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遠き日々
【20】悔しさと虚しさ
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「どうして」
逆さに吊られた無花果のような物に彼は手を伸ばす。
生前の面影はリラの色彩だけだ。艶のなくなった長いリラの髪と、微かに開く瞼から見える同色の濁った瞳。それにも関わらず、彼には『兄だ』と確信していた。
兄は、彼にとって特別な存在だった。
『キリュウ』
その音の名は、兄がいれば生家の中でも『兄だけ』のもの。そう、彼の本名は『稀霤』という。
数日前、稀霤は兄の遺体と対面していた。兄は、首のない姿で静かに帰城したのだ。しかし、戦いで負ったであろう傷はひとつもなく、きれいなままの姿。
兄の遺体と対面したとき、彼は泣けなかった。決して忘れられない左手の傷を見れば、兄だと一目瞭然で、疑う余地はなかったのに。
左手の傷は、幼いころに彼を庇い負った傷痕。
それでも、兄の遺体だと信じられなかった。兄は剣士の頂点で、彼にとっては誇りそのものだったから。
朽ち果て『物』と化した兄の一部と対面し、首から上のなかったあの遺体が『紛れもがなく兄だった』と認めざるを得ない。
彼は、嗅覚も視界もを失ったかのように、腐敗臭を発するソレに、自らの両手を伸ばす。
「兄上……」
だが、変わり果てた兄の、体と一緒に帰城できなかった頭部を見、涙が止まらない。
皮膚は破れ、破片はいくつか腐り落ち、綻んだ肉片には蛆虫が何十匹と沸いている。生首の形相はもはや『人』ではない。吊るされている様は、あまりに無残だ。
「貴男ほどの人なら……何をそこまで」
無言の帰城をした兄のきれいな遺体が示したもの──それは、抵抗しなかったということだ。
涼舞城は長男を鴻嫗城に仕えさせることで、忠誠を立てていた。もう何百年も続いてきたこと。
長男を失う涼舞城は、長男と二男の名を同じ音の名にした。それは、いつの頃からだったか──そうして代々、涼舞城は次男が継いできた。
長男が生家にいる間、二男は『幼名』で過ごす。だが、長男だけは二男を実名で呼ぶ。
長男と二男は互いが同じ音の名を呼ぶことで鏡のように互いを意識する。やがて長男の名を他の者が呼んでも『互い』を意識するようになる。
長男は二男がいることで心置きなく生家を去り、二男も鴻嫗城に仕える長男を尊敬しつつ生家を守っていく。
二男は長男が鴻嫗城に向かうと涼舞城を継ぎ、本名を名乗るようになる。長男と同じ音の名で呼ばれ、長男への尊敬の想いも一層強め国務を務める。他の者たちも、長男と同様の信頼を向け、二男を支えていく。
いつの時代も長男と次男の間には、兄弟よりも強い、決して他人が入り込めない絆があった。
だからこそ、稀霤はこう呟いたのだろう。
「なぜ、何も言わずに。私にさえも、告げずに……敢えて身を差し出したのですか」
稀霤には言い難い悔しさと虚しさが込み上げ、思いが涙を止めた。
ふと、稀霤は人の気配を感じ、辺りを見渡す。
遠目に少女を見つけた。ゆるいウェーブの癖を持つ髪の毛は、クロッカスだ。
「貴女は」
稀霤よりもはるかに若そうな少女に驚く。少女は目を背けたくなるような兄の首を、切羽詰まったような表情で見つめていた。
ここは鴻嫗城の領地内。『誰』と検討をつけるのは容易なこと。
『唏劉』
少女の口は、確かに兄の名を刻んだ。見つめる瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
聞こえない声で呼んでいた名は、音が同じでも別の人物を呼んでいる。
理解はできているが、稀霤には抑えられない衝動が渦巻いた。汚名を塗られ、首のない遺骸で帰城したのを目の当たりにした者の思いがわかるものかと、怒りが沸き起こる。
彼は憤りを胸に、少女へと歩み寄る。
『誰』かは検討がついている。兄が護衛に就いた鴻嫗城の姫だ。知っている年齢よりも見た目が幼く見えるが、苦労を知らないと考えれば誤差だ。
「貴女が、紗如姫ですね?」
無意識で稀霤は問いかけていた。殺意を堪えて。
少女は水面にやっと出た魚のように息を吸い、体を揺らす。呼びかけられ、稀霤の存在に気づいたらしい。
少女の大きな瞳が、稀霤に映る。そのとき、少女の表情が大きく歪んだ。突然うずくまり、苦しみの声を上げる。
稀霤が感情を抑え傍観していると、少女はそのまま倒れた。
それは遠い過去の光景。
兄の訃報を、嘘だと信じたい思いがあった。
けれど、大きな裏切りを感じていた。
長年続いたものを断ち切るつもりだった。
だが、兄の気持ちを思い、感情が揺れていた。
稀霤と紗如の出会いは、それらから導き出せない未来へと走り出す。
逆さに吊られた無花果のような物に彼は手を伸ばす。
生前の面影はリラの色彩だけだ。艶のなくなった長いリラの髪と、微かに開く瞼から見える同色の濁った瞳。それにも関わらず、彼には『兄だ』と確信していた。
兄は、彼にとって特別な存在だった。
『キリュウ』
その音の名は、兄がいれば生家の中でも『兄だけ』のもの。そう、彼の本名は『稀霤』という。
数日前、稀霤は兄の遺体と対面していた。兄は、首のない姿で静かに帰城したのだ。しかし、戦いで負ったであろう傷はひとつもなく、きれいなままの姿。
兄の遺体と対面したとき、彼は泣けなかった。決して忘れられない左手の傷を見れば、兄だと一目瞭然で、疑う余地はなかったのに。
左手の傷は、幼いころに彼を庇い負った傷痕。
それでも、兄の遺体だと信じられなかった。兄は剣士の頂点で、彼にとっては誇りそのものだったから。
朽ち果て『物』と化した兄の一部と対面し、首から上のなかったあの遺体が『紛れもがなく兄だった』と認めざるを得ない。
彼は、嗅覚も視界もを失ったかのように、腐敗臭を発するソレに、自らの両手を伸ばす。
「兄上……」
だが、変わり果てた兄の、体と一緒に帰城できなかった頭部を見、涙が止まらない。
皮膚は破れ、破片はいくつか腐り落ち、綻んだ肉片には蛆虫が何十匹と沸いている。生首の形相はもはや『人』ではない。吊るされている様は、あまりに無残だ。
「貴男ほどの人なら……何をそこまで」
無言の帰城をした兄のきれいな遺体が示したもの──それは、抵抗しなかったということだ。
涼舞城は長男を鴻嫗城に仕えさせることで、忠誠を立てていた。もう何百年も続いてきたこと。
長男を失う涼舞城は、長男と二男の名を同じ音の名にした。それは、いつの頃からだったか──そうして代々、涼舞城は次男が継いできた。
長男が生家にいる間、二男は『幼名』で過ごす。だが、長男だけは二男を実名で呼ぶ。
長男と二男は互いが同じ音の名を呼ぶことで鏡のように互いを意識する。やがて長男の名を他の者が呼んでも『互い』を意識するようになる。
長男は二男がいることで心置きなく生家を去り、二男も鴻嫗城に仕える長男を尊敬しつつ生家を守っていく。
二男は長男が鴻嫗城に向かうと涼舞城を継ぎ、本名を名乗るようになる。長男と同じ音の名で呼ばれ、長男への尊敬の想いも一層強め国務を務める。他の者たちも、長男と同様の信頼を向け、二男を支えていく。
いつの時代も長男と次男の間には、兄弟よりも強い、決して他人が入り込めない絆があった。
だからこそ、稀霤はこう呟いたのだろう。
「なぜ、何も言わずに。私にさえも、告げずに……敢えて身を差し出したのですか」
稀霤には言い難い悔しさと虚しさが込み上げ、思いが涙を止めた。
ふと、稀霤は人の気配を感じ、辺りを見渡す。
遠目に少女を見つけた。ゆるいウェーブの癖を持つ髪の毛は、クロッカスだ。
「貴女は」
稀霤よりもはるかに若そうな少女に驚く。少女は目を背けたくなるような兄の首を、切羽詰まったような表情で見つめていた。
ここは鴻嫗城の領地内。『誰』と検討をつけるのは容易なこと。
『唏劉』
少女の口は、確かに兄の名を刻んだ。見つめる瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
聞こえない声で呼んでいた名は、音が同じでも別の人物を呼んでいる。
理解はできているが、稀霤には抑えられない衝動が渦巻いた。汚名を塗られ、首のない遺骸で帰城したのを目の当たりにした者の思いがわかるものかと、怒りが沸き起こる。
彼は憤りを胸に、少女へと歩み寄る。
『誰』かは検討がついている。兄が護衛に就いた鴻嫗城の姫だ。知っている年齢よりも見た目が幼く見えるが、苦労を知らないと考えれば誤差だ。
「貴女が、紗如姫ですね?」
無意識で稀霤は問いかけていた。殺意を堪えて。
少女は水面にやっと出た魚のように息を吸い、体を揺らす。呼びかけられ、稀霤の存在に気づいたらしい。
少女の大きな瞳が、稀霤に映る。そのとき、少女の表情が大きく歪んだ。突然うずくまり、苦しみの声を上げる。
稀霤が感情を抑え傍観していると、少女はそのまま倒れた。
それは遠い過去の光景。
兄の訃報を、嘘だと信じたい思いがあった。
けれど、大きな裏切りを感じていた。
長年続いたものを断ち切るつもりだった。
だが、兄の気持ちを思い、感情が揺れていた。
稀霤と紗如の出会いは、それらから導き出せない未来へと走り出す。
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