい、二十年前、彼にプロポーズした日のことを思い出したりしたのだろう。
そんなことを考えながら画面を観ていると、近くの男性社員がまた苦笑いを零した。
「そうは言っても、見ろよ。ナポミンだって、さっきからもう一人のゲストにメロメロだよ」
ナポミンとは、女性司会者のあだ名だ。
彼の言うとおり、確かにナポミンは瞳を輝かせて賢悠にばかり話を振っている。
平日昼のこの番組を見ることはあまりないが、アイドルグループ出身の彼女は、周囲の空気を読みながらバランスよく話題を広げる印象があるので、この番組だけこういうスタイルということはないだろう。
「あれだけのイケメン御曹司を前にしたら、誰だって舞い上がるよな」
愛理に腕を絡めたままの春香が画面を覗き込んで「極上の男って感じだよね」と、恍惚の呟きを漏らす。
賢悠が体を動かす度、彼が好んで着用しているイギリス織りのスーツの光沢が絶妙な変化を見せる。
画面にアップで映し出される賢悠の顔は、シャープな顎のラインが美しく、高い鼻梁に薄い唇、一重の切れ長の目がバランスよく配置されていた。
極上の男という表現がしっくりくる賢悠は、相手の話を聞き逃さないよう軽く首を傾け、目を細めているため、冷淡で切れ者といった印象を与える。それでいて、昼の番組で軽めの話題が多いからか、質問に答える前に、はにかむような優しい微笑みを添えるのだ。
きりりとした苦味と極上の甘さを兼ね備えている上に、世界シェアを拡大している医療機器メーカーの御曹司ときている。
画面越しにも色気が伝わってくる極上の男を前にして、普段から華やかな人たちに囲まれている女性司会者も、理性を保つのは難しいらしい。
愛理たちですら、自社の専務ではなく賢悠のことばかり話題にしている。
「まあ、話題的にも、小学生女子をターゲットに可愛く便利な文具で売り上げを伸ばしたウチの会社より、一度は経営が傾いた医療機器メーカーを数年で立て直した椿原さんの話の方がドラマ性もあるし」
年配の男性社員が、フロア内に溢れる賢悠への羨望と、専務への同情に満ちた空気をどうにかしようと口を開いたが、結局のところ、彼も専務に同情しているということだ。
「椿原さんは独身と伺いましたが、さぞ女性にモテるんでしょうね」
経営方針などの話が終わったタイミングで、ナポミンが明るい口調で切り出した。
口調は冗談めかしているが、目の奥が笑っていない。
思わず顔を顰める愛理の視線の先で、賢悠は質問を楽しむように顎のラインを指でなぞり、しばし考えてから口を開いた。
「どうでしょう? 私の人生には関係のない話題ですから」
そんなことないでしょうとはしゃぐナポミンに、賢悠は肩をすくめる。そして長い脚を持て余すように組み替え、色気たっぷりに微笑んだのだ。
「私には許嫁がおりますので、他の女性を意識したことはないですね」
「婚約されているんですか?」
「ええ。二十年前に双方の両親が認めた女性がいます」
「……にじゅっ」
賢悠の言葉に、ナポミンはポカンと口を半開きにして、指折りなにかを数え始めた。おそらく当時の賢悠の年齢を確認しているのだろう。
そんな彼女の行動を見て、賢悠は人さし指を唇に添えて悪戯っぽい表情を見せた。
これは内緒の話とでも言いたげだが、生憎と彼の発言は全国ネットで放送されている。頭のいい賢悠がそのことを理解していないはずはないので、その仕草は彼流のジョークなのだろう。
茶目っ気たっぷりな賢悠の仕草に、愛理の腕にぶら下がる春香が甘い悲鳴を上げる。
「ねえ、聞いた? 婚約者じゃなくて許嫁だって。今時、許嫁ってあるんだね! さすが由緒正しいお家柄だね。物語みたい」
「痛いっ、痛いっ」
春香が腕にぶら下がったまま跳ねるので、愛理は肩を押さえて抗議する。
跳ねるのをやめた彼女は、キラキラした目で愛理を見上げた。
「あんなハイスペックな王子様の許嫁なら、やっぱり由緒正しい家柄のご令嬢とかよね。きっと私たちみたいにあくせく働いたりしないで、お茶とかお花とかピアノとか、花嫁修業とかやって過ごしているんだよ」
それに対して愛理は「ハハッ」と、乾いた笑いを漏らす。
許嫁という浮き世離れしたワードに、春香は勝手な想像を膨らませているようだ。
そのご令嬢とやらに今ぶら下がってますよ。と、教えたらさぞや驚くことだろう。
ちなみにピアノは習っていたが、お茶とお花は最低限の基本知識があるだけだ。ついでに言えば、家は確かに裕福だが、由緒正しき家柄とはほど遠い。
そして大学在学中に就職活動をして、卒業と同時に社会人として働いている。何故そうしたかといえば、父を見て育った愛理としては、家柄は関係なく働けるのであれば働くことが正しいと思っているからだ。
――諸々、恥ずかしいから言わないけど。
考えなしの子供の頃ならいざ知らず、大人になり、それなりに分別が付いてくれば、こんな極上の男と自分では、いかに不釣り合いであるかは理解できる。
それなのに彼は、未だ二十年前の約束を律儀に守り、愛理を許嫁として扱ってくるから対応に困るのだ。
「でも二十年前ってことは、子供の頃の話よね。そんな昔に親に結婚相手を決められるのって、嫌じゃないのかな?」
ナポミン同様、指を折りながら確認した春香が呟く。
「当人同士が納得しているなら、いいんじゃないかな……」
思わず返す声が小さくなってしまうのは、愛理にも思うところがあるからだ。
「そうだよね。椿原さんほどの男性なら、好きでもない人と我慢して結婚なんてしないよね。……てことは、親の決めた許嫁を心から愛しているんだ。それってすごくドラマティック」
素敵な夢物語を想像して、春香がうっとりした声を漏らす。
「うん。そうだね」
一方愛理は、そうならいいのだけど……と、ため息を零してしまう。
婚約してから二十年、椿メディカルの若きリーダーとして日々努力している賢悠と、のんびり生きてきた自分では、差がありすぎてなんとも言えない気持ちが溜まっていく。
たまたま裕福な家に生まれただけで、愛理はこれといった才能もなく顔も知能も平々凡々。
それに、賢悠が自分に向ける優しさは、男女の愛情というより、年の離れた兄妹のような親しさでしかない。出会った頃と変わらない二人の関係に再びため息を漏らすと、二十年前の記憶が鮮明に蘇ってきた。
二十年前のあの日。賢悠は、父であり、愛理の父・浩樹の大学時代の知人である昭吾に連れられ二藤家を訪れた。
当時から彼の容姿は完成されていて、上品な微笑みで挨拶をする賢悠の姿に、父と一緒に出迎えた愛理は、王子様が絵本の中から抜け出してきたのかと錯覚したのを覚えている。
当時中学生だった賢悠は、大人たちの話を待つ間、幼い愛理の遊び相手をしてくれていた。
後になって知ったことだが、由緒ある椿原の家は当時、昭吾の采配ミスで事業が傾き、資金援助をしてくれる相手を探していたのだという。銀行や他の企業から融資を受けるには経営陣の刷新が条件で、創業家のプライドがある昭吾はそれを受け入れられなかったらしい。
それで大学時代の知人であり、一代で財を築いた愛理の父の個人資産を頼って融資を求めに来たのだった。
そんな大人の事情を知るよしもない愛理は、話し合いの際、賢悠に遊び相手をしてもらい、素敵な王子様に仄かな恋心を抱くようになっていった。
昭吾が希望する金額がかなり高額だったこともあり承諾しかねていた浩樹は、ある日、冗談交じりに「将来、愛理を賢悠の嫁として椿原の家に迎え入れるのであれば、融資しても構わない」と提案したそうだ。
その提案に、昭吾は露骨に眉をひそめた。
そこで、融資の話と一緒にその提案もなかったことになるはずだったのに、たまたまその場に居合わせた愛理が、詳しい経緯もわからないまま賢悠を指さして「この人と結婚したい」と宣言してしまったのだ。
呆気に取られる大人をよそに、賢悠が愛理のプロポーズを受け入れたことで、融資と婚約が決まったのである。
そうして、愛理は椿原賢悠の許嫁となり、経営危機にあった椿メディカルは二藤家の融資で延命し、賢悠が経営に携わるようになって見事復活し今に至るのだった。
「あ、いいなぁ。専務、王子様と握手してる」
過去を思い出していた愛理は、春香の声で現実へと引き戻された。
画面に視線を戻すと、対談が終わったらしく、専務と賢悠が握手を交わしている。
拍手と共にカメラが引きになりコーナーが終わると、タブレットの持ち主である上司が画面を切った。
それを合図に、社員たちは散り散りに自分の持ち場へと戻っていく。
「後で専務に握手してもらおうかな……」
春香がそう呟いて、自分のデスクへと帰っていく。
腕を解放された愛理も、やれやれと自分のデスクに戻った。
席に着いても、そこかしこで先ほどの対談のことを話題にする声が聞こえてくる。その内容はやはり、自社の専務ではなく賢悠に偏っているようだ。
そんな声にぼんやり耳を傾けながら、愛理の脳裏に春香がさっき口にした「椿原さんほどの男性なら、好きでもない人と我慢して結婚なんてしないよね」という言葉が蘇ってくる。
この年になれば、愛理だって自分と賢悠の関係が不自然なものであることを理解していた。
おそらく父は、名家の椿原相手に無理難題を提案することで、融資を諦めてもらおうとしたのだろう。しかし、愛理が余計な一言を言ったばかりに状況は一変してしまった。
冷静に考えれば、当時中学生の賢悠が、幼い自分との結婚を喜んだわけがない。融資がなければ実家が立ち行かなくなることをわかっていたから、愛理の求婚に応じたのだろう。
それならそれで、実力で椿メディカルの経営状況を回復させた今、賢悠が愛理と婚約関係を続ける意味はないと思うのだが……
賢悠は、今も変わらず愛理を許嫁として大事に扱ってくれている。
クリスマスや愛理の誕生日といったイベントを欠かすことはなかったし、愛理が大学生になってからは、どれだけ忙しくても月に一度は愛理と過ごす時間を作ってくれた。
そして顔を合わせれば賢悠はどこまでも紳士的に、それこそ完全無欠の王子様として優しく接してくれる。
そんな彼と過ごす時間はまさに至福の一言で、もし彼と結婚すれば、それこそお伽噺のお姫様のような日々が待っているのだと思わせた。
なのに、このまま結婚に進むことを躊躇ってしまうのは、きっと自分に自信がないからだ。
――仲は悪くないけど、賢悠さんに愛されてる気がしないんだよね……
埋められない年齢差はどうしようもないけれど、彼の優しさが年の離れた妹に向けるもののように感じられてしまう。
――もう少し私が大人になれば、今よりいい関係になれるのかな。
どうすれば彼に見合った女性になれるのかと悩みつつ、愛理は眼前の仕事に意識を切り替えていくのだった。
午後四時を過ぎた頃、テレビ出演を終えた専務が会社に戻ってくると、再び社内にざわめきが起きた。何故なら先ほどテレビで同席していた賢悠を引き連れて戻ってきたからだ。
ギョッと目を見開き、思わず背筋を伸ばした愛理は、すぐに背中を丸めて彼に気付かれないよう身を小さくする。
突然の王子様の登場に色めき立つ女子社員たちに「話が盛り上がって」と、自慢するように語る専務の顔は、恋する乙女のごとく輝いている。
どうやら先ほどの対談で、賢悠に心を鷲掴みにされたらしい。
――まあ、それが椿原賢悠という人だけど。
男女問わず、相手の心を惹きつけてやまない魅力が賢悠からは溢れ出ている。
それをカリスマ性と呼ぶのか、フェロモンと呼ぶのかは人によるけど、五歳の自分を一瞬で恋に落とした相手だからな、と一人納得する。
――こうして客観的に見ても、やっぱり賢悠さんって華があるな……
体を縮こまらせてパソコンの隙間から様子を窺えば、賢悠は熱っぽい視線を向ける女性陣に甘い微笑みを返しつつ周囲に視線を巡らせていく。
賢悠を応接室へと案内しようとしていた専務も、不思議そうに彼の視線を追ってキョロキョロと視線を彷徨わせた。
「……っ」
その動きに嫌な予感を覚え、愛理は体をより小さくさせる。だが、その行動がかえって目立ってしまったようだ。
一人だけ周囲と異なる動きをする愛理に気付いた賢悠が、顔を綻ばせる。
「――っ!」
こっちを見ないで。
視線でそう訴える愛理に、無情にも賢悠がよく通る声で言い放った。
「愛理、仕事が終わるまで待ってるから一緒に帰ろう」
「ッ」
次の瞬間、オフィスにどよめきが走る。と同時に、近くのデスクにいた春香が飛びつくようにして愛理の肩を掴んで「どういうこと?」と、騒ぐ。
肩をぐらぐら揺らされながら、その事態を引き起こした張本人へと視線を向けると、賢悠は楽しそうに目を細めて応接室へと入っていった。
◇ ◇ ◇
車のハンドルを握る賢悠は、信号待ちのタイミングで助手席に座る許嫁の様子を窺った。
革張りのシートにちょこんと行儀よく座る愛理は、色白でふっくらとした輪郭をし、緩いウェーブのかかった栗色の髪をしている。子供の頃から彼女を知る賢悠は、彼女のその髪質が、色素の薄い瞳同様に天然のものであることを知っている。
大学に入った頃から急激に大人びてきた愛理だが、化粧でいくら印象を変えても小ぶりな鼻や形のよいハッキリした二重の目、ふっくらとした唇などに子供の頃の面影が残っていた。
唇を尖らせて窓の外に視線を向けていた愛理だが、賢悠の眼差しに気付くと、こちらを睨んでくる。
「なんでウチの会社にくるかな」
唸るようにそれだけ言うと、また唇を尖らせた。
感情が透けて見える愛理の表情に内心笑いつつ、賢悠は澄ました顔で返す。
「今日の対談相手が、偶然、愛理の会社の人だったんだ。だから、好奇心から会社訪問してみた」
その言葉は、半分嘘だ。
番組出演のオファーがあった際、対談してみたい相手がいれば指名して構わないとのことだったので、敢えて愛理の勤めている会社を指名した。子供心をくすぐるマーケティング戦略について聞いてみたい……と、もっともらしい理由をつけて。
何故そんなことをしたかと問われれば、愛理の働く環境が気になったからだ。
大学卒業後、家事手伝いや縁故就職という道を選択することなく、今の会社に就職を決めた愛理は、会えば職場でのことを楽しそうに話してくれた。
働くことが楽しくてしょうがないと全身で語る愛理の姿を見るのは楽しいが、それと同時に、なんとも落ち着かない気持ちにもさせられる。
もしや、職場に彼女の心をときめかせる相手でもいるのではないかと勘ぐってしまい、口実ができたのをいいことに職場まで押しかけてしまった。
「賑やかな職場だな」
職場で女性の同僚とじゃれ合う彼女の姿を思い出しクスクス笑うと、彼女の眉間に皺が寄る。
「あれは、賢悠さんのせいです」
「俺の? なんで?」
信号が青に変わりアクセルを踏む賢悠の横で、愛理が深いため息を漏らした。
「テレビの向こう側の存在だと思っていた人が、突然こちら側に現れたんだから、大騒ぎにもなるでしょ」
「なんかそういうホラー映画あったな」
目尻に皺を作って言うと、愛理が眉根を寄せる。
「それ、絶対私が言ってる状況じゃない」
そんな愛理の表情を横目で窺い、賢悠は頬を緩めた。
本人は気付いていないのだろうけど、愛理の感情は彼女の唇を見ていればわかる。不機嫌そうに唇を引き結んではいるが、唇の端に小さなえくぼができているので、本気で怒っているわけではない。
言いたいことを言えば機嫌が直ることも承知しているので、むくれる愛理をしばらく放置していると、拗ねるのに飽きた愛理がこちらをチラチラ窺い始める。
「なんだ?」
「今日のアレ、わざと言ったの?」
「アレ?」
と、とぼけてみせるが、もちろん賢悠には愛理が言わんとしていることはわかっている。
「許嫁がいるって、口を滑らせたっていうより、敢えて話題にしたみたいに見えたから」
――相変わらず、変なところで鋭いな。
密かに感心する賢悠に、愛理が言葉を重ねる。
「全国放送のテレビで突然あんなこと言って、鷺坂さんに怒られたんじゃない?」
愛理の言う鷺坂さんとは、鷺坂紫織という賢悠の第一秘書のことだ。
「ああ……、すごく怒ってた」
その時のことを思い出し、賢悠は癖のある笑みを浮かべて頷く。
秘書の鷺坂は、鷺坂汽船という海運会社の社長令嬢で、今年から賢悠の第一秘書になった女性だ。
彼女の雇用を決めたのは賢悠の父、昭吾で、これまで働いたことのなかった彼女を賢悠の秘書として雇い入れた理由を「社会勉強のため頼まれて預かることになった」と説明した。
だが、その目的が別にあることはお見通しだ。
時代錯誤なまでに血筋や家柄にこだわる昭吾は、椿メディカルが経営を立て直した今、どうにかして二藤家との婚約関係を解消し、鷺坂の娘を嫁に迎え入れたいと考えているのだろう。
プライドの高い昭吾にとって、融資のために決まった息子と愛理の婚約は恥ずべき過去だからだ。
そんな昭吾の意向を理解しているためか、鷺坂は長年、賢悠の秘書を務めている斎木守を第二秘書として扱い、肩書きだけの第一秘書にもかかわらず高飛車で傲慢に振る舞っている。
もっと言えば、二人の婚約関係に不満を抱いていた昭吾に、鷺坂があれこれ入れ知恵してそそのかしたことも承知していた。
鷺坂にいいように踊らされている父の姿を見るのは気分のいいものではないし、大した仕事もせずに我が物顔で振る舞う彼女の存在は不快でしかない。
会社で顔を合わすだけでもうんざりする女を、どうして妻として迎え入れたいと思うものか。
第一自分には、二十年も前に結婚を誓った相手がいるのだ。その事実を変えるつもりはない。
父や鷺坂にその事実を自覚させるために、敢えて許嫁の存在を公の場で口にしたのだ。
その結果は、愛理の予想どおり鷺坂を激怒させたが、賢悠の知ったことではない。
収録直後、鷺坂はヒステリックに文句を言うだけでは飽き足らず「業績が低迷しているNF運輸に、早く見切りをつけるべきだ」とか、よく知りもしない愛理のことを「成金の親に溺愛された傲慢な娘」などと言い放った。
声のボリュームこそ抑えていたが、人目のある場所で上司に対し感情に任せて文句を言うに留まらず、その許嫁をも批難する。
その振る舞いになんの疑問も持たないで、なにが社会勉強だ。
三十歳まで社会に出す気もなく箱入りで育てた娘を知人の会社に好待遇で預けて、なにを勉強できるというのか。
――そもそもウチは託児所じゃない。
鷺坂の態度を思い出し、眉をひそめる。
「そんなに叱られたの?」
無言になった賢悠へ、愛理が気遣わしげな声をかけてくる。
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