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1巻
1-3
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実のところ、颯太は昨日も同じことを言って笑っていた。
そして『好きと嫌いって感情は、実はよく似ているんだよ。興味のない人には、なんの感情も持たないはずだからね。珍しく君をムカつかせた彼女と結婚しちゃえば?』と茶化してきた。その言葉に妙な説得力があったので、今日のプロポーズに至ったのだけれど。
「で、この先はどうするの?」
「どうするって……。彼女から承諾の連絡があれば結婚するし、なければこれっきりだな。とりあえずこれで、親が別の見合い話を持ってきても、当分の間『この前プロポーズした女性からの返答を待っているので』と断れるし」
「あっ! だからさっき、断りの電話なら掛けなくていいって言ったんだ」
「さあな」
納得する颯太に、潤斗は悪戯な微笑を返した。一応、スマホの画面を確認してみるが、まだ掛かってはきていない。そんな潤斗を見て、颯太が笑う。
「じゃあきっと、彩香ちゃんから電話が掛かってくることはないね。あんなロマンスの欠片もないプロポーズで、乙女心を動かせるわけがないから」
「……」
何故かムッとして無言で視線を返すと、颯太が「でも、もし奇跡的に電話が掛かってきたなら……」と続ける。口調がまた少し真面目になっている。
「今度はちゃんと、夜の観覧車にでも乗って、ゴンドラが頂上に差しかかった時に、彼女に跪いてプロポーズしてごらんよ。台詞も、あんな商談みたいなのじゃ駄目だ。彼女が結婚に前向きになれるような台詞を考えるべきだね」
「跪く……」
その言葉に、子供の頃に嗜んだ合気道の作法を思い出す。稽古の始まりと終わりに、必ず床に両膝を突き、正座をして神前に礼をしていた。
――プロポーズとは、それほど神聖なものだということか?
確かに、結婚式では新郎新婦が神前で誓いを立てているから、その可能性はある。
――それに前向き……? なにか目標意識を持って、結婚に臨めばいいのか?
仕事なら、売り上げ目標を定めて実績を上げていけばいい。だけど、それを結婚に置き換えた場合、なにを目標にすればいいのかわからない。
潤斗は、答えを求めて颯太を見やる。自分が少々ズレた解釈をしていることには気付かない。
「……」
「もし僕に教えを乞うなら、アドバイスしてあげてもいいけど?」
訳知り顔でそう微笑む颯太に、答えを求める気も消え失せる。
「別にいい。どうしても、彼女と結婚したいわけではないし」
「さすがヒサマツモーターの御曹司。人に頭を下げる習慣がないと、反応もひねくれているね。本当は教えてほしいんじゃないの?」
潤斗は、短く口笛を吹く颯太を睨んだ。
「必要ない」
静かに顔をしかめた潤斗に、颯太がニンマリ微笑む。
「じゃあ、これからも久松家の『潤君お見合いプロジェクト』は続くんだ」
「……それも、面倒くさいな」
確かにしばらくは見合いを断れるだろうが、それだっていつかは限界が来る。そのうち、新たな理由が必要になるだろう。潤斗は大きなため息を吐くと、スマホの画面へと視線を落とす。
そして着信を告げる様子のない液晶画面に、再び深いため息を吐いた。
2 夜空のプロポーズ
「なんだか、大変な一日だったな……」
いつもより少し遅めの帰宅時間。彩香は、家族と暮らすマンションのエレベーターに乗り込むと、今日一日の出来事を思い出して重いため息を吐いた。
昨日の潤斗との出会いの衝撃が冷めやらぬ状態での、今日の再会。そして昨日のお見合い相手が潤斗だったという衝撃的事実に、理解不能なプロポーズ。
それだけでも十分大変だったけど、店に戻ったら戻ったで、颯太から送られてきた注文リストを見ながら、玲緒と二人で大量のフラワーボックスや花束を作ることになった。その上、急なことで配送業者に配達を頼めなかったので、玲緒と手分けしてあちこちお届けすることに。それでこんな時間になってしまったのだ。
バカ旦那の名に恥じぬ交友関係(女性限定)の広さと金の使い方――と、玲緒も感心していた。
――着替える暇もなかった……
いつもは私服で通勤しているのだけれど、今日はお届け先から直帰したためお店のユニフォームのままだ。
ふと袖口に鼻を寄せると、深い緑の匂いがした。その匂いに、彩香は愛おしそうに目を細める。小さい頃から花が好きで、花に関わる仕事に就きたいと思っていた。そんな彩香にとって今日の忙しさは心地よい。ホッと息を吐いて、自宅のある階でエレベーターを降りた。
――帰ったら、まずはお風呂に入りたいな。
――昨日はリラックス効果のあるライムフラワーの入溶剤にしたから、今日は……
入浴剤を集めるのが趣味である彩香は、その日の気分に合わせて入浴剤を選ぶ。今日の自分に最適な香りはなんだろうかと思いを巡らせながら玄関の鍵を開け、そのまま扉の隙間に体を滑り込ませた。
が、次の瞬間、玄関に立ちはだかる人の姿にビクンッと後ずさる。
鬼の形相――咄嗟にその言葉が頭に浮かんだ。
玄関に立ちはだかっていたのは、兄の一郎だった。
その表情と立ち姿は、鬼というか仁王と呼んだ方がいいかもしれない。
「……お兄ちゃん、ビックリさせないでよ。出張、明日までじゃなかったの?」
「……」
彩香が、愛想笑いを浮かべて後ろ手に扉を閉める。一郎は、そんな彩香を無言で睨むだけだ。
「仕事でなにかあった? なんか今、大変な仕事を任されているんだよね?」
いつもなら笑顔で出迎えてくれる兄の険しい表情に、嫌な予感がしてくる。
学生時代、剣道で体を鍛えてきた一郎は、そこそこ身長があり肩幅も広い。鋭い目つきに刈り上げた髪。糊のきいたワイシャツとスラックスを着て刑事だと名乗れば、信じる人も多いことだろう。
――う、気持ちで負けそうになる……
そんな一郎に見下ろされていると、威圧感で息苦しくなる。
彩香はそそくさと靴を脱ぎ、頭を低くして一郎の脇をすり抜けた。
「彩香っ!」
一郎が彩香を呼び止める。怒りを押し殺したような低い声が怖い。
「なに……?」
「お前、昨日は、なにをしていた?」
――やっぱり……
良くも悪くも自分を溺愛している兄が、仕事の件で八つ当たりしてくるはずがない。だとすれば、どこかから昨日のお見合いの件を聞きつけたのだろう。
「なにって……、麻里子伯母さんと、食事をしにホテルに」
自分はそのつもりでホテルに行ったのだから、嘘ではない。お見合いはドタキャンされたのだから、したことにはならない。自分にそう言い聞かせる彩香に、一郎が「それだけか?」と訝しげな視線を向ける。
「それだけ……だよ。疑うなら伯母さんにも確認してみれば? でも、どうして?」
「それだけのために、あんな可愛いワンピース買ったのか? いつ買い物に行ったんだ?」
一郎の言葉に、彩香は弾かれたように振り向いた。
「――っ! お兄ちゃん、私の部屋に入ったの?」
もういい大人なのだから、いくら家族でも留守中に勝手に部屋に入ってほしくはない。
険しい表情をする彩香に、一郎は悪びれる様子もなく答える。
「なんだ、その顔は? お前が寂しがると思って急いで仕事を片付けて帰ってきてやったんだぞ。……そうしたら下駄箱に見慣れないパンプスがあったから、友達が来ているのかと思ってお前の部屋を覗いただけだ」
「……」
「ちゃんとノックはしたし、部屋を覗いただけで中には入っていないぞ。……む、念のために言っておくが、お兄ちゃんは別にお前の女友達に興味があったわけじゃないぞ。ただお前に、早くお土産のお菓子を食べさせてやりたくてだな……」
なおも不満げな顔をする彩香に、一郎は『お兄ちゃんなんだから当然だろう』とばかりにバーンと胸を張っている。そしてやや芝居がかった様子で続けた。
「いや、お前だけでなく、お前の大事なお友達ならお兄ちゃんだって大事におもてなししたいじゃないか。だからお前とお友達に、美味しいお菓子と紅茶でも出そうと思ってな。それで覗いてみたら、空っぽの部屋に見慣れないワンピースがあったんだ」
「ああ……」
そう言えば麻里子に買ってもらったパンプスは下駄箱に収めて、ワンピースはクリーニングに出すつもりで部屋の目立つ場所に掛けてあった。
「その上、お前はなかなか帰ってこないし、もしやお兄ちゃんが数日家を空けただけで悪いムシでも付いたんじゃないかと、心配したんだぞ」
お前のせいで気苦労が絶えないと言いたげに、一郎が大きく首を振る。
「まあワンピースの件はいい。俺も最近出張が多くてお前の買い物に毎回付いていけるような状態じゃないからな。それで、今日はどうして遅かったんだ?」
「仕事」
見たらわかるでしょ、と彩香が不満げに答えると、一郎が「うむ、それならしょうがない」と納得する。
「じゃあ、着替えて手を洗ってこい。さっき言ったお菓子、一緒に食べよう。留守番のご褒美だ」
一転、ご機嫌になった一郎が、彩香を追い越してリビングへと向かう。そのついでに、彩香が手にしていた鞄を持ってあげることも忘れない。なんのかんの言って、寂しがっていたのは自分らしい。
――手を洗って、お留守番のご褒美のお菓子を一緒に食べようって……お兄ちゃん、私のことを何歳だと思っているの?
一郎の目には、彩香が小学生のままの姿で映っているのかもしれない。だから勝手に部屋を覗くし、過剰に干渉してくるのだろう。
――私、もう男の人からプロポーズされるくらいに大人なんですけど。
そのプロポーズの相手の人間性については、この際目を瞑っておく。
彩香は湧き上がる反抗心を抑えて、前を歩く一郎に疑問を投げかけてみた。
「ねえ、お兄ちゃん。もし私が『実は昨日、お見合いしていたの』って、言ったらどうする? しかもその相手からプロポーズされたって言ったら……」
――少しは私のこと、大人になったって認めてくれる?
そう言おうとしたら、血相を変えた一郎に遮られた。
「彩香っ! お、お前、お見合いしたのか!?」
一郎は駆け寄って彩香の肩を掴み、「お前、いつからそんな不良になった!?」と叫ぶ。
――なんでお見合いを不良のカテゴリーに入れるのよ。
そう思いつつも、想像以上の兄の喰い付きに口ごもってしまう。
「あっ…………えっと…………」
『このままじゃ彩香は恋の一つもすることなく、処女のままお婆ちゃんになっちゃうわよ』
ふと、昨日の麻里子の言葉が耳に蘇る。
――あり得る……
そう言えば、玲緒も一郎のことを『地獄の番犬』と揶揄していた。そんな危険なあだ名を持つ兄が目を光らせていては、この先も恋人を作るのは難しいだろう。彩香は気を取り直して反論する。
「お兄ちゃん、私を何歳だと思っているの? 私だってもう大人なんだから、恋愛や結婚を考えてもおかしくないんだからね」
「彩香にはまだ早いっ!」
「……」
――私、もう、二十三歳なんですけど。
唸る彩香に、一郎は「なんで急にそんなことを言い出すんだ。反抗期か?」と見当違いもはなはだしい見解を述べる。
「なんでそうなるのよ。子供扱いしないでって言っているだけでしょっ! お兄ちゃんは私がこのまま生涯独身で過ごしてもいいの?」
「そっ、そこまでは言っていないだろう。ただ彩香にはまだ早いと思うだけだ」
「じゃあ、何歳になったら恋愛していいの?」
「うっ……そうだな……あと十年くらいかな?」
「……」
話にならない。十年経ったら彩香は三十過ぎだ。
一郎がこんなだから、麻里子だってあんな無茶苦茶なお見合いをセッティングしてきたのだろう。そして彩香も、一郎のせいで男性に免疫もつかずに育ってしまったから、あんなものぐさ王子にときめいたりしたのだ。
――あんな面倒くさがり屋で意地悪な人に、一瞬でも見惚れちゃったのはお兄ちゃんのせいだっ!
――お兄ちゃんがうるさく付き纏って、男の人に免疫がなかったせいだっ!
彩香の胸の内に、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
よく考えたら、潤斗のあのロマンティックさの欠片もないプロポーズが、生まれて初めてのプロポーズだ。そしてもしかしたら、あれが生涯最後のプロポーズになるかもしれない。
「お兄ちゃんのバカっ!」
彩香の厳しい声に、一郎が大きく目を見開き、持っていた彩香の鞄を床に落とした。
そんな一郎に、彩香は「お兄ちゃんなんか、大嫌いっ!」と再び厳しい言葉をぶつける。
愛する妹からのそんな言葉だけの攻撃に、剣道の猛者として名を馳せた一郎が膝から崩れ落ちた。
普段から兄の過保護さを煩わしく思うところがあっても、自分のためにしてくれているのだからと我慢していた。でも、今日という今日は我慢の限界だ。
「家出してやるっ!」
彩香はそう言い残すと、玄関に出しっぱなしだった突っかけサンダルを履いて、外へ飛び出した。後ろで一郎が倒れ込む音が聞こえたけれど、今は心配する気になれない。
◇ ◇ ◇
「しまった。財布もスマホも家に置いてきちゃったっ!」
家を飛び出してしばらくやみくもに歩いていた彩香は、ふとそのことに気付いて呟いた。
冷静になって考えてみれば、財布も携帯もさっき一郎が床に落とした鞄の中に入っている。
でも手ぶらだからといって、今すぐ家に帰る気にはなれない。財布にしまい忘れた小銭か電子マネーカードでも入っていないだろうかと、彩香はユニフォームのポケットを探ってみる。
すると胸ポケットの中で、カード状のなにかに指先が触れた。
取り出してみると、昼間潤斗が残していった名刺だ。
「……あぁ」
そう言えば、玲緒がこのポケットに名刺を入れたのだった。
久松潤斗。
一郎の次に助けを求めたくない人の名刺に彩香は小さくアカンベをして、再びポケットを探り始めた。
◇ ◇ ◇
潤斗は、自宅マンションでパソコンを操作しながら、チラリとスマホの画面に視線を向けた。
仕事を終えて帰宅してから二時間。ジーンズに薄手のインナーとカーディガンといったいつもの部屋着で過ごしていた潤斗は、小さくため息を吐いて引き続きマウスを動かす。
趣味であるチェスのネット対戦を楽しんでいる間も、鳴る気配のないスマホが気になってしまう。
「ポーンをここに……」
マウスをクリックして、想定通りの手順で対戦相手を追いつめながら、潤斗は昼間の一件を思い返す。
――電話、来るわけないか……
颯太の手前、認めるのが癪だったが、自分でもあのプロポーズの仕方は間違っていた気がしている。だからといって、ろくに言葉も交わしたことのない女性に、どうやって結婚を申し込めばいいのかわからない。
割とモテる方なので、交際経験はそれなりにある。でもこれまでの恋愛は全て、同じ理由で破局していた。相手から告白されて付き合うものの、やがて女性の方が、面倒くさがり屋で束縛を嫌う潤斗のペースに付き合い切れなくなって別れを告げる。その繰り返しだったので、自分から女性を口説いた経験がない。そしてここしばらくは、そんな付き合いさえも面倒くさくなって、恋愛自体を避けていた。
そんな自分が、彩香に対してだけは結婚まで考えるようになった。それには颯太の助言以外にも理由があったのだけど。
――どうすればよかったんだ?
颯太は、もしもう一度彼女に会うことができたなら、『今度は跪いて彼女が結婚に前向きになれるような台詞を言うべきだ』というようなことを言っていた。
潤斗はそんなことを思い出しながら、対戦相手の反応を見てまたマウスを動かす。
チェスは、時間潰しにいい遊びだ。『相手のキングを追いつめた方が勝ち』という明確なルールに基づき、そのミッションを果たすための最短コースを模索する頭脳ゲーム。
結婚というミッションも、チェスのように明確なルールがあれば楽なのに。
「チェックメイト」
『降参だ!』
潤斗が自分のクイーンを動かして呟くと、相手が敗北を認めた。そして『相変わらず強い! 一度、直接会って対戦しませんか? 私の屋敷にご招待します』といった趣旨のメッセージを英語で告げてくる。そのメッセージに、潤斗も英語で『面倒くさいからお断りします』と返し、パソコンをシャットダウンする。
「ネットチェスの利点は、会う手間を省いて強い相手と対戦できることなのに……」
そう呟いた時、スマホの画面が光った。
「なんだ……」
03……で始まる未登録の番号に、何故か落胆のような気持ちを覚える。仕事の電話だろうかと思いながら通話をクリックすると、どこかの店内らしきざわめきが聞こえてきた。
そして短い沈黙の後に「桜庭彩香ですけど」という、彼女の声。
「ああ……」
――電話を掛けてきたということは……
結婚の承諾だろうかと考えていると、彩香は、颯太に連絡が取れないか、と言ってきた。彼なら玲緒の連絡先を知っているはずだからと。遠慮がちに話す彼女の言葉に耳を傾けていると、どうやら財布も携帯電話も持たずに外出して、家にも帰れずにいるらしい。
何故そんな状況に陥っているのかは謎だが、その経緯を確認するのは面倒くさいので止めておく。
「それなら……」
潤斗はスマホの画面を操作して、颯太の番号を表示した。そしてそれを読み上げようとして、颯太の言葉を思い出す。
颯太は、『奇跡的に電話が掛かってきたなら』と言っていた。
「…………今、どこにいる?」
「え?」
この電話が奇跡だというのなら、颯太の助言を試してみるのも悪くない。
ビジネスでもチェスでも、形勢不利のまま迎えた終盤で、思いがけず逆転のチャンスが巡ってくることがある。そのチャンスを掴み取った者こそ、勝者になれるのだ。
一瞬戸惑ったように沈黙してから自分の居場所を告げる彩香に、「じゃあ、今からそこに行くから待っていて」と伝えて電話を切った。
「……とりあえず着替えるか」
潤斗は、暗いパソコン画面に映る自分の姿に、そう呟いた。
◇ ◇ ◇
彩香は、自宅の最寄り駅近くにある蕎麦屋で支払いをする潤斗の姿を、不思議な思いで眺めていた。
人当たりのよさそうな高齢の夫婦が営むこの店は、彩香も家族と何度か訪れたことがある。彩香が、財布も携帯電話も持っていないので電話を貸してほしいと頼むと、店主は彩香を快く迎え入れ、お茶まで出してくれた。
そこで彩香は、今夜は玲緒の家にでも泊めてもらおうと電話帳で調べたブラン・レーヌの番号に電話を掛けたのだが、店は営業時間を過ぎているため留守電になっていた。玲緒のスマホに直接掛けようにも自分のスマホがないと無理。
諦めて家に帰ろうかと考えた時に思い出したのが、昼のやり取りだ。昼間、玲緒が颯太にアドレスを教えていた。ということは、友人である潤斗に連絡を取れば、颯太を通して玲緒に連絡を取れるのではないか。そう思い、勇気を出して潤斗に電話をかけてみたのだ。
あの性格からして『教えるのが面倒くさい』と断られることも想定していたのだが、まさかわざわざ店まで来て、目の前で颯太に連絡を取ってくれるとは思わなかった。
彩香はその時、親切な店主から食事を勧められ、明日支払いに来ることを約束の上で蕎麦を食べていたのだが、その代金も潤斗が支払ってしまった。思いがけない状況に、彩香としては戸惑うほかない。
その上潤斗は、留守電に切り替わった颯太の携帯に折り返しの連絡を頼むメッセージを入れると、『食べたらここを出て、どこかで時間を潰そう』と提案してきた。
――玲緒さんと連絡が取れればそれで良かったんだけどな……
戸惑いつつも潤斗が支払いをするのを見届け、店主に礼を言って店の外に出る。すると潤斗が彩香を見た。
「さてと……これからどこに行こうか?」
「お任せします」
財布も持たず、自分が食べた蕎麦の支払いまで彼にさせてしまった以上、彩香に選択権はない。とはいえ、「こんな格好なので、あまり人目がある場所は避けたいです」とだけ付け足す。
目の前に立つ潤斗は、何故か昼とは違うスーツを着ていた。けれどやっぱり仕立ては良さそうな品で、手入れが行き届いた光沢のある革靴も、職人の技を感じる逸品だ。そんな彼と、仕事のユニフォームにサンダル履きの自分ではバランスが悪すぎる。
彩香が居心地の悪さを感じていると、潤斗は一人頷いて口を開く。
「じゃあ、少し遠出になるけど、ドライブに行こう」
「え?」
「なにか不満でも?」
「いえ。……ただ久松さんって、『車の運転は面倒くさいから嫌』とか言うと思っていたから」
彩香の素直な感想に、潤斗が「ほぼ初対面なのに、俺のことをよく理解してくれているね」と小さく笑う。
「確かに面倒くさいから、必要のない運転はしない。だけど、退屈を抱えてぼんやり過ごすのはもっとごめんだね。時間の無駄だ。そのくらいなら運転するよ。それに、君を連れていきたい場所があるし」
「え?」
「彩香っ! 捜したぞっ!」
彩香が「どこですか?」と問いかけるより早く、今は一番聞きたくない声がはるか後方から飛んできた。
叫び声とともに、陸上選手もかくやという勢いで足音が近付いてくる。
――お兄ちゃん……なんでそんな遠くからでも私だってわかるの?
一郎との距離はまだ百メートルほどもある。これぞ妹を溺愛する兄の成せる業なのだろうか。
彩香に逃げる暇も与えず、イノシシばりの迫力で駆け寄ってきた一郎は、がっと妹の肩を後ろから掴んで引き寄せる。
「危ないっ!」
肩を引かれた拍子にバランスを崩しかけた彩香を、潤斗が咄嗟に支えた。
その瞬間、薄いブラウス越しに潤斗の大きな手の温もりを感じて、驚きのあまり体から力が抜けた。思わずそのまま彼の腕に重心を預けてしまう。潤斗は左手で彩香の肩を支え、右手で一郎の手を掴んだ。
庇うように自分の肩を抱く潤斗のたくましい腕。その感触に、男性に免疫のない彩香は窒息してしまいそうな息苦しさを感じ、姿勢を立て直せないでいた。
そんな二人の様子に、一郎が目を見開く。
「なんだお前は? 俺の妹に、なんの用だ?」
「妹? ……君のお兄さん?」
噛みつかんばかりの一郎の言葉に、潤斗が怪訝そうに確認してくる。
「……一応」
無理やり気持ちを落ち着かせた彩香は、姿勢を立て直しながら渋々頷いた。
そんな彩香の態度に、一郎が「一応とはなんだっ!」と怒鳴る。
「だって……」
「とにかく兄貴だってわかったなら、俺の妹からその汚い手を離せっ! ……ついでに俺の手もだっ……」
最後に付け足された言葉が気になって一郎を見る。すると、一郎は潤斗に掴まれた手首を振り払えずにもがいていた。
――お兄ちゃんが、力負けしている……
珍しい光景に驚いていると、彩香がちゃんと立っていることを確認した潤斗が肩から手を離した。そうして宥めるように一郎に話しかける。
「少し、落ち着いてもらえませんか?」
「うるさいっ! 俺にも妹にも、馴れ馴れしく触るなっ!」
潤斗は一郎の手首を掴んだまま、もう片方の手で肩を軽く叩いた。一郎はその手を思い切り振り払い、潤斗の胸ぐらを掴む。
そして『好きと嫌いって感情は、実はよく似ているんだよ。興味のない人には、なんの感情も持たないはずだからね。珍しく君をムカつかせた彼女と結婚しちゃえば?』と茶化してきた。その言葉に妙な説得力があったので、今日のプロポーズに至ったのだけれど。
「で、この先はどうするの?」
「どうするって……。彼女から承諾の連絡があれば結婚するし、なければこれっきりだな。とりあえずこれで、親が別の見合い話を持ってきても、当分の間『この前プロポーズした女性からの返答を待っているので』と断れるし」
「あっ! だからさっき、断りの電話なら掛けなくていいって言ったんだ」
「さあな」
納得する颯太に、潤斗は悪戯な微笑を返した。一応、スマホの画面を確認してみるが、まだ掛かってはきていない。そんな潤斗を見て、颯太が笑う。
「じゃあきっと、彩香ちゃんから電話が掛かってくることはないね。あんなロマンスの欠片もないプロポーズで、乙女心を動かせるわけがないから」
「……」
何故かムッとして無言で視線を返すと、颯太が「でも、もし奇跡的に電話が掛かってきたなら……」と続ける。口調がまた少し真面目になっている。
「今度はちゃんと、夜の観覧車にでも乗って、ゴンドラが頂上に差しかかった時に、彼女に跪いてプロポーズしてごらんよ。台詞も、あんな商談みたいなのじゃ駄目だ。彼女が結婚に前向きになれるような台詞を考えるべきだね」
「跪く……」
その言葉に、子供の頃に嗜んだ合気道の作法を思い出す。稽古の始まりと終わりに、必ず床に両膝を突き、正座をして神前に礼をしていた。
――プロポーズとは、それほど神聖なものだということか?
確かに、結婚式では新郎新婦が神前で誓いを立てているから、その可能性はある。
――それに前向き……? なにか目標意識を持って、結婚に臨めばいいのか?
仕事なら、売り上げ目標を定めて実績を上げていけばいい。だけど、それを結婚に置き換えた場合、なにを目標にすればいいのかわからない。
潤斗は、答えを求めて颯太を見やる。自分が少々ズレた解釈をしていることには気付かない。
「……」
「もし僕に教えを乞うなら、アドバイスしてあげてもいいけど?」
訳知り顔でそう微笑む颯太に、答えを求める気も消え失せる。
「別にいい。どうしても、彼女と結婚したいわけではないし」
「さすがヒサマツモーターの御曹司。人に頭を下げる習慣がないと、反応もひねくれているね。本当は教えてほしいんじゃないの?」
潤斗は、短く口笛を吹く颯太を睨んだ。
「必要ない」
静かに顔をしかめた潤斗に、颯太がニンマリ微笑む。
「じゃあ、これからも久松家の『潤君お見合いプロジェクト』は続くんだ」
「……それも、面倒くさいな」
確かにしばらくは見合いを断れるだろうが、それだっていつかは限界が来る。そのうち、新たな理由が必要になるだろう。潤斗は大きなため息を吐くと、スマホの画面へと視線を落とす。
そして着信を告げる様子のない液晶画面に、再び深いため息を吐いた。
2 夜空のプロポーズ
「なんだか、大変な一日だったな……」
いつもより少し遅めの帰宅時間。彩香は、家族と暮らすマンションのエレベーターに乗り込むと、今日一日の出来事を思い出して重いため息を吐いた。
昨日の潤斗との出会いの衝撃が冷めやらぬ状態での、今日の再会。そして昨日のお見合い相手が潤斗だったという衝撃的事実に、理解不能なプロポーズ。
それだけでも十分大変だったけど、店に戻ったら戻ったで、颯太から送られてきた注文リストを見ながら、玲緒と二人で大量のフラワーボックスや花束を作ることになった。その上、急なことで配送業者に配達を頼めなかったので、玲緒と手分けしてあちこちお届けすることに。それでこんな時間になってしまったのだ。
バカ旦那の名に恥じぬ交友関係(女性限定)の広さと金の使い方――と、玲緒も感心していた。
――着替える暇もなかった……
いつもは私服で通勤しているのだけれど、今日はお届け先から直帰したためお店のユニフォームのままだ。
ふと袖口に鼻を寄せると、深い緑の匂いがした。その匂いに、彩香は愛おしそうに目を細める。小さい頃から花が好きで、花に関わる仕事に就きたいと思っていた。そんな彩香にとって今日の忙しさは心地よい。ホッと息を吐いて、自宅のある階でエレベーターを降りた。
――帰ったら、まずはお風呂に入りたいな。
――昨日はリラックス効果のあるライムフラワーの入溶剤にしたから、今日は……
入浴剤を集めるのが趣味である彩香は、その日の気分に合わせて入浴剤を選ぶ。今日の自分に最適な香りはなんだろうかと思いを巡らせながら玄関の鍵を開け、そのまま扉の隙間に体を滑り込ませた。
が、次の瞬間、玄関に立ちはだかる人の姿にビクンッと後ずさる。
鬼の形相――咄嗟にその言葉が頭に浮かんだ。
玄関に立ちはだかっていたのは、兄の一郎だった。
その表情と立ち姿は、鬼というか仁王と呼んだ方がいいかもしれない。
「……お兄ちゃん、ビックリさせないでよ。出張、明日までじゃなかったの?」
「……」
彩香が、愛想笑いを浮かべて後ろ手に扉を閉める。一郎は、そんな彩香を無言で睨むだけだ。
「仕事でなにかあった? なんか今、大変な仕事を任されているんだよね?」
いつもなら笑顔で出迎えてくれる兄の険しい表情に、嫌な予感がしてくる。
学生時代、剣道で体を鍛えてきた一郎は、そこそこ身長があり肩幅も広い。鋭い目つきに刈り上げた髪。糊のきいたワイシャツとスラックスを着て刑事だと名乗れば、信じる人も多いことだろう。
――う、気持ちで負けそうになる……
そんな一郎に見下ろされていると、威圧感で息苦しくなる。
彩香はそそくさと靴を脱ぎ、頭を低くして一郎の脇をすり抜けた。
「彩香っ!」
一郎が彩香を呼び止める。怒りを押し殺したような低い声が怖い。
「なに……?」
「お前、昨日は、なにをしていた?」
――やっぱり……
良くも悪くも自分を溺愛している兄が、仕事の件で八つ当たりしてくるはずがない。だとすれば、どこかから昨日のお見合いの件を聞きつけたのだろう。
「なにって……、麻里子伯母さんと、食事をしにホテルに」
自分はそのつもりでホテルに行ったのだから、嘘ではない。お見合いはドタキャンされたのだから、したことにはならない。自分にそう言い聞かせる彩香に、一郎が「それだけか?」と訝しげな視線を向ける。
「それだけ……だよ。疑うなら伯母さんにも確認してみれば? でも、どうして?」
「それだけのために、あんな可愛いワンピース買ったのか? いつ買い物に行ったんだ?」
一郎の言葉に、彩香は弾かれたように振り向いた。
「――っ! お兄ちゃん、私の部屋に入ったの?」
もういい大人なのだから、いくら家族でも留守中に勝手に部屋に入ってほしくはない。
険しい表情をする彩香に、一郎は悪びれる様子もなく答える。
「なんだ、その顔は? お前が寂しがると思って急いで仕事を片付けて帰ってきてやったんだぞ。……そうしたら下駄箱に見慣れないパンプスがあったから、友達が来ているのかと思ってお前の部屋を覗いただけだ」
「……」
「ちゃんとノックはしたし、部屋を覗いただけで中には入っていないぞ。……む、念のために言っておくが、お兄ちゃんは別にお前の女友達に興味があったわけじゃないぞ。ただお前に、早くお土産のお菓子を食べさせてやりたくてだな……」
なおも不満げな顔をする彩香に、一郎は『お兄ちゃんなんだから当然だろう』とばかりにバーンと胸を張っている。そしてやや芝居がかった様子で続けた。
「いや、お前だけでなく、お前の大事なお友達ならお兄ちゃんだって大事におもてなししたいじゃないか。だからお前とお友達に、美味しいお菓子と紅茶でも出そうと思ってな。それで覗いてみたら、空っぽの部屋に見慣れないワンピースがあったんだ」
「ああ……」
そう言えば麻里子に買ってもらったパンプスは下駄箱に収めて、ワンピースはクリーニングに出すつもりで部屋の目立つ場所に掛けてあった。
「その上、お前はなかなか帰ってこないし、もしやお兄ちゃんが数日家を空けただけで悪いムシでも付いたんじゃないかと、心配したんだぞ」
お前のせいで気苦労が絶えないと言いたげに、一郎が大きく首を振る。
「まあワンピースの件はいい。俺も最近出張が多くてお前の買い物に毎回付いていけるような状態じゃないからな。それで、今日はどうして遅かったんだ?」
「仕事」
見たらわかるでしょ、と彩香が不満げに答えると、一郎が「うむ、それならしょうがない」と納得する。
「じゃあ、着替えて手を洗ってこい。さっき言ったお菓子、一緒に食べよう。留守番のご褒美だ」
一転、ご機嫌になった一郎が、彩香を追い越してリビングへと向かう。そのついでに、彩香が手にしていた鞄を持ってあげることも忘れない。なんのかんの言って、寂しがっていたのは自分らしい。
――手を洗って、お留守番のご褒美のお菓子を一緒に食べようって……お兄ちゃん、私のことを何歳だと思っているの?
一郎の目には、彩香が小学生のままの姿で映っているのかもしれない。だから勝手に部屋を覗くし、過剰に干渉してくるのだろう。
――私、もう男の人からプロポーズされるくらいに大人なんですけど。
そのプロポーズの相手の人間性については、この際目を瞑っておく。
彩香は湧き上がる反抗心を抑えて、前を歩く一郎に疑問を投げかけてみた。
「ねえ、お兄ちゃん。もし私が『実は昨日、お見合いしていたの』って、言ったらどうする? しかもその相手からプロポーズされたって言ったら……」
――少しは私のこと、大人になったって認めてくれる?
そう言おうとしたら、血相を変えた一郎に遮られた。
「彩香っ! お、お前、お見合いしたのか!?」
一郎は駆け寄って彩香の肩を掴み、「お前、いつからそんな不良になった!?」と叫ぶ。
――なんでお見合いを不良のカテゴリーに入れるのよ。
そう思いつつも、想像以上の兄の喰い付きに口ごもってしまう。
「あっ…………えっと…………」
『このままじゃ彩香は恋の一つもすることなく、処女のままお婆ちゃんになっちゃうわよ』
ふと、昨日の麻里子の言葉が耳に蘇る。
――あり得る……
そう言えば、玲緒も一郎のことを『地獄の番犬』と揶揄していた。そんな危険なあだ名を持つ兄が目を光らせていては、この先も恋人を作るのは難しいだろう。彩香は気を取り直して反論する。
「お兄ちゃん、私を何歳だと思っているの? 私だってもう大人なんだから、恋愛や結婚を考えてもおかしくないんだからね」
「彩香にはまだ早いっ!」
「……」
――私、もう、二十三歳なんですけど。
唸る彩香に、一郎は「なんで急にそんなことを言い出すんだ。反抗期か?」と見当違いもはなはだしい見解を述べる。
「なんでそうなるのよ。子供扱いしないでって言っているだけでしょっ! お兄ちゃんは私がこのまま生涯独身で過ごしてもいいの?」
「そっ、そこまでは言っていないだろう。ただ彩香にはまだ早いと思うだけだ」
「じゃあ、何歳になったら恋愛していいの?」
「うっ……そうだな……あと十年くらいかな?」
「……」
話にならない。十年経ったら彩香は三十過ぎだ。
一郎がこんなだから、麻里子だってあんな無茶苦茶なお見合いをセッティングしてきたのだろう。そして彩香も、一郎のせいで男性に免疫もつかずに育ってしまったから、あんなものぐさ王子にときめいたりしたのだ。
――あんな面倒くさがり屋で意地悪な人に、一瞬でも見惚れちゃったのはお兄ちゃんのせいだっ!
――お兄ちゃんがうるさく付き纏って、男の人に免疫がなかったせいだっ!
彩香の胸の内に、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
よく考えたら、潤斗のあのロマンティックさの欠片もないプロポーズが、生まれて初めてのプロポーズだ。そしてもしかしたら、あれが生涯最後のプロポーズになるかもしれない。
「お兄ちゃんのバカっ!」
彩香の厳しい声に、一郎が大きく目を見開き、持っていた彩香の鞄を床に落とした。
そんな一郎に、彩香は「お兄ちゃんなんか、大嫌いっ!」と再び厳しい言葉をぶつける。
愛する妹からのそんな言葉だけの攻撃に、剣道の猛者として名を馳せた一郎が膝から崩れ落ちた。
普段から兄の過保護さを煩わしく思うところがあっても、自分のためにしてくれているのだからと我慢していた。でも、今日という今日は我慢の限界だ。
「家出してやるっ!」
彩香はそう言い残すと、玄関に出しっぱなしだった突っかけサンダルを履いて、外へ飛び出した。後ろで一郎が倒れ込む音が聞こえたけれど、今は心配する気になれない。
◇ ◇ ◇
「しまった。財布もスマホも家に置いてきちゃったっ!」
家を飛び出してしばらくやみくもに歩いていた彩香は、ふとそのことに気付いて呟いた。
冷静になって考えてみれば、財布も携帯もさっき一郎が床に落とした鞄の中に入っている。
でも手ぶらだからといって、今すぐ家に帰る気にはなれない。財布にしまい忘れた小銭か電子マネーカードでも入っていないだろうかと、彩香はユニフォームのポケットを探ってみる。
すると胸ポケットの中で、カード状のなにかに指先が触れた。
取り出してみると、昼間潤斗が残していった名刺だ。
「……あぁ」
そう言えば、玲緒がこのポケットに名刺を入れたのだった。
久松潤斗。
一郎の次に助けを求めたくない人の名刺に彩香は小さくアカンベをして、再びポケットを探り始めた。
◇ ◇ ◇
潤斗は、自宅マンションでパソコンを操作しながら、チラリとスマホの画面に視線を向けた。
仕事を終えて帰宅してから二時間。ジーンズに薄手のインナーとカーディガンといったいつもの部屋着で過ごしていた潤斗は、小さくため息を吐いて引き続きマウスを動かす。
趣味であるチェスのネット対戦を楽しんでいる間も、鳴る気配のないスマホが気になってしまう。
「ポーンをここに……」
マウスをクリックして、想定通りの手順で対戦相手を追いつめながら、潤斗は昼間の一件を思い返す。
――電話、来るわけないか……
颯太の手前、認めるのが癪だったが、自分でもあのプロポーズの仕方は間違っていた気がしている。だからといって、ろくに言葉も交わしたことのない女性に、どうやって結婚を申し込めばいいのかわからない。
割とモテる方なので、交際経験はそれなりにある。でもこれまでの恋愛は全て、同じ理由で破局していた。相手から告白されて付き合うものの、やがて女性の方が、面倒くさがり屋で束縛を嫌う潤斗のペースに付き合い切れなくなって別れを告げる。その繰り返しだったので、自分から女性を口説いた経験がない。そしてここしばらくは、そんな付き合いさえも面倒くさくなって、恋愛自体を避けていた。
そんな自分が、彩香に対してだけは結婚まで考えるようになった。それには颯太の助言以外にも理由があったのだけど。
――どうすればよかったんだ?
颯太は、もしもう一度彼女に会うことができたなら、『今度は跪いて彼女が結婚に前向きになれるような台詞を言うべきだ』というようなことを言っていた。
潤斗はそんなことを思い出しながら、対戦相手の反応を見てまたマウスを動かす。
チェスは、時間潰しにいい遊びだ。『相手のキングを追いつめた方が勝ち』という明確なルールに基づき、そのミッションを果たすための最短コースを模索する頭脳ゲーム。
結婚というミッションも、チェスのように明確なルールがあれば楽なのに。
「チェックメイト」
『降参だ!』
潤斗が自分のクイーンを動かして呟くと、相手が敗北を認めた。そして『相変わらず強い! 一度、直接会って対戦しませんか? 私の屋敷にご招待します』といった趣旨のメッセージを英語で告げてくる。そのメッセージに、潤斗も英語で『面倒くさいからお断りします』と返し、パソコンをシャットダウンする。
「ネットチェスの利点は、会う手間を省いて強い相手と対戦できることなのに……」
そう呟いた時、スマホの画面が光った。
「なんだ……」
03……で始まる未登録の番号に、何故か落胆のような気持ちを覚える。仕事の電話だろうかと思いながら通話をクリックすると、どこかの店内らしきざわめきが聞こえてきた。
そして短い沈黙の後に「桜庭彩香ですけど」という、彼女の声。
「ああ……」
――電話を掛けてきたということは……
結婚の承諾だろうかと考えていると、彩香は、颯太に連絡が取れないか、と言ってきた。彼なら玲緒の連絡先を知っているはずだからと。遠慮がちに話す彼女の言葉に耳を傾けていると、どうやら財布も携帯電話も持たずに外出して、家にも帰れずにいるらしい。
何故そんな状況に陥っているのかは謎だが、その経緯を確認するのは面倒くさいので止めておく。
「それなら……」
潤斗はスマホの画面を操作して、颯太の番号を表示した。そしてそれを読み上げようとして、颯太の言葉を思い出す。
颯太は、『奇跡的に電話が掛かってきたなら』と言っていた。
「…………今、どこにいる?」
「え?」
この電話が奇跡だというのなら、颯太の助言を試してみるのも悪くない。
ビジネスでもチェスでも、形勢不利のまま迎えた終盤で、思いがけず逆転のチャンスが巡ってくることがある。そのチャンスを掴み取った者こそ、勝者になれるのだ。
一瞬戸惑ったように沈黙してから自分の居場所を告げる彩香に、「じゃあ、今からそこに行くから待っていて」と伝えて電話を切った。
「……とりあえず着替えるか」
潤斗は、暗いパソコン画面に映る自分の姿に、そう呟いた。
◇ ◇ ◇
彩香は、自宅の最寄り駅近くにある蕎麦屋で支払いをする潤斗の姿を、不思議な思いで眺めていた。
人当たりのよさそうな高齢の夫婦が営むこの店は、彩香も家族と何度か訪れたことがある。彩香が、財布も携帯電話も持っていないので電話を貸してほしいと頼むと、店主は彩香を快く迎え入れ、お茶まで出してくれた。
そこで彩香は、今夜は玲緒の家にでも泊めてもらおうと電話帳で調べたブラン・レーヌの番号に電話を掛けたのだが、店は営業時間を過ぎているため留守電になっていた。玲緒のスマホに直接掛けようにも自分のスマホがないと無理。
諦めて家に帰ろうかと考えた時に思い出したのが、昼のやり取りだ。昼間、玲緒が颯太にアドレスを教えていた。ということは、友人である潤斗に連絡を取れば、颯太を通して玲緒に連絡を取れるのではないか。そう思い、勇気を出して潤斗に電話をかけてみたのだ。
あの性格からして『教えるのが面倒くさい』と断られることも想定していたのだが、まさかわざわざ店まで来て、目の前で颯太に連絡を取ってくれるとは思わなかった。
彩香はその時、親切な店主から食事を勧められ、明日支払いに来ることを約束の上で蕎麦を食べていたのだが、その代金も潤斗が支払ってしまった。思いがけない状況に、彩香としては戸惑うほかない。
その上潤斗は、留守電に切り替わった颯太の携帯に折り返しの連絡を頼むメッセージを入れると、『食べたらここを出て、どこかで時間を潰そう』と提案してきた。
――玲緒さんと連絡が取れればそれで良かったんだけどな……
戸惑いつつも潤斗が支払いをするのを見届け、店主に礼を言って店の外に出る。すると潤斗が彩香を見た。
「さてと……これからどこに行こうか?」
「お任せします」
財布も持たず、自分が食べた蕎麦の支払いまで彼にさせてしまった以上、彩香に選択権はない。とはいえ、「こんな格好なので、あまり人目がある場所は避けたいです」とだけ付け足す。
目の前に立つ潤斗は、何故か昼とは違うスーツを着ていた。けれどやっぱり仕立ては良さそうな品で、手入れが行き届いた光沢のある革靴も、職人の技を感じる逸品だ。そんな彼と、仕事のユニフォームにサンダル履きの自分ではバランスが悪すぎる。
彩香が居心地の悪さを感じていると、潤斗は一人頷いて口を開く。
「じゃあ、少し遠出になるけど、ドライブに行こう」
「え?」
「なにか不満でも?」
「いえ。……ただ久松さんって、『車の運転は面倒くさいから嫌』とか言うと思っていたから」
彩香の素直な感想に、潤斗が「ほぼ初対面なのに、俺のことをよく理解してくれているね」と小さく笑う。
「確かに面倒くさいから、必要のない運転はしない。だけど、退屈を抱えてぼんやり過ごすのはもっとごめんだね。時間の無駄だ。そのくらいなら運転するよ。それに、君を連れていきたい場所があるし」
「え?」
「彩香っ! 捜したぞっ!」
彩香が「どこですか?」と問いかけるより早く、今は一番聞きたくない声がはるか後方から飛んできた。
叫び声とともに、陸上選手もかくやという勢いで足音が近付いてくる。
――お兄ちゃん……なんでそんな遠くからでも私だってわかるの?
一郎との距離はまだ百メートルほどもある。これぞ妹を溺愛する兄の成せる業なのだろうか。
彩香に逃げる暇も与えず、イノシシばりの迫力で駆け寄ってきた一郎は、がっと妹の肩を後ろから掴んで引き寄せる。
「危ないっ!」
肩を引かれた拍子にバランスを崩しかけた彩香を、潤斗が咄嗟に支えた。
その瞬間、薄いブラウス越しに潤斗の大きな手の温もりを感じて、驚きのあまり体から力が抜けた。思わずそのまま彼の腕に重心を預けてしまう。潤斗は左手で彩香の肩を支え、右手で一郎の手を掴んだ。
庇うように自分の肩を抱く潤斗のたくましい腕。その感触に、男性に免疫のない彩香は窒息してしまいそうな息苦しさを感じ、姿勢を立て直せないでいた。
そんな二人の様子に、一郎が目を見開く。
「なんだお前は? 俺の妹に、なんの用だ?」
「妹? ……君のお兄さん?」
噛みつかんばかりの一郎の言葉に、潤斗が怪訝そうに確認してくる。
「……一応」
無理やり気持ちを落ち着かせた彩香は、姿勢を立て直しながら渋々頷いた。
そんな彩香の態度に、一郎が「一応とはなんだっ!」と怒鳴る。
「だって……」
「とにかく兄貴だってわかったなら、俺の妹からその汚い手を離せっ! ……ついでに俺の手もだっ……」
最後に付け足された言葉が気になって一郎を見る。すると、一郎は潤斗に掴まれた手首を振り払えずにもがいていた。
――お兄ちゃんが、力負けしている……
珍しい光景に驚いていると、彩香がちゃんと立っていることを確認した潤斗が肩から手を離した。そうして宥めるように一郎に話しかける。
「少し、落ち着いてもらえませんか?」
「うるさいっ! 俺にも妹にも、馴れ馴れしく触るなっ!」
潤斗は一郎の手首を掴んだまま、もう片方の手で肩を軽く叩いた。一郎はその手を思い切り振り払い、潤斗の胸ぐらを掴む。
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