見知らぬ恋人

葉月零

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 朝からの雨も止んだ。新大阪のコンコースではスーツ姿のビジネスマンが弁当とビールを買っている。もう7時、車内で夕食なんだろう。
 私も何か買おうかとコンビニに入ってみたものの、あまり食欲もない。クッキーとチョコレートを買って、ホームに上がった。
 ホームは思ったより肌寒い。もう6月の半ばだっていうのに。半袖のカットソーにカーディガンを羽織ってみたけど、それでもまだ寒く感じる。
 定刻通り新幹線が入ってきた。相変わらず、日本の鉄道は素晴らしい。足早に車内に入ると、今度は湿気のせいか蒸し暑く感じる。大きなスーツケースを引きずって、窓際の指定席に座った。ふぅっと息を吐いて、曇ったガラスから、暗くなり始めた街並みを眺める。この風景ももうしばらくは見ることはないだろう。
 あちこちから缶を開ける音が聞こえる。やっぱり何か買えばよかったかしら。ぼんやりと窓の外を眺めるうちに、いつのまにか、うとうととしていたらしい。はっと目が覚めると、京都に着いていた。
 ざわざわと乗客が入れ替わって、隣の席に、スーツの男が座った。荷物はビジネスバッグ一つ。テーブルにMacを出して、カチカチと始めた。少し香水の匂いがするけど、嫌な匂いじゃない。横目でチラッとみてみると、割と派手な感じ。アパレル系か、はたまたコンサル経営? その顎髭に茶色い髪、普通のサラリーマンって感じじゃないわね。
 またうとうととし始めたころ、車内販売のカートが入ってきた。冷房が効いて少し冷えてきた気もする。コーヒーでも買うか。
「すみません、ホットコーヒーください」
 なにも考えずに注文して、コインパスを出した。
「あ……」
 コインパスの中には10円玉と5円玉が2枚。ああ、そうだ。コンコースで使ったんだった。ICOCAにはチャージがないし、財布はスーツケースの中。
「すみません、ちょっと待ってください」
 パーサーの女の子がイライラした目をした。
 せまいスペースでなんとかスーツケースを開けようと、悪戦苦闘する隣で、派手男の声が聞こえた。
「僕ももらおうかな。これ、2人分ね」
 男は千円札をパーサーに渡した。
「ありがとうございました」
 パーサーはにっこりと微笑んで、コーヒー、ビール、お弁当……とコールしながら歩いていく。
「あの……ありがとうございます。お金、お返しします」
「いいですよ、気にしないで」
「いえ、そういうわけにはいきませんから」
 少しあいた隙間から手を突っ込むけど、財布にはたどり着かない。
「あー、じゃあ、それください」
 彼は見かねたように、座席カゴに入れていたクッキーを指さした。
「おなかすいちゃって」
 よくみると、そんなに若くなさそうだ。同じくらいか、すこし下か。きれいに固まった髪には、少し白髪が見えた。
 個包装のクッキーをふたつ渡すと、Macがなくなったテーブルの上に、コーヒーと並べてスマホで写真を撮っている。なんでも写真撮る人いるけど、この人もそのタイプかしら。年甲斐もなく、SNSにはまってるとか?
「いただきます」
 笑った顔に少しドキっとして、私もコーヒーを一口。
「うま!」
 勢いよくクッキーをかじってるから、かけらがボロボロ落ちて、ネクタイにひっかかってる。まるで子供みたいね。
「甘いものはお好き?」
「いやあ、普段はあんまりね。でもたまに食べるとうまいもんすね」
 普通のクッキーなのに。そんなに美味しいかな?
「よかったらこれもどうぞ」
 ひとつは私が開けて、もうひとつは彼へ。チョコレートもつけてあげた。
「チョコレート好きなんすよ」
 なんて軽い喋り方。こういう人、ほんと苦手。
「こちらこそ、コーヒー、ごちそうさまです……ちょっと失礼」
 気になって仕方ない。ネクタイに引っかかったクッキーのかけらをとってあげると、彼は少し恥ずかしそうに笑った。
 さて、これでコーヒーのお礼はできたわね。もうすぐ名古屋かあ。出張でよく行ったっけ……
「ところで、旅行?」
 えーと、あなたとの会話はもう終了してるんだけど。
「ええ、まあ」
「へえ、どこまで?」
 なんて慣れ慣れしい。礼儀ってものを知らないのかしら。女性と話す時は、そんなにズケズケと聞かないものよ!
「新横浜です」
「奇遇だね! 俺も新横だよ」
「そうですか、それは偶然ですね」
 失礼のない程度に愛想笑いをして、窓の外を向いた。なにもないスマホを触って、隣人をシャットアウトしたつもりだけど、どうやら彼には通じないらしい。ペラペラと話しかけてくる。
「あの、すみません。さっきは本当にありがとうございました。本当に助かりました」
「そんないいって」
「感謝はしていますが、少し疲れていて」
「あ、ああ……うるさいってこと?」
「あまりこんなふうに話しかけられることがないものですから」
「気を悪くさせたか、ごめん。ちょっと慣れ慣れしいよね」
 彼は少し俯いて、チョコレートを口に入れた。ふと見た左手には何もなくて、日焼けした手は、軟派な人柄とミスマッチなほど、がっしりしている。
 私は黙って軽く会釈して、窓ガラス越しに、おしゃべり男の顔を見た。見た目は悪くないけど、タイプじゃないわ。典型的な遊び人、絶対関わっちゃダメ。そうねえ、バツニで、子供は3人くらいいそうね。ああ、いけない、職業病ね、すぐこうやって査定をはじめちゃう。
「ふざけんな!」
 どこからか、男の怒鳴り声が聞こえた。どうやら、酒に酔ったいかにも素行の悪そうな男がケンカしてるらしい。最低ね、と目を背けると、隣の彼がスタスタと歩いていく。
「おいおい、やめろよ、みんな迷惑してんぜ?」
 立ち上がった彼は背が高くて、体つきも思ったよりがっしりしている。
「うるせえ! 関係ねえだろ……あ、あれ? もしかして……」
 彼はそのまま、暴れていた男の肩を抱いて、デッキに消えていった。なに? なんか、急に大人しくなったみたいだけど? 
 しばらくして、2人は笑顔で戻ってきて、男は頭を下げて席に座った。隣の彼も戻ってきて、周りの乗客がヒソヒソと何か言ってる。
「ああいうの、ほっとけなくて」
 彼はちょっと照れ臭そうに言って、もう冷めたコーヒーをすすった。
「勇気あるのね、すごいわ」
 それは本心で、こういう場面で行動できるのって、本当に尊敬してしまう。
「おせっかいなだけだよ」
 彼は笑って、最後のチョコレートを口に入れた。
「なんていうか、困ってる人とかさ、ほっとけないんだよ」
 そうよね、私もコーヒー代、助けてもらった。私が逆の立場ならどうしたかな。きっと……無視してたよね……何もかも、自分のことじゃなきゃ、見て見ぬふりだもん。
 なんとなく、居心地が悪くなって、私はまた窓の外を見た。今は静岡あたりだろうか、もうすっかり暗くなって、ちらほらと灯りが流れていく。
「明るかったら富士山見えるのになあ」
 彼の顔が、後ろから覗き込んで、ガラス越しに目が合ってしまった。
「あのさ、キレイな人だから、話したくて」
 耳元で、彼は小声でそう言った。
 そんなこと言われるの、何年ぶりだろう。薄くシミのできた手に視線を落として、心臓の音が聞こえるんじゃないかと、息を止めた。
「か、からかわないで」
「からかってなんかないよ。本気だよ」
 なんて言っていいかわからない。だから私はダメなのよ。
「旅行ってさ、だれか連れがいるの?」
 俯いたままの私に、彼は話題を変えてくれた。
「旅行……じゃないの。引越しなの。東京に転勤になって」
「そうなんだ。横浜に住むの?」
「ええ、社宅があるんだけど、郊外だし、それなら横浜のほうがいいかなって」
「賢明な判断だ。こっちには友達とかいるの?」
「ううん、だから土地勘もないし、不安で」
「俺でよかったら、いつでも案内するよ。仕事で東京と横浜はいったりきたりだし」
 気さくな彼のペースにのまれて、普段の警戒心はどこへ行ったのか、ずいぶんオシャベリな私。こんなに笑ったの、いつ以来だろう。男の人と、こんなに楽しく過ごすなんて……



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