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87帰還

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 王都への向かう街道の途中、昨日山道から見えなかった海が遠くに見えた。

 元の世界と変わらない広大な海原。
 蒼く美しい海面は水平線に向かって徐々に白くかすみ空の雲の白と馴染む。

 何隻もの貿易船が遥か遠くの外国へ向かって帆を立てゆっくりと進んでゆくのが小さく小さく見えた。
 沖には漁師の小舟だろうか。
 あちらこちらに浮かんで、漁をしているのか漁から帰ってきたのか…

 穏やかな日々の営みが今日も繰り返されている。

 海の向こうの知らない国々にも同じような人々の営みがきっとある。

 この世界の時間がゆったりと流れていることを改めて実感する。
 エマは、自分もこれからこの国でこの流れに身を任せ生きていくのかとぼんやり海を眺めていたが、ふと思った。

 この世界に呼ばれた『イルヴァ』の血を継ぐ娘たちも、元の世界に帰るすべがないこの世界で『魔女』として人々の日常にまぎれ、ただひっそりと生きたんだろうか。

(…違う。)

 『魔女』たち…少なくとも『イルヴァ』の血を継ぐ『魔女』たちは、『ルーン』の人智を超えた『力』を使いながら自分が出来得る精一杯でこの世界を大切にしてきたのだと思う。
 ずっとこの穏やかな日々の営みが続くことを願って。

 この世界は『イルヴァ』たちが様々な文化や技術を伝え、少しずつ形創られてきたと聞いた。
けれど、この世界には重火器じゅうかきが存在しない。
 それは、誰もそんな武器をえて伝えなかったから。

 ここは初めの『イルヴァ』が創ったつたない物語からはじまった世界。
 なんてあやうい。
 ある日突然消えて無くなるかも知れないはかない世界。

(でも、大切な人たちがここにいて、ここで生きていることは『現実』。)

 この世界だって国があれば互いに争い、人々が集まれば疫病が流行る。

(ジェシー、『動物との意思疎通』『人を操る呪術』の魔女たちもきっといると思うよ。
もちろん、私たちと同じ『魔女』たちも。
だって、世界はこうして無事でここにあるもの。)

 動物と話せるということは、彼らを使ってあらゆる諜報活動ができるということ。情報を集め、災いを未然に防ぐことができる。
 呪術は恐ろしいだけじゃない。狂った為政者たちを『力』でいさめ、争いを終結させることができる。

 たとえ、この世界が『ルーン』から離れつつあっても、この『四つの力』だけはこの先も残り続けていくはず。

 この世界が傷つき壊れないように。

(それなら、私も隅っこでこっそり生きてなんかいられないな…)

 車窓から遠くの海をじっと見つめているとエマの手に大きな手がそっと重なった。
 エマは隣のジークヴァルトを見上げるとその手に指を絡め、微笑み返して身を寄せた。


✳︎
 戻った王都の城門では迎えの警備隊員たちが待っていた。
 彼らの先導について行くと、どうやらスーラの店に向かっているようだ。
 スーラ達にも随分心配をかけてしまったと思うと、久しぶりの再会なのにどんな顔をして会えばいいのだろうと思う。

 いよいよ店の近くまでくると、車窓を見たジークヴァルトが、

「これは…」

と言って、はははと笑った。

 スーラの店の前には地味な服に身をやつしていてもオーラを隠せていない一団が待ち構えていたからだ。
 ルイス王子、ルシエンヌと兄のトリスタン、彼らから遠慮がちに離れて立っているのはロイと友人のアルベルト、そしてスーラと夫のロジだ。

 馬車を降りたジークヴァルトをルイス王子が「お帰り。二人とも無事で何よりだ」と出迎え、握手を交わす。

 続いてエマがジークヴァルトの手をかりて降りたのだが、待ちきれないようにルシエンヌがエマに抱きつきジークヴァルトから奪ってしまった。

「エマッ!やっぱり私の国へ行こう!」

「ルー?!」

 突然の抱擁と唐突とうとつな申し出に驚いたが、心配をかけてしまった後ろめたさでいっぱいの気持ちが彼女のおかげでいっきに吹き飛んでしまった。

「ありがとう、ルー。心配かけてごめんね。ただいま」

 エマは親友の胸に顔を埋めそっと抱き返した。

 二人の熱い抱擁をあたたかい目でしばし見つめていた男性陣だったが、ここからが大変だった。

 ルイス王子がハッと思い出したように、

「ち、ちょっと待って、僕との結婚は?!」

と慌てだし、ジークヴァルトは「何を馬鹿な冗談を」と首を振りさも当然にエマを取り返そうと手を伸ばす。

 するとトリスタンがルシエンヌに加勢して、

「本当にいいのか?後悔はしない?酷い扱いで泣かされたのだろ?」

と念をおしてきた。
 ルシエンヌが「そうだ、そうだ」と抗議の合いの手を入れ、エマを抱いたままジークヴァルトの手をかわす。

 そもそもトリスタンとエマの仲を誤解したのが事の発端だ。さらにジークヴァルトがエマにやってしまった所業も全部筒抜けな口ぶりだ。
 ジークヴァルトは口を滑らせたルイス王子を非難がましく睨むが、ルイス王子はルシエンヌしか見ていない。

 彼らに言い訳するのもバツが悪いジークヴァルトは

「とにかく、」

と、割って入るように言葉を区切ると、

「私たちは愛し合っているので心配無用だ」

と結論だけ偉そうに宣言した。

 そして、一瞬みんなが唖然となるとすかさずルシエンヌからエマをグイッと取り返し胸元に抱き込んで取られないように確保してしまった。

「はぁああ!?」

 不快感いっぱいの声を上げたルシエンヌは、

「エマに触るな!そもそもの原因が何を偉そうにっ!」

と、一段と食ってかかる。
「まあまあ、落ち着いて」と、ルイス王子がなだめに入るのだがルシエンヌは聞く耳をもたず…

王族貴族が下町のパン屋の前でやいのやいのと揉め始めた。

 とうのエマに口を挟む余地はなく、さらにジークヴァルトにがっちりと抱き込まれていて身動きがとれず状況が見えない。
 かわりにジークヴァルトの二の腕越しに、そんな騒ぎを遠巻きに傍観するロイとアルベルトと目が合った。

 彼らはエマに、やあと手を上げ「おかえり」と口を形作る。
 エマも「ただいま。ありがとう」と同じように返し微笑んだ。

 すると、ロイの後ろからおずおずと顔を出したのは、アルベルトの妹のメアリーだ。
 ロイにうながされて恥ずかしそうに申し訳なさそうにエマに頭を下げる。
 以前アルベルトの屋敷で会った時に言った意地悪を反省しているのだろう。
 エマがいいよいいよと言うように動かせる指をひらひらとして応えてあげた。
 すると、メアリーはよかったと安心したようにロイを見上げ、よく出来ましたと頭を撫ぜられると真っ赤に頬を染めはにかんだ。

 エマの背後では攻防がまだ続いていたが、いよいよこの騒ぎをぴたりと止めたのは、やはりスーラだった。

「皆さま、立ち話もなんですから中でお茶の続きはいかがですか?」

 スーラは今までと何も変わらない態度と口調でエマに「エマ特製の茶葉でお茶を差し上げて帰りを待っていたんだよ」と教えてくれた。
 そして、ただ「おかえり」とだけ言ってエマを抱きしめふくよかな温かい手で背中を撫ぜてくれた。

 ルイス王子がルシエンヌの手を取り中へ入るとトリスタンが後に続く。
 それを見たメアリーがロイの腕に嬉しそうに飛びつき行こうと引くと、ロイは遠慮するアルベルトの肩をたたきに中へ押す。
 そして最後に、ジークヴァルトが「行こう」とエマの肩を抱き寄せた。

✳︎
 年が明けるとすぐに、シュタルラント国ルイス王子とオースト国公爵家令嬢ルシエンヌの婚約が正式に国の内外に発表された。
 そして、皇太后の血縁の令嬢としてエマ・イルヴァ・フォン・グレイの存在が公表され、皇太后の実家グレイ伯爵家を継ぐグレイ女伯爵に叙爵じょしゃくされた。
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