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1巻

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   プロローグ ずっと貴方が好きでした


 各種繊維製品の製造や加工を生業なりわいとする、株式会社千織せんおり
 一月の終わり、そのオフィスで、榎本奈々実えのもとななみは、深く頭を下げて退職の挨拶あいさつを口にした。

「お世話になりました」

 そう言って顔を上げれば、視線の先には端整な顔立ちをした極上の男がいる。
 頭を下げる奈々実の姿に、男性が書類をめくる指を止め、こちらへ視線を向けた。
 切れ長で綺麗な二重ふたえの目に、スッと伸びた鼻筋。薄い唇は人に話しかけられると、自然と柔和にゅうわなカーブを作る。左右に分かれる前髪は癖毛なのか軽いウエーブがかかっていて、全体的に甘い雰囲気をかもし出している。
 芸能人に負けず劣らずの整った容姿をした彼は、長身で均整の取れた体つきをしており、いつも上質でいきなデザインの三揃えを品よく着こなしていてかなりの存在感がある。
 そんな彼に見つめられると、それだけでのぼせて眩暈めまいに襲われる女性社員もいるのだとか。
 圧倒的な存在感を放ち全女性社員から王子様とささやかれる彼だが、奈々実は容姿ももちろんながら彼の声が特に魅力的だと思っていた。
 ――それと、遠矢とおや部長の目も好きだったな。
 彼の瞳に自分の姿が映るのもこれで最後だと思うと、寂しさが込み上げてくる。
 自分の心に刻みつけるように形のいい切れ長の瞳を見つめていると、遠矢部長こと遠矢篤斗あつとがフッと表情を緩めて息を吐いた。

「ああ、今日だったか」

 篤斗は書類から手を離し、ワックスで後ろに流している前髪をクシャリと撫でる。
 スーツのそで口から覗く洒落たデザインのカフスはイタリア製のものだろうと、他の女性社員たちが噂していたことを思い出す。それと共に手首の婚約者とのペアウオッチの存在が、奈々実の心をちくりと刺す。

「もしかして、忘れてました?」

 冷たいなぁと、冗談めかして笑みを浮かべる奈々実だが、彼にとっての自分はその程度の存在なのだと痛感して胸が痛んだ。
 奈々実を見上げながら、篤斗はからかうように笑った。

「冗談だ。大事な部下の門出かどでを、忘れるはずがないだろう」

 低音の美声でそう告げた篤斗は「君に辞めてほしくないから、気付かないフリをしただけだ」と、魅力的な笑みを添えて付け足す。
 なんともキザな言葉だが、彼が言うと悔しいほどにサマになる。
 大人の男の魅力にあふれる彼は、嫌味でなくキザという言葉がしっくりくるのだ。
 そんな彼に真っ直ぐ見つめられて甘くささやかれれば、条件反射のように頬が熱くなる。だが新人の頃ならいざ知らず、社会人としてそれなりに経験を積んだ今の奈々実は、彼のリップサービスに舞い上がったりしない。
 なにより、甘い台詞せりふを口にするこの彼は、数ヶ月後にはこの会社からいなくなり、奈々実のよく知る女性と結婚するのだから。

「結婚おめでとう」

 目尻にしわを寄せ、心からの祝辞を述べる篤斗に、右手を差し出された。

「ありがとうございます」

 その手を握り返しながら、この台詞せりふを口にするのが、自分でなくてよかったとつくづく思う。
 ――私なら、部長に笑顔でおめでとうなんて言えなかったな。
 もとは品質管理部にいた奈々実が、篤斗に引き抜かれる形で経営開発部に異動して二年。彼の部下として働く間、一方通行の不毛な片想いを続けてきた。
 そんな彼への想いを諦めるために婚活パーティーに参加し、そこで出会った男性と付き合うことになったのは今から三ヶ月ほど前のこと。
 その彼に、仕事を辞めて自分の転勤先について来てほしいとプロポーズされ、急な流れではあるが結婚退職を決めたのだ。
 未だ胸に残る彼への未練を断ち切るように、奈々実は繋いでいた手を離した。

「しかし退職の挨拶あいさつをするには、少し早いんじゃないか」

 彼の言葉に奈々実は周囲に視線をめぐらせる。
 昼休みの今は、オフィスに人の姿はまばらだ。奈々実と篤斗が所属する経営開発部の社員は、全員出払っている。

「皆さんには、終業時に改めてご挨拶あいさつさせていただきます。でも部長には、この二年、色々と挑戦させていただき、本当に楽しく仕事をさせてもらえましたので、個人的にちゃんとご挨拶あいさつをしておきたかったんです」

 篤斗が陣頭指揮を執る経営開発部に異動してからの二年、それまで三年間を過ごした品質管理部とはまったく違った責任の伴う仕事を多く任され、充実した日々を送らせてもらった。
 突然の異動に戸惑う奈々実に、篤斗は「臆することなく挑めばいい」「楽しめ」と背中を押してくれたのだった。それでいて、トラブルが生じた際には、部下に責任を押し付けることなく一緒に対応してくれる。
 理想的な上司である篤斗の下で働くことで、奈々実は責任を持って仕事をすることの楽しさを学ばせてもらった。
 この経験は、きっと奈々実の人生の財産となるだろう。
 それだけで十分と、決して成就することのない恋心にふたをして、再び頭を下げてきびすを返そうとした。
 だが篤斗に手首を掴まれ、その動きを止める。

「――ッ」

 驚いて自分の手首を掴む篤斗に視線を向けると、彼が目を細めて微笑みかけてきた。

「よかったら、俺に大切な部下の門出かどでを祝わせてもらえないか」
「……?」

 意味がわからずに軽く首をかしげる奈々実に、篤斗がささやくような声で「二人で送別会をしよう」と言った。

「最後だし、一杯くらいならいいだろ」

 クシャリと目尻にしわを寄せる姿は、悪戯いたずらを持ちかける悪ガキのようだ。
 普段、大人の男の魅力にあふれる彼の少年のような一面を見せられ、諦めたはずの恋慕の情が顔を出しそうになる。

「俺の名前で予約しておくから、仕事が終わったらおいで」

 それだけ言うと篤斗は奈々実の手を離し、書類に視線を戻してしまった。
 断られることなど考えていない彼の態度に、女性を誘うことへの慣れを感じる。
 見目うるわしく大人の男の色気にあふれる彼は、傘下であるこの会社に出向してきている大手総合商社の御曹司だ。
 そんな彼とお近付きになりたいと願う女性社員は後を絶たなかったが、彼がその誘いに乗ることはなかった。
 そんな篤斗の態度を、大方の社員はいずれ本社に戻るため自分たちとは一線を引いているのだろうと受け止めていたが、事実は少し違う。
 ――彼には結婚を約束している女性がいるからだ。

「……」
「来るまで待っている」

 奈々実がなにか言うより早く、篤斗からダメ押しされる。そのタイミングで、昼食を取りに出ていた同僚が戻って来て、二人の会話は途切れてしまった。
 まるで今の会話がなかったかのように、篤斗は仕事を始めてしまっている。
 結局、奈々実は断りの言葉を口にし損ね、自分のデスクへと引き返すことになった。
 一度タイミングを逃してしまうと、改めて彼の誘いを断りに行くのも、なんだか自意識過剰な気がする。
 どうしたものかと、奈々実はバレッタで一まとめにしている髪の後毛を指先でもてあそんだ。
 おそらく篤斗は、純粋に上司として部下の門出かどでを祝いたくて奈々実を飲みに誘ったのだろう。もちろん自分だって、なにかを期待してるわけではない。
 それならば東京で過ごした最後の思い出に、お世話になった上司と一緒にお酒を飲む時間くらいなら許されるだろう……
 大学卒業から今日まで働いてきた会社を去る寂しさも手伝って、デスクに腰を下ろす頃にはそう結論づけた。



   1 この愛の価値


 午後の業務が始まると、篤斗は部下を連れて外出してしまった。
 先週までは、奈々実も篤斗の外回りに随行することが多かった。
 これまでの日常を手放すことに一抹いちまつの寂しさを覚えつつ、引き継ぎ処理を済ませた奈々実は、手持ち無沙汰からシュレッダー行きの書類が詰まった箱を抱えてオフィスの隅へ向かった。
 気持ち程度の防音措置として壁とパーティションに囲まれた場所で、シュレッダーに次々と書類を流し込んでいく。
 がガガガ……と、低いモーター音を響かせて裁断されていく書類を眺めつつ、奈々実は髪をまとめているバレッタを外し、背中の中程まであるつやのある髪を手櫛てぐしで整え首を揉む。
 邪魔にならないようにと、業務中は髪を一まとめにしているのだが、留め方が悪かったのか、今日は何度留め直しても妙に皮膚が引っ張られている感じがして落ち着かない。
 髪を留め直したタイミングで、ふと誰かの視線を感じた。

「……?」

 顔を上げると、首をかしげてこちらを覗いている女性の姿があった。
 栗色に染めた髪に緩ふわパーマをかけた彼女は、奈々実と目が合うと、可愛らしい二重ふたえの目を細めて笑う。

「奈々実ちゃん、ここにいたんだ」
相原あいはらさん……」

 ひょこりと跳ねるようにしてパーティションのこちら側へ入ってきた彼女に、奈々実はぎこちなく微笑んだ。

「探したんだよ」

 相原千華ちかは後ろに手を組み、人なつっこい笑みを浮かべて奈々実に歩み寄る。
 そして奈々実の前に立つと「ジャジャン」と、手を前に差し出してきた。
 その手には、有名なガラス工房の紙袋が下げられている。

「私からの結婚祝いのプレゼント。ペアグラスだから、旦那さんになる人と一緒に使ってね」

 砂糖菓子のような甘い声でそう言われ、奈々実の眉尻が下がる。

「引っ越し荷物が増えると大変だからって、皆からのお祝いは商品券って決まったけど、それじゃあやっぱり味気ないから。これは私からの個人的なお祝いね」

 そう言って彼女が腕を伸ばすと、ブラウスのそで口からシックなデザインの腕時計が覗いた。
 篤斗の手首にあった腕時計と同じデザインのそれを見るともなしに見つめ、差し出された袋を受け取る。
 社長秘書である千華は、菜々実にとって数少ない同期だ。この会社の社長令嬢でもある彼女から「他の人には内緒だけど」と前置きされた上で、篤斗と結婚する予定だと打ち明けられた日のことを思い出す。
 それで奈々実は、篤斗へ想いを打ち明けることのないまま玉砕ぎょくさいしたのだった。

「ありがとう」

 甘い砂糖菓子のような笑い方をする千華は、同性の奈々実の目から見ても素直に可愛いと思うし、篤斗が彼女をパートナーに選んだのも納得がいく。

「相原さんと遠矢部長の結婚はいつ頃になりそう?」

 胸の痛みに気付かぬフリをして、奈々実は千華に問いかける。
 千華は可愛らしく首をすくめて周囲を見渡すと、人差し指を唇に添えて笑った。

「それはまだ内緒」

 そう言った千華の顔は喜びを隠せていない。

「ごめん」
「私も彼も色々立場があって、まだ正式な公表はできないの」

 その言葉に、奈々実はごもっともと、肩の動きで謝っておく。

「じゃあ、お幸せに」

 そう言い残して、千華は手をヒラヒラさせて仕事に戻っていった。
 可愛い千華の笑顔と、彼女の手の動きに合わせて揺れる腕時計を見ていた奈々実は、ため息を吐いて作業を再開する。
 そこでふと、婚約者である千華には、この後篤斗と一緒に飲むことを報告しておいた方がよかったのではないかと考えた。だがすぐに、変に誤解されても嫌だし、追いかけてまで報告することでもないと思い直す。

「ただの送別会だし……」

 仕事の最終日に憧れの上司と一杯飲みにいく。それだけのことに、あれこれ気を回してしまう自分の反応が過剰すぎるのだ。
 豪快な音と共に裁断されていく書類を眺め、自分の恋心もこんなふうに粉々に消えてなくなればいいのにと考え、奈々実はため息を漏らす。


 篤斗が告げた店は、奈々実も接待で何度か使ったことのある和風ダイニングだった。
 コースを頼めばそれなりの値段になるが、単品料理とビール一杯程度なら、そこまで高額にはならないだろう。
 そんなことを考えつつ店を覗くと、篤斗の姿はなかった。
 定時までに外回りから帰ってこなかったし、まだ仕事をしているのかもしれない。
 想定の範囲内と、奈々実が篤斗の名前を告げると、仲居が戸口から見えるカウンター席の予約札を外した。
 そこに腰を下ろすと、おしぼりを差し出してくる板前に、グラスビールを注文する。
 すぐに運ばれてきた御通しとビールを前に、奈々実は篤斗のことを考えた。
 自分が就職して間もない頃、千織の親会社であるアパレルメーカーが業績不振で子会社を売却したことにより、千織は篤斗の祖父が会長を務めるトウワ総合商社の傘下に入った。
 それに伴い、業務立て直しのためにトウワ総合商社から派遣されてきたのが篤斗だ。
 派遣されてくるのが創業家一族の直系ということで、社内は騒然となり、さまざまな噂が飛び交った。
「そんな人が来るのなら、ウチは安泰だ」と安堵する声、「役立たずの御曹司が、厄介払いされてウチに送られてくるのではないか」と会社の未来を危ぶむ声が入り乱れていた。
 実際に赴任してきた篤斗は、創業家の御曹司という肩書きにおごることなく、これまでの千織のやり方をまず学び、それを尊重しつつ業務の改善を進めていった。反発する社員に対しては、根気よく相手の話に耳を傾け、双方の落とし所を模索していく。
 篤斗のその姿勢を、護岸整備のようだと奈々実は思った。
 蛇行して流れる川の流れをき止めることなく、よどみのない流れになるように正しい道筋へ整備していく。穏やかだが迷いのない彼のやり方は、好意的に受け取られ、またたく間に千織で一目置かれる存在となった。
 それほど注目される存在なので、奈々実も異動前から篤斗の存在をよく知っていた。
 そんな彼の下で働けたことは幸せだったし、ビジネスの場で自分から積極的に動くことの楽しさを学んだ。
 ――彼のもとで経験したことは、きっとこの先の財産になる。
 大事な宝物をもらったと胸元にそっと手を当てた時、頭上から甘く掠れた声が降ってきた。

「待たせたな」

 声と共に、右隣の椅子が引かれる気配がする。
 見ると、篤斗が羽織っていたコートを椅子の背もたれに掛けるところだった。その動きで、彼がまとってきた冬の匂いがただよう。
 仲居がコートを預かろうと側に来るが、篤斗はそれを丁寧に断った。
 微かに上下する肩から、彼が急いで駆けつけたのだと伝わってくる。
 ――無理して時間を作ってくれたのかな……
 コートを預けない状況から、本当に一杯だけ飲むつもりで来たのかもしれない。
 寂しいが、現実はそんなものだと自分をなぐさめ、奈々実は口を開く。

「いいえ。私も今着いたところです」

 とりあえずビールを頼んだ篤斗は、おしぼりで手を拭きながらそっと口角を持ち上げる。

「来てくれてよかった」

 ビールを受け取りつつ、すぐに出る料理を数点頼んだ篤斗は、奈々実のグラスに自分グラスを軽く当ててビールを一口飲んだ。

「お腹はいてる?」
「あ、いえ。それほどは……」

 突然話を振られ、どう答えるのが正解かわからず、しどろもどろになる。そんな奈々実の姿に楽しそうに目を細め、篤斗はグラスを口に運ぶ。

「じゃあ、軽く食べて出よう」
「あ、はい」

 息を切らして駆けつけたくらいだ。きっとこの後にも予定があるのだろう。
 ――それなら無理して来てもらわなくてもよかったのに。
 そう思う反面、彼のその律儀さがくすぐったくもある。
 最後までいい上司だ、としみじみ思いながらグラスを傾ける奈々実に、篤斗がわずかに顔を寄せてささやいた。

「榎本を連れて行きたいと思っていた店がある」
「……?」

 キョトンする奈々実に、篤斗は目を細めて笑う。
 楽しげにグラスを傾ける彼の横顔に、自然と心が跳ねる。だが、グラスを持つ彼の左手首に巻かれた千華とお揃いの腕時計が、騒ぐ奈々実の心を冷静にした。

「どうかしたか?」

 ぼんやり腕時計を眺める奈々実の視線に気付いた篤斗が問いかける。
 ――はじめから、叶うはずもない恋だったのだ。
 奈々実は軽く肩をすくめてビールを飲む。

「なんだか、部長と二人だけでお酒を飲むのって、変な気分です」

 ほろ苦いビールで未練を飲み込んでそう返すと、篤斗が困ったように笑う。

「もう部長じゃないだろ」
「確かに」

 そうだった。
 それではなんと呼べばいいかと迷う奈々実に、篤斗が屈託くったくのない視線を向けてくる。

「もう部下でも上司でもないんだから、下の名前で読んでくれてもいいぞ」

 篤斗は、さあどうぞと冗談っぽく顔を寄せてきた。
 間近で見る彼は、今さらながらにつくづくイケメンだと思う。
 彫りが深く、それぞれのパーツが実にバランスよく配置されている。そんなパーツの中でも、奈々実は特に切れ長の目と鼻筋が魅力的だと思うが、それ以上に意思の強さを感じさせる真っ直ぐな眼差しが好きだった。
 背が高くほどよい筋肉のついた彼は、三十五歳という年齢を、余裕を感じさせる男の色気へと昇華させている。
 そんな彼とこうして見つめ合い、ファーストネームを呼ぶことが許される人は、幸せだと思った。
 ――篤斗さん……
 口には出せない彼の名前を、奈々実はそっと胸の中で呟いた。

「じゃあ、遠矢さんと呼ばせていただきますね」

 慣れない呼び方に照れつつ奈々実が言うと、篤斗は満足そうに笑って姿勢を戻した。
 適切に戻った二人の距離に、寂しさと安堵を感じつつ、奈々実もグラスに口をつけた。


 軽い食事を済ませて店を出ると、篤斗は店の近くにあるバーへ奈々実を案内した。
 メインストリートから離れた路地にあるその店は、重厚な木製の扉にローマ字表記で小さく店名が記されているだけの素気ない外観で、扉をくぐることを躊躇ためらわせるおもむきがあった。
 年配のバーテンダーと見習らしき若いバーテンダーの二人で取り仕切る店内は、木目の美しい一枚板のカウンター席と二人がけのボックス席が二つあるだけのこぢんまりした構造だ。
 控えめにジャズの流れる店内は、落ち着いたシックな雰囲気で、大人の隠れ家といった印象を受けた。
 常連らしい篤斗は、年配のバーテンダーとアイコンタクトを取り、慣れた様子でカウンターのスツールを引く。

「コート貸して」

 奈々実にスツールへ座るように勧めつつ、篤斗が言う。

「それなら私が……」

 そんなことを彼にさせるわけにはいかないと焦る奈々実に、篤斗は「こういう場所では、素直に男に甘えるのがマナーだよ」と、ささやいてコートを取り上げた。

「榎本は男に甘えるのが下手へたすぎる」

 からかいまじりにそう話す篤斗は、女性を甘やかすのがうまそうだ。
 この店に移動する時も当然のように奈々実の荷物を持ってくれたし、当たり前のようにエスコートしてくれた。慣れた様子で自分をエスコートする篤斗に、男性経験の少ない奈々実は戸惑うばかりだ。
 二人分のコートを壁際のハンガーフックに掛けた篤斗は奈々実の隣に腰を下ろし、自分用のブランデーと、奈々実にアルコール度数の低いカクテルを頼む。
 接待や打ち合わせを兼ねた食事会などで何度か一緒に飲んだことがあったので、奈々実がそれほどアルコールに強くないことを知っていたらしい。

「こういうお店には、初めて来ました」

 控えめな動きで店内を見渡した奈々実は、素直な感想を口にする。
 大学時代から都内で暮らしているとはいえ、地方出身で倹約した生活を送ってきた奈々実には、こんな洒落た場所に足を踏み入れる機会はなかった。

「なるほど」

 頬杖をついて奈々実を眺める篤斗が、意味深に目を細める。
 控えめにしていたつもりだったが、興味津々きょうみしんしんで視線をめぐらせていたことに気付かれたらしい。

「すみません」

 小さく咳払いして、澄ました顔で背筋を伸ばす。そんな奈々実の反応に、篤斗が柔らかな表情を浮かべた。

「俺も、この店に人を連れて来たのは初めてだ。そんな顔を見せてもらえるなら、もっと早く連れて来てやればよかったな」
「……?」

 甘く掠れた声でささやくように言われると、口説かれているような錯覚を覚える。
 普段から一つ一つの所作がサマになり、色気を感じさせる彼のことだから、本人には深い意味などないのだろうけど。
 雰囲気に呑まれて過剰な反応をしてしまわないよう、奈々実は自分の心を落ち着かせる。

「部下じゃなくなった君を、この店に誘いたいと思ったんだ」

 どれだけ舞い上がるなと心にブレーキをかけても、彼の言葉一つで体温が一気に上昇していく。
 頬が熱く頭がのぼせて、どんな言葉を返せばいいのかわからない。
 背の高いスツールの上で縮こまっている奈々実の前に、薄い桜色のグラデーションが綺麗なカクテルが置かれた。


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