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一章
2 35日、残像
しおりを挟む架委は私に最も近かった。
“最も”と理由なく言い切れるくらいに。
1つでもよかったのではないかと思えるくらいに。
気を抜いたら混ざり合ってしまうほどに。
架委は私を知っている。
私は架委を知らない。
カーテンが静かに風を受ける朝。
電子ホワイトボードに文字を書きつける小気味良い音が響く教室にて。
教授と手元の液晶を交互に見つめる子供たちの呼気は密やかに眠気を帯びている。
十分な日光が広々とした教室を白く暖かく満たす。
揺らぎがほとんどない、シンプルで、安心感のある、つまらない空間。
どの授業もほとんど変わらない。
私達は穏やかに、素直に教えを吸収する。
「はい」
カン、と教授がピリオドを打つ音が響く。
「ここまでの15の定理及び公式を用いて、冒頭に述べた現象を説明して行きます。ここまでで何か質問は」
私は欠伸をかみ殺す。
生徒が1人、手を挙げる。
「最後の公式の密度nは公式6のnとは異なる物質についての状態値を表していると考えて良いですか」
「そうだね、公式6では…」
シンプルで、安心感のある、つまらない空間。
つまり、つまらない空間。
シャープペンシルが淡々と回る。
校舎はどこもかしこも広々と白い。
清掃が行き届き、部屋の隅までもが清潔感を主張する。柔らかく威圧的な白。
食堂も同じ。
ナンバーを払いパンとサラダを受け取る。
友達達は0と5のつく日の授業を午後遅くに詰めていてまだ学校にいない。
私は時々何となく朝一番の授業を取る。
昨日もなぜ今日一限を受けるのかと問われたが、興味がある授業なのだと嘘をついた。
皆も待ち合わせて朝食でも食べているのだろうか。
何人かはまだ寝ているに違いない。
8時前は気だるい。
まだ二限が行われている時間なので食堂の生徒は疎ら。
黙々と食す。
ふと視線を感じ、フォークを動かす手を止めた。
私のちょうど正面、5つ離れた長机で、同様にパンとサラダを食す人がいる。
その人がまた顔を上げた。
目があった。
顎まで真っ直ぐな髪を伸ばした人だ。
首元の広く開いたシャツを着ている。
シャツから伸びる白い首が印象的。
互いにフォークを持ち見つめ合って静止。
縁が編まれていくような知らない感覚。
それはまだ危うく、儚い。目をそらしたとたんに一切の痕跡を残さず消えてしまう、そんな予感がある。
軽く会釈してみる。
相手は1つ瞬きをして、恐る恐るといった感じで会釈。
静止。
…
私達は再びパンと向き合う。
何事も無かったかのように。
風のない涼しい朝。
授業開始前、子供達の雑談が泳ぐ教室にて。
窓近く、後方席に座りノートを広げる。
取り出した消しゴムが手から溢れ、1つ跳ねて長机の向こうに姿を消した。
覗き込んだが見当たらない。
溜息。
腰を浮かしたとき、右から手が伸びてきた。
白い手のひらに消しゴム。
「あ、りがとう」
「いえいえ」
真っ直ぐな髪が彼の微笑みで揺れる。
つられて私も微笑んでしまう。
食堂の時と同じように首のあいた白いシャツ。
「この前もこの時間の授業をとってたね。そして、食堂でパンを食べてた」
何気ない調子で彼は言った。
「そちらも。パンを食べてた」
私の言葉に、彼はふわりと頷く。
「会釈がなんとなく嬉しかった。隣いい?」
「もちろん。どうぞ」
彼は荷物を隣の椅子に置き、ノートを広げる。
「私がこの前の授業に出ていたのを、なぜ知っているの」
教室は広い。偶然覚えていたのだろうか。
「それは」
彼は肘をついた右手にもたれて私を見た。
「見てたから」
何を。
私を?
「なぜ?」
教授が教室に入ってきた。
彼の目がなにげなく教授を追う。
「なんでだろう」
彼は心底不思議だ、という顔をして、ふと首を傾げた。
縁の始まりは密やかに、揺るぎなく編まれた。
行き先は知らない。
止める術は、昔に沈んだ。
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