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『第三部 因果と果報』 救いの代償

20▶弟 8:望む言葉

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 羅凍ラトウは目を疑った。
「え」
 足早に最初に戻り、人が散っていく中掲示板を食い入るように見て──また最後まで見て立ち尽くす。

 どんなに見ても、沙稀イサキの名を見つけられない。けれど、留年したとは思えない。
 ──あり得ない。
 ない。絶対に。そう言い切れる。
 一年間そばにいて、その賢さにも触れてきた。だから、沙稀イサキに限って留年はあり得ない。

 絶句する。

 残る可能性が、ひとつあるからだ。
羅凍ラトウ?」
 哀萩アイシュウの声に足を止める。
「うん、一緒だったね。それはめちゃくちゃうれしい」
 うれしいときの表情でも、声のトーンでもないと自覚しても、どうにも繕えない。責めたくないが、心の嘆きを聞かないことにもできない。

 ぎゅっと強く手が握られた。

「見に行くんでしょ? 私も行く」
 首肯する。寄り添ってくれる哀萩アイシュウを、よりかけがえなく感じる。

 一学年上の──最上学年のクラス表を見に行けば、沙稀イサキの名をすぐに見つけた。
「飛び級で、特進級なんて……」
 どれだけ遠くに行ってしまったのかと胸が引き裂かれそうになる。
「頑張ったんだね」
 哀萩アイシュウが前向きな発言をした。
「だって、そうでしょ。私だったら目標にしても絶対に届かないと思うもん」
羅凍ラトウなら行けたかもしれないけど』なんて笑う哀萩アイシュウは、何てかわいらしく心和やかにしてくれるのか。
 哀萩アイシュウのお陰で、負の感情が浄化された。
「そうだね……。この結果を出そうとするなら、そう易々と言えないか!」
「おめでとうって言いに行こ」
「うん」
 今度は羅凍ラトウがキュッと手を握り返す。

 特進級のクラスは成績順だと聞いたことがある。本当なら、掲示板と同じように沙稀イサキは廊下側の一番前の席だ。
 一学年上の特進級のクラスに、ふたりで顔を覗かせれば予想した通りの場所に沙稀イサキは座っていた。
 沙稀イサキはふたりを見るなり目を見開き、ガタリと立ち上がった。それを見て、羅凍ラトウの口角が上がる。
「おめでとう」
 羅凍ラトウ哀萩アイシュウが口を揃えて言う。
 沙稀イサキのこわばっていた表情が苦笑いに変化した。
「ありがとう」
「言ってくれたら、お祝いの準備もできたんだけど」
「そうよ、もし飛び級ができなかった~ってなったって、『また楽しい一年を送ろう』ってパーティーになったわ」
『ねぇ』とふたりが顔を見合わせれば、
「ごめん」
 と、沙稀イサキが言う。ただ、それはそれでふたりの望む言葉でもない。
「最後の一年だと思えばさみしいけど」
「研究授業には来るんでしょう?」
『うん』と沙稀イサキが穏やかに返事をする。
「それに、特進級で卒業なら、先生見習いで学校ココに残る……って、ことでいいの?」
 羅凍ラトウが聞けば、『そうだね』と沙稀イサキは答えた。


 これまでと同じように研究授業ではともに過ごし、離れた分、学校の後に遊ぶことも増えた。
 羅凍ラトウとの絆は変わらなかったはずなのに、いや、羅凍ラトウはより深く親しくなれた一年だと思っていたのに。

 沙稀イサキは忽然と研究授業に来なくなった。
 授業担当の先生に訪ねると、数週間前に異動届けが出されたらしい。
 羅凍ラトウは授業中にも関わらず、寮へと駆けていた。
 訪ねると、居留守せず扉が開く。まるで羅凍ラトウが来ると知っていたかのように、
「どうぞ」
 と招かれた。
「お邪魔します」
 一言添えて、羅凍ラトウは部屋へ上がる。
 約束していたかのように、沙稀イサキは手際よくお茶を出してきた。
 言いたい言葉がいくつも浮かぶ。その中で、羅凍ラトウは攻撃的な言葉以外を選ぶことにした。
「勉強、大変なの?」
 聞かなくても、本当は知っている。沙稀イサキに限ってそんなことはない。
 それなのに。
「それなりにね」
 肯定とも取れる言葉が返ってきた。
 羅凍ラトウ沙稀イサキがわからなくなる。柔軟なようで、鉄壁な隔たりを感じる。
「パティシエになろうかと思って、異動したんだ」
『古武術は楽しかったんだけどね』と、本音とも建前とも受け取れる言葉を呟いた。
 沙稀イサキにとっては決定事項であって、相談することではなかったのだ。
 恐らく、飛び級すると決めたときも……そんな羅凍ラトウの沈んだ思考は、表情に表れていたのか。
「飛び級しようか、迷ったよ」
 沙稀イサキがポソリと言った。
「え?」
「でも、羅凍ラトウに相談したら……今度は羅凍ラトウが悩んでしまったでしょう?」
 言われた通りだ。
 特進級を目指すとして、頑張れば羅凍ラトウなら届いたかもしれない。けれど、哀萩アイシュウは飛び級事態が難しかっただろう。それに、環境を変えない方が哀萩アイシュウにいいと思っていた。
 羅凍ラトウ哀萩アイシュウは手離せない。沙稀イサキもそれを理解していたのだろう。
「余計な悩みを、増やしたくなかった」
 気遣いに心が痛む。沙稀イサキ羅凍ラトウを思い、ひとりで悩む方を選んでいたのだ。
「楽しい一年だったよ。ありがとう」
「勝手に俺たちのこと、終わりにしないで」
 感情のままに羅凍ラトウは言葉が出ていた。そうして、目を丸くする沙稀イサキに、またぶつける。
「友達だろ? 俺たち。これからは、愚痴でも悩みでも共有していけばいいじゃん」
 沙稀イサキは固まったように動かず。更に羅凍ラトウは続ける。
「知らないかもしれないけど、哀萩アイシュウって料理苦手なんだよね。大好きな人の手料理、俺も人並みに食べたいと思うし。俺たちも異動するかも」
 感情的に言ったのに、なぜか沙稀イサキは楽しそうに大笑いしていた。

 後日、羅凍ラトウ哀萩アイシュウに研究授業を料理に異動しないかと相談する。
哀萩アイシュウの手料理が食べたい」
 羅凍ラトウが率直に言えば、哀萩アイシュウは赤面しつつ、
「せ、生活に役立つって言えば、お母さんを説得できるかも」
 と言ってくれた。
「それに、古武術は好きでしていたわけでもないし……」
 とも。

 後日、哀萩アイシュウは無事に説得できたと言い、ふたりも研究授業の異動届けを出す。

「本当に来たんだ」
 沙稀イサキは驚きながらも、うれしそうで。羅凍ラトウは来てよかったと安堵した。

 料理を始めてみれば、想像以上に奥深く。失敗しても、うまくいっても面白くもあり。
 沙稀イサキがパティシエになった姿を想像して、かっこいいと羅凍ラトウは憧れ、いつの間にか同じ道を目指すようになっていた。

 哀萩アイシュウ凪裟ナギサを誘っていたらしく、研究授業に凪裟ナギサも来た。
 以前と同じように、また四人で楽しく過ごしていた……と、思っていたのに。



 沙稀イサキの卒業式に羅凍ラトウが駆けつけると、
「じゃあ」
 と、これまでの二年間を白紙に戻したかのように沙稀イサキサラリと別れを告げた。

 それでも、また会えると羅凍ラトウは信じた。


 卒業式の翌日、沙稀イサキに数日前振られたと凪裟ナギサが言った。
「そっか」
「うん」
 四人でずっと仲良くできればと思っていただけに羅凍ラトウもショックだったが、こればかりは仕方ない。
「好きな人がいるって……言ってた」
「そうなんだ」
 誰だろうと考えてみても相手は浮かばない。それに、そんな素振りは感じなかったから、言い訳だろうと解釈する。

 沙稀イサキがあんなに冷たい態度を取ったのは、凪裟ナギサを振り四人の関係性に変化が生じたからなのか。

 羅凍ラトウは納得しがたい。

 進級したときと同じだ。
 分かち合えたと思っていたのに、戻ってしまった。

 沙稀イサキのことを知っていたようで、これまで何も知らなかったのかも知れない。



 羅凍ラトウ沙稀イサキを知るのは、これから数年後のことになる。
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