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遠き日々
【25】秘めた想い(2)
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咄嗟に踵を返す。
かつての妻への申し訳なさも、兄への申し訳なさも唐突に募った。
兄が命を懸けてまで守ったものを、どうにか守ってきたつもりでいた。だが、単に兄を裏切り続けてきたように思えてならなくなった。
妻とは見合い結婚だったが、大事に想えば同じように返してくれる最高の伴侶だった。跡取りや後継者の問題はあったが、過ごす年月が増す毎に純粋な望みに変化していた。一目見られるなら、遠目からでも会いたい。許されるなら、あのやさしい手を両手で包みたいと枯渇する。
けれど、もう、今頃はとっくに弟の妻だ。涼舞城に嫁いだ妻であれば、うまく心の整理もつけているはず。賢い妻だった。自慢の妻だった人。
幸せになってくれていればいい。なっているはずだと思いつつも、願わずにはいられない。
同日の午後、留妃姫から大臣の職を補佐すると申し出があった。
大臣が驚くと、双子の教育係も兼任してほしいと続ける。紗如に何かを言われたのかと聞くわけにもいかず、大臣は返答に困る。
ついには、
「男の子には、同じく男の人で頼れる人がいる方がいいと思うの」
と留妃姫から『相談』の体をとられては、同意しか返せない。
こうして大臣は双子の教育係となった。双子に触れ合うようになり、日に日に顔立ちで区別がつくようになる。
長男の瑠既は母の紗如に似た顔立ちだ。特に丸いクロッカスの瞳と、クルクルとした髪の毛もそっくりだ。年月が経てば癖毛はゆるくなり、寂しがり屋で甘えん坊になった。弟から離れようとはしない。
弟の沙稀は、兄、唏劉の面影が見え隠れした。奥二重の切れ目にストレートな髪質。剣を握るようになってからは、尚更兄の面影が重なる。
一昔前、双子は二番目に生まれた方が兄とされていた。
『この子は、本当に兄の子かもしれない』と、節々で大臣は思うときがあった。
それでも、双子と接していると、ふと我が子と思ってしまうことも大臣にはあった。いくら敬称に様を使って双子を呼び、個と尊重して接していても我が子は愛しかった。
「ここにいたんだ」
聞こえたのは颯唏の声。大臣は一気に現実へと戻る。
「どうして、ここに……」
「城内にいなかったから、心配したんだよ。一応」
颯唏は橙の土の上に腰を下ろす。
ぼんやりと大臣の見ていた先に視線を投げると、独り言かのように続ける。
「ずっとふしぎだった。鴻嫗城の敷地なのに、荒れたままのこの土地が。……聞かないけどさ、城内にいないならここにいるかなって、漠然と思ったから来てみたんだ」
遠く見つめていた先は、唏劉の一部が遺されていた場所だった。体調が優れないにも関わらず、なぜか大臣はここに来てしまっていた。
思えば、ここは始まりの場所だった。紗如との。
思えば、終わりの場所だった。兄との。
けれど、大臣にとってはある種の死地だ。
「驚いたよ。大臣は俺に父上のこと……嘘を言ってはいなかったんだから」
颯唏の言葉に、大臣はゆっくりと座る。
「嘘をつくのは、苦手なんです。それだけです」
「大臣は……父上のことを……」
「尊敬していました」
兄の幻影を追っていた姿を、見守っていたはずだった。
だが、その背は、いつの間にか兄と重なって大臣には見えていた。
「どんなに忙しくても、沙稀様は『忙しい』と言わない方でした。それよりも、『俺がやる』と、なんでも抱え込んで……」
留妃姫が亡くなってから、大臣には頼れる人物がいなくなった。無意識の内に、いつの間にか沙稀を頼りにしてきていたと大臣は振り返る。
どんなに重荷を背負っても、受け止めて前進し続ける姿は頼もしかった。
「だから、どうしても知られたくなかったのです。これだけは、守りたかったのです」
「父上の、名を?」
颯唏の言葉に、大臣は空を仰ぐ。
雨は降りそうにないが、晴天でもない。青い空に雲が絵画のように浮かんでいる。なんと美しい光景か。澄んでいる青が、心にしみる。
「そうです」
大臣が伝えるべきかと初めて思ったのは、沙稀が目覚め、王と対面すると決まったときだ。
仮名を名乗るようにと提案した。そもそも、『沙稀』というのは、本名ではない。その事実を伝えれば、仮名を名乗ることも厭わないだろうと告げたのだ。
ただ、予想外な反応を沙稀は示した。明らかな拒絶。
四年も眠り、目覚め孤独な時間を過ごした沙稀は、紗如からもらったこの名だけを糧として生きてきていた。それは、これから先も変わらない。
直感で大臣はそう感じた。
──この子は……名を失ってしまったら、どうなってしまうのだろう。
そう感じて『沙稀』という名は『幼名』だと言えなくなった。
四年も眠る姿を見守ってきて、ようやく動けるようになった沙稀を目の前に、生きていてくれればいいと望んだ。
身分を失い、誇りだった色彩も失い、ただ独りで生きようとしている。沙稀が眠り続けた四年間は、大臣にはより長く苦しい四年間で、目覚めてからはそばにいれば無条件で甘やかしたくなるほどだった。
決して口外しないと呑み続けた関係性を吐露し、抱き締めて安心させたいと何度思ったことか。心に秘めておくには、突き放して接するしかできなかった。
「颯唏様には知られてしまいましたが……それでも、颯唏様の父上は『沙稀』様です。ですから、颯唏様には知られてもよかったのですが……」
「すべてを知られるとは思わなかったんだ」
あっけらかんと言う颯唏に、大臣は瞳を閉じてうなずく。
「はい」
大臣は清々しいと言いたげなほど、素直に返す。
「さて」
颯唏は立ち上がる。衣服の砂を払い、大臣に手を伸ばす。
「帰ろう。大臣の帰るべきところは……悪いけど、鴻嫗城しかないんだから」
『鴻嫗城にいなよ』
かつて、沙稀が大臣に言った言葉が、颯唏の背から降り注ぐ。
「そうですね」
『長生きしてね』とも、沙稀は言っていたと思い出し、大臣は自然と顔がほころぶ。
颯唏の手を取った大臣の瞳は涙で埋まっていたが、大臣がその涙をこぼすことはなかった。
かつての妻への申し訳なさも、兄への申し訳なさも唐突に募った。
兄が命を懸けてまで守ったものを、どうにか守ってきたつもりでいた。だが、単に兄を裏切り続けてきたように思えてならなくなった。
妻とは見合い結婚だったが、大事に想えば同じように返してくれる最高の伴侶だった。跡取りや後継者の問題はあったが、過ごす年月が増す毎に純粋な望みに変化していた。一目見られるなら、遠目からでも会いたい。許されるなら、あのやさしい手を両手で包みたいと枯渇する。
けれど、もう、今頃はとっくに弟の妻だ。涼舞城に嫁いだ妻であれば、うまく心の整理もつけているはず。賢い妻だった。自慢の妻だった人。
幸せになってくれていればいい。なっているはずだと思いつつも、願わずにはいられない。
同日の午後、留妃姫から大臣の職を補佐すると申し出があった。
大臣が驚くと、双子の教育係も兼任してほしいと続ける。紗如に何かを言われたのかと聞くわけにもいかず、大臣は返答に困る。
ついには、
「男の子には、同じく男の人で頼れる人がいる方がいいと思うの」
と留妃姫から『相談』の体をとられては、同意しか返せない。
こうして大臣は双子の教育係となった。双子に触れ合うようになり、日に日に顔立ちで区別がつくようになる。
長男の瑠既は母の紗如に似た顔立ちだ。特に丸いクロッカスの瞳と、クルクルとした髪の毛もそっくりだ。年月が経てば癖毛はゆるくなり、寂しがり屋で甘えん坊になった。弟から離れようとはしない。
弟の沙稀は、兄、唏劉の面影が見え隠れした。奥二重の切れ目にストレートな髪質。剣を握るようになってからは、尚更兄の面影が重なる。
一昔前、双子は二番目に生まれた方が兄とされていた。
『この子は、本当に兄の子かもしれない』と、節々で大臣は思うときがあった。
それでも、双子と接していると、ふと我が子と思ってしまうことも大臣にはあった。いくら敬称に様を使って双子を呼び、個と尊重して接していても我が子は愛しかった。
「ここにいたんだ」
聞こえたのは颯唏の声。大臣は一気に現実へと戻る。
「どうして、ここに……」
「城内にいなかったから、心配したんだよ。一応」
颯唏は橙の土の上に腰を下ろす。
ぼんやりと大臣の見ていた先に視線を投げると、独り言かのように続ける。
「ずっとふしぎだった。鴻嫗城の敷地なのに、荒れたままのこの土地が。……聞かないけどさ、城内にいないならここにいるかなって、漠然と思ったから来てみたんだ」
遠く見つめていた先は、唏劉の一部が遺されていた場所だった。体調が優れないにも関わらず、なぜか大臣はここに来てしまっていた。
思えば、ここは始まりの場所だった。紗如との。
思えば、終わりの場所だった。兄との。
けれど、大臣にとってはある種の死地だ。
「驚いたよ。大臣は俺に父上のこと……嘘を言ってはいなかったんだから」
颯唏の言葉に、大臣はゆっくりと座る。
「嘘をつくのは、苦手なんです。それだけです」
「大臣は……父上のことを……」
「尊敬していました」
兄の幻影を追っていた姿を、見守っていたはずだった。
だが、その背は、いつの間にか兄と重なって大臣には見えていた。
「どんなに忙しくても、沙稀様は『忙しい』と言わない方でした。それよりも、『俺がやる』と、なんでも抱え込んで……」
留妃姫が亡くなってから、大臣には頼れる人物がいなくなった。無意識の内に、いつの間にか沙稀を頼りにしてきていたと大臣は振り返る。
どんなに重荷を背負っても、受け止めて前進し続ける姿は頼もしかった。
「だから、どうしても知られたくなかったのです。これだけは、守りたかったのです」
「父上の、名を?」
颯唏の言葉に、大臣は空を仰ぐ。
雨は降りそうにないが、晴天でもない。青い空に雲が絵画のように浮かんでいる。なんと美しい光景か。澄んでいる青が、心にしみる。
「そうです」
大臣が伝えるべきかと初めて思ったのは、沙稀が目覚め、王と対面すると決まったときだ。
仮名を名乗るようにと提案した。そもそも、『沙稀』というのは、本名ではない。その事実を伝えれば、仮名を名乗ることも厭わないだろうと告げたのだ。
ただ、予想外な反応を沙稀は示した。明らかな拒絶。
四年も眠り、目覚め孤独な時間を過ごした沙稀は、紗如からもらったこの名だけを糧として生きてきていた。それは、これから先も変わらない。
直感で大臣はそう感じた。
──この子は……名を失ってしまったら、どうなってしまうのだろう。
そう感じて『沙稀』という名は『幼名』だと言えなくなった。
四年も眠る姿を見守ってきて、ようやく動けるようになった沙稀を目の前に、生きていてくれればいいと望んだ。
身分を失い、誇りだった色彩も失い、ただ独りで生きようとしている。沙稀が眠り続けた四年間は、大臣にはより長く苦しい四年間で、目覚めてからはそばにいれば無条件で甘やかしたくなるほどだった。
決して口外しないと呑み続けた関係性を吐露し、抱き締めて安心させたいと何度思ったことか。心に秘めておくには、突き放して接するしかできなかった。
「颯唏様には知られてしまいましたが……それでも、颯唏様の父上は『沙稀』様です。ですから、颯唏様には知られてもよかったのですが……」
「すべてを知られるとは思わなかったんだ」
あっけらかんと言う颯唏に、大臣は瞳を閉じてうなずく。
「はい」
大臣は清々しいと言いたげなほど、素直に返す。
「さて」
颯唏は立ち上がる。衣服の砂を払い、大臣に手を伸ばす。
「帰ろう。大臣の帰るべきところは……悪いけど、鴻嫗城しかないんだから」
『鴻嫗城にいなよ』
かつて、沙稀が大臣に言った言葉が、颯唏の背から降り注ぐ。
「そうですね」
『長生きしてね』とも、沙稀は言っていたと思い出し、大臣は自然と顔がほころぶ。
颯唏の手を取った大臣の瞳は涙で埋まっていたが、大臣がその涙をこぼすことはなかった。
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