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『第三部 因果と果報』 救いの代償
28◀◀雨が止まない 1
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「結婚しよう」
沙稀はそう言った。
妊娠したと恭良が知ったのは、沙稀に告げる一週間前。
どうしたらいいのかわからず、誰にも相談できず。沙稀に告げるのを迷うほど、知らせるまでは怖かった。
大事な話があると喫茶店に呼ぶのが精一杯で。会って対面で座っても、しばらくは動けないほど緊張して。
診断結果の用紙を差し出すのがやっとだった。沙稀が何と言うかが怖くて怖くて、恐る恐る視線を上げた。
沙稀は穴の開きそうなほど、用紙を凝視していた。そうして、視線が合ったと思った刹那、右手を両手で包まれる。
「産んでほしい」
右手はしっかりと包まれ、それは想いの深さのようで。沙稀はいつの間にか幸せそうに微笑んでいる。
ずっと迷っていたのに、伝えて喜ばれたら違う気持ちがこみ上げてきた。そして、沙稀が実現しない夢物語を言ったのだ。
恭良にとっては、一生聞けないと思っていた言葉だった。
それでも、もし沙稀から聞けたら、すごくうれしいだろうと何度も想像したことはある。
想像して、舞い上がった言葉だったたのに──実際に聞いたら、なぜかまったく違う感情がこみ上げてきた。
でもその感情は、恭良にはどう理解していいのかわからなかった。
心がバラバラになりそうな恭良とは対象的に、沙稀はこれまでにないほど喜んで──涙を浮かべている。
けれど、沙稀がひどく辛そうに頬を腫らしたとき、あの涙は喜びだけではなかったと気づいてしまった。
痛々しい頬や目元だったのに、恭良を見れば沙稀は微笑んで『手を握れば痛くない』と言った。
沙稀は傷が完治するまでいてくれると思っていた。なのに、恭良に言わず、傷が完治する前に家を再び出て行った。
長兄に問いかけられ──『誰か』に支配されたような感覚に陥った。
階段をポツポツと降り、自身の奥深くに棲まう『誰か』がいると心がざわめいた。
いつも長兄は邪魔をすると、心のどこかで思っていた。なのに、邪魔をしていたのは誰かと走馬灯のように数々の記憶が飛び交う。
そうして、恭良は初めて後悔したのだ。──兄の言葉に、従っておけばよかったと。
『もう来ては駄目だ』と告げられたあの日に、従えたらよかったのだと。
痛々しい傷を思い出し、『これでよかったのか』と悔いた。
幸せと笑う笑顔を思い出し、苦しくて苦しくてたまらなくなった。
ああしたのは誰だと考え、謝りたくなった。
幸せいっぱいに告げられた言葉に、その言葉の重さに、耐えられなくなってしまった。
それは許されなくて、してはいけなくて──あんなに幸せがあふれていたのに、バラバラと崩れて。その破片は、幸せの絶頂のはずだったとき理解できなかった感情を浮き彫りにした。
これからどうしたらいいのか、まったくわからなくなってしまった。
始まりは、一昨年の夏祭りだった。
誰よりも仲良くしてくれた人が家からいなくなって四年以上。恭良にしてみれば、またこれまでのように仲良くできるきっかけがほしかった。
寂しかったのだ。
飛び級が決まり、すぐに家を出た二番目の兄。
家にいたやさしい人がいなくなって、何週間も経たずに恭良は何度も学校近くの寮を訪ねた。
すると、決まって兄はなぜか悲しそうに微笑み──恭良にはそれが、誰かを待っていたように感じた。
勉強を教えてほしいと言えば、家にいたころと変わらず教えてくれ──夕方になれば『遅いから』と家の前まで送ってくれる。
「沙稀兄様も……」
上がっていけばいいのにと恭良が言う前に、
「元気でね」
と、兄は決まって頭をなでた。そうして、そっと恭良の背を押す。
一歩前に足を出した恭良が、
「またね」
と振り返って手を振っても、兄は無言で手を振り、恭良が入って行くのを見守っていたものだ。
勉強に疲れて寝入ってしまったある日、日がとっぷり暮れていて。そのまま泊めてはくれたが、
「もう来ては駄目だ」
と朝の別れ際に言われた。
眉間のしわに驚きショックを受け、学校に行ったが何度も泣きそうになった。
それから枕を濡らす日々を過ごしたが、寂しさに耐えかねて恭良はまた兄の寮を訪ねるようになる。
連日の留守が続き、行き違いなら仕方ないと肩を落として帰宅したこと数回。ただ、運良く帰宅時間と重なったのか、遭遇することができて。
「もう来ちゃ駄目だって……言ったでしょう?」
その表情は悲しげで。どこか寂しそうに見えたから、恭良は『ごめんなさい』と笑った。
一度会えたら、二度、三度と自然に重なっていき、一年が終わろうとしていた。
年末に帰ってくるのか、誕生日に帰ってくるのか、恭良が矢継ぎ早に質問をしても、
「どうだろうね。帰れないと思う」
と兄は答える。
「卒業したら?」
続けて恭良が聞いても、ただ微笑むだけで──恭良は『帰って来ない』と飲み込んだ。
卒業式は、在学生が自由に動ける時間には終了していた。恭良は一目散に駆けつけたが、探す姿はなかった。
──どこか遠くへ行ってしまうのかもしれない。
なぜかそんな不安が浮かんで、離れたくないとじんわり涙があふれた。
帰宅し、恭良は母にそれとなく兄の今後を聞く。すると、
「パティシエの見習いで学校に残れるようになったと聞いているわよ」
と母は言い、いなくならないと安堵した。
けれど、恭良が立ち入れる区域は限られていて。同じ敷地内にいるとしても、探すのは困難だ。
恐らく、パティシエなら、病院内の軽食がとれる場所にいるだろう。けれど、病院内には闇雲に立ち入れない。
いてもたってもいられなくなった恭良は、まず立ち入れる学生用の食堂や売店から探してみようと計画する。見習いであれば、病院内だけに留まっているとも限らない。
半年が経ち、恭良は兄を探しきれずにいた。定期的に兄の寮を訪ねるが、仕事が忙しいのか時間が合わないのか、学校の帰りには会えなくなった。
結局それから二年間会えず。恭良は自身の誕生日が近づいたとき、思い切った行動に出る。
それが、一昨年の夏祭りの日。
夏祭りは人で賑わう。
通学時の混雑を考慮し、克主付属学校は休学になる。恭良はそれを利用して、兄を訪ねた。
呼び鈴を鳴らすと玄関はすぐに開いて、出てきた兄は目を見開く。
長い髪がきれいで、見とれそうになった。だが、大きく開かれた瞳に自身の姿がすっぽり入っていると思えば、何かを言わなくてはいけない気になった。
「あのね、今日は夏祭りなんだって! 一緒に行かない?」
大好きな兄を誘うために気合いを充分入れてきた。かわいい浴衣をしっかり着付けてもらって、かわいい髪飾りが似合うように髪型もセットしてもらった。
でも兄に、もし彼女がいれば──化粧の似合う、年頃の女性だ。そんな人に適うはずないと承知している。身長差もまだまだある。ちんちくりんな身の丈では、背伸びをしても、到底大人には届かない。
けれど、いいのだ。恭良は妹なのだから。妹として兄の片隅に存在できていれば、それでいい。
このままでは兄の中から消えてしまいそうで、それがどうしようもなく悲しいのだ。
『行かない』と言われたらどうしようと、はやくなる鼓動が不安を募らせる。気合いを入れて来たと一目瞭然なのに、断られたら立ち直れる自信なんてない。
「行く」
短い返事を聞いて、心底ホッとした。恭良が玄関に一歩入ると、すぐに兄が屈んで玄関の鍵をかけた。
うれしくて抱きついてしまおうかと思ったのも束の間、すっと離れた姿はすぐに後ろ姿になった。
つい、『あ』と声が出しそうになったが飲み込む。よくよく見れば、兄は外出するような格好をしていない。
身支度をするんだろうと大人しく待つと決める。すると──。
「送っていく」
沈んだ兄の声は、恭良の心も沈ませた。
やっぱり、来ては迷惑だったのか。
やっぱり、嫌われてしまったのか。
そんなことが頭をぐるぐると回って、何をしてしまったんだろう、どうしたら許してくれるのだろう、いつからだったのだろうと疑問がたくさんたくさん生まれてくる。
ポツリポツリと涙が流れていったが、また迷惑をかけてしまうと声を押し殺す。
それなのに、兄に泣いていると気づかれた。
呆れられるだろうと顔を覆う。
近づいてくる兄の気配がして、
「ごめんなさい」
と繰り返す。言える言葉が、これしか浮かばなくて。
ふと、頭をふわりと撫でられた。
「恭良は何も悪くない」
見上げた兄は困ったような表情で、『ごめん』となぜか謝り、顔を洗うよう勧めてきた。
勧められるがまま洗面台に立てば、それはそれはひどい顔をしていて。こんな顔を兄に見られたと思えば急に恥ずかしくなり、洗っては鏡を見て──何度も繰り返した。
「かわいい顔を台無しにさせちゃったね」
着替えた兄が鏡越しに微笑んでいる。そして、
「行こうか、夏祭り」
沙稀はそう言った。
妊娠したと恭良が知ったのは、沙稀に告げる一週間前。
どうしたらいいのかわからず、誰にも相談できず。沙稀に告げるのを迷うほど、知らせるまでは怖かった。
大事な話があると喫茶店に呼ぶのが精一杯で。会って対面で座っても、しばらくは動けないほど緊張して。
診断結果の用紙を差し出すのがやっとだった。沙稀が何と言うかが怖くて怖くて、恐る恐る視線を上げた。
沙稀は穴の開きそうなほど、用紙を凝視していた。そうして、視線が合ったと思った刹那、右手を両手で包まれる。
「産んでほしい」
右手はしっかりと包まれ、それは想いの深さのようで。沙稀はいつの間にか幸せそうに微笑んでいる。
ずっと迷っていたのに、伝えて喜ばれたら違う気持ちがこみ上げてきた。そして、沙稀が実現しない夢物語を言ったのだ。
恭良にとっては、一生聞けないと思っていた言葉だった。
それでも、もし沙稀から聞けたら、すごくうれしいだろうと何度も想像したことはある。
想像して、舞い上がった言葉だったたのに──実際に聞いたら、なぜかまったく違う感情がこみ上げてきた。
でもその感情は、恭良にはどう理解していいのかわからなかった。
心がバラバラになりそうな恭良とは対象的に、沙稀はこれまでにないほど喜んで──涙を浮かべている。
けれど、沙稀がひどく辛そうに頬を腫らしたとき、あの涙は喜びだけではなかったと気づいてしまった。
痛々しい頬や目元だったのに、恭良を見れば沙稀は微笑んで『手を握れば痛くない』と言った。
沙稀は傷が完治するまでいてくれると思っていた。なのに、恭良に言わず、傷が完治する前に家を再び出て行った。
長兄に問いかけられ──『誰か』に支配されたような感覚に陥った。
階段をポツポツと降り、自身の奥深くに棲まう『誰か』がいると心がざわめいた。
いつも長兄は邪魔をすると、心のどこかで思っていた。なのに、邪魔をしていたのは誰かと走馬灯のように数々の記憶が飛び交う。
そうして、恭良は初めて後悔したのだ。──兄の言葉に、従っておけばよかったと。
『もう来ては駄目だ』と告げられたあの日に、従えたらよかったのだと。
痛々しい傷を思い出し、『これでよかったのか』と悔いた。
幸せと笑う笑顔を思い出し、苦しくて苦しくてたまらなくなった。
ああしたのは誰だと考え、謝りたくなった。
幸せいっぱいに告げられた言葉に、その言葉の重さに、耐えられなくなってしまった。
それは許されなくて、してはいけなくて──あんなに幸せがあふれていたのに、バラバラと崩れて。その破片は、幸せの絶頂のはずだったとき理解できなかった感情を浮き彫りにした。
これからどうしたらいいのか、まったくわからなくなってしまった。
始まりは、一昨年の夏祭りだった。
誰よりも仲良くしてくれた人が家からいなくなって四年以上。恭良にしてみれば、またこれまでのように仲良くできるきっかけがほしかった。
寂しかったのだ。
飛び級が決まり、すぐに家を出た二番目の兄。
家にいたやさしい人がいなくなって、何週間も経たずに恭良は何度も学校近くの寮を訪ねた。
すると、決まって兄はなぜか悲しそうに微笑み──恭良にはそれが、誰かを待っていたように感じた。
勉強を教えてほしいと言えば、家にいたころと変わらず教えてくれ──夕方になれば『遅いから』と家の前まで送ってくれる。
「沙稀兄様も……」
上がっていけばいいのにと恭良が言う前に、
「元気でね」
と、兄は決まって頭をなでた。そうして、そっと恭良の背を押す。
一歩前に足を出した恭良が、
「またね」
と振り返って手を振っても、兄は無言で手を振り、恭良が入って行くのを見守っていたものだ。
勉強に疲れて寝入ってしまったある日、日がとっぷり暮れていて。そのまま泊めてはくれたが、
「もう来ては駄目だ」
と朝の別れ際に言われた。
眉間のしわに驚きショックを受け、学校に行ったが何度も泣きそうになった。
それから枕を濡らす日々を過ごしたが、寂しさに耐えかねて恭良はまた兄の寮を訪ねるようになる。
連日の留守が続き、行き違いなら仕方ないと肩を落として帰宅したこと数回。ただ、運良く帰宅時間と重なったのか、遭遇することができて。
「もう来ちゃ駄目だって……言ったでしょう?」
その表情は悲しげで。どこか寂しそうに見えたから、恭良は『ごめんなさい』と笑った。
一度会えたら、二度、三度と自然に重なっていき、一年が終わろうとしていた。
年末に帰ってくるのか、誕生日に帰ってくるのか、恭良が矢継ぎ早に質問をしても、
「どうだろうね。帰れないと思う」
と兄は答える。
「卒業したら?」
続けて恭良が聞いても、ただ微笑むだけで──恭良は『帰って来ない』と飲み込んだ。
卒業式は、在学生が自由に動ける時間には終了していた。恭良は一目散に駆けつけたが、探す姿はなかった。
──どこか遠くへ行ってしまうのかもしれない。
なぜかそんな不安が浮かんで、離れたくないとじんわり涙があふれた。
帰宅し、恭良は母にそれとなく兄の今後を聞く。すると、
「パティシエの見習いで学校に残れるようになったと聞いているわよ」
と母は言い、いなくならないと安堵した。
けれど、恭良が立ち入れる区域は限られていて。同じ敷地内にいるとしても、探すのは困難だ。
恐らく、パティシエなら、病院内の軽食がとれる場所にいるだろう。けれど、病院内には闇雲に立ち入れない。
いてもたってもいられなくなった恭良は、まず立ち入れる学生用の食堂や売店から探してみようと計画する。見習いであれば、病院内だけに留まっているとも限らない。
半年が経ち、恭良は兄を探しきれずにいた。定期的に兄の寮を訪ねるが、仕事が忙しいのか時間が合わないのか、学校の帰りには会えなくなった。
結局それから二年間会えず。恭良は自身の誕生日が近づいたとき、思い切った行動に出る。
それが、一昨年の夏祭りの日。
夏祭りは人で賑わう。
通学時の混雑を考慮し、克主付属学校は休学になる。恭良はそれを利用して、兄を訪ねた。
呼び鈴を鳴らすと玄関はすぐに開いて、出てきた兄は目を見開く。
長い髪がきれいで、見とれそうになった。だが、大きく開かれた瞳に自身の姿がすっぽり入っていると思えば、何かを言わなくてはいけない気になった。
「あのね、今日は夏祭りなんだって! 一緒に行かない?」
大好きな兄を誘うために気合いを充分入れてきた。かわいい浴衣をしっかり着付けてもらって、かわいい髪飾りが似合うように髪型もセットしてもらった。
でも兄に、もし彼女がいれば──化粧の似合う、年頃の女性だ。そんな人に適うはずないと承知している。身長差もまだまだある。ちんちくりんな身の丈では、背伸びをしても、到底大人には届かない。
けれど、いいのだ。恭良は妹なのだから。妹として兄の片隅に存在できていれば、それでいい。
このままでは兄の中から消えてしまいそうで、それがどうしようもなく悲しいのだ。
『行かない』と言われたらどうしようと、はやくなる鼓動が不安を募らせる。気合いを入れて来たと一目瞭然なのに、断られたら立ち直れる自信なんてない。
「行く」
短い返事を聞いて、心底ホッとした。恭良が玄関に一歩入ると、すぐに兄が屈んで玄関の鍵をかけた。
うれしくて抱きついてしまおうかと思ったのも束の間、すっと離れた姿はすぐに後ろ姿になった。
つい、『あ』と声が出しそうになったが飲み込む。よくよく見れば、兄は外出するような格好をしていない。
身支度をするんだろうと大人しく待つと決める。すると──。
「送っていく」
沈んだ兄の声は、恭良の心も沈ませた。
やっぱり、来ては迷惑だったのか。
やっぱり、嫌われてしまったのか。
そんなことが頭をぐるぐると回って、何をしてしまったんだろう、どうしたら許してくれるのだろう、いつからだったのだろうと疑問がたくさんたくさん生まれてくる。
ポツリポツリと涙が流れていったが、また迷惑をかけてしまうと声を押し殺す。
それなのに、兄に泣いていると気づかれた。
呆れられるだろうと顔を覆う。
近づいてくる兄の気配がして、
「ごめんなさい」
と繰り返す。言える言葉が、これしか浮かばなくて。
ふと、頭をふわりと撫でられた。
「恭良は何も悪くない」
見上げた兄は困ったような表情で、『ごめん』となぜか謝り、顔を洗うよう勧めてきた。
勧められるがまま洗面台に立てば、それはそれはひどい顔をしていて。こんな顔を兄に見られたと思えば急に恥ずかしくなり、洗っては鏡を見て──何度も繰り返した。
「かわいい顔を台無しにさせちゃったね」
着替えた兄が鏡越しに微笑んでいる。そして、
「行こうか、夏祭り」
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