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『第三部 因果と果報』 救いの代償
13▶弟 4:この世の祖
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『暁院』
誰もが知っている寺院の名前。その昔、『羅暁城』の末裔が創設したと言われる唯一の寺院だ。
元貴族の苗字には男性の場合は最後に『宮』、女性の場合は『院』がつく決まりがある。
けれど、元貴族で男系でありながら、『院』の字を男女問わず最後につける独自の習わしが暁院にはある。暁院のもとに生を受けた者は『暁院』という。
変わっている苗字だから真っ先に周囲の関心を集める──と、羅凍は思っている節がある。それに加え、父の美貌を受け継いだ。
物心ついたころから、父の人気は知っていた。だから、昔から何かと視線を集めてしまうのは仕方ないと割り切っていて、そういうものだとどこか諦めている。
ただ、初めて接したときニコリとも笑わなかったのが哀萩で。だからこそ、巻き込みたくないと思ったのかもしれない。
寺院を前にして、哀萩がその名を見上げて立ち止まっている。羅凍は、
「初めて来た?」
と、からかうように言った。
人々が信じるものは数多あれど、それらを意識せざるを得ない状況下と羅凍は理解したのだろう。
無宗教派が一般的な世の中で、全面的に個の信仰についての話題がタブーとなっている世の中で、寺院は世の風潮に逆らって公言しているのと同義だ。
「はるか遠い昔、多くの人々は女悪神を信仰していた。ただ、それが引き金になって、争いが起こった」
呟くように羅凍が言うと、哀萩が顔を向ける。
「別にね、俺はどの神を信じているわけではないけれど……何かにすがりつきたいという心を人が持っているってことも、否めないとも思っていて……拠り所っていうか、そういうのを担っているんだと俺は思っている」
まぁ、俺は跡取りではないけれどと、羅凍は苦笑いした。
「はるか昔に落ちたと言われている愛の女神はさ、誰よりもきっと、愛されたかったんだよ。だから、愛を求める悪魔の子の手をとってしまった。でも、愛の女神が落ちようとして、止めようとした戦いの神は……愛の神を言葉で表せないほど……」
哀萩が目を丸くしていると気づく。
「ああ、ごめん。知らないよね」
苦笑いする羅凍につられるように、哀萩も苦笑いする。
羅凍は話を戻す。
「うちが祀っているのは、女悪神じゃない。昔々の火種は、争いのもとになりかねないからね。……知っているかな。この世の祖と言われる女神、『愛の神』」
「この世の祖?」
「昔、絵本童話と呼ばれていた……女悪神とは別の、もうひとつの伝説……神話があったそうなんだ。ご先祖様の中には、実際に見た人物もいたって話だよ」
「へぇ……そう、なんだ……」
驚いたままの視線は、ぎこちなく羅凍から離れていった。
──やっぱり、嫌だったかな。
羅凍は無理に押し進まず、来た道を戻るかと握っていた手を緩め──ようとした、そのとき。
「その絵本童話って、今でもまだ……あるのかな?」
ポツリと言った哀萩の言葉に、羅凍は耳を疑った。
「え、ああ、そうだね。どうなんだろう。今度調べてみるよ」
言葉にしがたいうれしさが羅凍の表情からあふれ出る。再び手を引き歩き始めても、にやける顔を止められない。
チラリと振り向き哀萩を見ると、見慣れない景色に目を取られている。そんな眼差しに囚われ、足が遅くなったのだろう。哀萩が羅凍を楽しげなまま不思議そうに見た。
羅凍は足が止まりかけたと自覚し、家へと一直線に向かう。
──やばい。どんどん好きなる……。
握る手を感じながら、片想いでいる限界を知る。いくら家族がいるとはいえ、家まで来てくれたのだ。まったく脈がないわけではないだろう。いや、自惚れはほどほどにしなくてはと自戒する。
そんなとき、本殿が目に止まる。羅凍は家の守り神を無視できず、一度止まって向き直る。
「うちで祀っている二柱。愛の神と戦いの神。争いは 避けたいけれど、戦いの神を恐れ人々はひとつの方向を向ける。人々が向く方向には愛の女神。だから本殿には、二柱が向かい合うように祀られているんだ」
羅凍が一礼をすると、哀萩も一礼。体勢を戻した哀萩を『こっちだよ』と住まいの方に案内する。
玄関は引戸だ。通常の扉より一枚だけでも大きい。羅凍には見慣れたものだが、哀萩にはこれも物珍しいかもしれない。
開ければガラガラと特有の音が鳴り響き、一部屋ほどの空間を持つ玄関が見る。
羅凍が靴を脱ぐと、
「お帰り」
玄関を開けるときに響く特有の音につられたのか、右手側の部屋から父が出迎えに来た。
「ただいま」
羅凍が脱いだ靴を揃えても、哀萩は上がってこない。固まっているような哀萩を羅凍は父に紹介する。
「研究授業が同じの、哀萩。これから勉強教えてもらう」
「お、お邪魔します」
哀萩はていねいに一礼した。
父はうれしそうな表情を返す。その表情は羅凍にも向けられて。
何を思っているかを察し、羅凍はあえて何も言わず。行儀よく靴を揃えた哀萩の手を引いて中へと進む。
居間には兄がいて、また哀萩を紹介した。
「勉強教えてもらうんだ」
それじゃと足早に通り過ぎ、捷羅が目を丸くした。けれど、すぐににっこりと微笑む。
「羅凍をよろしくね」
「は、はい!」
哀萩は必死に返事をしていたが、違和感を覚えただろうか。
教えてほしい学科があるなんて口実だ。家族全員に気づかれているし、疑問を飲み込んだのだろう。
居間の横にある自室に入り、引き戸を閉め個別の空間を確保する。
「どうぞ」
正方形の敷物に座るよう哀萩を誘導する。
羅凍は九十度の位置に座り、小さなテーブルを一緒に囲う。
おもむろに教科書とノートを用意していると、居間から家族が話している小さな声が聞こえてきた。
『羅凍の彼女かな?』
『そうじゃない?』
羅凍は苦笑いだ。恐らく哀萩にも聞こえている。
家族はまさか会話が筒抜けになっていると思っていないだろう。
「古い家でごめんね」
羅凍がぼかして謝罪すると、
「由緒あるお家だもんね」
と、哀萩はフォローしてくれた。
ほんわりとした気持ちが、トクンと心臓を刺激する。
ドキドキして勉強どころではないが、哀萩を誘った理由が口実だったと気づかれたくない。
羅凍は急いで教科書を開く。
「あ、あのさ。ここなんだけど……」
先週の授業だった部分で、重要なヶ所を示す。
「あ~、これね……説明、うまくできるかなぁ……」
人間は自分で理解していても、人に教えるとなったら話は別だ。要所を順にして、人に伝えるようまとめて話すのは、なかなか難しい。
あれこれ考え、頭を悩ませている姿がかわいいと羅凍は見とれる。元々一目惚れだが、哀萩を知れば知るほど好きになっていく。
哀萩は説明を始めてくれたが、上の空だ。聞いているのに内容がまったく入ってこない。声に聞き惚れ、うっとりとしてしまう。
「こんな感じだけど……わかったかなぁ?」
不安そうな哀萩に肯定を返す。
「そう? じゃあ、試しに練習問題やってみよっか!」
理解を深めるための気遣いにまで、ときめく。
羅凍が視界に入れるものと、脳内とではまったく違う世界が繰り広げられている。けれど、羅凍は用意されたものに、サラサラとペンを走らせる。
それもそうだ。
教えてほしいと言ったのは口実で、哀萩が説明した以上にうまく羅凍なら教えられるのだから。
ただし、そうとは知らない哀萩は、きちんと教えられた! と喜びの笑みを浮かべている。
このあどけなさに羅凍はスッポリと落ちてしまって、哀萩しかいない空間という現実と脳内の合致だけが残った。
哀萩に釘付けになり、床につけた手がグッと上半身を前のめりにした。ふと触った頬の柔らかさに実在を感じて、更なる実感を求め首が伸びた。
ふと視線が何かで遮られ、次の瞬間に感じたものを理解できなかった。
頬に、何かが──やわらかい感触があった。一体、何だったのか。
刹那、哀萩がポツリと囁いた。
誰もが知っている寺院の名前。その昔、『羅暁城』の末裔が創設したと言われる唯一の寺院だ。
元貴族の苗字には男性の場合は最後に『宮』、女性の場合は『院』がつく決まりがある。
けれど、元貴族で男系でありながら、『院』の字を男女問わず最後につける独自の習わしが暁院にはある。暁院のもとに生を受けた者は『暁院』という。
変わっている苗字だから真っ先に周囲の関心を集める──と、羅凍は思っている節がある。それに加え、父の美貌を受け継いだ。
物心ついたころから、父の人気は知っていた。だから、昔から何かと視線を集めてしまうのは仕方ないと割り切っていて、そういうものだとどこか諦めている。
ただ、初めて接したときニコリとも笑わなかったのが哀萩で。だからこそ、巻き込みたくないと思ったのかもしれない。
寺院を前にして、哀萩がその名を見上げて立ち止まっている。羅凍は、
「初めて来た?」
と、からかうように言った。
人々が信じるものは数多あれど、それらを意識せざるを得ない状況下と羅凍は理解したのだろう。
無宗教派が一般的な世の中で、全面的に個の信仰についての話題がタブーとなっている世の中で、寺院は世の風潮に逆らって公言しているのと同義だ。
「はるか遠い昔、多くの人々は女悪神を信仰していた。ただ、それが引き金になって、争いが起こった」
呟くように羅凍が言うと、哀萩が顔を向ける。
「別にね、俺はどの神を信じているわけではないけれど……何かにすがりつきたいという心を人が持っているってことも、否めないとも思っていて……拠り所っていうか、そういうのを担っているんだと俺は思っている」
まぁ、俺は跡取りではないけれどと、羅凍は苦笑いした。
「はるか昔に落ちたと言われている愛の女神はさ、誰よりもきっと、愛されたかったんだよ。だから、愛を求める悪魔の子の手をとってしまった。でも、愛の女神が落ちようとして、止めようとした戦いの神は……愛の神を言葉で表せないほど……」
哀萩が目を丸くしていると気づく。
「ああ、ごめん。知らないよね」
苦笑いする羅凍につられるように、哀萩も苦笑いする。
羅凍は話を戻す。
「うちが祀っているのは、女悪神じゃない。昔々の火種は、争いのもとになりかねないからね。……知っているかな。この世の祖と言われる女神、『愛の神』」
「この世の祖?」
「昔、絵本童話と呼ばれていた……女悪神とは別の、もうひとつの伝説……神話があったそうなんだ。ご先祖様の中には、実際に見た人物もいたって話だよ」
「へぇ……そう、なんだ……」
驚いたままの視線は、ぎこちなく羅凍から離れていった。
──やっぱり、嫌だったかな。
羅凍は無理に押し進まず、来た道を戻るかと握っていた手を緩め──ようとした、そのとき。
「その絵本童話って、今でもまだ……あるのかな?」
ポツリと言った哀萩の言葉に、羅凍は耳を疑った。
「え、ああ、そうだね。どうなんだろう。今度調べてみるよ」
言葉にしがたいうれしさが羅凍の表情からあふれ出る。再び手を引き歩き始めても、にやける顔を止められない。
チラリと振り向き哀萩を見ると、見慣れない景色に目を取られている。そんな眼差しに囚われ、足が遅くなったのだろう。哀萩が羅凍を楽しげなまま不思議そうに見た。
羅凍は足が止まりかけたと自覚し、家へと一直線に向かう。
──やばい。どんどん好きなる……。
握る手を感じながら、片想いでいる限界を知る。いくら家族がいるとはいえ、家まで来てくれたのだ。まったく脈がないわけではないだろう。いや、自惚れはほどほどにしなくてはと自戒する。
そんなとき、本殿が目に止まる。羅凍は家の守り神を無視できず、一度止まって向き直る。
「うちで祀っている二柱。愛の神と戦いの神。争いは 避けたいけれど、戦いの神を恐れ人々はひとつの方向を向ける。人々が向く方向には愛の女神。だから本殿には、二柱が向かい合うように祀られているんだ」
羅凍が一礼をすると、哀萩も一礼。体勢を戻した哀萩を『こっちだよ』と住まいの方に案内する。
玄関は引戸だ。通常の扉より一枚だけでも大きい。羅凍には見慣れたものだが、哀萩にはこれも物珍しいかもしれない。
開ければガラガラと特有の音が鳴り響き、一部屋ほどの空間を持つ玄関が見る。
羅凍が靴を脱ぐと、
「お帰り」
玄関を開けるときに響く特有の音につられたのか、右手側の部屋から父が出迎えに来た。
「ただいま」
羅凍が脱いだ靴を揃えても、哀萩は上がってこない。固まっているような哀萩を羅凍は父に紹介する。
「研究授業が同じの、哀萩。これから勉強教えてもらう」
「お、お邪魔します」
哀萩はていねいに一礼した。
父はうれしそうな表情を返す。その表情は羅凍にも向けられて。
何を思っているかを察し、羅凍はあえて何も言わず。行儀よく靴を揃えた哀萩の手を引いて中へと進む。
居間には兄がいて、また哀萩を紹介した。
「勉強教えてもらうんだ」
それじゃと足早に通り過ぎ、捷羅が目を丸くした。けれど、すぐににっこりと微笑む。
「羅凍をよろしくね」
「は、はい!」
哀萩は必死に返事をしていたが、違和感を覚えただろうか。
教えてほしい学科があるなんて口実だ。家族全員に気づかれているし、疑問を飲み込んだのだろう。
居間の横にある自室に入り、引き戸を閉め個別の空間を確保する。
「どうぞ」
正方形の敷物に座るよう哀萩を誘導する。
羅凍は九十度の位置に座り、小さなテーブルを一緒に囲う。
おもむろに教科書とノートを用意していると、居間から家族が話している小さな声が聞こえてきた。
『羅凍の彼女かな?』
『そうじゃない?』
羅凍は苦笑いだ。恐らく哀萩にも聞こえている。
家族はまさか会話が筒抜けになっていると思っていないだろう。
「古い家でごめんね」
羅凍がぼかして謝罪すると、
「由緒あるお家だもんね」
と、哀萩はフォローしてくれた。
ほんわりとした気持ちが、トクンと心臓を刺激する。
ドキドキして勉強どころではないが、哀萩を誘った理由が口実だったと気づかれたくない。
羅凍は急いで教科書を開く。
「あ、あのさ。ここなんだけど……」
先週の授業だった部分で、重要なヶ所を示す。
「あ~、これね……説明、うまくできるかなぁ……」
人間は自分で理解していても、人に教えるとなったら話は別だ。要所を順にして、人に伝えるようまとめて話すのは、なかなか難しい。
あれこれ考え、頭を悩ませている姿がかわいいと羅凍は見とれる。元々一目惚れだが、哀萩を知れば知るほど好きになっていく。
哀萩は説明を始めてくれたが、上の空だ。聞いているのに内容がまったく入ってこない。声に聞き惚れ、うっとりとしてしまう。
「こんな感じだけど……わかったかなぁ?」
不安そうな哀萩に肯定を返す。
「そう? じゃあ、試しに練習問題やってみよっか!」
理解を深めるための気遣いにまで、ときめく。
羅凍が視界に入れるものと、脳内とではまったく違う世界が繰り広げられている。けれど、羅凍は用意されたものに、サラサラとペンを走らせる。
それもそうだ。
教えてほしいと言ったのは口実で、哀萩が説明した以上にうまく羅凍なら教えられるのだから。
ただし、そうとは知らない哀萩は、きちんと教えられた! と喜びの笑みを浮かべている。
このあどけなさに羅凍はスッポリと落ちてしまって、哀萩しかいない空間という現実と脳内の合致だけが残った。
哀萩に釘付けになり、床につけた手がグッと上半身を前のめりにした。ふと触った頬の柔らかさに実在を感じて、更なる実感を求め首が伸びた。
ふと視線が何かで遮られ、次の瞬間に感じたものを理解できなかった。
頬に、何かが──やわらかい感触があった。一体、何だったのか。
刹那、哀萩がポツリと囁いた。
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