星の歌を聴け:拾遺譚

聿竹年萬

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雲上の国

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「雨粒が小さくなってモヤみたいにふわふわしているね! 顔がしっとりして冷やっこいね!」
「靄みたいなんじゃなくて靄なんだよ。空気中に細かい水滴が浮かんでいるだろう」
 東西の村と村を繋ぐ長い街道にはコウヤとシアの他に人影はない。夜半から続いていた雨は止み、うっすらと靄となっていた。
「顔に水滴が当たるのが気になるなら俺のゴーグル使う? 目元を保護するだけでもだいぶ感覚は変わるはずだ。目っていうのは常に露出している内蔵みたいなものだからね」
「そういうんじゃなくてね……」
 シアの気持ちをわかってかわからずかのコウヤの反応に、彼女は困ったように微笑んだ。コウヤはペースを落とすことなく歩いて行く。
「もっとさ、モヤってこんなんなんだ~! とか、毎日この天気なら保湿いらずでいつもしっとりだ! とか! そういう感動はコウヤにはないのかしら」
「ないね」
 シアの方を見もせずに言い捨てる。コウヤは周囲への警戒を怠らない。正確に言えば怠ることができないでいる。東西に伸びる街道の北側はなだらかな丘陵が広がり遮蔽物も特には無いが、南には雑木林が街道とつかず離れず続いている。朝焼けの時刻となっても陰は深く、潜伏するにはお誂え向きに思われた。
「東の村で世界樹の苗木を活性化してきたんだからこの辺りはモンスターの発生しない安全帯じゃない。コウヤは大きくなっても怖がりなんだから」
「シアこそ油断がすぎるんだよ。モンスターが出なくても人は出る。この辺は少し前までモンスターの襲撃があった場所なんだ。生活に困った盗賊どもが獲物が来るのを虎視眈々と待ちかまえているかもしれないじゃないか! もしそれでシアの身に何か――」
「わぁ! すごぉいっ!」
 コウヤの八つ当たりのようなご高説はシアの感嘆の声に遮られた。コウヤが文句の一つ二つをと振り返ると少し離れたところで、シアは北の空を見上げていた。何に呆気にとられているのか知らないが、口を半開きにして目を輝かせ――仮にコウヤが盗賊ならば簡単に拘束して荷物を奪えそうなくらいに――隙だらけの背中をさらしていた。
 すっかり呆れ果てた調子で彼女の傍らまで歩み寄り、先ほどの倍は説教臭くかつ、不貞腐れた具合で「全く何がすごいんだかなんだか知らないけどさ――」

――一時(いっとき)、呼吸を忘れてしまった。眼前の光景に意識を奪われてしまった。街道から北に広がる丘陵のその向こう、山々を越えてなお遠くに薄ら青白く、大樹ががそびえ立っていた。
 彼の巨木は世界樹と呼ばれる大樹がある。天を突かんばかりの高さと太さの幹は、天と「地上の民」の信仰を支える柱である。
「凄いね! とても綺麗だね! あの大樹の上に私たちの家があるのに全然見えない。とっても高いところにあるんだね」
 自分の生家があの雲の上の更に上にあることを想像して、シアはますます興奮した。と同時にこの感動をコウヤと共有できないことがいよいよ寂しかった。 いくら語り掛けても返事のないコウヤにじれったさを覚えてシアは彼の顔を覗き込んだ。
「たまには素直に感動したらどうなのコウヤったら――」
 そうして、彼の顔を見てその意外な表情に虚を衝かれる思いがした。彼は、ジッと世界樹を見入っていた。
「……感動した?」
 シアの声はいつになく弾んだ調子だった。コウヤは気恥ずかしくなり、一気に現実に引き戻され、視線を道へと直してしまった。
「感動なんてする用事はないっての。こんなのは空気遠近と靄の影響で……」
 感動していない、ということを誤魔化そうと、不貞腐れたように吐き捨てながらコウヤは歩き出す。
「も~! あんたは本当に素直じゃないんだからーっ!」
 歩き出したコウヤを追いかけ左に並ぶと彼の頭をワシワシと撫でまわした。
「やめろよ!」
 不貞腐れた調子のまま、シアの手を払いのけるとコウヤはそっぽを向いてしまう。彼の視線は自然、シアと反対側、大樹の方を向いてしまい視界には先の光景が広がった。
 コウヤはいつだって、見上げているより見下ろしている方が余程上等だ、とずっと思っていた。足元に注意を払っていれば躓くこともないし、時折小銭も拾えた。敵の襲撃に備えるのにも罠を看破するのにも、獲物を追跡するにも下を向いて歩く方が上策だった。
 大樹の上の街は今もなお凄絶な速度で上へ上へと成長している。植物としてではなく街として。富める者はいつだって誰よりも明るい場所を得ようと、貧しい者たちを下へ下へと追いやっていった。
 街を歩いていて、まだコウヤの背丈がシアより低かった時分、彼女の顔を見上げたその背後は、いつだって暗い配管の天井ばかりだった。やがて彼女の背に並び、上背が超えてからは見上げる用事もなくなり、ずっと俯いてコウヤは生きてきた。あの大樹を離れ、地上を往くようになってなお。
 頭上を仰いだところでわかることは、今自分がいる場所が誰かの暗渠なのだという寂しい自覚だけだと思っていた。思っていたのに、コウヤは一時呼吸の仕方さえ忘れ、その光景に見入ってしまった。
 世界樹、その樹上に国一つが営まれるほどの大樹が遠方にそびえ立っている。根本と天辺は青白くうっすらと滲んでいた。朝靄の中、静かにただ立っている世界樹から目を離せなかった。知らず、目頭が熱くなるのがわかった。
 今は亡きコウヤの母が「世界樹は人々の営みを、いえ世界そのものを支える柱なのよ」そう言っていたのが思い出された。
 シアは安堵にも似た喜びを胸に感じながら彼の隣を歩いた。素直でない、というよりは警戒心を発揮し続けねば歩くこともままならない彼の束の間の油断がなによりも有難かった。
 正直に言えば、「前を向いて歩かないと危ないんじゃなかったの?」とからかって遊びたかったが。
 シアは願わずにはいられなかった。この旅が困難を伴うものだとは十分に承知はしている。それでもなお、あの鬱屈とした天上を後にして就いたこの旅路が、彼の中の澱を雪ぐものであってほしいと。朝靄の中にきらきらと反射する朝日を感じながらこの道程が彼にとって幸いであってほしいと願わずにはいられなかった。
 また、ささやかなことではあったが、旅の終わりに、彼の傍らにいる人が――。
「ほら、ぼんやりすんなよシア。どうかしたのか」
「ううん、なんでもない。行こう」
 今は考えないでおこうと思った。自分たちは今を精一杯生きることに懸命であればいいと思った。
 朝靄の中に二人の背には朝日が暖かに注いでいた。
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