冬の一陽

聿竹年萬

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少年期 大学入学~生活編

(N33)救済

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 先生は苦しそうに息をしながらこちらを見ていた。その表情は苦しさを抑えながら努めて微笑むようであった。


「先生、どうしたんですか。何かご用が?」


 フィンはすぐに彼女の元に駆け寄る。先生が、僕に用事を、頼みごとをくれるなら難度だって立ち直る。オリヴァントがなんと言おうと、彼女が求めてくれるなら僕はそれだけで堪えられる。


「ううん……。用があったわけではないの」


「――っ。では、何かお困りのことが」


 ドロシーはゆるゆると首を振る。
 フィンは師の手を取る。まだ病に覚束ない彼女を布団まで連れて行かねばと思った。しかし、彼女の肉軆(からだ)は砂袋のように重く、手を引いても動こうとしない。


「フィン、貴方の泣く声が聞こえたから」


 書斎の入口から彼女のベッドまでその距離たっぷり三十歩である。普段ならば然したることもない距離であるが、今の彼女にはそれがどれほど遠いものであったか。




「……なんで」


 なんで僕なんかのために、とフィンが口走るその瞬間のことだった。ドロシーが少年の頭を撫でてそれを制した。


「僕は、泣いてなんかいませんよ……」


 ドロシーのその手は優しく柔らかで、まるで慰めるための手つきに思われ、フィンは己の意気地のなさに唇を噛む。声が震えてしまうのを隠せない。


「辛いときには泣いてもいいのですよ」


 フィンはひととき、息を止め、唇を固く噛みしめる。自分の奥底から何かが溢れようとするのを必死にせき止める。ドロシーの掌だけが無遠慮に頭を掻き乱す。


「ごほっ、ごほっ」


 師の渇いた咳がが響く。ドロシーは肘の内側で口元を覆う。
 呆けている場合ではないとフィンは気を取り戻し、彼女の体を支えながらベッドまで介助する。


 ベッドに横たわらせ布団をかける。彼女の呼吸は忙しなく、一層苦しげである。
 氷嚢の中に魔術で氷を追加する。


「フィン、聞いてください」


 布団の中からフィンを見上げながら弱々しくも芯のある調子でドロシーが言葉を続ける。その行為がどれほどの疲労を伴うものか。


「先生、無理に喋らないでください。よくないです」


 ドロシーの言葉は酷く胸を締め付ける。彼女の言葉が胸に染み入る度に、心の奥底から絞り出されそうになる。やめて欲しい。


「貴方が貴方の望むようになることだけを、それを私は望んでいます」


 ドロシーは腕を伸ばしてフィンの首に手をかけると自分の肩先に引き寄せた。フィンの鼻先は師の肩口に埋もれる。不思議と安心する香りがする。


「貴方が何を望み、何を選んでも、私は……私は貴方を承認しますから。きっと迷わないで」


 フィンはいよいよ涙を堪えかねて身を震わせた。声だけは上げまいと下唇を噛んではいたが、ドロシーは構うことなくフィンの頭を繰り返し撫でていた。


 人に喜んでほしい、という思いは兄に劣り、肉體(からだ)も小さかったフィンに取って、周囲の人へのせめてもの恩返しの思いであった。しかしながらその思いは悲しくも受け入れられず、ともかくも「余計なことだけはしてくれるな」という言葉を生来の素直さで実践してきた。


 師の窮状に自分にできないことはないかと思案しなかった訳ではない。当然、彼は師のためにとあれこれと思索した。しかしながら、「先生に見限られたくない」という気持ちがあまりにも強まってしまった今の彼にとって、指示や許可のない行動がどれほど恐ろしいものかは推して知るほかはない。


 そんな彼に病の身を押して気をかけ、心を尽くしてくれる小さな師の言葉がどれほどの恵みであったかは本人でさえもその全容を計り知れないでいる。


――ようやく、少しは溶けただろうか。


 意識できることも少なく、頭痛と眩暈と皮膚の焼ける痛みに思考の大部分を奪われながらも、ドロシーは自分の肩口が湿っていくのを幾分の安堵を持って感じていた。この後のことを考える余裕などありはしなかったが、とにかくフィンの内から澱が自分の肩口に溶けて落ちていく今この時間が、不思議と愛おしかった。
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