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遠き日々
【27】償い(1)
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馬車から降り、鴻嫗城に一歩入ると颯唏は立ち止まった。食い入るように天井を見上げる。
解放感のあふれる城内。それは、この天井の高さも関係しているだろう。差し込む光に颯唏は絵画でも見ているような感覚に陥った。
決意し、振り返る。
「大臣、少し……歩ける?」
行きはフラフラと何時間も歩いたのだ。大臣は考える。颯唏が馬車で迎えに来てくれたからよかったものの、少しとはいえ、行先によってはかなりしんどい。
颯唏は大臣がしんどいであろうことはお見通しのはず。それでも連れて行きたい場所とは──と考えたところで、幻覚を見たかのように大臣の視界がかすんでいく。
目の前でゆれる長いクロッカスの髪がぼやける。色彩だけが色濃く映り、歴代の姫が重なっていく。
行先を大臣が『もしかしたら』と思い浮かべたとき、颯唏が苦笑いをした。
「決着をつけるなら、俺たちには行かなくちゃいけない場所がある」
以前とは違い、おだやかな颯唏に大臣は首肯した。
おもむろに鍵が開けられる。颯唏が先陣を切り入って行ったが、大臣にはためらわれた。
幾度となく、何年も見てきた光景だ。未知と怖いわけではない。それに、今の大臣に秘密はなくなった。颯唏はすべてを知っている。恐れることは、何ひとつない。
『おいでよ』と、まるで自室に招くかのように颯唏は大臣に手招きをする。颯唏の言う通りだ。このまま、ここで呆然と立ち尽くしていて、誰かの目にとまる方がまずい。
大臣は一歩、二歩と入るとていねいに扉を閉め、先へ進む。
行く先が、あの絵画の部屋だとわかっているからか、鼓動が高鳴る。見慣れるというくらいに眺めてきた光景なのに、過去を鮮明に思い出したからか──大臣には十字架に張りつけられる思いだ。
三方向のちいさなライトからの光がこぼれる中、大臣はなかなか入れない。すると、
「はやく」
と、中から颯唏の呼ぶ声がした。
体調を気遣われ、承諾して来たのだ。体調が悪いと言い訳はできない。重い足を、ズシリと動かす。
颯唏はライトが照らす絵画をジッと見上げていた。
「この絵を……外そう」
絵画は動かないのに、紗如も唏劉も大臣に微笑んだ気がした。
「変えるんだ。もう、何もかもが終わるんだから」
颯唏が大臣と向かい合う。どうしてか、颯唏はどこか寂しそうだ。
「この部屋を変えて、大臣も……解放されるべきだよ」
「颯唏様……」
「俺も……父上から解放されるから」
言葉は弱々しかったが、一瞬で颯唏は寂しさを消す。
「これからは、俺は『俺の人生』を取り戻しながら歩いていく。そのためには……ここを変えないと進めない。……俺も、大臣も」
それは、とても強い言葉で。大臣は救いを見出すように絵画へと視線が動く。
当然、絵画に描かれたふたりは描かれた状態のままだ。
これまで大臣には、このふたりの笑みがあたたかいものに見えることはなかった。
しかし、颯唏の言葉を受けてからは、絵画に描かれているふたりが目の前にいるかのようだった。
『稀霤』と呼び、微笑んでいる。
大臣はふたりが生きていたころに戻ったかのような錯覚に陥り、膝を折る。ふたりは導くかのようにまぶたを閉じ、罪は浄化されたと言わんばかりに深くうなづく。
颯唏とともにいるのだから、ふたりが生きているはずはない。矛盾を察し、我に返った大臣は瞳を閉じてうつむく。
「そう……ですね」
再び大臣がまぶたを開ける。ライトの照らす先には、何年も見てきた光景が広がっているだけだ。
「今度は、どんな絵を飾りましょうか」
大臣がこの場所を初めて訪れたときは、沙稀がともにいた。
「ここに、母上と父上の絵画を飾ろう」
あれは沙稀が『結婚しない』と、明確に発言したあとだったか。
「おふたりのですか……わかりました。そういたしましょう」
大臣が返事をしたあと、沙稀は更に言葉を続けていた。
「ここは後継者の肖像画が代々飾られてきたと聞いた。お婆様は、ご自身の肖像画を外されてそれきり……。初めて母上と来たとき、俺の絵画を飾るかと聞かれた。……俺は、首を横に振った」
留妃姫がなぜ紗如の絵画を飾らなかったのか、その想いを沙稀は知らない。大臣は知っていたが、言うわけにはいかないと呑んだ。
もし話してしまったら、沙稀は紗如と大臣の間柄を勘づいただろう。
ふたりの絵画を飾ってから、数年後。
一心に絵画を見つめる沙稀に、大臣は問いかけた。
「ご自身が『男』として生まれたことに、納得ができないとでも?」
ふと、絵画から沙稀は視線を外し、うつむく。その姿は、大臣には自問自答しているように見えた。
そして、長考した後、
「それは多分、俺も瑠既も考えないようにしていると思う」
とだけ言い残し、沙稀は退室して行った。
恐らく、紗如の肖像画が飾られていなかったことが、沙稀には衝撃的で、ずっと消化できないことだったのだ。
結婚したあとは、恭良の肖像画も飾れなかったことが後ろめたかったのだろう。本来ならあるべきだったと考えたのかもしれない。──だからこそ、沙稀が継ぎ、庾月が産まれてからも、この部屋の絵画は変えられなかった。
「姉上の絵がいい」
この部屋に関して、何も知らないはずの颯唏がキッパリと言う。
「姉上が子どもたちに囲まれている幸せな絵を……ここに飾ろう」
颯唏の頬からは一筋の涙が流れる。それはすぐに二本になり、幾重にも流れていった。
絵画を見つめたまま涙を落とし続ける姿が、大臣に痛々しく映る。大臣は、らしくない行動をとった。颯唏をしっかりと抱き締めていた。
大臣の腕を握り、顔を埋め、
「ありがとう、お爺様」
と、颯唏は声を詰まらせながら告げる。
「俺が背負った罪を、一緒に背負ってくれて」
「いいえ」
込み上げる思いを堪えきれず、大臣の瞳からも雫が落ちる。
「いいえ、私の罪を一緒に背負ってくれたのは……」
言いながら大臣はわからなかった。
どこからなら颯唏にまで罪を感じさせず、自由に喜怒哀楽を表せる存在でいさせられたのかと。
いくら考えようとも、答えはない。
颯唏は大臣が罪を重ね続けたからこそ、今ここに存在しているのだから。
そう結論が出て、大臣はもはや『大臣』として颯唏を抱き締めているわけではないと自覚する。
「すまなかった、颯唏」
散々ふたりで泣いたあと、明るい廊下に出た颯唏は、大臣を部屋まで送ると言った。
だが、大臣は首を横に振る。
「今は……一緒にいられないです。私が……気持ちの整理をつけられないもので」
解放感のあふれる城内。それは、この天井の高さも関係しているだろう。差し込む光に颯唏は絵画でも見ているような感覚に陥った。
決意し、振り返る。
「大臣、少し……歩ける?」
行きはフラフラと何時間も歩いたのだ。大臣は考える。颯唏が馬車で迎えに来てくれたからよかったものの、少しとはいえ、行先によってはかなりしんどい。
颯唏は大臣がしんどいであろうことはお見通しのはず。それでも連れて行きたい場所とは──と考えたところで、幻覚を見たかのように大臣の視界がかすんでいく。
目の前でゆれる長いクロッカスの髪がぼやける。色彩だけが色濃く映り、歴代の姫が重なっていく。
行先を大臣が『もしかしたら』と思い浮かべたとき、颯唏が苦笑いをした。
「決着をつけるなら、俺たちには行かなくちゃいけない場所がある」
以前とは違い、おだやかな颯唏に大臣は首肯した。
おもむろに鍵が開けられる。颯唏が先陣を切り入って行ったが、大臣にはためらわれた。
幾度となく、何年も見てきた光景だ。未知と怖いわけではない。それに、今の大臣に秘密はなくなった。颯唏はすべてを知っている。恐れることは、何ひとつない。
『おいでよ』と、まるで自室に招くかのように颯唏は大臣に手招きをする。颯唏の言う通りだ。このまま、ここで呆然と立ち尽くしていて、誰かの目にとまる方がまずい。
大臣は一歩、二歩と入るとていねいに扉を閉め、先へ進む。
行く先が、あの絵画の部屋だとわかっているからか、鼓動が高鳴る。見慣れるというくらいに眺めてきた光景なのに、過去を鮮明に思い出したからか──大臣には十字架に張りつけられる思いだ。
三方向のちいさなライトからの光がこぼれる中、大臣はなかなか入れない。すると、
「はやく」
と、中から颯唏の呼ぶ声がした。
体調を気遣われ、承諾して来たのだ。体調が悪いと言い訳はできない。重い足を、ズシリと動かす。
颯唏はライトが照らす絵画をジッと見上げていた。
「この絵を……外そう」
絵画は動かないのに、紗如も唏劉も大臣に微笑んだ気がした。
「変えるんだ。もう、何もかもが終わるんだから」
颯唏が大臣と向かい合う。どうしてか、颯唏はどこか寂しそうだ。
「この部屋を変えて、大臣も……解放されるべきだよ」
「颯唏様……」
「俺も……父上から解放されるから」
言葉は弱々しかったが、一瞬で颯唏は寂しさを消す。
「これからは、俺は『俺の人生』を取り戻しながら歩いていく。そのためには……ここを変えないと進めない。……俺も、大臣も」
それは、とても強い言葉で。大臣は救いを見出すように絵画へと視線が動く。
当然、絵画に描かれたふたりは描かれた状態のままだ。
これまで大臣には、このふたりの笑みがあたたかいものに見えることはなかった。
しかし、颯唏の言葉を受けてからは、絵画に描かれているふたりが目の前にいるかのようだった。
『稀霤』と呼び、微笑んでいる。
大臣はふたりが生きていたころに戻ったかのような錯覚に陥り、膝を折る。ふたりは導くかのようにまぶたを閉じ、罪は浄化されたと言わんばかりに深くうなづく。
颯唏とともにいるのだから、ふたりが生きているはずはない。矛盾を察し、我に返った大臣は瞳を閉じてうつむく。
「そう……ですね」
再び大臣がまぶたを開ける。ライトの照らす先には、何年も見てきた光景が広がっているだけだ。
「今度は、どんな絵を飾りましょうか」
大臣がこの場所を初めて訪れたときは、沙稀がともにいた。
「ここに、母上と父上の絵画を飾ろう」
あれは沙稀が『結婚しない』と、明確に発言したあとだったか。
「おふたりのですか……わかりました。そういたしましょう」
大臣が返事をしたあと、沙稀は更に言葉を続けていた。
「ここは後継者の肖像画が代々飾られてきたと聞いた。お婆様は、ご自身の肖像画を外されてそれきり……。初めて母上と来たとき、俺の絵画を飾るかと聞かれた。……俺は、首を横に振った」
留妃姫がなぜ紗如の絵画を飾らなかったのか、その想いを沙稀は知らない。大臣は知っていたが、言うわけにはいかないと呑んだ。
もし話してしまったら、沙稀は紗如と大臣の間柄を勘づいただろう。
ふたりの絵画を飾ってから、数年後。
一心に絵画を見つめる沙稀に、大臣は問いかけた。
「ご自身が『男』として生まれたことに、納得ができないとでも?」
ふと、絵画から沙稀は視線を外し、うつむく。その姿は、大臣には自問自答しているように見えた。
そして、長考した後、
「それは多分、俺も瑠既も考えないようにしていると思う」
とだけ言い残し、沙稀は退室して行った。
恐らく、紗如の肖像画が飾られていなかったことが、沙稀には衝撃的で、ずっと消化できないことだったのだ。
結婚したあとは、恭良の肖像画も飾れなかったことが後ろめたかったのだろう。本来ならあるべきだったと考えたのかもしれない。──だからこそ、沙稀が継ぎ、庾月が産まれてからも、この部屋の絵画は変えられなかった。
「姉上の絵がいい」
この部屋に関して、何も知らないはずの颯唏がキッパリと言う。
「姉上が子どもたちに囲まれている幸せな絵を……ここに飾ろう」
颯唏の頬からは一筋の涙が流れる。それはすぐに二本になり、幾重にも流れていった。
絵画を見つめたまま涙を落とし続ける姿が、大臣に痛々しく映る。大臣は、らしくない行動をとった。颯唏をしっかりと抱き締めていた。
大臣の腕を握り、顔を埋め、
「ありがとう、お爺様」
と、颯唏は声を詰まらせながら告げる。
「俺が背負った罪を、一緒に背負ってくれて」
「いいえ」
込み上げる思いを堪えきれず、大臣の瞳からも雫が落ちる。
「いいえ、私の罪を一緒に背負ってくれたのは……」
言いながら大臣はわからなかった。
どこからなら颯唏にまで罪を感じさせず、自由に喜怒哀楽を表せる存在でいさせられたのかと。
いくら考えようとも、答えはない。
颯唏は大臣が罪を重ね続けたからこそ、今ここに存在しているのだから。
そう結論が出て、大臣はもはや『大臣』として颯唏を抱き締めているわけではないと自覚する。
「すまなかった、颯唏」
散々ふたりで泣いたあと、明るい廊下に出た颯唏は、大臣を部屋まで送ると言った。
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