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インサイド

ウィリック・コートアについて

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ウィリック・コートアは不幸で、不運で、哀れな、選ばれた男だった。
彼は偉大で凶悪なものに選ばれてしまった。
ウィリックは気の弱いところはあるが温厚で大人しく優しい、比較的地味な青年だった。
ただ彼は時々、彼にしか見えないものに怯え、側からみたら狂っているように見えるような行動をとった。
ある夜の数人の仲間との帰路では、通り過ぎる時には普通のレンガの壁だったのに、ふと振り返ってもう一度みると巨大な穴があいていて、その中心には縦長の瞳孔をもつ黄緑色の瞳が彼を見ていたのだ。それはぎょろりとあたりを見渡し、彼を見て笑うように目を細めてから、瞳を閉じて闇に溶けた。
それを見たウィリックは青ざめた顔で目を見開き、震えていた。隣を歩いていた彼が突然消えたので、引き返してきたカーミーがどうしたのと声をかけると、
「君にはあれが見えないの?」
と細い声で呟いて、はっと何かに気づいたように突然走りだして道の先に消えた。前を歩いていた仲間が困惑したようにおいと叫んだのも全く聞こえていないようだった。
驚いたことに、屋根の上を何かから逃げるように走るウィリックを見たという者もいた。
そのように奇怪な行動をする彼がなぜ仲間はずれにされたり、気味悪がられて人に避けられたりしないのかには幾つかの理由が考えられるが、一つ必ず言えるのはアリム嬢──アリム・クラリットの存在だ。
彼女は町でも有名な名家の娘で、綺麗で気が強く、町の若者の中でも影響力のある、派手な一団の中心的存在だった。
アリム嬢はウィリックを特に気に入っていた。彼女には取り巻きや言い寄る男が数多くいたが、ウィリックは彼女に対して興味がなさそうだったのが新鮮だったのかもしれない。そうでなくても彼は派手ではないが端正な顔立ちだったし、勉強はそれなりにでき、運動にいたっては普段ののんびりとした動きとは裏腹に常人より遥かに出来たので、彼が地味で、派手なアリム嬢と接点も似たところもなかったとはいえそこまで不思議なことではなかった。
アリム嬢がウィリックに言いよっていると噂になっても、ウィリックはいつものように優しく接しながらも必要以上には相手にしなかったのでそれも一時のことで、その後はみな二人がしばしは一緒にいても特に注意を払ったりしなくなった。
アリム嬢の存在のおかげで彼が比較的うまくやれていたというのは、彼女は不真面目なグループがウィリックがおかしな行動を取ることを理由に、日頃何気無く目立って気に食わない彼をからかったり苛めようとするのをやめさせていたということだ。不真面目なグループも、金も力もあり、人気のアリム嬢に強く言われては表立ってはなにもできなかったのだ。ウィリックはそれを知らない。勿論ウィリックの周りの仲間も不審に思わないことはなかったが、普段の彼の人の良さと温厚さから、からかったり付き合いをやめたりすることは出来ず、皆心配はしていても見て見ぬふりをするように振舞っていた。もっとも、一番なにもなかったかのように振る舞うのは彼自身だったが。




ウィリックは塀や窓枠を伝い、三階建てのの廃墟の2階の崩れた壁から暗い建物内に入り、不安げに中を見渡した。
奥に、動くものがいた。
巨大な影。
ゆっくりと、その影に近づく。
崩れた壁の隙間から入る僅かな日光を受けて、赤い鱗が湿ったような光沢を放っていた。
ウィリックは巨大な影まで5mほどのところまで近づき、彼よりだいぶ上で彼をじっと見下ろす二つの瞳と対峙した。
黄緑色に光る一対の瞳は一つ瞬きをし、ゆったりとした動作でウィリックの眼前までおりてきた。正確には、赤い鱗をもつそれが、首をもたげたのだ。
ウィリックは手を伸ばせば触れられそうなほど近くにあるそれらを見つめた。不安は消え、心は異常なほど静穏だった。
影はまた一つ瞬きをして、頭を元の位置に戻した。
少し間をおいて、唐突に、影が不思議な声、不思議な言葉でウィリックに囁いた。
「おまえはいま、何を思いながら我を見ている?」
言葉はウィリックの頭の中で何重にも響いた後、やがて理解のできる言葉に変わっていった。
「何も」
ウィリックは無表情に答えた、
光る瞳が僅かに細められた。
「ではこれは現実か、それともおまえの幻覚か?」
「…どちらでもない」
影は更に目を細めた。
「そうか…おまえはいま、逃げているのか。思考を止めて、ありえないと耳を塞いでいるのか…」
影はまたウィリックの顔に瞳を…顔を近づけた。赤い鱗に覆われた顔。
「いい加減に、目を覚ませ」
ウィリックの顔に、生暖かい、嗅いだことのない匂いの風が当たった。そして眼前で、赤い鱗がゆっくりと裂けていく。
血のように赤い舌。並んだ、白く鋭い牙、牙、牙。
「う…うわああぁっ」
ウィリックの顔に瞬時に恐怖が戻った。額には汗が浮かんでいる。
思わず後ろに倒れるように腰をつき、そのまま数歩後退る。
はっと前をみると、影は消えていた。目の前にはただ暗い空間があるだけだ。
荒く息をはくウィリックの頭に、再び声が響いた。
『いや…先ほどのはもう一人のおまえなのか……まあいい。取り敢えず、目は覚めたようだな。ウィリック、お前は本当に』
声は押し殺したように笑った。
『面白くて、興味が尽きない』
そうだ、と声は依然少し笑いながら続けた。
『おまえにひとつ、贈り物をしようか……のろまなおまえが、我と、おまえ自身を理解するのに役立てば良いがな…』
声は徐々に消え始めた。
『それからもう一つ…』
右耳に、吐息がかかった。
『おまえは狂ってなどいない』
声は最後に低く囁いて消えた。
後には目を見開き、肩で粗く息をするウィリックのみが残された。




終業のベルが鳴り、生徒たちは教室を出て各々ロッカーに荷物をしまったり友人と話し始めたりしていた。
今日は模試だけの日なので、学校は4時限目で終了だった。
ウィリックはベルがなるのとほぼ同時にカバンを肩にかけると早足に教室を出た。
(このままだれにも会わずに学校を出られれば…)
階段をおり、正面玄関へと続く廊下に出たまでは良かった。が、玄関の方から聞き慣れた声が幾つか聞こえてきて、はっと立ち止まる。
階段まで戻り、角に体を隠しながら目を凝らす。
(ラックにカーミー、クース、ルジアナもいる…)
4人にウィリックともう一人を加えた6人は、中学から仲の良いラック、カーミー、ウィリック、ルジアナに新たに気のいいクースと無口だがノリの良いジェフが加わった一番よく遊ぶグループだ。
(あれは絶対遊ぼうって誘われるな)
今は遊ぶどころではなかった。
ウィリックは階段を登って二階に引き返した。裏口側の階段から降りようと考えたのだ。
だが丁度教室の前を通りかかった時、横から声をかけられた。ジェフだ。
「よう。…多分玄関に皆いるぞ」
(うー、タイミング悪いな…)
ウィリックは内心少し焦りながら挨拶を返した。
「あー、今日ちょっと用があるんだ。遊ぶようならごめんいけないって皆に伝えといてくれる?」
悪い、と小さく手を振りながら、そのままジェフが何かを言う前に小走りで裏口側の階段に向かった。
階段の一段目に右足を置いた時、階下から甲高い笑い声が聞こえてきた。
(あーもう…)
ウィリックは頭をかいた。
あの笑い声はアリムだ。
アリムは、美人で派手で、良くも悪くも目立つ、校内でも街でも若者の中では力をもった女の子だった。気まぐれな女王様としても有名で、ウィリックは特に嫌ってもいなかったが、これといった良いイメージももっていなかった。
ウィリックが全く関わりのなかったアリムと始めて話したのは、去年の体育祭の後だ。校門を出たところで仲間数人を連れたアリムに突然声をかけられ、プレーやら何やらを褒められて、グループに入らないかと誘われた。理由はよく分からないが、なぜか気に入られたらしかった。嬉しいけど僕は君たちのようにおしゃれでもないし、などど丁寧に曖昧に断ると、存外あっさりと引き下がり、じゃまた明日ね、と笑顔で愛想良く手を振り去っていってしまった。それでよく分からない縁もお終いかと思っていたら、次の日からアリムは元々仲が良かったかの如くウィリックに対し馴れ馴れしく振舞ってきた。周りの目、とくにアリムの取り巻き達の目も気になるし、少ししつこいところもあるが、特段悪い気もしないので、それなりに、こちらからは寄らずでも感じよくといった感じで今日まで来ていた。
(今行ったら捕まるな…今はちょっと困る…)
最近アリムは熱心にウィリックを遊びに誘ってくる。いつものグループといないとなると、きっと強引にでも引っ張って行かれるだろう。
(やっぱり渡り廊下を通って別館に行こう…。今なら誰もいないだろうし)
階段を上がり、すでに人気のない他学年の教室の前を通って渡り廊下をめざす。もうほとんどの生徒は下校してしまって、廊下の電気も消え、静かで少し暗い。











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