冬の一陽

聿竹年萬

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少年期 港町小旅行編

(47)蔦の葉の裏の

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 日没してもうしばらくが経つ。宿の部屋でフィンは師の帰りを待っていた。うとうとと船を漕ぎつつ。


 ギシギシと木製の床を踏む音が聞こえた。歩幅が狭く音と音の距離が近い。ドロシーの足音であるとフィンの体が理解するとたちまち覚醒した。


「ただいま帰りま――」
「おかえりなさい! 先生!」

 部屋の扉が開くのと同時に声をあげるフィンは喜色満面の具合であった。
 フィンの様子にドロシーは面食らう。たまにはいかにも子供っぽい振る舞いをするのだなと微笑ましげに愛弟子を見る。
 テーブルの上には屋台で売っているようなジャンクフードを中心に魚介料理が手つかずに並んでいた。
 ドロシーはそれらの食事を見て顔をしかめる。この日は予め帰りが遅くなることがわかっていたので外で適当に夕飯を食べてくるように言ったはず。宿にも今日だけはキャンセルしていた。外で遊ぶ、という体験をしてほしかったドロシーとしては叱る気はないが少し残念な気持ち。テーブルの様子からフィンは何も口にしないで待っていたと推察される。

「私が帰ってくるまで待っていたのですか?」

 少し声のトーンがいつもより平坦に聞こえて、フィンは緊張する。先生の機嫌が良くないことはすぐに理解できた。また、やってしまったと後悔しつつあった。言いつけを守らなかったことは誤りであったと自らの行状を悔いる。

「……先生を差し置いて食べているなんてできなくて」

 ドロシーは未だにフィンが自分に対して打ち解けていないように感じられ、溜息をつきそうになるがそうした態度の表出が彼の自尊感情を低めるとてこれを堪える。
 フィンは負の方向に常に賢い。自分の行状を既に反省し、悔いていることはドロシーはすっかり理解していた。

 なんと諭せば彼の成長のためとなるか。どう言葉を尽くせば彼は心を許してくれるのか。焦燥が心の内に渦巻くのをひしひしと感じている。
 人間の寿命は精々七十年。ドロシーは我が身と比べて実に短命な彼がいつまでもそのような場所に躓いていてほしくない、と思いつつも自分も実に長い間同じように躓いたままでいることを改めて思い出す。

「私は、貴方が私のために自分の希望を抑えて忍耐したり無理を望んではおりませんよ」

 どうにか口から絞り出した言葉は、効果的な言葉選びではなかったとドロシー自身理解できていた。だからといって、言葉を尽くさないという選択は承服するわけにはいかないという思いから、どうにか形にした言葉であった。フィンの緊張は確かなるものでありはしたが、それでも日に日にそれは弛緩していることも把握できていた。ただ、どうしてもその遅々とした改善ばかりがドロシーの背後から焦りとなって迫っていた。

 二人はともかくも食事を済ませることとした。少しでも早く帰りたいとてドロシー自身何も食わずの帰りであり空腹をもて余していた。

 食事を終えて冷やした茶を飲む。冷たい液体が咽喉を通り抜ける感覚が心地よい。程よい満腹感が一日の疲労と緊張をほどく時間に差し掛かっていた。

 不意に、フィンがこの期に及んでなおどうやら緊張しているらしいことにドロシーは気が付く。意識的に視線を逸らしているようだった。妙に背中の方に意識を向けて何か決断を悩んでいるように見えた。

 ドロシーは声を出す。彼の緊張を緩めるべく。意識した。少し声を高くした。あまり、身についた行いではなかった。

「フィン、私はもう怒ってませンヨ?」

 上ずってしまった。

 ドロシーは努めて平静を装った。表情を変えないことには慣れていた。というよりは表情筋が活発な方ではないドロシーは無表情、あるいは不機嫌そうな顔が常のことであった。しかしながらドロシーは鼻の頭から耳の先まで顔を赤くなるのを抑えることが出来なかった。

「ぐふっ」

 それを見てフィンは笑ってはならない、吹き出してはならないと必死の忍耐をしていた。していたのであるが忍耐こそ笑いの沸点を低くするものとあって長くは持たなかった。先ほどまで叱られていたのだから神妙にしていなくてはますます状況が悪くなるという生家での経験から必死であったが、心酔の師のそのような行状はフィンの理性を恐ろしい速度で搔き乱していった。

 必死にそれ以上の弛緩を堪えねばと口に手を当てて腰を曲げたそのとき、フィンのすぐ後ろ、椅子の脚元に拳ほどの大きさの、淡いブルーの紙に白いリボンの包みが落ちた。
 床に落ちた包みをフィンは慌てて拾う。体の陰に隠そうとしたり少し師の顔色を窺ったりとしてみはするものの、もはやいかんともしがたいと腹を括ったフィンはその手の物をズイとドロシーの目の前に差し出した。

「これ、先生に」

 ドロシーはフィンの差し出すその贈り物を前にしばしほうけ
 ドロシーの内には落胆があった。彼に学んでほしい、遊んでほしいという思いからの今日の指示であったが、弟子はその金員を自分の娯楽ではなく師である自分のために使ってしまったかと思うといかにも寂しさがあった。

「ありがとうございます。こちらは開けてみても?」

 ドロシーはフィンの手からそれを受け取りながら頬が緩んでしまわないようにと必死であった。
 彼が彼自身のためにあってほしい、というのも本心であるが、しかしながら師として、保護者の立場とは異なるところで心の内は酷く喜びもあるらしかった。彼が自分のことを思って贈り物に臨んでいたのかと思うと、彼のその思いはなによりも有難かった。

 ドロシーが丁寧に包を開けると銀色の光沢の腕輪が姿を現す。飾り彫りの施されている。その飾り彫りは蔦の葉を模していた。
 リングの裏側にはスクロール魔術に使うのと似た紋様が彫り込まれているのが分かった。

 その紋様を施したのがフィンだということはすぐにわかった。

「今日の報奨金、あの魔獣を倒せたのは僕一人の力じゃないじゃないですか……。それで僕一人で使うんじゃなくて先生にも何かって思って、でも先生普段欲しいものがなにかって口にしないので、あったら役に立つ道具にしようと思って、その、自分で刻印してみたのですが……」

 ドロシーは刻印をしげしげと観察する。魔力操作補助の刻印であることがすぐにわかった。あまり難しい刻印ではないが、レイアウト、点画の明瞭さ。いずれも綺麗に刻されており、フィンの手技に感心する。

「素晴らしいですね」

 感嘆の声を上げる。フィンが顔を上げると師の頬はすっかり綻んでいた。

「フィン、よかったら付けてくれますか? 装飾が繊細なので自分でいじるのは不安なのですが」

 ドロシーは左の袖をまくりながらフィンに尋ねる。

「勿論です」

 フィンは腕輪を受け取ると彼女の手首にそれを嵌めた。少し緩いようにも見えるが何かの拍子に落下するほどの緩さではなかった。

「ありがとうございます。フィン、大切にしますね」

 ドロシーは自分の左腕に嵌められたその腕輪を目の前に持ち上げてクルクルと様々な角度から眺める。今までにこうして装飾品を誰からか送られるようなことは、思い出せる限りにおいては記憶になかった。実に新鮮な喜びが満ちていた。

 袖を元に戻すとその腕輪はすっぽりと覆われて見えなくなってしまった。しかし、袖の上からでも手を添えると腕をぐるりと回るその形はよくわかった。その日、ドロシーは特に意味もなく左手首の辺りを何度も何度も撫でていた。
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