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少年期 大学入学~生活編
(N29)虚の縁を撫でる ~サイドドロシー~
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ドロシーは、こんなにも訳の分からない状況は今までになかったと薄らぼんやりとする頭の中で考えていた。教務以外にも抱えている仕事はある。外の私塾での講演、知った先の工場へのスクロール納品に、出版社からのゲラへの赤入れ作業といくらでもすべきことは山積している。
寝ている場合ではないのにこの身はままならない。自分の身が自分の意思を離れて動いてくれないのがもどかしく、情けなく、ましてやフィンに余計な手間をかけてしまうこの重い肉袋が腹立たしかった。
あれだけ気を付けていたのに、数十年にわたって病気にだけはならないように頑張っていたのに。この身はとっくり、人間の生活に馴染んでいたと思っていたのに高熱のために何もかもがままならない。
腕が、足が、腹も頭も髪も、尋常ではない質量を持っているように感じる。肺活で胸を持ち上げるのも億劫で、こんな状態で何の仕事が出来るものかと自覚しながらも、それでも働かなければと気ばかりが焦る。
皮膚が布団と擦れるだけでヒリヒリと痛む。身じろぎするだけで体の芯が軋むようでもあった。世界が蛇行する、回転する。講義の進行、スクロールの納品、外部講演の件も連絡をしなくてはならない。フィンの勉強を見てやらなければ。初等教育さえ自学自習で済ませてきた彼に師がないことがどれほど不安であろう。私は、彼の保護者なのに、こんな……。
「今は食事する余力もないですよね。後で食べやすいものを用意しますから少しでもいいんで食べてくださいね」
フィンが氷嚢を当て、優しく頭を撫でてくれるのがわかった。
彼の手は少し冷えていて気持ちが良かった。彼がそこにいてくれるという事実だけで――何も解決していないし光明もないというのに、――不思議と心は安らいだ。
やがてその手が離れようとするのがわかって、あまりに名残惜しく――もっと、撫でて――などと幼子のようなことを思ってしまった。弱っているとはいえ甘えるようなことを思い、恥ずかしくなる。
思えば、エルフの里を出てからずっと、誰のそばにもつかずに、いや傍にいられないでここまで来てしまった。研究への邁進が、自分の抱える虚(うろ)を埋めてくれると信じて、ずっと思うままの研究ばかりをしてきた。
視力を向上する目薬、聴覚を過敏にする軟膏、嗅覚を発達させる香薬。少しずつでも積み重ねた分だけ形になっていく成果は心地よかった。
しかし、虚は空いたまま。一時の充足では渇きが一層酷くなるばかりで、ますます研究にのめり込んでいった。
気が付くと、友と呼んでくれた人たちさえもいなくなっていた。
エルフの森からこのロンゴミニアドに導いてくれた使節団の人たちは皆、老いたり事故に遭ったり、魔獣討伐に失敗したりと各々の理由によって皆いなくなってしまっていた。
虚は、どこまでも、際限なく深く暗く広がるようであった。
ふと、汗で重くなった髪を掻き分けて心地よい冷たさが頭部に触れたのがわかった。彼の小さな手に相違なかった。
魔力が流れているのがわかった。わざわざ自分の手を冷化させているのが触れた肌から伝わる。そんなことをすれば疲労感も指先の冷たさも大変だろうに。
「そんな無理をしないで」
そう止めるべきだとわかっている。起き上がって仕事に取りかかるべきだともわかっている。ただ、フィンの手から伝わる心地よさが行動の一切を許してくれない。
頭の手を添えられる。ただそれだけのことで、心細さも、明日への不安も、脳裏を埋め尽くす夥しいまでの情報が輪郭を解いて行く。
やがて、自分の意識が意識の縁から布団の底へと沈んでいく感覚を最後に皆わからなくなった。
寝ている場合ではないのにこの身はままならない。自分の身が自分の意思を離れて動いてくれないのがもどかしく、情けなく、ましてやフィンに余計な手間をかけてしまうこの重い肉袋が腹立たしかった。
あれだけ気を付けていたのに、数十年にわたって病気にだけはならないように頑張っていたのに。この身はとっくり、人間の生活に馴染んでいたと思っていたのに高熱のために何もかもがままならない。
腕が、足が、腹も頭も髪も、尋常ではない質量を持っているように感じる。肺活で胸を持ち上げるのも億劫で、こんな状態で何の仕事が出来るものかと自覚しながらも、それでも働かなければと気ばかりが焦る。
皮膚が布団と擦れるだけでヒリヒリと痛む。身じろぎするだけで体の芯が軋むようでもあった。世界が蛇行する、回転する。講義の進行、スクロールの納品、外部講演の件も連絡をしなくてはならない。フィンの勉強を見てやらなければ。初等教育さえ自学自習で済ませてきた彼に師がないことがどれほど不安であろう。私は、彼の保護者なのに、こんな……。
「今は食事する余力もないですよね。後で食べやすいものを用意しますから少しでもいいんで食べてくださいね」
フィンが氷嚢を当て、優しく頭を撫でてくれるのがわかった。
彼の手は少し冷えていて気持ちが良かった。彼がそこにいてくれるという事実だけで――何も解決していないし光明もないというのに、――不思議と心は安らいだ。
やがてその手が離れようとするのがわかって、あまりに名残惜しく――もっと、撫でて――などと幼子のようなことを思ってしまった。弱っているとはいえ甘えるようなことを思い、恥ずかしくなる。
思えば、エルフの里を出てからずっと、誰のそばにもつかずに、いや傍にいられないでここまで来てしまった。研究への邁進が、自分の抱える虚(うろ)を埋めてくれると信じて、ずっと思うままの研究ばかりをしてきた。
視力を向上する目薬、聴覚を過敏にする軟膏、嗅覚を発達させる香薬。少しずつでも積み重ねた分だけ形になっていく成果は心地よかった。
しかし、虚は空いたまま。一時の充足では渇きが一層酷くなるばかりで、ますます研究にのめり込んでいった。
気が付くと、友と呼んでくれた人たちさえもいなくなっていた。
エルフの森からこのロンゴミニアドに導いてくれた使節団の人たちは皆、老いたり事故に遭ったり、魔獣討伐に失敗したりと各々の理由によって皆いなくなってしまっていた。
虚は、どこまでも、際限なく深く暗く広がるようであった。
ふと、汗で重くなった髪を掻き分けて心地よい冷たさが頭部に触れたのがわかった。彼の小さな手に相違なかった。
魔力が流れているのがわかった。わざわざ自分の手を冷化させているのが触れた肌から伝わる。そんなことをすれば疲労感も指先の冷たさも大変だろうに。
「そんな無理をしないで」
そう止めるべきだとわかっている。起き上がって仕事に取りかかるべきだともわかっている。ただ、フィンの手から伝わる心地よさが行動の一切を許してくれない。
頭の手を添えられる。ただそれだけのことで、心細さも、明日への不安も、脳裏を埋め尽くす夥しいまでの情報が輪郭を解いて行く。
やがて、自分の意識が意識の縁から布団の底へと沈んでいく感覚を最後に皆わからなくなった。
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