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遠き日々
【23】色(2)
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稀霤の不満に対し、紗如はきょとんとし、
「え?」
と言った。
「紗如姫は、鴻嫗城の『姫』でしょう? 付き人など、何人もいるでしょう。それに何ですか、『誰』とも聞かずに『どうぞ』など……」
稀霤の心中は絶望が渦巻く。
うんざりとした声に対し、紗如はさらりと言う。
「私が近寄らせてないのよ」
「はぁ?」
稀霤は、こんな『姫』など知らない。
紗如は意気揚々と持論を並べる。
「だから、ここに来るなら唏劉だと思っていたの。今はね、唏劉と以外は極力誰とも会いたくないのよ。……私が言うのよ? 誰もが言うことを何でも聞くわ」
──この我が儘姫が。
稀霤は嫌悪さえ覚える。
だが、逆を言えば利用できるとも思えた。稀霤が今、こうして鴻嫗城にいることになったのも、元々は紗如のせいなのだ。
稀霤は考えを改めることにした。
ベッドのとなりの椅子に座り、問う。
「では、紗如姫が『ほしい』と仰れば、誰でも何でも、揃えて下さるわけですか」
「そうよ」
実につまらなそうに即答をする。
けれど、稀霤に紗如の感情は関係ない。よいことを聞いたというように、試す。
「では、ほしい物があるのですが……いくつか用意して頂けないですか?」
先に稀霤を利用したのは紗如だ。だからこそ、稀霤も臆することなく、返ってふてぶてしくなれた。
ところが。
すぐに『良い』と返ってくると予測していたが、紗如は黙ってしまった。
言うことを聞かないのであれば、それでもいいと稀霤が立ち上がると、
「何がほしいの?」
と、紗如は視線を伏せたまま言った。
数時間後、稀霤の望んだ物は取り揃えられていた。紗如は使用人が用意をしたそれをひとつひとつ確認するように手に取り、
「本当に……髪を染めてしまうの?」
と、寂しそうに言う。
稀霤に紗如を労わるような言葉は出ない。
「コンタクトで瞳の色も変えるつもりですが」
そう言いつつも、『染めるというか、脱色なんだが』と内心呟く。
貴族が身分を隠すために、生家を示すような髪の毛の色や、瞳の色を変えることは多い。それは、名も同様。
すっかり元気のなくなってしまった紗如は、
「唏劉、どうして名まで偽るの?」
と、悲しそうに問いかけてくる。
「名を呼ばれる度に兄が過るのです。兄は、死にました」
紗如に対する当て付けの言葉に他ならない。しかし、紗如は、そうと受け取らなかったのだろう。
「私は、唏劉という名はいいと思うんだけど」
誰に言うでもないようにこぼす。
稀霤の感情は、それはそれは大きくかき乱れ、
──それは、貴女が兄を想えるからで。
絶句するように言葉を飲み込む。
どうも、この我が儘姫とは馬が合わない。留妃姫に恩義を感じているが、できることならこの我が儘姫とは一生疎遠でありたいと願う。
稀霤は紗如にその手の物をよこせと手を差し伸べる。
紗如は渋々、稀霤に渡す。
受け取った脱色剤の説明書に稀霤は目を通す。彼自身、使用するのはもちろん、見ることも初めてだ。
無言で一通り目を通すと、ふて腐れている紗如に視線を向ける。
「手伝ってくれないのですか?」
紗如に対する嫌味だ。
クロッカスの多い鴻嫗城では、次点の色彩のリラが目立ち過ぎる。いつの間にか稀霤は、この色彩が大嫌いになっていた。
「私……今、そんなに起きていていいわけじゃ……」
拗ねるような口調の紗如に、稀霤は容赦ない。
「昨日はあんなに歩き回っていらしたのに?」
こんな風に言われたのは、紗如は恐らく初めてだろう。
ふたりは眉間に皺を寄せ、しばらく顔を見合わせる。だが、紗如が折れた。頬を膨らませながら稀霤に、
「手伝うわ」
と告げる。
紗如は脱色剤を髪につける前に、時折、稀霤の髪の毛を愛しそうにサラサラと触れる。
──この人は……寂しい人だ。
漠然と感じた感情をどこにやることも、稀霤はできない。感情を揺らすまいと稀霤は終始黙った。
髪の毛の脱色の準備が整ったあとは、瞳の色だ。
髪の脱色の色彩に合わせ、コンタクトは薄い桃色を要望した。もちろん、コンタクトも初めてだ。説明書を見、落とさないように気をつけながら鏡を注視する。
そうしてコンタクトを装着すると、稀霤は脱色の時間を待って風呂場へと向かった。
風呂から上がり髪を乾かす。鏡を見、ため息を吐く。
長めに時間を置いたにも関わらず、思ったほど脱色はできなかった。
とはいえ、鏡に映った姿を見て、稀霤はようやく張り詰めていたものを断ち切れた。
──これで名を変えれば……私は別人だ。
不思議と、心はおだやかだった。
茫然と髪をまとめ、衣服を整え風呂場から出ると、紗如はベッドから出て来た。そして、稀霤の前までテトテトと歩いてくると、
「私だけには、本当の唏劉に会わせてね」
と、寂しげに笑う。
前を向けたはずの稀霤の心は、紗如の言葉で一瞬に砕ける。
このときの真意を、彼は後に知る。
それは、紗如が命尽きる日のことだった。
「え?」
と言った。
「紗如姫は、鴻嫗城の『姫』でしょう? 付き人など、何人もいるでしょう。それに何ですか、『誰』とも聞かずに『どうぞ』など……」
稀霤の心中は絶望が渦巻く。
うんざりとした声に対し、紗如はさらりと言う。
「私が近寄らせてないのよ」
「はぁ?」
稀霤は、こんな『姫』など知らない。
紗如は意気揚々と持論を並べる。
「だから、ここに来るなら唏劉だと思っていたの。今はね、唏劉と以外は極力誰とも会いたくないのよ。……私が言うのよ? 誰もが言うことを何でも聞くわ」
──この我が儘姫が。
稀霤は嫌悪さえ覚える。
だが、逆を言えば利用できるとも思えた。稀霤が今、こうして鴻嫗城にいることになったのも、元々は紗如のせいなのだ。
稀霤は考えを改めることにした。
ベッドのとなりの椅子に座り、問う。
「では、紗如姫が『ほしい』と仰れば、誰でも何でも、揃えて下さるわけですか」
「そうよ」
実につまらなそうに即答をする。
けれど、稀霤に紗如の感情は関係ない。よいことを聞いたというように、試す。
「では、ほしい物があるのですが……いくつか用意して頂けないですか?」
先に稀霤を利用したのは紗如だ。だからこそ、稀霤も臆することなく、返ってふてぶてしくなれた。
ところが。
すぐに『良い』と返ってくると予測していたが、紗如は黙ってしまった。
言うことを聞かないのであれば、それでもいいと稀霤が立ち上がると、
「何がほしいの?」
と、紗如は視線を伏せたまま言った。
数時間後、稀霤の望んだ物は取り揃えられていた。紗如は使用人が用意をしたそれをひとつひとつ確認するように手に取り、
「本当に……髪を染めてしまうの?」
と、寂しそうに言う。
稀霤に紗如を労わるような言葉は出ない。
「コンタクトで瞳の色も変えるつもりですが」
そう言いつつも、『染めるというか、脱色なんだが』と内心呟く。
貴族が身分を隠すために、生家を示すような髪の毛の色や、瞳の色を変えることは多い。それは、名も同様。
すっかり元気のなくなってしまった紗如は、
「唏劉、どうして名まで偽るの?」
と、悲しそうに問いかけてくる。
「名を呼ばれる度に兄が過るのです。兄は、死にました」
紗如に対する当て付けの言葉に他ならない。しかし、紗如は、そうと受け取らなかったのだろう。
「私は、唏劉という名はいいと思うんだけど」
誰に言うでもないようにこぼす。
稀霤の感情は、それはそれは大きくかき乱れ、
──それは、貴女が兄を想えるからで。
絶句するように言葉を飲み込む。
どうも、この我が儘姫とは馬が合わない。留妃姫に恩義を感じているが、できることならこの我が儘姫とは一生疎遠でありたいと願う。
稀霤は紗如にその手の物をよこせと手を差し伸べる。
紗如は渋々、稀霤に渡す。
受け取った脱色剤の説明書に稀霤は目を通す。彼自身、使用するのはもちろん、見ることも初めてだ。
無言で一通り目を通すと、ふて腐れている紗如に視線を向ける。
「手伝ってくれないのですか?」
紗如に対する嫌味だ。
クロッカスの多い鴻嫗城では、次点の色彩のリラが目立ち過ぎる。いつの間にか稀霤は、この色彩が大嫌いになっていた。
「私……今、そんなに起きていていいわけじゃ……」
拗ねるような口調の紗如に、稀霤は容赦ない。
「昨日はあんなに歩き回っていらしたのに?」
こんな風に言われたのは、紗如は恐らく初めてだろう。
ふたりは眉間に皺を寄せ、しばらく顔を見合わせる。だが、紗如が折れた。頬を膨らませながら稀霤に、
「手伝うわ」
と告げる。
紗如は脱色剤を髪につける前に、時折、稀霤の髪の毛を愛しそうにサラサラと触れる。
──この人は……寂しい人だ。
漠然と感じた感情をどこにやることも、稀霤はできない。感情を揺らすまいと稀霤は終始黙った。
髪の毛の脱色の準備が整ったあとは、瞳の色だ。
髪の脱色の色彩に合わせ、コンタクトは薄い桃色を要望した。もちろん、コンタクトも初めてだ。説明書を見、落とさないように気をつけながら鏡を注視する。
そうしてコンタクトを装着すると、稀霤は脱色の時間を待って風呂場へと向かった。
風呂から上がり髪を乾かす。鏡を見、ため息を吐く。
長めに時間を置いたにも関わらず、思ったほど脱色はできなかった。
とはいえ、鏡に映った姿を見て、稀霤はようやく張り詰めていたものを断ち切れた。
──これで名を変えれば……私は別人だ。
不思議と、心はおだやかだった。
茫然と髪をまとめ、衣服を整え風呂場から出ると、紗如はベッドから出て来た。そして、稀霤の前までテトテトと歩いてくると、
「私だけには、本当の唏劉に会わせてね」
と、寂しげに笑う。
前を向けたはずの稀霤の心は、紗如の言葉で一瞬に砕ける。
このときの真意を、彼は後に知る。
それは、紗如が命尽きる日のことだった。
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