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『A』

【A-5】(2)

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 ──天国に行けなくてもいい。あなたがそばにいてくれるなら。いてくれると思うだけでも、私は幸せになれる。

 沙稀イサキが恐る恐る顔を上げ、恭良ユキヅキを見つめる。
 恭良ユキヅキは泣きそうになるのを堪え、ただただ沙稀イサキを瞳に映した。

 ──ねぇ、私は生きていてもいいの? あなたを壊して苦しめることしかできないのに、この手を……伸ばしてみてもいいの?

 恭良ユキヅキは恐る恐る手を伸ばす。ポタリポタリと落ちていく沙稀イサキの涙に。
 沙稀イサキがうつむいて、うずくまるように頭を下げる。

 恭良ユキヅキ沙稀イサキの前でそっとしゃがみ、沙稀イサキが顔を上げるのをじっと待った。



 翌朝は、また恭良ユキヅキの幸せが更新される。それは、驚きと同時にやってきた。

 どこか恥ずかしそうに来た沙稀イサキが、
ユキ姫」
 と、独自の愛称で恭良ユキヅキを呼んだ。

「なぁに?」
 かわいらしい呼び方だなぁと、恭良ユキヅキの口元がゆるむ。
 一方の沙稀イサキは唇をキュッと結んで、ピシッと姿勢を正して立ち止まる。
「おはようございます」
 相変わらず沙稀イサキは、深く頭を下げる。
「あ、うんっ。おはよう」
 今日もまた一緒にいられると、恭良ユキヅキはうれしくて声が弾む。

 すっと頭を上げた沙稀イサキは、目が合うとなぜか照れたように目を伏せて笑った。その表情は恭良ユキヅキが初めて見た沙稀イサキのやわらかい表情で──恭良ユキヅキの眉は下がる。


 この日から沙稀イサキは、ガラスみたいな瞳ではなくなった。だが、変わったのは瞳だけではない。
 ──笑ったり、怒ったり、なんだか忙しそう。
 恭良ユキヅキは、沙稀イサキの様子を見てクスクスと笑う。幸せがあふれ出る笑いだ。



 そうして、想像もしていなかった毎日が過ぎていった。
 あっという間に沙稀イサキが護衛に就任から一年が経ち、その日、恭良ユキヅキは意外なことを言われる。
 恭良ユキヅキにとっては生き方が変わった大きな出来事だった。

ユキ姫は、無理し過ぎです」
 なぜか沙稀イサキは怒っていた。
 しかし、恭良ユキヅキには沙稀イサキの怒る理由が一切わからない。きょとんとしていると、沙稀イサキはもどかしそうに口を開く。

「もっと、『いい』とか、『嫌だ』とか、『こう思う』とか……言うべきです。もっと、自分の好きに振る舞うべきです。ユキ姫は『姫』である前に、ひとりの人間なんですから!」

 真っ直ぐにリラの瞳が恭良ユキヅキを映す。
 恭良ユキヅキは鏡のように、瞳の中の姿をぼんやりと覗き込んだ。

 ──皆は、私を『人』だとは言ってくれなかった。扱ってくれなかった。

『姫』はこういう服装をした方がいいとか、『姫』はこういう髪型をした方がいいとか、恭良ユキヅキの周りにいた女性たちは、皆、そう言ったのだ。
 だから、人形のように扱われていると恭良ユキヅキは感じていた。

 いや、そうではなかった人物は、大臣だけだ。
 それでも、恭良ユキヅキの意見を求めることはなかった。

 ──私は、いつから感情がなかったんだろう。

 沙稀イサキと出会う前に、恭良ユキヅキの幸せはあっただろうか。
 怒りは、悲しみはあっただろうか。

 ──お人形でいるのが当たり前すぎて。……何も、言わなかった。

 言ったのは、沙稀イサキのことだけだ。
 悲しみも、怒りも、幸せも、沙稀イサキのことだけだった。

「いいの、かな」
 ポツリと恭良ユキヅキが呟く。すると、
「当たり前です」
 と、すぐに強い言葉が返ってきた。

 恭良ユキヅキは泣きそうになる。
 沙稀イサキは、どうしてそんなに必死になってくれるのか。
 どうして、そんなことに気づいてくれたのか。

 ──もしかして、沙稀イサキもそうだったから?

 涙をこらえ疑問を声に出せないでいると、沙稀イサキがまたキッパリと言う。

ユキ姫は周囲に気を遣い過ぎです。これでは、どちらが『姫』で、どちらが『使用人』なのかわかりません」
 沙稀イサキはとても不快そうだった。
 恭良ユキヅキ沙稀イサキの言葉の意味がわからなかったが、怒っている沙稀イサキが妙におもしろく感じ、つい笑ってしまう。

「ちょ……っ、どうして笑うのですかっ。俺、おかしいことは言っていませんよ?」

 慌てるような沙稀イサキに、恭良ユキヅキはコロコロと笑う。──恭良ユキヅキに悪気はない。ただただ、沙稀イサキといると幸せな気持ちになり楽しいのだ。
 恭良ユキヅキは内心で沙稀イサキに謝りつつ、笑ってこぼれた涙を拭う。

「うん、わかった。できるようにしてみるね」
 そうは言ってみたものの、『いいのかな』と恭良ユキヅキには迷いがある。それを見抜いてか、
「はい」
 と、沙稀イサキは即答する。

 ──いいのかな。……この、やさしく笑ってくれる人に、手を伸ばしても。

「え?」
 困ったように沙稀イサキは動かない。

 触っていい自信がなくて。でも、右手を沙稀イサキに向かって伸ばす。前は、眠っているのを勝手に触ってしまったと反省しながら。
 今、手を触れてもらえたら今度もまた、触れられる気がして。

 沙稀イサキは固まったままだ。

 ──ああ、やっぱり。
 ダメだよね──と、恭良ユキヅキが手を止めると、ふと沙稀イサキは表情を変えた。

 沙稀イサキは、うれしそうに笑っていた。

「行きましょう。今日は俺がS級剣士になってから一周年の式典です。俺の晴れ舞台にユキ姫まで遅れてしまったら、大変です」

 沙稀イサキがぎゅっと恭良ユキヅキの手を取る。

 握られた手は、あたたかくて。
 強く、離さないと告げていて。

 とても綺麗で。
 きらきらと輝いて見えた。

 それは恭良ユキヅキにとって、なぜかとても懐かしい感覚だった。
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