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少年期 大学入学~生活編
(N27)知らない表情
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魔石を光源にしたカンテラの光は温かさがあるようでフィンは好きだった。
大学に籍を置きしばらく。日中は講義に出席し、業後は生活上の雑事を片し、夜更けになると魔石に灯を燈す。朱の灯りはほとほととドロシーの書斎を照らす。
フィンはドロシーの机とは別に誂えられた丸机を与えられた。毎晩、ここで二人向かい合って座ってひととき勉強するのが習慣化していた。
ドロシーはスクロールの作成をしている。彼女は研究するばかりでなく、外部から特注のスクロールを開発、納品もしているのだという。恐らくは自分の机で、あるいは部屋の壁際にあるドラフターを使う方が作業は円滑であろうと思われる。かかわらず、わざわざフィンの目の前で作業するのは、彼が勉強に詰まったときにすぐに助け舟を出すための心配りであった。
「――勉強は、楽しいですか?」
ドロシーは背中を丸めてスクロールに紋様を万年筆でザリザリと書き込みつつ、そう問いかける。
「はい。先生のおかげで」
師のティーカップが空いているのを見てポットから茶を注ぐ。カンテラの光を受けて、茶の赤い光沢は一層輝いて見える。ポットの口から最後の一滴を落とした。
「先生。お茶、入れてきましょうか?」
「いえ、もう時間も遅いですしこの一杯が空いたら切り上げましょう。ありがとうございます」
ドロシーは顔を上げると背筋を伸ばしてからティーカップに口を付けた。
「ふう……」
ドロシーは茶の渋みを楽しむようであった。夜更け近く、他所では見せない師の表情がフィンは好きだった。
フィンは机上の資料を眺めてみた。少し前までは読めなかった式も多少は見えるようになっていた。
「双方向から射出された液体を同質量ずつ混交して任意の方向に射出させるスクロール……ですか?」
資料と、書きかけのドロシーのスクロールを読み取り、その解釈が正解か尋ねてみた。
「その通りです、フィン。よくわかりましたね。よく学んでいますね」
ドロシーが机に手を突いて身を乗り出し、フィンの頭を撫でる。
師の賞賛が心地よい。フィンはまだカップに残っていたすっかりぬるまった茶を飲みほした。頬が緩んでしまうのが自分でもわかった。
ドロシーが手を引いて椅子に座りなおすと、「少し横着が過ぎました。失礼しました」と謝る。
細かなことを気にするものだといつも感じるが、その所作もまた先生らしいとフィンは感じた。
「そういえば」とフィンが切り出す。ドロシーがカップを口に寄せようとしたのを見て、もう少しだけでも話をしたいと、つい話はじめてしまった。
「そのスクロールは麓の工場に一緒に納品に行ったところのものですよね?」
フィンの魂胆を知ってか知らずか、カップをソーサーに置くとドロシーは「ええ」と返す。
「道は覚えられましたか? そのうちにフィンには一人で納品に行ってもらえればと思っています」
「地図さえあれば大丈夫ですよ。なんでしたらそのスクロールも僕一人で納品してきましょうか?」
一人で、と言ってしまってから「しまったな」とフィンは思った。この間納品した帰りに一緒に寄った甘味処のことを思い出していた。
苺を砕いて蜜に溶いたシロップをたっぷりかけた白玉は大層美味しかった。また、一緒に行きたいと思ったのであるが、
「こうして納品の用がないと麓まで足を運ぶ機会は少ないですからね」と、口の端に苺の種を付着させつつ言うドロシーの言葉を踏まえると、納品を一人でできるようになれば一緒にあの甘味処に寄るのは難しくなってしまう。それは困る。
しかしながら、ドロシーの負担を減らしたいとも間違いなく思っているフィンは難儀しつつも言葉を翻さなかった。頑張っていた。
実のところ、フィンは「一人でも納品できます」と言いたかったのではなかった。「スクロール作成、僕にもさせてもらえませんか?」と言いたかったのであるが、スクロール作成用のインクは非常に高級で、市場にあるものではないことをフィンは知っていた。インクは都度、ドロシーが試薬を仕入れて調合していた。試薬の調達方々手伝った時にその経費に驚いたものだった。
スクロール作成の理屈や構造は理解できている。実践すれば出来そうだとも思う。しかしながら出来るようになるまでの挑戦と失敗にあのインクを無為に消費するくらいなら、その他の雑事を引き受けてドロシーの負担軽減に努めるほかはないと確信していた。
ドロシーは俄かに微笑んで、「そのうち、ですよ」と言った。
フィンは安堵した。何故か、フィンは自分が何に対して安堵したのかがわからなかった。
――それにしても、とフィンは思う。研究とは途方もなく煉瓦を積み続ける作業に同じだと言っていたのに様子を見れば見ただけ世に役立っているように思えてならなかった。
「あの工場って薬品製造していますよね。確か農薬や一部の医薬品の製造、でしたっけ」
「ええ、その通りです。本当にフィンは物覚えが良いですね。それはとても良い技能です」
ドロシーは茶を一口含む。夜の学び舎は実に静謐で心が穏やかになる。
魔石を利用したカンテラの灯は火とは異なり揺らめくことはなく定量的な光量で辺りを明るめる。
フィンはカンテラの灯が好きだった。頭上から注ぐ光と異なり、低い位置から光を放ちいつもと異なる景色を見せてくれる。ドロシーと過ごす夜が心躍るものなのはカンテラの働きに依るところもあるのかも知れなかった。
「先生の行いが世を助け人を助けていると思うと本当に尊敬します。僕なんかにはとても真似できない……」
ドロシーは微笑んでいた。眉根を寄せ、少し困っているような、戸惑っているようなそんな微笑みだった。
その表情はフィンの胸を苦しく締め付ける。初めて見る表情であった。
「私は、フィン、貴方が思ってくれているほど、いえ、思ってくれているような立派なことはしてはいないのですよ」
言い聞かせるような調子で言う。ドロシーは紅茶をさらに、一口飲む。ソーサーにカップを置く音がいやに大きく聞こえる。それはなにも夜の静寂のためばかりではないように思われた。いつもより寂しげなドロシーの次の言葉を待つフィンの心が微かな呟きを逃すまいと耳を鋭くさせているのだ。
「向こうもそう思ってくれていれば幸いなのですが、という希望を込めてこのように表現するのですが……」とドロシーは長い前置きをする。
椅子の背もたれに深く寄りかかりながら、呟くように自嘲するようにそう言ったドロシーの表情はどこか疲れているような、あるいは張り詰めていた気が抜けたような具合であった。
もう一口、茶を飲んだ。部屋の空気が、フッと温かくなった。
「今ので最後の一口でした。今日はこれで切り上げましょう」
ドロシーが何を言おうとしたのか、何を伝えたかったのか。フィンはその中身が気にかかって仕方なかったが、先生が言うのをやめたのならば自分はまだ聞くべきときではないのだろうと解釈した。師がそう判断したのならば、今の自分では力になれないか、聞いたとて負担の軽減にもならない内容なのだろうと推察した。何よりも、師の言葉の調子が穏やかであるのに、有無を言わせない頑強さを含んでいるように聞こえた。
「この話は、またそのうちにしましょう。では片しましょうか」
ドロシーは丸机の上に広がっている資料やスクロール、書籍をひとまとめに重ねて自分の机の上に移した。物の場所を変えただけである。ドロシーの書斎にはそこかしこに書籍の山が連なっている。また、買ってきたままに魔石や魔術具、触媒らしきものも机の傍らに置いてあるままだ。
たまにオリヴァントが訪ねてくると「フィン君、少しは片付けるのを手伝ってあげなさいね」などと言いう。
フィンは、ドロシーの書斎の乱雑さが好きだった。机の上にあるものは今まさに取り掛かっている思考、床に散らばるものは思考に付随する要素で、本棚の高い位置にあるものは思い出さなくなって久しいもの。部屋の様子を眺めていると、少しは師のことが知られるようであった。
しかしながら、友の話は初めて耳にする。部屋のあらゆるところを見ても交友関係を示すものは見当たらない。そんなドロシーの交友関係に関わる発言はフィンには新規性の高いものであったが、同時に見せた彼女の表情が、迂闊に踏み込んではならないことを示していた。
――僕には僕にできることで先生の役に立つほかないんだ。
フィンは知らず下唇を噛みつつ、茶器の片づけに取り掛かっていた。
大学に籍を置きしばらく。日中は講義に出席し、業後は生活上の雑事を片し、夜更けになると魔石に灯を燈す。朱の灯りはほとほととドロシーの書斎を照らす。
フィンはドロシーの机とは別に誂えられた丸机を与えられた。毎晩、ここで二人向かい合って座ってひととき勉強するのが習慣化していた。
ドロシーはスクロールの作成をしている。彼女は研究するばかりでなく、外部から特注のスクロールを開発、納品もしているのだという。恐らくは自分の机で、あるいは部屋の壁際にあるドラフターを使う方が作業は円滑であろうと思われる。かかわらず、わざわざフィンの目の前で作業するのは、彼が勉強に詰まったときにすぐに助け舟を出すための心配りであった。
「――勉強は、楽しいですか?」
ドロシーは背中を丸めてスクロールに紋様を万年筆でザリザリと書き込みつつ、そう問いかける。
「はい。先生のおかげで」
師のティーカップが空いているのを見てポットから茶を注ぐ。カンテラの光を受けて、茶の赤い光沢は一層輝いて見える。ポットの口から最後の一滴を落とした。
「先生。お茶、入れてきましょうか?」
「いえ、もう時間も遅いですしこの一杯が空いたら切り上げましょう。ありがとうございます」
ドロシーは顔を上げると背筋を伸ばしてからティーカップに口を付けた。
「ふう……」
ドロシーは茶の渋みを楽しむようであった。夜更け近く、他所では見せない師の表情がフィンは好きだった。
フィンは机上の資料を眺めてみた。少し前までは読めなかった式も多少は見えるようになっていた。
「双方向から射出された液体を同質量ずつ混交して任意の方向に射出させるスクロール……ですか?」
資料と、書きかけのドロシーのスクロールを読み取り、その解釈が正解か尋ねてみた。
「その通りです、フィン。よくわかりましたね。よく学んでいますね」
ドロシーが机に手を突いて身を乗り出し、フィンの頭を撫でる。
師の賞賛が心地よい。フィンはまだカップに残っていたすっかりぬるまった茶を飲みほした。頬が緩んでしまうのが自分でもわかった。
ドロシーが手を引いて椅子に座りなおすと、「少し横着が過ぎました。失礼しました」と謝る。
細かなことを気にするものだといつも感じるが、その所作もまた先生らしいとフィンは感じた。
「そういえば」とフィンが切り出す。ドロシーがカップを口に寄せようとしたのを見て、もう少しだけでも話をしたいと、つい話はじめてしまった。
「そのスクロールは麓の工場に一緒に納品に行ったところのものですよね?」
フィンの魂胆を知ってか知らずか、カップをソーサーに置くとドロシーは「ええ」と返す。
「道は覚えられましたか? そのうちにフィンには一人で納品に行ってもらえればと思っています」
「地図さえあれば大丈夫ですよ。なんでしたらそのスクロールも僕一人で納品してきましょうか?」
一人で、と言ってしまってから「しまったな」とフィンは思った。この間納品した帰りに一緒に寄った甘味処のことを思い出していた。
苺を砕いて蜜に溶いたシロップをたっぷりかけた白玉は大層美味しかった。また、一緒に行きたいと思ったのであるが、
「こうして納品の用がないと麓まで足を運ぶ機会は少ないですからね」と、口の端に苺の種を付着させつつ言うドロシーの言葉を踏まえると、納品を一人でできるようになれば一緒にあの甘味処に寄るのは難しくなってしまう。それは困る。
しかしながら、ドロシーの負担を減らしたいとも間違いなく思っているフィンは難儀しつつも言葉を翻さなかった。頑張っていた。
実のところ、フィンは「一人でも納品できます」と言いたかったのではなかった。「スクロール作成、僕にもさせてもらえませんか?」と言いたかったのであるが、スクロール作成用のインクは非常に高級で、市場にあるものではないことをフィンは知っていた。インクは都度、ドロシーが試薬を仕入れて調合していた。試薬の調達方々手伝った時にその経費に驚いたものだった。
スクロール作成の理屈や構造は理解できている。実践すれば出来そうだとも思う。しかしながら出来るようになるまでの挑戦と失敗にあのインクを無為に消費するくらいなら、その他の雑事を引き受けてドロシーの負担軽減に努めるほかはないと確信していた。
ドロシーは俄かに微笑んで、「そのうち、ですよ」と言った。
フィンは安堵した。何故か、フィンは自分が何に対して安堵したのかがわからなかった。
――それにしても、とフィンは思う。研究とは途方もなく煉瓦を積み続ける作業に同じだと言っていたのに様子を見れば見ただけ世に役立っているように思えてならなかった。
「あの工場って薬品製造していますよね。確か農薬や一部の医薬品の製造、でしたっけ」
「ええ、その通りです。本当にフィンは物覚えが良いですね。それはとても良い技能です」
ドロシーは茶を一口含む。夜の学び舎は実に静謐で心が穏やかになる。
魔石を利用したカンテラの灯は火とは異なり揺らめくことはなく定量的な光量で辺りを明るめる。
フィンはカンテラの灯が好きだった。頭上から注ぐ光と異なり、低い位置から光を放ちいつもと異なる景色を見せてくれる。ドロシーと過ごす夜が心躍るものなのはカンテラの働きに依るところもあるのかも知れなかった。
「先生の行いが世を助け人を助けていると思うと本当に尊敬します。僕なんかにはとても真似できない……」
ドロシーは微笑んでいた。眉根を寄せ、少し困っているような、戸惑っているようなそんな微笑みだった。
その表情はフィンの胸を苦しく締め付ける。初めて見る表情であった。
「私は、フィン、貴方が思ってくれているほど、いえ、思ってくれているような立派なことはしてはいないのですよ」
言い聞かせるような調子で言う。ドロシーは紅茶をさらに、一口飲む。ソーサーにカップを置く音がいやに大きく聞こえる。それはなにも夜の静寂のためばかりではないように思われた。いつもより寂しげなドロシーの次の言葉を待つフィンの心が微かな呟きを逃すまいと耳を鋭くさせているのだ。
「向こうもそう思ってくれていれば幸いなのですが、という希望を込めてこのように表現するのですが……」とドロシーは長い前置きをする。
椅子の背もたれに深く寄りかかりながら、呟くように自嘲するようにそう言ったドロシーの表情はどこか疲れているような、あるいは張り詰めていた気が抜けたような具合であった。
もう一口、茶を飲んだ。部屋の空気が、フッと温かくなった。
「今ので最後の一口でした。今日はこれで切り上げましょう」
ドロシーが何を言おうとしたのか、何を伝えたかったのか。フィンはその中身が気にかかって仕方なかったが、先生が言うのをやめたのならば自分はまだ聞くべきときではないのだろうと解釈した。師がそう判断したのならば、今の自分では力になれないか、聞いたとて負担の軽減にもならない内容なのだろうと推察した。何よりも、師の言葉の調子が穏やかであるのに、有無を言わせない頑強さを含んでいるように聞こえた。
「この話は、またそのうちにしましょう。では片しましょうか」
ドロシーは丸机の上に広がっている資料やスクロール、書籍をひとまとめに重ねて自分の机の上に移した。物の場所を変えただけである。ドロシーの書斎にはそこかしこに書籍の山が連なっている。また、買ってきたままに魔石や魔術具、触媒らしきものも机の傍らに置いてあるままだ。
たまにオリヴァントが訪ねてくると「フィン君、少しは片付けるのを手伝ってあげなさいね」などと言いう。
フィンは、ドロシーの書斎の乱雑さが好きだった。机の上にあるものは今まさに取り掛かっている思考、床に散らばるものは思考に付随する要素で、本棚の高い位置にあるものは思い出さなくなって久しいもの。部屋の様子を眺めていると、少しは師のことが知られるようであった。
しかしながら、友の話は初めて耳にする。部屋のあらゆるところを見ても交友関係を示すものは見当たらない。そんなドロシーの交友関係に関わる発言はフィンには新規性の高いものであったが、同時に見せた彼女の表情が、迂闊に踏み込んではならないことを示していた。
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