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固い誓い
【57】ずっと望んでいたこと(2)
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沙稀が『はやい』とは言い返せないと瑠既はわかっているのだ。沙稀が三歳から剣を握ったのだから。
前髪も含め、髪をひとつに束ねている轢と視線を合わすように、沙稀は屈む。
「轢、無理にすることはない。嫌なら嫌と言っていい」
沙稀は轢を諭すような口調で言ったが、
「無理でも嫌でもないんだ。俺……庾月を守れるようになりたいから」
たどたどしく素直な想いは、沙稀の目を丸くさせる。
「敵わないなぁ……」
項垂れる沙稀を横目に、瑠既は大笑いをした。
沙稀が轢に稽古をつけるようになり、一ヶ月以上が過ぎた。庾月の三回目の誕生日を数日後に控え、沙稀は庾月と城内を歩いていた。
ふと、庾月の手がするりと抜け、やっと結べるようになった髪の毛を揺らして走っていく。
「走ったらダメだよ」
やさしく注意をして追いかける沙稀に対し、庾月はきゃははと楽し気に走り続ける。
庾月は、父との追いかけっこを楽しんでいたのだろう。
沙稀もかわいい愛娘との戯れを、楽しんでいたに違いない。自然と笑みが零れていた。
幸せをつかむように手を伸ばす。そして、庾月に『捕まえた』と言おうとし──。
ガクンと視界が落ちた。
調度、絨毯の色が変わるところで──沙稀がただ倒れていく姿を、偶然通りかかった大臣は見ていた。
大臣は、大きく息を吸う。
立てかけていた木が、床に叩きつけられたような音がした。
「沙稀様!」
大臣が駆け寄る。無抵抗に体を床に叩きつけた沙稀に。
何度も何度も大臣は沙稀の名を呼ぶ。けれど、ぐったりとした体を前にし、脳内の緊急スイッチが作動したか。全身で叫ぶ。
「誰か! 医師を呼べ! はやくッ!」
静まり返っていた周囲がざわつく。
名を呼んでいた大臣は口を一文字に結び、慎重かつ的確に心拍と外傷を確認していく。
医師が着き、沙稀が運ばれていくころ、
「庾月」
沙稀よりもワントーン低い声に庾月は振り返る。
「大丈夫だ。俺が生きている」
誄と子どもたちは恭良のところへ駆けつけたのか、瑠既だけがそこにはいた。
庾月は泣かなかった。あまりにも衝撃的な光景だったからか、そもそも理解できていないのか。
瑠既が経緯を尋ねれば、たどたどしい言葉で途絶えながらも話す。瑠既は『庾月のせいではない』と返した。
瑠既は庾月を抱き上げ、治療室のある地下へと向かう。
治療室の向かいには恭良が座っていた。そのとなりに寄り添うように誄がいて、周囲には子どもたち四人がいる。
子どもたちの中で状況を理解できているのは、黎くらいだろうか。
「瑠既様」
立ち上がり、庾月を抱こうとした誄に軽く断りを入れる。恭良は、顔さえ向けない。
「しばらく庾月はうちで預かる」
瑠既が一方的に断定系で言っても恭良は上の空なのか、抵抗なくそれを受け入れた。
医師に呼ばれ、ようやく恭良が顔を上げる。瑠既は庾月を誄に頼み、同行する。
中には強張った表情の大臣がいた。
医師が口を開く。
恭良は医師の言葉を否定し、沙稀に駆け寄り名を繰り返す。泣き崩れそうになりながらも、懸命に呼ぶ姿に瑠既は言い表せない思いをため息で長く吐いた。
恭良が取り乱して、大臣は冷静になったのか。同日のうちに沙稀が倒れるのを見た者に口止めをして回ったが、不安からか城内での噂話は止められなかった。翌日も耳にすれば、
「その噂話、城外にもれたらどうなると思って話しているのかな?」
と、大臣は涼しい顔で不安を煽り噂を封じる。
瑠既は庾月を鐙鷃城に置いて、ひとりで鴻嫗城へと足を運んでいた。
何日も連絡を入れず一直線に向かうのに、恭良は常に先にいる。
これと言って瑠既が話しかけないからか、談笑するでもなく。まるでルーティーンかのように恭良が時刻通りに動いている。だから、瑠既は負荷を軽減しようと手を伸ばした。
「何をなさるおつもりですか、お兄様」
わかりきっているようなことを聞くよりとは、質が悪い。
「何を……って。俺もそうするために来ているんだけど?」
「そうですか。でも、沙稀には私がいますから、大丈夫です」
「俺は邪魔だって?」
鼻で笑っても、恭良は動じない。
「お兄様がそう受け取ったのであれば、そうですね」
見向きもしない恭良の手つきは、看護の知識がある者のようで──瑠既は手出しが出来ず、大人しくその光景を見守る。ただ、それも、
「あまり見ないで下さいね? 沙稀が嫌がっていますよ」
なんて喧嘩を売られては、
「あ~、そうですか」
と流しても気分はよくない。
悪い悪いと心にない詭弁を使い、視線を逸らす。
瑠既が黙れば、恭良はまるで沙稀と会話をしているかのように、楽しそうに何かを囁く。
恭良にとって苦でなければいい。けれど、多少は瑠既だってしたいと望むのだ。様子を見に来ているというよりは、沙稀に話しかけるために来ているのだから。
日付を数えるのを瑠既が嫌になったころ、変化が起きた。
「沙稀!」
恭良の叫び声に、窓辺にいた瑠既は振り返る。
「意識が戻りましたか?」
瑠既が慌てて近寄っても、花瓶に花を生けていた大臣の方が先に辿り着いた。身長は瑠既が一番高い。ひゅっと覗けば、沙稀が目を開けている。
「大丈夫か?」
沙稀は瞳を動かし、恭良と瑠既、大臣を順に見た。
「ああ」
そう言って、左手を一瞬見て──悲し気に笑った気がした。
「恭良、心配をかけた。ごめんね」
フルフルと恭良が首を横に振る。
「大臣とふたりで、すこし話したい」
「私がいたら……ダメ?」
『ん~』と沙稀が返事を引き延ばしている間に、
「え~、俺とふたりじゃねぇの?」
と、瑠既は言うが、大臣にたしなめられる。
沙稀は瑠既と大臣のやり取りを聞いていないかのように『じゃあ』と流す。
「大臣と話したあと、ふたりで話そう」
前髪も含め、髪をひとつに束ねている轢と視線を合わすように、沙稀は屈む。
「轢、無理にすることはない。嫌なら嫌と言っていい」
沙稀は轢を諭すような口調で言ったが、
「無理でも嫌でもないんだ。俺……庾月を守れるようになりたいから」
たどたどしく素直な想いは、沙稀の目を丸くさせる。
「敵わないなぁ……」
項垂れる沙稀を横目に、瑠既は大笑いをした。
沙稀が轢に稽古をつけるようになり、一ヶ月以上が過ぎた。庾月の三回目の誕生日を数日後に控え、沙稀は庾月と城内を歩いていた。
ふと、庾月の手がするりと抜け、やっと結べるようになった髪の毛を揺らして走っていく。
「走ったらダメだよ」
やさしく注意をして追いかける沙稀に対し、庾月はきゃははと楽し気に走り続ける。
庾月は、父との追いかけっこを楽しんでいたのだろう。
沙稀もかわいい愛娘との戯れを、楽しんでいたに違いない。自然と笑みが零れていた。
幸せをつかむように手を伸ばす。そして、庾月に『捕まえた』と言おうとし──。
ガクンと視界が落ちた。
調度、絨毯の色が変わるところで──沙稀がただ倒れていく姿を、偶然通りかかった大臣は見ていた。
大臣は、大きく息を吸う。
立てかけていた木が、床に叩きつけられたような音がした。
「沙稀様!」
大臣が駆け寄る。無抵抗に体を床に叩きつけた沙稀に。
何度も何度も大臣は沙稀の名を呼ぶ。けれど、ぐったりとした体を前にし、脳内の緊急スイッチが作動したか。全身で叫ぶ。
「誰か! 医師を呼べ! はやくッ!」
静まり返っていた周囲がざわつく。
名を呼んでいた大臣は口を一文字に結び、慎重かつ的確に心拍と外傷を確認していく。
医師が着き、沙稀が運ばれていくころ、
「庾月」
沙稀よりもワントーン低い声に庾月は振り返る。
「大丈夫だ。俺が生きている」
誄と子どもたちは恭良のところへ駆けつけたのか、瑠既だけがそこにはいた。
庾月は泣かなかった。あまりにも衝撃的な光景だったからか、そもそも理解できていないのか。
瑠既が経緯を尋ねれば、たどたどしい言葉で途絶えながらも話す。瑠既は『庾月のせいではない』と返した。
瑠既は庾月を抱き上げ、治療室のある地下へと向かう。
治療室の向かいには恭良が座っていた。そのとなりに寄り添うように誄がいて、周囲には子どもたち四人がいる。
子どもたちの中で状況を理解できているのは、黎くらいだろうか。
「瑠既様」
立ち上がり、庾月を抱こうとした誄に軽く断りを入れる。恭良は、顔さえ向けない。
「しばらく庾月はうちで預かる」
瑠既が一方的に断定系で言っても恭良は上の空なのか、抵抗なくそれを受け入れた。
医師に呼ばれ、ようやく恭良が顔を上げる。瑠既は庾月を誄に頼み、同行する。
中には強張った表情の大臣がいた。
医師が口を開く。
恭良は医師の言葉を否定し、沙稀に駆け寄り名を繰り返す。泣き崩れそうになりながらも、懸命に呼ぶ姿に瑠既は言い表せない思いをため息で長く吐いた。
恭良が取り乱して、大臣は冷静になったのか。同日のうちに沙稀が倒れるのを見た者に口止めをして回ったが、不安からか城内での噂話は止められなかった。翌日も耳にすれば、
「その噂話、城外にもれたらどうなると思って話しているのかな?」
と、大臣は涼しい顔で不安を煽り噂を封じる。
瑠既は庾月を鐙鷃城に置いて、ひとりで鴻嫗城へと足を運んでいた。
何日も連絡を入れず一直線に向かうのに、恭良は常に先にいる。
これと言って瑠既が話しかけないからか、談笑するでもなく。まるでルーティーンかのように恭良が時刻通りに動いている。だから、瑠既は負荷を軽減しようと手を伸ばした。
「何をなさるおつもりですか、お兄様」
わかりきっているようなことを聞くよりとは、質が悪い。
「何を……って。俺もそうするために来ているんだけど?」
「そうですか。でも、沙稀には私がいますから、大丈夫です」
「俺は邪魔だって?」
鼻で笑っても、恭良は動じない。
「お兄様がそう受け取ったのであれば、そうですね」
見向きもしない恭良の手つきは、看護の知識がある者のようで──瑠既は手出しが出来ず、大人しくその光景を見守る。ただ、それも、
「あまり見ないで下さいね? 沙稀が嫌がっていますよ」
なんて喧嘩を売られては、
「あ~、そうですか」
と流しても気分はよくない。
悪い悪いと心にない詭弁を使い、視線を逸らす。
瑠既が黙れば、恭良はまるで沙稀と会話をしているかのように、楽しそうに何かを囁く。
恭良にとって苦でなければいい。けれど、多少は瑠既だってしたいと望むのだ。様子を見に来ているというよりは、沙稀に話しかけるために来ているのだから。
日付を数えるのを瑠既が嫌になったころ、変化が起きた。
「沙稀!」
恭良の叫び声に、窓辺にいた瑠既は振り返る。
「意識が戻りましたか?」
瑠既が慌てて近寄っても、花瓶に花を生けていた大臣の方が先に辿り着いた。身長は瑠既が一番高い。ひゅっと覗けば、沙稀が目を開けている。
「大丈夫か?」
沙稀は瞳を動かし、恭良と瑠既、大臣を順に見た。
「ああ」
そう言って、左手を一瞬見て──悲し気に笑った気がした。
「恭良、心配をかけた。ごめんね」
フルフルと恭良が首を横に振る。
「大臣とふたりで、すこし話したい」
「私がいたら……ダメ?」
『ん~』と沙稀が返事を引き延ばしている間に、
「え~、俺とふたりじゃねぇの?」
と、瑠既は言うが、大臣にたしなめられる。
沙稀は瑠既と大臣のやり取りを聞いていないかのように『じゃあ』と流す。
「大臣と話したあと、ふたりで話そう」
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