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遠き日々
【26】重なる罪(3)
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「人聞きが悪いわね、誰がいつ『妊娠してない』なんて言ったのよ」
ふんっと紗如はそっぽを向く。
紗如は妊娠していると言った。聞けば、四ヶ月だと、うれしそうに。
「もっとはやくに知っていたでしょうに……」
「聞かれなかったからよ。でも、そろそろわかるかな~と思って」
むくれる紗如に、大臣のため息は止まらない。一刻もはやく紗如を結婚させなければ一大事だ。
「そういえば……ついこの間気づいてしまったのですが……出生届。私の名が書かれていましたね」
「嫌だったかしら?」
相変わらず紗如はさらりと言って退ける。
「それとも、迷惑だった?」
「そういうことを言っているわけでは……」
双子は、『稀霤』の存在を知らない。万一、戸籍を見たとしても同じ音。それに、『稀霤』も生きてはいない。
「負けますよ、貴女には」
大臣は力なく笑うしかできなかった。
いや、沙稀自身が本名を知るときが来たら、気づかれたかもしれなかった。
だが、その日は来なかった。
『沙稀』の戸籍上での名は、『留唏』。
本人に告げられなかったのは、紗如が婚約者として手筈の整えた琉倚の話もしないまま、この世を去ってしまったせいだ。
後継者の話も、紗如は明確にしないまま眠りについてしまった。だから、大臣は『紗如が生前決めた後継者』と『沙稀』に言い続けた。
琉倚に話が伝わっている以上、大臣は『沙稀』に婚約者の話をしようと思っていた。涼舞城の仕来りを話し、本名はそのときに伝えようと思っていた。
双子が母を亡くした深い悲しみから立ち直ってから──そう機会を伺っていたのに、瑠既の失踪に、『沙稀』の意識喪失。
大臣はこれまでの行いのせいだと己を責め続けた。
取り返しがつかなくなったと気づいたのは、『沙稀』の意識が戻ったあとだ。
七歳で眠ってしまった間に、『留唏』には死亡届が出されていた。
偽りの王の仕業だ。
時間が経ち過ぎていた。手違いだったと取り下げが利かない。
大臣は焦った。
生死が不明とはいえ、瑠既の戸籍を奪うわけにもいかない。
大臣は最善を尽くすにはどうしたらいいかと、頭を抱える。そうして、新たな人生を送るなら違う名で生きさせようという発想に辿り着く。
『沙稀』は傭兵として籍を置き、王と謁見する。名を変えるなら、ちょうどいい。
違う名を名乗るようにと『沙稀』に言ったが、王の前で彼は『沙稀』と名乗った。
『沙稀』と名乗る彼を見て、大臣は一切彼には話せないと判断し、本名を隠し通すと決意する。
戦災孤児の登録をし、『沙稀』の名で戸籍を取得した。
誕生日は五月十三日、年齢は九歳。
大臣が、『沙稀』を生かすために選んだ手段だ。
颯唏は何かで勘づき、瑠既の戸籍を見たのだろう。瑠既は恭良をあくまでも『弟の嫁』としか扱っていなかった節がある。
そして、瑠既の双子の弟の存在を知った。
颯唏の勘の鋭さは、誰に似たのか。
偽りの王を結婚相手に指名したのは、紗如だった。
「何と、言いました?」
大臣が聞き返さずにはいれなくなることを、突然、紗如は言った。
大臣には晴天の霹靂だったのに、紗如はムスッとしながら言う。
「だから、私の結婚相手。『世良』という人にして」
言いたくないような様子は何なのかと、大臣は言いたくなる。
紗如はあれからも『そういうとき』以外、大臣を『唏劉』と呼ぶのだ。
大臣がため息を長く吐くと、
「だって、その人の子となるんでしょう? 確かに私は了承をしたけど、結婚相手を勝手に選んでいいとは言ってないわ。私にも、選ぶ権利があるでしょう?」
と、紗如は怒ったように言った。
だが、紗如は結局結婚しなかった。
偽りの王と結婚した素振りを大臣に見せていただけで、ずっと大臣を騙したのである。
恭良を産んだときの紗如は、涙を落としていた。そして大臣に、
「ほら。願いは叶うのよ」
と、涙で表情を崩しながら幸せそうに笑った。
それだけ喜んだ娘の父を、紗如は約束通り、『世良』とした。──結婚する気は、あったのかもしれない。
紗如が旅立った日のことを、大臣は忘れられない。
『子どもたちをお願いね』と言ったあと、静かに眠っていきそうな中、紗如はちいさな声で言った。
「お願いがあるの」
もう、声を出すのがやっとだったのかもしれない。
真夜中だった。
娘の寝顔を愛おしそうに見、紗如は心から幸せそうだった。
「恭良には、想っている人と一緒にさせてあげて」
紗如の願いは、留妃姫と同じだった。
自由気ままに振る舞って来た素振りをしていたが、留妃姫の想いはしっかりと継いでいたのだ。
『鴻嫗城の姫』と自らを言いながら、伝統を母同様に変えようとしていた。
「わかりました」
「絶対よ!」
大臣のやさしい声に、紗如は弱々しいながらも力強く言った気がした。大臣が紗如の右手を両手で包むと、
「ありがとう。私、幸せだったわ。世良」
と、にっこりと笑った。
肌を合わせているとき以外に、初めて紗如に『世良』と呼ばれ、大臣は驚く。
「紗如……」
大臣の戸惑いを感じたのか、紗如はぎゅっと手を握った。
「やだ。……私はずっと、貴男を呼んでいたのに。信じてくれていなかったのね」
紗如の言葉で、大臣は思い込みだったのかも知れないと初めて自身を疑う。
紗如は『唏劉』と兄を呼んでいたのではなく、『稀霤』とずっと呼んでいたのかも知れないと。
「もう……嫌いよ」
悪戯に笑う紗如の声が、妙に愛しい。
「私も、貴女が嫌いです。大嫌いです」
大臣の声に、くすくすと笑いながら紗如の力は抜けていった。そして、
「う……そ。私は、貴男が……」
最後の声は、聞こえなかったが、大臣にはしっかりと届いていた。
ふんっと紗如はそっぽを向く。
紗如は妊娠していると言った。聞けば、四ヶ月だと、うれしそうに。
「もっとはやくに知っていたでしょうに……」
「聞かれなかったからよ。でも、そろそろわかるかな~と思って」
むくれる紗如に、大臣のため息は止まらない。一刻もはやく紗如を結婚させなければ一大事だ。
「そういえば……ついこの間気づいてしまったのですが……出生届。私の名が書かれていましたね」
「嫌だったかしら?」
相変わらず紗如はさらりと言って退ける。
「それとも、迷惑だった?」
「そういうことを言っているわけでは……」
双子は、『稀霤』の存在を知らない。万一、戸籍を見たとしても同じ音。それに、『稀霤』も生きてはいない。
「負けますよ、貴女には」
大臣は力なく笑うしかできなかった。
いや、沙稀自身が本名を知るときが来たら、気づかれたかもしれなかった。
だが、その日は来なかった。
『沙稀』の戸籍上での名は、『留唏』。
本人に告げられなかったのは、紗如が婚約者として手筈の整えた琉倚の話もしないまま、この世を去ってしまったせいだ。
後継者の話も、紗如は明確にしないまま眠りについてしまった。だから、大臣は『紗如が生前決めた後継者』と『沙稀』に言い続けた。
琉倚に話が伝わっている以上、大臣は『沙稀』に婚約者の話をしようと思っていた。涼舞城の仕来りを話し、本名はそのときに伝えようと思っていた。
双子が母を亡くした深い悲しみから立ち直ってから──そう機会を伺っていたのに、瑠既の失踪に、『沙稀』の意識喪失。
大臣はこれまでの行いのせいだと己を責め続けた。
取り返しがつかなくなったと気づいたのは、『沙稀』の意識が戻ったあとだ。
七歳で眠ってしまった間に、『留唏』には死亡届が出されていた。
偽りの王の仕業だ。
時間が経ち過ぎていた。手違いだったと取り下げが利かない。
大臣は焦った。
生死が不明とはいえ、瑠既の戸籍を奪うわけにもいかない。
大臣は最善を尽くすにはどうしたらいいかと、頭を抱える。そうして、新たな人生を送るなら違う名で生きさせようという発想に辿り着く。
『沙稀』は傭兵として籍を置き、王と謁見する。名を変えるなら、ちょうどいい。
違う名を名乗るようにと『沙稀』に言ったが、王の前で彼は『沙稀』と名乗った。
『沙稀』と名乗る彼を見て、大臣は一切彼には話せないと判断し、本名を隠し通すと決意する。
戦災孤児の登録をし、『沙稀』の名で戸籍を取得した。
誕生日は五月十三日、年齢は九歳。
大臣が、『沙稀』を生かすために選んだ手段だ。
颯唏は何かで勘づき、瑠既の戸籍を見たのだろう。瑠既は恭良をあくまでも『弟の嫁』としか扱っていなかった節がある。
そして、瑠既の双子の弟の存在を知った。
颯唏の勘の鋭さは、誰に似たのか。
偽りの王を結婚相手に指名したのは、紗如だった。
「何と、言いました?」
大臣が聞き返さずにはいれなくなることを、突然、紗如は言った。
大臣には晴天の霹靂だったのに、紗如はムスッとしながら言う。
「だから、私の結婚相手。『世良』という人にして」
言いたくないような様子は何なのかと、大臣は言いたくなる。
紗如はあれからも『そういうとき』以外、大臣を『唏劉』と呼ぶのだ。
大臣がため息を長く吐くと、
「だって、その人の子となるんでしょう? 確かに私は了承をしたけど、結婚相手を勝手に選んでいいとは言ってないわ。私にも、選ぶ権利があるでしょう?」
と、紗如は怒ったように言った。
だが、紗如は結局結婚しなかった。
偽りの王と結婚した素振りを大臣に見せていただけで、ずっと大臣を騙したのである。
恭良を産んだときの紗如は、涙を落としていた。そして大臣に、
「ほら。願いは叶うのよ」
と、涙で表情を崩しながら幸せそうに笑った。
それだけ喜んだ娘の父を、紗如は約束通り、『世良』とした。──結婚する気は、あったのかもしれない。
紗如が旅立った日のことを、大臣は忘れられない。
『子どもたちをお願いね』と言ったあと、静かに眠っていきそうな中、紗如はちいさな声で言った。
「お願いがあるの」
もう、声を出すのがやっとだったのかもしれない。
真夜中だった。
娘の寝顔を愛おしそうに見、紗如は心から幸せそうだった。
「恭良には、想っている人と一緒にさせてあげて」
紗如の願いは、留妃姫と同じだった。
自由気ままに振る舞って来た素振りをしていたが、留妃姫の想いはしっかりと継いでいたのだ。
『鴻嫗城の姫』と自らを言いながら、伝統を母同様に変えようとしていた。
「わかりました」
「絶対よ!」
大臣のやさしい声に、紗如は弱々しいながらも力強く言った気がした。大臣が紗如の右手を両手で包むと、
「ありがとう。私、幸せだったわ。世良」
と、にっこりと笑った。
肌を合わせているとき以外に、初めて紗如に『世良』と呼ばれ、大臣は驚く。
「紗如……」
大臣の戸惑いを感じたのか、紗如はぎゅっと手を握った。
「やだ。……私はずっと、貴男を呼んでいたのに。信じてくれていなかったのね」
紗如の言葉で、大臣は思い込みだったのかも知れないと初めて自身を疑う。
紗如は『唏劉』と兄を呼んでいたのではなく、『稀霤』とずっと呼んでいたのかも知れないと。
「もう……嫌いよ」
悪戯に笑う紗如の声が、妙に愛しい。
「私も、貴女が嫌いです。大嫌いです」
大臣の声に、くすくすと笑いながら紗如の力は抜けていった。そして、
「う……そ。私は、貴男が……」
最後の声は、聞こえなかったが、大臣にはしっかりと届いていた。
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