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『第三部 因果と果報』 救いの代償
10▶弟 1:初恋
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どう、と考えた結果、羅凍は『告白されたわけではない』と結論を出した。
周囲で浮き立つ気持ちを示されてきただけだ。羅凍だって顔を熱したくてしたわけではない。止めようとして、止められるものでもないだろう。
そう考えれば避けることはもちろん、先回りして好意を断るのもおかしな話だ。
目に入ってきても、耳に入ってきても、これまで通り素知らぬふりをするしかない。
あえてできることといえば、相手に気のあるそぶりをしないよう精々気をつけるくらいだ。
重いため息がもれる。
器用貧乏だと自覚はしていたが、今は兄の器用さがほしい。
明日、また古武道に足を運んで彼女に会いたい気持ちと、恥ずかしさが交錯する。いや、恥ずかしさの方が負ける。また、会いたい。
──名前、なんて言うんだろう。
垂れに書いてあったはずだが、どうやっても思い出せない。いや、角度的に見えなかったのかもしれない。
トクトクと脈がはやい。
心がザワザワとする。
恋がこんなにも心身に影響するなんて想像したこともなかった。
──明日も彼女は、研究授業にいるかな。
数年間で何度か覗いたはずだが、彼女は初めて見た。ただ、連日通ったことはないし、そもそも研究授業は毎日受講するものでもない。最低限の単位をとれる分だけ受講すればいいと考える人もいるのだ。
だから連日でも、隔週でも各自に受講の間隔は学生たちに委ねられている。
偶然、彼女を見られたと考える方が妥当だ。
幸運な偶然だと思えば、尚更彼女へと思考が傾く。
何学年なのか、どんな声をしているのか──ひとつが気になると、矢継ぎ早に疑問が浮かんでくる。
会いたい、話したい、知りたい──フワフワした想いを抱え、羅凍は眠りに落ちた。
翌朝、羅凍が無言で朝食を食べていると、父に微笑まれていると気づく。
チラリと横目で見れば、そのきれいな顔たるや。この父の美しさをもらい受けたのだと思えば、悪い気はしない。
「なんですか」
「いいや、なんでもないよ」
思わず出た敬語にも関わらず、楽しげに父が返してくる。兄の察しのよさは父譲りだろう。
羅凍に返した次の瞬間には、もう母と仲睦まじく笑っている。この仲良し夫婦を見て、今日ほど居心地の悪さを覚えたことはない。
「ご馳走様」
席を立ち、食器を持ちてば、
「そうやって、きちんと結んでいる方が似合うわよ」
と、母が無邪気に褒めてくる。
「今度、切りに行く」
気恥ずかしく返せば、母は『似合うのに~』と頬を名と同じ淡い色で染めた。
鞄を片手に持ち居間を出、靴を履く。
「頑張って」
父が珍しく玄関まで見送りに来た。しかし、これは『察しているよ』と言われたようなもの。羅凍はすぐさま顔を背け、熱くなった頬を悟られないよう急いで足を出す。
学びの場に着き、教室の出入口をくくれば。昨日とは別世界に足を踏み入れたかのように周囲の視線が気になった。
ただ、羅凍が周囲を見るよりも先に、いつもよりも甲高い囁き声がする。そういえば、髪の毛を意識してきちんと整えてきた。これまでズボラだった分、身なりを整えればより目を引いてしまうということか。
声のする方を向いてはいけないと固まっていた。挙動不審では、それこそおかしいと自らに言い聞かせて平静を装う。
歩き始めれば、相変わらず目の端々に好意を寄せているだろう女子たちが入ってきたが、素知らぬふりをした。
こうしていれば、いつも通りだ。
気にしないでいれば、これまで通りに時間は過ぎていき。ふと、昨日の彼女が浮かぶ。昨夜、寝る前に浮かんだ様々な疑問まで。
朝の居づらさはどこへやら。会いたい、話したいと欲求が沸き上がってくる。放課後が待ち遠しくなり、ワクワクがソワソワになる。
授業に集中できないまま放課後になり、足は一目散に古武道へと向かっていた。
入り口に立ち、昨日の彼女を探していると、
「見学?」
と、受け持ちの先生に声をかけられる。山男と比喩したくなるほどの巨漢だ。
「は、はい! よろしくお願いします」
頭を下げると『見学はあっちだ』と室内の角を示された。そそくさと入るが、囁かれる黄色い声が耳にしっかりと届いてくる。
居心地の悪さを覚えたものの、羅凍も囁く人たちの気持ちがわからなくはない。気づいてほしいが、気づかないでほしいのだ。
平常心を保ちつつ見渡したが、昨日の彼女は見つけられなかった。肩を落としそうになるが、毎日いるとは限らないと思い直す。
想定していたことだ。それに、不純な動機できてしまっているのだから、試合をきちんと見ていこうと切り替える。
そんな折、二名の名が呼ばれた。二ヶ所でスクッと立ち上がったのは、どちらも黒い装備。新たな試合が始まるのか、中央へと向かっている。
そのうちのひとりの人物に、目が止まった。
──あれって……まさか……。
昨日の彼女と、背格好がとても似ている。
試合に備えていたとなれば、面をかぶり待機していてもおかしくない。髪の毛や顔を頼りに探していたのだから、わからなかったのもうなずける。
けれどまだ、彼女と決まったわけではない。
羅凍が固唾を呑んで見つめていると、彼女はドンドン近づいてくる。思わずのけぞったが、彼女が途中で止まった。
よくよく見れば、彼女は試合開始の所定の位置にいる。そうして、クルリと左へ半回転した。
一礼をし、両手で竹刀を構える。
そうだ、と我に返る。彼女かもしれないと思考を巡らせ、状況が飛んでいた。試合開始だ。
竹刀がぶつかり合う音が響く。かすれるような弱い音と、弾くような強い音が入り乱れる。
昨日の試合はどのくらい時間がかかったのかわからない。羅凍が反応したのは、試合終了の合図だった。
破裂するような強い音。彼女らしき人物が相手の攻撃をうまく交わした衝撃音だ。しかし、交わしただけではなく、一歩踏み込む。
羅凍が息を呑んだ瞬間、体を貫くような音が響いた。──勝利の音だ。
「一本!」
声とともに手がかざされ、場に立つふたりが試合前の位置に戻っていく。
今回は先制一本勝負だったのだろう。場のふたりは一礼をして戻っていった。
あっという間だった。見ていた状況が脳で処理するよりも目まぐるしく変わり──本当に、一瞬の出来事だった。
それなのに、羅凍には強烈な刺激が残っている。水から上がったかのように、呼吸がおぼつかない。
意識がハッキリしていない感覚なのに、視界は妙にクリアで。しっかりと気になる人物を目で追っていた。
座り、おもむろに面を外せば──予想したように彼女で。魅了された美しい髪が躍り出た。
思わず羅凍は立ち上がっていた。だが、新たな試合が始まっていて、幸い注目を集めずに済んだ。
入室したときに案内された山男のような先生のもとへと行き、正式受講の志願する。
「後日、手続きに来なさい」
そっけなく言われたものの、無意識でパッと笑む。
「はい」
頭を下げ、喜びを噛み締める。これで彼女と話せる確率がグンと上がった。
彼女の姿を再度確認し、垂れに書いてあるはずの名を注視する。試合の前に名を呼ばれていたが、認識できていなかった。
見えた名に元貴族特有の文字は入っていない。意外だったが、問題ない。
昨日よりも長い間彼女を見られた。それに、名字だけだが名を知れた。満足感で胸が満たされている。
──これから会える機会がある。
話すのは、後日でいい。胸の高鳴りに深呼吸をする。
彼女をしっかりと瞳に刻み、退室する。廊下に出てしばらく歩けば、足が弾んだ。駆けるような足を押さえきれないまま、羅凍は帰路につく。
研究授業をようやく決めたと兄に誇らしく言えば、
「おめでとう!」
と返ってきたが、その表情には別のものも含まれているような気がした。
夕食の場で両親に報告し、諸々の購入が必要とお願いをする。
「今度の休みに買いに行きましょう」
母が嬉々として言い、父も賛同する。
父のきれいな笑みにも兄と同じく違う感情も含まれていそうだったが、羅凍は気にしないよう努めた。
翌日、羅凍は研究授業の登録手続きを行い、正式な参加は準備を整えた来週にすると告げる。だが、
「よければ今日も見学していけばいい。もちろん、扱いは受講にする」
と山男のような先生は言った。続けて『必要ないかもしれないが』とも。遠回しに成績は知っていると言われたようなもの。
「ありがとうございます」
素直に表面上だけを受け取り、受講すると伝える。もしかしたら、今日も彼女がいるかもしれない。
ただ、やっぱりいないかもしれないと、放課後には憂鬱になっていた。連日だ。いない確率の方が高いだろう。
それでも先生と約束した手前、行かないわけにもいかず。羅凍は渋々足を運ぶ。
周囲で浮き立つ気持ちを示されてきただけだ。羅凍だって顔を熱したくてしたわけではない。止めようとして、止められるものでもないだろう。
そう考えれば避けることはもちろん、先回りして好意を断るのもおかしな話だ。
目に入ってきても、耳に入ってきても、これまで通り素知らぬふりをするしかない。
あえてできることといえば、相手に気のあるそぶりをしないよう精々気をつけるくらいだ。
重いため息がもれる。
器用貧乏だと自覚はしていたが、今は兄の器用さがほしい。
明日、また古武道に足を運んで彼女に会いたい気持ちと、恥ずかしさが交錯する。いや、恥ずかしさの方が負ける。また、会いたい。
──名前、なんて言うんだろう。
垂れに書いてあったはずだが、どうやっても思い出せない。いや、角度的に見えなかったのかもしれない。
トクトクと脈がはやい。
心がザワザワとする。
恋がこんなにも心身に影響するなんて想像したこともなかった。
──明日も彼女は、研究授業にいるかな。
数年間で何度か覗いたはずだが、彼女は初めて見た。ただ、連日通ったことはないし、そもそも研究授業は毎日受講するものでもない。最低限の単位をとれる分だけ受講すればいいと考える人もいるのだ。
だから連日でも、隔週でも各自に受講の間隔は学生たちに委ねられている。
偶然、彼女を見られたと考える方が妥当だ。
幸運な偶然だと思えば、尚更彼女へと思考が傾く。
何学年なのか、どんな声をしているのか──ひとつが気になると、矢継ぎ早に疑問が浮かんでくる。
会いたい、話したい、知りたい──フワフワした想いを抱え、羅凍は眠りに落ちた。
翌朝、羅凍が無言で朝食を食べていると、父に微笑まれていると気づく。
チラリと横目で見れば、そのきれいな顔たるや。この父の美しさをもらい受けたのだと思えば、悪い気はしない。
「なんですか」
「いいや、なんでもないよ」
思わず出た敬語にも関わらず、楽しげに父が返してくる。兄の察しのよさは父譲りだろう。
羅凍に返した次の瞬間には、もう母と仲睦まじく笑っている。この仲良し夫婦を見て、今日ほど居心地の悪さを覚えたことはない。
「ご馳走様」
席を立ち、食器を持ちてば、
「そうやって、きちんと結んでいる方が似合うわよ」
と、母が無邪気に褒めてくる。
「今度、切りに行く」
気恥ずかしく返せば、母は『似合うのに~』と頬を名と同じ淡い色で染めた。
鞄を片手に持ち居間を出、靴を履く。
「頑張って」
父が珍しく玄関まで見送りに来た。しかし、これは『察しているよ』と言われたようなもの。羅凍はすぐさま顔を背け、熱くなった頬を悟られないよう急いで足を出す。
学びの場に着き、教室の出入口をくくれば。昨日とは別世界に足を踏み入れたかのように周囲の視線が気になった。
ただ、羅凍が周囲を見るよりも先に、いつもよりも甲高い囁き声がする。そういえば、髪の毛を意識してきちんと整えてきた。これまでズボラだった分、身なりを整えればより目を引いてしまうということか。
声のする方を向いてはいけないと固まっていた。挙動不審では、それこそおかしいと自らに言い聞かせて平静を装う。
歩き始めれば、相変わらず目の端々に好意を寄せているだろう女子たちが入ってきたが、素知らぬふりをした。
こうしていれば、いつも通りだ。
気にしないでいれば、これまで通りに時間は過ぎていき。ふと、昨日の彼女が浮かぶ。昨夜、寝る前に浮かんだ様々な疑問まで。
朝の居づらさはどこへやら。会いたい、話したいと欲求が沸き上がってくる。放課後が待ち遠しくなり、ワクワクがソワソワになる。
授業に集中できないまま放課後になり、足は一目散に古武道へと向かっていた。
入り口に立ち、昨日の彼女を探していると、
「見学?」
と、受け持ちの先生に声をかけられる。山男と比喩したくなるほどの巨漢だ。
「は、はい! よろしくお願いします」
頭を下げると『見学はあっちだ』と室内の角を示された。そそくさと入るが、囁かれる黄色い声が耳にしっかりと届いてくる。
居心地の悪さを覚えたものの、羅凍も囁く人たちの気持ちがわからなくはない。気づいてほしいが、気づかないでほしいのだ。
平常心を保ちつつ見渡したが、昨日の彼女は見つけられなかった。肩を落としそうになるが、毎日いるとは限らないと思い直す。
想定していたことだ。それに、不純な動機できてしまっているのだから、試合をきちんと見ていこうと切り替える。
そんな折、二名の名が呼ばれた。二ヶ所でスクッと立ち上がったのは、どちらも黒い装備。新たな試合が始まるのか、中央へと向かっている。
そのうちのひとりの人物に、目が止まった。
──あれって……まさか……。
昨日の彼女と、背格好がとても似ている。
試合に備えていたとなれば、面をかぶり待機していてもおかしくない。髪の毛や顔を頼りに探していたのだから、わからなかったのもうなずける。
けれどまだ、彼女と決まったわけではない。
羅凍が固唾を呑んで見つめていると、彼女はドンドン近づいてくる。思わずのけぞったが、彼女が途中で止まった。
よくよく見れば、彼女は試合開始の所定の位置にいる。そうして、クルリと左へ半回転した。
一礼をし、両手で竹刀を構える。
そうだ、と我に返る。彼女かもしれないと思考を巡らせ、状況が飛んでいた。試合開始だ。
竹刀がぶつかり合う音が響く。かすれるような弱い音と、弾くような強い音が入り乱れる。
昨日の試合はどのくらい時間がかかったのかわからない。羅凍が反応したのは、試合終了の合図だった。
破裂するような強い音。彼女らしき人物が相手の攻撃をうまく交わした衝撃音だ。しかし、交わしただけではなく、一歩踏み込む。
羅凍が息を呑んだ瞬間、体を貫くような音が響いた。──勝利の音だ。
「一本!」
声とともに手がかざされ、場に立つふたりが試合前の位置に戻っていく。
今回は先制一本勝負だったのだろう。場のふたりは一礼をして戻っていった。
あっという間だった。見ていた状況が脳で処理するよりも目まぐるしく変わり──本当に、一瞬の出来事だった。
それなのに、羅凍には強烈な刺激が残っている。水から上がったかのように、呼吸がおぼつかない。
意識がハッキリしていない感覚なのに、視界は妙にクリアで。しっかりと気になる人物を目で追っていた。
座り、おもむろに面を外せば──予想したように彼女で。魅了された美しい髪が躍り出た。
思わず羅凍は立ち上がっていた。だが、新たな試合が始まっていて、幸い注目を集めずに済んだ。
入室したときに案内された山男のような先生のもとへと行き、正式受講の志願する。
「後日、手続きに来なさい」
そっけなく言われたものの、無意識でパッと笑む。
「はい」
頭を下げ、喜びを噛み締める。これで彼女と話せる確率がグンと上がった。
彼女の姿を再度確認し、垂れに書いてあるはずの名を注視する。試合の前に名を呼ばれていたが、認識できていなかった。
見えた名に元貴族特有の文字は入っていない。意外だったが、問題ない。
昨日よりも長い間彼女を見られた。それに、名字だけだが名を知れた。満足感で胸が満たされている。
──これから会える機会がある。
話すのは、後日でいい。胸の高鳴りに深呼吸をする。
彼女をしっかりと瞳に刻み、退室する。廊下に出てしばらく歩けば、足が弾んだ。駆けるような足を押さえきれないまま、羅凍は帰路につく。
研究授業をようやく決めたと兄に誇らしく言えば、
「おめでとう!」
と返ってきたが、その表情には別のものも含まれているような気がした。
夕食の場で両親に報告し、諸々の購入が必要とお願いをする。
「今度の休みに買いに行きましょう」
母が嬉々として言い、父も賛同する。
父のきれいな笑みにも兄と同じく違う感情も含まれていそうだったが、羅凍は気にしないよう努めた。
翌日、羅凍は研究授業の登録手続きを行い、正式な参加は準備を整えた来週にすると告げる。だが、
「よければ今日も見学していけばいい。もちろん、扱いは受講にする」
と山男のような先生は言った。続けて『必要ないかもしれないが』とも。遠回しに成績は知っていると言われたようなもの。
「ありがとうございます」
素直に表面上だけを受け取り、受講すると伝える。もしかしたら、今日も彼女がいるかもしれない。
ただ、やっぱりいないかもしれないと、放課後には憂鬱になっていた。連日だ。いない確率の方が高いだろう。
それでも先生と約束した手前、行かないわけにもいかず。羅凍は渋々足を運ぶ。
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