暴走プロポーズは極甘仕立て

冬野まゆ

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1巻

1-1

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   プロローグ 出会いはシンデレラ


 小さい頃、シンデレラのお話が大好きだった。
 魔法使いの力を借りて、王子様と運命的な出会いを果たした少女が、その王子様と永遠の愛を誓う。私も大人になったら、そんな恋をするのだと憧れていた。


 でもね、二十三歳になった今の私は、知っているんだ。
 憧れていたシンデレラのお話は絵本の中だけのもので、普通の女の子にガラスの靴を出してくれる魔法は現実には存在しない。だいたい、小さい頃に両親の怒涛どとうの離婚劇をの当たりにした私には、永遠の愛がそんなに簡単に手に入るものじゃないってわかっている。
 それでも今、大理石の階段で〝彼〟と出会った私は、ついシンデレラのことを考えてしまう。
 彼女は、王子様がガラスの靴を手掛かりに自分を探しているって聞いた時、彼こそが運命の相手だって気付いていたのかな?
 きっと気付いていたよね。だってそれが、運命の恋だったんだから。
 じゃあ私は?
〝彼〟の手にはガラスの靴ならぬ私の革のパンプス。あのパンプスを拾ってくれた〝彼〟に、私は運命を感じているのかな?


   ◇ ◇ ◇


「えっと……」

 高級ホテルにある、赤い絨毯じゅうたんの敷かれた大理石の階段。
 その踊り場で、ワンピースの裾を花のように広げて座り込む桜庭さくらば彩香あやか。彼女は眼下の光景に頬を引きつらせていた。
 ゆるやかなカーブをえがいた階段の下。そこから見上げてくる彼の視線が痛い。

「……」

 後ろに流した少しくせのあるチョコレートブラウンの髪に、すっと通った鼻筋と彫りの深い端整な顔立ち。全体的に柔和な雰囲気だが、目元はそれと相反するように鋭い。
 すりしにそんな彼を見下ろしていると、ひょうのような、しなやかな獣を連想してしまう。思わず見惚みほれずにはいられない。
 ――すごくハンサムな人。モデルみたい。
 長い手足や姿勢の良さを引き立てるスーツをまとい、片方のパンプスを手にしたその姿は、子供の頃大好きだったお伽噺とぎばなしの王子様をも思い出させる。
 ――……って、今はそれどころじゃなかった。
 つい先ほど、れないパンプスで階段をけ下りていた彩香は、踊り場のカーブを上手く曲がることができずに転んでしまった。その拍子に脱げた左のパンプスが、ちょうど階段を上ってきた彼の顔に直撃してしまったのだ。それこそありがちなコントのように。

「ごめんなさい。怪我とかしてないですか?」
「ああ……」

 階段下の彼は、パンプスがぶつかった額を指で確認しながら答えた。

「よかった。急いで逃げていたら階段を踏みはずしちゃって……。貴方あなたに怪我がなくてよかったです」
「逃げていた?」

 ホッと息を吐く彩香を見て、階段下の彼が怪訝けげんそうにつぶやく。
 その言葉に、彩香は自分の置かれた状況を思い出した。

「はい。伯母おばだまされてこのホテルに連れてこられたんですけど、実は目的は私のお見合いだったんです。それでこのままお見合いすると、その相手と強制的に結婚させられちゃうんです」
「そうなんだ。……それは気の毒だね」

 低く落ち着いた彼の声が、広く緩やかな階段に響いた。彩香は「本当に最悪な状況です」と困った表情を見せる。

「……そういうわけですので、その靴を返していただけますか?」

 彩香は、階段の手摺子てすりこの隙間から手を差し伸べた。
 階段下の彼は、そんな彩香とパンプスを見比べてから、そっと口角を持ち上げる。完璧としか表現できないさわやかな微笑。
 彩香は頬が熱くなるのを感じつつもホッと安堵の息を吐いた。
 ――よかった。怒ってないみたい。
 が、次の瞬間、彼の発した言葉に耳を疑う。

「面倒くさいから嫌だね」
「え?」
「そこまで階段を上るのが面倒くさい」
「えっ? だって、この階段を上ってくる途中でしたよね?」

 そのついでにパンプスを返してください――そんないたってシンプルなお願いを断られる理由がわからない。
 ――やっぱり、顔にパンプスをぶつけたことを怒っているのかな?
 どう謝れば許してくれるだろうかと悩んでいると、彼が軽く右手を上げる。

「まあ、そんなわけだ。申し訳ないが、君のお願いは聞けない」

 彼は「ごめんね」と上辺だけの謝罪を口にすると、気紛れな猫のような悪戯いたずらっぽい微笑を残して回れ右をする。そして、そのまま階段を下りていった。

「えっ! ちょっと待ってください。私の靴っ!」
「ああ……」

 足を止めた彼が、軽く背中を反らして彩香を見上げた。さすがに持ち去るのはマズイと気付いたのか、彼は手の中のパンプスと彩香を見比べると、次に階段の壁にしつらえられたニッチへと視線を向けた。
 結婚式などにも利用される高級ホテルだけあって、階段脇に飾る花にもさりげないこだわりが感じられる。白い大きな花器に飾られている花は、派手ではないが質と量ともに手抜きのない物だ。
 その花器に彼が歩み寄る。そして背伸びをすると、花と一緒にけられていた細い枝の先端に、パンプスを引っ掛けた。

「君の靴は、ここに預けておくよ」
「えっ! ちょっと……っ」

 ここからだと彼の正確な身長はわからないけれど、一五〇センチ台の彩香より高いことは確かだ。そんな彼が背伸びをして引っ掛けたパンプスなど、回収できるわけがない。
 焦る彩香に、彼はまた悪戯な微笑を浮かべてみせる。こんな場面にもかかわらず、その微笑は隙がなく完璧だ。それが無性に腹立たしい。

「じゃあね、バイバイ」

 彼は再び右手を軽く上げると、今度こそ階段を下りていってしまった。

「ちょっと待ってくださいっ!」

 彩香はそう叫んだものの、不意に聞こえてきた「彩香、どこにいるの?」という声にビクリッと肩を跳ねさせた。上の階から誰かの足音が近付いてくる。
 ――最悪だ……
 彩香は、額を押さえてため息を吐いた。

「彩香、そこにいたの?」

 見上げると、上の階の手摺てすりから身を乗り出している伯母おば麻里子まりこと目が合った。

伯母おばさん……」
「そんなところで、なにしているの? 探したのよ」
「えっと……散歩……」

 この状況では、もはや逃げようがない。彩香は諦めのため息を吐いて、け足で階段を下りてくる麻里子に手を振ってみせた。


   1 階段下の王子様

 彩香の勤め先であるフラワーショップ『ブラン・レーヌ』は、高級ブランドの直営店が立ち並ぶ地域にある。ケヤキ並木の有名な大通りを離れ、少し奥まった路地にあるそのお店は、オーナーの尾関おぜき玲緒れおのこだわりにより、パリの街角をモチーフにした店構えになっていた。
 常緑樹じょうりょくじゅの鉢植えが並ぶテラコッタタイルの軒先の奥には、白い漆喰塗しっくいぬりの壁に囲まれた空間。そこに、淡い色調の花があふれんばかりに並べられている。

「で、昨日のお見合いはどうだったの?」

 オーナーの玲緒が、薔薇ばらを片手に彩香に問いかけてくる。ふわふわとしたピンク色の花びらが幾重にも重なるその薔薇は、クィーン・アンという品種だ。

「ああ……お見合いですか」

 白いシャツに黒いタイトスカート、その上に深緑のエプロンという、店のユニフォームに身を包んだ彩香は、顔をしかめながら美しい雇い主に視線を返した。
 玲緒の身なりはいたってシンプル。グロスとアイラインと眉墨まゆずみのみのメイクに、長いストレートの黒髪はバレッタでお団子状にまとめただけ。
 それだけなのに、十分大人の魅力をかもし出した美人に見えるのだからズルイ、と彩香は思う。
 対する彩香は、二十三歳にもかかわらず十代に見られる童顔。その上、今、思い切り不細工な表情をしている。そんな彩香に、玲緒は小さく笑って言った。

「なによその顔。せっかくの定休日に『玲緒さん、どうしよう。伯母さんにだまされました! このままじゃお見合いさせられて結婚することになってしまいます!』なんてメールをもらったんだから、その顛末てんまつを聞く権利はあると思うわよ。気になってしょうがないから、思わずワインをボトル一本空けちゃったじゃない」

 ――それは玲緒さんのいつもの休日の過ごし方です。っていうかメールとワイン、全然関係ないし。
 視線でそう突っ込みを入れると同時に、昨日の一件を思い出してしまい、彩香はさらに不細工な顔をする。

「色んな意味で、最悪でした」

 とげのある声で答えた彩香は、声とは裏腹の優しい手つきで薔薇ばらの変色した葉を摘まんでいく。

「なにがどう最悪なのよ? 本当に強引に結婚させられるの? 相手はデブでハゲなオヤジとか? 結婚するなら仕事はどうする気? 辞めるなら早めに教えてよ。……あ、あと、わかっていると思うけど、結婚式のブーケは持ち込み料金払ってでもウチで注文してよ」

 親しい友達には『オレ様・玲緒様・女王様』と揶揄やゆされる雇い主の矢継やつばやな質問に、彩香は項垂うなだれる。
 シンデレラの舞踏会とまではいかないけれど、お洒落しゃれをして、高級ホテルのレストランでディナーを楽しんだ後はバレエの観劇――という伯母おばの計画を聞いて、束の間のお姫様気分を味わっていた。だけどそれは、ホテルに入るまでのこと。まさかそれが全て、彩香を釣るためのえさだとは思わなかった。

「……本当に、最悪だったんです」
「だから、ちゃんと説明しなさいよ」

 自分をにらむ玲緒の視線に、彩香は昨日の出来事を順序立てて話し始めた。


   ◇ ◇ ◇


 全ては、伯母である麻里子にバレエの観劇に誘われたことから始まる。
 なんでも、海外で有名なバレエ団の公演チケットを奇跡的に入手できたのだが、一緒に行くはずの友達にドタキャンされたのだという。せっかくのチケットを無駄にしたくないので、付き合ってくれるならお礼に高級ホテルでの夕飯をご馳走ちそうするとのことだった。
 ちょうど公演日はお店の定休日だったし、なにかと口うるさい兄の一郎いちろうも出張のため留守なのでゆっくり羽が伸ばせそうだと、彩香は一緒に行くことにした。
 すると麻里子が、せっかくだからお洒落をして出かけようと言って、彩香に可愛いワンピースとパンプス、それに秋ということで、上に羽織はおる暖かなショールもプレゼントしてくれた。
 そして当日は必ず、美容院で髪のセットとメイクをしてくるようにと言いつけたのだった。
 ――今思えば、最初から怪しかったんだよね。
 一郎の留守を見計らったような誘い。麻里子からの服一式のプレゼント。美容院で髪のセットやメイクをした上での、高級ホテルの食事……
 その流れに、もう少し疑いを持つべきだったのかもしれない。けれど彩香が、これが全て伯母のたくらみであることに気付いたのは、レストランのある高級ホテルに着いてからだった。
 そこで麻里子が約束の時間までまだ間があると言ったので、彩香は『少しその辺を散歩してくる』と伝えて麻里子から離れた。そうして真っ直ぐにパウダールームに向かう。普段履くことのない高いヒールで歩いて疲れたので、一旦脱いで休みたい――パンプスの贈り主である伯母にそう訴えることもできず、散歩という建前でこっそりパウダールームに逃げ込んだというわけだ。
 さすが高級ホテル。トイレに併設されているパウダールームは、鏡が大きく、他の人の視線が気にならないようにと一つ一つのブースを低めのパーテーションで仕切っている。
 彩香は一番奥のブースに入って椅子に座ると、すぐにパンプスを脱ぎ、行儀が悪いと思いつつも片足を座面に持ち上げて揉み始めた。
 そうして足をマッサージしているうちに、彩香はふとあることに気付く。
 ――あれ、伯母おばさん、さっき『約束の時間』って言っていた?
 レストランの予約の時間のことを『約束の時間』と表現するだろうか? それに麻里子は、このホテルに着いてからやたらとキョロキョロしていて、まるで誰かを探しているようだった。

「……あれ?」

 なにかがおかしい。彩香が思いをめぐらせていると、パウダールームに誰かが入ってくる音がした。
 行儀の悪い恰好をしていた彩香は、思わず気配を押し殺す。そのまま息をひそめていると、誰かの話し声が聞こえてきた。

「ああ、敏夫としお。……うん、今ホテル」

 ――伯母さんが、お父さんに電話している?
 父親の名前を出した伯母の声に、彩香は耳を澄ました。麻里子は、彩香に気付くことなく話を続ける。

「先方はまだ来ていないみたい。……彩香? 大丈夫よ。これが自分のお見合いだって、ちっとも気付いていないようよ」

 それを聞いて彩香は目を丸くした。
 ――お見合い? これってお見合いだったの?

「え? だましているみたいで可哀想? なにを言っているの」

 麻里子が強い口調で、「そんなこと言っていると、彩香は一郎のせいで生涯独身なんてことになりかねないのよ」とたしなめる。

「冷静に考えてみなさい。一郎のシスコンをこのままにしていいと思う? 確かに、まだ彩香が小さいうちに親が離婚したのは可哀想だと思うわ。責任感の強い一郎が彩香を溺愛できあいして、過保護になる気持ちもわかる。……でもそのせいで彩香は、二十三歳になった今でも、恋人どころか男友達の一人もいないのよ」

 敏夫が納得したのか、麻里子が「ね、そうでしょ」と力強く言う。
 ――……まったくその通り。
 彩香もまた、四つ年上の兄、一郎を思い出して静かに頷く。
 実のところ、一郎の彩香に対する態度は〝口うるさい〟なんてものではない。〝過保護〟――それも上に〝超〟が三つほど付いていてもおかしくないレベルのものなのだ。

「彩香も人見知りなところがあるし、なんだかんだ言ってもお兄ちゃんっ子だから、一郎にベッタリで恋人を作る気配もないでしょ?」

 ――私がお兄ちゃんっ子だったのは、子供の頃の話です。
 彩香はそう叫びたいのを必死にこらえた。
 確かに両親が離婚して父親に引き取られた時、まだ幼稚園児だった彩香にとって小学生の兄一郎は頼もしい存在だった。一郎もまた、自立心も責任感も人一倍強い子供だったため、自分より小さな彩香が寂しい思いをしないようにといつも気遣ってくれていた。毎朝、彩香の長い髪を綺麗に編み込んで幼稚園に送り出していたのは一郎だし、夜、寝る前に絵本を読み聞かせていたのも一郎だ。
 それに彩香がイジメッ子に意地悪されそうになると、どこからともなくけつけてかばってくれた。そんな一郎は、幼い彩香にとってヒーロー的な存在だった。
 仕事が忙しい父敏夫も、一郎が献身的に彩香の面倒を見てくれたことで、ずいぶん助けられたはずだ。麻里子の手助けもあったとはいえ、一郎がいなければ育児をしつつ仕事をこなすのは難しかっただろう。
 ――それはわかっているんだけれどね……
 何事にも限度と潮時しおどきが必要であると、彩香は肩を落として天井を見上げる。
 兄の生真面目さと責任感の強さは、彼の長所であると同時に、短所でもあると彩香は思う。
 幼い頃は単に日常の世話や怪我・イジメの心配だけだったものが、彩香が年頃になると、悪い男に言い寄られないかと心配し始め、彩香の周囲の男子に常に目を光らせるようになったのだ。

「あの子は、過保護すぎるのよ。小学校はもちろん、中学校高校時代も、愉快な子分たちを使って彩香を監視していたんでしょ?」

 麻里子が『愉快な子分たち』と表現したのは、一郎と同じ剣道道場に通う後輩門下生のことだ。
 幼い頃から剣道道場に通っていた一郎は、持ち前の生真面目さで鍛錬たんれんを重ね、学生時代は剣道の全国大会で優勝したこともある。当然、そんな彼を尊敬する後輩は多い。
 その崇拝ぶりと言ったらすさまじく、一郎に『俺の可愛い妹に変な虫がつかないように見守ってほしい』と頼まれれば、馬鹿正直にそれを完遂しようとするほど。そんな彼らは、まさに『愉快な子分たち』という表現されるにふさわしい。
 四つ年上の一郎が、中学校高校と、彩香と入れ違いに卒業してしまっても、その後輩たちが目を光らせ、彩香の周囲に気を配る。廊下ですれ違いざまに肩が当たっただけの男子にも駆け寄って注意をし、食堂で隣の席に座っただけの男子にも鬼の形相ぎょうそう威嚇いかくする。そんな彩香と積極的に関わりたがる男子などいるわけがない。
 ――あんな状況で、男友達を作るなんて無理よ。
 もちろん彩香としても、一郎にあんな迷惑なボディーガードはいらないと何度も訴えた。しかし、『俺が妹を守る』という一郎の確固たる信念のもとでは、なかなか改善は見られなかった。
 愉快な子分たちにボディーガードを止めるようじきしたこともあったが、親分の一郎がそんな感じだから、彼らがその訴えを聞き入れるはずもない。
 一応、精一杯の妥協だきょう策として、ある程度離れたところから彩香を見守ってくれるようになったのだが、その分彩香を見守る表情が一層鋭くなってしまった。ガタイのいい強面こわもての男子が遠くからにらみを利かせる姿は、それはそれで恐ろしく、彩香の周りの男子が及び腰になるのも仕方のないことだった。
 そのおかげで彩香は、小学校から高校まで、ろくに男子と口をきくこともなく過ごす羽目になってしまった。短大は女子校だったし、就職したお店は玲緒と二人で切り盛りしているので、この歳になるまで男性と交際することなく生きてきた。

「今だってそうよ。一郎ったら、業務時間に融通が利く外資系の会社に勤めているのをいいことに、自分の休みを彩香に合わせて、彩香の外出にもちょくちょくついて回ってる。このままじゃ彩香は恋の一つもすることなく、処女のままおばあちゃんになっちゃうわよ。……それに一郎だって、彩香を構うのに必死で、恋人を作る気配もないじゃない。このままじゃ二人とも生涯恋人を作ることなく歳を取って、アンタは孫の顔を見ることなく死んでいくのよ」

 次第に麻里子の口調に熱が入ってくる。

「そんなことになったら、誰が桜庭家の仏壇やお墓を供養くようするのよっ! 私だって死んだら、一郎とその子供に供養してもらうつもりなんだから。死んでまで主人と一緒の墓なんて嫌よ。ちゃんと一郎を結婚させて、内孫うちまご作ってもらってよ」

 ――伯母おばさん……
 どうやら伯母夫婦の仲がかんばしくないというのは本当らしい。仏壇やお墓の供養のために、伯母に処女うんぬんの心配までされたくはないが、確かにこのままではまずいことはわかる。
 電話の向こうの敏夫も、同じような気持ちなのだろう。麻里子が「そうでしょ」と自信満々な様子で話を続けている。

「でも別の考え方をすれば、そんな一郎のことですもの。結婚して子供さえできれば、いい父親になると思わない? そうでしょ? あの子は、溺愛できあいする対象さえ間違わなければ、いい夫、いい父親になれるんだから」

 うんうんと聞き耳を立てて頷いていた彩香は、麻里子の「そのためには、まず彩香から片付けなきゃいけないのよ」という言葉に動きを止めた。
 ――なんでお兄ちゃんの恋愛事情に、私の名前が出てくるのよ……
 彩香の疑問に答えるように、麻里子が言葉を続ける。

「彩香が結婚でもすれば、一郎だって構うのを諦めるわよ。そうすれば他の人に関心を持つようになって、恋愛や結婚へと話が進むわ。……そう思っていた矢先に、今回のお見合い話っ!」

 声だけで、麻里子が気合いを入れて握りこぶしを作ったのがわかる。
 ここまで話を聞いて、彩香はようやく、自分のお見合いとやらが一郎のシスコン病を治すために仕組まれたものであることを理解した。

「なんだか事情はよくわからないけれど、先方のご家族が、息子さんの結婚を焦っているらしいの。どんな相手でもいいから、とにかく息子さんを結婚させたいって話なのよ。……そうなのよ。そんな人なの。……彩香にはちょうどいい話だと思うの」

 声が大きくなっていたことに気付いたのか、途中麻里子の声が周囲をはばかるように小さくなる。それを聞きつつ、彩香は冗談じゃないと背筋を伸ばした。
 家族が焦って相手を探さなきゃいけない男なんて、ろくでもない男に決まっている。
 ――私にだって、結婚相手に求める条件があるんだから。
 今まで恋愛したことはないけれど……違う、恋愛したことがないからこそ、お伽噺とぎばなしにあるような素敵な恋というものに憧れてしまう。結婚するのであれば、素敵な恋愛をした相手とでなきゃ嫌だ。
 彩香は足を床に下ろし、気配を押し殺してパンプスを履き直した。
 麻里子が「とにかく私に任せて。絶対に彩香を結婚させるから」と電話を切り、パウダールームを出ていく。それから数分おいて、彩香もそっとパウダールームを抜け出した。

「いくらお兄ちゃんのシスコンを治すためでも、そんな男の人との結婚なんて冗談じゃないわ」

 そうつぶやきつつ首を横に振った彩香は、エレベーターホールに立つ麻里子に気付かれないように、少し離れた階段へと向かったのだった。
 そして急いで階段を下りている最中に足を踏み外し、その拍子に脱げたパンプスが、階段を上ってきた彼の顔面を直撃。あの、色んな意味で記憶に残る出会いへと繋がったのだった。


   ◇ ◇ ◇


 ――あんな意地悪な人に、一瞬でもときめいた自分に腹が立つっ!
 彩香の脱げてしまったパンプスを拾い、高い場所に引っ掛けて立ち去った王子様。
 あの時のことを思い出し、彩香はまた憤慨ふんがいする。ちなみに例のパンプスだが、小柄な麻里子と自分ではどうすることもできずに、ホテルのボーイを呼んで取ってもらう羽目になった。その間、伯母おばに何故こんなことになったのかとしつこく聞かれて、大変な思いをしたのだ。

「ふう~ん。確か、そういうお伽噺とぎばなしあったわよね。……王子様が、お姫様を天女てんにょの国に帰したくなくて、彼女が階段で落とした羽衣はごろもを隠しちゃうのよね」
「玲緒さん、それ『シンデレラ』と『天女の羽衣』が混ざっていますよ」

 訂正する彩香に構わず、玲緒が「彩香好みの出会いじゃない」と言って、からかいの視線を向けてくる。その言葉に、彩香はこつに顔をしかめた。

「どこがですかっ!」
「だってアナタ、お伽噺の王子様みたいな人と運命的な恋がしたいって話していたでしょ」
「それと今回のことは色々かけ離れています。あんな意地悪な人、私の理想の王子様じゃありません」

 顔にパンプスをぶつけたことで怒っていたとしても、あんな意地悪しなくてもいいのに。

「それは残念。で、そのお見合いの結果はどうだったの?」
「ああ……。それが、相手にドタキャンされて、お見合い自体がなかったことになりました。報告が遅くなってすみません」

 その後約束のレストランで、お見合い相手が来るのを待っている間に玲緒へ泣きのメールを送ったのだが、お見合いをドタキャンされた安堵感から結末を報告するのを忘れていた。
 ペコリと頭を下げる彩香に、玲緒がクィーン・アンに鼻を寄せて笑う。この可愛らしい薔薇ばらは彼女のお気に入りなのだ。

「じゃあやっぱり、運命の相手は階段下の王子様ってことになるんじゃない?」
「なんでそうなるんですか。別に、急いで運命の相手を探す必要はないんですよ」
「あら、急がないと駄目よ。あんな地獄の番犬みたいなお兄ちゃんがいるんですもの。今のうちから全力で運命の人を探しておかないと、本当に処女のまま出家することになるわよ」

 生涯処女を貫く予定も、出家する予定もない。でもあの兄がいる限り、完全には否定できないのが怖い。彩香は「冗談はその程度にしてください」と、レジカウンター後ろに並ぶラッピング用品の在庫確認を始めた。

「ねえ、その階段下の王子様って、どんな感じだったの? 時々ウチに花を買いに来るバカ旦那みたいな感じ?」

 まだ話を終わらせる気がない玲緒の言葉に、彩香は時々ブラン・レーヌを訪れる一人の客の姿を思い浮かべた。何者なのかはわからないけれど、いつもお洒落しゃれよそおいで店を訪れ、高価な花束を注文し、そのついでといった感じで玲緒を食事に誘う男性がいる。年齢は三十歳前後、髪を明るい色に染め、流行はやりの服を着て、眉も綺麗に整えた、いわゆるチャラ男である。
 領収書を切ったことはないので勤める会社などはわからないけれど、花束に添えるメッセージカードから、名前は永棟ながみね颯太そうただということはわかっている。玲緒は、お金持ちで遊びれた感のある彼を『若旦那』ならぬ『バカ旦那』と呼んでいるけれど。

「お客様にそのあだ名は、どうかと思いますけど……」

 そうたしなめてはみたものの、見るからに裕福そうな身なりに、注文する花束の金額、そしていつも花を送る女性の名前が違うことを考えると、確かにピッタリなあだ名とも言える。
 彩香は苦笑いを浮かべながら「年齢は同じくらいだと思いますけど、もっと落ち着いた感じのハンサムでした」と答えた。

「彫りの深い顔立ちに切れ長の目、体も引き締まった感じで、細身のスーツが似合っていました。あれであんなに意地悪じゃなきゃ、本当に理想の王子様だったのに」

 彩香は、二度と会わないであろう彼の姿を思い出しながらそう話す。その口調が残念そうな響きを帯びていることには気付かない。

「ふ~ん。それって、あんな感じ?」
「え?」

 振り向くと、玲緒が入り口の扉の方を指さしている。
 彩香もそちらに視線を向けると、バカ旦那こと永棟颯太が、扉のノブに手を掛けているのが見えた。彼はそのまま、後ろに向かってなにか話している。


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