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1巻

1-2

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 続いて篤斗の前にブランデーが置かれる。

「改めて、結婚おめでとう」

 そう言って篤斗がグラスを揺らすと、透明度の高い氷がカランと涼やかな音を立てる。
 彼の言葉にグラスを揺らしてこたえ、カクテルに口をつけた。
 甘酸っぱい果実の味がするカクテルは口当たりがよく、暖房で乾いた喉を優しく撫でていく。

「榎本のことは買っていたから、退職は本当に残念だよ」

 篤斗の言葉に、奈々実は恐縮しつつ首の動きでお礼を言う。
 そんな奈々実に篤斗がからかいの視線を向けてくる。

「品質管理部にいた榎本の話を聞いた時から、俺はお前のファンなんだよ」
「ああ……」

 奈々実にとっては黒歴史であるので、露骨ろこつに顔をしかめてしまう。
 篤斗の言う話とは、奈々実が品質管理部にいた頃、千織が親会社に売却されたことで不満をつのらせる年配社員に噛みついた件である。
 親会社の業績不振が原因とはいえ、年配社員の中には、これまでの自分たちの仕事を否定されたような気になっている者が少なからずいた。そんな中、買収先のトウワ総合商社が業務改善によこしたのは見目うるわしい若い社員ときている。女性社員に騒がれる篤斗の容姿は、年配の男性社員たちの目には胡散臭うさんくさいものに映ったらしく、急ピッチで新体制を整えていく篤斗に反発するようになっていた。
 当時奈々実が籍を置いていた品質管理部の古参社員がその際たるもので、どこから得たのか篤斗が入社以来、ずっと他社への出向が続いているという情報を聞きつけ、「トウワは会社に置いておけない無能を送りつけてきた」と騒ぎ、周囲の不安を無駄にあおっていた。
 そんな彼の振る舞いに腹を据えかねた奈々実は「せっかく買い取った会社を進んで腐らせるバカはいない」「若くして出向ばかりしているということは、外に出しても恥ずかしくないと会社が保証している証拠だ」と古参社員に噛みつき、そのまま理路整然と篤斗の打ち出す業務改善策の素晴らしさを説き、感情論だけで騒いでいた相手を黙らせたのだ。
 そこで、大先輩に生意気を言ったことを謝罪しつつ古参社員の気持ちに寄り添い共に頑張るように導けば美談となったかもしれないが、あいにく奈々実はそこまで優しくない。
 その後もぐずぐずと態度を改めない古参社員に対し、「勝手に一人で腐っててください。私は腐りたくないのでこの会社で頑張ります」と切り捨てたのだった。
 最終的にその社員はきちんと仕事をするようになったのだが、奈々実にしてみたら若気の至りとしか言いようがない。
 それなのに、どこかからその話を聞きつけたらしい篤斗は、奈々実を評価する際はいつもその話を出してくるのだ。
 ある程度キャリアを重ね、考え方の違う人との柔軟な接し方を学んだ今、あの時の発言は黒歴史なので勘弁してもらいたい。

「何度も言いますけど、あれは若さゆえの感情に任せた発言でした」

 視線を逸らしボソボソ返す奈々実の髪に、篤斗が優しく笑う息遣いが触れる。

「嘘のない言葉は人の心を動かすものだ。人を動かすことができるのはお前の才能だ。榎本には、相手の心を動かす才能があるんだよ」
「……」
「それに榎本は判断が早い。同時に自分の言動に責任を持つ覚悟があるから、きたえ甲斐があったよ」

 これまでのことを思い出しているのか、篤斗が遠くに視線を向けてなつかしそうに言う。
 物事の割り切りが早く、淡々と目の前の課題をこなしていく奈々実は、可愛げがないと評されることが多い。
 奈々実自身、可愛げのない性格をしているという自覚がある。
 それなのに、篤斗は愛想のないその性格を評価してくれるのだ。
 ありのままの自分を肯定してくれる篤斗の横は、くすぐったくて落ち着かない。それでいて、心地いいから困るのだ。

「正直な言葉は、時として暴力になります」

 その心地よさに未練を抱かないよう、わざと冷めた口調で突き放す。
 口を強く引き結んだ奈々実の横顔からなにかを察したのか、篤斗は一度グラスを口に運んで話題を変えた。

「そういえば、結婚相手はどんな人なんだ?」

 ブランデーで唇を湿らせた篤斗が聞く。
 結婚の報告と、それに伴う退職の申し出をした時、相手は婚活パーティーで知り合った人だと報告してある。だが、それ以上のことは聞かれなかったこともあり話題にしたことはなかった。

「穏やかで真面目な人です」

 婚約者である松原弘まつばらひろしの人柄を端的に表現するのであれば、その言葉に尽きる。
 五歳年上の彼は、製薬会社のMRをしている真面目で物静かな人だ。

「あと、恋愛観や結婚に求める価値観が似ています」

 そう付け足した奈々実に、篤斗は「それはなんだ」と、首をかしげる。

「お互いに多くを求めすぎず、穏やかに年を重ねていくというところです」

 さらりと返す奈々実に、篤斗が苦笑する。

「もう少し、乙女チックな答えを期待していたんだが」
「ご期待に添えずすみません」

 自分を見失うような恋なんてしたくない。
 それは、父への激情に身を焦がし、娘に当たり散らす母の姿を見て育った奈々実の正直な気持ちだった。
 浮気性の父と、母が今も夫婦を続けているのは、ひとえに母の執着の成せるわざだろう。
 父からもう愛されていないとわかっているのに、愛してほしいと足掻あがく母の姿は、枯れ果てた大地に井戸を掘るようなものだと思う。
 愛してくれない人に愛をねだる時間があるなら、さっさと見切りをつけて他の人生を探せばいいのだ。
 父の愛を求め続ける母も、両親に愛されなかった自分も。
 奈々実は幼くして、愛は人を狂わす毒だと学んだ。だから人生のパートナーにも、深く愛しすぎない穏やかな関係を築ける人を求めた。

「俺とは真逆の価値観だな」
「そうですか?」
「ああ。俺は恋をするなら身を焼くような激しい恋をしてみたいと思う」

 グラスを揺らしながら、篤斗が魅力的な笑みを向けてくる。
 アルコールで緊張がほぐれてきたこともあり、奈々実はつい唇を尖らせて言い返す。

「そんなふうに思うのは、遠矢さんが恋に身を焦がす側ではなく、人の心を焦がす側だからです」
「……?」

 篤斗は、なにを言われているのかわからないと言うように首をかたむけた。
 そうしながら、ネクタイを緩める彼の所作は無駄に色気がある。
 奈々実はそんな天性のモテ男の無自覚な仕草にため息を吐いた。

「遠矢さんはきっと、自分が愛する以上に相手に愛されてきたから、そんなことが言えるんですよ」

 そう指摘する奈々実に、篤斗はしばし思考をめぐらして、まあ確かにと肩をすくめた。
 見目うるわしく仕事のできる王子様。そんな彼に熱を上げる女性社員は後を絶たない。
 この二年、部下として彼を近くで見てきた奈々実は、篤斗が公私の区別をしっかりとつけるタイプだと知っている。どんなに仕事で親しくしている相手でも、個人的に付き合うようなことは決してなかった。職場の彼は、常に大人の色気をただよわせつつ誰に対しても優しく接していたと思う。
 彼のその紳士的な振る舞いの裏には、婚約者の千華の存在があるからかもしれない。だが、それを知らない女性の中には本気で彼の魅力におぼれ、彼の部下である奈々実に嫉妬の炎を燃やす者もいた。

「愛は、毒です」

 それは自分だけでなく、周囲までも不幸にしてしまう猛毒だ。
 母のような生き方はしたくないと思うからこそ、叶うことのない彼への恋をきっぱり諦めたのだ。
 ちらりと隣へ視線を向けると、篤斗が頬杖をついてこちらを見ている。

「君は今幸せ?」
「はい」

 篤斗の問いかけに、奈々実は即答する。

「そうか」

 篤斗は頬杖を解き、グラスを手に椅子に背中を預けた。
 クルクルとグラスを揺らし波打つ琥珀こはくの液体を眺めている彼が、少し残念そうな表情を浮かべているように見えてしまうのは、お酒のせいだろうか。
 静かなバーで、互いの存在をすぐ隣に感じる時間は怖いほど心地いい。

「俺は、毒を盛られてみたかったよ」

 カランと氷が鳴る音に合わせて、篤斗がポツリと呟く。
 奈々実が顔を向けると、彼と視線が重なった。
 大人の色気を感じさせる眼差しを向けつつ、篤斗はカウンターに自分の左手を置く。
 二人の間に置かれた彼の手が、自分に差し出されているように思えるのは、気のせいだろうか。
 彼の眼差しに女としての本能がうずく。
 大半の女性は、彼にこんなふうに誘われたら、たとえ傷付くことになってもその手を取ってしまうのかもしれない。
 アルコールで思考力が低下した奈々実自身、いっそなにもかも捨てて彼の手を取ってしまいたくなる。

「……」

 奈々実は無言でグラスを口に運んだ。自分が冷静になりたいのか、最後の一歩を踏み出したいのかわからなくなる。
 からにしたグラスをカウンターに戻すと、篤斗の手がまた少しこちらへと動いた。
 その拍子ひょうしに、そで口から千華とお揃いの腕時計が覗く。
 たちまち奈々実の心の温度が下がり、彼に傾きかけていた心が本来のバランスを取り戻した。
 ――自分は恋という名の毒におぼれたりしない。
 奈々実は両手でグラスを強く握り、心を落ち着けてから口を開いた。

「苦しむとわかった恋がしたいなんて、遠矢さんは意外にマゾだったんですね? 私は、そんな恋愛はお断りです」

 敢えて軽い口調で返すと、篤斗が左手で困ったように首を掻いた。
 彼のその動きを合図にしたように、二人の間にただよっていた濃密な空気が霧散していく。
 それに安堵しつつ、奈々実はスマホを取り出し時間を確認した。
 時間を口実にお開きを切り出すつもりでいたが、画面に婚約者の弘からのメッセージが表示されていて急いで開く。
 難しい表情でスマホを操作する奈々実に、篤斗が声をかける。

「どうかしたか?」

 それに奈々実は、わざとはしゃいだ声で返す。

「彼から連絡があって、どうしても今夜会いたいそうなんです。……もしかしたら、退職祝いでもしてくれるのかな?」

 彼はそういうタイプの人だっただろうかと首をかしげつつも、篤斗にそう説明した。
 メッセージを見て微笑む奈々実に、篤斗がどこかホッとした様子で告げる。

「そうか。割り切った結婚みたいに言っていたが、仲がいいんだな」
「そりゃあ、まあ」

 奈々実の答えに、篤斗が「よかった」と笑う。

「大事な人が待っているなら、これ以上俺が引き止めるわけにはいかないな」
「誘っていただいて嬉しかったです。今まで、ありがとうございました」

 そう頭を下げる奈々実に、篤斗が右手を差し出す。
 一瞬遅れで握手を求められていることに気付いた奈々実は、その手を握り返した。
 指が長く男性的な彼の手はたくましく、小さな奈々実の手を難なく包み込む。

「幸せに」

 優しく祈るような彼の声に頷きを返して、どちらからともなく手を離した。

「はい」

 彼の感触が残る手をぎゅっと握り締めて微笑むと、奈々実は帰り支度を始めた。


     ◇ ◇ ◇


 ――あれは、なんだったのだろう……
 一人暮らしをするアパートに戻った奈々実は、スーツをハンガーに掛けながら、別れ際の篤斗の様子を思い出す。
 実のところ、彼に好意を寄せられているのではと感じたことは、これまでにもあった。
 でも千華の存在があったし、彼は誰にでも優しい王子様なのだからと気にしないようにしていた。けれど、さっきの空気はやけに濃密で、気のせいで流せない雰囲気があった。

「もし……」

 あの時彼の手に触れていたら、今頃どうなっていたのだろう。
 そんなせんない考えが脳裏を掠め、奈々実はバカバカしいと首を横に振る。
 自分はもう別の人生を選んだのだ。彼に会うことはもうない。
 感情を揺さぶるような恋などしたくないし、男女の関係を遊びと割り切るほど若くもなかった。なにより自分が求めているのは、信頼できる相手と安定した家庭を築くことだ。
 来月にはそれが叶うのだから、今さら過去の恋に心を揺らす必要はない。

「弘さん、そろそろ来るかな」

 気持ちを切り替えた奈々実は、時間を確認する。
 どうしても今日中に会って話したい用とは、結婚の準備に向けてのことか、新居に関わることだろう。
 仕事を辞めたことで、奈々実は明日から本格的に引っ越しの準備を始めることができる。月末にはこの部屋を引き払って、彼と九州に引っ越すことになっていた。仕事のある弘としては、時間に余裕ができた奈々実に任せたいことがあるのかもしれない。
 本来夫婦というものは、そうやってお互いに助け合って家庭を築いていくものなのだろう。そう思うと、彼の訪問が待ち遠しくなる。
 どこかくすぐったい気持ちで弘を待つ奈々実は、まさか一時間後に、そんな淡い幸福感があっけなく崩れ去ることになるとは思いもしなかった。


「本当に、申し訳ないと思っているっ!」

 一人暮らしの狭いアパートの玄関。靴を脱ぐことなく三和土たたきに土下座する弘は、床にひたいを擦り付けるようにして謝罪を口にした。
 玄関スペースが狭いため、足こそどうにか三和土たたきに収まっているが、深く折り畳まれた彼の上半身と綺麗に揃えられた指はフローリングに載っている。
 ――こうやって見ると、弘さん背が高いな。でも痩せすぎかも……
 先ほど彼からあまりに衝撃的な話を聞かされたばかりの奈々実は、フリーズした頭でそんなどうでもいいことを考えてしまう。

「えっと……つまり、職場の派遣の子を妊娠させちゃったから、そちらと結婚したいと……」

 立った姿勢で左肩を壁に預ける奈々実は、右指で眉間を揉みながら彼に確認する。
 その言葉に弘は「申し訳ない」と、叫ぶことで肯定を示す。
 部屋に来るなり玄関で土下座をした彼が、しどろもどろで口にした話を要約すると、つまりはそういうことだ。
 契約期間の切れる彼女の送別会で酔った彼女を家まで送ったところベッドに誘われ、そのまま関係を持ったのだという。
 その時はそれっきりの関係だったのだけど、二週間ほど前にその子から連絡をもらい、彼の子供を妊娠したと告げられたらしい。妊娠の周期と彼女と関係を持った時期を照らし合わせてみたところ、符合するとのことだった。ちなみに、彼女と関係を持ったのは、奈々実と結婚前提の交際を始める前とのことで、一応浮気ではないらしい。
 派遣中、優しく仕事を教えてくれた弘に好意を持っていた。だから最後の思い出にと関係を持ったのだが、一度きりの関係で子供ができてしまった。もうじき結婚する彼に迷惑をかけると思い、そのことを打ち明けられずにいたそうだ。
 妊娠している身では、派遣社員として次の仕事を見つけることもできない。困り果てた挙句、弘に相談してきたのだという。
 彼女は泣きながら妊娠の報告をした上で、子供は一人で育てるから、こちらのことは気にせずに婚約者と幸せになってくださいと告げたのだとか。

「そんな健気けなげな彼女を、男として放っておけないんだ」

 床にひたいを擦りつけたまま、弘が言う。
 自分に好意を寄せていたという健気けなげな女性、しかもそのお腹には自分の子供がいる。だから生まれてくる子供のためにも、彼女と結婚したいというのが彼の意見だ。
 ――それ本当に貴方の子?
 そんな言葉が喉元まで上がってくるが、ギリギリの理性でその言葉を呑み込んだ。
 どうやら弘は、相手のことを気が弱くおとなしい女性と思っているらしい。
 だが、客観的に今の話を分析した場合、堕胎できない時期まで黙っておいて、相手が結婚するのを承知でそれを告げてきた彼女のことを、奈々実は健気けなげな女性とは思えなかった。
 しかし彼の目に相手の女性がそう映っている以上、奈々実の疑心はただのひがみにしか聞こえないだろう。
 パートナーに選んだ奈々実が言うのもなんだが、弘は勤勉で真面目が取りといった感じの男性だ。
 自分が恋愛とは縁遠い存在と承知していたからこそ、婚活パーティに参加して条件の合った奈々実との結婚を決めたと話していたくらいだし。
 だからこそ奈々実は、相手が自分を捨てにくい状況を作ったとしか思えない女性の貞操を、はたして信じていいものかと心配になる……
 だが、その辺のことをきちんと説明して、彼を思い留まらせるように説得する情熱が、奈々実には湧いてこない。

「それで、貴方のご両親はなんて?」

 せめて彼の両親が冷静な助言をしてくれていることを期待して、そう聞いてみた。
 けれど弘の答えは、そんな奈々実の期待を裏切るものだった。

「両親には、君と婚約する前に別れた女性と説明してあるんだけど……、相手が妊娠しているのなら、そっちでいいんじゃないかって……。親戚にもまだ君を紹介していないし……」

 罪悪感からか、しどろもどろに話す弘の言葉に、奈々実は呆れとも諦めともつかない深いため息を吐く。
 もとより彼は、互いの条件が合ったからという理由で結婚を決めた相手だ。
 そこに泣いてすがるような深い情はないし、その家族ともなれば結婚を決めた際に一度挨拶あいさつをしただけの関係でしかない。
 彼が家族と口裏を合わせて、その元派遣社員の女性を花嫁として紹介すれば話は済むのである。
 そして奈々実自身、このゴタゴタを乗り越えてまで彼と結婚したいとは思わないし、「妊娠しているならそっちでいい」などと言う彼の両親と家族になりたいとも思わなかった。
 ただ……

「私、貴方に言われて、仕事辞めたんだけど」

 突然の婚約破棄の申し出に驚いた次の瞬間、奈々実の頭に浮かんだのはそれだった。
 ついでに言えば、引っ越しのためにアパートを解約してしまったことも痛い。
 ――せめて、仕事を辞める前に言ってほしかった。
 思わず頭を抱えたくなるが、実際のところ、彼に婚約破棄された後、そのまま千織に留まったかと聞かれればそれもまた微妙だ。
 混乱してひどく回転速度の落ちた頭では、考えがうまくまとまらない。
 挙句の果てには、こんなことになるのなら、さっき篤斗の手を取っておけばよかったなどと、不埒ふらちなことまで考えてしまう。
 ――駄目だ、脳の回路が壊れかけている。
 眉間を指の腹で叩き、奈々実は低くうなった。
 それをどう受け取ったのか、弘はいっそう床にひたいを擦りつけ、「弁護士を交えて、できる限りのつぐないをさせてもらうから」と告げるのだった。


     ◇ ◇ ◇


「遠矢さん、お待ちしていました」

 二月の半ば、千織の相原社長に呼ばれて社長室を訪れた篤斗は、満面の笑みで出迎えてくれた社長秘書の千華に曖昧あいまいな微笑みを返しつつ、素早く室内に視線をめぐらせた。

「社長に呼ばれたのですが」
「すみません。父……社長はすぐに戻ります。少しだけお待ちいただけますか?」

 そう答える千華は、体の位置をずらして、篤斗に中に入るよううながす。
 篤斗は勧められるまま社長室に入り、応接用のソファーに腰を下ろした。
 ――指定された時間に来たのだが。
 腕時計で時間を確認する篤斗に、千華が軽く舌を出して甘えた声音で言う。

「実は遠矢さんと二人で話したかったので、ちょっと早目の時間をお伝えしたんです」

 悪びれることなくそう言った千華は、この程度で自分が怒られるはずはないと思っている様子だ。その姿にひどく苛立ってしまう。
 普段の篤斗なら、これくらいで苛立ちを感じることはないが、今日の自分はすこぶる機嫌が悪かった。
 なにせ今日は……

「あれ、時計変えちゃったんですか? せっかくお揃いだったのに」

 人差し指を唇に添え、当然のように自分の隣に腰を下ろしてきた千華が言う。
 去年、トウワ総合商社の記念式典で、傘下企業の代表者に記念品として男女ペアの腕時計が贈られた。
 物自体は悪くないし、会長である祖父の顔を立てるために使っていたのだが、最近になって千華もそれを使っていることに気付いて使うのをやめたのだ。

「残念。遠矢さんとお揃いって、いい男除けになるのに」

 社内で彼女に思いを寄せる社員が多いのは知っているが、それなりに女性経験を重ねてきた篤斗にとっては、彼女の振る舞いは安っぽい三文芝居にしか見えない。
 目についた男性の気を引くため、思わせぶりな態度で愛想を振りまいておいて、相手がその気になると手のひらを返して「モテて困る」と騒ぐ姿は滑稽こっけいでしかなかった。
 そんな女に手を出すほど、自分は悪食あくじきではない。
 自分が興味を引かれるのはもっと……

「それにこの腕時計、遠矢さんの虫除けにもなるんですよ」
「虫……?」

 それはどういう意味かと首をかしげると、千華は「秘密」と、意味深に微笑んだ。
 それじゃなくてもイラつく気持ちを、彼女の振る舞いが余計に刺激してくる。同時に、自分にびることなく接してくれた女性を思い出してしまう。
 ――らしくないな……

「そういえば今日って、榎本さんの結婚式ですね」

 こちらの気持ちを読んだようなタイミングで、千華が言った。

「ああ、そういえばそうだったかな」

 感情を悟られないように表情を整えて忘れていたふうをよそおうが、もちろん忘れてなどいない。
 それどころか、自分らしくない今日の苛立ちの原因はそこにあった。


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