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18王子の執務室
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翌日、宮殿、世継ぎの王子ルイス・フォン・シュタルラントの執務室ーーー
室内は朝からずっと書類にペンを走らせる音と紙をめくる音のみだった。
ルイス王子の執務机の近くで同じく重厚な執務机を置き、補佐をしている公爵家嫡男ジークヴァルトが書類をトントンと整えながら、
「お疲れさまです。そろそろ昼食ですので、ご休憩ください」
とルイス王子に声を掛ける。
「ああ、もうそんな時間?」
ルイス王子は、ペンを置くと肩をほぐすように軽くまわす。
革張りの椅子の背もたれに体重を預けながらコキコキと首を鳴らしていた王子は机上の、ある書類に目を止めた。
それを手元に引き寄せるとペラペラと捲る。それはエマを王宮へ召喚するにあたり調べた調査書だった。
エマ・ハースト、18歳。
王都の北東、プレト男爵領テューセック村出身。
大叔母の死後身寄りなく村長が身元引受人となる。
両親の死後親戚を転々とし、五年前に大叔母の元に引き取られたため、この国の戸籍を持たず。
今春戸籍取得のため王都へ登る。
キンセル通りのパン屋「スーラのパン屋」にて住み込みで働くようになったのは、庁舎戸籍係として対応したロイ・ミルドの紹介。
またロイ・ミドルとハビ子爵家次男・王宮警備隊アルベルト・フォン・ハビは王立大学同窓生………
スーラのパン屋はパン職人の組合を通じてエマの税金もきちんと納税している。
またスーラ夫婦は組合仲間や近所の商店仲間からも信頼され悪い噂は全くない。
エマ・ハーストは、庶民として珍しくない身の上で申し分ない現状である。
「ねえ、ジークヴァルト」
問いかける声は幼馴染としてのものだった。だからジークヴァルトも幼馴染として応える。
「何だ」
「昨日の娘だけどさ…」
ジークヴァルトは、出来上がった書類を整える手を一瞬とめた。
「……それが?」
「呼んで正解だった」
「……」
「ああして身なりを整えればまさか田舎の村の出身とはわからない程だった。
それに臆した所のない立ち居振る舞い。
ハビ家で急遽仕込まれたにしてもあの場でああも落ち着いてはなかなかできるものじゃない。
昼食会へ引っ張りだしてみたが…お前も見ただろう?
あの完璧なマナー。
それに令嬢たちの趣味に対する意見には本当に驚かされた。
立派な貴族令嬢並みだと思わないかい?」
それは昨日の昼食会の最後にお茶を飲んでいるときのことだったーーー
令嬢たちの侍女らが入室してきた。
ひとりの侍女が花を飾った花瓶をルイス王子の前に置くと、すぐ右手に座るミーナ・フォン・グランデ侯爵令嬢がルイス王子に、
「今日は久しぶりにご昼食会に招いて頂けて嬉しかったですわ。
この生花は私が育てた花ですの。
特にこの花の紫色は私が品種改良して作りましたのよ。いかがでしょうか?」
と誇らしげに言った。
ミーナ嬢は植物の品種改良が趣味だ。
貴族令嬢が土いじりをすることはあまり上品な趣味とは言えないが、ルイス王子には偏見はなかったので、後宮の一画に温室を作ることも許可し好きにさせていた。
だからと言ってこの令嬢に目をかけているわけではない。
後宮の変わりばえしない日々の慰めになればと、側室候補の令嬢たちの好きにさせているだけだ。
「先日は花弁の数が四枚から五枚になった花を見せてもらったけど、この花はこの色が珍しいのかい?花のことはよく分からないな」
「ええ……まあ」
ルイス王子の手応えのない返答にミーナ嬢は会話が続かず引き下がった。
次はミーナ嬢の隣のカトリーヌ・フォン・マス伯爵令嬢。
侍女にクルクルと巻かれた布地をルイス王子へ差し出させると、
「この織物をご覧下さいませ。
私が工夫した織り方なのですが、いかがでしょうか?」
と王子の良い反応を期待するようにその様子を伺った。
侍女から受け取り広げたのは、フェイスタオルほどの大きさの布。それは、絹で緻密に織られた美しい織物だった。
「……限りある後宮費なのだから織り機の試行錯誤はほどほどにね」
「はい…申し訳ありません…」
カトリーヌ嬢がガックリと肩を落としながら項垂れると、三人目の側室候補ジーナ・フォン・クルド子爵令嬢が、
「では、私は一曲弾かせていただきますわ」
と静かに言った。
侍女に用意させたのは楽譜と琴。
琴は、一メートルほどの大きさの簡素な形で弦が三本しかなかった。
演奏された曲はジーナ嬢が最近作曲したものとのことだった。
「あー、えーと」「王子はお父君の国王陛下に似ず音楽や芸術にはあまり造詣が深くていらっしゃらない」
感想を言い淀むルイス王子にジークヴァルトが横から助けにならない助け舟を出すと、ジーナ嬢は無表情にさらに冷たい空気を纏い「……お粗末さまでした」と言って侍女にさっさと琴を片付けさせてしまった。
なんとも気まずい空気が流れる中で、ダイニングルームにあるのは皆が喫する茶器の微かな音だけ。
ルイス王子はこのまま昼食会をお開きにしても良かったのだが、端の席に座るエマが黙って姿勢良くお茶を飲む姿を見て楽しげに目を細めた。
室内は朝からずっと書類にペンを走らせる音と紙をめくる音のみだった。
ルイス王子の執務机の近くで同じく重厚な執務机を置き、補佐をしている公爵家嫡男ジークヴァルトが書類をトントンと整えながら、
「お疲れさまです。そろそろ昼食ですので、ご休憩ください」
とルイス王子に声を掛ける。
「ああ、もうそんな時間?」
ルイス王子は、ペンを置くと肩をほぐすように軽くまわす。
革張りの椅子の背もたれに体重を預けながらコキコキと首を鳴らしていた王子は机上の、ある書類に目を止めた。
それを手元に引き寄せるとペラペラと捲る。それはエマを王宮へ召喚するにあたり調べた調査書だった。
エマ・ハースト、18歳。
王都の北東、プレト男爵領テューセック村出身。
大叔母の死後身寄りなく村長が身元引受人となる。
両親の死後親戚を転々とし、五年前に大叔母の元に引き取られたため、この国の戸籍を持たず。
今春戸籍取得のため王都へ登る。
キンセル通りのパン屋「スーラのパン屋」にて住み込みで働くようになったのは、庁舎戸籍係として対応したロイ・ミルドの紹介。
またロイ・ミドルとハビ子爵家次男・王宮警備隊アルベルト・フォン・ハビは王立大学同窓生………
スーラのパン屋はパン職人の組合を通じてエマの税金もきちんと納税している。
またスーラ夫婦は組合仲間や近所の商店仲間からも信頼され悪い噂は全くない。
エマ・ハーストは、庶民として珍しくない身の上で申し分ない現状である。
「ねえ、ジークヴァルト」
問いかける声は幼馴染としてのものだった。だからジークヴァルトも幼馴染として応える。
「何だ」
「昨日の娘だけどさ…」
ジークヴァルトは、出来上がった書類を整える手を一瞬とめた。
「……それが?」
「呼んで正解だった」
「……」
「ああして身なりを整えればまさか田舎の村の出身とはわからない程だった。
それに臆した所のない立ち居振る舞い。
ハビ家で急遽仕込まれたにしてもあの場でああも落ち着いてはなかなかできるものじゃない。
昼食会へ引っ張りだしてみたが…お前も見ただろう?
あの完璧なマナー。
それに令嬢たちの趣味に対する意見には本当に驚かされた。
立派な貴族令嬢並みだと思わないかい?」
それは昨日の昼食会の最後にお茶を飲んでいるときのことだったーーー
令嬢たちの侍女らが入室してきた。
ひとりの侍女が花を飾った花瓶をルイス王子の前に置くと、すぐ右手に座るミーナ・フォン・グランデ侯爵令嬢がルイス王子に、
「今日は久しぶりにご昼食会に招いて頂けて嬉しかったですわ。
この生花は私が育てた花ですの。
特にこの花の紫色は私が品種改良して作りましたのよ。いかがでしょうか?」
と誇らしげに言った。
ミーナ嬢は植物の品種改良が趣味だ。
貴族令嬢が土いじりをすることはあまり上品な趣味とは言えないが、ルイス王子には偏見はなかったので、後宮の一画に温室を作ることも許可し好きにさせていた。
だからと言ってこの令嬢に目をかけているわけではない。
後宮の変わりばえしない日々の慰めになればと、側室候補の令嬢たちの好きにさせているだけだ。
「先日は花弁の数が四枚から五枚になった花を見せてもらったけど、この花はこの色が珍しいのかい?花のことはよく分からないな」
「ええ……まあ」
ルイス王子の手応えのない返答にミーナ嬢は会話が続かず引き下がった。
次はミーナ嬢の隣のカトリーヌ・フォン・マス伯爵令嬢。
侍女にクルクルと巻かれた布地をルイス王子へ差し出させると、
「この織物をご覧下さいませ。
私が工夫した織り方なのですが、いかがでしょうか?」
と王子の良い反応を期待するようにその様子を伺った。
侍女から受け取り広げたのは、フェイスタオルほどの大きさの布。それは、絹で緻密に織られた美しい織物だった。
「……限りある後宮費なのだから織り機の試行錯誤はほどほどにね」
「はい…申し訳ありません…」
カトリーヌ嬢がガックリと肩を落としながら項垂れると、三人目の側室候補ジーナ・フォン・クルド子爵令嬢が、
「では、私は一曲弾かせていただきますわ」
と静かに言った。
侍女に用意させたのは楽譜と琴。
琴は、一メートルほどの大きさの簡素な形で弦が三本しかなかった。
演奏された曲はジーナ嬢が最近作曲したものとのことだった。
「あー、えーと」「王子はお父君の国王陛下に似ず音楽や芸術にはあまり造詣が深くていらっしゃらない」
感想を言い淀むルイス王子にジークヴァルトが横から助けにならない助け舟を出すと、ジーナ嬢は無表情にさらに冷たい空気を纏い「……お粗末さまでした」と言って侍女にさっさと琴を片付けさせてしまった。
なんとも気まずい空気が流れる中で、ダイニングルームにあるのは皆が喫する茶器の微かな音だけ。
ルイス王子はこのまま昼食会をお開きにしても良かったのだが、端の席に座るエマが黙って姿勢良くお茶を飲む姿を見て楽しげに目を細めた。
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